カウンセリングにいくようになってから、なんか、絶えず、ものすごい量のさまざまな記憶? がよみがえりまくり、それが追いかけてくる。大波のようにザバーっと、全身にかぶさってくる感じの時もあれば、足首くらいのところまでをチャプチャプひたしてきて、やがてさーっとひいていく、という感じの時もある。
記憶なのか幻想なのか「本当はこうだったのかもしれない」「こうであったならば良かったのに」みたいな自分の思考や願望が映像になったものなのか、実はそのどれでもないのか、わからない。
映像でも音でもなくただの思考なのかもしれない。そういうものの襲来があると、小さいものは大丈夫だが、大きいものはかなりしんどい。耐えなくてはならない時間が長い。足もとをすくわれないように気を付けてなくちゃいけない時間が長い。
大きいものが襲ってくる時は、かなり頻繁に、全身症状的に体調が悪くなる。病気ではなく、半日とか一日とかじっとやりすごしさえすれば、ケロッと症状が消える。
進行中の現実との境目が、わかんなくなったりもする(落ち着いて考えれば、判る。)。
それはしんどい。
でも、カウンセラーの先生と話すことは、わたしにとって、確実に、何かおおきな救いになっている。たしかに、こういうしんどいことが起こるようになったのはカウンセリングをうけるようになってからだ。それは間違いない。
でも、先生と話すことが何が大きな支えになっており、それがあるからしんどくなっても乗り越えられるし「不当にしんどい」とは思わない。
先生は、バルブを一気にゆるめすぎたのかもしれないので、これからはあまり急がずに、もっとゆっくり話していこう、と言った。
カウンセラーの先生と話す時、わたしは、たくさんの言葉を発する。けど、それは「本当の気持ちをちゃんと伝えることができてないんじゃないか」というかんじがあり、その足りない分を埋めようとして、たくさんの説明を並べている、という感じがする。と、先生に言ったところ、先生は、わたしがそのように感じていることを、前から理解してくれていたようすだった。
先生が「その時、どういう気持ちだった?」というようなことを聞く時、わたしが返す「わたしの気持ち」は、「気持ち」(悲しかった、くやしかった、寂しかったとか)の言葉ではなく、たんなる論理的な状況説明か、とっぴな比喩か、そうでなければ身体感覚を表現する言葉、の3パターンらしい。とっぴな比喩というのは、たとえば「『なんでもない顔をしてみんなとおしゃべりしているけど、実はわたしのパンツには、ウンチが付いているんだよね』みたいな、絶対に人に言えない秘密の感じ」とか言い出す(だからそれはつまりどういう気持ちか、は、自力では説明できない。説明になってないことに気づいてない)。
身体感覚の言葉というのは、たとえば、「手足の先が冷たくなって、体の中のすべての内臓が、普段ある場所よりもちょっと上に持ち上がった」「胸の上だけで呼吸をしてる感じがした」「全身が薄い膜でおおわれて、自分だけ、周りから隔絶されているような感じだった」とか言う。
先生はそういうわたしの発言をめちゃくちゃよく覚えている。書くのが速くて、いつも正確にメモをとっており、話の中で場合に応じてパッととりだして示してくれる。たしかにぜんぶわたしが言った言葉だ。
どういう気持ちだった? とよく聞かれる。あらためて「気持ち」といわれると、ほんとうによくわからん。あることがあって、それについてわたしが何かを感じたことはたぶん確かだ。わたしにも感情はあるのだから、何も感じないはずがないとおもう。でも、何を感じてた? どう思った? ってきかれると、わからん。きっと悲しかったり、不安だったり、うれしかったり、したんだろう。でも、表現できたとしても、言ったら言っただけ、遠ざかる感じがする。それはほんとに自分が感じたことなのか? という感じがする。
感情はあるし、感じているとおもうし、「気持ち」もあるとおもう。わたしはそういうのをちゃんと人に話しているつもりなのだが どうもあんまり話せてないらしい。
そういや高校生の時 仲良くしてた男の子の友だちに言われたことがある。
「おまえはあんまり自分の気持ちを話さない。ほかの奴はもっと話してる。おまえはなんか違う。あんまり話してない。話していいとおもう。」
「気持ち」をもっているけど それをあまり見ないようにしているのかもしれない。
なぜなら、自分の気持ちを見ることは苦痛を伴うことで、そんなことをいちいちしてたらつらくてやっていけないと 考えてるから。
どんなものでも どんな感情も、いつでも自分から切り離せる状態にしとけば、ほんとに切り離さなきゃいけない事態になったとき苦痛が軽くてすむし、失ったものにたいして、いつまでもこだわらないでいられる。