BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

ノンストリングスオーケストラ NSO 第4回公演(20171017)

数か月前に会社に申請して 早退手続きをとっておき
きのうは なんとかかんとか 仕事をきりあげ予定通り早退した。
申請がとおり、手続きをすませたからといっても、
じっさいに仕事がおわんないんじゃ、早退はできないもんで、
そこはほんとに必死だった。
きゅうな取材とか 自分にまわってくることがないように
原稿をいつもよりおおめにひきうけ 周囲の手伝いもかかさず
みんながやりたがらないページをすすんで担当し
恩を売っとくというと聞こえがアレだが 根回しは抜け目なく。
上がれてよかった。

もうこのさきしばらくは、平日に休暇をもらったり
早退したり遅れていったり的なことをする予定はない。
なんといっても「年末進行」がひかえている。
暮れまでは がんばって仕事ひとすじに
駆け抜けるつもりだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なぜ早退する必要があったかというと
「ノン・ストリングス・オーケストラ」という特殊な編成の
オーケストラの公演があり、
それを なんとしても聴きに行きたかったからだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

が、それに行くまえに
職場から歩いて25分くらいのところにある病院にいって、
ここに入院している友人をおみまいしといた。
新大久保駅周辺には 初めて行った。
東京にはほんとにいろんな地域があるね。
外国みたいだったな。
職業安定所交差点あたりも たいしたもんだとおもってたけど。
場所によってぜんぜん雰囲気がちがうんだなあ。

おみまいに 本を数冊もっていった。
事前に約束したものではあるが
かさばって わるいことしたかもしんない。
一両日中にも退院のようなことを言っていたし。
けど まあ 夫君が持って帰るなりなんなりしてくれるだろう。

退院して外でまた会えるのをたのしみにしている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

南北線 六本木一丁目または溜池山王駅ちかくの
サントリーホールにむかい
目的の公演を聴いてきた。

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www.kazuofujii.com


クラリネット演奏家で 楽団の創設者・公演指揮者の藤井一男氏のサイト。

ノンストリングスオーケストラ
第4回公演
サントリーホール
2017.10.17 19:00開演
藤井一男 指揮

シベリウス 交響詩フィンランディア Op.26
モーツアルト オーボエ協奏曲ハ長調 k314 全曲
 ※オーボエ:宮村和宏
チャイコフスキー 交響曲第6番ロ短調 Op.74「悲愴」 全曲
およびアンコール
J・S・バッハ「主よ、人の望みの喜びよ」BWV147

標準的なオーケストラの管打楽器編成に、
コントラバスをのぞく弦楽器群を クラリネットに総入れ替え
という すごく実験的なフォーメーションのオーケストラだ。
吹奏楽のようだけれども想像するとあきらかにちがい、
話をきいただけでは、
わたしにはちょっと サウンドをイメージすることができなかった。
東京クラリネットクワイアー的な 大規模アンサンブルを聴く限り
クラリネットという楽器は
徒党をくむと 音がどこにも溶け込まなくなるというか
悪浮きし 妙に硬質になるという印象があり、
オーケストラの弦の部分を担当することがはたして
可能なのかなという きもちもあった。
弦がやるのとまったくおなじことをクラリネットでとなると
ものすごい技術力が要求されるとも おもったし・・

公演があると知って 聴いてみたくなり
仕事を早びけしてやってきたというわけ。

結果としては、
率直に言って想像をはるかにこえるハイレベルな演奏だった。
胸をうたれた。

クラリネット群の鍛えられかたが なにしろすごかった。
あの ぜったいにヨレない!って思わせてくれる
伸びとまとまり、色彩感は
往年のフィラデルフィア管弦楽団の弦みたいだなとか 
おもってしまった。
いーよね フィラデルフィア管弦楽団。だいすき(^^)
きっと なまはんかな練習ではなかったろう。
サウンドが悪浮きし硬くなるものなんじゃないのかな、という
印象はすっかり払しょくされた。
どうやってその問題を解消してたのかぜんぜんわからないけど。
(その問題じたいが わたしのかんちがいで、そもそも
問題なんて なかったのかもしれないけど。)
サウンドはどこまでもやわらかく あたたかく、
ボリュームの幅は無理なく しかも際限なくひろく、
音色と音の扱いはみごとに統一がはかられ、
パート間 他セクション間の連絡連携もばっちり。
弦がやることを クラリネットでやるというのは
相当たいへんなことだとおもってたが
個々の技術力、集中力ともにすぐれ
高水準の演奏が一貫して実現されていた。
安心してたのしくのめりこむことができる。
悲愴の第3楽章と アンコールのバッハの冒頭・中間あたりで
あ、疲れてるな・・ということは少し感じたが、
ちいさなほころびをすばやく収拾・回復していて
感心させられた。

第1ヴァイオリンにあたるセクションの
コンサートマスターの左斜め後ろか、さらにその真後ろで吹いていた
ノースリーブの衣装の女性奏者だとおもうが(位置を忘れちゃった。)
ものすごく上手だった。高い音がきれいだった。
一瞬 ミスをしたらしい音がきこえてきたときがあって、
たまたまその瞬間に その人のことを オペラグラスで見てたので 
わかったのだが。
異様に美しい音だったのでずーっと執念深く
彼女の音だけを全体からとりだして 聴き入ってしまった。
途中でこれはつまらんことをしている。と気づいて やめたが。
演奏会がおわったあとに 
奏者がロビーにでてきてあいさつをしていたので
もしもあの女性がいたら いい音でした、と一言 つたえたいと
おもったくらいだったが ロビーがすごく混んでて
彼女がいたとしても とてもそこまでたどりつけそうになかった。
まあ面識のない客にいきなり あなたとてもよかった!と
ソロもないのに 言われても 本人も困るだけだとはおもうが(^^)

フィンランディアは わたし個人にとり
鬼門的な曲であるため
感想は書かない。
あの曲は わたしは冷静に聴くことが一生できない。
好きすぎるから。

オーボエ協奏曲はとってもよかった。
オーボエの演奏に 心がいやされたことなんて
いままで一回だって なかったけど
今回はそのオーボエへのイメージが
おおきく変わるきっかけとなったとおもう。
心がはずみ しぜんと笑顔になってしまうような たのしい演奏だった。
アゴーギクがめちゃくちゃ上手。
いやらしくならず おしゃれなかんじだ。
それに、難しくって 聴いてるこっちの胃に穴があくかんじの楽器を
あれほどたのしそうに よゆうありげに吹く人なんて 
ついぞ お目にかかったことがない。
もっとこう 眉間にしわよせて青筋立てて
必死な顔で吹くもんでしょ オーボエって(^^)
リードのこととか 絶えず超気にしてて。
それがあのソリストのかたは
まるで音楽そのもの、楽器そのものみたいな。
あんな演奏家がいるんだねえ。
聴けてしあわせだった。
アルビノーニとか 聴きなおしてみるかなあ。

それに、彼と対話をくりひろげるオーケストラのほうも
力がいいかんじにぬけた演奏で よかった。
ソリストが カデンツァを終えてもどってきたときに
見た感じ ほんのちょっとだけだが おそらくリハーサルと
ちがうことをやろうとした局面があった。
アドリブというほどでもないが、
入りのテンポを落とそうとした・・・というか
テンポをあげていくタイミングをすこしだけ遅らせた?のと、
同じフレーズを2回くりかえすところで、
2回目の音の 処理の内容を 予定と異なるものに変えた 
のではないかとおもう。
そこは、ソリストがやったこととまったくおなじ
ことを オケが繰り返すことで会話する、というものだった。
ソリストが「たららら」と吹いたら
オケも「たららら」、
ソリストが「ららららん」とやったら
オケも「ららららん」と 返事するのが
原則、会話というやつだ。
だが2回ともまったくおなじふうにやる予定が
2回目はちょっと変えたいかな、となった場合にそなえて
集中してソリストの音を聴いてないと 
的確な返事は できない。
コンサートマスターソリストの要求をちゃんと見ていて
あわてずさわがず 全体に伝達し 対応してた。
ソリストも「これやってだいじょうぶだよね(^^)?」って
ちゃんと空気をわかって やってたとおもう。
オーケストラにはこの程度 当然の仕事ともいえるけれども
ノンストリングスオーケストラは まだ百戦錬磨の常設オケではない。
かわいらしくって イイ場面をみたとおもった。

・悲愴なんかは むしろ
ノンストリングスオーケストラのために
チャイコフスキーが書いた曲なんじゃなかったっけ。
クラリネットのちょっぴりさびしそうで みずみずしい音色や
とくいのピアニシモが 図ったかのように 活きていたとおもうけど。
え、ノンストリングスオーケストラのための交響曲「悲愴」じゃ
なかったっけ(^^)??
第2楽章と最終楽章は あまりにきれいで
ちょっと泣きそうになっちゃった。
マーラーの9番のおわりかたもいいが
悲愴もほんと 胸にせまるよ。

今回の公演にはゲストアーティストというので
コンチェルトの独奏のオーボエにくわえて
クラリネットバスクラリネット、フルート、トランペット、
トロンボーンに ほかのプロオケなどで活動している演奏家
参加していた。
彼らの指揮への反応、集中力の発揮のされかたは
やはり ほかのプレイヤーとなにか・・・違ったとおもう。
見た目(アクション)もそうなのだが、
オーラとでも言わないことには表現のしようのない
なにかが にじみでていて、遠くからでも歴然とわかるのだ。
ほかのプレイヤーたちもみんなそれぞれにとてもいいのだが
ゲストアーティストたちは 息の扱いかたとスピードとが
段違いであり、彼らにひっぱられて全体の演奏のクラスも
うなぎのぼりにアップし 
刻一刻 高次に変容を遂げていくのが 
聴いていてはっきりとわかった。
世の中 一流のなかにもやっぱり一流っての いるもんだとも言えるが、
どんなインフルエンサーがいようとも
変わる力が 受け手になければ変わらないのだから
変わることができる力をもったオーケストラということだ。

指揮の藤井一男氏が書かれた
プログラムの「ごあいさつ」に
こんな一節があった。

吹奏楽もここ数年は素晴らしいオリジナル曲が増えたお陰で、
以前のようにクラシックの管弦楽曲を取り上げる頻度が
減少する傾向があります。その分、吹奏楽部に所属する人たちが、
いわゆるクラシック音楽から距離を置く傾向も見えます」。

それが事実ならほんとにさびしいことだ。
市民楽団とか大学のサークルなら
わかってて選ぶことだから 自由だが
学校、なかでも小中高の クラブ活動としての吹奏楽
若い人たちの教育のために やるもんでもあるのだから
指導者がある程度 導いていくことがだいじなはずだ。
せっかく吹奏楽をとおして 音楽に深くふれるのに
若い人たちクラシック音楽から 離れていくことを
看過するなんて もったいない話だ。
若い人たちが あの宝物のような音楽たちを
愛でていけるように 導いてほしいとおもう。
とても楽しいものなんだから。

なんで距離を置いちゃうかねえ~。

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考えてみればスゴイ位置から聴いたものだ。








映画の感想-「スクランブル(2017)」-171018。

原題:Overdrive
アントニオ・ネグレ監督
2017年、仏・米

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movie.walkerplus.com

※ねたばれ的なことは書かないが
内容には触れる。すきほうだい 言う。

物語の主人公は、
高級クラシックカー専門の
強盗をなりわいとする
フォスター兄弟。
ろくでもないことをやっているが
兄のアンドリューは 
クラシックカーの知識が
とにかくすさまじく豊富、
どんな車もみただけで
製造年から開発裏話から
うんちくがぺらぺらでてくる。
弟ギャレットはお調子者だが、
誰とでもそつなくうまくやれる
コミュニケーションマスター。
おもに渉外・調整を担当する。
さて、ふたりは、
いつものように仕事をするが、
このたび盗んだ車が、よりにもよって 
南仏一帯を牛耳るマフィアの頭領が 
オークションで競り落としたものだった。
頭領は、不遇の時代を
実力ひとつでのしあがった苦労人。
自分が稼いだお金で手に入れる
高級クラシックカーのコレクションが
彼にとっては宝物だ。
車は彼の誇りそのもの、
自分の命よりも大切。
だから そのコレクションに
加わるはずだったすてきな車を 
不届きにも横取りしようとした
若造どもが絶対に許せなくて、
とっつかまえて殺そうとする。
頭領の剣幕にあわてたフォスター兄弟は、
あんたのために、
もっといい車を手に入れるから許してよ
と とっさに持ちかける。
彼らが提案したのは、
頭領と敵対関係にあるマフィアが
所有するクラシックカー
(なにせ高級車専門の強盗だから
どこの国のなんという街のだれが
どんなめぼしい車持ってる、
という情報はすべて
頭にはいっているわけだ)
頭領はこの敵対マフィアのことが 
過去にいろいろあった関係で
だいっきらい。
兄弟の計画が成功すれば
そのまま意趣返しになるし
車は車でのどから手がでるほどほしい。
そこで、
フォスター兄弟の提案にのることにする。
ただし期限は1週間、
失敗したら兄弟は殺される。
兄弟は、
ハッキングのエキスパートやスリの天才、
爆弾オタクなどの
一芸にひいでた仲間たちを集めて、
このミッションに挑んでいく。
・・・

感想を端的にいうと
けっこうおもしろかった!!
100点満点なら75点てところ。

わたしは車のことは
まったく 知らないが、
好きな人なら 
迫力のカーアクションと
名だたるクラシックカー
続々登場する壮観に
夢中になれることだろう。
このわたしでも、
車って美しいな、と 感じた。
ワイルドスピード」のときは、
意外にこういうことは感じないのだが。
本作では、
「車は、場面によって
こんなにさまざまな表情を
見せてくれるものなんだ」
と 感じることができ、
とてもたのしめた。

オープニングもいい。
高級車の車体が 
音楽にのせて 
さまざまな角度から映し出される映像。
デヴィッド・フィンチャー監督版の
ドラゴンタトゥーの女」の
オープニングに次ぐくらい
見入ってしまう かっこよさ。

「女」といえば、
車には女性の名前が
付けられることがおおいね。
セリカ」とか「カローラ
「シルヴィア」「シエナ」。
テスタロッサ」も女性っぽい。
「ガイア」は大地の女神さまの名前だし。
メルセデス」も
スペインとかの女性の名前ではなかったか。
過去にほかの映画で、
女性の自動車泥棒が
自分が盗もうとする車を見つめて
「あなたってとっても美人ね。
ちょっとだけおとなしくしててね」と
女性にするように語りかけていたのさえ 
見たことがある。
車の美しさは、女性の美しさに通じる
かんじのものなんだろうか。

想像していたのとは
ぜんぜん違う映画が観られた。
テイストとしては
ワイルドスピード」風かとおもいきや
案外そうでもなく、
どちらかというと
「グランドイリュージョン」系統。
対象年齢もあきらかに
ティーンから20代後半あたりを
メインにあてこんでいる。
しかし、
軽く 明るく、 
アクション! バトル! 
ロマンス! ミュージック!
という方向でつっぱしるのかなーと 
おもわせておいて、
意外にも もっと骨太、
けっこう見ごたえあるかんじに
転がっていくのだ。
それが観ていて
ほんとうに意外で 驚かされたし、
その意味ではかなりの
ジェットコースター展開だった。

ただ、こだわるようだけれど、
そこにやっぱり
アンビヴァレンスというか
なにかこう・・・ 
がんばってたけどちょっと 
ムリがあったかな?
「そっち方向」に途中から 
ハンドルをおもいっきり切るにしては、
役者さんたちが あまりに若すぎたし
そこまでで構築されてきた世界観が 
軽すぎたのだ。

なんといっても
スコット・イーストウッド
かわいらしいお顔で
ああいうことをやられると、
わたし本気で引いちゃう(^^)。
恋人を傷つけたやつのことが 
どうしても許せなかった 
ということだとはおもうが
(それ以外に動機が考えられない。)
でも そうはいっても 
命までとられたわけじゃなし、
仕返しにしてはやりすぎ
と わたしは感じたのだ。
あそこまでやっちゃったら 
もはや大団円はありえない。
「そこまでは やらない世界観」であると
ずっとわたしに伝えてきていたのだから、
ほかならぬこの映画が。
もしどうしても
「そこまでやって、でも大団円」
に ムリクリもっていくならばせめて
「そういう価値観じゃないかもよ〜?」って
もう少し前から、
観る者の頭にすりこむくらいの
手間は必要だろう。
もしわたしが監督なら
音楽の調性で工夫するとか・・
そうだな 
あとは役者さんの服の色なんかで
それとなく。
瞳の色とかだけでも
かなり効果はあるのかなと
おもうけど どうだろう。

そういうとこ 
抜け目なく
いい具合にやっとかないと
せっかくの大仕掛けにもかかわらず
「構成の不備」感を
観る者に残してしまって 
もったいないのでは。

そもそも、恋人を傷つけられたことが
アンドリューのあの行為の
理由なのだとすれば、
アンドリューの計画が
そのできごとよりも
はるかに前から動いていたことが 
ほのめかされたのも、
考えてみれば おかしい。


※「考えてみればおかしい」といえば
話の発端である 
「仕事で盗んだ車がマフィアのお手つき物」
も おかしいっちゃおかしい。
フォスター兄弟は 先述のとおり、
世界のめぼしいクラシックカー
所有者情報を
すっかり頭に入れているはず。
それにもかかわらず
オークションから盗み出したあの車の
アンタッチャブル情報だけ
事前に把握できなかったのはなぜか。
(把握できてたら映画 存在してないけど)
でも これはいちおう
納得できなくはないことに 
あとで気づいた。
いつも一緒に仕事をしているハッカー
(アンドリューの恋人)が
この仕事にかぎっては 
危険だからと外されていた。
それで情報収集に穴ができた。
オークションの落札者の情報を
ハックできなかった、
ということ。
まあそれならしょうがない。
盗みもラクじゃないなあ。


話をもどし、

そんなわけで、
コペルニクス的大転回を狙うにしても
もう少したくみなやりかたは 
探せば なくはなかったと
わたしは考える。
そこがなー やっぱ 
フランスさんがからむとなー。
なんかヘンにテキトーに
なるっていうか・・・←偏見。


サイコ野郎の敵対マフィア、
個人的にはあのままの
キャラでいってほしかった。
すごくよかったんだけどな。
サイコ野郎として 途中までは
きわめて良質だった。
顔もいかにもヤバイなこいつ、
ってかんじだったし。
瞳の色が薄くて
人間離れして見えるのもあって。
だから 話し合いが通用する
相手であってほしくなかった。
持論なんだが
やっぱり悪役は 
徹底的に人間のクズでないと、ダメ。
フォスター兄弟の雇い主となる
マフィアの頭領を演じた
シモン・アブカリアン
(007カジノロワイヤルのディミトリオス)
もったいなかった。人間らしすぎた。

頭領が、フォスター兄弟のもとに
監視役として送り込んだ男は 
アブラハム・ベルガという
役者さんがやっていたようだが
この人は 小者っぽくてすごくよかった。
イエス・キリストの生涯を描く映画とかで
ユダをやったらハマりそうな顔。
いかにも たいしたやつじゃなさそう感。
こずるくて陰険で。
・・・
ユダに悪いこといっちゃったかな(^^)


でも、話をもどしますが、
この「大転換」こそが 
本作のいちばんのみどころであるし、
ここまでさんざんっぱら言ったけど、
それでも超絶 大健闘している。
なかなか作れないよこういう話は。
途中で すべてがひっくりかえるの。
ぞっとした、
あの外門の彫刻文字をみたとき。
え!どこからだったの!? 
もう一度観なくちゃ、と。

それになにより やはり 
明るくカラッとした雰囲気で
元気いっぱいってかんじが 
すてきな映画だ。
役者さんたちも 
やる気十分でよかったです。


スコット・イーストウッド
よくしらなかったわたしは、
そもそもが
父親たちの星条旗」のときから
「うわ、この人、
クリント・イーストウッドにそっくり」
って バカなことを思ってた。
あとで調べたら 
クリント・イーストウッドの息子さん。
見れば見るほどそっくり。
往年のお父さんに。
これで血のつながりがなかったら
世の中ぜんぶうそだ。

本作の主人公、アンドリューとギャレットは、
母親が違う兄弟であり、
アメリカと英国とで 
生まれてから15年間会うことなく
はなれて暮らしてきた という設定。
イーストウッドも、
スコットのお母さんにあたるかたとは
結婚しなかったそうで、
スコットには母の違うお姉さんお兄さんが
3人いるという。
フォスター兄弟のこの設定は、
イーストウッド父子、
イーストウッドをめぐるファミリーの
実際の関係になぞらえて 
作られたんだろう。
登場しないのに 
「イイおやじだった」と 
たびたび語られる
フォスター兄弟の父親が 
どんな人だったか見たい、と
わたしがおもったということは
たぶんほかの人たちもそうおもったはず。

本作は 続編がありえる かも。
お父さんもう死んでる設定だったから
出てこないかもしれないけど。
シリーズ3くらいになったら
パパ登場もありえますかね
ハンニバル・ライジング的な
エピソード1的な(^^)
・・ま、そこまでの作品ではないか。


それに
アメリカ育ちのアンドリューには 
ラテンアメリカンの恋人がいて
英国育ちのギャレットは 
フランス美女といいかんじになり
兄弟の仕事仲間にも 
ブラジルやらメキシコやら東欧やら 
聞きなれない言葉を話すメンバーが
多数参加する・・など
国際色ゆたかな 映画。
そういうのも 考えてみれば 
おもしろかった点だった。
アンドリューの恋人役の
女優さんは
キューバの人だそうだが
意志の強そうな濃いまゆや 
笑った顔がすてきで
わたしも大好きになった。


つっこみを入れたくなる部分も
すくなくないものの、
楽しめる映画。
まじめに ちゃんと
おもしろいもの作ろうとしているのが
つたわってきて好感がもてた。
露骨な描写、下品なシーンが 
排されてセンスがよく
バトルアクションのわりに 
流血シーンがほとんどないため
むごいシーンがダメな人も安心して観られる。
ぜひ どなたも楽しんで 
ごらんになっていただきたい。

わたしもあと1回くらいは観てもいいかも。

弾丸名古屋20171015

時間がいくらあってもたりませんな。
もっと頭をつかって 
日々やっていかなくてはなりません。
まだまだ まだまだ要領がわるいようです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

15日は 
こよなく愛する ジプシースイングユニット
Twist&Jamsが 名古屋でライブをやりましたので
おいかけて いってきました。
東京にいればいつでもきけるものをそこまでするかと
いうあれも あるかもしれませんが
まあ たまには 旅行というか冒険みたいな気分を
味わいたいというのが 多分にあってね(^^)

14日の深夜から乗った夜行バス
一睡もできませんでした。
夜行バス、いつも眠れません。
緊張しちゃうんだろうか。
今回もしょうがないから 夜通し本読んで勉強してました。
体が めちゃくちゃ痛くなりましたし。
まわりの人たちが すやすや寝息をたててらして
ほんとにさびしいきもちになりました。
どうしてみんな眠れるんだろう。
もう夜行バスは 自分はダメだとわかりました。
次回なにかあったらまよわず新幹線か飛行機を使います。
おもしろいんですけどね、バス。

ライブは午後からと きいていましたので、
当日の朝早く到着して 
名古屋駅前のビジネスホテル付属の温泉にはいり→
名古屋駅内のコーヒーショップで目覚ましのために
コーヒーをたのんだら たのんでないゆでたまごと 巨大なふかふかの
バタートーストがでてきて驚き(とってもじゃないが食べられず
おとなりの席の家族づれの お嬢ちゃんにあげた。近くの席の
おじさまが、ゆでたまごとかなしで コーヒーだけもらえないかと
聞いて、お店の了承をえていて、あ、断ってもいいのかあ、と
知りました。そりゃ断れないわけはないか。ちなみにコーヒーは抜群に
おいしかったです。)→名古屋城犬山駅→国宝犬山城犬山駅
ライブ会場の博物館明治村に向かいライブを聴いて→
博物館明治村を周遊→高速バスで名古屋駅にとってかえす→
名古屋駅から伏見駅へ→名古屋在住の旧友と再会し伏見で食事する
名古屋駅へ→新幹線で帰途につく
ということをやりました。

犬山城 美しいです。ちいさくてかわいらしい。

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ガラケーで撮影。

ヘドがでるほど 写真がへただ!!!!


熱田神宮にも足をのばしたいと当初は考えていました。
かつて仕事でたいへんおせわになった
宝物館のかたに あいさつしたいとおもったからであります。

しかし、
時間がなくて断念。

というのも おそるべき方向音痴かつ粗忽者のわたしは
3回くらい 乗る電車をまちがえて 
いったりきたりしまくったのと、
なによりも、
なんか 名古屋駅で 最終的に合計20回くらいも 
知らない外人さんたちに道をきかれまくり、
その対応におわれて 時間をくったのでありました。
名古屋駅の 外人さんの多さときたら。 
早朝6時にもかかわらず。
おどろきましたね。 
耳をすまさないと 雑踏から 日本語がほとんどきこえない。
京都でもあそこまでじゃないような気がする。

犬も歩けばじゃないですけど ほんと
JR名古屋駅から名鉄名古屋駅へのほんの数百メートル間で
どんだけ外人さんに道をきかれるんですか わたしは。
おどろきの道きかれ率。
しかも考えてみればマジで100%外人さん。
日本人観光客からは わたしは見えないんだな・・。
わたしだって観光客なので。道聞かれても困ってしまいます。
そこで JR名古屋駅のなかにある観光案内所に彼らをつれていって
あげるわけです。 もう手をとってひっぱらんばかりにして。
最終的に観光案内所のおねえさんに
顔覚えられて笑われてました。

どうせヒマだよなこいつ的オーラがだだもれていたんですかね。
わたしだってけっしてヒマではないんですけど(^^) 
いや まあ・・ 
ヒマ・・なんですけど・・
休日に ライブをきくために ひとりで
関東から はるばる名古屋にやってきたことを
ヒマといわずしてなんというのかと聞かれると 
返答に窮しますのでね・・

さいきん ひとりでいるときに 
知らない人に道をきかれたり
一般的にあまり遭遇しえないできごとにぶちあたる 
そんな機会が
より顕著に より頻繁に
おとずれるようになってきました。
なにがそうさせるのか。
だれか連れがひとりでもいてくれさえすれば
こんなことはないのですが。

それにしても
名古屋を1日歩いて 感銘をうけたのですが、
どこもかしこも、とても清潔でした。
古くても、お掃除がゆきとどいていて、大切に使われており、
かんじのよい場所だと心から思いました。
早朝にたちよったビジネスホテルのお風呂などは、
相当に年季のはいった施設とお見受けしましたが、
じつに、掃除が完璧。
あんなに朝から混んでいたのに。
係員さんがたえず すみからすみまで磨いてくれてました。
靴をぬいで、靴下だけで館内を歩き回っていたのに、
玄関で靴をはくとき足のうらを見てみたら、
髪の毛やらゴミやらがまったく付着してなかったのには驚きました。
スゴイことです。
いつも見ている東京や 地元の 公共の場所を
とくに 不潔とおもっているわけではありませんし、
広い名古屋にもおそらくいろんなところがあるのであろうことは
もちろん理解していますよ。
でも、
名古屋はほんとにどこもきれいだというのが自分の今回の印象でした。
ディズニーランドとかに匹敵するほど。
衛生面のことで イヤだなと感じたことが一瞬もありませんでした。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そんなかんじでお風呂にはいったり
名古屋城犬山城を見学したりしてから
犬山駅からバスを利用して 博物館明治村までいきました。

じつのところ今回のライブは14日、15日の2日間 行われており
会場には14日から Twist&Jamsのふたりをはじめ
彼らの奥さんやら関係者がすでに行っていたので
みんなと合流しました。
朝からずっとひとりだったものですから
みんなの顔がみられたときはさすがにほっとしました。

Twist&Jamsの演奏 今回もたのしかったです。
同じ曲でも毎回 ちがうアレンジを きかせてくれるから
1回たりとも聞き逃したくない気持ちにさせられます。
なかなかむずかしいことではありますが
これからもできるだけ彼らの演奏を 
おいかけたいと願っています。

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右のチェックのシャツの人は みつおさんといいます。
音色が渋く 速いパッセージも主旋律も
カデンツァ(っていうのか? ジャズも?)も
バッキングもローテンポも
かっこうよくこなすオールラウンダーですが
わたしは彼は 低音部の音色がとくに美しいとおもって いつも聴いてます。
みつおさんはライブではもくもくと 弾き続ける担当の人です。

左のグリーンのチェックのシャツの人は くらさんといいます。
音量が相対的にちいさめかなとおもいますが 
繊細でやさしい音色のギターを弾きます。
繊細でやさしい音色とは まえはあまり 
わたしは思ってなかったんですが
さいきん歴然と 音が変化したとおもいます
(スゴイ上からものをいってる!)。
ほのかにガーリーといってもいい 
かわいらしい高音には耳がくすぐられます。
くらさんはライブのとき すごい名調子でMCをやるんですが
基本 なにをいってるのか よくわかりません。

今回もよい演奏をありがとう。
名古屋まで きたかいがありました。

どうせ載せるんなら 演奏してるとこの写真載せろよ。って
話だとはおもうのですが 撮ってないです1枚も・・・ 
つい夢中で聴き入ってしまって。
撮影担当のKUROMUSIさんがきて 
ちゃんとプロの腕で撮ってらしたので
またそれらが完成したら おねがいして ここで共有させてもらいます。


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博物館明治村は 幕末から明治期にかけての
日本の建築物またはそのミニチュアが 
広大な敷地に復刻あるいは移築展示されているという
建築テーマパークでした。
いいところでした。
これでお天気がね、もしも晴れていたらねえ。

聖ザビエル天主堂や大明寺聖パウロ教会堂は美しかったです。
ザビエル天主堂は お堂の両脇に例によって 
エスさまの受難がえがかれた宗教画がこう・・・ 
ぐるっと掲示されているんですけど
玄関からむかって右側奥の ピエタの絵がね、
もっと近くで見たくて。ピエタだいすきなので。
ついイスにのっかって 背伸びして見ちゃいました。
マリアさまの表情がよかった。

名古屋駅にもどり地下鉄で1駅の伏見駅で 友人と再会し、
彼女がすすめてくれた みそかつがおいしいお店で
夕ごはんをいただきました。
名古屋のかたには あまりに基礎的であきあきしている
「名古屋めし」なのかもしれませんが
友人にはつきあってもらって感謝しています。
とてもおいしかった!!

彼女が 心配だから新幹線乗り場までついていく、と
言ってくれて、自分の家と方角的に反対にもかかわらず
名古屋駅までいっしょにきて、入場券を買って
新幹線のホームまでずっと案内してくれて 
ほんとにたすかりました。
というのも 着替えとかはいった大きいほうのバッグを
名鉄名古屋駅のコインロッカーにあずけてまして
そいつを回収してからでないと JR名古屋駅
新幹線乗り場にいけなかったわけです。
ところが名鉄名古屋駅も広いもので、
夜になると朝とはまたぜんぜん風景がちがうし・・
わかんなくなっちゃいまして! ロッカーの場所が!
ホテルを背にしたところの大きなロッカーだったことは
覚えていたんですけど・・
甘く見てました。これほどわからなくなるとは思いませんで。
それでだいぶ ぎりぎりになっちゃいましたね。
友人がいてくれなかったらどうなっていたことか。
きっと、もっと あせってしまって 判断力がにぶり、
ついでに外人さんに道をきかれるイベントがそこかしこで発生して、
たぶん新幹線に間に合わなかったでしょうね(^^)
彼女がいてくれてよかったです ほんとに。

帰ってきた地元の駅でも なんか 乗る電車を間違えて
終点までいって折り返したらしいところでやっと
反対方向行きの電車に乗ってたことに気づきました(^^)
もう最後まで全部ダメダメだな今回は。
前夜の夜行バスで眠れなかったことが 
すべての 元凶といえるでしょうね(^^)

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とてもよいところでした、名古屋。
また行きたい。
余裕があまりなく 観光らしいこともできず。
でもまあ 考えたんですけれど
また行きたい、あんまりなんにもできなかったから
ものたりない、・・・と 
思うくらいがちょうどいいのかもしんないですね、
旅行ってのは。
スケジュールをつめこみすぎると 疲れちゃいますし
滞在しすぎると イヤなことに遭遇する確率もあがります。
そしてよいことを よいこととして 新鮮に受け止めにくくなる。
けど ぱっといって ぱっと帰れば
よい思い出だけでいられますし
それだけに また行きたいと おもえるのではないでしょうか。

また 名古屋 行きたいな(^^)
つぎは今回会えなかった ほかの名古屋在住の
友人の顔がみたいですし
徳川美術館源氏物語絵巻
みにいきたいです。
あと 熱田神宮宝物館のYさんにぜひともおめにかかりたい。











寒い/血界戦線2期/パンクハザード編/アルトゥール・グリュミオー

冷えます。
家に帰ってきたらわたしの部屋に 兄が
暖房器具をだしておいてくれました。
11月までがまんしてみようかなとか 
むだな がまん大会の開催を
いつものように検討しなくもありませんでしたが、
それは そうそうにやめて さっそく使い始めました。


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内藤泰弘氏のマンガ作品
血界戦線」(ジャンプスクエア)の
テレビアニメーション版の第2期の放送が、
先日スタートしました。

さいきんけっこう忙しいせいもあってか
読むべき本がアホほどあるせいもあってか
マンガやアニメーションにふれる機会が激減していますが 
血界戦線」は 別格の感。
心から「やっぱり観たいなあ」というきもちが
わいてきて、録画しておいて、観ました。
とってもよかったです。
制作陣に よほどの切れ者がそろっていると推察します。
話のまとめかた、編集がうまいうまい。
原作が、おそらくストーリーテリング・・・
なんていうの、そのことを説明するのにその画?みたいな
その説明のしかただと つたわらなくないか、みたいな
なにかそのへんのところが 相対的にへたくそなんだろうと
おもいますが、
なにいってんだか 複数回も読まないと理解できないような
ところが多々あるのです、原作は。
(でもそこが不思議と 魅力にもなっている。)
それを アニメでは 原作のかんじを一分もそこなうことなく
一般的にわかりやすいようにうまいことやっていて
なくてもわかるところはさりげなくカットして前後をつなぎ
逆に 必要な補足説明は 加えてもうるさくない程度に さりげなくはさみ
・・・という 気の利いた仕事ぶりにただただ感心。
「ライツ、カメラ、アクション!」のエピソード、
「あ、こんな短い、ちょっとした話だったっけか。」と 
なんか改めて思わされました。
考えてみりゃ「こんな短いちょっとした話」です、たしかに。
映像はこまやかに描き込まれ 個性的な色彩感覚にあふれ美しく 
キャラクターたちは手抜きなく みんな生き生きと動き回り
観ていてそりゃもうとてもたのしい。
声の演技も 演じている人たちがたのしんでいることが
つたわってきて わくわくします。
時間やらお金やらといった制約が 
いろいろあるにちがいないなかで、これだけのことをやって
たのしい息抜きの時間をすごさせてくれる  
プロの仕事に脱帽。
毎週1回、30分もの時間を このアニメーションを観るために 
つかおうと、おもうわけですから。

エンディング音楽が岡村靖幸なのにもびっくり(^^)。



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仕事で必要になる可能性があるため
マンガ「ワンピース」をちょっとずつ読み返しています。
苦手なマリンフォード頂上戦争以降を重点的に。
これまで ぴんときたためしがなかった
「パンクハザード」編が
やっと なにか腑に落ちました。
パンクハザード編、わたし すきですね。
いいですね。すきだな。
チョッパーにあの紙切れをよこしたのは誰だったのかな。
透明人間みたいなやつだとすると アブサロムとか?
なつかしいですねアブサロム。スリラーバークの。
まあほかにも 透明人間とか神出鬼没キャラは
さがせば いるんだろうけど・・ ただ、
ドレスローザ編の冒頭あたりで、
アブサっていう新進気鋭の記者が急に登場していますよね。
あれアブサロムなのかなとおもって。
で、アブサロムがパンクハザードに潜入していたのかな。
わかんないですけど。


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やはりこう暑くなったり寒くなったりだと
まずいですね。体調をくずします。
こういうときはなにごとも 適当なところで きりあげて 
休息をちょいちょいいれていくべきだろうと考えます。
その適当なところでってのが 
できないから こまるんですわ!
じつのところ休息のとりかたが
よくわからないのですわ。
ペース配分とかってのが へたくそなんですよね。
自己管理能力 原則ゼロ、ということになります。
これでもけっこう 上達したほうだとはおもいますけども。
もういい大人なのにね。


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昨今いろんなことがあり、
ようやく、たまに、理解できるようになってきたのは、
自分はどうも考えすぎ、気負いすぎであるということ。
そこまで難しく考え込まなくてもいいということです。
何者かになる必要など ないんですわ。
それがどうも わかんなくて。
かっこわるいことですよ。ダッセーです(^^)!!
たしかめずにいられなくて。いろいろ。
でも、そんなときをだれしも経験してきていて、
(経験してきていて、というのがポイントだな。)
でももしかしたらいまこのときも
わたしみたいに進行形で「体験」している人も
いるのかもしれないということも 思います。
だから あらゆる意味において、
しんどいのは、なにも、自分だけではない。
ま、誰しもみんなだいたいこんなかんじ、って わかります。
生きることは苦しいことで、傷つくことそのものなんでしょう。 
理不尽だ。 かなしい。 できることなら解放されたい。
でもそういうもんなんだ、 ということのようです。
一方で、
かなしかったことも 長年かかえてきたことも
さいわいにして ようやく手放すことが可能になり
心がだいぶかるくもあります。
つらいことはあっても、 
いつかはらくになれる可能性があると
わかったわけです。
またすぐに 新しいつらいことが押し寄せてくるんですけど。
それがどうやら生きるということみたいです。

とか だらだら考えちゃってるところがまた
イタイかんじ(^^)!!


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音楽のこと書くことについて 
どんな意味においても 自信はまるでないですけれど
音楽にこのところ たすけられる面が多々あり。

じぶんが気に入っていつも聴いている音楽、音楽家、演奏家
紹介とか してみたいとおもいます。

このまえも中里学さんの「no reply」を
さいごのほうで一瞬 紹介しておきましたが。



york8188.hatenablog.com


今回はこれ

www.youtube.com


ブラームス
ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77
アルトゥール・グリュミオー(ヴァイオリン)
ロイヤルコンセルトヘボウ管弦楽団
エドゥアルト・ヴァン・ベイヌム指揮
1958年

あー。
いいーーー。これ。
好き。

わたしは弦楽器の音に ずいぶん長いあいだ、謎の抵抗感があって
そのころは、これなら聴ける、とおもえる演奏家も盤も 
ものすごくかぎられていたんですけれど、
このアルトゥール・グリュミオーという北欧の人の音は 
そのころから まったく抵抗なく楽しむことができ
それはそれはものっすごく 聴かせてもらってました。
うーん まとはずれなことを いっていたら
はずかしいんだけれど、
不要な冒険をしない演奏家だったのかな?とおもいます。
この人の演奏を聴いたとき、おもいうかぶワードは、
節度、抑制、理知、繊細、華麗、モイスチャー効果。
ロマン派の音楽で、あんまりゴリゴリ歌わずにおいてくれる。
かわりににじみでる 引き締まり感と「仕事きっちり」感。
おかげで心を音楽に ぽーんと投げ出して安心して聴けます。
オーケストラも彼とだと対話がしやすそう、むりがなくて。
自分の位置がわかっているというかんじ。
まわりもどうやったらこの人の演奏をただしく 
ひきたてることができるかが わきまえやすいのでしょう。
結果、バランスいいよなあ、ってかんじをうけます。
水分おおめ、エレガントな音色。
あと、ヴィブラートがね、そりゃあ華麗。
ちょっと波が細かすぎる気がすることもあるけど。
レースのカーテンが 5月の風になびくようすを
連想させられる 優美なヴィブラート。


わたしがそれこそ全面的に頼りきっている
ヴァイオリンの演奏家
じつのところグリュミオーではないんだけど、
ブラームスメンデルスゾーン
コンチェルトは
いつもこれ聴いてます。


いつまで できるかわかりませんが
しばらく 音楽の紹介にトライしていってみます。
クラシックはやはり万人受けはしないかな?

職場の近くでおこなわれている建設工事と自分/後醍醐天皇/天才空海/中里学

まいにちけっこういそがしくやっています。
たのしいです。
体は疲れます。
こう毎日暑かったり寒かったり
気候が乱高下しますと
カゼのひとつもひきたおしそうです。
きをつけます。
かんがえてみれば道行く人にも
マスクをしている人や
かるくセキをしている人を 
みかけるようになったきがします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

職場のちかくで かれこれ1年半も、
大規模な建設工事がおこなわれています。
建設計画がかかれた看板をみるかぎり 
完成予定期日はいまから1年半後です。
けど ずいぶんできあがってきて、
なんの建物をつくっているのか、もうはっきりわかります。
きれいで豪華な建物です。
おもいかえせば

1年半前に工事が開始されたとき 
あの場所にはいまのような美しい建物が
できることを想像させるなにものもありませんでした。
地下にごっそりくり抜いたような大穴があいてました。
基盤工事からするので。

それで建設計画の看板をはじめてみたとき、
「3年もかけて工事するのか!」
「3年後も自分はいまの職場で働けているのかなあ」
といったようなことを 思ったことを、鮮明に覚えています。

と 申しますのも 当時、
自分は職場において 戦力外通告一歩手前の
状態にあり、
みんなができる仕事が自分だけこなせないうえに
疲労とムリとがたたって病気にかかっていて、
あながちおおげさでもなんでもなく 
死ぬ寸前みたいなところで
ふみとどまって働いてました。
あした力尽きて 朝もう目が覚めなくても
すこしも不思議じゃないくらいなのに
3年とか・・・ ほんとに現実感のない数字に感じられ、
いるのかなあ、3年後もここに、と おもったものです。
でもべつに
「この建物が完成したところを見届けられるように
なんとかがんばろう!」とか
そんなふうに
励みにしたおぼえは まったくないですが(笑)。

そしていま、
わたしは職場において 戦力にギリ数えられるようになり、
ちゃんと定刻内、納期内で仕事ができる日もふえてきて、
病気はそこそこ治り、
休日はそこそこちゃんと休むことができ、
友だちに会おうとおもえば会えますし、
観たい映画を観る時間も 作ろうとおもえばつくれます。
当時はこんなことになるとはとてもおもえなかったにも関わらず。
「このままがんばっていれば いつか
人並みにできるようになるときは くるであろうが、
しかしその前に自分の肉体が滅びるな」と
ほんとに確信してましたから。

でも、
半分きましたか。
そーですか。

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いやー 
縁あっていま
後醍醐天皇のことをちょっと勉強しているんですけど、
彼はスゴイ男です。
なぜ学校の歴史の授業では
ちゃんと教えなかったものか、後醍醐天皇
きわめて先進的な考えかたの持ち主で
火の玉みたいに熱い男だったということを。
そりゃ足利尊氏も惚れ込むわ。
いま後醍醐天皇のことで頭がいっぱいです。
口をひらけば後醍醐天皇です。
わたしと 直接つきあいのあるかたは
あまり いまは わたしとかかわらないほうがいいかもしんない。
ゆるしてくれるってんなら めっちゃくちゃ語りますが。
いかがです、わたしによる後醍醐天皇オンステージ。

わたしも それなりに空気は読む人間ですから。


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あと、
わたしの母方の実家が真言宗なんです。
(父方はわからない。昔はお仏壇が家にあったんですが
片付けられてしまいました。)

成田山で 空海先生です。
歌舞伎の成田屋さんとおなじ宗門ということになります。
もうしわけないけど 
べつに信仰はまったくしてないんですけど
真言宗だからというのではなく何教も信仰してないんですけど)
でもなにかしら仏教について知りたくて
まー 仏教がすきでね。なんか。
その足がかりとしてなにか適当なものがほしく、
家が真言宗だから
それで空海先生のことをいろいろ
去年あたりから勉強したりしているんですけど、
彼はあきれるほど 天才すぎて
著書を読んでも なにいってんだか
まっっったくわかんないです!!
なんか 去年もそんなようなことを思ったおぼえが
あるんですけど
いまもってまったくわかんない!!
なにも進歩してない!!

なんなんですかこの人は。
知能が高すぎやしませんかね。

具体的には こんなの読んでみています。

三教指帰(さんごうしき)」
・・・空海先生の出家宣言書みたいなもので、
仏教儒教道教の学生、学僧?が登場する
小説みたいなかんじなんです。
この3人が討論し、結果的にこのみっつのなかで
仏教が一番優れているんだということを
論理的に証明しようとする、というような内容ですかね。
空海先生はええとこのお坊ちゃんで 大学にもいかせてもらい
高級官僚としての将来を期待されていたんですけど 
それが山で修行するとかいって いなくなり、
ひさしぶりに帰ってきたとおもったら
出家したいなどといいだしたので
親族から大反対されて、それを説き伏せるために
このようなプレゼン資料を書いた、ということみたいです。
空海先生はこのころ25歳やそこらだったみたいです。
数えだから24とか23とかですかね。
わたし その年頃のとき なにしてたろう(笑)??
当時 メジャーな学問だった儒教道教が 
説いていることは、この世の真実ではないと。
自分は仏教を究めたいんだと。
書いた当時は ちがうタイトルの もう少し内容的に
異なる本だったみたいなんですが
それをブラッシュアップしたのが本作のようです。
まー 構造と概要を理解できているだけ
まだマシなほうなのかも。
いうなれば宗教小説っぽい作りだから
多少とっつきやすいような気分でいられるのです。
が・・・ これだってなにいってんだかさっぱりですよ!


「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」
・・・空海先生は修行と海外留学と思索のはてに
真言密教にたどりつくんですけど、
密教はけっきょく中国からもってかえってきたものですし
密教ですし(秘密の奥義的なものを伝える教え)
日本の人たちはしらないもんですから、
日本に真言密教をひろめていくうえで
仏教の既存の各宗とくわしく比較検討して、
真言密教はこんなところがほかとちがってて
スゴイんだよ、ということを解説しようとしている本です。
真言密教はスゴイんだよということがいいたいんだ、
ということだけ 理解できればいいんですかねえ・・・
いいわけないだろ。


「弁顕密二教論(べんけんみつにきょうろん)」
・・・顕教真言宗の、秘密にされている密教の方じゃなくて 
だれにもあきらかにされている方の教えのこと)と、密教との
違いを解説している本。タイトルが
「弁ずる。顕と密の二教について」ですから。
脚注から判断するに 「五秘密教」などに代表される
真言宗のおもなお経を論拠としているとおもわれます。
いやー これもヤバイですね
ヤバイくらい なにいってんだかわかんないです!
でも1年がかりで読まされちゃうところが
空海先生の本の えらいところなのかもしれません。
なにかとても価値あることが書いてあるはずという
気にさせられてしまい、
やめられないのです。


「即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)」
・・・真言宗の、というか密教の真骨頂として
「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」があるんですけど、
本作は「えー そんなのありなの、ほんとに可能なの」
と疑う人たちを対象とする 即身成仏ガイドブックです。
かんちがいしがちな点のようなのですが
(わたしも数年前までまぜこぜに考えていたのですが)
「即身成仏」とは 真言宗のえらいお坊さんが、
長期的自殺にひとしい苛烈な修行のはてに死んでミイラ化して
何百年もそれが残ってありがたいものとしてお寺にまつられる
・・・という
あれのことを言っているのではないのです。
あれは「即身仏」といって、選ばれた一部の貴いお坊さんが
修行をした結果、獲得した姿であり、
後世の人びとにお釈迦さまの教えをつたえ救いつづけるために、
体と魂とをこの世にのこした ということのようなのです。
(選ばれた一部の、としましたが、選抜試験とかがあったのか
どうかはいざしらず、そういうことではなくて、
トライした人が100%即身仏になれたわけではないはずなのです。
ミイラになれるとかなんとか以前に、修行の重さのあまり、
別の死因で死ぬ人もいたでしょうし、
トライして断念した人もいたのではないかなと思うわけです。
体を腐らせないために ヒ素や漆をすこしずつ摂取していったり
木の皮や木の実を食べたりして段階的に断食していくことを
やっていたそうです。ヒ素や漆なんて、劇薬ですしアレルゲンですし
へたしたらそばにおいただけで 体に異状がでますから。
したがって、トライした全員が即身仏になれたわけではないはずだから、
そうした意味で 選ばれた一部の、としました。)
ありがたいミイラになりたい!とおもうことが
「即身成仏」ではありません。
みんな修行してミイラになりなさい! と 
空海先生がいっているわけでももちろんないみたいです。
では「即身成仏」とは どういうことかと申しますと、
人が悟りを開ける可能性は死後だけにあるわけではない。
そもそも人はみんな悟りを開くだけのポテンシャルを秘めていて、
この身このまま仏となる、悟りの境地にいたることができるんだよ、
生きて悟ろう、ということです。・・みたいです。
悟りを開くなんてほんとに難しいことで、生きているうちには
とてもむりなんじゃないか?という考えが当時 高僧のあいだでさえ
ひろまってきていて、それだからこそ、死んだあとどうなるかとか
極楽とは地獄とはという話にもなってきたので。
この身このまま、仏となれる、なろう。というのが
空海先生の「即身成仏」の ほんとの考えかたのようです。
その空海先生は「即身成仏」の達成者だったそうです。
ブッダってことですよね・・ マジか・・ 



「声字実相義(しょうじじっそうぎ)」
・・・これと、「即身成仏義」と「吽字義(うんじぎ)」の
3つで1巻みたいです。わたしが買った本は3つが離れてますが。
あと「吽字義」は わたしはまだ読んでないです。
もうこのへんになると わたしごときには
なにがなんだか感が とどまるところをしりません。
しかし、感覚としては、
感覚としてはですよ、
空海先生がいいたいことはおそらくですね
音と文字は、イコール真理 ってことみたいです。
つまり言語哲学ですな この本は。
なんて進んでいるんでしょうか、書いた人の頭のなかは。
真言宗にはあれがあるじゃありませんか、真言
「オン・アビラウンケン・バサラ・ダドバン」とか。
大日如来さまの、真言宗での、真言ですけど、これ。
真言宗大日如来さまが一番うえなんですけど
そういうのを唱えれば、宇宙全体の真理そのものであるところの
大日如来さまを本質的に体現したことになる、
なんだよ 本質的に体現って・・・
自分で言っといて 正しいかどうか微妙 笑!!
・・・
ということを 言っている本だとおもいます。
いや、いちおうそう口ではいえますけど
ほんとに理解しているわけではないですよ・・・。


「性霊集(しょうりょうしゅう)」
・・・空海先生の書いた漢詩とかの文章をお弟子さんが記録してて
あとでまとめたものです。空海先生はモノスゴイ文才があったみたい
なんですけど 下書きとかを まったくしないで思いついたことを
バーっとなんにでも書いちゃう人だったみたいで 
だれかがちゃんとまとめとかないと 貴重な文章も
散逸してしまうもんですから、
仕事のできるマメなお弟子さんが
こうして逐一まとめて 空海先生の死後に編纂したようです。
(でも それだけしっかり管理しても だいぶ紛失したようです。)
能筆家ですし、すっごく書く人です、空海先生は。
文才があったかどうかまでわかるほど わたしは漢籍にくわしく
ないですが 無体なパワーはたしかに伝わってきますね。


「般若心経秘鍵(はんにゃしんぎょうひけん)」
・・・有名なお経の般若心経を真言密教の観点から解説している
論文、というかんじです。
なにいってんだかぜんぜんわかりません。
でもなんか、
般若心経はようするに「大般若経ダイジェスト」だと
わたしは一般教養として理解しているんですけれど、
空海先生はどうも そのようには理解していないかんじがします。
なにかもっとこむずかしいことを言ってます。
さっき 「声字実相義」の説明で 音と文字はイコール真理
と書きましたけど、そのへんのことをもっとよく理解できれば、
その理屈でこの本も理解できるのではないかと おもわれますが。

・・・
っていうのを読んでいて
(けっして わたしがおかしいわけじゃなくて
これぜんぶ「角川文庫」でよめます。)

どれも、1ページめからもうわかんないです。
それで わかりやすく解き明かそうとしてくれる
現代の学者さんの解説部分に
どうしても戻ることになるんですけれど、
(角川版にかぎっていえば どの本も原文の下に注釈があり、
解説もちゃんとついています。
わかりやすく解き明かしてくれる・・・ということは
学者さんたちは空海先生のいっていることを
理解している、ということですよね。
どいつもこいつも天才か!!)
それで 多少わかっても、
原文に戻ればまたわかんなくなるわけなので、
意味ないってかんじがします。
音楽で、速いところとかが 指が動かなくてできないときは
メトロノームを使って ゆっくりのテンポから練習しますけど、
ゆっくりだとそりゃできても もとのテンポにもどせば
できないから!みたいなのとおんなじです。(←ちがう。)


わたしは正直 空海先生よりも最澄先生と
気があうかんじがします。
おもうのですが、空海先生って人は、
その書いたものから察するに・・、
これは梅原猛さんもなにかの本で言っていたとおもうのですが、
なにか人を食ったようなところがあるなと。
論法がだいぶぶっとんでて めちゃくちゃなところも多々あり、
たとえば 儒教をさんざんっぱらこきおろしておいて、
自分の論理の補強に儒教をひっぱってきたり、
自分で自分の考えをつぶすようなことを言って
論理を破綻させておきながら
最後にはちゃんとなんとなくまとまってたり
「なんちゃってー。」みたいなところまであったり(!)
なんかこわいんですよ。
こわくないですか。こういう人。
はかりしれないんです。
考えるんじゃなく感じ取れ、というやつでしょうか。
そこへくると最澄先生のほうは、
最澄先生の書いた本って 空海みたいに文庫で
でているわけではないので 簡単には読めないんですが)
「山家学生式」や
空海先生や自分のお弟子さんにあてた手紙などを
よむかぎり、
もっと緻密で、もっと丁寧で、もっと理知的で、
そしてもっと、ふつうの人間。
頭でわかろうとしていいよ、というかんじが
とてもしますので、ラクなんですけれど。

最澄先生といえば、
「山家学生式」の最初も最初のところに、
「一隅を照らす」という言葉があるんです
えーと たしか

国宝とは何ものぞ
宝とは道心なり
道心ある人を 名付けて国宝となす
故に古人のいわく
径寸十枚、これ国宝にあらず
一隅を照らす、これすなわち国宝なり

国の宝とはどういうもののことを言うのだとおもいますか?
国の宝とは、道を修めようとする心のことを言うのです。
この道心を胸に抱いている人こそ国の宝、
社会にとってたいせつな、国の財産なのです。
中国の、昔の人も言ってますよ。
「直径3センチちょっとの宝石が10個あるからってなんだ、
そんなものは国の宝なんて言わない。
社会の片隅にちょこんといて
社会をあかるく照らし 
おたがいによい影響をあたえあって
りっぱな生活をする・・・、
そういうのこそが国の宝だ」とね。

みたいな。
わたしのブログのタイトルの
「BRILLIANT CORNERS」は
この「一隅を照らす」から ひっぱってきている
とか 言いたいところなんですけど
ぜんぜんちがうんですけども!
セロニアス・モンクは山家学生式をまさか知っていたのかしら。
まさかね。


家が天台宗だったらよかった。
わたしだけ改宗しようかなあ(言ってみただけ。)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


あー
これいい。
みなさんも ご興味があったらぜひきいてみて。

中里学
「no reply」

www.youtube.com










興味がないことでもやらなくちゃいけないときどうするかについて(あるいは読まないと書けない)-171003。

個人的にぜんぜん関心のない
分野についての 本の製作に
たずさわらなくちゃいけないことも 
もちろんある。

たとえばわたしは
韓流スターとかアイドル、
芸能界情報に関心がない。
でも、
K-POPアイドルが兵役を終え
ふたりそろっての活動を再開すれば
彼らのファンブックを
手がけることもありえるし
某韓国HIP-HOPグループや
某坂の名前がつく超絶かわいい
ガールズアイドルグループの
ファンブックとかを作る可能性も
もちろんある。
関心がなくても、その場合
メンバーの顔と名前と
プロフィールと人物像
グループの活動履歴くらいは
おぼえる必要が生じる。
アルバム、シングル、ライブDVD
すべて聴き 目をとおし
彼らについてのなんらかの思いを
自分が持たないことには
どうしようもない。
関心があるとかないとか関係ない。

こうした勉強は
仕事以前のもんだいで、
仕事を始める前には終えていなくちゃならない。

そこへきて わるいことに
芸能界だけじゃなく 
わたしはけっこういろんなことに
関心がない。
現状に満足しがちで 
関心の幅がひろがりにくい性格だ。
好奇心 探究心があまり強くない。
ついでに
好きなもののことをむしろ
「あまり詳しく知りたくない」という
おかしな考えの持ち主でもある。
関心がないことは知らないし
関心があってもけっきょく知らないという
二重苦状態なのだ。

ちょっとずれたところでは
某 ブロックを積み上げて
家を作ったり街を作ったり
冒険したりできる
3Dのゲームの
ガイドブック作ったときは 
これもこれで
すごくまいった。
ゲームを実際にプレイして、 
作業画面をキャプチャする
必要があったためだ。

そもそも自分が
テレビゲームのコントローラを
握ったこともない
ゲームオンチであるところへ
もってきて、さらに
「3D酔い」する体質が発覚。
わたしも大変だが
プロジェクトのリーダーは 
このわたしというお荷物メンバーを
かかえて弱りきったにちがいない。

このゲーム本の制作中は
毎日 4時間に1回くらい
嘔吐したり寝込んだりしながら
作業にのぞんだものだ。
このゲーム、息が長く、人気がある。
これからも 同じような本を
手がけることになる可能性は高かった。
だから、
すこしでも次はらくにできるようにと
自主的に無料の3Dモデリングソフトを導入して
ひまさえあれば(ひまとかないけど)
そいつで粘土的なものをこねくりまわし
なにかを作る、ということに
取り組むようになった。荒療治だ。
(このソフトは今年の春くらいに
サービスを終了しちゃったんだけど 
日本語版もあるし なんといっても
ユーザーインターフェース
シンプルかつ親切設計で
素人にもわかりやすかった。
発見できて幸運だった。
業界では有名なソフトらしく、
使いかたを詳しく解説している
日本語のブログやサイトも
たくさんあり、すごく参考になった。)

まあ、3D酔いはびた一文 
治ってないが・・。
マウスのムダな動きが
酔いを誘発してる、と
職場の人に指摘されたので
もっとスマートにちいさく
マウスを動かすことを心がけ
キーボードショートカットを
覚えまくることで
「くらっ」とくる瞬間は
多少減らせたかとおもう。
また、
当該ゲームをひまさえあれば
(ひまとかないけど)プレイして
たとえば自宅のミニチュア版を
作ってみたりして
自主トレーニングしている。

※でも、最初にこのゲームの本を作ったとき
ゲーゲー吐きながら仕事してたもんで
こいつは戦力にならんとみなされたらしく
プレイ画面をキャプチャする必要があるような
ページは 次回以降
ほとんど任されなくなっちゃった 
イヤ正直助かるけど(涙)


そんなこんなで
仕事のときに 
仕事以前のところで
越えなくちゃならない壁が
いつも、いくつもある。
それがわたしだ。
うちの職場のほかの人だって、
本を作るにあたって、
その題材に関する
知識が不足していれば、
事前の勉強は欠かさないはずだが、
ここまで なにかあるたびに
いちいちつまずいている人材は
めずらしいように思える。
それだけわたしは
ものを知らないし、
好奇心とか探求心がほんとうに
乏しいということなのだ。

だが、そうもいってられない。
本を作らなきゃいけないからだ。

だれしも程度の差こそあれ 
やらなくちゃいけない。
でもやるためにいろいろ足りてない。
なぜならその分野の門外漢だから、
関心がないから、知らないから
ということは あるはずだ。
仕事は教育じゃない。
職場は学校ではない。
自分の現時点での習熟度や
レベルにぴったりの仕事がくる、
なんてことはありえない。
つまり、
仕事にあわせて
自分のレベルを上げるしかない。
その仕事を、したければの話だが。

さて、
話がだいぶツイストしちゃったが
もとにもどす。
ぜんぜん関心がない分野についての
本を作ることになったときの話をしたい。

本を作るとき、大前提として
その分野について知っている必要がある。

そのために、本を読むことが求められる。

すくなくとも 
わが職場では 方針として、
まず仕事にとりかかるまえに
最低でも35~50作冊ぶんは
関連資料や図書を読むよう 
きつく申し渡されてる。
作業に入る前にそれらの本を
電子書籍の形式がおおい)
どっさりわたされ、
読了を要求される。
基本的な知識をしっかりと
(本を作る期間が過ぎれば忘れてしまう、
一時的な記憶にすぎないことがおおいが)
頭にたたきこんだうえで 作業に入る。
何ページのだいたい何行目に
こんなこと書いてあったとか
あのページの右下のところに
こんな写真があったかもとか
頭にたたきこんでおくと
いざ作業をするときに便利だから
それももちろん たたきこむ。

必須事項として、要求されることだ。
関心がないとか 理解できないとか
そういうもんだいではない。
わたし、最初は 
そんなことできるわけがないと
おもってた。
本を読むのが遅く 
400ページの文庫本を1冊読むのに
4日とかかかっていたからだ。
それが、
できなくてもなんでも 
必死でトライしたところ
約1年半で ふつうに可能になった。
半年か9ヶ月だったかも。
途中で病気になり
パフォーマンスが暴落したことがあったが
その機能低下期間を計算にいれたら
まちがいなく約1年半。
人間の能力はスゴイものなのだ。
ここまでになるまで 
そりゃわたしもしんどかったが
仕事が遅いわたしをフォローする
職場の人たちも
さぞかししんどかったろう。
だが乗り越えた。
人間、追い詰められると
なにをやらかすか
わかったもんじゃない。

大量の本を短期間で読む、
これはわたしの仕事では
だいじなことだ。
「ほんとにそんなこと
しなくちゃいけないの? 
必要な情報なんて、その都度
ネットで調べればいいじゃん」
そう お思いになるかたも
いらっしゃることだろう。
だが、ちがう!!!
じっさいに、
本を読んでおかないと、
本を作ることはできないのだ。
というか書くことができないのだ。
やってみれば絶対にすぐわかる。

頭になにも入れてないと 
ふしぎなことだが、文が書けない。
これはほんとにふしぎなのだが、
頭のなかになにか入ってないと
1文字も書けない。
入れておくものは、
当該分野と無関係のものでも
なんでもいい。
だがいっぱい詰め込んどかないとだめ。
しかも、すぐに枯渇する。
頭のなかのものを
ものすごい勢いで
消費しながら書くのだ。
なにも入ってないか、
入れてる量が減ってくると
すぐに、書けなくなる。
だから絶えず
なにか入れてないと、
なにかを思ってないと、
考えてないとだめだ。

そういうものなんだと
この仕事に就いて、はじめて認識した。
だからその意味でも、
読んでなくちゃいけないのだ。

同業者のかたがたが
みんなこんなこと・・・
つまり1冊作るのに35~50冊
関連図書読破、を
やっているのかは知らない。
でも、似たようなことを
やってるんじゃないかなとおもう。

頭になにも入ってないと
どっちみち書けないんだから。
それは みんなおなじはずなのだ。

ただよくかんがえると
わたしの職場の人たちが この 
仕事ひとつにつき
35〜50の参考資料読破 を
どのていどまで真剣にとらえて
ちゃんとやっているか は
わからない。
わたし自身は 真に受けて
きちんとやっている。
職場の人たちはみんな
要領よく手をぬいてるかもしれない。
すでに知っていることを
改めて詰め込む必要はないんだし、
ふだんからいろいろなことに
興味関心をひろげ
いわれなくても読んでる人は
急に読む量を増やすこともない。
ちょっとはらくなはずだ。
職場の人はみんな
本を読むスピードがとても速い。
頭の構造が違うってかんじだ。

かくして
最低限 われわれは
いつも本を読んでる。
マンガだって際限なく読む。
本だけじゃない。
音楽 映画
アニメーション 写真
きれいな絵とか 景色
あと、人とのコミュニケーション
体を動かすこともいいだろう。
なんでもやって、
頭にどんどん入れていって
いろんなことを 
いつも思っている。
そういうもんなのだ。

※これはオプションだが、
本を1冊作るために 
こうやっていっぱい
その分野の関連図書を
読み漁っておくと、
仕事とはまた別に、いいことがある。
すなわちその分野について
けっこう知識が身につく。
本を作り終えたら
細かいことは忘れてしまうが
基本的なことや外枠などは残る。
何度も同じような分野の本を作ると、
もっと深く濃く覚えられる。
これはむだにはならない。
たとえば 初めて会う人とでも
その人がどんなご職業の
どんなことをやっている人でも
会話がけっこうもつ。
話がはずみ、友だちが作りやすい。
人と仲良くなりたければ、本を作れ。
ということだ(^^)

だがしかし、
知っておかなくちゃいけない。
関心がないとか、
自分にはどうせわかんないだろう
などとおもいこんだ状態で 
こういう
事前準備(本読み)をして
必要な効果をえるのは
不可能にちかい。
いくら読んでも頭にはいってこない。 
同じところを何度も読んでても
気づかないくらい上の空だし
すぐ眠くなっちゃうし 
なんとか全部読んでも 
なーんにも覚えちゃいない。
時間がかかるばっかりで 
なんの成果もないことになる。

「自分にはできない」と考えることほど
作業の非効率化に効果的なことはない。
一瞬でも「できない」などと考えれば
頭に「できない」というタガがはまり
脳みその働きが70パーセントオフくらい
鈍化してしまう。

仕事で
なんとしても必要なことを
やろうというときに
そんなくだらない泥沼に
はまっている場合じゃない。 

だいたい
本読みに純粋に使える時間は
多くて4日、
実働で18時間とか20時間とか
あっても そんなものだ。
ほとんどの場合 もっと短いし、こまぎれ。
それだけのために
時間を使えることなんて
めったになく、
いつも別の仕事と同時進行、
よゆうがないなかでやっている。
体調がいいともかぎらない。
頭が痛かったり疲れてたり
人間なんだから 
コンディションてものがある。

条件が完璧にそろった状況で
本が読めるなんてことは ない。
それで35冊~50冊を
平気で読まなくちゃいけない。
1冊の文字数ページ数にもよるが 
すごく難しいことだ。
ほとんどの人は 
冗談でしょ、というだろう。
でもほんとだ。
難しくてもやっている。
いつも戦ってる。

だから、せめて、
この作業を完遂するのに
必要なことがある。
「関心がない」という、
考えを自分のなかから追い出すのだ。
虚心で読むように努める。
虚心どころか むしろ真逆。
いままではなにも知らなかったけど
ぜったいに好きになるはずだ、
興味がわくはずだと
一種の自己暗示をかけてから 
本読みにかかる。
自己暗示なんていうと
難しいかんじがするが、
わたしの場合はごく単純だ。

単純に 声に出して言ってから
資料読みと研究に入る。
すなわち
「ぜったいに好きになる。興味がわく。」
声に出してそう唱えるのだ。
魔法(暗示)が解け始めたことを感じたら
つど 呪文を唱え直す。
こうしてから作業をすると、
かなりちがう。
ウソみたいだがほんとの話だ。
そんなことでいい。

ほかにも人によって
いろいろ最適な方法があるだろう。
さがしてみればいい。

興味がなくても関心がなくても
仕事はくる。
あきらめてはいけない。
その仕事をしたいとおもうかぎりは。
できないと考えることを
自分に許すのをまずやめることだ。
そして「できる」と思い込む。
自作自演上等だ。
それでだいぶちがう。


今回の仕事ものりきった。
つらかった(涙)
やはり 関心がないと
おもしろいように
仕事のスピードが落ちる。
自己暗示にも限界があるもんだ。
知ってるよそんなこと!
職場専属の催眠術師さんとか
いてくれたらな。

映画の感想-『鍵』-171002。

1日 本を読んでた。

本ばっかり読んでいたせいか
首がいたい。まわらない。
横になるのもしんどい。涙出そう。
それに おなかすいた。つかれた(^^)
本音をいうと きょうはもう 
あと1行だって読みたくない(^^)

・・・

さっき、
『鍵』を観てみた。
英題:Odd Obsession
市川崑監督
1959年、日本

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www.youtube.com


谷崎潤一郎の『鍵』の 
5本だかある実写映画化作品の
いちばん最初のものだ。
二代目中村鴈治郎(古美術鑑定家・剣持)
京マチ子(剣持夫人・郁子)
叶順子(剣持家娘・敏子)
仲代達矢(敏子の婚約者・木村)
などがでてる。

『鍵」』の基本的なすじを 
お知りになりたいかたは
Wikiなどをお読みになるといい。

みごとなもんだなとおもった。

原作小説がだいたんに換骨奪胎され
かんじんの「日記」の要素は
ほぼ全消えで ラストあたりに
申しわけ程度にでてくる程度
そのかわり「窃視」と
「公然の秘密」の要素が
映像と会話劇によって
ぐいぐい押し出される
映画ならではのつくりだ。
何を考えているのか
さっぱりわからない、
木村の頭のなかは 
すくなくとも 鑑賞者にかぎっては
ノローグによって
「窃視」できる仕組み。

原作とはかなりちがうけど
とてもよくまとまっているとおもう
徹底的なまでに様式的
かつシンボリックで、
それだけに 
人の心の謎や愛憎がにじみでて 
美しいと感じる。
蒸気機関の暗喩とか 
あんなのもう 
今の映画ではできない。

セリフにも動きにも 
ムダや飾りが感じられない。
セリフなんか 
1回でも通して映画を観れば
そらで言えそうなほどシンプルだ。
「演技とかそういうの 
この映画に必要ないんで!」
くらいのこと
考えていたんじゃないだろうか、
監督は。知らないけど。

女性陣の
お化粧が怖い(^^)
初登場シーンで 京マチ子の顔をみたときは
冗談でしょ、とおもった。
でも観ているうちに慣れてきて 
きれいだな、くらいのこと以外には
なにも思わないように
なってきたからふしぎだ。
お能の面のようなかんじかなと。

中村鴈治郎
とてもうまいとおもった。
目つきも手つきも 
きもちわるくて じつにいい。
最初はこの人がいちばんヤダなと
おもうんだけど
観ているうちに・・・。

京マチ子は いい。
彼女って 体をはって
「女」ってものを演じた女優なのに
いやらしくならなくて
いつでも品があるところが 
稀有だと感じる。

「はなさん、また間違えたのね」。

仲代達矢が 剣持夫人とその娘とを
みずからの出世のためだけに
とっかえひっかえする
不誠実なインターン生を 
うまいこと演じてた。
顔が腹立つ。

昔の日本映画はおもしろい。
こういうのだったら いくらでも観たい。