BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

あきらめるのが早い人。-191114。

今日、友だちとこの記事↓について話した。

york8188.hatenablog.com

かき集めてバッグに入れた物のなかに「楽譜」があったのは、
長年、音楽をやっていたからだと思う。
「自分は音楽をやっている」という意識や、
楽譜が必要だ、という意識が今も強くあるから
先日見た夢のなかにも楽譜が「必要なもの」として出てきて、
持って逃げることを選択したんだろう。

楽譜、必要、大切なもの、といったキーワードに
まつわることで、今もはっきりと覚えていることがある。
わたしの、楽譜というものの取り扱い方、価値観? 
のようなものを、
音楽仲間に激しく非難された思い出だ。
具体的には、わたしが コピー仕損じた楽譜や
演奏会が終了してもう使わなくなった楽譜を
処分していたことと、
使わなくなった楽譜をしばしば裁断して
メモ用紙として使っていたことを、非難された。

音楽をやっていたとき、音楽仲間たちはみんな
楽譜を大切なものと考えていた。
大切、特別、尊重するべきというような。
なぜそのように大切にするのかと、仮に仲間に尋ねれば、
おそらく
「演奏の際にいちいちその曲の作曲者と会って
 一小節 一小節 解説を求めることができない以上
 楽譜は作曲者の意思を知ることができる、
 唯一の物だから」
的な答えが返ってくるのだろうなと予想される。
あとは、仲間と練習に明け暮れた思い出が詰まっているとか。
仲間たちの、楽譜という物のとらえ方は、
言わば「神聖視」に近かった。わたしはそう感じていた。
米粒ひとつに七人の神さまが宿っているので
残さず食べるんだよ、みたいな感じと似ていた。

別にそれが間違ったことだと言うつもりはない。
気持ちは理解できるように思う。

でも、わたしは、楽譜を神聖視してはいなかった。
今も、していない。
楽譜は印刷物だ。
大事でも何でもないなどと言うつもりは毛頭ないが
聖遺物のようにあがめたてまつる神経は
わたしにはどうも理解しにくい。
これがチャイコフスキーの「白鳥の湖」総譜初版、
熊川哲也の楽譜コレクション・・・だったら
話は別のような気もするのであるが、
もちろんここでは、
熊川哲也のお宝の話をしているのではない。
一般的には、楽譜は紙だ。
市販されているものだ。
ローソンやセブンイレブンコピー機
いつでも複製できるものだ。
昨今はデータ化も進んでいる。
スマートフォンタブレットに入れた楽譜を見ながら
演奏するプレイヤーも少なくない。
世界にひとつしかないものではない。

これ以上長々説明する必要もないような気がするから
そろそろ話を先に進めたいのだが、
もう少しだけ言わせてもらうと、
音楽の学習者として、楽団や吹奏楽部の一団員として
わたしももちろん、楽譜を活用していた。
書き込みをしている場合も多かったから、
楽譜がないと、練習でも発表でも困った。
ただ、そうした意味で楽譜が必要であるという考え以外には、
仮に紛失したり破損したりしても楽譜そのものは替えがきく、
そんな実際的な認識しか、わたしにはなかった。
今もそうだ。
一般的には紙であり、市販されている物であり、
楽団や吹奏楽部の楽譜管理係が原本からコピーしたものを、
受け取って、使っていたのだから。

ピアノを習わされていた小学生時代
吹奏楽をやっていた中学・高校・大学時代
ずっとわたしはそういう認識。

でも 仲間はわりと
楽譜をもっと神のように
大切に考えていた。
わたしにはそう見えていた。

わたしは、楽譜のコピーしそんじたものや、
演奏会が終了してもう使わなくなったものは、
普通に処分していた。
同じ楽団で、同じ曲を、別の機会に、もう一度発表する可能性もあるので、
手持ちの楽譜をとっておいた方が良いのでは? と
音楽の現場にいたことがない人は、思うかもしれない。
だが、違う。同じ楽団で同じ曲をやるのでも
その時その時で、曲の解釈はまったく違うものになる。
まったく違うニュアンスの曲に仕上げることになるのだ。
楽譜は、都度新しく、コピーのうえで配布される。
以前演奏したことがあって楽譜をとってあるから、といって
自分だけその古い楽譜を使って練習する
そんなアンサンブルプレイヤーはまずいない。
(説明は省くが、実は独奏でも同じことが言える)
自分用に配布されて、演奏会当日まで
ずっと使ってきた楽譜を、用が済むとわたしは処分した。
時々、裁断して、裏面の白い所をメモ用紙として
使うこともあった。
当時、それを知った音楽仲間が
鬼畜にも等しい神経だ、なんてやつだ。
と ひどい剣幕で非難した。
(「鬼畜にも等しい神経だ、なんてやつだ」
 と、本当に言われた)
正直なところ、いたく傷ついた。
その人は楽譜を非常に特別視していたのだろうから、
わたしを非難したい気持ちになるのは
理解できないこともなかったが、
鬼畜とは。
そこまで言われなきゃいけないことかなあ。

楽譜はコピーができるし、
仮に破ってしまったり失くしたりしても
替えが入手できる。
だが あのように面罵され
人格を否定するに等しいことを言われたこと、
それをわたしははっきりと記憶していて、
つまりわたしの傷ついた気持ちは
その意味では回復していないわけなのだ。

楽譜とは違って、わたしの気持ちにコピーや替えはきかない。
認識の違い、価値観の違い、ただそれだけなのだが。

楽譜は神ではない。紙だ。
と 思っている。わたしは今でも。
音楽をやる時に必要になるものではあるが、
一般的には骨董品ではないし、聖遺物でもない。
骨董品や聖遺物的なものとしての楽譜は
博物館か、熊川哲也の書斎にあるのだ。

だが、わたしは物を大切にしていないわけではないし、
必要な物をゴミのように扱っているわけでもない。

ところで、例えば楽譜の価値?について
そういう認識を備えたわたしと、
失うこと、捨てること、奪われること、棄てられること
そのへんの関係についても、ちょっと考えた。

わたしは「あきらめ」が良い。
自分の持ち物を、自分という存在から、
切り捨てるのが、きわめてうまい。
捨てることに躊躇がない。
どんな物でも、それにまつわるすべての記憶や
執着心や所有欲もろとも、自分から切り離すことが、非常にたやすい。
ある物を持っていることが、自分の今後を危なくする、とか、
また、まあこういうことはあまりないのだが(精神的な意味合いを含めて)
わたしの身動きを取りにくくし、歩みを困難にしている原因が、
自分の何らかの「持ち物」にあると判断した時、
わたしはその物が何であろうと切って捨てられる。
肉体の一部分であってもだ。
自分のことがちっとも大事じゃない、などと
自虐的なことを思っているわけでは別にないが、
臓器、顔、声、聴覚や視覚、髪の毛、腕や足の1本や2本、
失って困るような仕事をしているわけじゃないし、
ある程度かまわない。
無論シミュレーションは完璧ではないが、
ひとまず今はそう思う。

ずっとそうしてきた。
たまたま今まで持っていた、
今からはもう持たない
それだけのことなのだ。

去年、ほとんど身一つで実家を飛び出した時
わたしは、実家の部屋に残してきた物・・・
筆記具もパソコンもノートも書類も洋服も写真も
卒業文集も手紙も 楽器も、本でさえも・・・、
全部、もう二度と取りに戻れなくても
かまわないと思っていた。
捨てるのもあきらめるのも簡単だ。

理不尽に、ずっと奪われてきた。
わたしが特別なのではなく、
そういうことは誰にもあるはず。
例えば子ども時代、急に怒り出した親に、
おもちゃやゲームやお絵描き帳を
全部捨てられたことはなかったか。
ある日、学校から帰ってきたら
リビングの一角の遊びスペースや
子ども部屋にあったはずの
大事なおもちゃやゲームがなくなっていて
部屋がサッパリしている。
おそるおそる親に確認すると
「何度言ってもちっとも片づけをしないし
 物を大切にしないから、全部捨てたよ」
冷たく言われたことはなかったか。
そればかりか、捨てたと言っておきながら
子どもの手の届かない、家のどこかに隠していて、
子どもが傷付き、「反省した」のを見計らい
「実はとっておいたのだ、
 お前の、物を大切にしない姿勢が
 改まるのを待っていた」
などと言って、返してきたことはなかったか。
いずれにしても親の思うままで
どうすることもできなかったのではないか。
子ども部屋からおもちゃがすべてなくなる、
これを一度体験したら、
二度目からはもういちいち親に、
おもちゃは?とお伺いを立てることもしなかっただろう。
そういうことなのだ、と涙をのんで耐えたはずだ。
それなのに、折にふれ何かを買ってあげるとか
何が欲しいかなどと聞かれる。
どうせお父さんが/お母さんが捨ててしまうのに? と
腑に落ちない思いをしなかっただろうか。
理不尽に奪われるとは、卑近なところだと
例えばそういうことだ。
例は、もっと他にもいくらでもあるはず。

子どもにとって親とは絶対だ。
絶対とは理不尽で、ある意味での暴力だ。

わたしもそうだった。
物だけでなく、友だちづきあいや機会も捨てられた。
それはもしかしたら、「しかたがなかった」としても、
「何がわたし自身であるのか」を認識する力を 
長い時間をかけてかなりの割で奪われてきた、
そしてわたしがその理不尽に甘んじてきた、
これは大きなことだった。
逆らっても良いことなんかないし
黙っていればいつかは終わると
すがるような思いで、ただ、待っていたのだ。

おかしなことに
「お前は本当に、物を大切にしないね」
と言われてきた。
でも その親はわたしの持ち物を 
わたしの承諾なしに平気で捨てた。
それで何かを教えた気になっていたのだろう。
例えば「物を大切にすること」とかを。
捨てられたくなければもっと大切に扱っているところを
見せろ、みたいな感じだろう。
でも わたしが、持ち物を捨てられることや、
奪われることから、何かを学んだとすれば、
それは、「物を大切にすること」ではない。
元もと、大切にしている。
どんなに大切にしてもある日突然失われる。
大切にしてきたかどうかとはまったく関係なく、失われる。
持っている間は精一杯大切にする。
だが、失うことになったら惜しむまい。
強いて言えば そう割り切ることを学んだのだと思う。

いかに大切にしてきた物でも、
高価だった物や大切な人から贈られた物でも、
失われたら、わたしはあきらめることができるし、
奪われても、奪った人をそれほど恨まずにいることができる。
持っていたら(おもに精神的な意味で)生きることが難しいとか、
余計に傷を負うとかいうことになれば、いつでも捨てられる。
大切にしていたという思いまるごと、
何ごともなかったかのように。
それが「物」である限りは。
「人間関係」とかだとなかなか
難しいものもある気がするが、
わたしはそれも案外他の人よりは上手に
できるんじゃないかと思う。

だが、今、失いたくないものがある。
今の生活だ。
家族と距離を置き 怒鳴り声や罵倒や、はたまた
物に八つ当たりする激しい音を聞かずにいられ、
体調が悪い時にイヤミを言われることなく
静かに横になっていられる、今のこの生活だ。

これは失いたくない。奪われたくない。
だが わたしにはそれを防ぐことができない。
何かあっても自分の力で解決できるから大丈夫と
自分を信じることがまだできないのだ。
もし今、この暮らしが奪われることになったら、
わたしは自殺することをためらわない。
今を手に入れるために全部捨てても良いと思った。
今を失うというのなら、自分の生命を棄てる。
どうせ、今の暮らしを今失うことは、
死ぬことと同じようなものなのだから。