BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

『こんにちは、賢治さん』-240429。

f:id:york8188:20240430020016j:image

 

宮澤賢治の『セロ弾きのゴーシュ』のアニメ映画と、オリジナルの演劇・朗読をとおして、賢治の目指したかったものを探る、というのを観てきた。

 

セロ弾きのゴーシュ』のアニメ映画、昔、観たことがあった。なつかしかったし、こんなシーンあったっけか、と、記憶から抜け落ちてたところもいっぱいあり、もはや新鮮だった。

 

ゴーシュのキャラクターは賢治の願いの投影、という解釈は、おもしろいなとおもった。

わたしは宮澤賢治の文学の研究にはうといので、そっち方面はよくわからないのだが、言われてみれば、たしかにそうなのかなという気もした。

 


演劇は、現代が舞台で、天国の賢治が『セロ弾きのゴーシュ』の映画を観るためにこの世におりてきた、ということになっていた。賢治は、亡くなったときよりも天国で歳をとって、おじいちゃんの姿になっているという設定であり、賢治おじいちゃんを演じた役者さんがすばらしかった。彼が朗読する『注文の多い料理店』の有名な序文は、とても心がこもって、美しかった。なんか、涙出そうになった。

わたしは、活字であの序文を読んだことがあっても、あれがなにを意味してたかなんてちっともわかってなかったんだなと、今にしておもう。

 

 

ゴーシュが、賢治の願望の投影としてのキャラクターだったかどうか、は置いといて、単純に『セロ弾きのゴーシュ』の物語をみたとき、
いま考えると、ゴーシュが動物たちとの夜ごとのセッションをつうじて、あのように音楽的、人間的に飛躍的成長をとげるのは、「ひとりぼっちのつもりだったけど本当は多くの人に愛されていた、誰の役にも立てていないと思ってたけど、知らないうちに誰かの役に立っていた」ということを悟ったからだとおもう。それを描こうとした物語だったんだろうなと、おもう。
それはおもに、最後の晩にやってくる、ねずみの母子とのやりとりのなかで描かれることなのだが・・・。ゴーシュはとても大切なことに気づいたのだとおもう。自分は独りじゃない、今のままでも人の役に立ってるんだ、という事実を知る、それはつまり、他者との関係のなかに自分があるということを知る、社会のなかの自分という視点を持つ、ということだ。

 

 

あのラストの、もう会えないであろうカッコウへのセリフ「俺は怒ったんじゃなかったんだ」は、
わたしはずっと、カッコウにつらく当たって怖がらせてしまったことを悔いるセリフだとおもっていたが、今は、そうじゃないのかもしれないとおもう。

 

カッコウとのセッションのときはまだ、ゴーシュは人としての成長の途上にあった。人の輪のなかの自分、社会のなかの自分、ということを少しもわかっていないから、このときのゴーシュの感情の感じかた、表現のしかたはすごくザツだ。喜怒哀楽の4種類の色分けしかない。自分で自分の気持ちを理解できていなかったんだとおもう。人の感情の複雑な濃淡なりグラデーションは、他者としっかり関わって、幸せや哀しみやいろんなことを感じるなかではじめて自覚されるものであり、ひとりぼっちだと思って心をうまく解放できないでいるときには、感情は、十分にはうまれてこない。ひとりぼっちだと思っている時には、ひとりなので、哀しいことや傷つくことはすくないかもしれない。でもそのかわり、喜びや幸せもまた、ないのだ。

 

怒ったような態度でカッコウに接した結果、ゴーシュとカッコウの別れは気まずいものになってしまった。けれども成長した今、ゴーシュはわかったのだとおもう。あのとき、自分は「怒った」んじゃなかった、カッコウに音楽にたいする怠慢な姿勢を戒められて、それが図星だったから、恥ずかしかったんだと。なのにあんなふうにひどいこと言わなきゃよかった、カッコウのいうことに素直に耳をかたむけるべきだった、そうしたらカッコウともこれからも仲良くできたのに(実際、カッコウの次の晩にやってくるタヌキには、第2弦の動きの遅れを指摘されるが、すなおに聞き入れる。まあ、楽器が悪いんだとかちょっといいわけするんだけど)。・・・そんな、「他者とのやりとりのなかで、自分の至らなさゆえに時としてやらかしてしまう失敗への、苦い後悔」を、ゴーシュがはじめて体験した、あれはそういうラストだったんだとおもう。ゴーシュなりに他者と一生懸命にまじわったからこそ感じることができた心の体験なのであり、それは、ほんとうはすごくぜいたくなことなのだ。

若き演奏家の、人として、音楽家としての目覚めのときをみられる、成長の物語。