BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

221028。

早歩きと大して変わらない速度で、2キロ程度だけど、ジョギングしてみても良いよ、といわれたので さっそく走ってみている。ちょっとでも痛みが出たらすぐにやめる約束で。きょうも走った。いまのところ大丈夫。でも2キロ以上はまだ厳しいのが自分でわかる。2キロを超えるとすぐ、足首に違和感が出始める。

それにしても

きょうも気持ち良かった。心も体も軽い。

わたしは、苦しいことやイヤなことがあっても、そのことに対応しようとか解決しようとかはあまり思えず、まずなんでもかんでもガマンしちゃうほうだ。

あと、自分のストレス耐性についての認識がとても甘いとおもう。

がんばれる限界ラインが自分でわからない。ある日とつぜん、相手との関わりを維持しようという意思をうしなったり相手を恐れるようになったりして音信不通とか、いきなり倒れて入院とか帯状疱疹とか、極端な形ででてしまう。そのときにはもう手遅れ。

たぶんほんとは、わたしはガマン強くもなんともないし、ストレスをため込んでおける心の受け皿みたいなものも、人と比べてむちゃくちゃちいさいんじゃないかと思う。心の中を目で見ることができるなら、きっとわたしの心は、回収されず何の対応もされないで堆積したゴミとか泥水であふれかえっていてとても汚いような状態じゃないだろうか。

でも、そのときどきで「ストレスがたまっている」と理解し、それが「対応したほうが良い」「今のままでいるのは自分のためによくない」と考えることがあまりできない。

怒りや哀しみや傷ついたことと向き合おうとしない。

ストレスがたまっているなー、とか気づけたとしても、自分自身が感じているよりはるかに甚大な影響がでていて自力では手に負えないみたいなこともある。

そんな調子だから、わたし自身の「感覚」なんてものは、わたしの「ストレスがたまってるかどうか」の判断の材料という意味では、信用できない。ってことを、ここ数年で理解しだした。

 

たぶん「なんとなくこのままやっていてもダメだろうと思うから、いったん休むわー」とか「イライラするからこの場からちょっと離れるわー」とかやるのだろうし、

「そういうこと言われるとイヤな気持ちになるからやめてほしいよ」みたいに伝えればいいのだとおもう。

でもわたしがそれをやってうまくいったとおもえた試しはあまりない。

どうせ大した意味はない、どうせうまくいかない、だからやらない、という流れにもなる。

どうしたらみんながやっているように自分もできるかということがわからない。基本なんでもかんでもガマンするしか方法がおもいついてないとおもう。

 

「気分転換」とかもドヘタなんじゃないか。

 

ならばべつに「ストレスたまってる」とか自分で思ってなくても、もうストレスなんてものは当然毎日着々とたまっているものとシンプルに考えて、「ストレスを発散するための行動」を日々のルーティンに組み込んじゃうくらいがいいんだとおもう。

汚れてなくても汚れてても毎日掃除すれば良い。

わたしは、自分は体を動かすのが一番だったんだと最近感じてる。「体動かしてるから大丈夫」っておもえること、もしなにかつらいこと苦しいことがあっても体動かせば心が軽くなるから大丈夫なんだ、っておもえることが自分にとってすごくおおきい。

 

それだけに ケガをして体を動かすことができなくなる、ということがないように 今後はほんとに気をつけなきゃいけない。