BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

かーみーのーけ

28日周期くらいで、美容院で髪の毛切ってもらうのだが、

本当はそれじゃ足りなくて、

2週間に1回、いな、本音を言うと毎週1回は整えてもらいたい・・・

ショートカットだからなのかもしれない。

すぐに重く感じられてきて、しんどい。

できるだけ短くしてくれー、スッキリさせてくれー、軽くしてくれー、もっと切ってくれー、って

毎回美容師さんに要求している。

 

10日ほど前に切ったのだが、

もう、切りたい。

 

ロングヘアの人、半年に一度くらいしか切らないという人、その半年に一回のときさえ、伸ばしたいから毛先を整える程度だ、という人、

わたしにはまったく理解できない。

髪の毛がそんなに長かったらさぞかし頭が重いだろうに、

うっとうしいだろうに、

よく半年もがまんできるなと思う。

2年くらいまえに肩あたりまで伸ばしてみたことがあったが

それで懲りてしまった。

もう一生伸ばさないと思う・・・

 

映画の感想-『朝が来る』-201031。

英題:True Mothers
河瀬直美 監督
河瀬直美高橋泉 共同脚本
辻村深月 原作
2020年、日本

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www.youtube.com

波にさらわれるようにいつの間にか引き込まれ、
当事者のひとりとなって、
物語の世界で生きさせられているような
感覚をおぼえた。

「この家には、親になれる人間が二人もいるだろ」
というようなセリフがあった。
これを聞いた時には涙が出た。

夫妻のもとを訪れた謎の若い女性の正体がわかった時は
本当に胸が痛んだ。

特別養子縁組あっせん団体「ベビーバトン」の女子寮で、
養子縁組関連の資料を盗み読んでしまう、という場面は
そんなことあるかね、と最初は思った。
でも、案外あるかもな、と 今は思う。
人手もお金も何もかも全然足りてなくて、
情報管理まで手が回らない、
そんな中で、有志の人たちが必死で活動して、
子どもの未来を守ってくれているのだと思う。

特別養子縁組のあっせんをやっている団体は
多分複数あって、
団体ごとにいろいろと、規定や方針が違うのだろう。
「ベビーバトン」は、登録希望者への説明会のシーンで
「養親となる夫妻のどちらかが
育児に専念できる状況であること」を
登録条件として提示していた。
共働き家庭の場合、登録の段階で夫妻のどちらかの
退職予定日が決まっていることが望ましいとのこと。
説明会を聞きにきていた夫妻のひとりが、
「我が家では妻の方が時短勤務をすることが可能で、
 夫妻両方の親の協力も確約がとれている。
 これなら仕事を辞めず時短勤務でも登録できるか」
と質問した。
「ベビーバトン」側の回答は「NO」だった。
あくまでも子どものために、
養親が育児に専念できる完全な環境を整えてもらう、
とのことだった。
なるほどそういう風になっているんだなと
実際的な所がちょっと垣間見られた気がして興味深かった。

あっせん事業団体は、養親の追跡調査や
アフターケアはしているのだろうか。
「ベビーバトン」のような条件、つまり
共働き夫妻のどちらかが仕事を辞めて育児に専念する、
という条件を、登録の段階ではのんだとしても、
養子を迎えたらすぐに就業を再開する養親も
いるのではないかな、と思う。
あっせん者側は、そういうのを、どこまで
チェックしたりケアしたりしているのだろうか。
でも、忙しそうで、そこまでやっている余裕も
なさそうだなという感じを受けた。

この物語の中でも、主人公夫妻が
産みの母親を名乗る女性から
「わたしの子どもを返してください」という
要求を受ける場面があるのだが、
あの時、「ベビーバトン」に電話して
産みのお母さんが電話してきたんですけど、と
相談してみれば良かったのに、と思うんだけど、
相談した様子はなかった。
(団体代表者の病気の関係で、
ベビーバトンの活動が終了した、
つまり相談したくても団体がもうない、
という事情の説明はあったのだが。
まあ、この際、主人公夫妻が相談する先が、
ベビーバトンじゃなくても良いんだけど、
警察に相談してみるとか、何か、
なかったのかなあと思わないこともないのだ)

ラストの展開はどうかなあと個人的には思った。
ああいう流れにしてしまうと、現実的に考えた時、
未来にろくなことがないということが
容易に想像できてしまう・・・
でも、あの展開がないと、
あまりにも救いがなく痛ましい結末になるので、
そうはしたくなかった、というのは、わかる。

彼女が、
子どもを返して欲しい、さもなくばお金が欲しいと
願った背景が、わかるような気がした。
自分が何者であるか、この世に自分の居場所があるか、
確かめることのできる、よりどころ? のようなものを、
見失っていたのだと思う。

映画の感想-『悪霊島』-201030。

篠田正浩 監督
清水邦夫 脚本
横溝正史 原作 
1981年、日本

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良い予告動画が見つけられなかった。

この画像、劇場公開時のパンフレットの表紙なのだが、
静謐ながらちょっとミステリアスな感じがあって
無駄な装飾がなくてとっても良いと思う。
岸本加世子がかわいらしい・・・
(ちなみにこのパンフレットの画像のようなシーンは
 映画の中にはなかった)

ビートルズの音楽が、挿入歌として何曲か使われていた。
別の歌手のカバーバージョンだった。
wikiでちょっと調べたところによると、
公開当時と、最初のテレビ放送と、
最初に発売されたビデオソフトの時には、
ビートルズのオリジナルバージョンが
使われていたのだそうだ。
でも、その後、楽曲の使用権の期限が切れた関係で、
以降はテレビ放送や新たなソフト発売がされなくなり、
この映画は、ずっと日の目を見ることがなかったのだという。
2004年にDVDが出た時には、ビートルズの挿入歌の所は、
別の歌手によるカバー版に変更されていて、
以後は、テレビ放送の時も、そのカバーバージョンが
使われるようになったらしい。
今回わたしが観たのも、カバー版ということのようだ。

多分、ビートルズの熱心なファンの人たちにとっては、
この、オリジナル版なのか、カバー版なのか、という所が
重大な問題になるんだろうと思う。
劇場公開のあった80年代に東芝EMIが一度ビデオを発売していて、
それはビートルズオリジナルバージョンだったはずなので、
多分、熱心なファンは、一生を賭けてもそのビデオソフトを
探し求めるんだろう(入手がめちゃくちゃ難しそう・・・)。
わたしはビートルズの特別なファンじゃないので
そんなに気にならなかった。
むしろ、カバー版の歌、とても良かった。

この篠田正浩監督版『悪霊島』は、
金田一耕助シリーズの実写映画化作品の一本、
というよりは、
金田一耕助シリーズという「基本フォーマット」で遊んだ、
トリビュート・ムービーと言った方が、近い気がした。
このふたつは、意味としてかぶる部分もあるかもしれないが、
やっぱり、全然違うと思う。

トリビュート、ということであれば
他の映画監督で、もっともっといろいろな金田一耕助
観てみたいような気もする。
「実写映画化作品」としては、やっぱり、
市川崑石坂浩二版、
ついで市川崑豊川悦司版、
が 自分のなかでは地位として盤石なのだが
トリビュート、って最初から言ってくれるのであれば、
どんな金田一耕助もおもしろがって観る気満々だ。

この映画は、
岩下志麻の名演が光りまくっているし、
岸本加世子はかわいらしいし、
孤島の古い神社で起こる忌まわしい連続殺人
・・・という所はやっぱり横溝正史、って感じで
観ていておもしろいところもたくさんあった。
陰惨ながら妙にセクシーな暴力描写には
篠田正浩らしさみたいなものを感じた。

ある人物がやった殺人を、他の人物が見ていて、
あとから人知れず幇助したり、
現場に手を加えたりしてかばう、
という所は、
金田一耕助シリーズの他の作品にも
通じる所があると感じた。

映画としては、話にムリがありすぎた。
(まあそもそも原作もたいてい
ムリがあると言えばあるのだが・・・)
勢いと、センセーショナルな絵面だけで
強引に押し通してしまっていた。
わたしは実を言うと『悪霊島』は
原作小説を読んでいないので
あまりえらそうなことは言えないのだが、
多分、映画化にあたって、
話を簡略化しすぎたのではないかと思う。
そんなにうまくいくかなあ・・・と思ったり、
矛盾を感じたり、疑問を感じたりして、
観ている間じゅう忙しく、
話に集中できなかった。
出てくるキャラクターたちはみんな、
キャラクターとしてはじゅうぶん個性的で
おもしろい人たちばかりだったと思うのだが、
内面の描き込みが全然されていないので、
「非常に風変わりなルックスの人形を見た」
というのに近い感じの、薄い印象しか残らず、
「ひとりの人物としておもしろかった」
という気持ちにはなれなかった。

刑部巴なんかはものすごく興味深い人物のはずなのだが。

それにしても
三津木の親は結局誰ってことになったんだろう(笑)

小野不由美の『黒祠の島』は
悪霊島』へのオマージュが
かなりあるんだろうなと思ったりした。

映画の感想-『砂の器』-201030。

英題:The Castle of Sand
野村芳太郎 監督
橋本忍山田洋次 共同脚本
1974年、日本

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良い予告動画が見つけられなかった。

学生の時に、学校の図書館の視聴覚サービスで
1回観たおぼえがある。その時以来の鑑賞だった。

とてもまじめに、真剣に、丁寧に作られた映画だと感じた。
まさに渾身、という感じだった。
たとえ原作とは設定の違いとかがいろいろあろうとも、
このくらいやってくれれば、松本清張も、原作ファンも、
納得なんじゃないだろうか。
もう古い映画なので、テンポがゆったりで、
今の映画のテンポ感に慣れているとやや冗長に感じるし、
ピアノ演奏の吹き替えの手が、役者のそれと違いすぎたり
他にも、いろいろ、細かい所では弱い部分もあるかもしれないけど、
観ちゃうんだよなあ。

今西刑事(丹波哲郎)と吉村刑事(森田健作)の
旅先や居酒屋での掛け合いがとても自然で良い。
なんか心がほっと和む所もある。

高木理恵子(島田陽子)は気の毒すぎる。

砂の器』は何度も映画やドラマになっているが
ハンセン病」をちゃんと扱っている作品は
この74年版だけだったと記憶している。
いろいろ難しい事情があるのだと思う。

村の人びとが三木兼一を、
口をそろえて聖人君子のようにたたえたのは
自分たちが彼のようにはできなかったことの
罪滅ぼしの意味もあったのかなと思う。

現在の時間軸の『宿命』の演奏シーンに載せて、
父子の放浪の回想シーンを描く、といったような、
活字では絶対にできない表現手法が活かされており、
「映画にした意味がちゃんとある」という感じを受けた。
今は映像技術も進んでいるし、いろんな映画が出てきているので、
こんな映像表現のしかたはめずらしくもないかもしれないけど、
めずらしいとか、めずらしくないとかそういうことではなくて、
映像でしか実現できないことをやることによって、
文字では表現しきれない部分を補完し、描き出し、
なんなら原作のさらにもう一歩上を行こうとする、
その姿勢が素晴らしいのではないだろうか。

いずれにしても犯行に至るまでの動機に
あいまいな所があることは否定のしようがないと思う。
でも、それはこの映画を観た人、小説を読んだ人、
みんながそれぞれに考えれば良いのではないか。
今西刑事は、
「犯人はもう、ある特定の条件下でしか、
 会いたい人に会えないのだ」
という意味のことを言った。
(実際には全然違うセリフなのだが、
 一応ネタバレを防ぐためにこのように言い換えた)
だが、犯人は、その「ある特定の条件」が消滅しても、
清々しく満ち足りた笑顔を顔いっぱいに浮かべていた。
こりゃいったいどういうことなんだ、と思った。
条件のととのった環境が失われたので
会いたい人に会えなくなったことになった、と思うのだが
それでも笑っているってのはどういうことなのかなと思って。
原作の小説も読んだのだが、
もうずっと前のことで、けっこう忘れてしまっているので、
読み返してみようかなと思っている。

ある人物が、
人とも思えないような苦悶の声を上げ、
烈しい心の葛藤をあらわにしながら、
それでもなお「私はこんな人は知りません」と言って
ゆずらないのを見た時は、
その人の悲惨な人生、言葉では言い尽くせないような
つらい体験の数々がしのばれた。
このシーンは、どうしてもがまんできなくて
わたしもつい泣いてしまった。

映画の感想-『犬神家の一族(2006年版)』-201030。

市川崑 監督
市川崑日高真也長田紀生 共同脚本
横溝正史 原作
2006年、日本

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良い予告動画が探せなかった。

2日くらい前に観た。
おもしろかった。
公開当時も、映画館に観に行った。
1976年版で、十分素晴らしかったのに、
なぜ、リメイクする必要があったのかな、と
その時は、確か、思わないこともなかったけど、
観たら、とてもおもしろくて、気に入った。
リメイクする必要があったかとか、なかったかとか、
リメイクに至った経緯とか理由とか、
そんなことはどうでも良くなったのを覚えている。

金田一耕助役の石坂浩二は主人公だが、
サイドキャラ・・・例えば
橘署長(ようし、わかった! の人)とか、
那須神社の神主さん(大滝秀治)とか、
そういうキャラに、できるだけ76年版の役者さんを
当時と同じ役で起用している所が良いなと思う。
76年版で竹子役だった役者さんを、
06年版では松子の母役に配していたのにも気づいた。
犬神家の一族』をまたやるんですね、わかりました、
と言って、76年版のキャストが、30年の時を経て、
何人もこうして集まってくれたというのは、やっぱり、
市川崑監督が映画人として人として、
信望篤く、慕われていた、ということではないだろうか。

わたし個人としては、
06年版の方が、76年版よりも、
登場人物の心情がすんなり入ってきて、
共感しやすく、より涙を誘われる。

松子役の富司純子の演技は、鬼気迫り、
ちょっと戦慄をおぼえるほどだ。
金田一のある一言を受けて、彼女の顔に浮かぶ表情が
途方もなく素晴らしくて、
あの表情を観られただけでも、
この映画を観て良かった、と思うくらいのものがある。
そこには、
「ああ、ついに知られてしまった」
という感じと
「それを見抜いてくれる人が現われるのを
 心のどこかでずっと待っていた」
という感じと、
両方が、あるように見える。
しかも、どこかよるべないというか、
幼女のような頼りない印象も受ける。
本当にスゴイ、と何度観ても思う。

06年版で野々宮珠世役をつとめる松嶋菜々子は、
まぶしいくらいきれいで、健康的で、
すらっと背が高く、いるだけで場の雰囲気が華やぐ。
この映画の軸の部分を、しっかり支えていると思う。
わたしは、松嶋菜々子が大好きなので、
野々宮珠世は、76年版の島田陽子よりも、
やっぱり06年版の松嶋菜々子の方が良い・・・

犬神佐兵衛の奇妙な遺言状によって、
犬神家の莫大な資産の相続に関しては、
野々宮珠世が、圧倒的に優位な立場に立つこととなる。
それを受け、佐兵衛の孫娘にあたる犬神小夜子が悩み、
あることを珠世に強く求める。

76年版では、
この場面における小夜子と珠世は、
最初、同じ高さの所で向かい合って立ち、
あとで、小夜子がそこに置かれた椅子に腰かけ、
立ったままの珠世を見上げる形となる。

だが、06年版のこのシーンでは、
ふたりは廊下で向かい合って立つ。
ちょっと調べてみたのだが、
小夜子役の奥菜恵は、身長155センチだ。
珠世役の松嶋菜々子は、身長172センチだ。
この身長差のために、普通に向き合って立つだけで、
小夜子が珠世を軽く仰ぎ見るような形になる。

76年版も、06年版も、
小夜子からすれば珠世を見上げる位置となり、
珠世からすれば小夜子を見下ろす位置になる。

このように、高低差をつけてふたりを配置することで
小夜子の気持ちや、ふたりの立場の圧倒的な差を
表現しているのだ、とわたしはとらえている。

小夜子にしてみれば、おそらく、
「珠世なんて本来は犬神家とは何の血縁関係もない人間で、
変な遺言状のせいで急にしゃしゃり出てきた部外者だわ」
というような気持ちがあるのだろう。
だから珠世の話す時も、虚勢をはって、強気に出る。
だが、(それがどんなに奇妙な内容でも)
犬神佐兵衛の遺言状は法的に完全に有効であり、
野々宮珠世の圧倒的優位という現状にあらがうことは、
相続関係者の何人たりとも、できない。
小夜子もそうだ。

犬神小夜子と野々宮珠世の立場の差を、
「高さ」によって表現したことについて、
それが成功しているのがあきらかなのは、
76年版の方だろう。
最初はふたりが同じ高さで向き合って立っているのに、
小夜子の方が椅子に腰かけて、
珠世を見上げることをみずから選択する、
・・・ここがポイントだとわたしは思う。

小夜子は、妊娠していることを珠世に告白した。
たぶん身ごもっているせいで体調が不安定で、
椅子があるとついちょっと座りたくなるのだろう。
思えば、珠世と会話を始めた当初から、小夜子は、
片腕を自分の腹あたりにまきつけるようにしており、
おそらく無自覚におなかを守っている。
警戒心が強まっている。
相続問題もあるし、家中で殺人事件が発生した矢先でもあり、
とかく気持ちが落ち着かず、弱気になっているのだろう。
小夜子の心を不安定にすることが、重なって起こっている。
自分から珠世を仰ぎ見る体勢を選ぶというあの行動は、
小夜子が「自分は珠世にあらゆる面で負けている」
と無意識に認めていることを、示しているのだと思う。

06年版の、小夜子と珠世の会話の場面は、
もっとシンプルだ。
演じるふたりの役者の、実際の身長差を利用して、
両者の立場の差を表現する手法がとられている。
表現したというか、自然にそうなった感じとも言える。
たたでさえ15センチ以上も身長が違ううえに、
松嶋菜々子の背の高さがはっきり出るようにということなのか、
奥菜恵に、ことさら上目遣いで松嶋菜々子を見つめさせている。
(そのせいで、こらえた涙で充血した目元がくっきり見えて、
強気な態度で不安を押し隠している心情が伝わるのだが)
放っておいてもこんなに身長差があるのだから、
ふたりの力関係を表現するのに
物理的な高低差なんかいちいち作る必要はない、
・・・ということだったのかもしれない。
だが、映像表現として、工夫というものが感じられないだけに、
ちょっとダサいかな、という感じがする。
なんだかここは、市川崑監督らしくない感がある。
向き合う小夜子と珠世を、
バストアップでとらえているせいもあって、
「こんなに身長が違って見えるなんて、
 もしかしてふたりが立っている廊下には
  傾斜がついているのかな」
「段差がある廊下なのかな」
とか
いろいろムダに想像してしまう画になっている。

何も、76年版とまったく同じことを
やる必要はないと思うのだが、
例えば階段や玄関などの段差がある所で会話をさせるとか、
やりようがいくらでもあったんじゃないかな。

06年版の、珠世と小夜子のこの会話の場面は、
映像表現的に、ちょっとダサいよな、という気がする。


野々宮大弐と犬神佐兵衛の過去についての説明は、
76年版の方が克明であり、
06年版の方は、ひどくあっさりしている。
わたしは、犬神佐兵衛という人物の描き込みは、
原作も映画も、いずれにしても不十分だと思っている。
映画は76年版でさえそう思ったのに、
06年版では、生前の佐兵衛の行状に関する説明が
いっそう減ったことになり、
本当にこれで良かったのかなあ、という感じだった。
ただ、そのかわり、
物語の冒頭で描かれる、犬神佐兵衛の臨終の床の場面は、
76年版(三國連太郎)よりも06年版(仲代達矢)の方が、
本当に短い場面にも関わらず、表情がいくらか豊かで、
佐兵衛の人間性が、不思議なほどしっかりと伝わるのだ。
76年版の佐兵衛は(三國連太郎)は、
獣のようにひげもじゃで、顔の表情が全然見えず、
しかも、本当にもう「死にかけ・・・」という感じで、
自分のしていることをちゃんとわかっているのか微妙だった。
それに対して06年版の佐兵衛(仲代達矢)は、
やはり顔全体が真っ白のひげにおおわれているのだが、
表情が全然わからないほどのひげもじゃではない。
この佐兵衛ももうあと数分の命、という所だったが、
それなりに意識は清明で、自分のしていることを
ちゃんとわかっているというのが観ていて明らかだった。
彼の表情は、その来し方さえもそこはかとなく伝えていた。
犬神佐兵衛という人物は、3人の娘たちにしてみれば、
単に酷薄で、愛情薄い、怪物のような男だったようだが、
実際は筆舌に尽くしがたい、人生のさまざまなことを、
味わい尽くして生きてきた人だったということが、
ちゃんと、いまわのきわの表情から、わかった。
ほんの数分のシーンだけど、
06年の仲代達矢の犬神佐兵衛は、良かった。

那須ホテル」に到着した日、
金田一は、おはるちゃんに食事はどうしますかと聞かれて、
自分の食事を作る時はこれを使ってくれ、と言って、
風呂敷包みをひとつ差し出す。
包みの中身がお米であることは、見ていれば察せられる。
76年版のおはるちゃん(坂口良子)は、
それを何の疑問もなく受け取った。
06年のおはるちゃん(深田恭子)は、
何かしらこれ、とでもいった表情で包みを開け、
中に入った米を手のひらにさらさらと受けて検める。
これは推測だが、
製作者側は、06年版で初めて『犬神家の一族』に触れる
鑑賞者がいることも、当然、想定していたのだろう。
そして、そういう現代の鑑賞者の感覚では、もう、
風呂敷の中身をちゃんと見せてやらないと、
それが米だということがわからないだろう、
と考えたのではないだろうか。
06年リメイク版で、
おはるちゃんに風呂敷の中身を確認させる、という
説明的なアクションが追加されているのは、
多分、鑑賞者へのそうした配慮からなのだろう。
確かに、あの場面で、
包みの中身を見ないでも、それが米だと理解する人は、
30年前よりは少ないのかもしれない。
でも、おはるちゃんは、
昭和22年の物語世界を生きる女の子ではないか。
演じるのが現代の女優の深田恭子だとしても、
そのおはるちゃんに、
「何かしらこれ」的な表情をさせるのはいかがなものか。
包みの中身を知らない可能性があるのは、
あくまでも鑑賞者であり、
おはるちゃんではないはずだ。
鑑賞者への配慮は必要なこともあると思うが、
この場合、他にやりようがあっただろうと感じる。
例えば、風呂敷包みを出すタイミングで、
金田一石坂浩二)に、
「ここに何合あるから、僕の食事は当面
 これで炊いてくれたまえ」
とか言わせれば、わざわざ風呂敷を開けなくても
包みの中身が米であることくらいは、示せたと思うのだが。

映画の感想-『犬神家の一族(1976年版)』-201027。

英題:The Inugamis
市川崑 監督
長田紀生日高真也市川崑 共同脚本
横溝正史 原作
1976年、日本

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良い予告動画がうまく探せなかった。

このポスターはカラーコーディネートがしゃれてるし
スッキリ整然とした印象で、自分としては結構好きだ。
『病院坂・・・』のやつとかは中学校の美術部の子が
描いたみたいだった・・・

何度観てもおもしろいわ。
話としてはメチャクチャな部分もあるが
原作の小説からして割とそういう所はあるし
そこも、このシリーズの魅力のひとつなのだ。

湖に打ち捨てられた死体が
さかさまの状態で徐々に浮上してくるシーンの
音楽、スゴくカッコイイ。

那須ホテル」の、おはるちゃん(坂口良子)の
可愛らしさは重要文化財級だ。
2006年のリメイク版の深田恭子もかわいかったけど
やっぱ坂口良子のおはるちゃんはスゴイわ。
坂口杏里さんは若い頃のお母さんにそっくりなんだなあ。

野々宮珠世は、わたしは2006年のリメイク版の
松嶋菜々子の方が好きではあるが
76年版の島田陽子もすてきだと思う。お肌がきれい。

佐兵衛翁という人物については、
原作も映画も、描き切っているとは言えないよなあ。
佐兵衛翁の往時にスポットを当てると
これはこれでめちゃくちゃおもしろい話になると思うが・・・
でも、男の心の中をおしはかりたければ、
その男の行跡をみるしかないのかもしれない。
横溝正史も、市川崑監督も男なので、
「男ってのはそういうもんなんだ」
って感じだったのかも。そう考えると
ジェンダーうんぬんの話をしたいわけではないのだが、)
女性の監督のリメイクによる『犬神家の一族』、
あるいは犬神佐兵衛に焦点を当てたスピンオフとか、
観てみたい気もしてくるなあ・・・

おなかの子の父親を失うこととなった小夜子が
巨大なカエルを胸に抱いてなでなでする・・・
犬神家の一族』で描かれるこのシーンは
精神の均衡を崩した若い女性、の描写として
あまりに劇的で、一度観ると忘れられない(笑)
こんなシーンはもう今の映画では、ありえない(笑)
小夜子はその後どうなったのかな・・・、と
この映画を観るといつも思う。

小夜子と言えば、
佐兵衛翁の遺言書が開示されるシーンで、小夜子が、
「ひどい! あたしのことなんか何にも書いてないじゃない!」
と泣き叫びながら、部屋を飛び出していくシーンは
確か、原作小説にはなかった所だと思う。
そもそも市川崑監督の金田一耕助シリーズは、
なにしろキャラクターたちが超エモーショナルで、
すさまじいまでにオーバーアクションなのだが、
そのオーバーアクションの理由が、かなりわかりにくい。
「何を思ってそんなに大声で叫ぶのか」とか、
キャラクターが言葉で説明してくれない時が割とある。
例えば『犬神家の一族』でも、菊人形の所で、金田一
「ぎゃあ~!」と叫んで、頭を抱えて、地面につっぷす。
犬神家の家中の者がそうするならまだわかるのだが
果たして部外者の金田一があんなに取り乱す理由があるのか、
正直あの場面の金田一の反応は何度観ても理解に苦しむ。
確かにあの生首は、非常にショッキングではあると思うが、
金田一はそこらの人よりはずっと、人間の他殺体、
それも惨い殺され方をした死体を見慣れているはずだし
あんなに叫ばなくたって良いんじゃないだろうか(笑)
終盤で、佐清が、腰かけていたイスから崩れ落ちて
床に寝っ転がったまんまオイオイ泣くシーンとかも
・・・イヤ、まあ、あれはまあ、良いか・・・
ともかくそんな感じで 市川崑金田一シリーズは
なんか、キャラクターたちのオーバーアクションの理由が
正直良くわからない、ってことが結構ある(笑)
言葉による説明がなくても観ていればわかるのであれば
わたしも文句はないのだが、
だいたいのところ、観てても良くわからない(笑)
時に唐突なタイミングで、クスリやってんのかというくらい
オーバーな感情表現が、あっちゃこっちゃで繰り出される。
・・・でもそこへきて、本作の遺言書の場面での小夜子は
「私は、おじいさまの遺言書に自分についての言及がなかった
ことに、怒り、ショックを受け、悲しんでいるのです!」と、
はっきり説明したうえで、ああしてワンワン泣いてくれる。
わかりやすい(笑) 
みんなこの時の小夜子くらいちゃんと説明してくれればねえ。
あんなに泣くほどのことか、と言いたい気持ちはあるが・・・
けど本人の言葉を信じるなら小夜子は身ごもっているので、
メンタルがやや不安定になっていて、あんな風に
烈しく泣いたりするんだ、と考えれば、
まあ、わからないこともない。

なんか、文句ばっかり書いちゃったので
文句ばっかりの印象になってしまったかもしれないが、
全然、そういうつもりではない。
なんだかよくわからんにせよ泣いたり叫んだり
床をゴロゴロ転げまわったりするエモーショナルな演技は、
市川崑金田一シリーズの、見どころだと断言できる。
わたしは、そこもめちゃくちゃ楽しんで観ている(笑)
なんたって「もう今の映画では絶対観られないよね」
そういう要素が、このシリーズには満載だ。
そこがおもしろい。やっぱり何度も観たくなる。

見どころと言えば、このシリーズに毎回でてくる
ようし、わかった!!! のマヌケな刑事(加藤武)は
犬神家の一族』では刑事じゃなくて、所轄署の署長だが、
口に含んだ粉薬をブホッと吹く、いつものシーンもないし、
全体的に割とまともで、ちょっと大人しい感じだ。
あの人マヌケだけどなんか憎めないし悪い人じゃないんだよな。

映画の感想-『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』-201021。

原題:Pina
ヴィム・ヴェンダース 監督・脚本
2011年、独・仏・英合作

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www.youtube.com

2009年に亡くなったドイツの振付家ピナ・バウシュを扱った
ドキュメンタリー映画だった。
ピナ・バウシュが率いたヴッパタール舞踊団のパフォーマンスを
観ることができる。

春の祭典』や『カフェ・ミュラー』のパフォーマンスは
すごく良かった。
言葉では形容できない。体に響く感じのパフォーマンスだった。

男女が感情に任せてきつく抱きしめあっているのを、
そばで見ている男がおせっかいを焼いてやめさせて、
男女の姿勢や腕の角度を手早く決めていき、
しかるべき手順で男性に女性を「お姫さまだっこ」させる。
だが男性の方が、抱いた女性をすぐに床に落っことす。
ふたりはまた向き合って、ひしと抱き合う。
立ち去りかけていた監視役の男が駆け戻ってきて、
再び男女の体勢をいじり「お姫さまだっこ」させる。
男性が腕に抱いた女性をすぐに床に落っことす。
男があわてて戻ってきて最初からやり直し・・・
これを何度も何度も繰り返し、速度も上がっていく。
(スゴイ重労働の振り付けだなと思った)
男女はやがて、力ずくでやらされていたはずの
「お姫さまだっこ」を、みずから自分たちの動作の
ルーティンに組み込んでいく。
監視役の男が来なくなってからも、自分たちで
「お姫さまだっこ」のポジションを取るようになる。
・・・という、一連の不思議なパフォーマンスも
なんか観入ってしまうものがあった。

男性の踊り手が、
小型犬にキャンキャンほえたてられながら
おどけたタップダンスを踊る所も良かった。

ヴィム・ヴェンダース監督は
ピナ・バウシュと親交があったそうで
元もとはバウシュの生前から
彼女のドキュメンタリーを撮り始めていたという。
だが、バウシュの急死を受けて監督は失意に沈み、
撮影は断絶してしまった。
でも、バウシュが芸術監督をつとめていた
ヴッパタール舞踊団のメンバーたちに勇気づけられ
再び撮影に着手、作品を完成させた、ということだそうだ。

確かにこの作品は、
どこかしら寂しくて、静かで、でも優しくて、
故人への温かな思いに満ち満ちていたように思う。