BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

営業さんを送る/アラン・スコット ピノノワール(ニュージーランド)-190424。

自分がアシストをしていた営業さんが
10日前に退職した。
60歳代で社歴がとても長く
広く慕われた人だった。
最後に所属していた営業所で
お別れ会を行ったが、
有志があらためて大きな送別会を企画、
平日の夜にもかかわらず
各営業所からたくさんの人が集まった。
本人は もともと寡黙なほうであるし
それにさいごのほうは奥さまと離婚されるなど
私生活でもいろいろあったときいてる。
ちょっと元気がなくて 心配だった。
みんな彼のことが大好きだからというのも
もちろんあるのだが
とにかく彼が元気がないから
なんか、・・・元気っぽい姿が
最後に1回でもいいから
見たかったんだとおもう。
なんといえばいいのかな。
笑ってほしかった。
なにか彼が笑ってくれそうなことをすることで
はっきりとしたリアクションを
ちゃんと受け取ってから、さよならしたかった。
元気な姿を見たかった。
もともとそんなににぎやかな
タイプの人ではなかったのだが
そういう きもちに
われわれ送る側が なっていたので、
彼をそれにつきあわせた、という側面が
あったとわたしは感じてる。

60歳を超えて退職して
もう一度働き口を探すって大変だとおもう。
年金が受給できるようになるまであと数年ある。
いまのところこれからどうするか
まだなにも決めてないということだった。

「ぼくも次の夢を探しますが、みなさんも・・・」
と言ってた。でも、
われわれが 彼の元気なところを見たがっている
前向きなことを言うところを見たがっている
ということを 彼も感じていたと思うから
わたしたちを安心させようとして
そんなことを言ったのかもしれない。

考えすぎかもわからんが。
むりをさせちゃったかもしれない。

あの営業さんにとって
わたしたちがしたことが
もしかしたら ありがた迷惑だったかも。
わたしたちは彼のためにではなく
彼の元気な姿を見てからお別れしたいとおもう
わたしたち自身のために
送別会をひらき、彼をよびつけたんだと
わたしはやっぱり感じるのだ。

・・・

この送別会では、
お酒好きな営業さんのために
お店の店長さんのご厚意で
「獺祭(だっさい)」という
貴重な日本酒が贈られた。
ニュージーランドマールボロディストリクトの
ピノノワールアラン・スコット」も。
エステートレンジってかいてあったとおもう。
アラン・スコットはご相伴にあずかった。
じつをいうと3杯ももらっちゃった。
おいしかった・・・
軽くてすっきり
でもちょっとピリッとして
ブドウ、というよりはブラックチェリーや
ハーブ、花の香りがする。
アラン・スコット
おいしいし安いのに 
どうしてなかなか売ってないんだろうな。

ニュージーランドワインは
ほんとにやすくてほんとにおいしい。

ちょっと馴れてきた営業さん/いいわけする脳みそ-190422。

先週の締め切り日のこと。
予測外の注文が同時多発的に殺到し
大変なことになった営業さんがいた。

彼女 すごく仕事がデキる。
どんなに忙しくてもいつもなら
たいていひとりで全部やる。

画像の加工処理とか受注登録とか
自分でできないこと、
自分のパソコンにソフトが入ってなくて
やれないといったようなことは
内勤スタッフに依頼するが
基本的にぜんぶ 自分でやる。

まれに、内勤スタッフに依頼するときも、
わたしにはけっして言ってこなかった。
じつは彼女 
人見知りがきわめて激しいそうで、
なかなか打ち解けてくれないよ、
誰に対してもそうだよ、と
まえもってほかの人から
聞かされて、知っていた。
おかげでわたしも、
なんか彼女にすごく嫌われてる・・・とか
つまらないことで悩まずにすんではいた。

ただ、1年おなじ職場で働いていながら
1回も 彼女に頼られたことがなかった。
ほんの1文字2文字の誤字修正すら
やらせてはもらえなかった。
人見知りのうえに デキるので
彼女は基本的にぜんぶ
ひとりでやる。

でも、この締め切り日は
ほんとうにほんとうに
忙しかったみたい。
内勤スタッフのデスクがならんでる
シマにかけよってきて
だれか原稿手伝ってくださ~い涙と。
そんなこと彼女がいうの
すごくめずらしい。おどろいた。
とっさに「あ、やれますよ~」と
手をあげて応じたら
すんなり お願いします~と
ファイルをよこしてくれた。
きわめてめずらしいことだった。

ぜんっぜん慣れてくれないネコが
どういう風のふきまわしか今日だけは
ヒザにのってきた、ってときくらい
衝撃的な感激を味わった瞬間だった。
でも、ここで興奮して
「おまえ ヒザにのってきたのか~
どうしたんだよ~ カワイイなあ~」
とかいって
わしゃわしゃ体をなでたりしようものなら
とたんに嫌われて今度こそ二度と
近寄ってきてくれなくなる。
それはあきらかだ。
わたしはあえて平静をよそおった。
そしてこのチャンスをむだにしないよう
原稿の修正を完璧にかつ迅速に終え
彼女にファイルを戻したことであった。

そして週明けて きょう、
なんかちょっとあの営業さんの
わたしへの態度というか
接しかたみたいなものが かわった。
自分からほんのちょっと
話をしてくれるようになったし、
会話が続くようになった。
廊下ですれちがうとき
にっこりわらって
おつかれさまです~と
言ってくれるようになった。
(それすらもこれまではありえなかった)
カワイイ・・・
やはりツンデレのネコちゃんみたいだ・・・
苦節1年。(苦しんでないが)
退職1ヶ月前にしてやっと
ほんのすこし 信頼してもらえるようになり
彼女との心の距離を
ちぢめることに成功したようだ。
気の長い話だ・・・

・・・

今月の4月8日、おもに都内において
事故や機械故障などによる
電車遅延が多発し、
通勤通学や入学式にむかう人たちの
足が大いに乱れた。
わたしが朝乗った電車も
15分くらい遅れたと記憶してる。
ある駅は入場規制がかかるほどの大混雑
押されて転んでケガをした人もいたらしい。
しかしそれだけのことになったにもかかわらず
こりゃだめだ、と家に引き返した人や
タクシー、バスに乗り換えた人は
駅に残って いつくるともしれない電車を
待ち続けた人たちにくらべたら
圧倒的にすくなかったという。
そのできごとをうけた
このような記事を読んだ。

「通勤ラッシュ時のトラブル 駅が大混乱でも電車を待ち続けるワケ」

www.moneypost.jp


ネットユーザーたちのコメントは、
この記事における識者の見解に
たいへん批判的だった。
識者はまあようするに
日本の電車はふつうすごく時間に正確だから
待っていれば必ず時間通りにくるので
それに慣れきっていると行動も思考も固定化し
自分で考える力が鈍くなる。
それに、みんなとおなじに、という
いわゆる同調圧力がとても強い社会であるから
いざ電車が来ません、って事態が起こっても
ではどうしようかと考えて
自分にとって一番いい行動をとるってことができなくて
だまってその場で待ってしまうのだ、と。
こうした見解への
ユーザーコメントのおおくは
「違う。これまでの経験上 ほかのアクセスで
行くよりもこのまま電車を待つほうが
結局早い、ということを経験上知っているから
意図して待つのだ。
なにも考えていないわけではない」
といったものだった。
考えることができなくってついぼーっと
みんながそうしてるから自分もってかんじで
待っちゃう自分を 指摘された気がして
はずかしかったんだろうか。
そんなコメントがじつに多かった。

べつに、ぼーっと待っちゃってるのが
はずかしいとかそんなことを
おもわなくても
いいのではないかとはおもう
だが、なぜそんなにも
「自分は考えているぞ」
ということにこだわるのかなって気はする。
考えることは考えないことよりも
えらいんだろうか。

「自分が考えている」などと
なぜ言えるのか?

この1年で
頭って、いいわけするんだなってことを
思い知った気がする。
頭は、ものすごくもっともらしい
筋の通ったいいわけを
わたしに考えさせておいて、
わたしの体や行為を
コントロールしてくるのだ。
脳がわたしの体を動かすにあたり
わたしに納得感がないと苦しいので
大義名分をあたえたうえで
わたしを行動させている。

わたしは、自分の思考のすべてが
自分の意識によって制御されて
なされているものであるなどと
もはや おもわない。
わたしは自分の頭に
動かされているとおもう。
自分で考えてなんでも
やっているとおもったら
おおまちがいだ。

自分が動物だってこと
忘れちゃいけないと思う。
わたしは自分の心も体も
コントロールできてたつもりで
まったくできてやしなかったことを
できないのだ、ということを
すごく知った。

自分の頭に動かされている、
考えさせられているんだという側面を
知っておいた方がいいようにおもう。

映画の感想-『ヴァイブレータ』-190422。

廣木隆一監督、2003年、日本

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www.youtube.com
よかったんじゃないかな。
あんまり年齢でなにがどうとかって
話をしたくないけど、
本作に限っては・・・
20代ではこの映画観るのは
ちょっと早いかもしれない。
お若いうちに観ても
たぶん な~んだかよくわからない
たいくつなロードムービーだ、としか
思えないんじゃないかな。
すくなくとも
30歳もひとつやふたつ越してから
観るのがいいのかもしれない。
そのくらい生きれば いろいろと
経験しているだろうから。
わたしのようなたいくつな人間でも
やはりそうであるし。


シンプルで静かだ。でも
必要なことはちゃんとみんな入ってる、
そんなかんじの映画だったな。

「自分がいいものになった気がした」
というモノローグを見て 
レイの過食嘔吐の症状と
オカベとの行きずりの恋
という彼女の体験とは
深く関係していたんだろうなと。

食べてもすぐに吐いちゃうんじゃ
栄養として体に吸収されず、何も残らない。
食べたのに吐くのはなぜなんだろう、
その行為になにを期待しているのか。

初対面のまったくしらない男にもかかわらず
オカベは レイにとってまさに
王子さまのような存在であったとおもう。
だけどレイは トラックを降りた。
「ずっと乗っていてもいいよ」と
彼が言ってくれたにもかかわらず。
レイは彼との3日間で得たぬくもりや
愛情といった滋養をすべて
吐き戻したことになるのだろう。
いや、オカベにとってもレイはいつしか
かけがえのない恋人になっていたわけだから
レイがトラックをみずからおりたことは
オカベがレイを吐き戻してやらざるを
えなかった、ということになるのかも。

レイは自身の過食嘔吐の行為について
「どんなに食べても
それをぜんぶ吐くことによって
よかった、太らずにすむ、と
安心することができ、
ぐっすり眠れた」と。
わたしは過食嘔吐の経験がなく
吐くって行為にはただただ
苦しいこと、つらいこと、っていう
印象しかないけどな~
レイはそれで安心を獲得していたという。
だが、けっきょく彼女は
過食嘔吐では 癒されなかった。
それでほんとに安心できるというのなら
そりゃまわりは 過食嘔吐なんて
よくないからやめなよ、って言うだろうが
彼女がそれでいいというならべつにいい。
気のすむまで食べて吐いてればよかった、
そうすることでしか安心できないという場合
奪うのは酷というものだろう。
それで十分にみたされていたならば
オカベのトラックに乗る必要も
なかったわけではないか。
でもじっさいは 彼女はトラックに乗った。
過食嘔吐によって
たしかに気休めのような安息を
得たことがあったのかもしれない。
でも根本的には
ぜんぜん癒しをえられていなかった。

レイは ずぶぬれのように浴びた
オカベの愛情をすべて嘔吐することで
安心できたんだろうか。
わたしは、これにかんしては、
たぶんちがう考えかたが必要なのかなと。
感覚としては
オカベに注いでもらったたっぷりの愛情が
奔流となって彼女の「嘔吐」に勢いをくわえ
レイのこころのなかにたまりにたまった
激しい苦痛やかなしみや孤独の毒を
洗い流したのかなとおもう。
ほんのちょっとだったかもしれないけど。

彼女が吐き出したかったものは
なんだったのか。
それはまちがいない。
彼女のかなしみ、孤独、傷だ。

かなしみをさらなるかなしみで
洗い流すことはできない。
それに、母親との関係において
ほしくても得られなかったものを
オカベからもらおうとしたって
それは無理だろう。

レイの心は空虚だったのではない。
孤独と涙と傷がぱんぱんに詰まっていた。
そいつをどうにか外に出しちゃいたくて
どうしたらいいのかわからなくて
食べては嘔吐を繰り返していたと
考えてもいいだろう。
でもモノで心を洗うことはできない。
必要なのは人の愛だったのだ。
なるほどなー 苦しいのは
嘔吐する行為そのものじゃなくて
吐きたいのに吐けないことだったのか・・・
愛情のあたたかみだけが、
愛をもらえるかもしれないという
子どもじみた期待だけが
かなしみをためこみすぎて
こちこちに硬直した彼女の心を
ゆりうごかす。
胸ポケットの携帯電話のヴァイブレーションや
トラックの機械振動は
よびさまされる心のふるえを象徴してたみたいだ。
それが胃に波及して蠕動への呼び水となり
やがて激しい「嘔吐」を引き起こした、
というふうにみえる。

レイは本能的に
必要なのは人の愛と
わかっていたのかなとおもう。
さしせまった表情で
オカベに「さわりたい」と。
レイの孤独とかなしみは
痛いほど深刻だった。
彼女はすでにぎりぎりであった。
ある意味ではもうほんのちょっとの
きっかけがあればそれでよかった。
そこに白馬に乗った王子さまよろしく
オカベが現れちゃいますかね、
そんな都合のいい話ありますかねと
まあそういうことになるだろうけど
・・・
ないともいえないだろう。
ないことを証明することはできない(笑)
いや、なくてもべつにいいではないか。
いまは世界のどこにもなくても
自分がだれかにもたらすことは
できるかもしれないではないか。
そんな いじらしくもちいさな奇蹟が
わたしのだいじな人たちのうえに
ふりつもってくれないかな。
わたしもだれかにやさしくしたい。
そう 祈りたいきもちになった。

オカベのやさしさは
とってもすてきだったな~
ああいう天性の気の良さというか
どこまでも自然に、思いやりを発揮できて
ちゃんと人にやさしくできる人って
いるよね。
ほんとうに たまにだけど。

でも そのオカベもじつは
切り刻まれるような孤独を
生きている男だったのだ。
その彼がレイを吐き戻さなくちゃ
いけなくなったのは・・・
わたしは、オカベのために
あの結末はかわいそうだなとおもった。
彼にいつか
やさしい人との出会いがあるといいのだが。
あのように野性的なまでに
人に優しくできる人は、
自分自身をも よもやそまつには扱えない。
だから彼は生きていくだろう。
それってすごくつらいよな。

寺島しのぶ大森南朋、名演。

小野路やまいち/大人だからもっと気を遣うべき/ヴァイブレータという映画-190420。

午後から東京都町田市の
小野路というところで開催される
アートマーケットに行った。

onojiyamaichi.jimdo.com


お天気がよく体調もよく
電車に乗ってもバスに乗っても
人ごみのなかを歩きまわっても
さいわいなんの問題もなかった。
みんな のびのびしてて
出店者のかたがたもやさしかった。

会場の入り口ちかいところにあったお店の
ガラスビーズをもちいた
細い細いブレスレットが
とてもすてきだった。購入した。
おおげさなものではなく
ロウびきの細い紐製で
毎日つけとくのにちょうどいい。
最近とみにおもうのだが
半袖の季節になると
手首になにもない装いは
非常にさびしいものだ。
まるみえの手首になにもない、
ただそれだけのことなんだけど
かなりなにか、まずい。
自分でおもうよりも以上に
まわりからみるとものすごく
さびしくみえるものだ。
夏になったら、
腕時計があればそれで十分だが
腕時計する習慣がない場合は
このさいヘアゴムでも輪ゴムでも
または最悪、
油性ペンでぐるっと手首のまわりに
線をひいとくのでもなんでもいい
とにかくいつも、手首になんか
あるべきだとわたしはおもう。

・・・

小野路やまいちを辞して、
帰宅するまえに 日頃かよっている
カフェにいってはやめの夕食をすませた。
わたしはほんとうにしょっちゅう
このお店にいくので
店長さんと ごく親しい。
お店に行くといつも店長さんが 
バーカウンター席に迎えてくれ
お仕事をしながら
わたしと話をしてくれる。
でも、きょうは店長さんが
不在だった。
店長さんの右腕といってもいいくらい
いつもいろんなことをやっている
常勤のスタッフさんが
いつも店長さんがするように
対応してくれた。
でもこの人はとてもお若い。
たぶん大学を卒業して1年か2年といった
ところであるとおもう。
このスタッフさんとは
ここ数ヶ月で仲良くなることができた。
たまたま店長さんが不在のときに
お店に顔を出す、ということが何回か
かさなっていた。
過去ずっとまえにも店長さん不在のときに
わたしがお店に行くことは
何度かあったものの
そのときにこのスタッフさんが
キッチンからでてきて相手をしてくれる
ということはまずなかった。
さいきんになって
そうしてくれるようになったのだ。
以来、店長さんがいないときは
このスタッフさんとしゃべってる。

親子ほどとまではいかないが
だいぶ年齢のはなれたわたしなどに
ぴったりついて話につきあいながら
仕事してくれている。

しんどいきもちにさせてないかなあとか
ちゃんとそういうことを
わたしはおもうべきなんだということに
遅まきながら きょう 思いがいたった。
ぜんぜんそういうこと考えてなかった。

いちげんさんが客観的にみたときに
わたしってどう見えるのかなって
おもったわけだ。
もしわたしがそのいちげんさんの立場なら
けっこうわたしみたいなのが
カウンターに陣取ってスタッフさんを
つかまえてしゃべってるのって
きもちわるい光景に感じるんじゃないかと
おもう。
そういう客がいつもいる店に
わたしはもういちど来たいとおもうだろうか。
おもわないようなきがする。
そうだとするとわたしは
このお店にとっての未来の常連さんを
わたしの行動のせいでとりにがしている
ことになるのではないか。

そういうこともそうだし
わたし自身の態度や心がけも
いいとはいえないだろう。
店長さんがいないんだったら
やめておけばいいのに
お店に行くと当然のように
カウンターに腰かけてしまう。
スタッフさんはイヤな顔ひとつしないが
そりゃ
イヤな顔ひとつしないだろう。
店員さんなんだから。
ほんとうはしんどいし
客となんてしゃべってないで
自分の仕事をしたいんだけど
黙って相手をしてくれている
のかもしれない、
いつもくる客だからそまつにしては
いけないとおもって。
だとしたら 相当わたしは
はずかしいのであるし
スタッフさんがかわいそうだ。

そういうことを
もっときちんとかんがえて
自分がたのしかろうとなんだろうと
相手にこそ配慮するべき
立場なんじゃなかろうか。
客なんだから。
大人なんだから。

正直いうとふつうにたのしいんだが。
わたしがびっくりするほど幼稚なのか
スタッフさんがとても大人なのか・・・
なんというかじつにもうしわけない。

「ごめん気を遣わせているよね」
とかいっても
「そんなことないです」と
返されるのがオチであるし。
つまり店員さんは立場が弱いのだ。
わたしはいままですごく
わるいことをしてたかもしれない。

・・・

帰宅してから、
ヴァイブレータ」という映画を観た。
寺島しのぶ大森南朋が出ている。
もう10年以上前のものだ。
すごくよかったとおもう。
今観てよかったなと感じた。
いずれあらためて
もうすこし時間があるときに
感想を書いとこうとおもう。

コンプライアンス上のアレがナニなもんで/幼稚な心-190419。

銭湯の番台さんが、
ゆうべあなたを見かけたわよと。
きのう夜遅く帰宅して、近所を
散歩してたところを目撃されたみたいだ。
番台さんはご近所らしく
わたしが歩いていたらしい地点を
お互いにわかるように正確に説明し
あなたはあの●●●●のところにある
●●●●アパートに住んでいるの?
くらいのことを聞いてきた。

銭湯の番台であり
すぐちかくの、マッサージチェア
ひとやすみできるソファーなどに
何人かの人が座っていた。

とっさに警戒心がつよまって
「そんなことここで答えられないよ、
個人情報だから」。

番台さんは あらごめんなさいと
それ以上きくことはしないでいてくれたが
あとで、住んでいるところを聞いても
何かしようっていうんじゃないから
大丈夫よ、みたいなことをいって
笑っていた。
イヤ、なんというか・・・
番台さんがどうというんじゃないんだけど
だれが聞いているかわからないから
ということを 言いたかっただけなんだけど・・・
・・・まあいいか

でも ただ単に 
きのうあなたのことみたわよ!と
わたしに言いたかっただけの番台さんに
あんなふうに ぴしりと
言わなくてもよかったかなと
今はおもう。
ぴしりと言いたかったわけじゃないけど
そういう口調になってしまったのだ。

・・・

人の心のあたたかい部分に触れたと
感じたとき
このわたしも
幸福感をおぼえる。
でも、ほとんど同時に
これもいっときのことだから、と
とてもさびしいきもちになるのだ。
それはすぐに、
かなしいおもいをしたくないから
やっぱりあんまり人と深く
関わらないほうがいい、という
考えにつながっていく。

だれであろうと人を
愛しそうになったときはとくに。

ここ2年くらいでようやく
ちょっとわかるようになってきた。
どうもわたしは自分でおもうよりも
もっともっと強い程度で
神経質であり 自意識が強く
こだわりがかなり強く
人のすききらいが激しく
かんたんにいうと
それはそれは めんどくさいたちらしい
自分がそういう性格であるらしいことから
察するに
たぶんけっこう人にたいして
心をとざしているほうなんじゃないかなと
おもったりしてる。
いや、ちがう。
とざすようにしているつもり、だ。
なぜなら 
人と深くかかわるのが すごくこわい。
裏をかえせば人とかかわることに
憧憬といっていいほど強い、希求がある。
人の心に触れるとは
ほんとうはどういうことか、を
一度もまともに理解したことが
ないようなかんじがしている。
それがわかってない、だから
自分は人間としてだめなんだ、
くらいの感覚がある。
わたしがかくも不安定で
未分化であることは
わたしをよく知る人のなかから
「他人を信じすぎ。心を開きすぎ。」
と 忠告する声が
頻繁にきこえることからもあきらかだ。
「会う人みんなを肯定的にとらえすぎている」
「うたがっていない」
「どんな人間にも
裏の部分、奥の部分があるということを
ふだんから かみわけておかないから
そういうのをちょっと見ただけで
それほどまでに深く傷つくのだ」
そんなことも言われたことがある。
つきあいが長ければ長い人ほど
親しければ親しい人ほど
そうした部分をわたしに指摘してくる。
そのたびに、
自分のことじゃないような
かんじがする。
自分ではむしろ
人のことが信じられてないし
強い警戒心と猜疑心をもって
人を見ているところがあると
おもっているからだ。
でなくちゃこんなにしんどくないと。
なのに親しい人には
わたしがそれとは真逆のスタンスで
他人と接しているように見えるらしい。
どうしてこうズレるんだろうって
おもってきた。いつも。
かんたんにいうと
壊滅的に不器用なんだろう。
無遠慮に突撃していってしまうのだ。
そうかというときゅうに
関わるのを怖がったり
もう会いたくないとか言い出したり
わけわからんところがあるんだろう、
相手からしたら。
あんなに深くかかわろうとしてきたのに
急にスンっと閉じるので
なんなんだこいつは
という場合が多々あるにちがいない
異常に自分を開示するくせに
何も見せたくない、と閉じたがる。
でも 確認しておきたいが
そんなことをまさかコントロールして
やってはいない。
人の心に触れたいきもちと
それを極度におそれるきもちと
どちらも徹底することができないのだ。
それで、そのときどきで強まったほうが
おもてにでてしまう。
どんな法則性のもとに
スイッチしているんだろう。
やはり近づきたいとおもえばおもうほど
恐れて遠ざかる、というかんじだろうか。
人を愛しそうになると、かえって
距離をおきたくなると
さっき自分で書いていたからな・・・
客観的にかんがえてみると
非常にきもちわるい。
もっといえば イタイ。
人間らしい、とも いえばいえるが
それはまわりの人にいわれることで
自分で言っちゃいけないやつだ。
いい大人で このていたらくは
かなり 幼稚といっていいとおもう。
考えれば考えるほど
よくもまあこんな人間を
見捨てないで 何年も何年も
付き合ってくれているな。
わたしのまわりの人たちは。
わたしが実際にしてきた/している
ばかなこと・・・
たとえば大学に入ったのに卒業しなかったとか
いまだに職をふらふらと変えているとか
結婚をしたことがないとか
そもそもこういう破滅的にイタイブログを
書いて全世界に公開している中二なところとか
一般的な大人らしくないであろう
わたしの全部
それらは かんがえてみれば
ものの数でもないとおもう
そんなことよりも何よりも
このわたしという存在が、なのだ。
わたしとかかわってくれている人たちは
ひとりのこらず全員
菩薩のように心が広いんだな・・・

ざんねんだけど
これがわたしの現在であるらしいのだ。
わたしにはこういう
ものの考え方、感じ方、行動上の
傾向がある。
そんなにすぐには 変わらない。
これでなんとか操縦していくしか
ないということなのだ。

Please explain to me how you don’t believe in God.-190419。

Twitter上のあるやりとりが話題になっているとの
ネット記事を読んだ。

ノートルダム大聖堂火災で十字架が無傷 「これは神の御業、なぜ神を信じないか説明して」→的確な回答が現れて世界が絶賛 - ねとらぼ


Kaylee Crainというユーザーの

After all the aftermath and destruction of the Notre Dame fire, the alter and cross remained untouched. Please explain to me how you don’t believe in God after seeing this.
延焼と破壊をつくしたノートルダム大聖堂の火災ですが、祭壇と十字架は無傷で残りました。これを見てもなお、神を信じない理由を説明してみてください

とのつぶやきに

Because the melting point of gold is 1064°C and a wood fire burns at around 600°C
それは金の融点が1064度であるのに対して、木が燃えるときは600度程度だから

と返した人がいたそうで
(Dan Broadbent さんのTwitter投稿)

その みもふたもないかんじが 
オモロいというような 内容だった。

両者の投稿を
日本語を母語とし、英語をあまり解さないわたしが
日本語訳で理解するとなると
このやりとりは ズレてるなってかんじがする。

Kaylee Crainさんの投稿が
「神さまの存在を信じない理由は何?」
という「質問」なんだとすると

Dan Broadbent さんはその質問に
「物理法則があるからです」
と回答した ということになるんだろうか。

いな、
Kaylee Crainさんの投稿を
「質問」だととらえないほうがいいのだろうか。
これって奇蹟だよね!スゴイよ!
こんなホーリーなシーンを観ても
神さまの存在を感じないなんてアリ?
(いや、みんなきっと神の存在を信じるにちがいない)
そんな、感嘆の反語表現なんだろうか。
なんだろうか。とか言うまでもなく
まさしくそうなんだろうな。
反語表現なんだろう。

Dan Broadbentさんは
「(わたしはこの写真をみても神の存在を信じません)
金の融点が1064度であるのに対して、
木が燃えるときは600度程度だからです。
(融解に関する物理法則が発現した場面を
わたしは見ました。
十字架は金製と見られ、だとすれば
木よりも融点が高いので
焼けなかったと考えられます。
物理法則は神の掟とは無関係であると
わたしは考えますので、よって
この現象を見ることはわたしが神の存在を
信じるきっかけになりません)」
と 言いたかったのだろうか。
であれば たとえば
カッコをつけたところをぜんぶ
言うべきなんだろうが 言ってない。

それから、
もし物理法則は神の法則ではないと
このかたがお考えであるならば
では物理法則とは何であると考えているのか
物理法則が神の法則ではないことの
この人なりの証明は可能なのか

また、
Dan Broadbentさんのこの投稿は
Dan Broadbentさんが無神論者であるという
ことを かならずしもあらわしてない
と わたしはおもう
ネット記事ではこの人を
あたかも無神論者かのように
書いているけど、
「Dan Broadbentさんと同様の無神論者・・・」
という表現をもちいることによって。
でも、Dan Broadbentさんの投稿が
「十字架が焼けなかった写真を見たことは
わたしが神の存在を信じる理由にはならない」
という文脈なのだとしても
「その写真を見ても信じない」
という条件がここに提示されたと
わかるだけで
「もちろん、ほかのどんなものを見せられようとも
わたしは神の存在を信じないよ」
とは どこにも書いてない。
「ほかのなにかをみたならば信じる」
とDan Broadbentさんが考えている
可能性はある。

だから・・・
イヤ、まあ、どうでもいいんだけど(笑)・・・、
 
このやりとりが
みもふたもなくておもろい、という
まとめ記事のテンションそれ自体は
理解できなくもなかった、それはまあ。
なにがいいたいかはわかる。


わたしはおもうんだけど、
ほんとにふしぎなんだけど
どうして物理法則や、自然界の法則を
人間があとから考えて見つけ出すことが
できるんだろうか。
人間が創り出したものではなくて、
もともとあるルールを発見しているという
ことのはずだが、
そもそもどうして発見できるんだろうか。
それに、
なぜ発見しようと考えたのだろうか。
神の正しさを証明するため
ではなかったのか。
発見しているのではなくて、
「ある」かのように見ているだけで、
ほんとうはぜんっぜんないとか
そんなことだったりするんだろうか。
でも、法則ってことは
実験や計算を何回もして
同じことがおこるのを何度も確認して
これは法則ですと いうことになるんだよね。
じゃあ 法則のようにみせかけて
ぜんぜんそんなものはありません
などということにはならないのか・・・
イヤ、でも
でもでも
この目で見ているこの世界が
ほんとうだという証明を
わたしはとくにできないのだ。
都合のよいように、世界をぜんっぜん
本来の姿とはちがうふうに
わたしは見ているのかもしれないし、
それはでも、もう、ぜんぜん
認識の外なんだけど・・・

Dan Broadbentさんは、
科学とはもともと
神の正しさを証明しようとした
人間が始めたいとなみである
ということを
認めない、といいたいのだろうか。
イヤ、
認めないとは この人は
ひとこともいってない。
知らない、ともいってないし。

このお堂の十字架、ほんとに金製なんだろうか。

・・・

まとめると
わたしたぶん いらんこと考えすぎ。
このネット記事はたぶん 考えてなさすぎ。

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きれいだね。
By Skouame - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16663920


お客様とランチ/営業さんをリスペクト-190417。

かわいがってくださっているお客様が
お昼にさそってくれた。
担当営業がそのお客様を訪問する日に
あわせて、アポイント終了後に駅で合流し
3人でお昼をたべた。

いつも電話で話すだけで
実際に会ったのは初めてだった。
営業職ではないから 基本的に外に出ないので
こういうことはほんとにめずらしい。

来月いっぱいでわたしはこの職場を
辞めるので 
そのまえに会うことができてよかった。

きれいなまっしろの白髪の老紳士だった。
やさしくてどことなくかわいらしいかんじもした。

セルフサービスのカフェに移動し、
担当営業が飲み物を買いにいってくれているあいだに
すこしふたりで話した。
お客様が
「…あの営業のSさんは、
きょうおれのところに
来てくれたんだけど、
おれから注文をとらなくて
大丈夫なのかな・・・
小一時間も世間話をしていて、
『きょうが初めての訪問なので
記念に注文をください』とか
言ってくるかとおもったけど
ついに一言も商談らしきことを
いわなかった。
あれでちゃんと
月々の売上をたてられているのかい、あの子は」。
どう答えていいかまよっていたところに
担当営業がもどってきたので
話はうやむやとなった。

お客様とおわかれした。
わたしは営業所に帰って
仕事をしなくちゃならない。
担当営業もいったん営業所に戻るという。
一緒に帰る道すがら、
さっきお客様が、きみがいないときに
こういうことをいっていたよと
話してみた。
すると、
「きょうは、ぜったい
『注文ください』って言わないって
決めてました。
業種的にももろもろの条件的にも
いまこのお客様が広告を出しても
まず効果は見込めません。
体力は相当ある企業だとおもいますし
あのとおりやさしいおじいちゃまなので
『記念に注文ください』とか言ったら
出してくれなくはないとおもったけど
効果が見込めないとわかっていて
高い掲載料金を出してもらうのは
意味がないとおもいます。
それに、ITにはまったく無案内な方で、
きょう見ていたかんじ、
シニア向けスマホさえも
ほとんど使いこなせていなかったです。
多機能なネット広告を出しても
ご本人が運用しきれない可能性が高いです。
でも、業種的にはネット広告がいちばん
有効なんですよね・・・。
どうプレゼンテーションしていくべきか
もっと接触回数を増やして話を聞いて
慎重に考えて、それから商談にはいります」。

・・・いろいろ考えているんだな!
見直したぜ!!
あと1ヶ月しかわたしはいないけど
できるかぎりのサポートをしていくぜ!