BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

240506。

f:id:york8188:20240506230803j:image

 

 

風邪ひいた。そんなには重くないが、めずらしく熱が出てる。ちょっとお腹の調子も悪い。

1か月くらいまえに知り合って仲良くなった人から、ある宗教団体の信徒さんであるということを告白され、勧誘を受けた。

きのう、その子と一緒に遊んだときに、勧誘を受けた。会う場所はむこうから指定されたのだが、そこにわたしを誘ったのも、結局、その近くにある団体の施設に、あわよくばわたしを連れて行きたかったからだ、とわかった。

遊ぶ約束をした当初は、ちょうどラフォルジュルネの開催期間なので、わたしから、有楽町に誘ってみた。フリーライブもあるからそんなにお金もかからないし、都内在住ときいてたので、距離的にも近いだろうとおもったから。すると、それは断られ、なぜか、きのう会った場所にさそわれた。わたしの住んでいるところに近いでしょ、って。じつはそんなに近くもなく、有楽町に行くとしたら1時間くらい、昨日会った場所に行くにせよ、45分から50分。そんなに変わらない。まあ、別に良いのだが、なんでこんなにその場所にこだわるのかな?とはおもった。

ふたをあけてみれば結局こういうことだったとわかり、ショックだったし、がっかりもした。
こんなことになるんだったら ひとりで有楽町に音楽を聴きに行きたかった・・・。

ただ、勧誘の意思を打ち明けようとするとき、あの子は、すごく逡巡する様子をみせた。わたしがどんな反応をするか予測しきれなくて不安だったのかもしれないし、何にせよ、この1か月、きっとずいぶん悩んだんだろうな、とおもう。あの子があんなにも、ためらいの表情を浮かべていたことをおもいだせば、いつかは今回のことも「ま、いいか。」と思えそうな気がする。今はそう思えなくても。

正直に言えば、知り合ってからここ1か月、あの子と接してて、
ちょっと、うーん? とおもうところがあった。
わたしが感じてたあの子の「ある一面」と 
あの子の宗教への傾倒のしかたは
何か、通じるものがあるというか、
「そうだからこうなった」というつながりを感じる。
そういう宗教だからあの子はそうなった なのか
そういうところのある子だから その宗教を強固に信じるようになった 
なのか どっちが先かわからない。
絶えず両者が関係しあい、他の介入を許さないくらい固く結びつき、
いっそうほどきにくく、ガッチリ結ばれていってる、そんな感じかも。

ある一面、ていうのは、
たとえば、あの子は、物事に対して、いつもなんだか否定的な態度だった。わたしが言うことも、面と向かってけなしたりはしないものの、きもちよく受け入れてくれないのが常だった。「そんなのだめだよ」「ぜんぜん違うよ」。あと「お金がもったいない」「なんであんなことに労力を使うのかわからない」みたいなことも、すごく頻繁にあの子は口にした。
そのくせ、自分はこうしたい、したくない、ということを、その場ではっきり言えない一面もあるようだった。昨日の約束をしたとき、当初は「映画も観に行きたいね」と話してた。わたしが有楽町に誘ったのは、ラフォルジュルネに一緒に行きたいのもあったけど、あのエリアなら映画館もあるので、ついでに映画も観に行けるとおもってのことだった。映画観たいねという話に、その場では、あの子も乗り気みたいだった。直近で連絡をとったとき、「結局なんの映画を観るか決めなかったから、当日考えようね」と言ったのも、あの子だった。でも、きのう会って話すなかで、急に「ほんとは、映画館で映画を観るのも好きじゃない。1800円もかかって、高いから」と言われた。

あの子自身が信じてる何かただひとつのこと以外は受容したがらない、
そんなところがあることを、うすうす感じていた。
もちろん誰だって、「こうだ」とおもっていることや、好きなものとかがあったら、
他の何よりもそれが一番だというきもちにはなるかなとおもう。
でも、あの子のそれは、やや度を越し気味だった。
アレはだめ・これはイヤ・違う・そうじゃない・・・
というかわたしたちくらい良い大人になれば、基本的に、人との関わりのなかで、否定ばかりの態度はとらないものだとおもってた。「否定の言葉から入るコミュニケーションは、嫌われやすい」ということを経験から学んでいるから。わたしのまわりの、すでに付き合いのある人たちのなかには、ここまで否定、否定、の態度の人はいない。そういう人は嫌われる。いっしょにいても楽しくないから。
あの子の「否定」の態度は、けっこう顕著だったから、気になってはいた。

ただ、そういうことばっかりでもなかった。そんなになんでもかんでも嫌なら、じゃあ、なんだったら良いの? と意地悪なことを聞いてみたくなったりしたのだが、当人も、同じタイミングで「否定的なセリフばっかり言いすぎちゃったな・・・」と気づくのか、「自分だったらこうしたい」「でもこんなところは良いとおもう」とか、前向きなことも言ってきた。そんなときはおもしろかった。

それに、きのう遊んだ時のことだけど、ある展示をみるために待ち時間がかなりかかることをしって、あの子が難色をしめした。わたしが「まあ、ほかの展示をみながら、気長に待とう。」と声をかけたら、はっとしたようにわたしを見て、「うん、そうだよね」といって、表情をゆるめてくれた。あのときの顔つきの変化は印象的だった。

そんなことも確かにあった。否定的なもののいいかたやとらえかたをしがちなのを自分でもわかってて、改めたいと思っているんだろうな、と感じていた。あの子のそういうところは、なんだかけなげで、良いなと思っていた。

でも・・・

わたしと あの子とでは 結局、この1か月、時に一緒に過ごし、時に同じものを見てても、考えてることがあまりにも、むちゃくちゃ全然ちがったんだなとおもう。わたしはあの子と友だちになったと思っていて あの子と向き合っているつもりでいた。でもあの子はわたしを勧誘の対象としてしか見てなかったし、わたしとの付き合いも、そのための導線でしかなかったんだろうとおもう。わたしがどんな人間であったとしても関係なく、あの子はわたしを勧誘しただろう。勧誘しか、しなかっただろう。それは要するに、わたしじゃなくても良かったということだとおもう。

あるいはわたしが、宗教にでも見境なくすがりつきそうなほど、心に苦しみをかかえてて、満たされてないようにみえたのかな? そうだとしたらすごく悲しい。

コンビニでおやつと飲み物を買って、川沿いの公園のベンチで、一緒に川をながめながらおしゃべりしてたときに、打ち明けられた。
あの子は自分の信仰のことをいったん切り出すと、そこからは、わたしに一瞬たりとも口を挟ませまいとするかのように、饒舌に語った。
「世界はいま、末法という時代にあって、ただひとつの教えを信じ実践すれば、世界の終末から救われるし、悩み苦しみからも救われて、人生が上向く」というようなことをいってた。
そんな話がひとしきりすんだあと、ご本尊? が置かれている施設があるから、そこにこれから一緒に行ってみないか と熱心に誘われた。
わたしは 「信仰を否定するつもりはないけど、興味がない。とても行く気になれない、行きたくない」と 断った。「その施設に連れて行きたかったから、ここに誘ったんだね、正直がっかりだな」とも伝えた。

あの子は、わたしのリアクションが思いのほか強くてあせったのか、いや、もちろん遊びたいとおもってたし展示も見たいとおもったから誘ったんだよ、でもね、・・・と、早口で必死に取り繕い、リカバリーをはかろうとしてきた。わたしは内心ちょっとあきれながら「その論法だと『結局ほんとうにしたかったことは施設に連れていくことでした』ということになるじゃん、それじゃ状況は何も変わらないぞ・・・」と思ってた。

つらかった。

あの子は、信仰のおかげで救われた、といった。
もし信心していなかったら自分は犯罪者にでもなってた、と。
もちろん、そういうこともあるとおもう。人を苦しみから救うのが宗教だろうから。でもその信仰を、近しい関係の人に、こんなやりかたで(なんだか騙しうちみたいな形で)すすめているんだとしたら、あの子はずっとずっと、人から疎んじられ、孤立を深めているのではないかな。
その孤独の苦しみから、いっそう意固地になって、信仰活動に頼っているのでは。

よけいなおせわだけど。

だってなんだかあの子はあまり幸福そうではないから。狭量で、否定的で、他人が言うことすることダメだダメだとおもってて、そんなんでは毎日イライラしてしょうがないだろう。「ただひとつの真理を教えてあげようとしているのに、みんなはそれを拒絶し、自分から離れていく」って思って、イライラしているだろう。本当は哀しくて、寂しいんじゃないのかな。正しいことをしてるはずだけど独りぼっち、それではたして幸福だろうか。自分はみんなが知らないことを知ってる、という優越感にひたれるとか、そんなことはあるかもしれないが。

わたしにはわからない。

あの子が口角に泡して語るのを聞きながら 川や 晴れ渡った空や 鳩や 散歩する人や あそぶ家族連れや子どもたちをみて きれいだなあ、切ないなあとおもってた。

わたしは、
この世界の混沌がきらいじゃない。世界が間違っていると、おもわない。混沌そのものが自然のようにおもう。たしかにこの世界はいったん何かの終わりに向かってる気もする。でもどんなものもいつかは終わる。終わりとか始まりとか良いとか悪いとかは 人間がそのようにとらえるからそのようになるだけだとおもう。うまくいえないけど。

ただひとつの正しい教え、それは良い。けれども、それ以外の教えはみんな嘘で、みんな金儲けだ、などといって、ろくな根拠もなく非難しているのだとしたら、それはあんまり良くないかなとおもう。他の宗門のことを言うならその宗門のこともよく勉強して、ある程度正確に知ったうえで、のほうがいいのかなとおもう。
具体的にここがおかしいと、指摘できるなら、それは議論になる。でも、よく知りもせず、ぼんやりとした悪口しか言わないなら、「理由はないけどなんとなくあいつが嫌い」と言ってるのとおなじだ。

それに、何かひとつのことを一心にやってれば、人生すべてうまくいく、という主張も、好きじゃない。
というのも、あの子は、知力になんら問題のない、りっぱな大人でありながら、自分の信じているものの教義を、理論体系としてはすこしも理解してなかった(理論体系は存在するようだが、教わっていないらしかった)。
自分の宗教の理論をぜんぜん理解していないのに、それを恥ずかしいとも疑問ともおもっておらず、「むずかしいことはどうでも良くて、ただお題目を唱えればいい」みたいなことを言ってた。
それも、なんだかおかしいと思った。
あの子は、緻密なロジックによって展開していく推理小説がすきで、わたしも本が好きで、わたしたちはそれがきっかけで仲良くなったのだ。「むずかしいことはどうでもいい」だなんて、そんなあの子らしくもない。

そんなもんなのだろうか?
わからない。
わからないけど でも率直に すごく変だなとおもう。

教団の施設に行くことを、2回説得されたので、2回繰り返し拒んだ。あの子はそれ以上は無理強いしてこなかった。
そのあとちょっとだけ、どうでもいい内容のおしゃべりをして、気まずくならないように、お互いに雰囲気を取り繕った。
けど、その後、早々に別れた。
わかれぎわ、あの子は気まずそうで、でも、かたくなで、目も合わせてくれなかった。

あの子が、これからまた、何か連絡をしてきたとして、
それがどんな内容でも、もはや、わたしはうれしくないだろうとおもう。

それに、あの子の心や人生に、どの程度まで、「信仰」というものが、入ってきているのか、わからない。

もしあの子に、信仰や勧誘を介在させない付き合いをしようよ、と 求めたとしたら、あの子は表向き、わかったよと言って、いったんは勧誘をやめて、普通っぽい友だち付き合いをしてくれるかもしれない。
でも、そもそも心からよかれとおもって勧誘してきているので、早晩、勧誘を拒まれているという状態に、不満をおぼえるだろう。
そして、がまんできなくなって、結局はわたしを勧誘したくなるだろう。
いまはイヤでも絶対気に入ってもらえるはずだからと、後悔はさせないからと、信仰することをよりいっそう強く求めてくるようになるとおもう。
だってあの子は、そうすることがわたしのためだと信じているのだから。
あの子にとってみれば、わたしを信心に導かないでほうっておくことは、乾電池をバリボリ食べてる人を見て見ぬふりするのと同じことなのだ。
もちろん、相手に拒絶されることにも、慣れているだろうが。

たぶん 信仰が介在しない人間関係、自分の信仰をうけいれてくれない相手との人間関係は あの子にとって無駄なんだろう。わたしのことも、たくさんいる勧誘するべき相手のうちのひとり、迷える罪深い仔羊くらいにしか思ってない。

こうなったいま、わたしはもう、あの子との交流を心から楽しむことはできない。

あの子にとっても、勧誘に応じないわたしと関わり続けることは無意味なのだろう。

わたしは拒絶し、あの子は勧誘する。それ以外に自然な道がない。

わたしはわたしの、したいようにしていいんだとおもう。
あの子のLINEアカウントをブロックし 削除した。

あとでネットで検索してみたら 複数人でとりかこんで、相手がうんというまで入信を迫ったり、車に閉じ込めて連れ回したりといった強引な勧誘で通報沙汰となった例も、かつてはあったようだ。
あの子は、そういうことはしないで、一人でわたしに当たってくれた。
それは、まだよかったのかな。
待ち合わせ場所に指定された、ホテルの1階のカフェで、あの子と一緒に何人もの信徒仲間が、わたしを待ってた可能性もあったのだ。

断ってごめんね。

でも 友だちでいられそうにない。
だって わたしは友だちだとおもってたけど あなたはそうじゃなくて
勧誘の対象としてしかわたしを見てくれてなかったようだ。
なんかショックだった。
友だちになれたとおもったのに あなたの頭のなかでは全然ちがうこと考えてたんだろうなあとおもうとショック。
だまされたという気持ちになってしまった。
頭では理解してるけど、心では受け入れられない。

なんかタイミングが違ったのかなあとか
わたしが予想する展開以外の わたしたちが普通に友だちでいられる
流れはありえたのかなあとか
わたしが間違っていたかなあとか いろいろ考える。

もしあの子の信仰する宗教がキリスト教とかの伝統宗教だったら?
わたしの友だちにもクリスチャンは何人かいて
わたしはその子たちと普通に付き合えているぞ。

まあ、その子たちはわたしを勧誘しないけどな・・・。
それに、わたしに信心がなくてもそれをダメだとは言わない。
「かわいそう、なんとしてでも入信させて救ってあげなきゃ」
みたいな態度で接してくることは、ない。



わたしは一生涯 誰からも愛してもらえないのかなあと おもう。
そうはおもいたくないけど。

なんだか、誰もわたしと向き合ってくれない。
わたしの何かが間違っているから 誰もわたしと向き合ってくれないのだろうか。
そうならば、何が間違っているのか知りたいし
わたしは 変わりたい。
わたしはとても寂しい。
わたしはわたしと向き合ってくれる人を求めている。