BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

相模原の事件の初公判-200108。

植松聖被告が、初公判でおかしな言動をしたので休廷になり、
以降は被告人不在の状態で公判が進められた、ということだ。

 

被告人が、変なことをしたらしいことを、
わたしはそれほどおかしいと思わない。
人を殺したことがないし
刑事裁判の被告人になったことがないし
法廷に立ったこともないわたしは
そういう時に起こる気持ちの変化や、
そういう時に自分が何を考えるかや、
自分に何が起こるかなどは、まったくわからない。
なんとなくわかるのは
人を殺した、
それも何人も、
逮捕された、
悪いと思ってない、
起訴された、
高い確率で死刑になることが考えられる、
裁判、
・・・これら全部ただごとじゃない、ということだけだ。
このうちのたったひとつであっても
ひとりの人間が自力で背負える
精神的な負荷の強さの限界を
かるく超えるできごとだとわたしは思う。
だから植松被告が法廷で何をしたのであろうと、
まあ、ものすごいストレス環境だろうから、
そんなこともあるんだろうな、と納得してしまう。

植松被告の気持ちの背景を
わたしができるかぎりで想像するとすれば
思いつくのは
自分がしたことは正しかったと思っているけど、
死刑になる、つまり死ぬことはやはり避けたいので、
ダメでもともと、心神耗弱や心神喪失による無罪を狙って、
精神を病んでいるふりでもしようかなと考えた、とか
単純に本人さえも想像しなかった
強い精神的ストレスにさらされて、
あんなことするつもりじゃなかったんだけど
御乱心しちゃったとか、本当にその程度のことだ。
だが その程度のことでも、
言葉で言うのはたやすいが、だ。
死刑になるかもしれないことが怖い、とか
精神を病んでいるふりをしてみようかなとか
そんな気持ちって、
実際にその気持ちになるように迫られて
体験しないでは、どれほどのものかわからない。
死刑になりたくないとか考える必要に迫られる立場を、
体験してみないことには。

可能性としてはあまりないかもしれないが
もしかしたら、植松被告は、
自分のしたことの意味やその重大さ深刻さを
理解しはじめたのかもしれない。
最初はわかっていなかったのに。
これは もし本当にそうだとしたら、
つらいと思う。
事実を受け止めたり 態度を改めたりすることは
人にとって、とても難しいことだと思うからだ。
もしそのために、初公判の場で取り乱したならば、
いや、それでじゃなくても、
植松被告は植松被告地獄を
すでにちゃんと味わっているんじゃないだろうか。
本人がたとえ平気でも、これは地獄だ。
わたしは彼がまったくわからない。
誰もがそうだろう。
わかってもらえない。
同じ人がいない。
誰にも関知してもらえない所にひとりぼっちで彼はいる。
多分本当にその状態がこの先死ぬまで続くんだろう。
狂った方が、よほど楽なくらいだと思う。

どういうことが、人の罪の償いなのかな。

ぶざまで愚かで人に馬鹿にされ、
自分がしたことの意味がわからず、
何を考えているのか相手にわかるように
自分で話すことができない人は、
社会にとって害悪であるから、
早めに正しく死ぬのが社会のため、
植松聖はそう主張したのではなかったか。
それはいま植松聖自身にかえってきていることになる。
彼は、要らないやつだから死ね、と
言われかねない状況になっている。
イヤだ死にたくないと言ってもだめなものはだめなのだ。
国が決める正しい死なんだから。

犯罪と障害とはもちろんまったく別のものだが
だが、要らないって、なんなんだろうな。

お前は社会の害悪、要らない、死ね。と
言われてもしかたないことを植松聖はしたのだ。
だがそれでも、そのうえで、だからこそ、なんとしても、
植松聖の命を奪わない道を
わたしたちは選ぶ必要があるんじゃないかと
思えてならない。

その先にしかない何かが、あるような気がする。