BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

眠れるBGMで眠れない-190902。

「よく眠れる睡眠用長時間BGM」のたぐい。
YouTubeなんかに、いっぱい上がってる。
これまでに、ずいぶん試した。
だが、だめだ。

「さっきの『ピチャン』から、
 この『ザザ〜』までで1ターンで、
 ×175回繰り返しで終了か」
とか

「このカリンバの音はさっき聞こえたのと響き方が違うが、
 録音した場所が違うのかそれとも楽器が違うのか」
とか考えてしまったり、

ピアノが、人間がちゃんと弾いてるやつだったりすると、
鍵盤に指が当たるかすかな音や
鍵盤を押し込んだ時にメカニズムが動くゴトン、
という音が聞き分けられてしまう時まであったりして、

とにもかくにも神経がなんかイガイガしてきて到底休まらない。

あの手のやつに頼っても
自分の場合にはあまりいいことがない。

映画の感想-『ロケットマン』-190901。

原題:Rocketman
デクスター・フレッチャー監督
2019年、英・米

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www.youtube.com


映画としてはそんなにおもしろくなかったような気がした。

今のままでも、まったく理解できないということはないのだが、
エルトンの心模様を、もうすこしきめ細かく追ってくれても
良かったかな。

生育環境の機能不全や、父親との関係の問題も、
描き切れてなかったと感じた。
どうも、両親も祖母も、それぞれに何か事情があったらしい。
なんといっても自分自身の寂しさや、愛されたいという欲求、
愛したいんだけどうまく愛せない悩みに対応するのに精一杯で
幼いエルトンに、愛情を注ぐ余裕がなかったようだった。
親も完璧ではないから、しょうがない部分もあったんだろう。
だが、愛されていると十分に感じられなかった、という体験は
エルトンの心に「傷」として深々と刻まれてしまった。
大人になっても、その傷に起因する、暴力的なまでの孤独感や
劣等コンプレックスを、かかえたまま生きざるをえなくなった。
愛が得られない家庭で育った。・・・これは、
エルトン・ジョンの半生をつづる映画としては
とても重要なエピソードだと思う。
でも、描き切っている、とは言えなかった。
家族の構成員それぞれが抱えている寂しいきもちを
数十秒の歌でさらっと説明してハイおしまい、って演出は
あまりにザツだった。
ミュージカルで表現するのにぴったりのシーンなんて
他にいくらでもあった。
母親役のブライス・ダラス・ハワードとか、
優秀な役者さんも揃っていた。
ここは、ミュージカルじゃなく、
ストレートなドラマで表現してほしかった。


だが、
おのれの才能の下僕として生きることを宿命づけられた
人なのだろうな、ということは、
観ていてとみに感じた。
エルトン・ジョンを知るうえで
多分これも大事なことではあった。
才能のしもべとしてのエルトン・ジョン
これはストーリーテリングの手法などとは関係なく、
物語をいろどるエルトン・ジョンの名曲の数々が
もう、説明不要の感じでぐいぐいと
わたしに訴えてきたことだった。
本人がどうしたいとか こうでありたいとかじゃなく、
本人の魂が宿命に耐えうる強さを備えていなくても、関係ない。
爆発する才能そのものが主体なのであり、
自分と言う存在は、「才能」さまのための乗り物。
そういう人って、この世に、まれに現れるものだ。
モーツアルトとかミケランジェロとか
そうだったんじゃないかなと思うし、
他にも何人かはそういう人がいたと思うし、いると思う。

多くの場合そうした人は
才能の源泉と、深刻な心の傷とが、
他人には理解できない次元で
わかちがたく結びついてしまっている。

もし、エルトンに、
「音楽の神から見放されることと引き換えに、
 人生を一からやり直せるとしたら、
 その権利が欲しいと思うか」
と尋ねたら、彼は何と答えるだろう。

今こそ人生最低最悪の時、ってシーンでも、
彼が奏でる音はあまりにも美しい。
ひとたび鍵盤に指をふれれば、
ピアノの方がすすんで歌い出す。
無残にもすさみきった実生活とのギャップ。
歌わなくては生きられない人なのだ。

「お前を生んでどれだけ失望させられたことか」。
泣きたいのはこっちの方よ、とでも言いたげに
眼のまわりを真っ赤にして訴える母親の姿が
わたし自身の母親に似ていた。

何であろうと、父親とのことが
エルトンには一番こたえるようだった。
子どものように口をひんまげて
泣くもんか、怒るもんかと耐える姿が
本当にみじめで、いじらしかった。

半生において、実にいろいろと、
やらかしまくったらしい。
修復不可能なまでに壊してしまった人間関係も
たくさんあるみたいだった。
心も体もダメにしてきたことがよくわかった。
自分を恥じてきたことも、理解できた。
でも、たったひとりでも
心がしっかりとつながった友人がいる。
彼の人生は完全に正解だとわたしは思う。

主演のタロン・エガートンは、うまくやりきっていた。
正直そんなに男前ではないし、
華のある役者ともわたしは思わない。
しっかりと場に溶け込み、時には場に埋没し、
周りと影響し合うことで、結果として
良いものを生み出す、という感じの
役者なんじゃないかなと思う。
同性の相手とのラブシーンとか、難しそうなことも
思い切ってやっていて、素晴らしかった。
この人がいなければ形にならなかった映画だったと思う。

映画の感想-『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』-190901。

原題:Once Upon a Time in Hollywood
クエンティン・タランティーノ監督、脚本
2019年、英・米

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www.youtube.com


レオとブラピが湯水のごとく濫用されるさまを楽しむ映画。

タランティーノ監督の映画ってなんなんだろう。
いつも、すごい長い。ダラダラしてる。
内容が薄い。無意味に凝ってるシーンが多い。
何が起こるのかなってつい期待してしまうんだけど、
ほとんどの場合、何も起こらなくて、えーーー!!!ってなる。
正直何やってんだかよくわかんないところがいっぱいある。
バイオレンスの描写は、目をそむけてしまうほど烈しい。
女をバカにしてるだろアンタ、って感じがするときが多い。
タランティーノ監督の映画には、ぱっと思いつくだけでも
これだけいろいろ、うわ~、ってなる所がある。
でも、新作が発表されるとやっぱり観ようかなという気になる。
時間をムダ遣いしてる感じがしまくるんだけど、
それが少しもイヤじゃない。
なんか観ちゃう、としか言いようがない。
本当に、なんか観ちゃう。
4時間、5時間でも平気だと思う。

シャロン・テート殺害事件は、この映画の背骨と言って良い。
だが、それ以上のなにものでもない。
しかも、事件のことなんか、あらかじめ知ってるくらいでは、
自慢にもならない。
もっともっといろんな、知ってると楽しい、
往年のハリウッド映画界にまつわる小ネタのたぐいが、
たくさん織り込まれた映画だったんだろう。

正直言うとわたしには多分そのうちの

1パーセントも拾えてない(笑)。


エンディングの、タバコのフェイクCMおもしろかった。
席を立たないで最後まで観ましょう。

スティーブ・マックイーン役の人、よく似てたな~。

うーん。なんだかもう1回観たい。
もう1回 時間をドブに捨ててきたい(笑)。

不眠の夜に-190901。

眠れないなあ。

 

お医者に「眠くなるまでベッドに入るな。眠くならない限り起きていろ」と言われている。

 

座ってるとおしりも肩も痛くなるから4時になっても眠れないとやはりベッド。  

 

まだ眠れない。

 

ひとつ、うれしいことが起こりかけた。

久しぶりにステージで楽器を演奏する

機会が得られそうになった。

ステージで発表することは苦手だ。

緊張するし、発表は大っ嫌いだ。

金輪際 人前では演奏したくないと

思っているくらいなんだけど

でも、楽器を練習することは大好きだ。

いま、オーバーホールに出している。

楽器が戻ってきたら、

基礎練習を再開したい。

その練習を深夜から早朝の

カラオケショップでやりたい。

そしたら夜がつらくない。

体も疲れるだろうし

すこしは眠れるかもしれない。

それを続けていこうとおもう。

 

記憶についての覚え書き-190829。

記憶にまつわる問題を抱えている。
具体的には、過去の事実の、重大な誤認である。

正確な(客観的な)データは、把握している。
それを繰り返し覚え込む努力をすることで、
記憶の上書きを試みてはいる。
でも、うまくいかない。
にせものの記憶を本物だと思い込んでいて
「昔こうだった」と、間違った内容を口走ってしまう。
話しているときには、それが間違った内容だということを
すっかり忘れてしまっている。
あとで、ふとしたときに正確な記憶の情報を思い出して
またやってしまった!と思ったり
前に聞いた話と違うよ、と周囲から指摘を受けて
またやってしまった!と思ったり・・・

またやってしまった!の繰り返しである。

以下に、その重大な誤認と 客観的事実について
覚え書きとして記しておきたい。
すぐ忘れてしまい 何が事実かわからなくなってしまうので。

ふたつある。

1:就学前のできごと
自分の記憶↓
就学前のこと、家族で茅ケ崎の海水浴場に遊びに行った。
そこで波にさらわれ、溺れかけた。
この体験から、水が怖くなり、
今にいたるまで1mたりとも泳ぐことができない。
家族で海に行ったのは後にも先にもその一度きり。

客観的事実↓
就学前のこと、家族で茅ケ崎の海水浴場に遊びに行った。
2歳下の弟が、一時、行方不明となり大騒ぎになった。
弟は、夕方遅くなって、無事に帰ってきた。
自分自身も、弟も、溺れた事実はない。
家族で海に行ったのは後にも先にもその一度きり。
水が怖く、1mも泳げないのは事実。
弟は水泳を含めスポーツ万能である。

叔父の見解↓
溺れたと言い張るたびに「誰も溺れていない」と教えてきた。
どこかおかしいのではということになり児童精神科も受診させた。
弟の捜索中、周囲の大人たちが「溺れたのかもしれないね」と
言っていた。それを聞くうちに、自分自身のこととして
記憶に取り込んでしまったのかもしれないというのが医師の話。
弟の行方不明という、異常事態にさらされたストレスか、
海水浴場で泡をふいて失神し、しばらく意識が戻らなかった。



2:父親の消息
自分の記憶↓
自分が13歳のときに両親が離婚した。
以来、父親とは、生きている間には一度も会っていない。
父親は自分が17歳のときに53歳で亡くなった。
叔父に「お父さんが亡くなった。お前だけでも
葬式にいってこい」と言われ、葬儀に出かけた。
父親の再婚相手となった女性と、あいさつをした。

客観的事実↓
自分が13歳のときに両親が離婚した。
以来、父親とは一度も会っていない。
父親は肝臓がんの罹患歴があるが、健在である。
両親が離婚の際に頼った弁護士などの力をかりて
自力で所在をつきとめた。
(最終的には協議離婚だったらしいが)
母親と離婚したとき父親は43歳だった。
現在父親は67歳か68歳。
わたしのアパートからそう遠くない所に住んでいる。
再婚し、子どもが2人いる。
わたしは父親の消息をつきとめたことをブログに書いている。
父親存命の事実を把握している自分のスタンスも、過去の記事からわかる。
読むと、これは自分が書いたものだともちろん確信するし
書いたこと自体も覚えているんだけど、
父は死んだ、と言うときの自分は、
そういうことが全部、わからなくなっているような気がする。

york8188.hatenablog.com

york8188.hatenablog.com



叔父の見解↓
葬儀に行ってこいと言ったことはない。


カウンセラーの見解↓
10代以降でも、大人でも、記憶の混乱は起こる。
その背景に重大な心の傷や心の病が隠れている場合も多いが
そういったものがなくても、記憶の混乱が起こることは
決してめずらしくない。
父との離別で受けたショックや恨みの感情が残っており
父がこの世にいないことにしたいという潜在的な思いから
亡くなった、という記憶を作り上げたのかもしれない。
似たような事情から、「元もと親など存在しない」という形に
記憶をすっかり作り変えてしまう子どもの例もある。

※前職の職場で受けたパワーハラスメントによる心の問題を
 解決するために、カウンセリングを受け始めた初期の頃、
 家族に関する思い出を話すことを求められた。
 わたしはそのとき「父は離婚後に亡くなった」と話したらしい。
 のちに「父親をずっと探していて、ついに見つけた」と
 報告したので、カウンセラーに「亡くなったのではなかったか」
 と指摘され、自分が変なことを言っていることに気づいた。
 このように、単純に情報という意味での矛盾が生じたことが、
 これまでにも何度もあったのかもしれないが、
 その記憶も、場合によってはごっそり抜け落ちている。
 混乱するから都合が悪いので、頭が記憶を抹消してしまうのか。
 ともかく、父親が健在であることと、自力で所在をつきとめたことを、
 すぐに忘れてしまい、父親は死んだとしきりに言い張る、
 これが父にまつわる記憶の取り扱いのデフォルトとなっている。
 でも、父親の所在を探し当てたことも、たまに思い出す。
 そのときは、父親を見つけた、と主張するし、
 その際には今度は、普段自分が「父親は死んだ」と言っていることを
 忘れてしまっている(のだと思う)。


葬儀に出て、父の再婚相手と会った記憶が
ビジュアルイメージとしてかなり鮮明に残っているのだが
父が死んだという記憶がにせものということになると
この葬儀の思い出がいったいどこから出てきたのか、謎だ。
変なことを言っていると自分でもよくわかるのではあるが、
でも、本当に何がなんだかわからないのだ。



これがわたしの、記憶にまつわる 
だいぶヤバイ問題の覚え書きである。

溺れたと思い込んでいるが実は溺れたことなんてなかった
・・・これは そんなに大したことでないような気がする。
でも、父親が死んだと言い張っているけれど実は生きていて
しかもそれを自分でもちゃんと知っているはずなのに忘れてしまう
・・・こちらは かなりヤバイ感じのことだと思う。
普通に、ヘンだし、あと、怖い(笑)。

わたしは、正確な情報の収集につとめている。
間違ったことを口走るけれどもウソを言っているつもりはない。
本当に溺れたことがあると思っているし、
本当に父親は死んだと思っている。
少なくともそう主張するそのときは、
それが本当だと、本当に思っているのだ。
だけど、事実は違うのだということも知っていて
あとでそっちの方を思い出すことがあり、
そのたびに
「またやってしまった!」。

頑張っているつもりなんだけど、やってしまう。
今後も
「海で溺れて、水が怖くなってしまった」
「父親は、母親と離婚したのちに死んだ」
そう話してしまうことがあると思う。
「離婚してから一回も会っていないけど、
 父親は生きている」
とも言うことがあるだろう。

特定の記憶がこのようにワヤワヤだからといって
それで他人に迷惑をかける、ということは
ないんじゃないかなとおもう。
他の、生活上のいろんなことの記憶については
幸いまだ認知症などの兆候もなく、
まったく問題はないのであるし。
だが、わたしの話すことを聞く人が、
「あれ、お父さん死んだって言ってなかったっけ」
「お父さんが見つかったってこの前ブログに書いてたのに」
と不思議に思う・・・そういうことは考えられる。
容易に起こりうる。

人との関わりという意味で
どうすればいいかなと、あれこれ思案してるんだけど
でも・・・なんか、
どうしようもない・・・って感じがする(笑)

できれば、ウソついてるなこいつ、って
思わないでほしいな・・・と願わずにはいられない。
でも、ウソついてるなって、思われてもしかたがない。
思われたら、あきらめるしかないと思う。
イヤ、ウソを言ったつもりはなくて、
実はこうこうで・・・などと説明を試みても
話が長くなるだけだし、それに、気味悪がられるだろう。

どうしようもない、って感じがする(笑)

記憶を正しいものに上書きする努力を
くりかえすしかないだろうと思う。

父のことについては、わたしのなかに
わだかまりがあるのだとすれば、
専門家の協力をえて、その解消を目指していく。

父とはうまくやっていたし 正直あんまり父のことで
わだかまりたくないんだがなあ・・・

メモ。-190829。

ものが言えない木や石や花やそういったものは、自分の美しさを認めてほしい、誰かに見てほしい、そのために人間を作った、そうリルケは考えたのね。宇宙は、自然という存在は、自分の美しさを誰かに見てもらいために人間を作ったんだというふうに考えたんだねえ。これは科学的根拠なんか何もない話で、学問的に考えると、とくに理科系の人は、そんなのは自然の目的論的解釈で、非科学的な哲学だというわけだね。でも哲学でけっこうなんだ。これは哲学なんだから。人間は、この全宇宙、全自然存在、そういうものを含めて、その美しさ、あるいはその崇高さというものに感動する。人間がいなけりゃ、美しく咲いている花も誰も美しいと見るものがいないじゃないか。だから自然が自分自身を認識して感動するために、人間を創り出したんだ。 そう思ったら、この世の中に存在意義がない人間なんか一人もいないわけ。全人間がこの生命を受けてきて、この宇宙の中で地球に旅人としてごく僅かの間、何十年か滞在する。その間、毎年毎年花は咲いてくれる、これはすごいことでありまして、たとえばうちの庭の梅の花も、多少時期は何十日か遅れることがあっても、必ず約束したように、毎年毎年咲いてくれます。そういうふうに毎年毎年花を見る、毎年毎年、ああ、暑かった、ああ、寒かったと言って一年を送る、それだけで人間の存在意義はあるんです。この社会に出て行って、立派な社会貢献をしたり、あるいは自分の才能を持って名前を輝かしたりしなくても、ごく平凡な人間として人生を終わって、それで生まれてきたかいは十分にあるわけです。

・・・渡辺京二