BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『ボヤンシー 眼差しの向こうに』-200809。

原題:Buoyancy
ロッド・ラスジェン 監督
2019年、オーストラリア

f:id:york8188:20200809131404j:plain

www.youtube.com

近くにイオンシネマができた。
昨日初めて行ってきた。
駅とイオンを結ぶ直通バスがあり、便利なのだが、
映画館発の最終バスは22時すぎと、とても早い。
したがってイオンシネマの客で、
23時とかで終わるレイトショーの人は、
帰りはバスがないことになる。
そういうところの連携の甘さ、どうかと思う(笑)
まあ自分の車で来る人は関係がないだろうけどさ・・・

『ボヤンシー』はちょうど昨日公開だった。

すごく良かったという感じではないが
かなりの良作だったことは間違いないと思う。

綿密な取材にもとづいて作り上げた
フィクションストーリーを通して、
東南アジアの水産業界の、奴隷労働問題の実態を
鋭く告発する作品だった。

カンボジアの農村の少年チャクラは
一家の無給の働き手としてしか扱ってもらえない
自分の毎日に、ほとほと嫌気がさしていた。
学校に行かせてもらえていないことに加え、
きょうだいの中で自分ばかりが重労働を課されている。
ある日、良い出稼ぎの口があると聞きつけた彼は
家族の誰にも相談せず、家を飛び出した。
だが、彼は騙されていた。
チャクラは奴隷として漁船に売り払われ、
暴力と虐待にまみれた劣悪な環境下で
働かされることとなってしまう。

・・・

身もフタもない形容をすれば、
小林多喜二の『蟹工船』のような舞台装置で、
『存在のない子供たち』(2018年)をやりました、
というような印象。
あくまでも「印象」であり
本当にそのまんま、ということじゃないんだけど。
こんな風に既存の作品を引き合いに出して
ザツに喩えてしまえるという点で、
すでに「新しさ」で評価されるような作品とは言えないから、
その意味では「すごく良かったという感じではない」。
けど、もちろん「新しい所があるかどうか」だけが、
映画の良しあしの評価基準じゃない。

『ボヤンシー』は、
海や農村風景などの背景映像の美しさと、
人間の所為の醜悪さ、
という対比が、すごく効いてたと思う。
この映画で描かれるもののなかで、
醜悪で汚くて、勝手に傷付け合い、お互いに損なって、
秩序ってものがないのは、人間だけだった。
そこが、静かに、でも執拗に強調されていて、
とてもうまかったんじゃないかなと思う。

・・・

チャクラたちが働かされる漁船の上では、
恐ろしいことや、常軌を逸したことが
次々と起こるのだが、
誰ひとりとして、
そんなに目に見えて動揺していなかったのが、
かえってリアルに思えた。
もしわたしが彼らの立場だったらと想像すると、
わたしも、ああいう極限状況下で、
泣いたり叫んだりと感情を素直に解放することは、
多分できないので、リアルだ、と思った。

・・・

チャクラが己の人間性を手放していくプロセスが、
じわじわと、そろそろと、描き出されていた。
はじまりはココだった! と明確には言えないが、
この時点ではすでに始まっていた、とわかるような、
最初のタイミングは、ちゃんとあった。

漁船の奴隷にされたチャクラは
同じ境遇の年上の男性労働者と親しくなる。
(ちなみにこの男性、
 お笑いコンビFUJIWARA
 藤本敏史さんに似てた・・・)
ふたりは初めて会った時からまるで父子のように、
支え合い助け合って、過酷な労働に耐えていく。
チャクラは父や兄に反発して家出してきていたし、
性労働者は、地元に妻子を置いてきていた。
それぞれの心にあいた穴を埋める存在として、
お互いを必要としたのだろう。
性労働者は決して利口な方ではなく、頼りないのだが、
彼なりに精一杯、若いチャクラをいたわり、かばう。
毎晩、狭い船室で、チャクラが横になれる隙間を確保し、
自分のまくらまでゆずってやるのだ。
だが、この男性労働者、極度のストレスからか、
しだいに発狂のきざしを見せ始める。
ある時、束の間の小休止を与えられたものの、
全員の休み時間が、途中で切り上げとなる。
性労働者がヘマをしたことのペナルティだった。
滅多にない休息時間を満喫していたチャクラは、
命じられて仕方なく船に上がると、
オドオドする男性労働者を冷たく睨みつける。
これまで、あんなに優しくしてもらってきたのに。
この時の少年の、うらめしそうなまなざしを見た時、
はっきり感じた。
心の中が変わってきてしまったんだなと。

性労働者に加えられる、過酷な罰の場面は、
本当にひどかった。
あまりにもむごくて、目をつぶってしまった。

・・・

14歳のチャクラはあの船の奴隷の中で一番若かった。
また、網にかかったものの中に、
商品にはならないが捨てるにはもったいないような
大きな魚などがあれば、船主に献上する・・・という
「役目」を仰せつかっていた。
船主の所に魚を持って行くと、
たまに、おこぼれに切り身をもらったりしていて
変なかわいがられ方をしていた。
それをみていて、個人的には、
いつかチャクラは、労働力としてだけでなく
性的搾取の対象にまでされてしまうのではないかと
ひやひやしたが、どうやらその展開だけはなかった。
(この映画の中で、なかったというだけで、
 実際の奴隷労働の現場では、
 そういうことも起こっているんじゃないかと
 思うけど・・・)

・・・

ひとつ、一応言っておきたいことがある。
船主たちの、奴隷の扱い方は、本当にひどいのだが、
その船主たち自身も、過酷な環境下で働いていた。
漁は、いつも遠い沖合に何日も留まって行われ、
上陸する機会はとても少なかったし、
彼らは奴隷たちよりもはるかに早起きで、
奴隷を休まず働かせ、苛め抜くことに関して、
手抜きということがまったくなく、熱心だった。

また、ボスはチャクラにこういうことも言っていた。
「俺もお前くらいの年から今までずっと船に乗り、
 すべて経験してきた。
 お前が今見ているものなんかより、
 もっとすごいものだって見てきた」

・・・

ラストの展開は、あらかじめ予想できていた。
(その意味では、
 ちょっと脚本が安直すぎると言えなくもない)
というか、チャクラはあの選択をして当然だ。
あれ以外の選択をすることは考えにくい。
だが、なんだか、それにしては、
「希望」を感じさせる雰囲気のうちに、
物語の幕がおろされていた。
そのことについては、正直言って、どうかと思った。
チャクラがあの船の上で見たこと、したことは、
決して消えないのだ。
だからこそチャクラは、
あの道を選んだのではなかったのか。

なのにあのように、
明るい未来を思わせる終わり方では、
チャクラが見たこと、したことの意味や重みは、
いったいどうなってしまったというんだろうか。