BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『フェアウェル』-201004。

原題:The Farewell
ルル・ワン 監督・脚本
2019年、米

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www.youtube.com

みんなに愛され、一家の太陽のような存在のおばあちゃんが、
末期の肺がんにおかされ、余命わずかの状態にあると判明。
彼女の心の平穏を思う親族たちは、話し合いを重ねた末に
病の事実を隠し通すことに決めるのだが・・・。

監督自身の体験にもとづくコミカルなファミリードラマだった。

わたしの好みじゃなかった
(というかあまり興味を持って観られなかった)が
決して悪くない作品だったと思う。

いくつかの映画サイトなどが、この映画のストーリー紹介で
「親族みんなが最後におばあちゃんと会えるようにするために、
 孫の結婚式を『でっちあげる』」
的な表現をしている。
でも、映画を観ていた限り、「でっちあげ」てはいなかった。
「でっちあげる」というと、この場合、
「好き同士でもなんでもない男女に『新郎新婦』を演じさせる」
「あたかも『結婚式』のように見えるパーティーを開く」
という印象だ。
だが、この映画を観ている限り、
おばあちゃんの孫息子と、彼の恋人アイコの
「結婚式を早めた」だけであるように見えた。
(ふたりは交際期間が数ヶ月とごく短いらしかった)
こういうのは「式をでっちあげる」とは言わない。

親族がおばあちゃんと会う最後のチャンスを作りたい、
それに、孫の晴れ姿を見せておばあちゃんを喜ばせたい、
だから気が早くて申し訳ないけど結婚してくれないか
・・・と言われて
「わかりました」とアイコが言ったのだとすれば、
アイコはめちゃくちゃ優しい子だと思う。
「いずれわたしはあなたと結婚するんだもの、
 時期が少しくらい早くたって関係ないわ」
と考えていたことになるのかなと思うのだが
ということはアイコと新郎は
本当にそのくらい好き合っているわけで、
やっぱりそんなふたりの門出に
「結婚式をでっちあげる」という表現を持ってくるのは
全然適切じゃない気がする。

この件全体に関して、
花嫁アイコの意向がどうだったのか
その辺は確かにちょっと不明瞭ではあった。
アイコは日本人で、中国語がまったくできず、
物語の中でほとんどセリフを発さないキャラクターだった。
(スゴイ良い味出してたけど。)
だけど彼女が言葉ができないのをいいことに、
本人にそのつもりがないのに勝手に結婚式の話を進めた
・・・という風にも見えなかった。
新郎とアイコは(英語か何かで?)意思疎通していた。
まったく何も知らないということはないと思う。

わたしとしては
おばあちゃんのことよりもなによりも、
この日本人の花嫁アイコが
ストレスでいつ倒れるかと気が気じゃなかった。
自分だけ言葉がまったくできない状況で、
初対面の中国人の大家族と食卓を囲み、
早口の中国語が飛び交いまくるなかを
結婚式の日まで過ごさなくちゃいけない。
頼るあてといえば恋人だけだが、
その恋人は、大好きなおばあちゃんの
病気のことを哀しんで、終始めそめそしているのだ。
たまったもんじゃないという感じだった。

良かったなと思うところも結構ある映画だった。
例えば、
「病気のこと、余命のことを本人に黙っておく」
という選択が、
黙っておく側としては非常につらく、
また、罪悪感をともなうものであるということを、
親族たちがちゃんとわかっていた。
ここは良かった気がする。
びっくりするくらいみんなおばあちゃんのことを
本当に思っているんだなと感じた。
「罪だから、苦しいけど、それでも彼女のために言わない」
は、「余命もの」としては普通より一歩進んでるなと
わたしは思う。
良くある「余命もの」で描かれる苦悩はもっと表層的だ。
そこへ
「『病人のために黙っておく』だなんて、
 自分のせいで病人の悩みの種を増やしてしまったと
 思いたくないだけ」
「責任を負いたくないだけのおためごかし」
とかいうことを誰かが叫んで、
それで「黙っておく派」の人たちがハッとして、
やっぱり病人に真実を伝えよう的な・・・
そんな感じが定型だと思う。
でもこの映画はもう一歩先を言っている。
従来の「余命もの」にありがちなパターンとは
ちょっと違った経過をたどったのがおもしろかった。

おばあちゃんが比較的 人間くさい人だったのも良かった。
こういう話の場合
「果たして病人である本人は真実を知っていたのか」
というのが、問題になると思うのだが
(本人はすべて知っていたのに、知らぬふりをしていた
 ・・・というドラマチックなオチで観る者の涙を誘う)
わたしは この映画のおばあちゃんは
何も気付いてなかったんだろうと思う。
もし、自分の周囲で何かが起こっていると気付いていながら
そしらぬ顔をしてのけるくらい、「できた人」ならば、
「孫の結婚が早すぎて世間体が悪い」とか、
「よそよそしい子なので、花嫁が嫌いだ」とか、
決して言わないのではなかろうか。
結婚式はほかならぬ自分のために早められたのだから。
異国の地で急に何十人もと親戚付き合いをすることになり
花嫁が緊張するのは当然なのだから。

でも、もしこの映画のおばあちゃんが、
菩薩みたいに「できた人」キャラだったら、
この映画が余命ものの定型を超えることもなかったと思う。
身内びいきの孫自慢の、人の陰口とか言う「普通の人」として
造型されていたことは、良かったんじゃないだろうか。
ちょっとリアリティあるな、って感じになるので。

主人公のビリーの家や 中国での宿泊先の部屋に
どこからか舞い込んでくる小鳥(幻?)は
ビリーの不安、劣等感、無力感のあらわれだったのでは
ないかと思う。

別れの朝に ビリーとおばあちゃんが
無言でしっかりと抱き合うシーンは良かった。

あと、
「わたしはおばあちゃん(姑)に好かれていなかった」と
言っていたビリーの母が
密かに涙していたのもちょっと良かった。

・・・

この作品が各方面で絶賛されていることは知っている。
けど正直どこがそんなに良いのかわからなかった。
「普通。ちょっと変わってるけど」ってかんじだった・・・
二度と会えないかもしれないと思うと泣けてきて
今すぐ電話したり飛んで行って会いたくなったりする、
そんな家族が一人もいないせいか
なんか全然、この映画に、わたしはピンとこなかった。

(悪い映画だったと思っているわけではない)

わたしの頭がおかしいんだろうと思う。

わたしは ある映画に込められた本当の意味とかを
探り出すのが遅い(最初は取り違えることも多い)ので
もしかしたらこの映画も数回繰り返して観ることで
今はわからない良さに気付く可能性があるかもしれない。
とはいえスクリーンではもう観ないかなって感じだが
いずれU-NEXTとかで観られるようになったら
また観ても良い。