BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『犬神家の一族(2006年版)』-201030。

市川崑 監督
市川崑日高真也長田紀生 共同脚本
横溝正史 原作
2006年、日本

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良い予告動画が探せなかった。

2日くらい前に観た。
おもしろかった。
公開当時も、映画館に観に行った。
1976年版で、十分素晴らしかったのに、
なぜ、リメイクする必要があったのかな、と
その時は、確か、思わないこともなかったけど、
観たら、とてもおもしろくて、気に入った。
リメイクする必要があったかとか、なかったかとか、
リメイクに至った経緯とか理由とか、
そんなことはどうでも良くなったのを覚えている。

金田一耕助役の石坂浩二は主人公だが、
サイドキャラ・・・例えば
橘署長(ようし、わかった! の人)とか、
那須神社の神主さん(大滝秀治)とか、
そういうキャラに、できるだけ76年版の役者さんを
当時と同じ役で起用している所が良いなと思う。
76年版で竹子役だった役者さんを、
06年版では松子の母役に配していたのにも気づいた。
犬神家の一族』をまたやるんですね、わかりました、
と言って、76年版のキャストが、30年の時を経て、
何人もこうして集まってくれたというのは、やっぱり、
市川崑監督が映画人として人として、
信望篤く、慕われていた、ということではないだろうか。

わたし個人としては、
06年版の方が、76年版よりも、
登場人物の心情がすんなり入ってきて、
共感しやすく、より涙を誘われる。

松子役の富司純子の演技は、鬼気迫り、
ちょっと戦慄をおぼえるほどだ。
金田一のある一言を受けて、彼女の顔に浮かぶ表情が
途方もなく素晴らしくて、
あの表情を観られただけでも、
この映画を観て良かった、と思うくらいのものがある。
そこには、
「ああ、ついに知られてしまった」
という感じと
「それを見抜いてくれる人が現われるのを
 心のどこかでずっと待っていた」
という感じと、
両方が、あるように見える。
しかも、どこかよるべないというか、
幼女のような頼りない印象も受ける。
本当にスゴイ、と何度観ても思う。

06年版で野々宮珠世役をつとめる松嶋菜々子は、
まぶしいくらいきれいで、健康的で、
すらっと背が高く、いるだけで場の雰囲気が華やぐ。
この映画の軸の部分を、しっかり支えていると思う。
わたしは、松嶋菜々子が大好きなので、
野々宮珠世は、76年版の島田陽子よりも、
やっぱり06年版の松嶋菜々子の方が良い・・・

犬神佐兵衛の奇妙な遺言状によって、
犬神家の莫大な資産の相続に関しては、
野々宮珠世が、圧倒的に優位な立場に立つこととなる。
それを受け、佐兵衛の孫娘にあたる犬神小夜子が悩み、
あることを珠世に強く求める。

76年版では、
この場面における小夜子と珠世は、
最初、同じ高さの所で向かい合って立ち、
あとで、小夜子がそこに置かれた椅子に腰かけ、
立ったままの珠世を見上げる形となる。

だが、06年版のこのシーンでは、
ふたりは廊下で向かい合って立つ。
ちょっと調べてみたのだが、
小夜子役の奥菜恵は、身長155センチだ。
珠世役の松嶋菜々子は、身長172センチだ。
この身長差のために、普通に向き合って立つだけで、
小夜子が珠世を軽く仰ぎ見るような形になる。

76年版も、06年版も、
小夜子からすれば珠世を見上げる位置となり、
珠世からすれば小夜子を見下ろす位置になる。

このように、高低差をつけてふたりを配置することで
小夜子の気持ちや、ふたりの立場の圧倒的な差を
表現しているのだ、とわたしはとらえている。

小夜子にしてみれば、おそらく、
「珠世なんて本来は犬神家とは何の血縁関係もない人間で、
変な遺言状のせいで急にしゃしゃり出てきた部外者だわ」
というような気持ちがあるのだろう。
だから珠世の話す時も、虚勢をはって、強気に出る。
だが、(それがどんなに奇妙な内容でも)
犬神佐兵衛の遺言状は法的に完全に有効であり、
野々宮珠世の圧倒的優位という現状にあらがうことは、
相続関係者の何人たりとも、できない。
小夜子もそうだ。

犬神小夜子と野々宮珠世の立場の差を、
「高さ」によって表現したことについて、
それが成功しているのがあきらかなのは、
76年版の方だろう。
最初はふたりが同じ高さで向き合って立っているのに、
小夜子の方が椅子に腰かけて、
珠世を見上げることをみずから選択する、
・・・ここがポイントだとわたしは思う。

小夜子は、妊娠していることを珠世に告白した。
たぶん身ごもっているせいで体調が不安定で、
椅子があるとついちょっと座りたくなるのだろう。
思えば、珠世と会話を始めた当初から、小夜子は、
片腕を自分の腹あたりにまきつけるようにしており、
おそらく無自覚におなかを守っている。
警戒心が強まっている。
相続問題もあるし、家中で殺人事件が発生した矢先でもあり、
とかく気持ちが落ち着かず、弱気になっているのだろう。
小夜子の心を不安定にすることが、重なって起こっている。
自分から珠世を仰ぎ見る体勢を選ぶというあの行動は、
小夜子が「自分は珠世にあらゆる面で負けている」
と無意識に認めていることを、示しているのだと思う。

06年版の、小夜子と珠世の会話の場面は、
もっとシンプルだ。
演じるふたりの役者の、実際の身長差を利用して、
両者の立場の差を表現する手法がとられている。
表現したというか、自然にそうなった感じとも言える。
たたでさえ15センチ以上も身長が違ううえに、
松嶋菜々子の背の高さがはっきり出るようにということなのか、
奥菜恵に、ことさら上目遣いで松嶋菜々子を見つめさせている。
(そのせいで、こらえた涙で充血した目元がくっきり見えて、
強気な態度で不安を押し隠している心情が伝わるのだが)
放っておいてもこんなに身長差があるのだから、
ふたりの力関係を表現するのに
物理的な高低差なんかいちいち作る必要はない、
・・・ということだったのかもしれない。
だが、映像表現として、工夫というものが感じられないだけに、
ちょっとダサいかな、という感じがする。
なんだかここは、市川崑監督らしくない感がある。
向き合う小夜子と珠世を、
バストアップでとらえているせいもあって、
「こんなに身長が違って見えるなんて、
 もしかしてふたりが立っている廊下には
  傾斜がついているのかな」
「段差がある廊下なのかな」
とか
いろいろムダに想像してしまう画になっている。

何も、76年版とまったく同じことを
やる必要はないと思うのだが、
例えば階段や玄関などの段差がある所で会話をさせるとか、
やりようがいくらでもあったんじゃないかな。

06年版の、珠世と小夜子のこの会話の場面は、
映像表現的に、ちょっとダサいよな、という気がする。


野々宮大弐と犬神佐兵衛の過去についての説明は、
76年版の方が克明であり、
06年版の方は、ひどくあっさりしている。
わたしは、犬神佐兵衛という人物の描き込みは、
原作も映画も、いずれにしても不十分だと思っている。
映画は76年版でさえそう思ったのに、
06年版では、生前の佐兵衛の行状に関する説明が
いっそう減ったことになり、
本当にこれで良かったのかなあ、という感じだった。
ただ、そのかわり、
物語の冒頭で描かれる、犬神佐兵衛の臨終の床の場面は、
76年版(三國連太郎)よりも06年版(仲代達矢)の方が、
本当に短い場面にも関わらず、表情がいくらか豊かで、
佐兵衛の人間性が、不思議なほどしっかりと伝わるのだ。
76年版の佐兵衛は(三國連太郎)は、
獣のようにひげもじゃで、顔の表情が全然見えず、
しかも、本当にもう「死にかけ・・・」という感じで、
自分のしていることをちゃんとわかっているのか微妙だった。
それに対して06年版の佐兵衛(仲代達矢)は、
やはり顔全体が真っ白のひげにおおわれているのだが、
表情が全然わからないほどのひげもじゃではない。
この佐兵衛ももうあと数分の命、という所だったが、
それなりに意識は清明で、自分のしていることを
ちゃんとわかっているというのが観ていて明らかだった。
彼の表情は、その来し方さえもそこはかとなく伝えていた。
犬神佐兵衛という人物は、3人の娘たちにしてみれば、
単に酷薄で、愛情薄い、怪物のような男だったようだが、
実際は筆舌に尽くしがたい、人生のさまざまなことを、
味わい尽くして生きてきた人だったということが、
ちゃんと、いまわのきわの表情から、わかった。
ほんの数分のシーンだけど、
06年の仲代達矢の犬神佐兵衛は、良かった。

那須ホテル」に到着した日、
金田一は、おはるちゃんに食事はどうしますかと聞かれて、
自分の食事を作る時はこれを使ってくれ、と言って、
風呂敷包みをひとつ差し出す。
包みの中身がお米であることは、見ていれば察せられる。
76年版のおはるちゃん(坂口良子)は、
それを何の疑問もなく受け取った。
06年のおはるちゃん(深田恭子)は、
何かしらこれ、とでもいった表情で包みを開け、
中に入った米を手のひらにさらさらと受けて検める。
これは推測だが、
製作者側は、06年版で初めて『犬神家の一族』に触れる
鑑賞者がいることも、当然、想定していたのだろう。
そして、そういう現代の鑑賞者の感覚では、もう、
風呂敷の中身をちゃんと見せてやらないと、
それが米だということがわからないだろう、
と考えたのではないだろうか。
06年リメイク版で、
おはるちゃんに風呂敷の中身を確認させる、という
説明的なアクションが追加されているのは、
多分、鑑賞者へのそうした配慮からなのだろう。
確かに、あの場面で、
包みの中身を見ないでも、それが米だと理解する人は、
30年前よりは少ないのかもしれない。
でも、おはるちゃんは、
昭和22年の物語世界を生きる女の子ではないか。
演じるのが現代の女優の深田恭子だとしても、
そのおはるちゃんに、
「何かしらこれ」的な表情をさせるのはいかがなものか。
包みの中身を知らない可能性があるのは、
あくまでも鑑賞者であり、
おはるちゃんではないはずだ。
鑑賞者への配慮は必要なこともあると思うが、
この場合、他にやりようがあっただろうと感じる。
例えば、風呂敷包みを出すタイミングで、
金田一石坂浩二)に、
「ここに何合あるから、僕の食事は当面
 これで炊いてくれたまえ」
とか言わせれば、わざわざ風呂敷を開けなくても
包みの中身が米であることくらいは、示せたと思うのだが。