BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

アンナ・カヴァン「上の世界へ」を読んで今思うこと-191025。

「あなたのこれまでの困った振る舞いを、私たちはたいへん残念に思い、案じてきました。あなたは、どんなことに対しても、私たちがどのように願っているか、一度として助言を求めることなく、頑なに自分だけのやり方を通してきました。そして、困った状況に追い込まれた時になって初めてやってきて、何とかしてくれと頼んでいるのです」

「あなたたちにはわかっていません」

私は叫ぶ。目に涙があふれるのを感じて、情けない思いでいっぱいになる。

「今回のことは生きるか死ぬかの問題なんです。どうか、これまでのことを持ち出して責めないでください。気に障ることをしてきたのであれば謝ります。でも、あなた方は何でも持っているし、何だって惜しみなく分け与えられる身分です。あなた方にとって、私の願いなど、どうということもないはずです。ああ、私がどれだけ、もう一度太陽の照るところで過ごしたいと思っているか、それさえわかってもらえれば!」

アンナ・カヴァン
「上の世界へ」
原題:Going Up in the World
アサイラム・ピース』収録 
ちくま文庫山田和子

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この掌編に、人は何を感じるのだろう。
何について書かれた物語だと、人はとらえるのだろう。
わたしは、
「できそこないの子」と、「それを持て余す家族」
の関係の物語だと感じた。
わたしと、わたしの家族のことが書かれていると。
「私」は、このわたし自身。
パトロン/パトロネス/あなた方」は
母親を主とするわたしの家族、あの一族だ。

だが、
「私」がするような哀訴を、わたしはしたことがない。
「あなたたちにはわかっていません」から始まる 
あさましいまでの嘆願のごときものを、
一回もしたことがない。
何を言っても決してわかってもらえはしないと思ってきた。
泣き叫ばなかった代わりに、いくらでも嘘をついた。
または、自分では嘆願をせずに、人を頼ったことも。
「どうにかしてわたしが自分で伝えたい、
 自分で伝えて、わかってもらわなくてはならない」
と考えなかった。
あるいは
「自分はどうしてもこれが欲しい。甚だ残念だが、
 それは家族から引き出すことによってしか得られない。
 だから、家族を説得して、出してもらうしかない」
という事実を受け入れることが、どうしてもできなかった。

それほどまでに家族に何かを伝えたいと思ったことがなかったし、
何かを欲しいと思ったこともなかったように思うし、
仮に望むものが与えられたとしても幸せではなかった。
欲するところのものが、
家族に頼まなければ得られない類のものであると知ると、
わたしは、欲することを早々にあきらめた。
やがて欲しいものが「自分自身の今後の人生」
というかなり重要なものとなった。
それが母親から「引き剥がさなければ」
得られなくなってしまっていることに気づいた。
わたしは自分で戦いぬく力など持ち合わせていなかった。
人を頼るしかなかった。
人の力に頼らないと、自分の人生も取り戻せなかった。

わたしは この先もできないんじゃないかと思う。
わたしの欲しいものが
家族からしか引き出せないものなのだとしたら
わたしは、「欲しいもの」が何であるかによらず、 
獲得することそれ自体をまたぞろ断念してしまいそうだ。
あきらめるなんて、戦うことよりもはるかに簡単だ。

家族は、わたしという存在に呆れ果てているだろう。
・・・こちらの言い分、要求、課題設定には
まったく聞く耳を持たずに、
自分のやりたいことをやりたいようにやっているくせに、
どうにもならなくなってから急にすりよってきて、
助けてもらって当然だという顔でいる・・・。

家族がわたしのことをそう思っているとして、
誰が聞いてももしかしたらそれは、
「至極もっともな言い分」なのかもしれない。
だけど、わたしは、思えない。
「家族のわたしへの思いはもっともなことだ。
 わたしの行状は見下げ果てたもので、これでは家族が
 わたしをゴミクズを見るような目で見るのも当然だ。
 家族としての温かい関係を築き直すために、
 これからは彼らの言い分をよく聞き、
 その意に沿うよう努め、
 思いやりと分別のある付き合いを心がけよう」
と。
どうにもまったく、そう考えることができそうにない。

わたしには家族の姿はほとんど見えていないかも。
わたしは自分のことさえほとんど見えていないのだから。
家族にわたしがどう見えているのかも、正確にはわからない。

わたしは 
あの人たちの顔をいずれ見なくてはならないと
考えることさえ、今や、たまらなくイヤだ。
お金を払えばその苦痛を他人に肩代わりしてもらえる
というならば わたしはお金を払う。
それで破滅してもいっこうにかまわない。

だが思うのは、
哀訴をしようと思えないことまで含めて
わたしの場合はそれこそが
家族への哀訴なのかもしれないということだ。