BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

沢村貞子『老いの道づれ 二人で歩いた五十年』-191218。

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大橋恭彦が、妻・沢村貞子についていたという
「ウソ」のエピソードが良かった。
ウソをついていた理由の所に泣けた。
(68ページ『たった一つのウソ』)

・・・

※映画の撮影終了後に監督や役者仲間と食事に行くのに、
 その誘いをいつも断っていた沢村貞子
 付き合いが悪いと、次の仕事がもらえないよと人に言われて
「でも、私は、それでもいいと思っていました。
 あなた一人がいてくれれば、
 それで満足でしたから・・・」
(106ページ『テレビと五社協定』)

・・・

沢村貞子はセリフ覚えが良く、NGをめったに出さなかった。
 そんなにたくさんのセリフをなぜ全部覚えてくるの、と聞かれて
「早く、仕事をすまして、早く、おうちへ帰りたいからよ」
「女優業は、何時か、やめるだろうけれど、
 私たちの夫婦生活は、ずっとつづけるのだから、
  その方を大切にしなければ・・・」
(110ページ『テレビと五社協定』)

・・・

※大橋恭彦の遺稿。
 「(略)今日のこのおだやかなひととき、ひとときの延長線は、
 彼女の言うように、間もなく断ち切られてしまう。
 どちらが先に、この住みなれた坂上にある古ぼけたこの住居から、
 すぐ近くに煙突の見える火葬場へ一人だけで送り出されるのか、
 なんの予測も立たない。しかし、二人のうちの一人が、
 生きる張り合いを失い、泣きながら
 『永い間、お世話になりました。ありがとう。さよなら』
 を言わなければならない。その日は二人がどうもがいても、
 叫んでも避けられはしない。
 そして、その葬送の日のたった一つの心の寄りどころは
 『来世』という想像もつかない虚空の一点で、今日と同じ笑顔で、
 今日と同じやさしい眼で、今日と同じ見なれた着物を着て
 待っていてくれる人がいることを、信じるほかはないのだ」
(183~184ページ『別れの言葉』)

これを読んだ時、『人生論ノート』(三木清)を思い出した。
「執着する何ものもないといった虚無の心では
 人間はなかなか死ねないのではないか。
 執着するものがあるから死に切れないということは、
 執着するものがあるから死ねるということである。
 深く執着するものがある者は、
 死後自分の帰ってゆくべきところをもっている。
 それだから死に対する準備というのは、
 どこまでも執着するものを作るということである。
 私に真に愛するものがあるなら、
 そのことが私の永生を約束する」

・・・

※夫の遺稿を読んだ沢村貞子の感想。
「私は若いとき、
 『いっしょうけんめい働いている人たちが、
 みんなしあわせになるように・・・』
 と、せいいっぱい、いろんなことをしたけれど
 ・・・結局、何にもできませんでした。
 でも、一人だけ、しあわせにすることができたのですよね、
 あなた、一人だけ・・・。嬉しいわ、お閻魔さまに、
 そう言わなけりゃあ・・・」
(186ページ『別れの言葉』)

中学生くらいの時に観た、何かのテレビ番組で、
沢村貞子が、まったく同じことを話していた。
沢村は、先輩女優の杉村春子
こんなことを言われたそうだ。
「役者は片手間にできるものではないので、
   家庭のあるあなたが、
   役者として中途半端なのは当然です」。
杉村春子も既婚者だったことを思えば、
自分を棚にあげて厳しいことを言っているようだが、
杉村は家庭の都合で仕事を休んだり断ったりせず、
夫が臨終の床に伏していた時にも、
自分自身が重い膵臓ガンにかかった時にも、
事情を伏せて舞台に立ったと言われるほど、
人生を芝居に懸けた人だった。
だが、沢村は、自他ともに認める家庭第一の人。
大きな仕事の話がきても
2日以上の遠方ロケがあるとわかると、断っていた。
家を空けると、夫の夕飯を作れないからだ。
その姿勢は、周囲をあきれさせたほど頑なだったと聞いている。
杉村が言ったのは、その点だったんだろう。
沢村は、このようにぴしゃりと言われたことを回想しつつ、
「あたしは、演技を通してたくさんの人を励ましたいと
 思って、頑張ったこともあったけど、結局は
 人のため社会のため役立つことはできなかったわ。
 でも、人生でたった一人、夫のことだけは
 幸せにできたのよね。それは、あたしの誇りだわ」。
「たった一人」と言う時、
右手の人差し指を立てて、笑顔を浮かべていた。
※ちなみに、杉村春子に、
「役者は片手間でできるものではない」
 という意味のことを言われた女優は、
 沢村貞子以外にもいたらしい。
 わたしが知る限りでは、中村メイコとか。

・・・

大橋恭彦が雑誌『暮しの手帖』で15年間担当した
テレビ番組の批評コーナー『テレビ注文帖』の
原稿が いくつか本書で紹介されていた。
山田太一のテレビドラマシリーズに寄せた批評だ。
正直、これを果たして批評と言うもんだろうかと
思った所もあった。
(大橋にこのコーナーをまかせた編集長は
「批評をしてください」と言ったというから
 オーダーは「批評」だったようなのだ)
本人の「好き嫌い」「良い悪い」がまずないことには、
どんな批評も感想も書きようがないことは確かだ。
だが、それにしても大橋の文は主観的かつ感覚的にすぎ、
何かを論ずるにしても論拠というものがなかった。
放送回のあらすじを長々と紹介しているだけの所も多かった。
でも、大橋が山田太一のドラマに共感していたことと、
共感していた「理由」は、良く理解できた。
大橋はとても心が優しく、不器用な人だったので、
心優しく不器用な人を見つめる山田太一のドラマが
好きだったんだと思う。
それははっきりと感じられた。
山田太一のドラマで
身体障害のある人たちの青春を描くものがあったことを
大橋の文章を読んで、初めて知った。
当時としては思い切った試みだったのでは。
そのドラマでは、障害のある青年が、両親に
ある頼みごとをした思い出をふりかえるという
場面があったらしい。
障害者で、きっとこの先、彼女なんてできないし
結婚も望めないだろう。
だけど人生で1回だけでも、女の子と寝てみたい。
だからトルコ(ソープランド)に行かせてくれと。
それを聞いて父親は
「行ってこい、チップなんかケチるんじゃねえぞ」
と大金を渡し、母親も息子を温かく送り出す。だが、
結局「車いすお断り」で、お店に入ることさえできない。
青年は、親にはとても言えなくて、
「楽しかったよ」とウソの報告をする・・・
本書で沢村貞子の回想を読むことを通して、
彼女の夫の人柄がわたしにも伝わっていたから、
大橋恭彦が、こうしたシーンに心を寄せたのが
わかる気がした。
チャリティーの24時間番組の特別ドラマみたいだ、
偽善的で感傷的なエピソードだ・・・とか
わたしなんかは性根がひねくれているから
そんなことを思う。
でも、
こうした物語にただひたむきに思いをいたした
ピュアな感性の批評家がいたことを知れたのは
良かったなとわたしは思っている。
大橋恭彦がこの批評を書いたのは
還暦も過ぎたころだったはずなのだ。
大橋はもしかしたらテレビでこのシーンを
鑑賞しながら、感情移入して
涙ぐんでいたんじゃないかな、とか思う。

・・・

「『映画芸術』顛末記」の章は
現代の視点で読むと、本当に興味深かった。
大橋恭彦が手がけた雑誌『映画芸術』と彼の会社が
若手社員の煽動によって乗っ取られた事件が
妻・沢村貞子の視点でつづられている。
わたしは大橋に心から同情したが、
若手たちの気持ちも理解できた。
(だが若手の言い草、やりくちはひどい)
大橋恭彦という人は、いくつになっても
ピュアで世間知らずで理想主義者で、
善良な男だったみたいだけど、
経営者としては確かに、認識が甘く、
まずいことをした部分が多々あった。

ともかく当時はまだまだ、いろいろゆるかったのだろう。

・・・

最後になるが沢村貞子の言葉遣いや文体にはひかれた。
彼女は原稿を書くと必ず、評論家だった夫に読ませて
意見を聞いていたらしい。
夫は辛口で、ダメなときには
書き直しなさい、ボツにしなさい、と厳しかったそうだ。
でも、どこがどう悪いとか、こう直せとか
具体的なことは決して言わなかったとのこと。
そのわけを沢村が尋ねたところ、大橋は言った。
文章は、書いたその人自身をあらわすものであり、
他人の手が少しでも入れば、他人のものになってしまう。
そういうことは決してあってはならない。
ヘタでも何でも、絶対に自分で書かなくてはいけない、と。
沢村の文章はそれによって鍛えられていったんだろう。
自分の頭で一生懸命に文章を練るのと同時に、
こう書いたらだんなさまは何と言うかしら、
だんなさまだったらこういう時どう書くかしら、と
人の立場で見直す視点も、養われたはずだからだ。
ちょっとした言葉選びに東京の下町育ちの彼女らしさ、
素朴で鷹揚な所があり、情が深く、でも、
スキっとしてムダがない・・・
そんな感じがはっきりと出ていて、
とても魅力的な文章だ。
「・・・」「_」が多いのにはちょっと閉口だけど。