BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

いま-191024。

大学生の時に買ったTシャツを着ている。
高校生の時に買ったマウンテンパーカを着ている。
足がきれいに見えるとかいうことは全然ない、
ラクなだけの、夏物感たっぷりの薄い色のジーンズをはいている。
東新宿で働いていた頃、職場の近くの検診センターで行われた
定期健康診断に行ったら、無料で配られていたので、もらって帰り、
以来そのまま使っている、白地のくつしたをはいている。
コンビニ行くときや散歩用にとGUで買ったスリッポンをはいている。
髪の毛は、クシでとかしただけ。
化粧はせず、日焼け止めさえつけていない。
イヤリングもネックレスもブレスレットも腕時計もつけてない。
スマートフォンの充電は、現在4%だ。
メガネのレンズは、拭いておらず、汚れている。
マスクを2枚重ねにしてつけている。
そんなかんじの風体で近所をうろついてたどりついた
ファミリーレストランで、
まぐろのたたき丼という、ご飯の夕ご飯を食べている。
ご飯の夕ご飯を自発的に食すのはとても久しぶりだ。
それは、ひどいゼンソクにさんざん苦しめられたにもかかわらず
健康の証明である生理が今月もごていねいなことに始まって、
そのせいなのか何なのか、とてもご飯が食べたかったからだが、
そんなことはどうでも良いとして、まぐろのたたき丼を食べながら
アンナ・カヴァンの「アサイラム・ピース」を読んでいる。
「読むとむこう5日間くらいはご飯がまずくなる短編小説集W杯」
が、もしあればベスト16には毎回必ずや食い込むことを確信できるうえに
レストランではコールドプレイの・・・曲名を忘れてしまったが
アメリカのスーパーボウルのいつだったかのハーフタイムショーで
ビヨンセブルーノ・マーズと一緒に出たとき、コールドプレイが
歌っていた曲の、チェロによる「クラシックっぽ」劣化編曲版が流されていて
おかげでちゃんと、ご飯はおいしくないわけなのだが、
良く考えてみるに、ファミリーレストランの まぐろのたたき丼とは
こういう味のはずだと、わたしは最初から思っていて、その意味では
まぎれもなく、これを待っていたのであり
その期待が根底から覆されるほどまずくなったようには感じない。
というかまずいものだと期待して注文した割には
おいしかったというくらいなのかもしれない。
思ったとおり、寸分たがわぬまぐろのたたき丼だ。

目の涙腺のところを指で触ってたしかめたら、
ギリギリ、目やにとかはついていなかったから
良かった。くらいのものだ。
わたしの戦闘力は今、とても低い。

まぐろのたたき丼は食べおえた。
先述のごときやる気ゼロの風体で
ファミリーレストランの店内でボケーっと座り、
いろいろ(くだらないことも含め)考えながら
過ごしている。

特定の人に特定のことを伝えたいと考えている。
わたしにそれを言われて相手はおそらく喜ばない。
気持ちを害してしまうかもしれない。
どう話せばできるだけ気を悪くさせることなく
わたしの気持ちを理解してもらえるかなと
思案したりもしている。

人間関係に不安や問題を抱えている時、
わたしは必ず、
「友だちがストーカー被害に遭っている」
という悪夢を見る。
わたしがではなく、わたしの実在の友だちが、
わたしの夢の中で、ストーカーにつきまとわれて、
命の危険にもさらされている。
人間関係で悩むと決まってこの夢を見る。
友だちを困らせるストーカーの顔を
夢なのにわたしはハッキリと覚えている。
友だちは男性だ。
ストーカーも男性だ。
惚れたはれたの悶着ではなく
ストーカーは、わたしの友だちにアイデアを盗まれたと考えて
恨んでいて、友だちをつけまわしている。
わたしと友だちが親しいのを知っていて
わたしに、友だちと会わせろとしつこく言ってくる。
俺が会いたがっているとあいつに伝えろと言ってくる。
会って話をつけたいからと。
でも、会わせたら何をするかわからないので、
わたしはいつも、返事をはぐらかしている。
友だちが住んでいる街の最寄り駅を
ストーカーはすでに把握しており、
いつも張り込んで、友だちが姿を現すのを待っている。
わたしは、友だちがストーカーとはちあわすことがないか
心配している。

わたしは目下、人間関係に不安と問題をかかえている。
だからうっかり寝るとこの夢を見る。
つらい夜になる。






回復へと

ゼンソク。

日ごとに少しずつマシになる。

またもや生きる。  

 

昼間は動くことができる。

一昨日と昨日は、外出した。 

 

少しずつマシになる。 

 

夜はセキがずいぶん出る。

 

落ち着いて寝られる時間はごく短い。

 

夜中にSuperflyの音楽を

聴いたら 涙がでた。

 

不断かつ膨大なインプット。

心が揺れるのに任すこと。

揺れないことを恐れる。

体が暴れるのにかまけるあまり

大事なそれらを忘れそうになった。

いや 忘れてもいいんじゃないか

今くらいはと、

思いたくなった、苦しすぎて。

本当は苦しさのなかからし

生まれない。

 

ビースターズってアニメは

なかなかおもしろい。

原作マンガ まだ読んでなく

アニメをまず観た。

 

粗いけれども。

・・・

様子がおかしいアニメだ。

何をやろうとしている物語なのかを

わからせる気があるのかないのか

わからない このやり方は

アニメだからなのか。

つまりエピソードを

原作と違う順番に

シャッフルするなどして。

なんなんだこれは、と

わからないけど ひかれる。

映像が美しい。

優美なようで昏い。

言葉少なだが峻烈。

どこかしら泉鏡花をおもわせる。

 

アンナ・カヴァンを読んでいる。

 

星野源のエッセイを読んでいる。

星野源はおもしろい。

 

日本の皇室ゴシップは

陰険だ。

 

人は卑しく小さくて

そんなにたいしたものではない。

 

「天気の子」は

これからは我々はもっと

自分ファーストで生きて良いのだと

呼びかけている物語だと

とらえることもできるとの

意見をきいて

なるほど そういうみかたも

できるものかと おもった。

その人は

今ここに スイッチが1つあり

それを押せば

おのれの畢生の大望が叶うが

しかしそれとひきかえに

世界のどこかの国が1つ

まるごと滅ぶ というとき

自分は間違いなく迷わず

スイッチを押す、と言った。

わたしは押さない。

と そのときはおもったが

わたしの畢生の大望

世界の恒久的な平和

であるとき。

それとひきかえに

世界のどこかの国が1つ

けしとぶのか。

そんな酷いことのうえに

世界の平和が

はたして成り立つのだろうか。

世界の恒久的な平和とは

人間がこの世から永久に

姿を消すことかもしれない。

誰が決めるのか。

スイッチを作った者の正体は。

 

その人は

「ジョーカー(アーサー)」が

あまりにみじめでかわいそうで

身につまされて共感して

あの映画を観たあと何日か

浮上できなかったと言った。

わたしはアーサーを

かわいそうだとおもいはしたが

浮上がむずかしくなるほどの

共感を覚えはしなかった。

 

どこまでが

アーサーの幻想であったのか。

 

人に本当の気持ちを 

伝えるのは難しい。

 

 

わたしは そんなに

物欲しげな

乞食にでも見えるのだろうか。

 

余剰人員にすぎないわたしが

愛を求めようとすることについて。

 

誰もが忙しい。

映画の感想-『ロリータ』-191009。

原題:Lolita
スタンリー・キューブリック監督
1962年、米

f:id:york8188:20200422192727j:plain

www.youtube.com

 

これから先、何回も思い出して観たくなりそうだな~。

わたしは、キューブリック監督の映画が
そんなにすっごく好きというわけではない気がするが
でも、無視はできない。
遺作『アイズ・ワイド・シャット』はたしか
学校をサボって観に行った覚えがある。
あの人の映画は、どこか、アンバランスで、
うまくいえないが、病んでいるような感じ。
安定感に欠けるような気がするわけだ。
でも、まさにそこにこそ ひかれることがある。

『ロリータ』は
個人的に好きな所と、
あんまり好きじゃない(物足りない?)所があり、
わたしのなかでは、
それなりの作品だ、としか言いようがない。
それなりに好きで、それなりにどうでも良い。
ナボコフの原作も、
問題作で、かつ傑作であることを認めるが
でも個人的にはたいして趣味ではない。

このキューブリック版『ロリータ』、
原作の読み込み、本質のつかみ具合という点では
さすがだなと思う。
あの小説はすごく重層的で、多次元的だ。
そのことをほんの少しでも 
わかるように表現できているかどうかが
映像化においては大切なことのように思える。
99年版のロリータは、きれいではあったけど、
単純なラブストーリーにまとまっちゃっていた。
あの原作で、
どうしたらあんなに単純なラブストーリーに
まとめることができたのかが逆に謎だった。

自分がロリータに愛されていない、ということを
ハンバートはちゃんと理解していた。
ロリータは、ハンバートを愛しているかと言われれば
多分愛してなかったが、
でも、生きるために義父が必要だったので
割り切って彼を愛しているフリをしていたのだ
と言われると 本当にそれだけとも言い切れない。
そのへんの複雑な所を
62年版は一生懸命、出そうとしている。

99年版は1回観たらもう良いかな、って感じだ。
実際、ずいぶん前に一度観たきり、もう観てない。
62年版は多分今後 何度も観る。
それだけおもしろいからって意味じゃないつもりだが、
なんか、繰り返し、ダラダラと観たくなる映画だ。

少女ロリータは
わたしはスー・リオンで全然良い。OKだ。
カワイイ。演技がとてもうまい。

ロリータがもう戻ってこないという
現実を思い知ってわんわん泣きつつも
大金を残して彼女の元を去るハンバートを
観ると正直グッとくる(62年版)。
彼があの金を作るために事前に粛々と行った
作業の数々を想像すると泣ける。
大人なんだよな、この男は、って思う。

ヘイズ未亡人のうっとうしさ、痛々しさは
シェリー・ウィンタースの方が
99年版のメラニー・グリフィスよりも
うまくやっているような気がする。
「前の夫に『セニョーラ』って呼ばれたわ」
と話しながらフラメンコダンサー気取りで
指をパチンと鳴らすシーンは
観ててゾッとするくらいイタイ。
見た目も非常にイタイ。
もうあの時すでにハンバートに惚れているよな。

あと、62年版のオープニングと音楽が好き。

映画の感想-『奇跡の丘』『スパルタカス』-191008。


このまえ、パゾリーニ
『奇跡の丘』観た。

原題:Ⅱ Vangelo secondo Matteo
英題:The Gospel According to St. Matthew
ピエル・パオロ・パゾリーニ監督
1964年、イタリア

f:id:york8188:20200422194355j:plain

www.youtube.com


何年かおきに観てる。
みんな、じっと、わたしを見つめてくる。
ペテロが3回「知らない」と言ってしまって泣く所と
イスカリオテのユダ自死を遂げる所、たまらん。
死に向かって一直線に駆け抜けるあのスピード感。
正直、退屈な映画だと思うこともあるんだけど、
こうしてみんなに、じっと見つめられて、
ペテロが泣く所とユダが死ぬ所を観た時、いつも
やっぱり退屈な映画なんかじゃないんじゃないかな、
と、心がゆれる。




スパルタカス』(1960)も観た。

原題:Spartacus
スタンリー・キューブリック監督
1960年、米

f:id:york8188:20200422195239j:plain

www.youtube.com


初めて観た。大作。
馬がいっぱい出てくるのが良い。
だが奴隷のスパルタカス馬術を身につけていることが
冷静に考えると解せない気もする。
祖父も父もみんな奴隷で、貧しく、働きどおしで、
まともな教育を受けられなかったはずなのに。
歴史上のスパルタカスのルーツはトラキアにあるそうで
確かトラキア人はトロイア戦争への参戦経験もある
騎馬民族、と聞いたことがあるが、だからと言って
トラキア人だったら誰でも馬に乗れたか、というと
そんなはずはないとわたしは思う。
貧しければ、馬を持つこともできなかったはずだ。
奴隷だったら、主人の家の馬の世話を任されることは
あっただろうが、勝手に乗り回せたわけじゃないだろう。
あと操馬を覚えるとしたら軍の騎馬隊に入る
・・・とかいった方法が考えられそうだが
もしスパルタカスの祖父や父が戦争に行ったことがあっても
貧しい家の出の雑兵では、
騎馬隊なんて、夢のまた夢じゃないのか。
ちょっと良くわかんない・・・。
スパルタカスが馬に乗ってたことが
何か、解せなかった。

キューブリック監督自身は、この映画の出来を
ちっとも気に入ってなかったそうだ。
製作で主演も務めたカーク・ダグラス
あれこれ口を出され、良いようにされたのが
イヤだった、というような話を聞いた。
キューブリックはこの一件でほとほと凝りて、
自分専用のスタジオをイギリスに開設し、
全部自分のやりたいようにやれる環境を確立したとか。
でも、キューブリック監督本人の気持ちはどうあれ、
スパルタカス』は、映画としては
まったく問題なくおもしろい。
全然、悪くない。

まあ、かなり長いけど。
それから、冗長でもあるのだが。
でも、そこが、わたしはかえって好きだ。

いわゆるジェットコースター展開とは程遠いおかげで、
あんまりドキドキせずに観ていられる。

スパルタカスとヴァリニアが
再会する所が気に入った。
ふたりは剣闘士養成所で出会って恋仲となった。
だがヴァリニアが、クラッサス将軍に気に入られ
ローマに送られることになってしまった。
しかし、スパルタカスが養成所の仲間たちとともに
一斉蜂起したのをきっかけに
ヴァリニアも逃亡を図り、スパルタカスと合流する。
「馬車から飛び降りたとき、
 奴隷商人が太っちょだから走れなくて、
 わたしをつかまえられなかったの」
そう彼女が話すのでスパルタカス吹き出し
涙が出るほどふたりで大笑いする。

クラッサスと、若き詩人タイアタスの
浴場の場面も嫌いじゃない。
クラッサスがタイアタスに寄せる
一方的な同性愛感情をほのめかしているんだろう。
ヌラっとした、思わせぶりな雰囲気が、悪くない。
ああいう雰囲気はもう今の映画では出せないと思う。
「カキも良いが、カタツムリも良い」(笑)。
クラッサス、みごとなまでに嫌われたな~。

スパルタカスとタイアタスの関係には
なかなか不思議なものがあると思う。
スパルタカスは 
「俺自身はとうとうできなかったけれども
 本当は俺も、こういう人生を送れたら良かった」
・・・という人生を まさに歩んできたタイアタスを
自身の「影」のように思っていたのかもしれない。
いや、
タイアタスを「光」、自分は「影」と 
とらえていた、と考えるのが妥当だろうか。
タイアタスは、スパルタカスが夢見る未来の象徴だった。
奴隷なんて制度はもちろんくそくらえなのであるし、
戦争なんか、しないですむなら、
誰にとってもその方が良いのだ。
人が自由を求めて命を賭けて闘うなんて、
本当はおかしいことなのだから。
詩人は詩を作って歌うべきだ。それこそが平和というもの。
スパルタカスは、タイアタスが
「武器を取って俺も闘いたいんです」
と意気込むのを聞いて、
二度と、誰にもこんなことを言わせてはいけないと、
思ったのだろう。
そして、自分の使命は
「詩人が詩を作って生きていける世界」を築くために
この命を大地に捧げることだ、と考えたのでは。
それだからこそスパルタカスは、タイアタスに
自分よりも一秒でも長く生きて欲しかった。
ふたりは、お互いを刑死させたくなくて必死に殺し合ったが、
勝ったのはスパルタカスだった。
※勝った方が磔の刑、という
 ルール設定はなんかおかしい気もするが(笑)
とても切ない。

クラッサス役のローレンス・オリヴィエ
さすがの名演。品がある。
彼の立ち姿を見るだけで、気圧される。
ムカツク貴公子感を、本当に良く出していた。
顔がまずムカツク(笑)。

クラッサスの心の動き、
彼がスパルタカスにとにかく執着するその理由を
もうちょっとネチネチと細かく描いて欲しかった。
今のままでも、わからないことはないのだが。

佐藤しのぶさん-191003。

ソプラノの佐藤しのぶさんが亡くなった・・・

まだ61歳

つい数年前に「夕鶴」を聴きに行った。

佐藤しのぶさんの歌を生で聴いてみたくて行ったのだ。

素晴らしかった。

あのときも体調悪かったのかな。

やすらかに。

傾向(と対策)-191001。

以前の職場のことにまつわる悪夢やフラッシュバック
家族との関係や過去に関する悪夢が
あらわれやすくなるのは
孤独感が強まっているときだ
ということに今朝きづいた。

傾向が少し見えてきたようだ。
あんまりよくわからないでいたけど
これで少しは対処のしようもある。
こんどの診療の際に 話してみる価値はあるだろう。

孤独は まぎらすばかりでなく
ときにはちゃんと向き合った方が良いと
思っているんだけど
今は そうも言っていられないんだと思う。

夢の中で、壁を素手で殴りつけたり
刃物で板やテーブルみたいなものを
何度も突いて穴を開けたり
叩き破ったりしている。
それから、いつも、何かを力の限り
叫ぼうとしているが
声を出すことができない。

全身の水分が出ちゃうんじゃないかというくらい
涙がでる。

起きているのか、寝ているのか、
自分でわからない。
夢の中でやっているつもりのことでも
本当にやってしまっているのかもしれない。
覚醒したとき、肉体はクタクタだ。
手の届く所にカッターナイフなどの
剣呑なものを置かないように用心してはいる。

フラッシュバックについて
相対化することは困難。

悪夢からもフラッシュバックからも
いつか、救われるときが、
きてほしいなと願ってやまない。
でも、こなくてもしかたがない。

救済に値しない。
それだけのことをして、今ここにいるわけだ。
もはや、罰なんじゃないかなと思う。
でも、間違ったことをしたわけじゃないと信じている。
選んだ道を正解にしていくしかないから、
間違ったとは考えない。
信じることをやって、でも結果こうなった。
受け入れるよりないんじゃないかなと思う。