BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

230325。

土曜日は、ひどい頭痛で、午前中は薬をのんでずっと寝てた。薬をのんだら痛みがやわらいで、さいわいぐっすり眠れた。

昼過ぎになると元気になって、雨も一時止んでたので、また本をもって駅前のカフェにいき、本をよんだ。ハンセン病の回復者の手記。感染がわかって小学校をおいだされ、数年間は家に隠れていたが見つかってしまい、16歳から32歳まで強制的に隔離療養施設に住まわされ、完治して、社会での生活に戻った。施設にいたときに出会った健常者の女性と結婚。病気のせいで手の感覚がないため障害者手帳1級ながら、努力のすえに自動車運転免許を取得し、障害者の外出を支援するガイドヘルパーとして20年以上働く。「らい予防法」にもとづく長年続いた国の不当な措置についての国賠訴訟原告団の中核的存在となったほか、障害をもつ人の人権を守るためのさまざまな団体にかかわる。

 

冗談が大好きで、明るくあたたかい、著者の人柄が、文章からつたわったけど、それと同じくらい、筆舌に尽くしがたいつらいことを、たくさん経験してきた・・・ということも、伝わった。ありとあらゆる辛酸をなめつくすなかで高度に磨かれた人間性

 

著者が収容された施設は、カトリック教会系の病院だったそうで、そのことも、著者にとって幸いにはたらいたのかな、という気が、読んでて、した。

というのも、著者が退院する時、この教会の地方支部の方が身元引き受け人を買って出てくれて、社会に出てからのお仕事なども、いろいろ世話してもらえたらしい。そういう、全国各地に広がりかつ安心度の高いネットワークがあることは、キリスト教会の良いところだとおもう。

当時、ハンセン病の特効薬プロミンは全国で獲得競争が起きておりかんたんに手に入る物ではなかったそうだが、著者がいた病院では、教会関係の人脈のおかげで早いうちから輸入できており、病院の収容者数も比較的少なかったおかげで、患者さんみんなに行き渡っていた。著者も完治できた。

それに、病院の近くに米軍の基地があり、病院は、食材や物資の提供を受けることができた。だから何不自由ありませんでした、というわけでもないだろうけど、もっと運営がカツカツの施設も少なくなかったなかでは、比較的ラッキーな方だったと言えるかとおもう。

また、看護師などの職員たちも、クリスチャンとしての倫理教育をうけた人たちだからか、少なくとも患者さんたちを差別したりせず、おなじ人として、フェアに接した。

著者が無断外出などをちょいちょいやったときも、他の施設のように懲罰を受けたことはなかった(当時の法律は、療養施設の管理者の指示に従わない患者は独房に拘禁する、食事を減らすなどの懲罰を与えて良しとしていた)という。

 

ひっくりかえして言えば、ほかのハンセン病者隔離療養施設では、この逆のことが横行し、患者さんたちを苦しめていたわけだ。病気だけでも大変なのに、それ以外のことでもさんざん傷つけられ、つらい思いをしていた。

入ったら、仮に治ったとしても出られない。差別があるから故郷には帰れず、行くあても職の口もないから出られない。薬が手に入らない。人として扱われない。

・・・

 

それに、著者だって、小学校も卒業できず、家族もろとも村八分にされ、彼が外を歩いてるとこを見た近所の人が叫び声をあげて逃げていった。ほかの同年代の若者が体験できたもろもろの楽しいことを著者はできず、かけがえのない少年時代と青年時代を療養施設のなかですごした。こんなひどいことが、どれか一つでも、あって良かったことだといえるだろうか。

 

人間て、ほんとに馬鹿で、ときどき、ほんとに信じられないくらい残酷なことを、こうやって平気で他人にやっちゃうんだよな。