BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『ナイチンゲール』-200324。

ヒューマントラストシネマ渋谷に出かけて、
ナイチンゲール』という映画を観てきた。

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原題:The Nightingale
ジェニファー・ケント監督
2019年、オーストラリア

英国の植民地政策下にあった時代(19世紀)の
タスマニアを舞台に繰り広げられる物語だった。
アイルランド人のヒロインが、駐留イングランド軍の悪徳将校に
さんざん搾取され、夫と子どもまで奪われて、復讐を固く心に誓う。
だが、将校たちが立ち去ったので、
ヒロインは先住民アボリジニのビリーを案内人として雇い、
危険な原生林をかき分け進みながら、憎き仇の後を追う。

英国軍とアボリジニの人びととの間に
激しい戦争(ブラック・ウォー)が起こっていた頃の物語だ。
ヒロインが、復讐の旅の途中で、
炎上する家を見つめて泣く白人女性を目撃したり、
寝込みを襲われたらしい白人夫婦の死体を目撃したりする。
普通に歩いていてこんなにやたらと「死」に触れるのも
ヒロインが他殺死体を見ても意外と全然驚かないのも
物語の歴史的な背景をある程度知っておけば、
意味がわかってくるのだと思う。
彼らは英国軍とアボリジニの戦闘に巻き込まれたのであり
それはタスマニアに暮らす人びとにとって日常の一部に
なってしまっているのだ。
ブラック・ウォーは長きにわたって続き
争いのはてに、タスマニアアボリジニ
文字通り絶滅させられてしまったそうだ。
ナチスも、ユダヤの人びと(など)を
根絶やし目的で何百万人とも言われるほど殺したが、
ユダヤの人びと(など)は、絶滅していない。
アフリカやカンボジアなどでも大虐殺があったが、
一つの民族、思想集団、宗教的集団、社会集団が、
完全に滅びるということは起こっていない。
だがタスマニアアボリジニは本当に絶滅してしまった。

この映画の暴力描写は、質量とも過不足がないと感じた。
どこまでが、伝えるべきことを伝えるための暴力描写たりえるか、
どこからがトゥー・マッチか、
ちゃんと意識して、配分したんだろうな。
女性が強姦される場面とか容赦なく(しかも何回も)入れてきてた。
観るのがつらい場面だった。
けど、わたしは全部観た。
ドッグヴィル』(ラース・フォン・トリアー監督、2003年)や
『アレックス』(ギャスパー・ノエ監督、2003年)や
他にもいろいろな映画のなかで
女性が乱暴されたり性奴隷にされたりする場面を観てきて
どれも目を背けてしまうようなとこがあったのだが、
ナイチンゲール』に関しては
自分でも、何が違ったか良くわからないけど、ともかく全部観た。

今思うに、性暴力の内容、そのヘビーさ、
その性暴力がのちのちに及ぼす影響という意味で
『灼熱の魂』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2010年)
あたりのほうが、『ナイチンゲール』よりも
ずっとしんどかった、という感覚が心のどこかにあった気がする。
(『ナイチンゲール』が生ぬるかったと言いたいのではない。)

でも、
話が行ったり来たりしてアレなんだけど、
ナイチンゲール』の暴力描写、性暴力描写については、
「いくらなんでも、やりすぎだ」と思う人がいても、
わたしは驚かない。ひかえめに言っても、相当なものだった。
実際、わたしが観た時も、
映画がまだ続いているのに、途中で席を立って、
そのまま戻ってこなかった人が、
把握した限りでは、確か2人いた。
本人に聞いてみなくちゃ、出て行った本当の理由は
もちろんわからないけど、
暴力描写があまりにキツイのでつらくなったのかなと、
思いはした。そのくらいのものだった。
ヴァイオレンス、虐待を描写した場面という意味では
さらにさらにキツイ場面が、そのあともいっぱいあったので
途中で帰って正解だったかも。

思えばわたしも、あまりに凄惨な暴力描写のために
映画を終わりまで観ずに帰ったことが、ある。
何本かあるが、特に、今思い出すのは
三池崇史監督の『13人の刺客』(2010年)。
恐ろしくてとってもじゃないが耐えられなかった。
稲垣吾郎が、サイコな殿さまを好演しすぎていて
心底震え上がった。
「山猿の骨は硬いのう」。
四肢を切断されて舌を抜かれた上に輪姦された女性が
(彼女がされたことの詳細は忘れたが
 おおまかに、これくらいの目には遭っていたと記憶してる)
家族や住んでいた集落がどうなったか聞かれて
泣きながら口に筆をくわえ
紙に「みなごろし(にされた)」と書きつけたシーンが
もう決定的だった。とても観ていられなくなって
途中で帰った。
でも後日やっぱり観たくなってもう一回チケット買って観たなあ。
それでさらにもう一回、リピート鑑賞した覚えがある。
何をやっているんだわたしは(笑)

三池崇史の映画の話になってしまった。
なんでこうなった。

ナイチンゲール』の話に戻りたいと思う。
ここまでは 暴力描写とそれを観る人の反応の
話をしてきたと思うのだが
西欧の人、特にイングランドの人は
その意味で、この映画を観るの、つらいのかもしれない。
オーストラリアだかの映画祭で、
ナイチンゲール』が上映された時、
ムナクソ悪いものをみせてくれやがって的な
不満を口に出して叫びながら退席していった観客が
何人も出たと聞いたが、
それは多分 暴力のシーンがむごすぎるということに加えて
まあその観客が例えばイングランド人だったとしたら
自分または自分の先祖がすごく悪く描かれているような感じがして
たまらなくなった、みたいな気持ちも あったのかもしれない。
この物語のなかではいわば悪者なのだから、イングランドは。 
わたしだって反日的な内容の話の映画とか観るとすごく
つらい気持ちになるもんな。場合によっては腹も立つし。
(『ナイチンゲール』は「反英」映画ではないけど。)

差別や憎悪、
それから、自分より弱そうに見える相手を力で押さえつけて
言うことを聞かせる、
そういう人間関係の構図が、至る所にあらわれる物語だった。
まず、将校がヒロインを差別し搾取してる。
(ヒロインがアイルランド人であること、
 窃盗の前科があり流刑されてきている身であること、
 女であること、美しいことによって)
ヒロインも、アボリジニのビリーを差別してる。
ビリーも、自分たちの暮らしを踏み荒らす「白人ども」を、
イングランドアイルランドも関係なく、激しく憎んでいる。
将校は、部下たちに序列付けみたいなことをしていた。
誰かが何かヘマをしたら、さっきまでNo.2待遇だったのを
奴隷扱いに格下げとか、
子どもに銃を持たせて大人を脅させるとか
そういうことを平気でやる。
だから将校に付き従う者たちのなかで、
立場や上下関係が絶え間なく入れ替わり、変動する。
みんな、将校に気に入られないと生きていけない状況なので、
必死にご機嫌取りをする。

アイルランドイングランド
要するにイギリスじゃないの、って思うけど
ヒロインはそう思ってない。
彼女の祖国は独自の言語や文化を奪われ差別されている。
でもそういうつらい思いをさせられてきた彼女も
アボリジニをすごくナチュラルに差別していた。
汚い獣でも見るかのように。

悪徳将校のホーキンスが、自分のしたことにほんの少しでも
罪の意識を持っていてくれますようにと願ったけど、
彼にはそんなもん全く、本当に全くないことが
ハッキリと伝わってきて、いっそ清々しいほどだった。
けど彼が異常なサイコパス野郎であるとは
わたしはどうも、思えなかった。
一言で言うと彼はあまりにも寂しい人間だった。
人間が普通に生きててあんなに寂しい状態に
なることってあるのかなと思うくらい寂しい状態だった。
ホーキンスを観ていて、わたしが感じたのは、
彼がどうしようもなく悪い奴だ、ということではなく、
彼の魂が非常に荒廃している、ということだった。
彼の内面は、(そうなった原因とかきっかけはわからないが)
壊滅的に傷つき、荒んでいた。
その荒廃こそがホーキンスをして
破壊と虐待行為に走らせる力の源なのだと思った。
つまり言わば彼にとっては破壊も虐待も求愛なのだ。
それはそれでかわいそうな男だと感じる。

いろんなことを感じた映画だった。
映画レビューの別ブログの方で
近いうちもっとちゃんとまとめたい。
ここに書いたことと重複する部分が出てくるだろうが
同じ人間が書いてるので それはしょうがない。