BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

居場所/古書店で本を買う/モレスキン-181221。

居場所を増やしていかなくちゃいけない。
可及的すみやかに移動する必要がある。
いずれにしても
このままやっていくことは難しい。
わたしがそこにいる、ただそれだけでも
当然のことながら周囲に影響がでる。
ほかの人の居心地をわるくしたり
動くにくくさせていることを感じるし
それを感じることは なんといっても
わたしにとって 苦しい。

いていいと 言われたからといって
それに甘えていてはいけないんだとおもう。

・・・

きょうは調子よかった。
5時間も寝てないけど、すっきり起きられて、
朝、熱いコーヒーをすすってから
家をでる きもちのよゆうがあった。
電車でも、気分わるくならなかった。
やはり外では油断は禁物で
しっかり両耳にイヤホンをつけて
ボリューム大で音楽かけとくほうが安心だ。
さいわいきょうは ずっと元気に仕事ができた。

・・・

近所のちいさな古書店で、
今月も本を買う。
カストロ氏(元キューバ大統領)の評伝と
キュリー夫人の次女エーヴ・キュリーさんによる
お母さんの評伝と(エーヴさんはすごく美人。)
柳田國男の著作と 
ヘンリー・ジェイムズの「鳩の翼」
あと、
米山義男という人の「宗教時代」
も、なんとなく おもしろそうだったので 買った。

白拍子や傀儡、遊女にかんする研究書もあって
読んでみたかったのだが
ざっと50年くらい前の本で
とても高価だった。
ケースに入ったハードカバーだった。
中身を取り出して 立ち読みしようとしたが
カタくて 中でちょっとひっかかってるのか
出せなかった。
読んでみたいなー
あわよくば欲しいんだが。
ご店主と 価格交渉できるくらい仲良くなれば
可能性があるかもしれない。

ガウディの建築の ポケットサイズの写真集があって
装丁と表紙のデザインが
すごくかっこよくて ひとめで ひかれたが・・・
来月まだ 残ってたら買うことにしたい。
ほかの人の目に触れにくいように 
奥のほうの書棚の陰の
まだ整理されてないらしい本の山に
そっと はさみこんどいた。
まえに都下の ある古書店でおなじことをやったら
1ヶ月誰にもみつからずに 
わたしを待っててくれた。

けど お店のご主人に、
わたしがあほなことをしていたのが
みられていたらしく、
あとで会計をするときに、
「ガウディ買ってくれるなら
買いたいときまで レジで預かっといてあげるよ」
と 言われたので お願いした笑
ほんの400円なのに すいません笑

・・・

 

来年分の手帳も入手した。
モレスキンの黒の ダイアリーノートを
断続的にここ9年くらい使っている。
手帳を必要としなかった時期もあったし
(スケジュールの管理に
携帯電話のカレンダー機能を使ってたり)
モレスキンじゃない手帳を
使ってた時期もあった。
とくに前の職場にいたときは
2年くらい 違うものを用いていた。
もっとカラフルで
かわいいイラストとかいっぱい入ってて
開くのが楽しみになるようなものを。
超絶過密スケジュールの現実を
受け止めることがイヤ、という
自分のよくないところを改めていこうと
考えたからだった。
(わたしは現実と未来について考えることを
あんまり好まない性格だとおもう。)
けっこう効果があった気がする。
仕事とプライベートとで
予定を色分けしたりとか。
今月はほんと
仕事ばっかりしてるよなとおもったら
ムリしてでも遊ぶ予定をねじこんだり
早く帰る日をつくったり。
(つくりたくとも不可能な場合も
多々あったが
やろうと努めることに
意義があったとおもいたい)
そんな紆余曲折をへて
けっきょくのところ
モレスキンに帰ってくる傾向がある。

モレスキンは ひとことでいうと
ああだこうだと話しかけてこない 
どこか高貴なつつましさ。そこが好きだ。
今日はこよみでいうところの何の日です!
大安!赤口立秋!クリスマス!とか言ってこない。
平日と土日祝の色分けさえない。
でも、粛々と 一種の矜持さえ感じるしずかさで
わたしが基本的に求める種類の 快適さを
提供してくれているとおもう。
勝手にわたしがそう感じてるだけだが。
やや犬寄りの性格のネコ、とでもいったらいいか。
いや だんだんわけわからなくなってきた

手ざわりがとにかく きもちがいい
紙がなんとなく書きやすい 紙の色もいい
味もそっけもないシンプルなつくり
のようにみせかけて 細部に気配りがなされている
何書いてもどう扱っても ぜんぜんいい
そんなかんじに たいへん 
なにかこう 自由?を感じる。
また、ただの罫線ノートの分量が
多めにとられている。どう使ってもいい。
わたしは 読んだ本のタイトルや感想
きもちや思考のかけらを書き込んで 
あとで見返し 展開してブログに書く、
といったことをやっている。

ちいさいし薄いし 荷物にもならないので
じゅうぶんだと感じる。
多少お値段は張るほうなのかもしれないが。
(わたしがいつも購入しているの、2500円くらい)

よさそうな手帳は世の中にいっぱいある
どれもすてきだ
世間では ほぼ日手帳が毎年 隆盛。
とってもかわいいし楽しそうだが
まず サイズがでかすぎる。
自分の場合はそれでアウトだ。
あの手帳が入るサイズの 
カバンを持ってない。

へたでよかったのに/ラジオが好き/私は風-181220。

あんまり
ほかの人のブログ読まない。
楽しみにしてるサイトとか
そういうのもあんまりない。

内田樹さんのブロゴスだけは読んでる。
これも自分で見つけ出したわけじゃなく
仲良くしているおねえさんにおしえてもらった。
今やすっかり内田樹さんの文章のファンだ。
内田さんの文章の構成をトレースして
自分の文章を書いてみようと
こころみたこともある。
ムリだった笑

ひとつだけ、ブックマークしてずっと
読んでいる、一般のかたのブログがある。
だが、さいきん・・・
こういうのもほんと、おかしな話なのだが・・・
そのかたのブログが「良くなってきて」、
かえって たいくつなものになった。

まえは、もっと、「良くなかった」。
訥々としてた。
人間らしいといえばいえるが
書くことすること考えること不器用で
しかも こちらがはずかしくなるほど
赤裸々だった。
はずかしがりやで
強いコンプレックスの 持ち主なのだが
そうかとおもうと急に
「それ書いちゃうの!??」って驚くようなことを
ちゅうちょなく書いてくる。
自分が書いていることがいかに
「一般的にはこういうこと書くのはみっともないと
され、書かれない」範囲のことであるか
ちっともわかってない。
「読む人に〇〇って思われるといけないから
これを書くのはやめよう」といったことが
まったくなかった。
そこがよかった。
みっともなさのなかに
妙な品があるのはふしぎだった。

すっごく好きだった。

でも最近、「うまくなってきた」。

こうするとブログがもっと読まれるようになります!
こういうタイトルだとアクセス数が増えます!
っていう小技がおそらくあって、それが
どこぞのブロガーのブログサイトとかで
紹介されてるんだろうけど
駆使しているかんじがすごくする。
しかも、「急に変えました」感が出ないように
計算して、うまく、すこしずつすこしずつ
変えてきているのがはっきりとわかる。
文章も、妙に巧みになった。
まえはもっと、ナチュラルにへただった。
文章は、わざとへたには書けないものだとおもう。

こういういいかたも どうかとはおもうのだが、
まるで別人のようだ。

なんでだ・・・
そういうの いらなかったのに・・・

最初は気のせいかとおもった。
でも、微妙な変化を感じてから 
さらに数日読み続けて
やはり自分の感じたとおりだ
という結論にたっした。

不器用だけれども人間らしかったとか
赤裸々で正直だったとか
はずかしがりやとかとかいろいろ書いたけど、
わたしが勝手にそう思い込んでただけで
さいしょからぜんぜん
そんな人じゃなかったのかもしれないな。

なんだろうこの気持ちは。
うーん。
ちがうんだよなー
読むのやめようかな・・・笑

・・・

TBSラジオを毎日聴いてる。
まえの職場でもどんなに聴いてたか。
1日じゅう流しっぱなしにしてた。
たまにやめて急にラフマニノフとか聴いてた笑
夜中になるともうオフィスにもほかの居室にも
だれもいなくなるから
おもいきってヘッドホンをはずして
大音量でベルリオーズとかサン・サーンスとかかけてた笑
テレビは観る機会があまりないかわりに
ラジオは聴くので
ラジオに出たことがあれば
人でも コトでもだいたいわかる。

つきなみだが
朝8時半から11時の
伊集院光とらじおと」(月曜~木曜)
11時からの
ジェーン・スーの生活は踊る」(月曜~金曜)
13時からの
「たまむすび」(月曜~金曜)
18時からの
「アフター6ジャンクション」(月曜~金曜)
22時からの
荻上チキのSession-22」(月曜~金曜)
深夜1時から3時の「JUNK」という帯の
伊集院光深夜の馬鹿力」(月曜)
爆笑問題カーボーイ」(火曜)
おぎやはぎのメガネびいき」(木曜)

それから
土曜日の久米宏さんの番組
竹下景子さんの司馬遼太郎作品の朗読番組
中嶋朋子さんの 文学作品の朗読番組
サンドウィッチマンの番組

日曜日の
爆笑問題の日曜サンデー
吉永小百合さんの番組
(単に吉永小百合さんの声が聴きたい)
※すべて TBSラジオ FM90.5/AM954

とかすごく好きだ。
ようするにずっと聴いてる。
たれながしだ。
いまは昼間は仕事だから
録音して1日遅れか2日遅れくらいで
夜からずっと聴いてる。
あんまり聴きたい番組がない土曜日・日曜日も
1日遅れくらいなら 聴くものにこまらない。

とくに深夜。
原則わたしはなかなか眠れないので
こういうのを聴いて
げらげら笑って過ごしている。

おぎやはぎさんの番組で、ずいぶんまえだが
クイズ王のなんとかさんと
おぎやはぎのふたりが、
早押しクイズで競うという企画があった。
それだけならまあ あってもおかしくないのだが
クイズの問題を読み上げる人が
ドランクドラゴン鈴木拓さん(泥酔状態)
だったので、
破滅的におもしろいことになっていた。
あのときはちょっと危険なほど笑った。
忘れることはできそうにない。
昨今はまあ、あの手この手で
過去の放送を聴くことも可能だ。
ご興味をおもちくださったかたは
ネット検索して 聴く機会をさぐってみていただきたい。

・・・

このまえ、青山にライブを聴きに行った。
3つのバンドが80分くらいずつ演奏した。
さいしょのバンドがやった曲のひとつが
なんかよかった。カバーだった。
そのバンドはずっと ピンクフロイドとか
海外のプログレのコピーを披露してたのだが
アンコールをうけて最後に
日本語の歌をやった。
歌詞とさびしいながらキャッチーなメロディが
すごく印象にのこった。
「あまりに悲しいことばかりで
 どこか遠くに旅に出ようと
 ポケットに思い出つめこみ
 ひとり汽車に乗ったの」・・・
カルメン・マキの「私は風」という曲のようだ。
歌詞がなにか寺山修司っぽい。
彼女はOZってバンドを やってたとおもうけど
わたしが聴いた演奏は
そのOZの曲のコピーだったのかなあ。
ミュージシャンに愛された曲らしくて
ものすごく多くのかたがカバーしているようなんだよね。

www.youtube.com

 

かっこいい!
わたしがライブで聴いたのはもっとテンポがゆっくりだった。
こんな難曲なら当然だろうね。
ベースすごくうまいなあ・・・
うまさの性質がなにかちょっと
レッド・ツェッペリン
ジョン・ポール・ジョーンズみたいだね。

くたくた。-181219。

寝屋川市の、中学1年生の男の子と女の子が
殺された事件で
被告人に死刑の地裁判決があったそうだ。

殺す気はなかった、という本人の主張は、
本心なのかもしれない、と わたしはおもってる。
控訴したという。
もうすこし深く事情を知りたい。

・・・

日曜日、新宿から飯田橋に行こうとして
総武線の階段を降りていたら、
階段をのぼってきたひとりの男性が
わたしとぶつかるのもかまわないというかんじで
真正面からつかつか迫ってきて、
立ち止まったかとおもうと
面と向かって わたしに
「ばか!!!」と言った涙。

あぜんとしたのと 
何か怖かったのと
先方がすぐに立ち去ってしまったのとで
なんのリアクションもできなかったが

なんで ばかって わたしは言われたのかなと。
それで状況をよくたしかめたところ、
自分が、階段の「のぼる」用のライン上を
おりていたことに気づいた。
原則 階段は左側通行の認識なので
左側の手すりに手をそえながら おりていたのだが
左側が のぼるラインだったのだ。
すいてたし、前を歩く人もいなかったし
ぜんっぜん考えてなかった。

あの人は ぼーっとした女に行く手をはばまれて
じゃまで むかついたんだろうな。

だが、ばかなんて言わなくたって、
ふつうに
そっちはのぼる人用だよと 
指摘してくれればよかったのに・・・

・・・

おととい、図書館に、かりていた本をかえすために
仕事のあと 実家がある街の駅までいった。
列をつくって改札をとおる順番をまっているとき、
わたしがもっていた おりたたみ傘の柄の部分が
まえにいた女性の、背中に触れた。
女性は 驚異的な大きな声で
「あぶない!!!」と叫んだ。
あぶないじゃないですか、何をするんですか!
痛いじゃない、何すんのよもう!
という 怒りのかんじを含む叫びでは、なかった。
痛い!とか熱い!とかみたいな、
苦痛を表現する本能的な叫びでもなかった。
たとえていうなら 
公園で おかあさんが
ママ友たちとのおしゃべりに夢中になって
ちょっと目をはなしたすきに
よちよち歩きの小さい子が
ゴーカート乗り場にでてしまい
路上をのこのこ歩いてて
そこに血気盛んな小5くらいの悪ガキが
ゴーカートで爆走、急接近
あと15メートルで すわ激突という場面
おっかさんはいまだ気づいてないが 
ママ友のひとりが たまたま目撃
あわてて
「あ、危ない!!!」と 叫ぶときの
あのとっさの「危ない!!!」だった。
叫んだ女性も
「思ったより大きい声でちゃった汗」って
思ったんじゃないかとおもう・・・
そのくらい 場違いであったし 声がでかかった。
わたしは間髪いれず「ごめんなさい」
と あやまった。
そのリズムのかんじがおもしろくて
ちょっと笑ってしまった。
でも 
あんなに大声出さなくてもいいのにとおもった。

・・・

きのう、仕事の帰りに、
職場がある街の中央図書館に行った。
まえから知っているが
実家近くの図書館を見慣れた目からすると
ほんとにでっかくて 広くて
天井が高くて開放的で
壁いっぱい、高い天井めいっぱいまで
本がぎっっっしり。
ひかえめにいっても 最高だ。
なんかちょっと外国の図書館みたいなかんじだ。
国立国会図書館も わたしが通った短大や大学の図書館も
実家がある街の図書館も みんなそれぞれに特長があり
わるくない。だが
わくわくするかんじがある、という点で
この中央図書館はかなり いい。
蔵書はたぶん 実家の近くの図書館の
140~150パーセントくらいもあるし、
書棚の配置や図書の分類法的にも
なんとなく、わくわくさせられるかんじがあるのだ。
しかも、たしか6階まであり とても広いのだが
たいへん分類がわかりやすくて 本が探しやすい。
いままで、困ったことは1回もない。
視聴覚ライブラリのメディアの品ぞろえもりっぱなものだ。

つい何冊も衝動借りしてしまう。
今回も。

内村鑑三とか 今さら 読んでどうするんだろう。

・・・

アパートの管理会社に確認したいことが数点あり
毎日電話をかけているんだけど
つながったためしがない。
混み合う時間帯にかけてしまっているのかなとおもって
朝とか昼とか夜とかいろいろと
時間をずらす工夫をしているんだけど かからないのだ。
公式サイトに 問い合わせ用フォームがあるのを
発見したので そっちに入力して、送り付けておいた。
わたしが問い合わせたいような内容のことは
問い合わせ用フォームの 要件ジャンル選択画面には ない。
そういう用事は直接電話でお問い合わせくださいとの
注意書きまであったが
こっちとしては 電話をかけても つながらないんだから
しかたがないとおもう。

・・・

今朝、
また体調を崩した。
自宅から職場のある駅までは
たった3駅なのだが
電車に乗ってほとんど30秒くらいで
気分が悪くなりギブアップ、途中下車した。
めまいと突発的・暴力的な頭痛からくる
つよい嘔吐感に2時間あまりくるしめられた
電車のなかで気分がわるくなったのは
音がとにかくすっごく気になったからだった。
電車のなかでというか、
電車に乗る前にはもう、
そういうふうになるための
コンディションができあがっていたんだろう。
ぜんぜん 自覚なかったけど。
まわりのかたの話し声とかが
ぜんぶ すごく近いところで聞こえて
自分のことをこそこそ悪口言っているように感じる。
電車の走る音などの機械音も 
獣かなんかの吠える声みたいで きもちがわるい。
人間の世界じゃない怖いところにいるような気がする。
なんなんだろう。
そういうの、なんで起こるのかな。

睡眠に難があることと
自分で思うよりも疲れているのであろうことが
いちばんおおきい気はする。

わたしは、こんなことが一生続くわけがないと
それだけはなぜか確信している。

年内にもし予約をとることができれば
カウンセリングを受けようかなとおもう。

けっこう ひどいめにあったなとおもってる。
わたしもわたしで 
神経が細すぎるのかもしれないけど
正直いってものすごく傷ついた。
ほとほとまいってる。
忘れることがむずかしい過去は
たくさんある。
苦しい。

ただ、いまや家に帰ってくれば
もうつらいことはぜったいにない。
涙が止まらなくなっても だれも見てない。
はずかしくもなんともない。
寝てても怒られないし
どばどば涙がでて 完全に危ない人にもかかわらず
平気で本とか読んでても 
べつにだれを驚かせるわけでもない。
部屋はとてもしずかだ。
すっごくちらかっているんだけど
気持ちがおちつく。

できれば だれかにそばにいてほしいと
おもわないこともない。
理解し、許し、そばにいてほしい。
でも、こんなめんどうくさいことに
わたしなんぞと一緒にいてくれようとするやさしい人を
巻き込むわけにはいかない。
やはり、どう考えても
巻き込んでいいのはプロだけだ。
プロならどんなに巻き込んだって
巻き込まれないでいてくれる。

深刻にかんがえることはない。
このことがなくたって
すでにして わたしの人生は周回遅れだ。
あわてる必要はない。
あせっていいことなんかひとつもない。
わたしはだめなままかもだけど
わたしの体がなくなっても
それで終わりとか無に還るとかいうわけではないらしいから
まだまだいつまででも望みはあるだろう。

なんだったっけな・・・ コリント人・・・
いやローマ人への手紙だったか
「艱難は忍耐を生み出し、
 忍耐は錬達を生み出し、
 錬達は希望を生み出す」

わたしは自分がされてつらかったことを
ひとには絶対しない。力でおさえつけない。
力ではなく
時間と忍耐力にものをいわせ
徹底的に相手と向き合う努力をする。
たとえへたでも 工夫と対話を怠らない。

<再掲>-映画の感想-『パーフェクト・ワールド』-181218。

前に、このブログだったか、
それとも他の場だったか忘れたが、
この映画のレビューを書いたことがあった。

またこの映画のことを考える機会があったので
前に書いたことを再考しながら、加筆してみる。

・・・

パーフェクト・ワールド
原題:A Perfect World 
クリント・イーストウッド監督
1993年、米

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www.youtube.com


※三代目JSBの岩田剛典さんと
杉咲花さんがでる
同名の映画とは関係ないです。
ここでお話しするのは
もっと何年もまえの映画のことです。


小学校高学年と、中学生のころ、
テレビで観たんだったかな。
その後もときどき観返している。

この映画の結末は、せつない。

さすがにもう大人なので
小学生のときみたいに
テーブルにつっぷしてしくしく泣いて
親に「だから観るなっていったのに!」
とか 無体なことをいわれたり
中学生の頃みたいに
泣きながら夢中で見入っていたせいで 
アイロンがけをしてた
制服のシャツをこがしたり・・・
は しない。

それでも ・・・わかっていても 
原っぱの別れのシーンには
心が激しく痛む。

こんなに むごい物語で、
いったいどこが
「Perfect World」なんだ!! 
ずっとそう思ってきた。

けれど、今日 
何度めかの鑑賞をおえて
「Perfect World」のほんとうの意味を
理解したようにおもう。

そもそもなのだが
外国語のタイトルを
自分で勝手にわかるかぎりで訳して
それで意味を理解した気になってると 
こういうことになる。
どんな言語にも、
奥深いなりたちや意味の積み重ねがある。
語学にくわしくなくても、せめて
そういう認識だけはうしなってはいけない。
貧弱で発展性のない想像だけで
ものをいうべきではないのだ。

英語の「Perfect」は、もともと
完全に・徹底的に 
みたいな意味のラテン語「per」と
つくる、を意味する
同じくラテン語facere」から
できた言葉みたいだ。
このとき気になる
構成要素は「つくる」だ。
「誰が」つくるのか。
ラテン語、英語が
ギリシャユダヤキリスト教文化と
切っても切れない関係にある
言葉であることを考えると
「神さまが」ということに
なるはずなのだ。

「Perfect World」は
神がつくりたもうたままの
(あるがままの)世界、
神の国、とでもいった
ニュアンスを必ずやふくむだろう。

神がつくりたもうたままの
(あるがままの)世界
どういうものだろう。それは、
わたしがまず直訳し
イメージするところの
「完璧な世界」、
かなしみも苦しみもない
しあわせな場所、
では かならずしもないと 
思われる。
人からすれば もちろん、 
苦痛や悲哀と無縁、
無条件に、誰もがいいおうちに住めて
いい服が着られて、
食べるものにも困らない。
ルックスや体形のことで
悩む必要もなく
自分がだいすきな人と
なんの心配もなく一緒に暮らせて、
病気もケガも、死も、
死への恐怖もない。
そんな世界がもしあれば、
理想だろう。

けれども、
宗教的なとらえかたでいえば、
神さまがおつくりになったままの姿の
世界とは、
それだけで至高にして絶対の
Perfect World なのだ。
神さま、というものが
ぴんとこない状態で
これについて考えるとき
注意しておくべきなのは
神さまの世界で起こることが
人にとって「都合のいい」ことばかりとは
かぎらない、ということだろう。
神の善が人の善とは
かぎらないということだ。

死、痛み、
愛を失うつらさ、
貧しさ、醜さ、
なぜ神さまが、それをあらかじめ 
とりのぞいた世界を
人に与えてくれなかったのかといえば
苦悩が、暗黒がないよりは、
あるべきだとお考えになったから、
としかいいようがないだろう。
まあ、でも、今
これをあんまりほりさげると
話がややこしくなるから
やめとこうかな。

では、神がつくりたもうた、
その意味でのよき世界、
のなかでも理想的な状態とは
具体的には 
どういうものなのだろう?
わたしはそれは、
お互いの立場や権利を
尊重しあい、やさしくしあう 
素朴で純粋な人間関係、
ではないかと。
すくなくともそこからし
神の世界が成熟していくことは
ありえない、といった
かんじではないだろうか。

タイトル「A Perfect World」は
脱獄犯のブッチと、
人質の少年フィリップが
行こうとして
ついにたどりつけなかった場所、
を指してはいない。
おそらく 
彼らがその手でつくりあげたもの。
つかのまではあったけれども 
ふたりのあいだで、
たしかに実感されたものだったのだ。

どういうことかというと、
ブッチは、
自分が一度も体験できなかった 
のびのびとした「子どもの時間」を
フィリップに与えてやろうとした。
狂信的な宗教者である母親のもと
きゅうくつで孤独な日々をおくる
フィリップは、
ブッチのさびしい心に共鳴した。
ふたりは、おたがいのさびしさを、
いたわりあうことで
癒やそうとした。

ふたりの関係は、
このふたりにしか 
わからない性質のものだ。
はたからみるとあまりに
危険であったため、
関係は断たれ、旅は終わった。
だけど、
そこには思いやりにみちた
やさしい関係が確実に生まれていた。
このふたりの心のつながりこそ、
神のつくりたもうた、に通じる純粋な
「Perfect World」
だったのではないか。

ブッチと彼の父の いわば約束の地
アラスカは、
「Perfect World」ではない。
あたかもそう解釈できそうだが、
おそらくちがう。
ブッチは、約束の地アラスカなんて、
ほんとはないと、わかっていた。
彼の父は まじりっけなしのクズ野郎で、
息子のブッチに過酷な虐待を加えた。
ブッチが父との ほとんど唯一ともいえる
温かい思い出にすがりつづけているのは、
父がクズ野郎だったという残酷な現実を
受け入れたくないからであり 
そのことを自覚している節が
ブッチにはあったのだ。

約束の地などないと 
知るからこそ、
ブッチはフィリップの将来に 
自分の願いを託したのだ。

ふたりの関係に
終焉がおとずれたことは、
たしかにかなしい。
でも、この物語は、
ふたりが目的地に行けなくて
かわいそうだね、
というお話では ないのだ。
行けなかったどころか、
彼らはその心のつながりにおいて
「Perfect World」を 
つくりあげていた。

ブッチがフィリップの母に
とりつけたささやかな約束
・・・
遊園地に連れて行ってやれ、
ハロウィンの仮装をやらせてやれ
・・・
が実現されることは、
いまや失われた彼らの世界の、
存在証明になる。
「Perfect World」は損なわれた。
でも、将来あるフィリップの
心のなかには生き続ける。
大きくなって忘れてしまっても、
あったことはたしかなのだし、
フィリップと、
ほかのだれかのあいだに、
また作られる可能性がある。
もちろんフィリップではないほかの
だれかとだれかのあいだにもだ。

自分でやって、身銭を切りたい/先生との出会い-181216。

土曜日、発注しておいた家具などがいろいろ届いた。
午前中指定で、ちゃんと午前中にすべて納品された。
配送をおこなうドライバーのかたがた 
時間に厳正、正確できまじめな仕事ぶり。
ほんとに頭がさがる。
ネット通販がこれほど普及している昨今
ドライバー職はすごく忙しいんじゃないかなとおもう。
人手、足りてなさそうだし。

わたし、こだわりがないようで 
けっこうあるみたいだ。
今回の転居でそれを自覚した。
というか 今このシチュエーションだから
こだわるきもちが顕著に出てるのかも。
というのも、
部屋のなかに置くものはなにもかも、
自分でぜんぶ選んで新しくそろえたいのだ。
残念ながら おゆずりいただいたものや
中古で購入したものを
使用する気がほぼない。

たとえ失敗してもなんでも、
自分でやりたい。
自分の目で確認して、触ってみて、
身銭を切って手に入れたものだけで 
生活を構築していきたい。
その考えが、 
部屋のものすべてに適用される。
(物件そのものは中古だが笑)
だからすごく 
こだわりがある、ってかんじに
なってしまうし、時間もお金もかかる。
もっとも、
今だけそうおもうのであり
これから しだいにゆるんでいくのかも。
でも、今は ぜんぶ新しく自分で、
という思いがとにかく強い。

しかしながら 
わたしは決してお金持ちじゃない。
それに、高級品じゃないとイヤという
かんじはまったくない。
市販品で入手できるかぎりにおいて
ふだんの使用に足るかぎりにおいて
機能的にもサイズ的にも
ミニマムを大前提に選択している。
ただ、色だけは、とりわけまじめに吟味してる。
青とか白が とっても好きだ。
好きな色にかこまれて 過ごしていられたら
ほっとするんじゃないかなとおもう。

土曜は だから
ちっちゃくて 青くて 白い
いろんなものが届いた。

いま、
転居してきた最初の1週間よりもよほど
部屋のなかがちらかってる。
最初はむしろ、
本と本と本と本と本と服と、あと本くらいしかなかった。
いまはそれ以外のものがたくさんある。
まだ定位置ができていない。
とても ちらかっている。

生活がととのうまでには
まだまだすごく時間がかかりそうだ。
まあでも、こんなもんだろう。

・・・

きょうは、工学博士の望月清文先生に
お目にかかってきた。
すごく刺激的で、幸福な時間だった。
また あらためて 時間を作って
書きたいようにおもう。

学生時代に多くの先生と出会い、
そのなかの何人かの方からは、
たいへんお世話になったり、
強い影響を受けたりしてきた。
きらいだったけど今にしておもえば
真剣にかかわろうとしてくれた先生だったな、とか。
もう学生じゃないから、
そういうことは これからはないんだとおもってた。
大人になったいま、また偉大な先生に出会えて
感激している。
ずっと、今日のような話が聞きたかったし、
話したかったんだなと。
かなり今、心がかるい。
よかった、大丈夫、
そういう肯定的なきもちを 
さいわいにも持てたことで
また今日という1日を 
ちゃんと過ごすことができた。

イマヌエル・スウェーデンボルグ読んでおいてよかったな・・・

望むこと-181215。

このまえのフラッシュバックは
重かった。
終わったとでもおもっていたのか!
そうかんたんには解放してやらないよと
げらげら嘲笑されたような気がした。

みじめ、のひとことだ。
すっごく、負けた、勝てないって
かんじがする。

言語化するのがむずかしい。
つたえるのに適切そうな表現を
もちあわせてない。
それが
わたしが自分の心の問題を
わかってほしい人に
わかってもらえないと感じる
原因の最たるものであるとおもう。

ついでにいうと
相手がそれをわかりたいと
おもってくれるとは限らないし
それに、
わかりたいとおもってくれていても、
どうしたって受け付けない
そんなこともあるだろう。
すると、わたしと関わったぶん
むだにつらい思いをさせる。
たぶん
相手との関係を
損なうことにつながりかねない。
すごく繊細な話だ。

それで
こういうのは、基本的には
だまってプロの力をかりるのが
妥当ということになる。

だが
「治る」のがいつなのかわからない。
考えたくないが、
治らないかもしれない。

生活が多分に侵されている。
具体的には
フラッシュバックが起こる。
フラッシュバックの
トリガーになるおそれのある
機械音などが聞こえそうな場所に
身をおくのが苦痛なことがある。
おもに音や声に過敏になりやすく
人がたくさんいるところに
いるのが苦痛なことがある。
フラッシュバックも
音にやたらぴりぴりするかんじも
頻度はずいぶんへったが
ゼロにはなってない。
起これば半日から、
わるくすると数日も
だいなしになる。
また
心に起因しているとおぼしき
体の不調がのこっている。
おおきいのは
睡眠障害と頭痛だ。
これもかるくはなったが
もう、こうじゃなかったときが
どんなだったか思い出せないくらい
ぺったりしぶとく体にはりついた
問題だ。


フラッシュバックは
まいらされる。
フラッシュバックに
おそわれているときの自分は
まわりからどう見えるんだろう?
たぶんだいたいの場合
電池がきれた機械じかけの
人形みたいに
かたまってるんじゃないかとおもう。
冷や汗をだらだらかきながら。
正気にかえったとき
体がガチガチになっていて痛い
だいたいその場に
立ち尽くしてるか
しゃがんでるか
地べたに倒れてるかだ。

そういうのって
これからどうなっていくのか。

生活をしていく。

いくら待っても
「治らない」かもしれないのだし
「それ以外は」元気だからだ。
「いつ起こるかわからないけど
フラッシュバックがあるかもで、
ちょっと頭痛いし睡眠不足だし、
外で倒れたらいけないから
365日24時間、家で寝て」
なくちゃいけないはずがない。

そうした日々をおくるのは
少なくともいまの、このわたしには
現実的じゃない。
寝てたいと夢想したことも、あったが。

わたしはいま、
まともじゃない部分があって
ときに歩みが停滞しても
生活をして仕事をして
本を読んで
友だちとつきあいたい。

だから、わたしの
まともじゃない部分について
多少はまわりの人に説明をして
わかってもらう必要を感じる。
不定期に停滞することを
ゆるしてもらいたい、
いや、ちがう。
それがくりかえされて
不義理をすることがあっても
わたしを「きらわないでほしい」。
わざとやっているわけじゃなく
なまけたつもりもないと
知っていてほしい。
何回も。

難題だ。
なによりもまず、
わたしが言葉を持たない。

わたしがよりもとめるのは
フラッシュバックが起こらなく
なることではなく
いやな記憶が消えることでもない。
まともじゃない部分があるままでも
望む暮らしをおくっていいと、
認められることのようだ。

フラッシュバック-181213。

今朝、
大型のフラッシュバック反応に
おそわれた。
眠っていて、悪夢をみていた。
そのつづきのようなかんじで、
目が覚めたら始まっていた。
寝てたのに大声で叫んでた。
自分の声で目が覚めたが
覚めてもまだ叫んでた。
起きてる自覚はあった。
外のどこかのお宅から
プラレールを走らせる
音がきこえてた。

ようやくなにもかもおわったとき
敷きふとんが、絞れるくらい
びっしょりぬれていた。
失禁とかではなく
汗と涙らしかった。
まわりをみわたすと
まぎれもなく自分の部屋であり
前職のオフィスなどではなかった。
デスクもMacもなかった。
プラレールの走る音だと
感じてたのは
ビニール袋が風をふくんで
バサバサいう音だった。
おとなりさんが、
外置きの洗濯機のふたに
雨避けのためにかぶせたらしいのが
はがれかけて、
重石の洗剤の容器ひとつで
かろうじて飛ばされずにいて
それが風になびいて
音をたてていた。
おちついて考えてみると
プラレールの走行音とは
ぜんぜんちがうが
フラッシュバックの発動の
トリガーになったとすれば
これなんだろう。

お風呂などで
誤って耳に水が入り
詰まったようなかんじと
耳鳴りが
ずっとつづくことがある。
フラッシュバックがおわって
もどってきたときのかんじって
あの詰まりがとれたとき
耳鳴りがやんだときの
かんじにすごく近いと
のんきにおもったりもした。

何分くらい経ってたんだろう。
時計の表示が
7時15分くらいなのを
確認した記憶があるが
それがいつのことかがわからない。

すこしおちついてみて
あらためて時計をみると
なんと始業時刻だった。
だが足が萎えたようになって
立ち上がることができなかった。
ついでに
涙がとまらない状態でもあった。
しかたなく会社に電話をして
通勤中に気分がわるくなったので
休んで快復してからいくと伝えた。
う・・・うそなんだが!
ふつうに体調がわるいといえば
すんだ、と、
電話をおえたそばからおもう。
会社のひとを困らせるだけで
ほんとうのことなんか
いちいちいえないと
まず思ったのが
どう作用したのかわからないが
「電車には乗ったのだが・・・」
的な
よくわからない
無駄なうそになってしまった。

体調がわるいといえばすんだ。

だれにもわかってもらえない。
本心をいうことは困難だ。
そういうきもちがずっとある
なんでそのようにおもうんだろう。

白湯を1.5リットル
2時間かけて飲んだ。
汗と涙で体の水が
たくさん出ちゃったから
脱水をおこすんじゃないかと
なんとなくかんがえて、飲んだ。
いつもこんなにいちどきに
水なんか飲まないから
きもちがわるくなり
もどしてしまった。

涙が滝みたいにでてまいった。
ひさしぶりに
ああ、最低だと、
つくづくおもった。
このくそくらえ感が
わたしを毎度苦しめる。

昼から出社した
会社にいくだけですごく疲れた
たのむからだれも
かまわないでくれと願いながら
机にむかって
指示されたことをやるだけで
せいいっぱいだった。
たまに立ち上がると
くらくらして倒れそうだった
家に帰ってすぐ横になったが
つかれているのに寝付けない。


以前よりはフラッシュバックが
おこる回数がへったから、
よかった、とか
そんなおりこうな前向き要素を
いちいちつけくわえる
気にもいまはなれない。

回数がへった、なんて
冗談じゃない。
気休めにもならない。
まえはゼロだった。
こんな目にあわずに
生活できてた。

なのに今は
1年たったいまでも
わたしだけ
まだ1年前にいる。
なにもないところで
ひとりで
のたうちまわって叫んで
子どもみたいに泣いてふるえて
すごくぶざまだ。
みじめだ、と心からかんじる。

だれにも理解してもらえない
だろうなあと感じることが
たいへん苦しい。


こう扱ってもいい奴だ、と
おもわれた。
いやならやめてくれと
一度でも言えばよかったのに
言えなかった。
ただ怒鳴られるのが怖かった。
生きている限り
こんなみじめだったことは
はずかしかったことは
わすれられそうにない。

過去のために現在まで
多分にそこなわれつつある。
それなのに
されたことを許すなんて。

このような目に
あわなきゃいけないほどのことを
わたしがしたというんだろうか。
たとえなにかしたにせよ
このような目に
あわなきゃどうしてもいけなかったとは
やっぱりおもえない。