わたしは 子ども時代に 誰一人としてわたしとまともに向き合おうとしてくれた大人がいなかったこと、大人が誰も わたしの話を聞こうとしてくれなかったことを とても哀しいとおもってる。たぶん、そのことを不当だと感じてて、恨んでる。
叔父も父親も母親も、思えばまだ若かった。両親の離婚問題や経済的な問題があって大人たちはみんな余裕がなかった。
それはわかってる。そして、わかってるということにも、うんざりしている。
叔父も父親も母親も、誰もわたしと向き合おうとしてくれなかった。そのことを恨んでる。でも、恨む気持ちが湧くたびに、かならず「でもあの人たちも大変だったのだ 悪意があってわざと話を聞こうとしなかったというわけじゃない」という考えもあわせて わいてくることについて心底うんざりしている。
なんのために、誰のために、そんなにまじめに「でも大人もいろいろ大変だったのだ」なんて思おうとしてるのかとおもう。
ほとんど自動的に、そういう考えがわいてくるのだ。恨んじゃいけない、憎んじゃいけないと おもっているからかもしれない。
でも わたしはそうやって理解しようとし、受け入れようと努め、苦しんできたのに 父親や母親のほうは、一度として わたしと向き合おうと努力してはくれなかった。
「俺たちは大変だけど、でも子どもに罪はなく、子どもはもっと傷ついているのだから 子どもたちの話を聞こう、寄り添おう」とは一度もしてくれなかった。わたしと向き合う努力をしてくれなかった。
あの人たちは、わたしが何も感じてなかったとでもおもっている。わたしが「何かを考えている」とは、いまでも、夢にも思っていないに違いない。
わたしはそれがすごくイヤだ。