BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

エンデが「モモ」を書くまで(180922)-180924。

1949年 20歳
オットー・ファルケンベルク演劇学校入学
・俳優養成学校
・家が貧しかった
・父エトガー 画家 あまり売れてない
・劇作家になりたかった
・入試面接で「俳優になりたいわけじゃない」と率直に語る
・美貌だが極度のあがり症
奨学金つきで合格
・学校まじめにいかず落第警告も

※これより以前の少年時代
高等中学(マクシミリアンギムナジウム)
年上の女の子と恋愛関係におちいるも彼女に別の男性と縁談、婚約
この醜聞がきっかけとなり退学に
彼女の両親がふたりの仲をさくために
エンデを転校させる
シュタイナー学校
学費も出した

1950年21歳
オットー・ファルケンベルク演劇学校卒業
レンズブルクのシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州立劇場と俳優として契約
・どさ回りの演芸団のようなもの
・ハンサムではあったが新人のためもあり二枚目役などのいい役つかず

1951年22歳
戯曲「サルタンの二乗」(未公刊)執筆
劇場と契約更新ならずミュンヘンに帰郷
・関係良好だった父とのあいだに葛藤
父が得意としたシュルレアリスムを時代遅れで売れないと批判
・「サルタンの二乗」に自信あり
帰郷ししりあいの批評家や編集者をまねいたパーティーで朗読発表するもリアクション皆無、失敗におわり激しく落胆

※劇団員時代には恋人ハンネ・ローレと
同棲。ハンネの流産を機に別離

1952年23歳
人気女優でのちの妻となるインゲボルク・ホフマンと出会う
・演劇学校時代の友人の紹介
・エンデの最大の理解者にして実際的支援者

1953年24歳
父エトガー家出、愛人のもとへ
・女弟子ロッテ・シュレーゲル
・母ルイゼの精神的危機と生活の困窮

1954年25歳
バイエルン放送局でラジオ構成作家のような仕事をはじめる
・インゲボルクの紹介
・1962年まで勤続

1955年26歳
カバレット「小さい魚」のシラー没後150年記念スケッチを執筆
戯曲「醜き者たち」(未公刊)執筆
・カバレット「cabaret」(キャバレー)、風刺劇や講演、朗読などが催される社交場、「寄席」などと訳される
・スケッチは寸劇
・「醜き者たち」はインゲボルクに捧げられた
・「小さい魚」の仕事はインゲボルクの紹介

1956年26歳
バイエルン放送局の仕事でイタリア旅行
パレルモギムナジウム時代の友人と再会、絵本の執筆を依頼される
・訪伊はこれが2度め
カンタストーリエを聴いておおきな衝撃
カンタストーリエはイタリアの大道芸、講談みたいなもの、演目はアレクサンドル・デュマだったらしい
・何百年のちになっても人びとに親しまれるものを書きたい
パレルモで再会した友人はイラストレーター。新作絵本を作りたいと
・父エトガーと和解のきざし

1958年28歳
絵本のための長編「ジム・ボタン」完成
・500ページ超

※出版社さがし
各社とも作品に興味しめすも、おもにイラストでもめた。エンデは当然イラストレーターの学友に絵をまかせたい。出版社は利益を確実に出すためにできるだけ著名な画家をつけたい。新人のエンデの要望とおるはずもなく当時メジャーだった画家トリップに決まる
最終的に契約した出版社は分巻を提示してきた以外は作品を尊重しおおきな手直しなどを求めなかったという

1960年31歳
「ジム・ボタンと機関車大旅行」出版
同作でドイツ児童文学賞
・ベストセラーに
文学賞で賞金5,000マルク、滞納していた家賃を完済
・生活安定しはじめる
・2年後に続編出版

1964年35歳
インゲボルク・ホフマンと結婚

1965年36歳
父エトガー死去
・関係修復していた
・1957年、叔父(父の弟)に「ひさしぶりにお父さんと食事をした」といった内容の手紙を送っている。しかし「『おまえはいつのまにそんなにペシミストになったのだ』と言われた」とも
・かつてエンデとエトガーはともに厭世的社会批判論をたたかわす友人どうしのような関係をむすんでおり、エンデはそのころとスタンスが変化したつもりはなかった。エンデにいわせれば変わったのは父。年若い女性との恋の幸福に耽溺する父には以前となにもかわらないはずのエンデが妙に「ペシミスト」に見えた
・エトガーは最後まで妻イルゼのもとには戻らなかった(離婚はしていないとみられる)
・アトリエがあったためロッテと家出をしてからも自宅にときおり帰ってくることはあったらしい
・エトガー、遺産相続人に愛人のロッテを指名した遺言をのこしていたがエンデが奔走して自分と母の権利の回復に成功。ただし遺産はそれほど多額ではなかった

1966年37歳
ファライの15世紀の古城を購入
・母やエンデのよき理解者であったおじとの同居を夢見たがほどなくして頓挫→莫大な改修費と暖房代

1967年38歳
フランクフルト市立劇場で「遺産相続ゲーム」初演

1969年40歳
「いたずらっ子の本」刊行
ファライの厳寒に苦しむ

1970年41歳
訪伊、マニエリスム研究の大家グスタフ・ルネ・ホッケと出会う
ホッケの紹介でイタリアに家を購入
・ホッケはエンデの作品を高く評価した
・家はローマ近郊ジェンツァーノ、「カーサ・リオコルネ(一角獣亭)」

1971年42歳
ファライの古城を売却、ジェンツァーノに移住
「モモ」執筆に着手
・「モモ」はテレビ用に構成されていたが一度ボツになっていた

1972年43歳
ファライの古城の購入者に訴えられる
・裁判1979年まで続いたが勝訴した

1973年44歳
「モモ」発表
母ルイゼ死去
・当初は「ジム・ボタン」ほど売れず
・このときもイラストレーターでもめた
結果挿絵はエンデ自身が手がけた

1974年45歳
「モモ」ドイツ児童文学賞

1975年46歳
歌劇「モモと時間泥棒」執筆
・演劇学校時代からつきあいのあった作曲家マーク・ロタールの依頼

1976年47歳
戯曲「サーカス物語」執筆
・舞台用というより読むための戯曲
・「モモ」のジジ・メールヒェンがもと

須賀健太先生の講演より
(2018年9月22日18時~町田)