BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

目黒区の幼児虐待死によせる-190918。

わたしも、前の職場でパワーハラスメントにあっていた時、やめてほしくても「やめてください」とは一度も言えなかったし、どう考えても実現不可能な進行スケジュールに 「不可能ですよ殺す気ですか」と疑義を呈することもできなかった。わたしもできなかったしみんなもできなかった。怖かったからなあ。それに、あれがあたりまえの環境だった。あの時の自分のことを振り返る際、どんなヤバイ環境にも人はすぐに慣れてしまうんだな、と思う。「人」じゃなくて、お前個人の問題だろという声も、自分の中に聞こえないわけじゃないが、わたしは自分の「助けて、やめて、と言えなかった時」の感覚が、他のみんなとそんなに大きくズレてるとは、今や考えない。医療の専門家の力も借りてきたし、NPO法人労働組合の人たちにも協力してもらってきた。その人たちから手を取るように噛んで含めるようにしてひとつひとつ、教わってきたのだ。自分がおかしかったわけじゃないと。慣れてしまう、と先ほど述べたが、それは、そのヤバイ環境が好きになるわけではなくて、闘うよりは適応したほうが、生き延びることができる、と間違った判断をしてしまうということなんだと思う。適応してしまった方がむしろ危険なのに適応しようとすること、考えることをやめてしまうことが、自分の肉体と精神を崩壊の危機から守るための反応だとすれば、それは人間としてじゃなく、生き物としてのことだ。「できなかった」からといって、倫理でうんぬんしても始まらない。自分の子が虐待されて死にかけているのをなぜ身を呈して止めなかったのか、おまえはそれでも親か、は、倫理だ。人間は危機や恐怖にさらされると、判断力を失い、あたりまえのことができなくなるのだ、と科学でしっかりと理解した上で、じゃあ、家庭において保護者がそういう状態になっててまともに機能しない場合に、それでも少なくとも、小さい子が死なないですむようにするにはどうするか、だとおもう。倫理道徳や勇気なんかとは関係なく、いわば自動的に発動する救出機能をつくる道を探るべきではないのか。ただしそれでも死者はたぶん出る。傷つけてしまったらもちろん相応の罰を受けなくてはならない。