BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

高橋和巳「邪宗門」考-1-190130。

前回がこれ↓

york8188.hatenablog.com


だ、大丈夫なのかな
ちゃんと最後まで書けるかな
すっごく自分が心配・・・

けどまあ 一記事、一記事、
ていねいに
せいぜい一生懸命考えて書く、
まずはそれ。
高橋和巳も、「邪宗門」を書くとき
きっと毎日 一生懸命だったはずだ。

※作中のセリフとかを引用するのに
つかうのは
なにも断らない場合 基本的に
河出文庫版「邪宗門」上下巻。
たとえば上巻200ページから引用するときは
「上巻・200ページ」というふうに付記します。

・・・

わたしのブログを
のぞきにきてくださるかたが
邪宗門」読んでみようかなと
思ってくれるかもしれないとねがって、
物語の概要を話しておこうとおもう。
わたしなりの
招待、布教、伝道だ。

みんな読もう。そして語ろう笑

高橋和巳邪宗門」。

f:id:york8188:20190130003057j:plain

www.kawade.co.jp


日本のとある新興宗教団体の
弾圧と抵抗と破滅の歴史を描く物語だ。
河出文庫で、上下巻計1000ページ超えの巨篇。
・・・とかいったら みんな
ひいちゃうかな・・・
大丈夫!おもしろいから一気読みだから!

登場する新興宗教団体
「ひのもと救霊会」は、
この小説だけの、架空の団体だ。
だけど、わが国にはじっさい、
おもに戦中戦後の
人の心が不安定だった時代に 
各地でぽこぽこと あらたな宗教が
生まれては消えたことがあった。
(いまは ぽこぽこ生まれてない、
とはいわないし、
いまは 人の心が安定してる、
とも思わないが)
まあ日本に限らず海外でも
人の心が迷えるときは
宗教の出番てかんじなのかも。
「ひのもと救霊会」は、
明治時代に出口なおが興した
「大本(おおもと)」が
モデルになっているっぽい。
開祖が明治時代の女性で、
下の名前がひらがなという設定とか、
二代目の名前とか
いろいろ同じだし似てるし。
ひのもと救霊会の開祖は、
「行徳まさ」という女性であり、
彼女のあとをついで教主となる二代目は
大本においては「仁三郎」
ひのもと救霊会では「仁二郎」だ。

まさが、ほそぼそと説いてきた教えは、
行徳の姓を継いで教主の座についた
仁二郎という傑物の力によって
急速に人々のあいだに ひろまっていく。
たとえば
貧乏子だくさん一家の 口減らしとか
借金のかたにとられたとかで
親元をはなれて工場で働かされてる女の子。
倒れるまで働いてもネコのひたいほどの土地さえ 
もつことができないばかりか
稼いだら稼いだだけ税金にもっていかれる
小作農の人たち。
それから病人、心身に障害のある人。
高齢の独身女性。
そんなどうしようもなく
苦しく貧しい人たちから
危険なほど圧倒的な支持をあつめて
救霊会は飛躍的に成長、
組織化してからそんなに経っていないのに
いまや日本中に信者をもつようになった。

ただ、
教団のおもな考えかたというか
教義の部分に
一種のファンダメンタリズムというか
カタストロフィ的なものの希求に
つながるものが ひそんでいる。
そのせいなのか 
教団の雰囲気はなんとなく
どこか必死で、どこかいつも泣きそう。
上巻のけっこうはじめのほうからもう、
組織上層部の人が警察にしょっぴかれる
シーンがあったりして
(そもそも開祖はすでにこの世になく
カリスマ仁二郎とその側近たちも
逮捕されている、という
状況から物語が始まる)
「ああこれは・・・このあとも
けっしてただではすまないな」と
わたしでもわかる導入部だ。

ひのもと救霊会は
行徳まさのときから
「現世の世なおし」を
至高の教義として説いてきた。
しかし仁二郎が
信者への伝えかた、やりかたを変えて
ちょうどユダヤ教の「キブツ」みたいな
自給自足コミュニティをつくりあげ
みんなで頑張って働いて、
みんなで神さまに感謝して・・・
という方向にもってきて
かなりうまくまとめ、そして今にいたる。

信者のおおくは もとが労働者、
学がないといったらあれだが
みんな純朴だし、働き者ぞろいだ。
共同体のなかでルールを守って
ふつうにやっていれば
信者はまず困らない。
それなりの年齢になれば
教団公認の合コンから結婚相談から
ぬかりなくめんどうをみてくれるし
そんなこんなで一般信者たちは
だいたいまあまあ満足して
楽しくやっている。

だけど、
当局にとってみれば
ひのもと救霊会の隆盛は
無視できるものではなかった。
ついいましがた述べたように
教団の主たる信者は 労働者だ。
30年弱の活動のなかで
いろいろな属性をもつ信者が
(意識高い系の青年たちとか)
集まるようになってきているが、
行徳まさから仁二郎に
トップがうつりかわるころあたりに
集団入信したまずしい部落の人びとや
最初期からついてきている農民などが
信者全体のかなりの割をしめていることは
たしかなのだ。

それに
考えてみれば かつて国家があれほど
警戒した共産主義のありかたと
救霊会のそれはすごくよく似ている。
というか同じといってもいいかもしれない。
教団のブレーン中村鉄男が
こんなことを言ってる。
「・・・ 
ひのもと救霊会の信仰と運動には、
国体という型に虚構化される以前の、
信仰が同時に労働であり、
信仰の改変が直ちに(ただちに)
生産関係のありかたの改変につらなる、
本来の神ながらの道が存在する
・・・」
(上巻・306ページ)

それから、こんなことも述べられている。
「何が必要か? 結論は簡単だった。
無理な工業化政策をとる必要のない<平和>。
そして農村の、他の何ものにも指導されない自治
そして労働者や中産層組織との、
互いに犯しあうことなき自由連合
農民が労働者を指導する必要はないごとく、
労働者が農民を指導すべきいわれもない」
(上巻・374ページ)

革命を担うのはプロレタリアート
わたしたちなのだ!
いまこそ立ち上がり
権利を勝ち取ろう、という
あのかんじ。
救霊会が自発的に
共産主義を体現する団体で
あろうとしているのか
作中ではそのへん
スタンスが微妙、というかんじなのだが、
帝大でおしえていた立場をすてて
教団の顧問となった社会学者、中村鉄男は 
救霊会は政治団体や利害共同体でなく
「宗教団体」だ、とわかったうえで
しかもその教団のありかたに期待し、
自分ですすんで参加したと、
はっきり言ってる(上巻・302ページ)。

専門的なことは
よくわからないんだけど、
たぶん ひのもと救霊会の置かれた
この時代は
どんな人たちであろうと
「完全に無視」というわけには
いかなかったのだとおもう
このころの日本が 
社会思想史の断層のようなところに
あったことに。
それにもっと 簡単にいえば
宗教で人をひっぱるなら 
その宗教に説得力がなくちゃいけない。
宗教家は その時代 その時代において
人びとが何を求めているのか
どうしてほしいのにそれがかなわないのか を
見抜く力がないと 成功できないだろう。
ひのもと救霊会の時代には
人びとが心のどこかで
世界の変革のときを 待っていたんじゃないかな。
それは宗教で人をひっぱる当人たちも同じで
だから やはり勉強したのであろうし、
その学びをベースに、みずからの教えを
強化・展開していったんだとおもう。
救霊会が
共産主義的であるとしたら
それは自然の帰結なのでは。

狙ってなのか素なのか謎ではあるが
いずれにしても
国体をおびやかす思想を
おびているように見える救霊会を
当局は危険視するようになり、
あの手この手で
彼らをきびしく弾圧する。

物語は、
昭和初期から終戦まもないころまでの
30年弱のあいだの、教団を見つめていく。
組織が大きくなるにつれどうしても
幹部どうしがぶつかりあう。
教団の枢要をになうとおもわれたような
カリスマが死亡するなどの事件により
組織のバイオリズムみたいなものが
変調をきたす。
そして当局のしめつけは、
年をおうごとにきつくなる。

教団内部のいざこざ「内憂」
そしてライバル教団や当局との闘争「外患」
これらがいっしょくたになって
教団に挫折と廃滅をもたらすまでをたどる。
邪宗門」全篇をつらぬく
いちばん太い軸は 
ひのもと救霊会興亡史、
それと考えて
まちがいないとおもう。

・・・

次回 ひのもと救霊会の中枢に
もっと深くはいっていって
メインキャストを紹介したりなんかして
未読のかたへの招待状はおわりにしたい。