BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

まるがかえでやっていこう(病める人を閉じ込めたところで始まらない)-180710。

殺人や傷害などの凶悪な事件が発生し、
その犯人の逮捕が報道されるとき、
「〇〇容疑者には精神疾患の罹患歴があり」
「〇〇は精神科クリニックに通院していたとの情報もあり」
というのが、付くことがある。
「死亡した〇〇さんは精神疾患をわずらっており
警察は保護者である△△容疑者が〇〇さんの将来を悲観して
殺害をはかったとみて・・・」
といったようなのも。

インターネット上のユーザーコメントをみてみる。
こんなのがとても多い。
精神障害者の犯罪が多すぎる」
「危ないから病院にいれて一生出すな」

「多すぎる」、となるのは理解できる。
昨今 傷害や殺人があるとその背景に 
どうかすると「精神障害」というワードがみつかる。
多すぎると感じるのは、気のせいではさすがにないだろう。

だけど、
精神障害者の犯罪が多い
精神障害者は危ないから病院に入れて、出すな
これは、どうか?


本の受け売り以外のなにものでもなくて あれなのだが
昭和49年に、国の法制審議会が提案したことがあるそうだ。
「保安処分制度」を。
ざっくりいうとこれは
「将来起こすかもしれない犯罪を防ぐために、
犯罪歴のある人を あらかじめつかまえて、
刑罰とは別の処分をプラスで課して監視下においたり、
強制的に入院させて治療する」
そういう司法上の処分だ。
ときにより場合により、呼びかたや想定ターゲットや
ディテールは異なるが、だいたいいつもこういう内容だ。
これと似たような制度の導入は
日本以外のところでも議論されたり実行されたりしている。
米国では性犯罪者がターゲットになることがよく知られている。
性欲を抑制するための薬物を投与したり
特定の地域に隔離し厳しい観察下のもとに生活させたり 
位置情報捕捉用チップのようなものを体内にうめこむなどして
彼らがいまどこにいるか 何をしているかの情報を市民と共有する
みたいなことをやっている 地域があるとも聞く。

日本で 保安処分制度がとりざたされるときは
・・ここ50年くらいは とくになのだが・・、
その想定ターゲットがたいてい 精神障害者だ。

いちいち確認するまでもないことだが、
少なくとも日本では
「前科があるけど今は悪いことをしていない人」は、
ふつう それだけで逮捕などはされないし、
入院させられることもない。
悪いことをしていないんだから。
でも精神障害者にはもうそうしちゃおうよ、だって危ないじゃん。
ということを、日本で、国がやりかけたということだ。
とんでもない話だ。
だってふつうはそんなことはしない。
でも精神障害者にはしようという。
言いたかないがそれをこそ「差別」というのではないの?

昭和49年のこの「保安処分」をめぐる議論、
当然だが お医者さまの団体や日弁連が、
導入なんて絶対にだめだと猛烈に抗議したので、
いったん話がたちきえになった。

ところがその6年後に起こったある事件をきっかけに
議論が再燃したと聞いている。
新宿駅西口バス放火殺人事件(1980年/昭和55年)だ。
この事件の犯人に
精神障害の傾向(知的遅れの傾向という意見もあったか)が
あったことが、報じられた。
やはり、言われたそうだ。
ほーらまた精神障害者だ。
精神障害者は危ないんだよ。なにをするかわからない。

2001年、池田小無差別殺傷事件のときもだ。
宅間守が 統合失調症などの診断をうけており
池田小の事件を起こすまでに何度も
警察のお世話になっていたにもかかわらず
精神障害を理由にそのうち十数回もの案件で
不起訴処分になっていたことがあきらかとなり
(精神疾患の診断履歴があることの背景にもまた
いろいろと深い事情があったと聞いているが。)
いやいやもうがまんできませんよという空気になり
精神障害者への保安処分の導入をめぐる議論が復活したのだった。
そして保安処分的処分にあたる
心神喪失者等医療観察法医療観察法」(通称)制定への動きが加速。
はやくも2005年には施行された。施行されたのだ。

宅間守にはたしかに精神疾患の診断が過去にでていて、
入院治療をうけたこともあったし、
池田小事件のあとにうけた精神鑑定でも
人格障害などがあったという結論がだされている。
でも、覚えている人はたぶんわたしだけではないとおもうが、
彼は死刑となっている。
人格障害とかが たしかにみとめられるけれども 
事件をおこしたときには、責任能力があった、と断定されたのだ。
なのにそのことが 議論においてあまりかえりみられず
医療観察法がすみやかにめでたく成立してしまったわけだ。

おそらく、わたしたちは、おびえていたんだとおもう。
医療観察法の成立までの動きはほんとうに
素人目にみてもザツで、乱暴そのものだった。
もうこまかいことはいいからとにかく・・・というかんじを
隠そうともしていないのが わかったものだった。
わたしはもし自分が「精神障害者」だったら
自分はこんなふうに見られているんだ、
怖がられているんだ、とおもって
とても落ち込むだろうし 屈辱をおぼえるだろうと 
想像したのを覚えている。

でも、医療観察法があるから安心と 
はたしてなったのだろうか。
なってない。全然なってない。というか
ある意味もっとひどいことがふつうに発生している。
2016年、相模原の障害者施設殺傷事件。
犯人が薬物依存症(薬物依存は精神疾患だ。)だった。
医療観察法がもうあるのに
このときには保安処分制度の議論の再燃どころか
優生思想のことまで話が盛り上がってしまっている。
べつに話が盛り上がることがわるいとまで言うつもりはないけども。

・・・

精神を病んでる人は何をしだすかわからない
怖いからもう病院に閉じ込めちゃおう 
何かしてからでは遅いし どうせするんだろうから。
・・・
この考えをどうしても捨てがたい人がいるのだとおもう、
ネットのユーザーコメントにあんなにも多く
その手の意見が乗るのをみても。
(ひとりでいくつもアカウントをたてて
複数人になりすましている可能性もあるが
そういう人が1人いれば、もう1人いて、
2人いれば4人いる・・・と
考えるのが自然じゃなかろうか。)

でも どうなのかなとおもうのだ。
いや、正直言うとすごく、なんというか、
きもちは わからないことはないんだけれど。
でも、冷静に考えると、どうなのかなとおもうのだ。
わたしは すっごくその考えかたって
浅いし、足りてないし、なにか、ズレているような気がする。

こんないいかたでなんだが、
では 精神傷害者、とはなによ。
ということを ちゃんと、確認できるはずなのではないか。
たえず確認しながら考えていくべきなのではないか。
・・・このさいもっとはっきりいおう。
異常者とは、なによ。

根本について わたしが考えていることを書きたい。

すごくぼんやりとしたところから始めるが、

こんな話をきいたことがある。
精神障害うんぬんとは全然関係のない話なのだが、

会社における人材の質の比率は
だいたいどこでもいつでも同じなのだという。
社員が10人の会社だとすると
ものすごくデキる、マインドも完璧、意欲も十分のスーパー社員が1名
まじめに会社にきてそれなりに働くふつうの社員が8名
なまけもので、イヤなやつで、いるだけ迷惑な社員が1名
の配分に、いつもなる。いつもその比率。
なまけものの社員1名を、辞めさせたとしよう。
すると、不思議なことに、
ふつうの社員8人のうちから1人が、
「なまけもののダメダメ社員」にくりさがるのだそうだ。
辞めた1人のポジションを自分が埋めなければ、とでもいうように。
こうやっていつも、
超優秀1:ふつう8:ダメダメ1 の割合を
なぜか保ちつづけるのが会社なのだとか。

この話は、だから逆に言えば
会社をイイかんじに運営したければ、
ものすごくデキるスーパー社員1名を、
積極的に昇進させていけばいい。
そうすれば、ふつうの社員8名のなかから1名が、
デキるスーパー社員にくりあがって・・・と、いいサイクルを
呼び込めるんだよ。・・・
いつも 一定の比率であろうとする、ということ・・・
つまり
すごくデキるスーパー社員が、ぜひとも会社に必要なのと同じように
ぜんぜんできないなまけものの社員も 10人中1人は必要なのだ。
そう考えると ダメダメ社員をクビにするのは得策とはいえない。
ダメな社員にも、いる意味がある。
・・・そんなことを、言いたがっている話だった。

この話がどうも わたしは忘れられないのだ。
ほんとうにぜんぜん いまから書こうとすることと関係がないのだが。

・・・

精神障害者はどうせ悪いことをする。
犯罪を未然にふせぐにはあらかじめ閉じ込めちゃえばよい
というのは、
お金が必要だ。職場の金庫にお金がある。よし、盗もう。
とか
あの人の心を手に入れるのに、あの人の恋人の存在がじゃまだ。
よし、殺そう。
とかいうのと 同レベルの考えかたじゃないかな。
お金が必要だから盗む、も 恋の成就のために人を殺す、も
欲求の実現のために 
とりかえしのつかないことをやらかすというプロセスを踏むわけだが、
そのリスクをぜんぜん考えていないし、
というか「罪悪感」「良心」「倫理」を
前提としてかるがる飛び越えてしまっている。
こんな考えかたをするなんて。国が。おかしい。
まず そこを押さえたい。

さて、
精神障害のある人はどうせ悪いことをする。
犯罪を未然にふせぐにはあらかじめ閉じ込めちゃえばよい
この発想は、
「正常な人」と「異常な人」が
客観的に、明確に分かれて、別べつの種類として存在する、
という前提に たつものだ。

でも、正常な人と異常な人を区別する基準などあるだろうか。
そんなものがあってたまるか。ない。とおもう。

そうだなあ まず、
両者の境界線って、すごくあいまいなものじゃありませんかね、と
言いたいのではない。
また、
「こういう状態なら正常とみなします」という基準の
設置が可能だとしても、その基準にもとづいて
「ここまでは正常ここを超えたらビョーキ」と
決めることなんて、できやしないんですよ、
という話をしたいのでもないのだ。
だって、もし、
「基準があっても(心は目に見えないから)正常と異常を
はっきり区別することなんてできないんですよ」
ということだとしたら、それは
「今はまだ、技術が進歩してないからできないけど、
いつかはもっと基準値の測定が精確になり、
正常と異常の区別ができるようになるとおもうんだよね~。」
を はらむ りくつではないか。
値を測定するようなやりかたで 心の正常と異常の区別が
できるようになる可能性だって。
ばかみたいだとしか わたしにはおもえない。
そんなことができるなんておかしい。
できたとしてもするのはおかしい。
「法的に成人の年齢に達したからといって、
若く未熟なあなたが
急に国政のこととかを、まともに考えられるように
なるわけじゃないことは、重々わかっています。
でも、あなたは18歳になったので、
きょうからは選挙権を認めます。」
と 定められているのと同様に、
異常度51%や50.2%の人も、50%を超えているから、
「異常」の枠に入れます、ということに
なってもいいです、といっているのと おんなじだ。
選挙権はいい。酒もタバコも この際そのりくつでいい。
でも心の正常・異常うんぬんは・・・ぜんぜんちがう話だ。

そういうことを言いたいんじゃない。

精神障害とか、精神異常者、というのは、
「そういう種類の人」という客観的な存在ではない、と
言いたいのだ。

共同幻想・・・、
特別に話し合って決めたとかいうわけではないけれども
時代のながれとか社会の雰囲気とかで
なんとはなしに決まってきて
なんとなくみんなで共有している「イメージ」を
「共有していない人」のことを、呼ぶのだ。
「受け入れていない人」のことを、くくるのだ。
精神障害者、異常者と。

「宇宙意志に命じられて殺したのです」的な妄想とか
人が乗ってるバスにガソリンまいて火をつけちゃう
みたいな 通常考えられない行為
いわゆる精神障害者が、その症状のせいでやっちゃうものだと
されていること・・・は、
精神障害者が有する性質のなせることではなくて、
精神障害者が排斥された、または疎外された結果
起こること、ではないのだろうか。

自分や、自分と似た人を「正常な人」、
ある種の、ある程度の、「違うかんじ」を持つ人を「異常者」
そう、みなすだけだ。

あのじいさんときたら、自分がぼけてるとわかってないんだぜ、
あの「〇チガイ」は自分は頭がいいとおもってるのさ 
なんていって
ぼけちゃったおじいさんや おばかのなんとか助を
あざ笑うシーンが 時代小説なんかによくあるが・・・

わたしが自分のことを正常だとおもうなら
わたしが「精神障害者」とみなす かの人だって もちろん
ご自分のことを正常だと おもっているはずなのだ。

ちがうだろうか? ちがわないはずだ。
「イヤイヤかんべんしてよ、あなたは異常だよ」
自分を正常とするかの人の主張を そういって否定するならば、
「あなたはなんで自分が正常だなんて言えるんですか、
あなたこそ わたしからみたらまさしく異常ですよ」と
逆に言われることだって考えられる。
いわゆる正常な人が自分を正常だとおもうことの
根拠がゆらぐのだ。
そうじゃないのか。そうのはずだ。

みんな自分を正常だとおもってる。
なのに「違うから、おかしいから」というので
一部の人を異常者として共同体から疎外したり隔離したりするのは、
疎外される側ではなくってする側に問題があると
いわざるをえないとわたしはおもう。
ではなぜ自分は隔離されないですんでいるのかということになるではないか。
ある価値観で人をそうやって 隔離したりつまはじきにしたりするならば
自分もある価値観があらたに共同体に生じたときに
隔離されたりつまはじきにされたりする可能性を
おりこまなくてはならない。

さっき、正常な人というのは
そのときどきの社会の、みんなの共同イメージを
受け入れて、そこから外れないように生きている人だ、
という意味のことを述べた。
でも「正常な」人も 誰もが、
「みんなの共同イメージ」とズレている部分を
程度の差こそあれ、なにか持っているものだ。
持っているけれども、それをうまいこと
社会でやっていける程度に抑圧して、
心のなかに隠している。
でなくっちゃ社会生活はできない。
この「うまくやる作業」をやらないのが「異常者」、
そういうことだとおもうけど。

「正常なほうの人」は 自分のなかの
「違う」側面をうまく隠している。
でも隠しているからといって、
あとかたもなく消えるわけではもちろんない。
隠している部分はいつも心のなかにあって、
絶えず心の奥のほうから、
「ほんとは隠したくないよ、表現したいよ」と
呼ばわっている。

共同体の「イメージ」は、時代の流れにそって
かわるものだ。変わるときを待ちながらうごめいているものだ。
一定のかたちのままずっとあるということはない。
わたしたちが心の奥におさえこんでいる
「異なり」の部分から
じっくりすこしずつ力を吸い取って蓄積していて、
ここぞというときに劇的な変容を遂げる。
世界が変わる、趨勢がかわるっていうことだ。
日本人はみんな一緒に〇〇しましょう、が好きだから 
とくにその「劇的」っぷりが顕著なかんじもするな。
いつもそうというわけでもないけど。

共同幻想は、その変容のために必要なパワーを
正常な人の心の奥の「異なり」からも吸収するが
いちばん大量にしかも早く吸い取れる源はもちろん
「異なり」を隠さない人、異常者だ。
共同幻想の海にためらいもなく体を投げ出し
自分の「異なり」のすべてをさらけだし
しかもそれがさいわいにも受容された場合
のちに天才とか革命者とか英雄とかいわれるだろう。
そこまでにはなれなかった、失敗した場合、
異常者、狂った人と呼ばれて終わるんだろう。
なんとかと天才は紙一重っていうけれど。
両者は別べつなのではなくておなじもので、
結果によって呼び名がかわるだけだ。
でも世界を変えるのは多くの場合、「異常者」であるのだ。

何度もおなじことをいうようだけれども、
共同幻想は、個人が自分の心の奥に隠している「異なり」を
遠慮なくバーッとぜんぶ出すことを 認めてくれない。
わたしたちの多くは どうしたってほんのちょっと、一面的、
見せても大丈夫な部分だけを小出しに・・・、
というふうにやるのが関の山だ。
だが、ほんとうに世界の全員がそういうふうにしかできなくて
つまり正常な人しかいなくて、異常者がゼロな世界だったら・・・
そんなつまらない世界、あるだろうか。
心の自由を求めて闘うこともない、
表現することの歓びも苦しみも味わうことがない。
なんとなく決まった、そのくせ妙に強固で開錠に時間がかかる
「まあこういうことにしておきましょう」の檻のなかで
だれもかれもが おりこうさんにしているだけだ。

異常な人を排斥すれば、
正常な安全な人だけの清潔な世界でやっていけるよね!
っていうのは、そういうことだ。
それでほんとうにわたしたちは満足だというのだろうか。

異常者は・・・それは
わたしたちの社会で、つねに ある割合で、必要なのだ。
でも世界の改革者となる「いてくれてよい異常者」と
人を殺したり狼藉をはたらいたりする「いられると困る異常者」を
なにもおこらないうちにあらかじめ 区別することは
もちろんできない。あたりまえだ。
何年もあとになって、決まるともなしに、なんとなく決まるのだ。

それはそうかもしれないけど 
いられると困る異常者をほっといたら
人が何人も殺されかねないだろうが。
そうなったときだれがどう責任をとるんだ。
自分の家族や恋人が殺されてもそんなきれいごとがいえるのか。
精神科病院で働いている人たちのまえで
精神障害者を家族にもって苦労している人のまえで
同じことがいえるのか。
・・・
もっとものように聞こえる りくつだ。
たぶんもっともなのだろう。
だけど 完全無欠、正義のりくつとはいえない。
「完全」の顔をしたものほど怖いものはない。
完全なんて 人間にはできないんだから。
正しいことを言ったったぜ! と満足すると
それ以上 ものを考えなくなるのが人間だとわたしはおもう。
うまくいっているとき 今がたのしいというとき 
人は考えないし、成長しない。
それに、そのもっともなりくつで
いま このとき わたしを黙らせることができても・・・
いやいや、それはいいか。

異常者を決まったところにあつめて閉じ込めてしまえば
安全な世界を確保できる ・・・
そんな壮大なかんちがいにもとづく方策には・・・ 
NOと言わなくっちゃならない。
そんなものを導入した結果 できあがる世界の
きもちわるさたるや
「異常者を異常者と知りつつ野放しにする」ことが招く危機?
どころの話じゃない。
だってそれでできあがる世界とは 
人の心が滅んだ世界とほぼイコールなのだから。

「違う人」を受け入れられない社会は
もっともっと多くの「違う人」を作り出してしまう。
自分と違う人=異常者がそんなにたくさんいたら大変だ。
怖くて外を歩けない。となって、
ますます違う人を受け入れられなくなる。
外は 受け入れられない「異常者」ばっかり。
最悪の世界だ。

会社の人材の質の分布について 
わたしが聞いた話をさきほど書いた。
仮に、「ひとつの共同体におおむね1%の異常者」が
その共同体における人の種類のばらつきという意味で 
ただしい割合なのだとしたら
その1%の異常者は、(なぜかはいまはわからないが)
なにか意味があって、必要があって、そこにいるのではないのか。
そして、異常とは、正常との相対において生じる存在なのだから、
もし彼らを排斥し、出てこられないように閉じ込めたならば、
会社において「1%のダメダメ社員をクビにした場合」と同様に
たぶん 正常者のなかから新たに1%が 異常者に転じるはずだ。
あれれまた異常者がでてきちゃった、
じゃあまた隔離しましょうとやっていたら きりがない。
最終的には
社会を構成していたはずの人びとの大部分が
異常者のくくりでガッサリと隔離される寸法だ。
どんな世界だ。ほんとうにそれでいいというのか。
わたしはイヤだ。きもちわるい。
映画ではそういう設定もたまに見るが。

国際関係なんかと同じく、
ひとつの社会のなかの「安全」というものにおいても、
絶対に、完璧に、これなら安全、なんていうものはない。
他者はコントロールできないのだから。
リスクヘッジにつとめ、
つねにうつろう最適解をみきわめる。
まあ当座こんなところでしょうかね、
何かあったらまた改めて考えましょう、
そうしてやっていくほかない。
精神障害者も犯罪者も、「精神障害者という人」「犯罪者という人」
というはっきりとした「種類」なのではなくって、
人という存在の みえかたのひとつ、ありかたのひとつだとおもう。
違うからといって、その人ごと「見えないこと」にして
なんになるというのだろうか。
社会にくるみこんで、いっしょにやっていくのだ。
完璧な安全 絶対的な理想があると それを実現する方法があると
信じることの方が危険だ。
それはナチスが(本気で信じてたかあやしいもんだが)やったことだ。
それは自国の安全のために世界を安全になんてバカなことを考えて
大東亜なんとかみたいなことを 財力も展望もなかったくせにおっぱじめ
世界を戦争という泥沼にひきずりこんだ・・・
いつかのどこかの国のやったことだ。