BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

『血界戦線』がすきであること。-160905。

血界戦線』というマンガがすきだ。

血界戦線』(完結)と、
血界戦線 Back 2 Back』(続編)があり

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jumpsq.shueisha.co.jp
『ジャンプSQ』で連載中なのは
血界戦線 Back 2 Back』の方だ。

わたしはこれがとても好きで、
みんな このマンガのこと
好きになればいいのになーとおもっている。

物語の舞台は、もとニューヨーク。
というのも ニューヨークだった街が
3年前に突然崩落・再構成されて
きがついたら魔界みたいな異界みたいなところとリンクし
異形の生物たちとふつうの人間たちとがまじりあって暮らす
街ができあがってしまった。そのもとニューヨークを
「ヘルサレムズ・ロット」と呼んでいる。
異界方面のラスボスには
「血界の眷属(ブラッドブリード)」という
ヴァンパイアみたいな一族がいると考えられている。
こっちの世界には、異界とこっちの世界の
均衡をはかろうとする
武闘派秘密結社「ライブラ」がある。
そんなヘルサレムズ・ロットで起こる
いろんな事件や戦いを
描いていくというような バトルアクション系マンガだ。

といっても、なんかちっとも的確ではない。
ほんとうはもっと正しい紹介があるのかなあともおもう。

どこかどうおもしろいのか、
なぜすきなのかと聞かれたとき
うまく説明できないのも問題だ。
説明を試みるとすれば
・とにかく理解しにくい。
 1回読んだくらいじゃなにをやってるのかわからない。
 それを理解したくて何回も読み返すことがたのしい。
・理解した先に、立派なメッセージなどはまったくない。
・でも、そこがなんかいい。
・女の子がちっともかわいくないし、きれいじゃない。
・絵は必ずしも上手ではない。
・でも、それがなんかいい。
・基本的に話がまったく進展せず、だらだらと
「異界における日常」が描かれる点が、
「逆に安心して読める」という意味で、魅力。

・・・などというかんじになってしまい
ほめてるんだかけなしてるんだか、わからないことになる。
それがわたしにとっての血界戦線

でもみんなこのマンガのこと好きになればいいのになーと
ほんとにおもっている。

第1シーズン「血界戦線」はコミックス第10巻で完結した。
現在、第2シーズン「血界戦線 Back 2 Back」が
はじまっていて、コミックスが2巻まで出ている。

コミックス2巻を先日購入したとき、
表紙をめくった部分に書かれている作者の一言コメントの
ようなところをみたら、作者が毎朝早起きして、
伊集院光とらじおと」
(ラジオ番組。月~木の朝放送されている。TBSラジオ
を聴いている、ということが書かれていて、
自分もいつも「伊集院光とらじおと」を聴いているので、
すごくびっくりした。

自分が好きなマンガや映画を作っている人が
自分と同じものをすきだと知ると うれしい、というのを
とおりこして
自分が好きだとおもうものなんだから、
それを作っている人と自分とは趣味嗜好が必ずや近いはず
といったような 奇妙な確信?とも期待?ともつかないかんじの
アレに襲われたというか
そういう奇妙なアレが自分のなかにあったことに気づいたというか。
うれしいというかなんというか やっぱりね!というかなんというか
おかしな そわそわするきもちになった。

血界戦線」は、アニメーションも放送された。
(2015年4月~6月。たしか最終話だけ10月ごろ放送だった)

kekkaisensen.com


これも、すごくかっこよかったし、おもしろかった。
それに、物語が、
よくまとまっていたんじゃないかな?と思う。
理解しやすかったというか・・・。
映像も美しかった。
あの映像の質を、どのアニメでも保とうとおもったら、
アニメーション作る人はみんな早死にするだろうなと
考えたりもしたほど
目にあざやかで バツグンにかっこいい映像だった。
わたしは、血界戦線がすきだが
血界戦線が世界でいちばんおもしろいマンガだと
おもっているわけではない
ほかの人たちも、だいたいそんなかんじの感覚だろう。
つまり、血界戦線はおもしろいけれど、
人気は「そこそこ」のはずだ。
王者「ワンピース」とかには、およばない。
だから、正直わからない。
みていたときも、いつも疑問に思ってた。
血界戦線のアニメが、あれほどまでにすばらしかったことが、
いまだに解せない。
いってしまえば、「よく予算おりたなあ」と。
人気がそんなにでるとはおもえないアニメに
あんなにすごい仕上がりにできるだけのお金が
よく出たなあと。
よけいなおせわかもしれないが。
製作に関わった人すごく大変だったろうな。

録画して、何度くりかえし観たかわからない。
マンガでみてきたことが動いて
しゃべって音出てて色もついてる
ということを これほどすなおなきもちで
うれしいとおもったことってなかった。
いままでどのアニメーションでもそんなことを
したことはなかったのに
血界戦線は、ブルーレイまで購入した。

コミックスの3巻の発売がはやくも楽しみであるし
アニメーションの新シリーズが
やってくれないかなーとおもっている。

どうしてもこうとしか考えられない。

世の中にはものすごくおもしろい物語を書いたり考えたりできる作家さんが
いっぱいいてあふれているしな・・・とかいろいろと思って、
それで自分ごときがいまさらなにを書くのかと 考えて、
自分の書くことなどどれもゴミの役にもたたない、というきもちで、
書かない日もあるし、
とくに書きたいことがない または肉体的に疲れていて早く休みたい
といったような理由で 書かない日もあるし、
「自分の書くことなどゴミの役にもたたない」とよくよく感じていて
なおかつ いますぐここに倒れ伏して寝てしまえるほど疲れているのに
そんなことはどうでもよくて、とにかく書かないと
なにかに耐えられない・・・という衝動に駆られて書くこともあるし

いろいろだが

基本的に うまれてこのかた辞めずに続いたのは
この書くという作業だけであり、いまも続いている。
そして、なんとかかんとか、これで給料ももらっている。

わたしは、音楽も愛したし、楽器の練習をがんばったが、
楽器では、ここまでにすらなれなかったと確信する。
わたしを生かしてくれるのは楽器ではなかったのだとしかいえない。
楽器の練習を続けられなくなったことには、
長期的な治療が必要な故障をかかえたことなど、
具体的な事情や背景がなくもないが、
仮にわたしがそれでも楽器をぜったいにやりたいんだとおもっていたら、
べつに、やっちゃいけないってことはなかったとおもう。
できたとおもう。やればよかったとおもう。
でも、その道を選ばなかったんだから、
これをどう自分のなかで咀嚼するかといえば、
「そっちじゃなかった」としかいいようがない。
わたしが自分で選んだ。
楽器はたのしいしまたやりたいけどな。
もし右手も左手も失って本を読む目も音楽を聴く耳も失ったとしても、
いや、むしろそれだからこそ、
わたしは足だか口だかでもつかって書くな。
手なんかなくたってそんなことは書かない理由にならない。
紙と鉛筆しかなかった時代じゃない。
その時代だって 手がなくても書く人は書いてたし。
いまはパソコンがある。どうやったってできる。
楽器をやらないでいることは、いまや可能だが、
書かないでいることは、とうてい不可能だ。

知っている。自分の書いたもんなど
ゴミの役にも立たないということを。
完璧でないということを。
これ以上になれないかもしれないということにも おびえている。
こんなことやってなんになるんだろうな。とおもっている。

けど、わたし、書いてないとすぐ、死にたくなるんだよね!
まったく残念な人間でね!
文字通り自殺したくなっちゃうんだよ!
どうも、ストレスに弱いようなんだよ。
心の中の、ストレスの受け皿が小さくてね。
書いて書いて発散しつづけてないとすぐ死にたくなるんだよね。
だからほんとに、その意味で、書いてないとだめなんだよ。
だれかの役に立つからではなくて自分が死なないように書いているわけ。

だからしょうがないわなあと。

広末涼子さんのインタビュー記事(両親の離婚を体験した子どもについて)-160828。

昼間は美容院にいっていた。
美容院でだしてくれた雑誌に
広末涼子さんの
インタビュー記事が掲載されていた。
彼女はたしか1回離婚を
経験しているかとおもう。
離婚したときすでにお子さんがいた。

どのような過程を経て
離婚を決意しましたか、
離婚することにきめたとき、
子どもにどう説明しましたか、
という質問に
彼女は
「夫婦関係を立て直そうと、
一時別居や同居の再開など、
思いつくかぎりのことをやり、
それでもうまくいかなかったので、
自分と子どもの将来を考えて
最終的に決めた」
「子どもには、
『パパともう暮せないんだけど、
ママとふたりだけでもいいか』
ときりだした」
「子どもから
『どうして一緒に暮らせないの』
と聞かれたので、
『パパとママはうまくお話できなくて
ケンカばかりしてしまうので 
たくさん泣いてとても悲しいの』
というようなことを話した」
といった意味のことが書かれていた。
(詳細はこの文言のとおりではない。
わたしの記憶で書いている。
でも意味合いとしてはこんなかんじ)

そして、
「説明の結果 子どもは
『わかった』と、納得してくれたが、
本当に理解がえられたとは思わない。
大人になったときに 
受け入れてくれたらいいし 
そうなるように努力する」。

わたしは
「本当に理解がえられたとは思わない」
というところに感心した。
「『わかった』といったから、
わかってくれたんだ。あーよかった」
と思っているんじゃなくて
広末さんはえらいな、とおもった。

子どもに、わかるはずもない。
わかる、というのが
具体的にどんなことであるのかも 
規定は困難なのだが。
子どもは、両親の離婚の
最大の犠牲者となる存在だ。
どんな形での離婚であろうと、
離婚は、子どもにとって、
ろくなもんじゃない。
ろくなもんであるはずがない。
ほぼ例外なく弊害だ。
なぜか。
「離婚」は、離婚したという
そのときまでで終わることじゃない。
社会は、片親にきびしい。
とくに母親にきびしい。
離婚して母親が子どもを育てる場合
すごく大変な仕事になる。
ほんとうにやりとおせるほど
タフな女性などまずいない。
母親は、なんらかのかたちで
ほぼまちがいなく
不如意な生活を強いられる。
お金がない。
仕事が思うようにできない。
新しい出会いが望みにくく感じる。
生活が不安。
そうしたことが
まずまちがいなく起こる。
そのストレスのはけ口に、
一番なりやすいのが子どもだ。
わたしは、
「『片親だから』という理由で
子どもにつらい思いをさせたくない」
「『あの家は片親だから』と
世間にいわれないように子どもを育てる」
「片親でもどこにでても恥ずかしくないよう
子どもには最高の教育を受けさせる」
と決意した親が 子どもを育てる、
というケースさえも
離婚が子どもにおよぼす悪影響の
類型にくわえてよいとおもう。
そこまでひっくるめたとき
離婚は 
子どもの心にとって弊害となる。
だから子どもにとって
両親の離婚は 弊害なのだ。

修復できないレベルで
破たんしている夫婦関係を
継続することも それはそれで
子どもに悪影響であることは
もちろんまちがいないが。

補足的なことがらを 
長く書きすぎたかな・・・

話をもどすと、

子どもが離婚に
納得してくれたからといって
わかってくれたんだ。
あーよかった。さあ離婚だ離婚だ
なんて思っている親は
あとあとになって
えらい目にあうとおもう。

どういうことかというと、

夫婦間の浮気問題に話をかえて
ちょっと考えてみると
意外とわかるんじゃないか。

わたし結婚したことないけど(^^)!!

でもまあ こころみに
こんなかんじを想像しよう。

夫が浮気をした。
浮気が妻にばれた。
妻が追及すると、
夫は白状し、妻に謝罪した。
妻は、許すことにした。
初犯だし、夫が反省しているし、
自分もやり直したかったので。
夫婦関係リスタート。
でも、ここで夫が
「よかった!許してもらえた!
あしたからなにごともなかったかのように
やっていける!」
とおもったら、
これが、大まちがいなのだ。

もちろん妻も、いちおう
「夫の謝罪を受け入れた、
許すと自分の態度を表明した」ので、
「水に流した」つもりなのだ。最初は。
でも、そううまくいくものだろうか。
あとで愕然とするはずだ。
忘れられない。
そう簡単に許せるはずがない。
ふりかえると、
あのメールはウソだったんだな。
わたしのこと、
だませると思っていたんだな。
わたしのこと、
きっとばかだと思っていたんだな。
わたしとよりも浮気相手との
性交のほうがよかったんだな。
なんてことが 
いつまでも心にわだかまる。
最悪だ。
夫を責め足りない。
バカにしていたのね、と
泣いてわめきたい。
くやしくて哀しくてたまらない。
夫がきたならしい存在に思える。
土下座してほしい。
なんてことが、
心にマグマみたいにわきあがる。
いったん自覚してしまうと
日に日にすこしずつ
この憤激が、かなしみが堆積していく。
でも、
謝罪を受け入れた。
許すと言ってしまった。
なんなら仲直りのセレモニーもした。
その手前、
いまさらむしかえして 
不服を申し立てても
夫は自分の思いを
理解してくれないだろうし、
ぞんだ反応なんて
えられないだろうし、
それになにより、みっともない。
そう考えると、言えないのだ。
妻は苦しみ続ける。
じっさい、仮に夫に
自分のきもちをぶつけたとしても
夫が
そんな気持ちでずっといたのか。
ぼくのせいで苦しめてごめん。
なんていって
だきしめてくれるなんてことは、ない。
まれにあるかもしれないが。
たぶんない。
もうその話は終わったと
ぼくはおもっていたんだけど。
じゃあぼくはいったい
どうすればいいわけ?
あのとき「許す」って言ったのは
ウソだったの?
なんて逆ギレされるのが
いいところだ。
人は
自分のすることに
一貫性がないことには
けっこう寛大なのだが
他人の言動に一貫性がないと
がまんできない。
壊れた夫婦関係を修復するのは 
ほんとうにむずかしい。

・・・
なんて話をしたいわけじゃ
必ずしもないのだが

両親の離婚を経験した子どもは・・・
むろん個体差はある。
全員こうとは言わないが・・・、
この「妻」みたいなきもちの変化を 
そののちの成長を通じて
体験していくことになる、
ってことを考えてみたい。
変化というか、
両親の離婚と
それ以前に見せられてきた両親の不和
から受けた心の痛みは、
基本的に癒えない。
両親が離婚したときに、
自分で自分のことを
ちゃんと話せない幼児期でも
その子なりの受け止め形式で、
ちゃんと「両親の離別」を体験してる。
赤ちゃんであってもそうのはずだ。
小さいからなにもわかっていないなんて
思ってはいけない。
小さいときでよかった、
なんて思ってはいけない。
成長して、自分の言葉を獲得したとき、
叫びだすかもしれない。心の痛みを。
言葉だったらまだいいが 
腕力とかに訴えるかも。
言葉や腕力なら、表面化する分、
対処のしようもあるが
みえないところ、
心が壊れていったら、どうか。
しかも自分で自分の痛みの原因が
自覚できないような場合は
ますます目もあてられない。

本人に自覚があるか否かにかかわらず
その痛みのレベルにかかわらず、
はっきりいえることは、
夫婦間において配偶者のしうちから
受けた心の傷は、そうかんたんに消えない
のと同じように
両親の離婚をみた子どもの心の傷は、
基本的に癒えない、ってことなのだ。

さきにのべた夫婦の話において
妻が 
わたしもあなたの疲れをいやす
優しい家庭を作れなかったから
こんなことになったのね。
あなたが真剣に謝ってくれたし、
今回はおたがいに水に流して、
ふたりでやり直しましょうといって
赦してくれたからといって
よかったー 一難去った、と
安心してしまう夫が、
ダメなのと同じように

パパとママは離婚するの。
わかってくれるね?
と子どもにきいて
うん、わかった。ぼくも(わたしも)
そうしたほうがいいとおもってた。
パパが(ママが)笑ってくれるなら
それでいいんだ とかいって 
子どもがわらったからといって
ああ、よかった。
と安心してしまうような親は、ダメだ。

仮に、その家族関係を
継続したいと願うのであれば、

罪を犯した夫は、
配偶者への謝罪に一生をささげる
そのくらいの覚悟をしたほうがよい。
浮気事件から10年も経っていきなり
やっぱりわたし、10年前のことが
どうしてもどうしても許せなくて
あなたを責めたくなっちゃうの・・・
と 妻が泣き出したとき
驚いてはいけない。
そういうことがこのさき
何回も何回もあっても
驚いてはいけない。
すべて自分のせいいっぱいの
気持ちで受け止めないとだめだ。

離婚したふたりは、
そりゃ自分自身のことも
いろいろと大変だろうが、
子どもがいるならば、
なによりも子どもの気持ちを
見守らないとだめだ。
子どもは関係ないのだから。
何年も経って子どもが成長したとき、
あのとき、哀しかった。
どうしてお父さん(お母さん)は
いなくなってしまったの? 
ぼくを(わたしを)おいていったの?
などといって 涙したとき、
親は驚いちゃいけないし、まして
でも、そうしたほうがいいとおもってた
って あんた言ってくれたじゃん!
とか言ってはいけない
しょうがないじゃん、
もう離婚しちゃったんだから
とかいって
内心の動揺をおしかくして
きょとんとしたふりをしても 
もちろんだめ。

離婚した段階で、
無関係の人間(子ども)に
多大な影響を与えた。
今はよくても、
いつかあの子の心の傷が
再燃するおそれがある。
ということを、覚悟しておくべきだ。
痛む心をぶつけられたとき
全霊で受け止めてあげること、
それが 無関係の人を傷つけた者が
はたすべき唯一の責任だから、
その日のために
心の準備をしておいたほうがいいからだ。

べつに 
夫婦関係とか、離婚と子どもとか、
そういう話じゃなくてもいい。
ということに 書いてきて今きづいた。
人間同士のかかわりのことは、
すべてそうだ。
人によって傷つけられた人の心は
すべて、もうもとにはもどらない。
みんな、
傷つけたり、傷つけられたりして 
もうおわったことのはずでも 
何度もしつこくむしかえし、
あのやろーーー! とおもったり
あのときはなんであんなこと
言っちゃったんだろう なーんて 
あっちへゴロゴロこっちへゴロゴロ
のたうちまわって恥じ入ったり、
そうやって、
すべての人間が生きている。
死ぬまで引きずって生きていく。
それが、
人が生きるってことだろう。

心の傷が癒える、
という表現は正確じゃない。
心の傷は癒えない。
小さくなっていくか、
かくれていくか、
心が老いて執着できなくなるか
・・・のどれかだ。

ただ、
赤の他人同士だと、
年月がたつと
お互いの居場所が
わからなくなるなどして
恨みをぶつけたくても
謝罪をしたくても
二度と会えないおそれがあるが
家族ならば、そして 
その関係を継続したいと
お互いに思っているならば、
いっしょに苦しむことができるし、
一生をかけて謝罪をすることも
やりたければ 不可能じゃない。
そこが家族であることのまあ 
利点といえば 利点かもしれない。
やり取りの「やり直し」ができる
可能性が、赤の他人よりも高い。
まあそれがどうしてもできない
家族もあるが 
わたしにいわせれば 
そりゃもう家族じゃない。
関係を解消してしまっても 
べつにかまわないのではないか。
家族という肩書に
だまされたふりをしている
その時間がもったいない。
人生は短い。
・・・そうはいっても
できないのも また家族か

なにがいいたいかというと、
この場合、
親の離婚を体験した
子どもであるところの
わたしから言わせれば、
広末涼子さんの態度は正しい」
とおもった、ということだ。
「理解してくれたとはおもってない」と、
思い続けることは
つまり 
自分のいいように解釈せずにおくことは
ずっと継続させたい人間関係において
大切だと わたしはおもう。

小林賢太郎さんのコント公演『KAJALLA #1 大人たるもの』の感想。

小林賢太郎新作コント公演 
KAJALLA #1『大人たるもの』
をみてきた(神奈川芸術劇場)。

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kentarokobayashi.net


公演は大入り満員。

感想としては いまいちだった。
笑えるしちょっと泣けるし楽しめるのだが、
こういう種類のおもしろさは、
なにも小林賢太郎さんのコントじゃなくても 
感じることができる。
そんな感じだった。

一番最後のやつだけはすごく 
小林賢太郎さんっぽいというか
こういうのが みたいんだよなーというのを 
感じられたが。

彼の舞台は、
無関係のごく短いコントの集合体のような構成でも、
いつもなにかどこかしらに連関があって、
通底するテーマがあって、
なんとなく全体に 統一感が感じられるのだが
今回は どうもそういうのがなかった。
いや、 あったとは思うが、 
あまり強くは感じられなかった。

やっぱ 一番最後のやつはすごく 
よかったとおもったけどなー。
ほかのは それほど・・・

あと、自分でやってることに
自分で笑っちゃう、っていう
ハプニングがたまにおこったりして
そういうのをみることも 
舞台の公演を生でみることの楽しみなのだが
今回はちょっと その
「自分受け」のハプニングが
起こりすぎていた。
最初の1~2回は 
こっちもおもしろかったんだけど
あんまり何度も 役者さんが
自分で自分のやってることに噴き出してしまい 
演技がままならなくなるので
最後の方はじゃっかんしらけた。 

でも おもしろかったことは おもしろかった。
ふつうに爆笑しまくったし。
おもしろかったという点で 
文句はまったくないのだが。
らしくないというか・・・。
まあ 
らしさを押し付けんなよ!って
言われたらそれまでなんだけど
しょうがないよ・・・ 
そうおもったんだから。

でも 観客はだいたい 
にたようなことを感じたんじゃないかと
わたしはおもったがなあ。
彼の舞台にはめずらしく
カーテンコールが2回とごく少なく
スタンディングオベーションも 
わたしがみてるかぎりでは
ほとんどおこらなかった。
わたし自身 立ってまで拍手する気にならなかった。

強い感動を喚起するような
ストーリー性のある舞台ではなかったので
観客のリアクションも
それほどにはならなかったのかもしれないが

小林賢太郎さんの舞台は 
もっといつもは すごいよね。
観客の反応が。

また これからの 彼の舞台に期待。

片桐仁さんは なんかますます 
いい顔になっていくなあ・・・
あの人の顔って よすぎるよね。
あのような顔に生まれてくるなんて 
役者として ラッキーすぎるとおもうな。

役者さんは どの人もみんな うまかった。
「ラジオの企業CMの声」を担当した
保険会社の社員を演じた
役者さんが なにかと すごくハマってて 
みてて感心した。
典型的なオタクのおにいさんの役も
ものすごく上手に演じてた。

インデペンデンスデイの宇宙船みたいな雨雲。腰が痛い。ラテンマニア。

きょうの朝から午後にかけての雨はいったいなんだったんだ。
おら おっかねえだ。
上空一面をおおう巨大な雨雲は
さながらインデペンデンスデイの巨大宇宙船。
雨脚はごく短時間のうちにいっきに
「ぱらぱら・・・」から「ドゴー!!!」へと変化。
窓を開けたまま外出してしまい
帰宅したら部屋がなんか 船の甲板みたいになっていた・・・
窓際に積んでいた本が一冊残らず濡れ雑巾に。
ゴールデンカムイ」をあんな窓際に積んだのはまちがいだった。
ゴールデンカムイが濡れ雑巾になったことには おちこんでいる。


なんといっても室内に何時間もこもって
パソコンとにらめっこする仕事であるので
肌の色が なまっちろくなってきた。
しばらくまともに化粧をしないできて
きのう取引先と会う予定があったもんで
めずらしくファンデーションなどというものをぬったら
あきらかに色が合わなくなっていて おどろいた。
ちゃんとお店で選定してもらった色なのにな。
そんなことがあるんだね!
あわてて新しいものを買いに行ったよ 職場の近くの店に。
道理でちかごろ 顔色が悪い顔色が悪いと 言われるわけだ。
しかし やはり紫外線はお肌の大敵というのは事実らしく
日にあたらない、というただそれだけで 
最近は 自分史上 最高といっていいほど肌の調子がいいようだ。
いいんだか わるいんだかだ。


それにしても
腰が痛くてかなわない。
まったくこの痛みにはまいった。
だいたい 自分でもわかっているんだけど
睡眠が 苦痛の解消につながっていないんだよね。
むしろ寝ることが痛みに拍車をかけているようにもおもえる。
朝おきたとき頭も腰もすでに痛い。
というか頭や腰の痛みで目がさめる。
ずいぶんまえに一度 
健康に良いまくら的なものを購入して 使うようになり
だいぶらくになったとおもったのだが
どうもだめだな。 もうまったく効果がないかんじだ。
近所にまくらの研究をしている整形外科があるので
いってみようかとおもってる。
まくらの研究をする整形外科っていったいどんなだろう*1
パソコンと机の高さとイスの高さの関係も あってないんだろうな。
おもえば腰だけでなく肩やら背中やら眼やら
あっちこっち痛くて 苦しみながら生きてる。



きょうは夕方から
ラテンジャズバンド「ラテンマニア」のライブをきいてきた。
ラテンマニアの公式サイトはこちら。

www.latinmania.net

 

このバンド たぶんわたし ずいぶん昔から知ってるんだよな。
バンドの創設者にあたる最古参の女性が
かけもちで参加していた(いまもいるのかな?)吹奏楽団に
わたしも学生時代に数年間所属していたんだけど
それはちょうど ラテンマニアが結成されて間もなかったころだったはずだ。
だからわたしも バンドの存在は楽団のだれかから聞いたりして
知っていたはずだし たぶん演奏もきいたことがあるとおもう。
いや、ある。あるわ。おぼえてる。聴いた聴いた。
夏に市内のお祭りのステージで演奏していた。
それを聴きに行ったんだよ。楽団のみんなで。
いまとメンバーはぜんぜんちがったんだとおもうが。

まともに聴くのはもう10年以上ぶりだった。

やっぱライブって最高だよね!

そしてラテンやジャズって 
フリーダムななかにも仕事キッチリ感があると 
ほんとすてきな音楽になるよね。
積み重ねられた基礎がないと
ほんとのフリーも生まれませんわな。
(わたしスゲーあたりまえのこといってる・・・)

管楽器勢がとってもすてきな演奏をしていて 
きいていてたのしかった。
とくにトランペットのおじさまたちが最高。
いまここでキメてほしいなー とおもうようなところを
ちゃんとキメてくれて 全体がぴりっとひきしまってほんとにいい。
逆にえっ いま!?とおもうようなところで
ペロッと変なミスしてたのもお見受けしたが
ミスっても眉ひとつ動かさない老練さはさすが。
演奏スキルといいステージでのお姿といい
しだいに トランペット隊のおじさまたちのことが
だいすきになってきて もう ニヤニヤしながらきいた。
隊のおふたりの ソロバトルもびっくりするほど
ハイレベル。堪能させてもらった。

全体にアーティキュレーションの統一がしっかりと図られていて
なにがやりたいのかよくわかる演奏だったし
曲目も変化に富んでいてたのしめた。
フルートフィーチャーものの
「Cha Cha Cha」(だったかな)は
とくにおもしろかった。

ライブは CDではわからないいろんなことが
伝わってきてたのしいよね。


*1:+_+

あとさき考えない性格/中里学さん/映画の感想-『シン・ゴジラ』礼賛。

「(きみって)ガみたいだね」
といわれたことがある。
ガとは「蛾」だ。
ちょうちょの、一般的に
人に好かれないほうのやつ。
その人がわたしのどこを
ガみたいだといったかというと
人に好かれないところじゃなくて、
(それもあったのかもしんないけど)
「動かない」ところ。
いちど落ち着いて座って、
何かしら自分がするべき作業を
始めてしまうと
やめろといわれないかぎり、
時間的な制約でもないかぎり
何時間でも一日中でも 
ひとつところに座っていられる。
事務仕事とかに向いている
性格のはずだ。

冒険心や探究心、遊び心は
もちあわせた覚えがない。
どっちかといえば
変化することがすきではない。
さわいだりしたくない。
急ぎたくない。
あせりたくない。
怒りたくない。
落ち着いて、凪いだ気持ちで
いるときの自分こそが
われながらいちばん
好ましく感じる。

だから、そういう気持ちで
ずっといたいのに、
たまにわれながら 
おまえ頭 大丈夫かとおもうような
とっぴな行動をとって 
いろいろとまずい状況を
つくりだしてしまう。

どう考えても
話し合いが通用しなさそうな
犯罪方面のかんじの雰囲気の環境に 
ノコノコと丸腰でのりこむことがある。
たとえば
学生時代のことだが
電車内で勃発した 
屈強な男同士の
暴力ざたにもなりそうな
ケンカの場面に首をつっこみ
仲裁をこころみた結果、
頭をバチーンと殴られて
一瞬で失神したことがある
(マジでなにやってんだ)
学生時代にというか、
現在でも2年に1回は
似たようなことがある。

家の前の路上で 
露出狂のおじさまVS
うら若いお嬢さんの
遭遇の瞬間を目撃した。
おじさまが上着の前を
ぱっとひろげて 
御開帳あそばしたのを
わたしは家の2階の窓から
たまたま見たのだが
・・・もちろん至近距離で
それを見せられたお嬢さんは
キャーと絶叫してた・・・
なにをおもったのか 
わたしはおじさまの 
「中身」について
「美しくないですなあー」と 爆弾を投下。
おじさまは 
上からわたしがみていたことに
気づき いちもくさんに
逃走していったが
・・・
もし あのおじさまが
一筋縄でいかないタイプの
ヘンな人だったら
わたしは所在を
完全に知られてしまったわけで
のちのち報復とか逆恨みとかされる
おそれがあり
逃げ場がなかった。
でもそういうことを
そのときにはまったく考えずに
「美しくないですなあー」とか
言ってしまったのだ。
いや そもそも
美しくないってなんだよ(^^)!!

そういうことをたまにする。
あとさきかんがえないところがある。
波風立てたいなんて
まったくおもっていないのに
静かにしていたいのに
ヘンな行動をとってしまうのだ。
半端な「がんばっちゃおうかな」感を
非力な自分が たまさか
ふりかざしてみても
状況が変わることなどなく
自分が痛い目にあって
終了である。
そんなことはわかりきっている。
でも
気持ちがそっちにいってしまうと
もうあとさき考えず 
またおんなじことをしちゃう。
つまり
頭が残念なできばえの人間だ。

わたしはそんなバカは
家族で自分だけだとおもっていた。
でもそうじゃないのかも
しれないと 今朝おもった。

週1回の貴重な休日である
日曜日は
いつも日がかなり高くなるまで
ぐっすりなのだが
今朝は朝から暑かったからか 
早朝に1回目が覚めた。

母親の声が外からきこえた。
前半は自分のみていた
なにかの夢とミックスされて
現実のことかどうか
あやふやだったが
「やめなさい!」とか
言っているように聞こえた。
頭と耳がはっきりしてきて 
やはり「やめなさい」と
母が誰かに言っている
らしいことがわかった。
窓を開けて外を見てみる
家の前のちいさな公園に
朝から集結していた
ポケモントレーナーたちに
そんなことを朝からやっているなんて
ばかばかしいからやめなさい と
教え諭していたのだ、母が。

どうもうちの前の公園って
出るらしいんだよねポケモンが。

自分の親は
そっち系のキャラじゃないと
いままでおもっていたのだが。
ああ、あの人にも
そういうとこあるんだな・・・
と 初めて知った。

・・・


昼間、電車で4駅のところにある
商業施設の広場でおこなわれた
ライブイベントをきいてきた。
午前中から夕方までずっとやっていて
何人かのミュージシャンが
いれかわりたちかわり
30分くらいのパフォーマンスをする
というようなイベントだ。
ここに中里学さんが
出演したからいってきた。
中里学さんのライブを
今年の春先にきいたが
とてもすばらしかった。
いっしょにライブをききにいった友だちが
中里学さんは初期のころ
(ソロでなくユニットを組んでいたころ)も
とてもよかったんだと いっていたので
あとで 中里学さん本人に
連絡をとり 
初期のころのCDとかは
まだ残っていますかと
きいてみたところ
かろうじて何枚かあるとのこと。
次の機会に購入する約束をした。
その次の機会が 
またこれが わたしがクソ忙しくて
なかなかめぐってこなかった。
今日やっとその日がきた。
それでいってきた。

あいかわらず よい歌声だ。
しずかに でも 
たしかな重みをもって
心に押し入ってくるような 
よい歌声だ。
清潔感のある歌声だ。
聴くほうの心を
いつのまにか開かせてしまう声だ。
あれって たぐいまれだ。

演奏がおわってから 
ちょっと声をかけて
約束のCDを2枚買わせてもらった。
3枚もってきてくれていたが
内容がわからないから
いわゆるジャケ買い
彼が厚底ブーツとかはいてる
写真がおもしろいやつにした。
あした職場に持って行って
仕事しながらきこう。

・・・

そして帰りに 地元の映画館で
映画を観た。

シン・ゴジラ
庵野秀明 総監督
2016年、日本

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傑作だった。
客席にもしも、自分しかいなかったなら
まよわずスタンディングオベーションしてた。
「すごかった!」って早く誰かに言わないと
言わないうちに、もし自分が
交通事故にでもあって死んだら
絶対化けて出るなと おもった。
早く誰かに教えなくちゃ、って。

わたしはこれまで 
日本映画もいっぱいみたはずだけど
まだまだそれでも 
日本映画のすべての面を
知っていたわけでは
なかったのだなとおもった。

というか まがりなりにも
いっぱいみてきたからこそ
こういう気持ちになったのかも。
どちらかと言えばそっちかもしれない。

近年のわたしは、
映画にたいして
とにかく
「いままでどの映画でもみたことがない」
とおもわせてくれる
ストーリーや映像を
みせてほしいと 望んでいる。
ほんの1シーンでもいい。
たわいのないシーンでもいい。
ちょっとでもいいから
ほかのどの映画にもなかった 
どれとも似てないものを観たい。
それについで、内容よりも、
スカッとさせてくれるものや
ドカンと心になにか
物理的な衝撃を
与えてくれるものを みたいと
おもっている。
なにをいっているのかが
理解できないどころか
なにをやっているのかが
わからないような映画でも
ビジュアルがほんとに
ものすごかったら 
ぜんぜんOKみたいな
そういう種類の映画でもいい。
いつもそうってわけじゃないが。
なにがおこるかわからないような
映画をみたいのだ。
そうすると 
どうしても
アクション映画とかが増えていく。

こうした願いは基本的に
日本映画では叶わない。
日本映画って、
そういうのじゃないから。
ああ、そういう気持ちに
なることってあるよね、
そういう思いを持ってしまうと
人はどうなってしまうんだろうね、
・・・みたいな 
自分の心のなかのすでにあるものを
知っている言葉で、
知っている所作と
スピード感と世界観で
描き出してくれるもの、
それが日本映画だと理解してきた。
日本映画に
「なにがおこるかわからない」は
望むべくもない。
って、おもってた。

でも、
シン・ゴジラ』は、
かなえてくれた。
日本的な、どこまでも
日本的な映画でありながら、
「いままでみたこともないような映像」
をみせてくれたし、
同時に
日本映画が得意な 
日本人の心理描写を
たくみにこなしていた。

ただ歩いているだけ、
立っているだけのゴジラ
「哀愁」をみいだすのは
たぶん日本人だけなんだろうと
わたしはおもっている。

いままで、わたしもそれなりに 
いろんなアプローチのしかたで
たくさんの映画をみてきた。
ジェット・リーに会いたい」
「音楽とダンスのシーンをたのしみたい」
「アクションをみたい」
「映像美を堪能したい」
「だれそれの演技をみたい」
「ストーリーをたのしみたい」
とかいろいろ。
それで体験してきた映画のどれとも
まったくことなる観かたを
要求される映画だった。
要求されるといっても 
努力しなきゃいけないわけじゃなく
自然に 新たな 
観かたになっていったのだ。
こんなふうに映画を観たことって
いままでなかったな、と
あとで 気づかされて
うれしくなった、そんなかんじ。

そしておもった。 
これってきっと、
元祖ゴジラシリーズを
夢中になって観てた
昭和の時代の人たちの
視点の追体験てことなんじゃないかと。
そうだとしたら 
それがいま体験できちゃうって
すごいことだけどな。

日本映画にあまり
期待しなくなってしまった人
映画をたくさんみてきた人にこそ
すすめたい。
どれとも似てないものを
みられるはずだ。
似てないのに
なつかしさを覚えるはずだ。
いままでどんな映画をみても
感じたことがなかった気持ちを
みたあとに 感じられるはずだ。

大妖怪展/映画の感想-『ロスト・バケーション』-160731。

「大妖怪展」
江戸東京博物館:両国)
みてきた。
かなりの盛況だった。
でも伊藤若冲展みたいな 
館外までお客の列がのびてる、
といったほどではなかった。
20分も待てばチケットは買えた。
土偶から国宝から妖怪ウォッチまで
日本の妖怪やお化けにかんする
いろんな絵画作品がみられた。
とくに江戸時代に入る前のころの
だれが描いたかわからないような
妖怪図とか謎の虫の絵とか 
「1か月間 毎日家に妖怪が出続けて 
それに耐え抜いた16歳の少年の記録」
というわけわからなすぎる
絵巻などは よかった。
どこから着想をえたのかわからない
謎すぎる絵柄がじつにたのしかった。
虫?というか妖怪?なのか
なんなのかわからないが
「へんな生き物」図鑑みたいなのがあって、
そういうのの絵が
ほんとにかわいいんだよね。
画材が貧弱で描写も未熟で 
題材もトンデモなのだが 
ヘタクソだからこそかえって 
怖さ不気味さがひきたつようなかんじ。
描きかたがフリーダム。すばらしい。
これが江戸時代以降になると
みんな絵がうまくなり
カラフルにもなるので
何を描いているのかはっきりわかるし 
今みても斬新でカッコいいが
うまくなっちゃったぶん 
小さくおさまった感はあった。
ただし葛飾北斎歌川国芳
月岡芳年などはさすがの画力だったが。
鳥山石燕も鉄板。

自分が好きな河鍋暁斎の絵も
いくつかあってうれしかった。
「化け化け学校」とか(^^)
たまらん(^^)

河鍋暁斎
ガイコツ絵のTシャツを買った。
カッコいいんだわ。これが。

おもしろかったので
ぜひみなさん行ってみてください。
オペラグラスを用意し、
かかとの高い靴をはきましょう。
とおくからでも見えるようにね。

・・・

地元に帰ってきてからは
映画館にいって映画を観た。

『ロスト・バケーション』
原題:The Shallows
ジャウム・コレット・セラ監督
2016年、米

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www.youtube.com


すごくよかった。
インデペンデンスデイ・リサージェンス』を
観るかどうしようか、もし迷っているようであれば、
そっちはこの際観なくても良いから
本作をぜひ観てみていただきたい。

知る人ぞ知る秘密のビーチで
サーフィンしていた女の人が、
突如 サメの体当たりをくらい 
沖の岩場になんとか避難。
足にかなり重いケガを負った。
サーフィンの板はどこかに
ふっとんでいってしまった。
その岩場は ちょうどサメが
クジラをしとめた「食い場」近く。
まだ新しい クジラの死体が
すぐそこに浮いている。
「食い場」が荒らされたことに加え
女性の足から出血しており 
その血のにおいにもひかれるのか
サメはものすごく興奮している。
そして 「食い場」と 
女性がいる岩場とのまわりとを
飽かず ぐるぐると
旋回するようになる。
岩場はごくちいさくて、
満潮になると岩の先端が
水面からちょっと顔を出すかどうか。
女性はそこにしがみついている形だ。
浜辺まではほんの200メートルくらいだが
ケガした足では早く泳げない。 
サメから身を守りながら
逃げきることはできそうにない。
秘境のビーチなので
めったに人がこない。
まったくこないわけじゃないんだが
助けはえられないまま。
ケガをおった足は 感覚がなくなり
みるみる壊疽をおこしていく。
彼女はこのまま 力尽きて
死んでいくしかないんだろうか?

という 物語。

極限まで無駄を削ぎ落された
いわゆるワンシチュエーションもので
主演の女優に自然に釘づけになるので
集中してみられるかんじ。
またこのヒロインが
とってもきれいなんだこれが。

映像も音楽もカッコいいし
演出が凝っていてよかった。

それにしてもこの映画に関する
いろんな批評やほかの人の感想を
ネット上でいくつか読んだけど、
どれも解釈をまちがっているように
おもえてならなかった。
この映画 わたしはもっと高く
評価していいとおもう。
なぜ水着美女とサメのバトルとか
そんなやすっぽい言いかたを
するんだろうか。
水着の美女がサメとバトルしてることは
たしかだが(^^)
でもそんなやすっぽい言葉で
表現されるべき映画だとは
わたしはおもわなかった。
それに 彼女は
「楽しい休暇を過ごす」ために
あのビーチにきたようには
わたしには とてもみえなかった。
哀しみとうまく向き合うことができなくて 
すべてのことをいったんほうりだして
ほんとはそんなことしたって
状況は何も変わらないと 
わかっているのに
逃げてきたようにおもえた。
映画をみていたとき、
「ファミリーツリー」や
「ゼログラヴィティ」に
でてきた登場人物たちが
心にかかえていたような
哀しみの存在をかんじて 
とてもいたましいきもちになった。
彼女ががサメから身を守るために
しがみついた沖の岩場は、
満潮になるととたんに
アップアップになる
危ういかんじが
彼女自身の人生の状況とも
かぶっているようにおもえて
はやく安心できるところに
彼女がたどりついてほしいと
願いながら みたな。 
わたしは。

なんか みんな 
わかってないかんじがしたね。