BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

父親の考え方について-210622。

わたしの信条、あるいは考えかたの原則? みたいなものとして、「在るうちは精一杯大切にする、でも、無くなるとなれば、潔くあきらめて、できれば『最初から無かったもの』くらいの感じで考える」ということがある。どんなに大切に思っていても、突然奪われたり、なくなったりすることがしょっちゅうあったし、今もあるので、あまり強く執着して傷付くことがないように、自分なりに予防線をはっているのだろう。
このまえの日曜日が父の日だったらしいことを今日知って、わたしも、わたしなりに、父親のことを少しは思い出した。それで、もしかしてわたしの父親も、わたしと似たような考えかただったのかなと、初めて思いがいたった。もしそうだとしたら、いろいろと納得がいく部分がある。父は、多分、今後二度とわたしたち子どもと会うことができなくても、もう、まったくかまわないのだろう。多分、いまさら、会うことになったらなったで、困惑するばかりだろう。嫌だというのではなく、それよりも大事なものができたからとかではなく、もう無いものとして処理した。何か、そういう風に思う。

父がそれで良いなら、それが良いんじゃないか。思うに、父は、「忘れられない」という苦しみを味わうのが耐えられなかったんだろう。だから根こそぎあきらめたのではないだろうか。そんなの普通はとても理解できない考え方だと思うし、いくらなんでもそうした考えかたを適用して良い対象とダメな対象ってものがあるだろ、と言いたくもなるところだけど、でも、対象が何であろうと、やろうと思えばできることだ。あきらめることはできる。棄てることはできる。ひきはがして二度と見ないようにすることはできる。父にはそれができたとわたしは思う。なぜかというと、わたしもできるほうだからだ。わたしは、どんなことでもあきらめることができてしまう。どんなに大切だったはずのものでも、いざとなれば手放せる。むしろそれが大切なら大切なほど、「もう大切に思ってはいけないのだ」という時が来たら、即座にひきはがして棄てられる。わたしは父に性格が似ていたし立場も似ていた。

逆に考えると、父は、かつての家族、つまりわたしたちに、少なくとも「苦しみ」という意味を認めていたのだろう。わたしは、苦しみたくなかった父の気持ちが想像できる気がする。わたし自身が、苦しみたくないから。今の苦しい気持ちから逃れるために、未来もぜんぶ棄てることになってもしかたがない、そのくらい、気持ちが強かった、あるいは、未来も、棄てたいくらい、苦しみに満ちたものに見えたということだと思う。

それはそれでとてもギリギリの選択だったんじゃないかと想像する。他人には理解できないことかもしれないけど。

結局、大事なのは、「世間並みかどうか」や、「人の道、人の親として正しい行動か」ではない。大事なのは、自殺しないでいることだ。

父やわたしのように弱い人間には。

父はわたしを切り棄てたのだろうと思うし、その時は、未来の望みも、もしかしたらまったく持てていなかったのかもしれない。でも、そのあと、死なないで新しい人生を歩むことができている。父は父なりに精一杯がんばってそうなったのだ。考えたことの正しさとかはどうでも良い。未来も棄てて死んだような目でいるよりずっと良い。ひとりぼっちが嫌なのにひとりぼっちになるよりはずっと良い。また前を向くことができたのだから、良かったと思う。