BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

<再掲>-映画の感想-『パーフェクト・ワールド』-181218。

前に、このブログだったか、
それとも他の場だったか忘れたが、
この映画のレビューを書いたことがあった。

またこの映画のことを考える機会があったので
前に書いたことを再考しながら、加筆してみる。

・・・

パーフェクト・ワールド
原題:A Perfect World 
クリント・イーストウッド監督
1993年、米

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www.youtube.com


※三代目JSBの岩田剛典さんと
杉咲花さんがでる
同名の映画とは関係ないです。
ここでお話しするのは
もっと何年もまえの映画のことです。


小学校高学年と、中学生のころ、
テレビで観たんだったかな。
その後もときどき観返している。

この映画の結末は、せつない。

さすがにもう大人なので
小学生のときみたいに
テーブルにつっぷしてしくしく泣いて
親に「だから観るなっていったのに!」
とか 無体なことをいわれたり
中学生の頃みたいに
泣きながら夢中で見入っていたせいで 
アイロンがけをしてた
制服のシャツをこがしたり・・・
は しない。

それでも ・・・わかっていても 
原っぱの別れのシーンには
心が激しく痛む。

こんなに むごい物語で、
いったいどこが
「Perfect World」なんだ!! 
ずっとそう思ってきた。

けれど、今日 
何度めかの鑑賞をおえて
「Perfect World」のほんとうの意味を
理解したようにおもう。

そもそもなのだが
外国語のタイトルを
自分で勝手にわかるかぎりで訳して
それで意味を理解した気になってると 
こういうことになる。
どんな言語にも、
奥深いなりたちや意味の積み重ねがある。
語学にくわしくなくても、せめて
そういう認識だけはうしなってはいけない。
貧弱で発展性のない想像だけで
ものをいうべきではないのだ。

英語の「Perfect」は、もともと
完全に・徹底的に 
みたいな意味のラテン語「per」と
つくる、を意味する
同じくラテン語facere」から
できた言葉みたいだ。
このとき気になる
構成要素は「つくる」だ。
「誰が」つくるのか。
ラテン語、英語が
ギリシャユダヤキリスト教文化と
切っても切れない関係にある
言葉であることを考えると
「神さまが」ということに
なるはずなのだ。

「Perfect World」は
神がつくりたもうたままの
(あるがままの)世界、
神の国、とでもいった
ニュアンスを必ずやふくむだろう。

神がつくりたもうたままの
(あるがままの)世界
どういうものだろう。それは、
わたしがまず直訳し
イメージするところの
「完璧な世界」、
かなしみも苦しみもない
しあわせな場所、
では かならずしもないと 
思われる。
人からすれば もちろん、 
苦痛や悲哀と無縁、
無条件に、誰もがいいおうちに住めて
いい服が着られて、
食べるものにも困らない。
ルックスや体形のことで
悩む必要もなく
自分がだいすきな人と
なんの心配もなく一緒に暮らせて、
病気もケガも、死も、
死への恐怖もない。
そんな世界がもしあれば、
理想だろう。

けれども、
宗教的なとらえかたでいえば、
神さまがおつくりになったままの姿の
世界とは、
それだけで至高にして絶対の
Perfect World なのだ。
神さま、というものが
ぴんとこない状態で
これについて考えるとき
注意しておくべきなのは
神さまの世界で起こることが
人にとって「都合のいい」ことばかりとは
かぎらない、ということだろう。
神の善が人の善とは
かぎらないということだ。

死、痛み、
愛を失うつらさ、
貧しさ、醜さ、
なぜ神さまが、それをあらかじめ 
とりのぞいた世界を
人に与えてくれなかったのかといえば
苦悩が、暗黒がないよりは、
あるべきだとお考えになったから、
としかいいようがないだろう。
まあ、でも、今
これをあんまりほりさげると
話がややこしくなるから
やめとこうかな。

では、神がつくりたもうた、
その意味でのよき世界、
のなかでも理想的な状態とは
具体的には 
どういうものなのだろう?
わたしはそれは、
お互いの立場や権利を
尊重しあい、やさしくしあう 
素朴で純粋な人間関係、
ではないかと。
すくなくともそこからし
神の世界が成熟していくことは
ありえない、といった
かんじではないだろうか。

タイトル「A Perfect World」は
脱獄犯のブッチと、
人質の少年フィリップが
行こうとして
ついにたどりつけなかった場所、
を指してはいない。
おそらく 
彼らがその手でつくりあげたもの。
つかのまではあったけれども 
ふたりのあいだで、
たしかに実感されたものだったのだ。

どういうことかというと、
ブッチは、
自分が一度も体験できなかった 
のびのびとした「子どもの時間」を
フィリップに与えてやろうとした。
狂信的な宗教者である母親のもと
きゅうくつで孤独な日々をおくる
フィリップは、
ブッチのさびしい心に共鳴した。
ふたりは、おたがいのさびしさを、
いたわりあうことで
癒やそうとした。

ふたりの関係は、
このふたりにしか 
わからない性質のものだ。
はたからみるとあまりに
危険であったため、
関係は断たれ、旅は終わった。
だけど、
そこには思いやりにみちた
やさしい関係が確実に生まれていた。
このふたりの心のつながりこそ、
神のつくりたもうた、に通じる純粋な
「Perfect World」
だったのではないか。

ブッチと彼の父の いわば約束の地
アラスカは、
「Perfect World」ではない。
あたかもそう解釈できそうだが、
おそらくちがう。
ブッチは、約束の地アラスカなんて、
ほんとはないと、わかっていた。
彼の父は まじりっけなしのクズ野郎で、
息子のブッチに過酷な虐待を加えた。
ブッチが父との ほとんど唯一ともいえる
温かい思い出にすがりつづけているのは、
父がクズ野郎だったという残酷な現実を
受け入れたくないからであり 
そのことを自覚している節が
ブッチにはあったのだ。

約束の地などないと 
知るからこそ、
ブッチはフィリップの将来に 
自分の願いを託したのだ。

ふたりの関係に
終焉がおとずれたことは、
たしかにかなしい。
でも、この物語は、
ふたりが目的地に行けなくて
かわいそうだね、
というお話では ないのだ。
行けなかったどころか、
彼らはその心のつながりにおいて
「Perfect World」を 
つくりあげていた。

ブッチがフィリップの母に
とりつけたささやかな約束
・・・
遊園地に連れて行ってやれ、
ハロウィンの仮装をやらせてやれ
・・・
が実現されることは、
いまや失われた彼らの世界の、
存在証明になる。
「Perfect World」は損なわれた。
でも、将来あるフィリップの
心のなかには生き続ける。
大きくなって忘れてしまっても、
あったことはたしかなのだし、
フィリップと、
ほかのだれかのあいだに、
また作られる可能性がある。
もちろんフィリップではないほかの
だれかとだれかのあいだにもだ。