BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

今後どのように生きていこうか問題の暫定的な結論。-180216。

自分に期待をすることをやめたい。
手持ちの能力と、
そのときどきの意欲の程度に応じて
やれることだけをやっていきたい。

過去のどこかの段階では、
あるいはもう少し
違うことを考えてたかも。
しかし、
いまの自分の状態において、
腹の底をさらってみるに、

わたしには、これといって
将来への展望や夢、希望がない。
ではなんなのか。
今まではなんだったのか。
あたかも、そういうのが
あるかのようにふるまい
自分でも、あると 
思ってたふしがあったではないか。

記憶にある限り、
わたしの行動原理の根底には
「怒られたくない」
「母の、意に沿わないことをして
怒鳴られたくない。
がっかりした顔をされたくない」
「母に非難されるのが怖い」
しかなかった。

行動の理由を尋ねられると、
だからいつも困った。
「それをやりたいのはなぜか」
「それをやって、先々どうしたいのか」
聞かれると困った。
その答えは基本的には
なかったから。
ぜんぜんなかったとまで
言うつもりはないが、
原則わたしは
「これをしたら(母は)がっかりする」
「これを言ったら(母は)怒る」
そうはなりたくない、
それだけは回避しよう。
・・・
ただそれだけで
行動や思考を選んできた。
説明を求められたとき
「怒られるのが怖くて」とも
言えないので
聞かれると、だから困った。
とくに当の母に聞かれると困った。

わたしの母は、
母子家庭であることを理由に子どもに
なにかをあきらめさせたくない、
という気持ち、
または
「あの家は母子家庭だから」
うんぬんと
周りに言わせたくない
という気持ちが
非常に強かった・・・
とおもわれる。
※あくまでもわたしが勝手に
心のなかに像をむすんできた、
母の姿にすぎない。
母がじっさいにこう思っていたかは
知らない。※
わたしはわたしで、母に、
その要求どおりの
しっかりした子としての自分を
見せなくてはならないと 
思ってきたところがあった。
聡明で 確固たる展望と思考のもと
きらめく瞳で夢に向かって生きる少女。
常に何者かでなければならない、
何者かになろうとして
努力している人間でなければ
生きることをゆるされない。
そんなふうに 感じてきた。

もっとも、母親をうらんだり 
だんじて してない。
なにしろ ここまでで述べた
「母」像は 
100%わたしの心のなかの虚像で
じっさいの母の思考の軌跡は
「わからない」が正解なのだ。

でも、すてきに前向きな
輝く少女であることは
じっさいには難しかった。
わたしのように
身体的にひ弱な子どもは
ここ、というときに
がんばりがきかなかったりもした。
なにも 実現できなかった。
いつも
怒られたくない
がっかりさせたくない
非難されたくないと
無意識に?考えて、
勝手に緊張し
勝手に焦燥にかられ 
勝手に腐ってた、
そんな日々だった。

なにもかも、
やりたくもなんともないのに
ムリをしてやってきたとか、
そこまで言うつもりはないが。
思考はもろかった。
しっかりは考えてなかった。
怒られるのが怖かっただけ。
くりかえすようだが、
だからいつも
行動の理由を聞かれるとよわった。
いいかっこうをして、うそをつく。
まずいことに
うそでも、口にするとなんとなく
ほんとうの自分の気持ちのような
気がすることもあるものだ。
結果
自分で自分を振り回す。
それがこれまでのわたしだった。

今後、どうしたいか。
ひとつだけ
はっきり言えることがある。
二度と、同じことを繰り返したくない。
わかっているのは、
「何かがやりたい」じゃない。
「これだけはしたくない」だ。
一見 消極的だけれど、
わたしにとって
これはほとんど唯一の
頼りとなっていくだろう。
これからずっと。

ただ、そうはいっても
ちょっとは頑張って考えてみる。
今後どうするかについて。
いかにしてやっていくかについて。

技能、性向
といったようなものに関して
自分がいまできることを 
ちょっと整理してみた。
履歴書には書けないことばかりだが(^^)
結果、
・速く、多く、本が読める。
・難解な内容の理論や他人の思考を
 文字情報をとおしさえすれば、
 かなりのところまで理解できる。
・そこそこ整った文章が書ける。
・他人の文章のどこをどうすれば
 より読みやすくできるか、
 考えることができる。
・本を作る手順を知っている。
・あるものごとを、
 やりたいかやりたくないかが
 明確に判断できる。
・あるものごとをやりたくないとき、
 やりたくないと言える。
・生命の危機に直面したとき、
 そこから逃げることができる。
・自分よりもはるかに
 自分を理解してくれる
 友人にめぐまれている。
・自分よりもはるかに
 聡明な友人にめぐまれている。
・味方のふりをして
 自分への加害を計画するような人が、
 周囲にいない。
・人の道に大きくはずれないように
 教育されており、
 ある程度 社会的に生きられる。
・こだわりがないとまでは言わないが、
 あってもそれほど強くはない。
・求められれば、最善を尽くせる。

この程度のものだ。

「絶対にこれをやりたい、
これをやるために
自分はこの世に生まれてきた」
などというものはない。
あるわけがない。
手持ちが これしかない。
自分の力はごくちいさい。
他人のやさしさに頼ってしか
生きられないことが明白だ。
生きていくのは大変だ。
使命感をもって生きる
そんなカッコイイ人生は望めない。
今後もない。
なぜ自分はそうであれるはずなどと
そうでなくてはならないなどと
思えていたのか。
ムリなのに。
ほぼ無力。

しかし、だからといって
絶望はしてない。
無力を悲観して自殺するつもりはない。
普通に生きて、死んでいければ
それでよいという考えだ。
夢とか希望とかがないけれど、
自分なりにまじめに 
すこしでも建設的なことをして
命を燃やしつくして、普通に死にたい。

では
どうやっていくか。

わたしが愛する友人や
信用できる人たちの判断に 
わたしをゆだねたい。
わたしという存在の
適切な使い道を考えるとき
自分の判断よりも、
信頼できる周囲の人びとのそれを
優先する。

極寒の雪山に放り出されれば
30分以内には死ぬ自信があるが
安全で、できるだけ学術的な・・・
なにかそういう場所でなら、
力を発揮する可能性が 
わたしにはいくらかある。
そうした環境なら、
なけなしの能力も 
役立てることができるので
世界の役に少しは立っている・・・
というのが大げさなら
この世に生きて
世界とかかわっている
そんな実感をえられるかもしれない。
生きていてよかったと 
たまには思えるかもしれないのだ。

しかしながら わたしは
「自分はこれだ!」と
道を自力で決めることがどうやらドヘタ。
世の中には、
生きるうえでのセンスが鋭敏な人がいるが
わたしはそれじゃない。
とらわれすぎて、うそをいいすぎて、
自分が見えなくなっている。
しかも世界は複雑すぎる。
無数の可能性と、
可能性のふりをしているものが
あふれかえり、判断できない。

だが、さいわい、
わたしの周囲には
才智ある友人、
わたしに関心をいだき、
わたしを見てくれている友人が多い。
とるにたりない他人のために 
人生の時間をついやして
一緒に悩んでくれる友人、
そんな人たちが、どういうわけか
おおぜい与えられている。

ものの数にもならなくても
生きていていいと思いたい。

周囲が勧めてくれること、
わたしの力を求めてくれること、
それをこそ積極的にやりたい。
やりたくない、
やるくらいなら死んだ方がまし、
人の道に反している、
それならわたしは判断できるので、
問題がない。

「それとこれと何の関係があるの」と
言われそうな雑多なことどもに、
いろいろ取り組むことになりそうだが、
それでいい。
つじつまが合わなくていい。
結果、損しているよと言われてもいい。
愛する人たちがわたしを見込んでくれた
という経緯がある限り、
あるいは
わたしと一緒にトライしよう
そういう気持ちで
声をかけてくれたのである限り、
基本的に、かまわない。
そのくらいでいこうとおもってる。

おびえた気持ちに
支配されるのだけはいやだ。
それを続けていると
「自分がわからない」という
さらなる不安と恐怖に
さいなまれることになる。

おおもとはそれではないのか。
わたしの欺瞞、わたしのうそ、
わたしのムリの
おおもとはそこではないか。

なんてばかばかしいのだろう。
だれも、わたしに
こんな思いをさせる
つもりじゃなかったろうに。
勝手にわたしが忖度し、
勝手にわたしが
わたしを縛ってきたのだ。
それだけはもういやだ。

自分の使い道の決定を
みんなにゆだねたい。
使ってもらう、
活かしてもらう以上は、
役に立つべく、研鑽に努める。
このままの自分を受け入れてほしい
・・・なんてのは
この場合、怠慢だ。
能力がもう伸びないなどと決めつけない。
知識 見識を深める努力を続ける。

いろいろなことにトライし、
心を動くのを感じ、
友だちを作っていくうちに
うまくすれば
自分という人間の輪郭が
明瞭になるかも。
今よりも少しだけ
自分で自分の使い道を 
正確に考えることができるかも。
しかし、期待するのはよくない。

わたしは、
この程度の人間だ。
これ以上でも以下でもない。
これがわたしだ。
はっきり宣言する。
わたしは自分の判断を信用しない。
自分よりもまわりの人たちの厚意と
わたしに寄せられる関心を信じる。
不利益をこうむろうとかまわない。
判断は人にゆだねるけど、
それに応えたことを悔やまない。
結果的になにがあっても 
選択の責任、行為の結果の責任は
わたしが負う。

もし周りの人に
わたしがもうちょっと
「それっぽく」て、
もうちょっと「何かができる」
優秀な?人に
見えているとすると
(見えているらしいのだが)
ほんとに・・・理解に苦しむ。

努力して身に着けたものなんて
自分で求めて伸ばした力なんて、ない。
がっかりさせたくない、
非難されたくないという
きもちの影響をうけることなく 
ただ自分がしたいからした、
そんな努力の経験はない。
一般的な教育を受け
社会において30年あまりも 
もまれたならば
だれだってこれくらいの個性は持つ。
その意味で、わたしの場合は、こうなった。
というほどのことにすぎない。
それっぽい人間に
見えるかどうかは知らないが、
関係ない。

でも、これまでと
ほんの少し違うことが でてきた。
いまは むやみに絶望してない。
自分がはずかしくない。
こんなふうにおもえたことは 
記憶にあるかぎり
一度だってなかった。

願わくはこの本心を、
わたしはいつか
自分の母に話したい。

「人倫にもとることはしない。
自分でかかさず納税をする。
自殺はしない。
普通に生きて、死ぬことを約束する。
それでいいよと言ってほしい」

そう話したい。
でも、いまや、話せるときが
一生こなかったとしても、
しょうがないかなとも思う。
認めてほしいけれど、
親は別の人間なので。
ほかならぬこのわたしが、
自分で自分を受け入れられれば
それでいい。

・・・

考えを表現するために
わたしはこのエントリを
もちろんできるだけ 
適切とおもわれる
言葉を選びながら書いた。
これを読んでいる人に 
意図したニュアンスが
伝わればいいな、と願う。
けど、おもいどおりには
伝わっていなかったことが
仮にあとでわかっても、
かまわない。
わたし自身はなにもかわらない。
わかってほしいと 自分がおもえば、
改めて説明を試みることは 
あるかもしれないけど。