BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

高橋和巳「邪宗門」考-3-行徳仁二郎-190409。

f:id:york8188:20190130003057j:plain

www.kawade.co.jp


じつのところ、わたしはまったく
覚えていないんだけど、
オウム真理教事件の裁判が始まったころ、
オウム事件高橋和巳邪宗門」の類似性が
メディアによって
指摘されたことがあったそうだ。
高橋和巳オウム事件
予見していたんじゃないかとか
そんなかんじで。
高橋和巳はなかば忘れられた作家だけど、
そのときちょっとだけ、
作品が再評価されたらしい。

邪宗門」は
新興宗教団体の興亡をえがく小説であるし、
ストーリーの終盤あたりからの展開は
たしかにテロリズムを想起させる。

でも、似ているところがあるとすれば
そんなもんだ。

全体を見て言っていないのがあきらかだ。

一部だけをちょっとつまみあげてみせ
あたかも全体がそっくりかのような
方向にもっていこうとするのは
まちがいではないかなとおもう。

邪宗門」を最後まで読まずに
ものを言ってるのが まるわかりだ。
オウム事件の全体を
なにか文学的な?アプローチで
解釈できると考えた
だれかの勇み足なんだろうか。
なら それでもいいけど
すくなくとも最初から最後まで
邪宗門」を
読んでからにするべきだった。
わたしだったらそうした。
あとで わたしみたいなのに
「あんた勝手なこといってるけど
邪宗門1文字も読んでないだろ!!!」とか
ぎゃーぎゃーいわれる 
めんどくささを想像すると
読む手間ひまをおしむ気には
なれない。

かえすがえすも
どうして「邪宗門」が
オウム事件と似てますねなどと
いわれたのかなとおもう。

邪宗門」は
信仰とはなにか、
人にとって宗教とはなにかということに
とてもまじめに取り組んだ
宗教集団のありさまを みつめる
(みつめるのはそれだけではないが)
物語なのであって、
すくなくとも、
狂った方向にみずから走り
沈んでいく排他的集団、
・・・オウム真理教のような・・・の
おろかさを描いた物語では だんじてない。

・・・

<教主・仁二郎の魅力>

物語は戦前・戦中・戦後にまたがる
3部構成の大長編であり
源氏物語と とんとんじゃないかと
おもうくらい
多数のキャラクターが登場している。
高橋和巳は その どのキャラクターも
必要性におうじて 相応の明度で
スポットライトをあてて描いていて
その意味では本作は
ダイナミックな群像劇だ。が、
宗教集団を描く物語であるから、
まんなかにはつねに教祖がいる。
教団の歴史と現在が追われていくなかで
教主(教祖)は2回 代がわりする。
開祖の行徳まさ。
彼女のあとをひきついで行徳仁二郎。
仁二郎の死後 千葉潔が教主の座につく。

仁二郎は
魅力的なキャラクターだ。

法廷において、
臆することなく明確に 
おのれの思想を語るその言葉は、
だれにもわかりやすい。
信徒たちの心の支えであるいっぽうで
ジョークをとばして民衆を笑顔にする
心の深みをもち 人に愛される
優れた宗教家として描かれている。

彼は、
一部の専門家や研究者にしか
わからないような言葉を弄して
高度な理屈をならべたてるタイプの
教主ではない。

「神とは何か。それは祖霊、
すなわち先人たちの
なさんとして果たさざりし
心の結晶であります。
それゆえに私どもは、
その神の意を体し、
神の意を受けて、この土地に
神の国を築かねばなりません。
それが先祖の業績、
その富の文化をうけて生活する
子孫の義務であります」
(第一部 第15章「公判その一」)

ようは、
あるひとつの土地に
根付き生きる人びとが
たぶん ふだんはわすれているか
あまり考えていないにせよ
かならずやその心の奥底にもつであろう
ふつうのものの考えかたを 
言っているんだと思う。
ご先祖さまはだいじだよ。
代々の土地をまもりながら
一生懸命働こう。
そんなことだ。
宗教って感じじゃないな、
と いう気さえする。

仁二郎は独房の劣悪な環境下で 
ひどい皮膚病にかかり
全身かさかさの血まみれになって
苦悶のうちに獄中死することとなる。
しかし、そんななかでも彼は
強大なインフルエンサーでありつづける。

「特別、鎮魂帰心の法を実践してみせたり、
身代わりの法で人の病を救ったわけでもない。
そういう機会もなかった。
ただ一日にほんの二、三こと言葉を交し、
目を見交す僅かな触れあいの積重ねから、
仁二郎に接触するものの態度が
徐々に変わったのだ」
(第二部 第6章「牢獄」)

説教壇なんかはないし
寝起きの時間も自由にはきめられない
獄中においてさえ
看守や配膳係などを中心に
仁二郎に感化される者が出てくるのだ。

・・・

<仁二郎の多面性>

ただ高橋和巳は 仁二郎を
信徒たちの「しずまぬ太陽」として
描いてはいない。
教主・仁二郎のキャラクターは、
そうであったほうが人びとの心を
つかみやすい、という考えのもとに
仁二郎自身が練り上げ、
不断の努力によってキープしてきた
そとむきのものだ。
そのキャラとほんとうの仁二郎が
まったくべつものとまではいわないまでも、
当然だがキャラという仮面のしたに
ほんとうの仁二郎の顔がある、ということを
作者はけっこうクールな眼で、
はっきりと描き出してみせてくれる。

投獄されていた誰かが、拷問に屈して
「開祖まさのお筆先を書き換えてもいいです」と
不遜なことを言ったらしい、
という うわさがながれる。
(お筆先、は説明がむずかしいが
「教義」と考えていただきたい)
仁二郎は、仮釈放で教団本部にもどると、
妻のひざにすがりついて なきくずれる。
じつは尋問のつらさにたえかねて
「お筆先を変えてもいいです」と
言ってしまったのは
仁二郎その人なのだ。

ひとかどの宗教家としての格と
ひとりの人間としてのもろさ
このふたつを だきあわせにかかえる
それが行徳仁二郎である、ということは
その死に際して信徒たちにのこした
未来における教団のありかたを
さししめす遺言からも あきらかだ
遺言は なんとふたつあった。
ひとつは
怒りや恨みをいつまでもかかえておかず、
おだやかな心で、信じる道をすすめ、
といった内容の、寛恕の遺言。
もうひとつは
権力を呪い、教団をくるしめたすべての者を呪い
にっくきやつらに復讐してやれ、という
憤怒の遺言だった。
仁二郎の二面性が、ふたつの遺言という形で
そのまま残った。
仁二郎が多面的な人物であった、ということや
多面的な人物であるので、
だから彼はどうであるのだ、ということまで
考えていた人間が
教団内にどれほどいたのか
作中でそのへんははっきり描かれない。
でも、どちらの遺言も
教主がのこした正式なものだとする
教団の決定は、
遺言が発表されてからそんなに間をおかずに
すんなり出される。
さっするに、
すくなくとも幹部や古くからの信徒はやはり
仁二郎という人物をちゃんとのみこんでいた
という設定かとおもう。
信徒たちはこの2種類の遺言の内容が
あまりにもかけはなれているので
最初こそかなり驚くが
どちらが正しいとか
どちらを採る者は邪道であるとか
そういったかたちの紛糾はおこさず
もろともに受け止める。

機械のように正確ではいられない。
ずっとおなじことだけ考えてはいられない。
まして仁二郎は 
長期間にわたる苦しい独房生活のなか
この遺言をのこしたのだ。
赦しの展望も、積怨の宿命も
両方あってあたりまえ。
信徒は教主を信頼したのだろうし、
教主もたぶん信徒がこのようにとらえてくれるだろうと
信じたうえで遺言を残した
そういうことではないだろうか。
教主と信徒の信頼の強固さと
信徒たちの教主への理解の幅広さが
救霊会という団体の、宗教団体としての
純度の高さを
あらわしているようだ。
宗教は人のものなのだから。
人間らしいことが、純粋ということなのだ。

人は一貫性をたもてない生き物だ
正しいことばかりして生きることはできない
つねに変わり続けていて 同じときなど
一瞬もない、ということを
わたしもおもっている。
だからやはり仁二郎の遺書がこのとおり
まったくちがうものがふたつのこった
というのにも
それをうけいれた教団のスタンスにも
共感する。

・・・

<責任をとりますと麻原彰晃は言わなかった>

オウム真理教の教祖 麻原彰晃
自分の犯罪について
自分の言葉でほとんどなにも語らなかった。
彼が宗教者としてどの程度のところまで
到達していた人なのかわからないが
吉本隆明などが彼の犯罪と宗教者としての
達成度はわけて考えるべきであると
たしか主張していたとおもうが)
ある集団を率いたものとして
その集団がひきおこしたことの責任者として
説明をまったくしなかったし、
責めをおうということをしなかった。

公判中に麻原彰晃がみせたこのていたらくに
同じく訴えられた元幹部たちは
いっときは彼を深く信奉しただけに
深く失望していったときいてる。

ちいさなヨーガ道場の代表だったころ
麻原彰晃
通ってくる人たちといっしょに
つらい修行に汗を流し
解脱できない、悟れない、とウンウン悩む 
それなりに熱心な求道者だったと
高山文彦の「麻原彰晃の誕生」などで読んだ。
とすれば
なぜそうやって信徒と一緒に
苦しい道をあゆむ姿勢を
彼はすててしまったのかとおもう。

民衆に愛されているイコールただしい、
ということには もちろんならないが、
平易な言葉で、意を尽くして宗教観を語り
みずからの弱さに生涯激しく悩んだ
徳仁二郎は
人にひろく受容される宗教家のあるべき姿とは
こういうものだろう、とおもわせてくれる人物だ。

徳仁二郎と麻原彰晃 
というところだけ
きりだして考えても
まったくちがう。
ひのもと救霊会の戦いとオウム真理教の犯罪、
邪宗門」と オウム真理教事件
まったくちがう。
似ているなどと評価するのはおかしい。