Twitterで、父親のことについて書いている人がいて、それを読んだら自分の父親のこともすこし思い出した。とは言え父親との思い出はとても少ないから その決まりきったわずかな在庫のいくつかを取り出してちょっと眺めてみるのが精一杯だ。しかもどんどん、思い出は薄れていく。
でも、濃い思い出がありすぎるのにもう戻れない、とかいう、切なさがないのはかえって良いのかなと思う。はじめから希薄ならさびしくなることもない。
はじめから希薄である、ということを与えてくれたことが、父親がわたしにしてくれたことなのかもしれない。
人生のさびしい部分をあらかじめ軽くしてくれた、ということか。