BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『8 1/2』-190331。

原題:Otto e Mezzo
フェデリコ・フェリーニ監督
1963年、イタリア・フランス合作

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短大1年のころに、映像芸術概論という一般教養科目で 
本作を観たときは、ついていけなかった。
なにをやってるんだか、さっぱりわからなかった。
ゼロだった。たしか、寝ちゃった。

大学3年のころ学校の図書館でDVDで観たときは
先に『甘い生活』『道』などのフェリーニ作品を
何本か観ていたので、
監督一流の なにかこう・・・文法みたいなものが
多少わかってきていて、短大のときよりはちょっと
「つかめた」と感じたことを、記憶している。
スランプにおちいった有名映画監督の苦悩。
彼をとりまく女性たち。
じつのところ脚本なんて1文字も書けてないのに
みんなに期待され追いまくられて、もういまさら、
脚本書けてないんです、と言い出すことができず
どうしていいかわからない・・・
精神にやや異状をきたしはじめる監督。
まあそんなことなんだろうなと、その程度にはわかった。
ようするに筋を理解しただけだ(笑)
だがやっぱり、なにをやってるんだか
ほとんどわからなかった。

その後 本作のミュージカル映画化作品
『NINE』を観た。
ロブ・マーシャル監督、2010年)

movie.walkerplus.com


何回も何回も映画館に観に行ったことを覚えている。

そして今日、『8  1/2』が、めちゃくちゃにおもしろかった。
『NINE』を観ておいたおかげだ。観ててよかった。
すごく良くまとめられていたんだなあ、NINE。

なんだこの映画。なんて混乱しているんだろう。
ワーグナーロッシーニと「8 1/2のテーマ」の
リレー演奏みたいなBGMは、いったいなんなのだ。
ワーグナーロッシーニを同じ場所に並べて出すなんて。
牛乳を飲みながら寿司を食べるみたいな
けったくそわるい音楽が、どうしてこんなにも
座り良く、映画のなかに存在しているのだろう。
なんておしゃべりな映画なんだろう。
なんて音声と口が合ってないんだろう。
なのにどうして受容できてしまうんだろう。
あれだけ誰もがべらべらと良くしゃべってるのに
なぜ誰の心も少しも通じ合っていないのだろう。
なぜ心は通じ合わないのだろう。
グイドの孤独がわたしの心につきささる。

映画でこれほど多くのことを語れるものなのか・・・
饒舌なのに語りすぎてはいない。

知ったからこそ理解できるようになったシーンの、
多いこと多いこと。
わたしは自分がここまでただ漫然と生きてきたという
そのことを、すごく自賛したくなった。
とりあえず生きてきて良かった。
この映画がわかるようになったんだから。

個人の幻想の映像化が実写でこれほどまでに可能なのか。
VFXとかなかったのに。
スゴイ。

こういうのがあるから
映画を観ることはやめられない。

わたし、大学時代に観たときは
グイドは自殺しちゃったんだなと理解していた。
だけど、今日観て、自殺はしなかったと考え直した。
死は再生への序曲でもある。

終盤でようやく 彼の絶対不可触の女神、
クラウディアとの再会がかなったことが
救済のきざしだったとわたしは思う。

クラウディアは救済のしるしだった、
これはまちがいないと信じている。
グイドにはなにか独特の女神信仰というか、
女性性への畏怖と希求がつねにあるらしく、
ローマ枢機卿との会見がかなったとき
迷える男を導くしるしがどうこう・・・、などといった
自身の願望がこもったプロットを枢機卿に披露していた。

「あなたの言いたいことがわかったわ。
 わたしの役はないのね」
(≒わたしがあなたにできることは何もないのね)
クラウディアに見破られたことは
救済の機会の破棄だったのだろうか。
わたしはむしろ 女神の前であのように素直に
「そうなんだ、役はない。映画もない。何もないんだ」
(≒君にこそ救われたかったのにそれがかなわない)
そう告白したことが、
グイドの救済への第一歩だったように思える。

出資者がグイドに無断で大規模な制作発表記者会見を
企画してしまうという絶体絶命のピンチが到来するが、
あれはいわば「再生」という「はじまり」を待つための
「おわりのはじまり」、だったんじゃないかなと。

だからやっぱりグイドは自殺したんじゃない、と
今は確信する。