BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

本から

例えば、「サッカーのセンス」とは、身体能力の話をしているので遺伝もあると思うのですが、「表現のセンス」は遺伝ではありません。

(中略)

どうやって勉強したらいいの? という話の前に、「勉強すればセンスは身に付く」ということから話は始まります。極端に言えば、美術出版社から出ている『カラー版 西洋美術史』という西洋美術の本や、『カラー版 日本美術史』という本があるので、そこに載っている人物を1ページ目から最後まで全部覚えるだけでも、相当センスがよくなると思うんです。

(中略)

今の美術教育というものはそれくらい「書く教育」とか「作る教育」に終始してしまっているんです。書くことや作ることは最後の手段なので、そこの前に知識の集積をしなくてはならないのに、英語で例えるなら「ABC」や「This is a pen.」も知らないうちに、いきなり英語で小説を書きなさい、というくらいハードルが高いことを教えているわけです。

だからこそ、まずは美術への誤解を解くというところからスタートになります。欧米では、哲学からもデザインや美意識を学ぶようです。哲学とは人の生き死ににまつわるものなので、「どう生きてどう死ぬか」「死ぬまでに何をするか」ということ自体が美意識である、と考えているからです。「美しく生きたい」と思うようになると、例えば茶道や華道でもやってみようかとなり、どんどん関心の幅が広がっていくはずです。美術は、意外に身近なところから学ぶことができるのです。

 

日本経済新聞出版社

六本木未来大学 講義録1

『0→1を生み出す発想の極意」より

 

 

発想とはセンスで

センスとは天から降りてくるもので

理論ではどうにもならない、だから

わたしにはできなくても

しかたないんだと

思おうとしていた。

 

バカか、

しっかりしろ、と

頭をひっぱたかれたような

感じさえする

他ブログ更新中-『勝手にふるえてろ』レビュー-191030。

www.une-cabane.com

www.cinematoday.jp

 

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体調を崩してしまい、
10月いっぱいこっちのブログは休止状態。
これだけ、何とか書けた。
松岡茉優ちゃん すばらしかった。

恋愛ってのは 選ばれた上等な人間のみに
ゆるされた 高等遊戯なんじゃないかなと思っている。
実際 高等遊戯だろう。
でも、選ばれた上等な人間しか
「やってはいけない」というわけでは
ないのかもしれないなあと思った、
勝手にふるえてろ」を観て。

読者登録ありがとう/ジョーカーまた観たい/腹が立ったこと-191029。

読者登録をしてくださるとか

超うれしいな。

自分がこの世界にちゃんと

存在しているんだということを

確認できる。(そ、そこから・・・)

 

ありがとう。

 

1文字、1画にいたるまで

あなたに贈るつもりで

書いていきます。

 

それにしても

「ジョーカー」が

また観たい。

スゴイ映画だった。

恋のようにいつもいつも

あの映画のことを考えている。

 

今日はちょっと腹が立った。

交差点の横断歩道を 青信号で

歩いて渡っていたら

わたしの右前方から

乗用車が入ってきて

わたしのことをひきころしても

いいや、くらいに思っているかのような

勢いで煽ってきた。

仮に、青色の歩行者信号が

点滅を始めてでもいたならば

わたしがのんびり歩いていたら

そりゃあ

早く渡れや、とイライラもするだろう

ちょっと車を進めちゃおうかなと

いう気にもなるだろう

だが青信号だった。

あんな勢いで入ってこなくても!

車の鼻っ柱が

わたしのヒザに当たりかねない

距離感で迫ってきた。

すごく不当な扱いを受けたような

嫌な気持ちになり

声に出して

何てことするんですか! と言い

運転席のあたりを

にらみつけてしまった。

余計なことをしたかもしれないと

やったそばから すこし悔やんだ。

運転手が、へんな人だったら

悶着が起こったかもしれない。

でも、その交差点のすぐそばに

わたしの目的地があった。

運転手がへんな人で

最悪追っかけてこられたとしても

あそこに避難しちゃえば

人がいる。

おまわりさんを呼ぶことも可能だ。

と 瞬時に計算し ひとまず

自分を安心させた。

光のかげんで

車のなかの運転手の顔は

よく見えなかった。

車をおりて、追いかけてきたりは

しなかった。

まあ交通量の多い交差点だしな。

いやなものだった。

はっきりいって

くたばれ! と思っている。

 

 

 

庭にネコ/宗教のようなもの-191027。

庭に面した掃き出し窓を開け
網戸だけにして 日光を入れて 本を読んでいたら
庭に ネコが入ってきた。
毛並みがなめらかだ。どこかのお宅の子だろう。
見た感じ10歳前後、もう大人という感じだった。
ゆっくりと歩いていた。
足音がせず優雅だ。ネコの歩きかたは美しい。
実は夜などにたまに カーテンごしに影がゆれるので
庭がネコの散歩道になっているらしいことは気付いていた。
どんなネコか姿を見るのは今日が初めてだった。
わたしはネコが好きだ。
ネコには しかし嫌われる。
また来てくれると良いなと思っている。

セキが出なくなったおかげで
安心して外に出かけられるようになった。
カフェにパソコンを持ち込んで仕事をした。
駅の近くにあるお店だからか お客の出入りがさかんだった。
5~6人の奥さんがたの一団がどやどやと入ってきた。
中越しに聞こえる声から判断したにすぎないが
まあ50代後半くらいからの奥さんがただ。
テーブルを勝手に並べ替えたり
あっちこっちから椅子を持ってきたり
「あたしたちここに座りたいのであっちに移ってくださる?」
と 先にテーブルについていた別のお客さんに
交渉をもちかけて移動させるなど
奥さんがたはとてもアグレッシブだった。
わたしならそこまでやろうと考えないと思う。
奥さんがたのリーダー格というか
中心となってずーっとしゃべっている女性がいた。
彼女が何者かわからない。
彼女は宗教のようなものの話をしていた。
神さま仏さまのようなもののの話をしていた。
口角泡飛ばす勢いだった。
神を敬えばこそ神からのお返しを受けることもできる
神からお返しを受けられない人は神を敬っていない
ということをそりゃもうしきりに語っていた。
声が甲高いので聞きたくなくても聞こえてくる。

しかし5~6人で来たはずなのに
最後には おしゃべりなその奥さんと
聞き役の大人しい女性のふたりきりに
なっていたのがおもしろかった。

わたしは特定の宗教に帰依していないが
帰依していないからこそなのか
宗教への関心はたぶん人一倍 強い。

だけど宗教のようなものはうっとうしい。
宗教のようなもの、と感じただけで
ものすごくうっとうしい。
宗教ではなく
宗教のようなものだ。
神さま仏さまではなく
神さま仏さまのようなものだ。

スゲーうっとうしい。
なんなんだ。
どうしてうっとうしいんだろう。

どうしてうっとうしいんだろう。

うっせー! だまれ! 帰れ! 家でやれ!
と どなりつけたくなるくらい うっとうしかった。

イヤホンで耳をふさいで
ラジオを最大音量でかけてしのいだ。

そういえばこのまえ
最近知り合った、けったいな古本屋の店主が
俺の友だちにハード・クリスチャンがいる
と話していた。
クリスチャンのなかでもハードな部類ということだろう
説明を受けなくても何となく想像はできる
ハードになればなるほどガチガチの排他主義とは
対極的なありかたをするのだろう
ものごとは何でもだいたいそういうもんだ。
話を聞いてみると実際そういうかんじだった 
ハード・クリスチャンという表現を初めて聞いた。
おもしろかった。

復調へ。

日に日に復調。

けさ 息苦しさ セキこみ ついになくなったことにきづき、かなり感動。

このままいくと良い。

夜中にまだすこし

ゼーゼーヒューヒュー

いうのが、やや不安ではある。

本当に自分の体が発している音なのか

毎度、耳を疑う。

のどから出ているはずだが、

はるか遠くで鳴っているようにも聞こえる。

わたしはいまだかつて

こんな音を出したことがない。

こんな音、初めて聞いた、

という体験と言えば、

実家でネコを世話するようになって、

まだ間もなかった頃、

家にひとりでいたとき

家の中のどこかから

シュコシュコ、というような?

ピコ、ピコというような?

言葉では表現することが難しい

音が聞こえて

狼狽したことがあった。

強いてたとえるなら

小型のポンプか何かを押す時、

こんな音がもしかしたらするかなと。

音の出どころを探した。

居間で、ネコが、毛玉を吐こうとしていた。

ネコと暮らすのが初めてだった

わたしにとって

毛玉を吐くことがある、というのを

データとして認識していても、

それがどんなふうに行われるものか

見たのはこれが最初の最初だった。

おなかのなかの毛玉を口まで押し戻すために、

体をポンプのように

(としか表現のしようがないのだが)

リズミカルに躍動させていた。

その全身的な運動が

小型のポンプを押しているような、

ピコ、ピコみたいな音を出していた。

 

生きた動物の体からでているとは

にわかに信じがたい

きわめて機械的な音だった。

ともあれ

ああ、毛玉が吐きたかったのか、

と わかって

こちらとしても安心し

とりあえず手拍子でエールを送った。

やがて、うえっ、と

首尾良く毛玉を吐いたネコは

めんどくさそうにわたしを一瞥したあと

ダダッと走り去った。

わたしは粛々と毛玉を片付けた。

 

なんの話をしていたんだったか。

 

次の通院まで

薬を、わすれずに、最後まで入れる。

もう二度と発作などという

つらいものが

おこりませんように。

無罪放免となりますように。

 

気持ちは、前向きで元気だ。

体、ちゃんと動く。

頭も問題ない。

 

ゼンソクにコーヒーなど

もっての他と、

どこかで聞いた気もするのだが

勘違いかもしれない。

もしダメでも、のみたいものは、のみたい。

朝 散歩にでたついでに

コンビニで

ボス コーヒーファームブラックを

買って帰り、

牛乳を少しいれてのんだ。

 

なんということだ。

おいしいぞ。

ボス コーヒーファーム ブラックめ。

 

化物語というアニメを観ている。

無内容だが機智にとむセリフの応酬。

ほんのすこし小林泰三風味。

深刻にならずに観ていられる。

ポーカーフェイスで口調に抑揚のない

ロボットみたいな美少女のヒロインが

たまに見せる笑顔、あふれる涙。

 

声優とはすごい職業だ。

 

リヴァイの人が 主人公の少年を

演じている。

 

西尾維新は読んだことがないが

わたし たぶん好きだろう。

 

図書館でかりた本の

返却期限が切れている。

返しにいかなくては。

服装にケチがつくこと-191025。

即位礼の儀式に参列した際の
首相夫人の服装のことが
ネット上でいろいろ言われていることを知った。

装いにケチがついた時って、気分は最悪だ。

特に 
他の誰でもなく、自分自身が
「失敗したな・・・」って、思っている時。

いまいち気に入ってない装いで来てしまった時。
それから、直前までは本当に気に入ってるつもりだったけど
例えば家に姿見がなくて、すでに目的地に到着した段階で 
化粧室などに設置されている大きな鏡に全身をうつして見てみたら
何か意外とパッとしないことに気づいて内心落ち込んだ時。
その場の他の人たちの服装を見て、「しまった」と思った時。
・・・どれもこれも、最悪だ。
何がつらいかと言えば、
その気持ちを抱えて 一日を過ごさなくちゃならないこと。
こんな不幸な一日はそうそうない。

自分で見ればはっきりわかる。自分の気持ちの問題だ。
仮に人に あなたの今日の服装ステキだねと言ってもらえても、
自分が納得できていない時は、浮上できないものだ。

あの日のあの服装を一生後悔
・・・ということも あると思う。

そんな事態を回避する方法は 
いくつか それなりに あるものだ。
お金で解決できることならそうした方が良い。
すごく極端だが 例えば、 
この服を着て出かけるのは今日の夜からだけど
服装がまずいことに昼間に気づいた・・・とか
どうしても、何となく、この服じゃない感じが
急にしてきた・・・という場合
即刻デパートにかけこんで一式買い直すくらいのことも
した方が良い時がある。

気持ちの問題なのだ。
自分が気分良く、自信を持っていられなくては
しかたがない。

わたしのようなのでも 
服装で 「やっちゃった・・・」ってなると 
本当に落ちこむ。
こと「ファーストレディー」ともなれば
これはもうすっごく 大変に違いない。

多分、本人こそ、いち早く 
「やっちゃった」と思ったんだろう。
かわいそうだ。
そっとしておくべきだ。
彼女が専任のスタイリストを付けていないなら
どうか付けてもらえますようにと かげながら祈りつつ
なまあたたかく見守るくらいにした方が良い。

われらが選んだ首相の細君なのであるし。

アンナ・カヴァン「上の世界へ」を読んで今思うこと-191025。

「あなたのこれまでの困った振る舞いを、私たちはたいへん残念に思い、案じてきました。あなたは、どんなことに対しても、私たちがどのように願っているか、一度として助言を求めることなく、頑なに自分だけのやり方を通してきました。そして、困った状況に追い込まれた時になって初めてやってきて、何とかしてくれと頼んでいるのです」

「あなたたちにはわかっていません」

私は叫ぶ。目に涙があふれるのを感じて、情けない思いでいっぱいになる。

「今回のことは生きるか死ぬかの問題なんです。どうか、これまでのことを持ち出して責めないでください。気に障ることをしてきたのであれば謝ります。でも、あなた方は何でも持っているし、何だって惜しみなく分け与えられる身分です。あなた方にとって、私の願いなど、どうということもないはずです。ああ、私がどれだけ、もう一度太陽の照るところで過ごしたいと思っているか、それさえわかってもらえれば!」

アンナ・カヴァン
「上の世界へ」
原題:Going Up in the World
アサイラム・ピース』収録 
ちくま文庫山田和子

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www.chikumashobo.co.jp


この掌編に、人は何を感じるのだろう。
何について書かれた物語だと、人はとらえるのだろう。
わたしは、
「できそこないの子」と、「それを持て余す家族」
の関係の物語だと感じた。
わたしと、わたしの家族のことが書かれていると。
「私」は、このわたし自身。
パトロン/パトロネス/あなた方」は
母親を主とするわたしの家族、あの一族だ。

だが、
「私」がするような哀訴を、わたしはしたことがない。
「あなたたちにはわかっていません」から始まる 
あさましいまでの嘆願のごときものを、
一回もしたことがない。
何を言っても決してわかってもらえはしないと思ってきた。
泣き叫ばなかった代わりに、いくらでも嘘をついた。
または、自分では嘆願をせずに、人を頼ったことも。
「どうにかしてわたしが自分で伝えたい、
 自分で伝えて、わかってもらわなくてはならない」
と考えなかった。
あるいは
「自分はどうしてもこれが欲しい。甚だ残念だが、
 それは家族から引き出すことによってしか得られない。
 だから、家族を説得して、出してもらうしかない」
という事実を受け入れることが、どうしてもできなかった。

それほどまでに家族に何かを伝えたいと思ったことがなかったし、
何かを欲しいと思ったこともなかったように思うし、
仮に望むものが与えられたとしても幸せではなかった。
欲するところのものが、
家族に頼まなければ得られない類のものであると知ると、
わたしは、欲することを早々にあきらめた。
やがて欲しいものが「自分自身の今後の人生」
というかなり重要なものとなった。
それが母親から「引き剥がさなければ」
得られなくなってしまっていることに気づいた。
わたしは自分で戦いぬく力など持ち合わせていなかった。
人を頼るしかなかった。
人の力に頼らないと、自分の人生も取り戻せなかった。

わたしは この先もできないんじゃないかと思う。
わたしの欲しいものが
家族からしか引き出せないものなのだとしたら
わたしは、「欲しいもの」が何であるかによらず、 
獲得することそれ自体をまたぞろ断念してしまいそうだ。
あきらめるなんて、戦うことよりもはるかに簡単だ。

家族は、わたしという存在に呆れ果てているだろう。
・・・こちらの言い分、要求、課題設定には
まったく聞く耳を持たずに、
自分のやりたいことをやりたいようにやっているくせに、
どうにもならなくなってから急にすりよってきて、
助けてもらって当然だという顔でいる・・・。

家族がわたしのことをそう思っているとして、
誰が聞いてももしかしたらそれは、
「至極もっともな言い分」なのかもしれない。
だけど、わたしは、思えない。
「家族のわたしへの思いはもっともなことだ。
 わたしの行状は見下げ果てたもので、これでは家族が
 わたしをゴミクズを見るような目で見るのも当然だ。
 家族としての温かい関係を築き直すために、
 これからは彼らの言い分をよく聞き、
 その意に沿うよう努め、
 思いやりと分別のある付き合いを心がけよう」
と。
どうにもまったく、そう考えることができそうにない。

わたしには家族の姿はほとんど見えていないかも。
わたしは自分のことさえほとんど見えていないのだから。
家族にわたしがどう見えているのかも、正確にはわからない。

わたしは 
あの人たちの顔をいずれ見なくてはならないと
考えることさえ、今や、たまらなくイヤだ。
お金を払えばその苦痛を他人に肩代わりしてもらえる
というならば わたしはお金を払う。
それで破滅してもいっこうにかまわない。

だが思うのは、
哀訴をしようと思えないことまで含めて
わたしの場合はそれこそが
家族への哀訴なのかもしれないということだ。