BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

課題は-200118。

これからのわたしの課題は
要するにナメられないようにする、
相手の都合の良いように扱われないようにする、
ということだとおもう。

「傷つくよ、そういうことをされると」
と、その場ですぐ、相手に気持ちを伝えることができれば、
多少は状況も違ってくるだろうな。

イヤだったよと伝えて、理解してくれない人は、
今、少なくともわたしのまわりにはいない。
ちゃんと言えば、次からはもうしないでいてくれるだろう。

でも、わたしが傷つくかもしれないことや
明らかに不愉快に思うであろうことを
わざと言って、わたしを試す人はいる。
それが責務のように、
その人はおもっているみたいだ。
あるいはテスト、実験、または
セラピストになったような感覚か。

そういうのに接するとき、
本当の意味で、
ナメられているんだな、わたしは。
と感じる。

そういう人は だいたいこんなようなことを言う。
「ひどいことを言ったけど
※※※だということを あなたが
ちゃんとわかっているのかなと思って
テストしてみた」
「あなたのためを思って言うんだ」
でもそんなことをしてくれと
わたしは頼んでない。
誰にも一度も頼んだことがない。
わたしのメンターになって、とか。

イヤなものだ。
このとおりの能なしだけど
それでもわたしだけは
わたしの立場を守ってやらないと。
立場とは
何もしなくても自動的に無制限に
守られる、というものではない。
この世界では
誰もが、陣取り合戦に必死だ。

イヤだと思ったら、
今のはイヤだったよ、傷ついたよ、と
言わなきゃいけない。

相手が勝手にわたしに
なんらかの役割? を お仕着せて
わたしがその役を務めるように
(それ以外のことはしないように)
暗に求めてきているのを感じる時、
すごくイヤだ。
それってだいたい
相手は、まったく気づいていない。

これが、もし仕事なら、
役割を与えられて・・・とかもしかたがないが、と
書きそうになったけど、
仕事で、「勝手に」役割を
お仕着せられるなんてことは 本来ない。
なのに、あるということは、
それは、仕事の場なのに、
仕事じゃないことが起こっている、
ということじゃないだろうか。

人がわたしにお仕着せる役割は
細かく見ると、その人・その時で違う。
だけど、わたしがイヤだとおもう時の
それをまとめると結局は 
「お前はこの私よりも『下』であれ」
「私はお前に教えてやる人、お前は教わる人」
「私はお前の面倒を見る人、お前は私の世話を受ける人」
の、どれかだ。

こう思われていると感じるのは悲しい。
気づかないふりをしているほうが
良いのかなとおもって
がまんしたりするけど・・・
でも、気づいたことを消すことはできない。

一番ダメなのは

わたしが 
それでも良いや、どうでも良いやと
おもう時が多々ある。ということだ。

相手がわたしに注ぐまなざしや、
わたしにかける言葉のなかに、
差別や、下に見る気持ちや、優越感や、
憐憫がこもっていることを、
痛いほど理解していて、
屈辱を覚えているにもかかわらず、
それでも、存在を無視されるよりは、
どんな形であれ かまってもらえる方が良い、
そういうことを考える方向に
自分が向かうんじゃないかと
危惧する。