BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『さよなら、人類』/海外ドラマ-『GET DOWN』-190502。

お天気がだんだん上向いてきたようだ。
きょうの昼間はあたたかかった。

・・・

きのうから今日にかけては
『さよなら、人類』という
スウェーデン製の映画を4回くらいも
くりかえし観てた。

原題:EN DUVA SATT PA EN GREN OCH FUNDERADE PA TILLVARON
ロイ・アンダーソン監督、2017年
スウェーデンノルウェー、フランス、ドイツ合作

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というのも、1回観たくらいでは
なにがなんだかわからなかったからだが、
くりかえし観ることでそれなりに
理解できるようになってきて・・・
そうこうするうちに今度は
この映画のことが大好きになってしまったのだ。

映画にもいろいろあるものだ。

新作・旧作映画にはかならず
公式ウェブサイトがあって
そこでプロダクションノートや
ストーリー解説などが
かならずおこなわれるものだ。
極力、本編を観るまえには閲覧しないことにしている。
観たあとも、できるだけ読まない。
「あのシーンはこうやって撮ったらしい」
「あのシーンにはこんな意図が込められたらしい」
そういうのって 正直に言えば
ものすごく知りたいんだけど
知ってしまうと それ以外の観かたが
できなくなるようにおもう。
ただでさえ いちど自分で「こうだろう」と
解釈したら それ以外の考えをみちびきだすことは
むずかしいので
自分じゃない人から「答え」を提供されて
それがただしいと頭のなかに固定してしまう流れは
ちょっとイヤだ。
きょうび どんなにシャットアウトしたつもりでも
情報は 入ってきてしまうものだが。

・・・

米国のすでに完結ずみの連続ドラマシリーズ
『GET DOWN』をたまに観てる。

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www.netflix.com

1970年代末、行政に見捨てられ
貧困と犯罪の巣窟状態となっていた
ニューヨークはブロンクスを舞台とする物語だ。
主人公の少年エゼキエルはこの街で両親を殺され
親戚にひきとられて暮らしている。
学校の成績は良く、特に作詞の才能に長ける彼は
その素質を見抜いた担任教師の協力を得て
大学進学や政界への参加といった夢を描くまでになるが
その一方で、いまでいうHIP HOP、ラップといった
当時アンダーグラウンドとみなされていた音楽の世界で
チャンスをつかみ、生まれ育ったブロンクスの街を
内側から改革していく力を得たいと願うようになる。
彼の幼なじみで初恋の人マイリーンは
ペンテコステ派キリスト教会 の指導者/牧師?の娘。
厳格な父のもと、息苦しい生活を送っている。
しかし、やがてその天性の歌唱力がみいだされ
当時の若者たちのミュージックシーンの
メインストリームといえるディスコミュージックで
スターダムをかけあがっていくことになる。
物語はエゼキエルとマイリーンの関係を追いながら
当時のニューヨークがかかえていた
さまざまな社会的問題をあぶりだし、
さらにアンダーグランドの世界における
HIP HOPという新しい音楽の誕生の瞬間を描いていく。

レオナルド・ディカプリオが主演した映画
華麗なるギャツビー』(2013年)の
バズ・ラーマン監督が手がけている。

物語が、これからどうなっていくかについては、
それなりにスルスルと予想できてしまうんだけど、
観ていてけっこうおもしろいドラマだとはおもう。

エゼキエルがなかなか自分の進むべき道を
これ!と決めることができない所は
いかにも優柔不断におもえて
みていて本当にイライラする。
あれで案外世間知らずなところがあって
空気を読まずに 舞い上がって
いらぬことを口走ってしまったり
信用ならない相手を簡単に信じてしまったりする。
こんなんであの苛烈なブロンクスの街で
生き抜けるのか 他人事ながら心配だ。
でも、まあ、自分も、彼くらいの年齢のとき、
こんなもんだった。
というか、彼ほどですらなかった。

ヒロインのマイリーンの歌声は、
ソロだと全然 個人的には好きじゃないが
アンサンブルのなかで歌うと
周りと調和しつつ、きれいに映えて
非常に美しいと感じる。

印象的なのは、
まず、劇中で、登場人物のだれもかれもが、
呼吸をするように自然に 麻薬や覚せい剤
売買したり打ったり吸ったりしていることだ。
最初はめんくらった。
でも、あまりにも当たり前のように
みんなクスリをやっているので
だんだんこちらも
それを見ることに慣れてきたというか
慣れないことにはこのドラマは、観ていられない。

また
登場人物たちの、おそるべきサバイバル精神。
自立的な生きかたをしている姿に驚かされる。
すくなくともみんな、
自立的であろうとして、方法を模索している。
エゼキエルやマイリーンは
おそらくまだ16~17歳あたりの設定だと思う。
彼らが師匠と仰ぐ、音楽界のビッグネームたちでも
たぶんせいぜい20代前半とかいった所だ。
でも、そんなに若いのに、
みんな、信じられないくらいタフでハングリーだ。
あぶなっかしいけれど、まがりなりにも
自分の力で自分の生活をまわそうとしている。
どうやってお金をかせぐか常に考えている。
つらい暮らしから抜け出す方法を考えている。
わたしは正直な所、
まだ子どもの彼らが、いったいどうやったら
ラップバトルみたいな野外ライブイベントを開催したり、
自宅を開放して一夜かぎりのディスコを開いたり、
なんてことができるんだか、全然わからない。
もし、やれと言われても、どうやれば良いのかわからない。
わたしが高校生くらいのころ
そんなことができる同年代の友人など
まわりにひとりもいなかった。
それに、エゼキエルのように教師が目をかけてくれて
いい機会を持ってきてくれることも、まれにあるのだが
多くの場合、このドラマの若者たちは、
自分のしたいことに、大人をむしろ、協力させる。
大人に頼み込んでデモテープを作らせる。
大人のコネで有名プロデューサーと会う約束をとりつける。
そういう発想ってすごいもんだなとおもう。
彼らはハングリーだ。
でもそれよりも以前に
すごく考えかたが わたしなどとは
根本からちがうなと感じるのだ。

・・・

連休も後半に入る。
そこそこ予定も入っている。
連休明けにカゼひいたりしないように
気を付けながら行動したい。

雨ふると外でたくなくなる/映画の感想-『ROMA』-190430。

一日雨がふった。
外にでるのがおっくうでずっと家にいた。

ちょっと人恋しいようなかんじはした。

冷蔵庫になにもはいってないうえに
外にでなかったので
けっきょくコーヒーばっかり
飲んですごすことになってしまった。
あんまりこういうことを
続けているのもよくないとはおもう。

だがあしたも雨なんだよなー。
雨ふっちゃうと
外出る気なくなるねえー。

この連休はよく雨がふるなあ。
御代替わりの記念すべき年なので
おきよめの雨なのかもしれない。

・・・

きょうは
『ROMA』を観た。
原題:ROMA
アルフォンソ・キュアロン監督
2018年、メキシコ・米国合作

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www.youtube.com


美しくもかなしい、
しかもいとおしい映画だった。

メキシコ先住民系の家政婦の女性が
登場するので
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
『バベル』(2006年)をちょっと思い出した。

心の痛みから逃げ回るあまり
人とふれあう幸福も人生の輝きも 味わえないよりは
たとえ傷つくことになっても
果敢に人とかかわっていくことのほうが
人にはたいせつなのだろうと
映画を観て 感じた。

頭がいたくて家にいるきょう-190429。

きのうの昼過ぎから
断続的におこる頭痛にこまらされてた
だんだんその間隔がせまくなってきて
きょうは一日ベッドのうえだ

この前 退職された営業さんの
送別会のかえりに
お店の店長さんが 玄関で
みおくってくれたなかで
わが社の女性陣に
ガーベラの花を一輪ずつ
プレゼントしてくださった。
オレンジ色がきれいだ
茎を短く切って 
水をいれたグラスに生けておき 
毎朝水をとりかえ
たまにひなたぼっこさせている。
いまも元気に咲いている。
茎をバッツリ切ったので 
痛かったかもしれない。
こんなにきれいにいつまでも
咲いてくれているのを見ると
なんかかわいそうなことしちゃったなという
気になる。
せいぜいできるだけの世話をして
長くきれいでいさせてあげたい。

・・・

ラフォルジュルネのチケットが
2公演ぶんもとれた。
直前にサイトをあたったにしては
とれたほうだ。
それも 連休の思い出に
なんか聴けるといいなー とかいう
かんじではなく
ダメでもともとの本命が
調べてみたらまだわずかながら
席がのこっていて しかも最上等のS席が。
最上等っていったってラフォルジュルネは
5000円しないんだからね。
いったいどうなっているんだ(笑)
運よくとれた。
ラッキーだ。

・・・

ひとりで過ごしていると
好きなことばっかりやってしまう
部屋は本だらけであり
本のあいだに自分がはさまっている
いまや自分よりも本のほうが多い
・・・ん? そりゃあたりまえか
そして自分はコーヒーばっかり飲んで
おなかをつねにくだしている笑
こんなことしていたら
そりゃ頭も痛くなるよ。
コーヒーはやはり
ロキソニンのかわりにはならないようだ
というか逆効果だな!
おなかがいたくなるまで飲んでないで
ほかのものを食べるなり飲むなり
すりゃあいいんだろうけど
ほかのものを入れようとなったときに
何を選べばいいんだか
考えることがどうもおっくうなようだ。
冷蔵庫にはなんにもはいってない。
スーパーマーケットにいってみても
なにをどうすればいいんだか
なにが自分は食べたいんだか
ぜんぜんわからなくて
ぼうぜんとたちつくしたあげく
帰ってくる。
まあ
しょうがないんじゃないかなとおもう。
病気にならない範囲内で。

・・・

おもえば人に自分の考えとか
いわゆる価値観的なものを
わたしはおしつけすぎてきた
かもしれないとおもう。
そういうのって
わたしは人にされるとうっとうしい
だから自分は人にしないでいたいと
おもうんだけど、
気づくとやっちゃってる。
考えないでやってるからたちがわるい。
相手のためによかれとおもってとか
相手のことがむかつくからイヤがらせしたくてとか
そういうのじゃなく
呼吸と同じような感覚でやってるのだ。
とんでもない話だ。
やらないでいたい。
そのためには まずなにより
他人がどうであるかなどと
いうことに心を砕いてないで
自分自身のせわに 専念することだ。

・・・

今朝、パソコンの操作をあやまったのか
自分が利用しているブログサービスの
トップ画面にたまたまジャンプした。
そんなページはふだんまったく見ない。
いま注目度が高まっている
ブログの一覧があり
そのなかでとりあげられていた 
とある女性?の
ブログがすごくおもしろかった。
ブックマーク登録した。

highb.hatenablog.com


女性に人気のブラウザゲーム刀剣乱舞」や
大人が楽しむ系のアニメとかの大ファンみたいだ。
そういうののレビュー的エントリは
知らないと正直ついていけない部分もあるが

なんたって文章力がずばぬけている。
疾走感にあふれ よどみがない。
読む人のことなんか 
ろくすっぽ気にしてないのがいい。
気にしてないんだけど
根がおやさしいかたなので 
どことなくかんじがいい
読んでてイヤなきもちにならない。
すてきだ。
ところで 拝読するかぎり 
彼女はどうもなんらかの
心の病をわずらって 治療中のようすだ。
でも なんというか・・・ 
認知の偏向とでもいうべきものが、あまりない。 
読んでてしんどくなってくるようなというか
一般的に許容される範疇を逸脱する、
根本的な考えかたの危うさが ない。
心を病むのは脳のことだから
心を病むとすごく変なものの考えかたとか
しちゃうもんだとおもうのだ。
死にたいと考えてしまったり。
あたかも自分は生まれながらにして
こうなる運命の人間だ的な考えにもとづいて
すべてのものごとを解釈してしまったり。
わたしも1年前は スナック感覚
自殺を考えていたから。
くだんのブログを書かれているかたは
ところがあんまりそういうのがない
ご病気なんだから しんどいだろうなーとは
察せられるものの
それがあったとしても あるからこその
だれにもまねできないバランスの
イイかんじの文章だ。

書いてることの内容が
とても彼女にとって身近で、
なんということもないのに
どことなくカワイイし、等身大で、
むちゃくちゃおもしろい。
いつもお使いのカバンの中身とか
そんなちょっとしたことでよくもまあ
あんなふうにおもしろく書けるなとおもう。
露出狂趣味をお持ちのかたと
会って話した時のこととか。

露出趣味のかたは
自分がしていることが犯罪であると理解しているが
「見せられるほうも喜んでいるにちがいない」と
お考えである、
というところを読んだときは
目からウロコどころのさわぎではなかった。

ホラー映画がおすきなようすで
クワイエットプレイスとか
話題になっていた作品の
レビューも何本か書いている。
表現にいきおいとキレがあってカッコイイ。
ご自分でわかんないことを
無理して書いてないところもいい。

世の中 いいもの書く人がいるもんだよ。
もっと書けばいいのに エントリが非常に少ない。
もったいない。 
あたらしい記事をお書きになるのを
気長に待ちたい。
だがエントリが少ないまでも
おもいがけずおもしろいブログに遭遇した衝撃が
鋭く心に刻まれたことはたしかだ
それだけでもよかったんじゃないかとおもう。

中里学 活動休止前ラストワンマン-190428。

中里学さんのワンマンを聴いてきた。

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www.nakazato-gaku.info

twitter.com


2019年4月28日(日)18:00~

このライブをもって
無期限の活動休止期間に入るとのこと。
活動休止が発表されたのは1年前。
以来 今日にむけていくつもの
プレイベントが敢行されてきた。
わたしもそのうち何回かには足を運んだ。

・・・

今年の2月くらいだったと記憶してる。
当時、わたしは中里学さんを
よけいなおせわだが・・・心配してた。
というのも、
活動休止を発表して以降
歌のうまさとか音楽的な技術力は
聴くたびに充実度を増していき
怖いくらいに良くなっていくのに、
彼自身のマインドが
どうしてかその音楽にぜんぜん
沿ってきてないと 感じるようになった。
わたしが認識するかぎり
1ヶ月半くらいは そんなときが続いた。

すごくハッキリと
それを言葉で思考した瞬間があったんだけど
なんという言葉だったっけな
わすれちゃった。

彼は
かなしみや苦しみも、歌う。
だが、これまでは その歌が
わたしの心をいたずらに
沈ませることはなかった。
激しい心の傷みを歌っても
彼の歌にはかならず ひとしずく
癒やしや なぐさめが こもり、
聴いていて やすらぐ。

けど、休止前数ヶ月の彼の歌は・・・
聴いていると なぜだか無性に
イヤな気持ちになる
不快な疲労を感じる
そんなことがあった。

イヤな気持ちの内容を
説明することはむずかしい。
疲れると感じたわけもわからない。
そんな感覚をおぼえること自体
彼の歌を聴く場合において
ほんとにめずらしいことだった。

歌の世界のかなしみや苦しみを
表現しているのではなく
彼自身のマインドの低迷が
歌に「出てしまっている」
そういった感じ。
感情が「出てしまう」のと
「心を歌う」ことは、ちがう。

どうしてだったのかは知らない。
人間、いつも万全ではいられない。
何かつらいことがあったとか
当時チケットの売れ行きがまだ
伸びてなかったようだから
それでちょっとあせってたとか
そんなことかも。

でも、彼がプロであることを
わたしなりに知っていた。
コンディションのいかんにかかわらず
一定以上のレベルの音楽をやる人だ。
何年も彼の音楽を聴いてきたなかで
ああ今日は調子わるいんだなとか
はっきりと感じたことなんか
1回もなかった。

なのに今回だけ。
われながらしんどい感覚だった。
こんなことなんで
感じてしまったんだろう、って。
ただふつうにライブの日を
心待ちにしたいだけだったのに。
ラストライブ・・・
彼の歌を聴いたことのない友人を
誘って一緒に聴きたいなあと
考えていた。そうすれば、
チケットの売上にも貢献できるし。
でも、この調子ではとてもじゃないが、
友だちなんか誘えない。
わたしが自信をもって
誘うことができないのでは
どうしようもない。

それに、ふしぎだったのは
聴いていて、「良くない」ものを
確実に感じるにもかかわらず
テクニカルな面はむしろ
かつてないほど「良い」
ということだった。
そんなことあるのか??
なにが起こっていたのか
あの2月ごろのことは、
今おもいだしてみても謎だ。
・・・
なんかヤダなー、
ガクさんおかしいなーと 思いつつも
以後も何度となく開催された
プレイベントにはできるだけ顔をだし
中里学さんを わたしは
定点観測的に見守ってきた。

そして3月末か今月初旬ごろ
あ、なんか、もう大丈夫だな
と おもったときがあった。
それを機に、わたしは
中里学さんの歌を聴いたことがない友人を1人と、
中里学さんを知っているが もう10年以上も
彼のライブを聴いてない友人を1人、
ラストライブに誘った。

・・・

当日の
オープニングアクト
富岡大輝さんという人だった。
歌もギターもうまくておどろいた。
美声とは言えない個性的なあの声を
ああまで自在にコントロールできるのは
スゴイものだなと感じた。
ひとりで歌っているのに
バックにオーケストラがいるような
錯覚さえおぼえた。
ただ、曲が単調で、たった3曲でも
聴くのにちょっと忍耐を要した。
また、歌の内容が妙におさないなと
感じた部分はあった。
アプローチがまっすぐすぎるというか
相手が誰であろうと正面玄関から
ドーン!と入っていけ、的な
愚直さを感じた。
彼が、「夢」とか「勇気」「人生」を
「夢」「勇気」「人生」以外の
言葉を遣って表現できるように
なったら、そのときはまた
聴いてみたい。

・・・

ラストライブは文字通り最高のひとこと。

この日に向け 1年間というもの
中里学さんの音楽は先述のとおりあきらかに
良くなっていく一方だった。
本番じゃないのにこんなに
上がっちゃって大丈夫なのか
当日大コケするのでは、と
これまたよけいな心配をしちゃうくらい
良くなっていってた。
そしてそのままの勢いで本番へ。

2時間だまりこくって聴き入るしかない
すばらしさだった。
あんまりいいと もうこっちからは
何かしたり言ったり したくなくなる。
損なってしまうんじゃないかと、怖くなる。

全体的にテンポ感が
いつもより速く
あっさりめに片づけていったのが印象的。
わたしに限って言えば
このくらいビバーチェのほうが
心情的につらくなくて よかった。
1曲1曲歌いあげられてしまうと
もうこれで最後なんだよなっていう
さびしさが胸にせまりすぎて
きっと楽しめなかった。

「命の輪廻」のラストで
中里学さんがはじいたギターが
耳に からっと心地よく響いた。

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あの音は
植物の種が 空のワイングラスか何かに
勢いよく投げ入れられたところを
連想させた。
「命の輪廻」はそのタイトルのとおり
生命のサイクル、縁のめぐりを歌ったものだ。
「生まれ落ちて 土に還る日まで
ぼくらは めぐりめぐる」
という歌詞がある。
それだからじぶんも 
種を思い浮かべたんだろうなと考えた。

そこへ、「命の輪廻」が終わり
ほぼノンストップで始まった次の曲が
「種」だったので驚いた。

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コンサートって、
こういうことちゃんと考えて
プログラム構成しているんだなーと
いまさらながら、感心。

・・・

中里学さんの音楽には
称賛にあたいする美点がたくさんあるが
とくに言えるのは多彩さだろう。
歌いたいことは、彼はつねにひとつだ。
でも、その伝えかたを変えてくる。
前回発表した曲とはちがうテイストの
音楽を積極的につくってくるので
ライブでも、いろんな曲調の
歌が聴けて、飽きない。
今回のライブもそうだった。
何度も歌われてきたおなじみの曲も
フルバンド編成ならではの 
あざやかなアレンジの効いた
演奏をたのしませてくれ、
短期間に何回もライブに足を運ぶファンでも
たいくつすることはなかった。

みずから変化し続けることがいかに
人にとって困難なことかは、
だれでも知っているところだろう。
やりつづけるのは
なみたいていではない。

・・・

ちいさい子が何人かきていた。
会場となったホールには、
小さい子づれが安心して聴ける
親子室のたぐいがなかった。
大都市の大きなコンサートホールとかになると
わりと標準装備なのだが。
おおきな音を怖がってか
赤ちゃんがむずかる声が
客席のあちこちから聞こえた。
ラストライブというので
しめっぽくなりがちな雰囲気を
あの泣き声こそが
やわらげてくれていた。
赤ちゃんたちが 絶好のタイミングで
泣いてくれるから
大人が泣かなくてすむわけだ(笑)

・・・

時間が経つのがすごく早く感じた。
終わってほしくないなーとおもうような
たのしい時間ほど
あっというまにすぎさっちゃうものだ。

バンドメンバーがひきはらい、
ひとりになった中里学さんが
今日この日のためだけに作ったという
「足跡」
を ギター1本で披露してくれたのが
この日のライブのラストナンバーとなった。

照明効果がきえて
ぱっとステージがあかるくなったとき、
そこに立っていた中里学さんの
なんと残酷に小さく見えたことだろう。
たよりなく、おずおずとして
見えたことだろう。
自信のなさ、
ギターを持たない あしたからの生活への
いいようもない不安や所在なさ、
それらを彼はなんて正直に全身で
表現していたことだろう。
彼はこの丸腰で
あしたから生きていくのだなと。
ほかの誰もがそうであるように
彼にも支えが必要なのだとおもった。

中里学さんは
ライブを終えたくない、と何度も言った。
いつか必ず戻ってきたいと言ったし、
でも 今日が最後で 明日からは
もういない とも言った。
やめたくないならば 
やめなければいいのになぜ休むのか、
必ず戻ってくるというんだったら、
なぜ今は やめるのか。
はたから 言わせれば
ミュージシャンの
「活動休止」って、謎が多い。
病気治療、といったような
理由が語られるものをのぞいて、
いつも それは謎であるし、
つっこみどころが多い問題だ。

だが、
休まなければ続けられないことってあるとおもう。
本人が決めることだ。
誰の諒解もいらない。
中里学さんも、活動休止を決めた理由や
決断にいたった経緯を一度もおおやけに語らなかった。
どこかでだれかに語ったのかもしれないが、
わたしは聞かなかったし、
仮に聞いたとしても、
それを中里さんの本心だと
わたしが思ったかどうかはわからない。

でも、これだけは言える。
「足跡」を聴いたとき、
わたしは 
中里学さんが活動を休止することを、
初めて、自分なりに納得した。

・・・

中里学さんの音楽に
わたしはずいぶん救われた。
心なぐさめられたことが
何度となくあった。
彼の音楽には弱さがある。
人の心の痛みを知る人が
作ったものにだけ宿る 
かなしいやさしさがあり、
心の痛みを乗り越えたことがある人が
作ったものにだけ宿る
節度をわきまえた鼓舞がある。

中里学さんはパーソナルな言葉を
詞に用いない。
いつもごく抽象的でかんたんな
それひとつでは 使い古されすぎて
もはや意味すら消えかけて感じるような
あたりまえの言葉ばかりを組み合わせて
歌を作る。
それがわたし個人に刺さる。
考えてみればすごく不思議なことだとおもう。

中里学さんの音楽を愛している。
きっとまた彼に再会できる日がくることを
願っていたい。

映画の感想-『ミッドナイト・イン・パリ』-190428。

原題:Midnight in Paris
ウッディ・アレン監督
2011年、米国・スペイン合作

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www.youtube.com


ロゼワインをしみこませたキャンバスに
丹念に描き上げたかのような
淡くピンクがかった映像がなんともいえず よかった。
めずらしくだれかといっしょに
この映画を観られたらよかったのに、と、おもった。

映画の感想-『キングダム』-190426。

佐藤信介監督、2019年、日本

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www.youtube.com
ゆうべ、近所の映画館で
最終回のチケットを購入して観た。
帰る頃には日付が変わるくらい遅い枠なのに
上映スクリーンはとても混んでいた。
また、お客さんの層が厚く、また 幅広かった。
若い人も大人もいっぱいいたし、
杖をついた品のいいおじいさんなどが
映画のパンフレットを大事にかかえて
おひとりで観に来ているのを見たし
家族連れも多く見受けられた。
キングダムは愛されているんだなあ。

・・・

本作を観て自分が いだいた感想について、
一晩中かんがえた。

結論としては、
わたしは本作は
ちっともおもしろくなかった。
だが、本作を肯定し、また、歓迎する。
ニヤニヤしながら観た。

・・・

原作を知っているから
ストーリーがわかるので、
「どうなっていくのかな」と
ワクワクすることがない。
原作ファンが
原作ものの映画なんかを観る以上、
それはごくあたりまえ、ありえることだ。
だからその点をもって
本作がおもしろくなかったと
言うつもりはない。

言いたいのは
舞台装置とドラマのスケールが
まったくマッチしていなかったこと。
ドラマに持たされたメッセージの部分が
あまりにも軽薄で安っぽいものだったことだ。
原作と比較して、テーマが矮小化されている。
そこに強いちぐはぐ感をおぼえて
いったん気になりだすと物語に集中しにくかった。
本作 映画キングダムが描き出そうとしていたことは
なにもキングダムじゃなくても、
まして映画でなくても、じゅうぶん表現が可能な
そういう、程度の低いものになってしまっていた。
むしろ、キングダムじゃない何かを
下敷きにでもしたほうが
鑑賞者に受容されやすかったのではないかと思う。

具体的には、たとえばこの映画は、
「夢」「希望」「勇気」といった言葉を
セリフに多用していたのだが、
その「夢」「希望」「勇気」が、 
「弱小高校サッカー部の万年補欠選手が
 FIFAワールドカップ出場選手になるまでの
 奮闘を描く少年マンガ
における「夢」「希望」「勇気」と
同じニュアンスだった。
それが気になった。

夢、希望、勇気といった言葉は、
(こういう言い方も変なのだが、)
今や、ものすごく現代的なニュアンスで
遣われている言葉だ。
同じ言葉が2500年前にもあったかもしれないが、
当時の人びとがその言葉を発するとき、
そこに載せられていたイメージやニュアンスは
現代のそれとはまったく違ったとわたしは思う。

深く考えなければ、こんなことは
ぜんぜん気にならないのかもしれない。
高校サッカーだろうが中華統一だろうが
 夢は夢、勇気は勇気だろ」と
とらえる人も、いるだろう。
それに、原作『キングダム』のセリフでも
「夢」「希望」「勇気」という言葉は出てくる。
(映画のセリフは原作に相当忠実だった)

それに、現代日本語と古代中国語、
というめちゃくちゃ根本的な違いがあるのだから
それも含めてものごとを考えようとすると
異常に複雑な問題になり、
こんなもんわたしなんかの手に負えないと言ったら
それはもちろん手に負えない(笑)。

でも、やっぱり映画と原作とでは違う。
何が違うかと言えば、言葉の扱い方が違う。

原作キングダムは、もっと慎重で周到だ。
現代の価値観を表現するワードを遣う時は、
言葉の本来の意味をよく考慮したうえで、
かなり念入りに根回しをし、
時代の雰囲気をできるだけ壊さないように
工夫をこらしている、とわたしは感じる。

とくに「夢」の扱い。
「夢」という言葉がどんな風に扱われているかを
見ると、原作『キングダム』の作者のまじめさが
伝わってくるように思う。

そもそも、漢字の「夢」の本来の意味は
「暗くてぼんやりとした幻」だそうだ。
今は「夢」は肯定的に、気軽に語られる。
将来はメジャーリーガーになりたい! とかの
あの「夢」だ。
でも、昔は「夢」というと、もっと、
マイナスイメージだったということだ。
そんなもの人前で語るとカッコ悪いどころか
「こいつちょっと頭おかしいぞ」
「こんな奴とは関わらない方が良い」
そんな風に周りに思われた。
まっとうな大人の付き合いの場で語るものではない、
それが「夢」だったのだと思う。
武張った男たちのひしめく命がけの戦場に
「おれの夢」とかなんとか口走って
目を異様にキラキラさせてるのがいたら
狂人扱いされただろう。不吉な感じさえして
誰も相手にしなかったかもしれない。

原作『キングダム』では、そこの所が、
実際、ちゃんと理解されているように思う。
だから よく見てみると、
本来の漢字の意味でとらえたとしても
それほど不自然じゃないと思われる場面でだけ、
「夢」という言葉が用いられているのだ。
原作『キングダム』において、
漂は
「夢があります」
とは言わない。
身の程をわきまえぬ大望があります」
と言う。
信は
「無念なのは夢が幻に終わったってことだろ」
と言う。
王賁は
夢だ何だと浮ついた話ではない」と言う。
『キングダム』の男たちが夢を語る時、
「おれの夢は●●だ!」
なんて、まず言わない。
「いついつまでに●●を△△したいんだ!」
みたいな感じで、具体的に言う。
おれの夢、なんて口走るのがたまにいても、
それはたいてい小者キャラだ。
「夢」をかなえることなく早めに死んでいく。

原作はそのへんのやりかたが実はかなり周到だ。
ゴリゴリに濃密で骨太の、劇画っぽい画で
「それっぽさ」をしっかり出しつつ、
現代の感覚でウケるギャグやコメディも小出しにする。
2500年前の中国に絶対こんな表現なかったよね! と
誰でもわかるような今っぽい感じの言い回しも
ギャグっぽいシーンにはちょいちょい巧みにちりばめる。
そうやってこまやかに根回ししていくことで
逆に、大事な所で微妙に今っぽい表現を遣っても
浮かない、そういう基盤を構築し続けているのだろう。
2500年前の中国で生活したことがある人なんて
作者も含め誰もいないのだから、本当は
「何もわからない」が正解なんだろう。
だからこそ慎重に、
マンガの世界を壊すことがないように
じっくりとやっている、
それがマンガ『キングダム』の
深みあるおもしろさの秘密じゃないだろうか。

となると、マンガより映画の方が分が悪いのは
当然だとわたしは思う。
歴史ものを実写映像でやるとなると、
現代の顔をした役者さんが
現代の声の出しかた、現代の身のこなしで
昔のことをやらなくちゃいけない。
しかも時間がかぎられている。
絶対にどこかしらどうしても現代っぽく、
コスプレっぽくなる。違和感しかない。
これはしかたない。
でも違和感は、観にくさや幻滅につながる。
観る人に「つまらない」と感じさせてしまう、
ということだ。
だから「しかたない」じゃすまされない。
なんとかカバーする工夫が必要になる。
そこで大切になるのが、セリフだ。言葉だ。
(もちろん他のこともいろいろ大事だけど。)
「いまさら言葉ひとつにこだわってもしかたない」
じゃダメだ。
映像だからこそ、人が実際に動くからこそ、
せめて言葉くらいはふみとどまらなくては
言葉でカバーする努力をしなくてはいけない
わたしはそうおもう。

原作は13年かけてあの手この手で
世界観を確かなものにしていった。
映画はそれをほんの1年だか2年だかで
しかもいろんな大人の事情もあって
お金とか場所とか限られた条件下で
2時間にまとめなくちゃいけなかった。
映画のほうが明らかに旗色が悪い。
それはしょうがない。

しかし、この映画の作り手は
絶対にここだけは「しょうがない」では
すまされなかった所、
つまり「言葉」の部分まで
「しょうがない」ですませてはいないか。

言葉を雑に扱っている。もっと言うなら、
「原作とそっくりそのまま同じでありさえすれば良い」
と、安直に考えたらしいことがうかがえる。
だから、原作の13年の工夫と努力を考えもせずに
「夢」「希望」「勇気」といった言葉を
現代の価値観のままのニュアンスで
無神経に投入してきている。
それは見た目としては原作とまったく同じなので
つまり「原作に忠実」のつもりかもしれないが、
原作とは全然違った結果を生んでしまっている。

わたしは、これは映画の作り手の、
怠慢といわざるをえない とおもう。
マンガを実写映像化する場合、
「原作と見た目やセリフが同じ」なことが
イコール「原作に忠実」、ではないのだ。
マンガなら時間をかけてできたことが
映画だとできない。
計り知れない工夫と労力を要する挑戦だ。
あらかじめ分が悪く、実を結ぶことはまずない、
とても大変なことなのだとおもう。
だから、それでもやるというのなら
作り手には、とても繊細な神経と
原作への深い理解が求められるのだろう。

原作者がどれほど工夫を凝らして描いているか
「夢」というたった一語をキャラクターに言わせるのに
どんなに細心の注意を払って 世界観を固めてきたか
ちゃんと理解しようとしないまま
同じ言葉を 実写映画に投入したことは
無神経だった、と言わざるをえないのでは。
しかも個人的には 作り手側が
「それは重々わかっていたけど断腸の思いで」
ではなく
そもそもそんなことに頭が回っていない!
くらいの感じだったのではないかと
なんだか 思われてならないのだ。

・・・

さらに言うなら
映画『キングダム』は
アクションに力を入れ過ぎていた。
人の心の激しい躍動を表現するには
人の顔と体の動きを見せなくてはならない、
・・・よく言えばそういう考えに
あまりにも熱心になりすぎたのだろう。
悪く言えば、ドラマを描き切れないので
アクションでごまかすしかなかったのだろう。
せっかくの中国の広大な台地や
壮麗なセットの映像が死んでいる。
俳優たちの体の動きを間近でとらえることに
こだわりすぎている。
やっぱりこれ
『キングダム』じゃなくても良かったんじゃないか
わざわざ中国で撮らなくても良かったんじゃないか
という感じに思えた。

・・・

ああ、これこそキングダムだなあと
思えたのは
よくよく自分の心のなかをみつめてみると
王騎と政の問答の場面だけ。
なんか、あそこは良かったかなと。

・・・

中国武術の様式が
まだ確立していなかった時代の
物語ですので・・・というエクスキューズを
いろいろな場面で見かけた。
はあ、そうですかとしか言いようがないのだが 
しかし
映画のなかで登場人物たちがふるう剣術が
素人目だとどうみても 
日本のそれだったのは気になった。
見ていて「異国!」という感じがない。

・・・

だがこれだけ言っといてなんだが、
キングダムの愛読者としては
わたしは本作をわりと肯定する。
別におとといきやがれ! なんて思ってない。
頑張ったよね、という気持ちだ。
それはただこの一点、つまり
キャラクターの見た目の再現度において。
はっきり言ってしまえばそれくらいしか
この映画を楽しみにするポイントはなかった。
そしてそこは健闘していたと思っている。

高嶋政宏が驚くほど昌文君。
壁も、雰囲気が出ていてよかった。
長澤まさみの内面から光り輝くような楊端和。
大人の女性の妖艶さは足りなかったかもしれないが
だからといって仮に「菜々緒」とかをもってきたら
あのモデル体型は現代的すぎて歴史ものには合わないし
本当にただのコスプレになってしまい
意外と不満だったろうとおもう。
吉沢亮の気品ある政。彼は声も美しかった。
橋本環奈ちゃんがかわいい。
横向きで顔を上げた時のあごの線がすっきりとして
同じ人間かとおもうほど可憐だった。

大沢たかおの王騎。
まあ良くやってくれたよなと思う。

そして原作ではそんなに大きく
扱われなかったと記憶している、左慈
あの役者さんはいったいなんだったのか。
しずかな狂気を放つ存在感。
ただ立っているだけでとてつもなく異質だった。
キャラクター造型がうすっぺらいのは気になった、
信が命がけで否定すべきイデオロギーの体現者として、
それでは説得力に欠けるのだから。
でも、アクションは、アクションだけは本物だった。
本気で殺しにきているんじゃないかと思うくらいだった。

左慈を観るためにだけもう1回本作を観てもいい。

連休は-190426。

連休は勉強をたくさんしなくてはならない。
休んでいる場合ではない。

あと、届いたまま開封にいたってない
棚とかラックとかの組み立てを行う。
引っ越してきたときと
たいしてかわらないくらい
部屋がちらかっている笑。

ラフォルジュルネには
顔を出して
1曲くらい 何か聴いてきたい。

体調がわるくならないようにいのる。
わるくなったらおとなしく寝る。

会いたい人には会いにいく。

近所の古本屋さんで買った
50年くらいまえの
変な本を読む。