BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

児童期の読書-子どもらしい本を読まない子どもだった-180613。

児童向けの本をあんまり読まないで育ったようにおもう。
幼児向け、絵本ともなるとさらに縁が薄かった。
あの「ぐりとぐら」すら未読だ。
え、だって、ぜんぜん興味ないんだけど。あれ。

読んで感じたなにがしかが、心や頭にしみとおり血肉となる、
体はどこにもいけなくても、心は旅にでられる、
読書という行為について そんなような
一種の哲学の種を心に育てるようになったのは、
つまり読書を自分にとって大切な いとなみと
とらえるようになったのは、中学3年あたりから。
(「哲学の種」は育たず、わりとはやめに腐り落ち、
わたしは単なる活字中毒と化したが。)

児童向けの本に、児童のうちに親しんだ記憶があまりに乏しい。

でも、ほんのいくつかは、おぼえている。ほんと、これだけ。
これがすなわちわたしのオールタイムベスト。
このブログを読んでくださるかたと 
思い出がかぶるものはあるかなあ。


寺村輝夫/挿絵・和田誠
「ぼくは王さま」

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5~6歳か。祖父母宅(現・叔父宅)で。
おとまりした朝、起きて階下に顔を出すといつも祖母が
「まだ早いからふとんに戻って、マンガでも読んでいなさい」と。
そのたびに書棚からこれを出して、読んだ。

新・名作の愛蔵版 ぼくは王さま | 株式会社 理論社 | おとながこどもにかえる本、こどもがおとなにそだつ本




工藤直子/挿絵・長新太
「ともだちは海のにおい」

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小学2年。
宿題の読書感想文で
原稿用紙50枚ぶんほど、本作への思いをつづったら
担任の先生にドン引きされた。
くじらがフランス旅行に行く、イルカの趣味が筋トレ・・・ 
わけがわからなくて大好きだ。
大人になって自分で購入し、今でも読む。

ともだちは海のにおい | 株式会社 理論社 | おとながこどもにかえる本、こどもがおとなにそだつ本




カレル・チャペック
「長い長いお医者さんの話」

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小学校高学年。図書館で何度か読んだ。童話集。
表題作は、その名のとおりお医者さんがお話をするお話だ。
性悪の魔法使いが、梅干しかなにかのタネをのどにつまらせる。
かけつけたお医者さんはのん気な人で、
死にかけの患者を尻目に、いろんなお話を披露する。
有名な(有名だっけ?)「ソロモンのおひめさま」、
水辺の妖精の骨折を治してやったときの話・・・、
夢があって、でも風刺がきいて、よかった。

長い長いお医者さんの話 - 岩波書店





◆ウルズラ=ウェルフェル
「火のくつと風のサンダル」

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小学4年か5年?
いじめられっ子の男の子と
お金もうけは苦手だが愛情深いお父さん。
父子は男の子の誕生日を記念して、長期旅行にでる。
旅の場面もたのしいが、むしろなんでもない日常の描写がすきだった。
お母さんが、旅の荷物にケーキを作ってくれるけど
「あしたにならなくちゃ、切ってはいけませんよ。
まだ、できたてですからね」とか。
「市場にでかけていって、物売りのおばさんたちが品物をひろげる
手伝いを」して、お駄賃かせぎをするとか。そういうのが。

火のくつと風のサンダル | こどもの本の童話館グループ





アーシュラ・K・ル=グウィン
ゲド戦記

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小学校高学年か中学1年。
指輪やナルニアもいいが、
本作こそわたしにとって別格。
外伝も含め全巻くりかえし読んでおいてなんだが 
最高傑作は第1巻「影との戦い」。
カラスノエンドウとのわかれの場面や
「いとしいハイタカよ」にはいつも泣かされる。
ハイニッシュサイクルやオルシニアは、
大学生にもなってやっと読んだ。

ゲド戦記 全6冊セット - 岩波書店





◆ルーマー・ゴッデン
「人形の家」

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小学校低学年・・・だったかどうかさだかでない。
お人形遊びがだいすきな姉妹に、ある日
豪華なアンティークのドールハウスと 
これまた年代もののビスクドールが贈られる。
姉妹のもとには先住のお人形一家がいる。
やさしい姉妹のお世話をうけ平和に暮らしてきた彼らだが、
新しいお人形が仲間入りしたのを機に
その生活や人間関係が狂わされて・・・と、
今おもえば生々しいものをはらんだ物語だ。
真実とは何か、心はなぜうつりかわるのか、そんなテーマを 
お人形たちをめぐる事件に託して巧みに描いている。
だが 読んだ当時は
お人形やドールハウスのディテールの描写にただ心をひかれてた。
総花柄の装丁も思い出深い。
ここに掲載したのは現在市販されているものの画像なのだが
わたしが読んでいたのは、これじゃない。
図書館にしかないのだ。個人的には持っていない。
調べたところでは
岩波少年文庫創刊40周年を記念した限定版とのこと。
本作は全30巻セット中の一巻。いまや入手困難だ。
わたしはやはりかつて親しんだ、
あの花柄の表紙のものでなくてはほんとうはイヤだ。
ときどき古書店やオークションサイトで・・・出回るようだが 
どうしたものかね。
図書館にたまに読みに行くけど、もうぼろぼろなんだよ。
わたしくらいしか読んでいないとおもうんだけどな。
お願いしたらゆずってもらえないかな(笑)。

人形の家 - 岩波書店

読書感想-宮部みゆき『クロスファイア』-180610。

先日、宮部みゆきクロスファイア」を読み返してみた。

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クロスファイア[上] 宮部みゆき | 光文社文庫 | 光文社

 

クロスファイア[下] 宮部みゆき | 光文社文庫 | 光文社


読み返すと まあこんなものか、というかんじも
正直言うと ちょっとあったが
抒情的な表現が 唐突でなくしつこくもない程度に
うまくさしはさまれ
(※「母のように。愛のように。」とか。
ラストシーンでも一部 くりかえされた。)
先がどうなるのか、とグイグイ読みすすめるだけでない
読書のたのしみ・・・文章をあじわう楽しみを
おもいださせてくれるところが いいような気がした。
真保裕一さんとかだと ちょっとしつこく感じるうえに
表現それ自体も自分がすきなセンスじゃなかったりして 
ウーン、こういうのはあんまりいらないんだがなとか 
つい思うのだが。

女性や、少年少女を生き生きと描く作家さんだ。

本作では淳子やちか子、信恵ちゃんがすごくよかった。
『龍は眠る』の少年ふたりや『魔術はささやく』の守、
『レベル7』の母子、
ブレイブストーリー』も少年が主人公だ。

スティーブン・キングの『ファイアスターター』に
すごく似ている所がたくさんあるけど、
超能力それじたいのすごさを描くことに
キングほどには注力していない。

クロスファイア』は、ほとんどの場合、
法律の網目をかいくぐる犯罪者たちに
正義の裁きをくだすための ツールとしてのみ
超能力があるので
念力発火能力はこんなことができるんだよ!
こうやって利用されていくんだよ!というのを
描くSFではない。

ただ、主人公を女性にしたところと
彼女の能力が炎の力だということにしたのはうまい。
女性にすることで 巫女、シャーマン、呪術、
魔性といったような
方面の連想をよぶことができているし、
炎には悪しきもの、けがれたものを浄化する力があると
昔から みられてきたところがあったはずだからだ。
彼女の力のすさまじさの描写や
力をふるう淳子の胸のうちの描写にぬかりはなく
淳子にじゅうぶんに心をよせて読んでいける。
個人的にはもうすこし 
彼女が自分の能力にのみこまれていくところを
見たいような気もするし、
あと、浩一が登場してからは、どうもこの物語は
淳子にとってのハッピーエンドにはならないらしい、
ということが
はっきりとわかってきてしまうので
それを知りながら読み進めるのにもつらいものがある。
彼女の炎は 彼女自身の手で鎮められつつあったのに、
他人の手で、本人の望まないタイミングで
もみけされたように見える。
淳子は それを受け入れたが、
あの状況ではそうするよりしょうがなかっただけで。

クロスファイアは十字砲火の意らしく
十字、が十字架、をおもわせて
さらに淳子のなすことが 
犯罪者たちのひそかなる制裁であることから
十字架は裁き、淳子はその執行人、で話がすすむのに
とちゅうから執行人が完全にいれかわり
十字架に磔にされる人物が淳子自身となって、
いたいたしい。
淳子がたったひとり営々とうちたててきた十字架が 
圧倒的な数の力によってかんたんに叩き折られ
まあたらしい十字架に 淳子の両手両足が磔に。

牧原と一樹のぶつかりあいのシーンはいい。

本作は「燔祭」という中編の続編的位置づけらしい。
読んでいないんだけど
本作を読む限り相当 内容のぎっしりつまった
物語だったみたいだ。
よくこれだけの要素を中編規模にまとめたな!と。
「燔祭」のほうもぜひこれから読んでみたい。

接骨院の先生とのやりとり。-180608。

2日まえ、近所の接骨院にいった。
空いていて、患者はわたしだけ。先生といろいろな話をした。

正直なところいうと死にたいと考えていると 話した。

先生は、
その死にたいは 死にたい ではない、と。
何か、違う気持ちの可能性があるから
ほんとうの気持ちをもっとよく考えて
真剣にほりさげろ、という意味のことをいわれた。

「だいたい肩がいたい腰がいたいって
マッサージ受けにきているやつが 死にたいわけねえだろうが」。

たしかに(笑)!!

似たことを考えることが何度もある。
死にたいとかおもうほど 心を追い込むことで
生きている実感をえようとしているのかもしれないと。
気持ちを的確に探りあてる必要があるんだろう。

「何が苦しいんだ。」

「みんなができることができてないこと。この年齢の女の人生の
テンプレートから逸脱していること。なのにどうにもできないこと。
だとおもうが。」

「おまえを『かわいそうな人だなー』とか思ったことはないけどねえ。
好きな仕事をやって楽しそうにしてたじゃないか。
たしかにほかの30代の女の人がやっていることは
なにもしてないっちゃしてないけど
生きがいをもってやっているんだなとおもってたけどね。
それに、結婚とか子どもを産むとか
そういうのをやりたいと本気でおもうのか。」

「おもっていない。」

「おもってないんだろうが。
みんなとおなじにできなくてなんとなく
『自分はこれでいいのかなあ』と考えるきもちはわかるけど
ほんとうにしたいかどうかは別だろうが。
苦しいのはそういうことじゃないとおれはおもう。
つらいことがあって仕事を辞めただろ。
仕事が生きがいだったんだから
ぜんぶなくなって体も壊して何もなくなって
生きがいがなくてつまらないんだろ。
つまらなければつらいのはあたりまえだ。
楽しく生きられなくてつらいんじゃないのか。」

「でももう前と同じように前と同じ仕事をする力は残ってない。」

「生きがいが仕事じゃなきゃだめとはかぎらないし
ほかの仕事が生きがいになるかもしれないだろ。
楽器をまたやるのもいいだろうし。
でもおまえは体が弱い。そこはわきまえろ。
生まれつきだから、あきらめないとだめだよ。
あきらめたうえで、その体で何ができるかを考えろ。
できないのに無理して早死にしようとしている。」

「ずばずば言うなあ。すごい傷ついた。」

「うるせえ。
心をこめてマッサージをして ケガもみてやったのに
死にたいとか考えるやつが悪い。
死なせるために治してるんじゃねえのによ。
考えて、やっぱりほんとうのきもちが
『死にたい』だ、という結論なら、おれに言え。
首の骨を折って死なせてやる。一瞬だ。」

「先生が犯罪者になってしまう。
先生に責任はありませんという遺書を書いておこう。」

「それが悪いとおもうならおれの知らないところで勝手に死んでくれる?」

「めちゃくちゃだ。先生がやってくれるなら安心とおもったのに。」

「それにしても、死んだらそんなにいいのかね。」

「わたしはいまのところそうおもってるんだけどねえ。
まあ死んだことないからほんとはわかんないね。」

「おまえの人格や思想の形成には
両親の離婚とかおふくろさんとの確執とかが
やっぱり からんでいるんだろうな。」

「理想が高すぎるのかもしれない。
家族に完璧な幸福を見すぎて
完璧じゃないなら要らないとおもうのかも。
完璧なことは自分にはむりだ、とか
完璧なものなど自分が手に入れることはできない、とか。」

「ふーん
いままで、何かあっても親に相談したことないんじゃない。」

「おぼえているかぎり1回もない」

「『なによ、あたしのほうがもっとつらいわよ』
という反応がきそうなイメージ。おれがおまえなら話す気なくすな。
おまえが物心つくころには、だんなとのことで大変だった計算だしな。
おまえが中学のときに離婚したとなると。40になるかならないかだろ。
まだこれからの年齢なのに再婚もしなかったということは
そんなこといってられないからって、人生を棄てたんだろ。
子ども3人だからな。だれも援助してくれなかったのかね。」

「叔父が、わたしの兄が成人するまで経済的な援助を。」

「叔父さんの嫁さんも理解のある人だな。おまえのとこ借家か。」

「持ち家だよ。」

「家を手ばなして金作って、とは考えなかったのかね。」

「家の名義は父で、家を担保にいれて借金していたから
売れなかったんだとおもう。
それに祖父が建てた家だから、守りたかったんじゃないか。」

「おやじさんは養育費とちゅうでやめちゃったんだろ」

「やめちゃったらしい。」

「養育費とか慰謝料とかって、大変なんだよ(笑)。
知り合いにも何人も、支払いで苦労してるおやじがいるよ。
ともかく、おふくろさんは子どものためにというんで
人生を棄てたくちだね。
息子を塾に送るくとき、車からおふくろさんをたまに見るけど。
ぜんぜんおまえ似てないよな。おふくろさんは
顔が暗くて 怒ってるのかな?ってかんじだけどね。
でもお前は外で見てものんびりしたよゆうのある表情をしている。
ほんとに血つながってる?とかおもわない(笑)?」

「さすがにそれはない。
母の横顔が、引くほど自分と似ててぞっとしたことがある。
父親似だとおもってたんだけど。
先生はわたしの母が暗くて怒ってるのかなってかんじといったけど、
わたしも人にそう思われていたら、かなしい。
でも人生をなげうって自分のために生きてくれた人を
こんなふうにおもうなんていけないことだ。」

「おまえがおふくろさんに似ているだと。
ぜんっぜん似てねえ。
おまえの人生だ。親は関係ない。
おふくろさんは、関係あるとか言うかもしれないし
おまえがおふくろさんをおいて幸せになることがゆるせないとか
言うかもしれないけど 本気では思ってないよ。
たま~に本気で考えてる親もいるみたいだけどね。
でも おまえの人生がおまえのものであるように
おふくろさんの人生もおふくろさんのものなんだよ。
子どものためにやりたいことがまんしても、
それは本人がそうしたいからしたんで、自分のためだよ。
ほかの方法を選ばなかったのは本人なんだよ。
だからお前のためにやってきたのにと もし言われても気にするな。
親の気に入るように生きられなくても 罪悪感をかんじなくていい。
親が好きじゃなくても 自分を責めなくていいんだよ。
自分が悪いとおもうんだろうけど。子どもってみんなそうだから。
親はそういうものなんだ。
おまえはおまえなりに生きてきて 感じたこととか
作ってきた人間関係があるだろう。それは固有の財産なんだよ。
おまえはおまえで生きろ。だれも関係ない。」

「そう思えるようになればいいとおもう。」

「おれはもう帰りたいんだが それにしても
おまえのローラー機 止まらねえな。
10分なのにもう30分くらい回っている。
それ たまに自動停止しなくなるんだよね。」

「全身ローラーをされまくってふにゃふにゃだ。」

「うるせえ。とっとと帰れ。」

・・・

先生はとっとと帰れといったが
このあと先生の小学生の息子さんが
学校の子にいじめられたときのことなど語ってくれ、
さらに1時間くらい話し込んだ。
いじめっ子は学校のクラブの仲間。
先生の患者さんにクラブの別の子がたまたまおり、
その子をとおして「息子にちょっかいかけたら殺す」と 
いじめっ子に伝えたところ、いじめがぴたりと止まったそうだ。
息子さんは、いじめのことを先生に相談していたようだが
お父さんが積極的にこの件にからむはずはない、とおもっていた。
なぜなら、事態を把握した担任が「学級会議でとりあげる」といいだしたとき、
先生は「学級会議はやめて」と担任にたのみこんだそうなので。
息子さんはいじめがなくなったことの理由がわからず
ふしぎがっていたそうだ。
「いじめられなくなった・・・ なんでだろう」。
それをながめながら先生は
「さあ、どうしてだろうねえ。」
と しらばっくれていたそうな。

「いじめってのは、ほんとうにかわいそうだよな。」
先生はそう話した。
「かわいそう」
という素朴な感想が心に残った。
「息子も、悪口とかいわれたのは1週間もなかったんだけど、
家に帰ってくるたび表情が暗くなっていって、
これはなにかが起こっている、ってわかったからね。」
「いじめは、やられると、すごいスピードで
生きる力を奪われていく。」
と話すと、真剣な表情でうなずいていた。

「しかし、死んだらそんなにいいのかね。」

「わたしはそうおもっているんだけどなあ。」

「おまえが死んだら周りは大変だぜ。」

「大変じゃないとはおもわないけど、
大変なのはほんの一瞬でしょう。」

「でも、なんでなんだ。」

「少なくとも、命がなくなれば、もうかなしいおもいを
しなくてすむだろうなとおもうんだよ。
かなしいおもいをしたくないでしょ。」

「若いのの自殺が増えているだろう。
新聞とかに載ったかわかんないけど、
この前の春に、U町で中学生が自殺したんだよ。
公立高校の入試があった日に、
その子と母親とそろって自殺したんだよ。
合格発表じゃなくて、入試があった日だよ。
たぶん、失敗したとおもって、死んだんだよ。
おやじさんのことをおもうとなあ。
嫁さんと子どもといっぺんに亡くしちゃってさ。」

「そのふたり、死ぬことなんてなかったのに。
でも、受験が世界のすべてみたいになりすぎて、
親子そろって 自分をおいこみすぎたのかな。
かわいそうだね。」

そう答えると、先生は困ったような顔でだまって笑った。
「おまえもいろいろ大変なようだな」か
「このバカ野郎が」か
「なにいってんだかさっぱりわかんねえや」か
何の意味の 笑顔だったかは 不明だが(笑)

目黒区の小さい子が亡くなった事件…「謝罪文」に思うこと。-180609。

自発的に書いたのではない。保護者に書かされたんじゃないのか。

目黒区の5歳の女の子が亡くなり、保護者が逮捕された。

女の子がノートにつづっていた文が公開され 話題になっている。
もう悪さをしないからゆるして、といった趣旨の
保護者にむけた痛切な 謝罪ともとれる文だ。
連日暴行をうけ食事もまともにあたえられない
心身ともに最悪の状態であったなか
人しれず、保護者の眼をぬすんで 心のさけびをつづっていた、
そんな連想、同情をさそうのだとおもう。
「人しれず」「保護者の眼をぬすんで」。

だが、毎朝 修行僧さながらに早い時刻にたたきおこされ
勉強なんかをやらされていたと聞く。

勉強に使っていたノートと、くだんの文がしるされたそれとは、
同じものなんじゃないだろうか。

ただの「ノート」ではなく「書き取りノート」
としている報道もある。つまり書き取りなんかにつかう・・・
漢字の練習帳みたいなものに書かれていたという意味だろう。

漢字の勉強用、足し算引き算の勉強用、
目的別にノートをあたえるようなことを、
保護者がしていたとはおもえない。
勉強が必要だと信じて、勉強を目的として
勉強させていたわけではどうもないようだし。

利発な子だったのだろう。
おつむに自信がない親の場合
我が子の頭のよさに嫉妬することがあってもおかしくない。
一銭だって自分で稼げない、米も炊けないガキのくせに
わかったような口をきいて、ムカつく。
そんなに頭がよろしいなら4時から起きてやれなどと
早朝学習を 制裁として課した面もあったのでは。
もちろんそんなことは言えなかっただろうし、
我が子への嫉妬を自覚していなかったことも考えられる。
それでまあ 小学校でひらがなくらい書けなくてはなんて
かっこうのつく理由をつけたかもしれない。
・・・話がそれたが、そんなわけで
毎朝の勉強につかっていたのとおなじノートに
書かれたのではないかと、あの文は。

でも、それなら、
文が保護者の眼にふれないなんてありえない。
人知れず心のさけびを書き残す、なんて不可能だ。
保護者はお嬢ちゃんがちゃんと「勉強」をしたことを
定期的にノートをひらいて確認していたんじゃないのか。
かならずや知られただろう。ああしたものを書いたことが。
ほうっておくだろうか。
何も知らないでいて、突如 あんなものを見たら
万が一にも人目にふれて虐待がばれたらと危惧して、
書かれたページを即座に破りすてないか。
二度と 指示してもいないものを勝手に書くなと
いっそうひどい制裁がくわえられたかもしれない、
ほんとうに秘密で書かれたものならば。

保護者はあの文の存在を把握していた。なぜなら、書かせたから。
そう思われてならない。

毎朝のお勉強の達成度チェックのために ノートをひらいていただろう。
ぱらぱらとめくる程度、もうしわけ程度のチェックであり、
お嬢ちゃんもそれをよくわかっていて・・・
どうせお父さんは中身なんか見てやしないとふみ
最後の抵抗のつもりで書いてやったとか
いろいろと、考えられないこともない。
文はまとまったものでなく 
この日に1行、この日は4行といったぐあいに
散発的につづられた形跡がある、との報道もあるし。
保護者がまぬけであったこと以外に
目につきにくかったと考えてもおかしくない事情はありそうだ。
だが

虐待(容疑段階だそうだが。)が
明確な規則やルールにもとづいておこなわれたならまだしも
そう考える合理的な根拠たる情報はない。
このまえはこれをやっても何もいわれなかったけど
きょうはおなじことをやったら気絶するほど殴られる
といったような ルール無用、予測不能のサバイバル環境を
息をつめるようにしてすごしていたと想像する。
心は恐怖と疲労とかなしみにおしつぶされ
体は栄養不良で死に瀕し、それでまともな思考なんかできるか。
大人だっていじめやらハラスメントやらをうけたら
ものの数週間で神経がまいってしまうのに。

ごめんなさい、ゆるしてと書けばお父さんがわかってくれる
そんな筋道立ったものの考えかたができたとはおもえないし、
ゆるしをこえば、ゆるしてもらえる、
そんなこともかなわないおうちであること
彼女が5年間で学ばされたことは まさにそれだったんじゃないのか。

たぶん、いつも、書けといわれて書いていた。
それがあとでどんなことになるかなんて考えずに。
お父さんがゆるしてくれるかもなんて おもってもみなかった。

文の 妙な部分・・・
5歳児にしてはととのいすぎ、大人にしては幼稚すぎ

保護者がこまかな文言まで指定しなかったため
お嬢ちゃんは鉛筆のはしるままに文をつづった。
しかし 彼女の文章表現力は、
保護者の想像がおいつかないほど卓越していた。
(娘の自宅学習の進度を、聡明さの程度を
正確にはかれるだけのおつむがない、
気の毒な保護者なのだろうから、それもしかたがない。)
お嬢ちゃんにその気はなかったが
なにも考えずに書いたがゆえにかえって 
すなおな思いが言葉に載った。
(彼女の言葉の影響力を読み取れる
真の意味での読解力を持たない 
気の毒な保護者なのだろうから、
先をみこしてノートを破り捨てることが
できなかったとしても、しかたがない。)
それがいまこうして、
多くの人の心にうったえかける結果となっている。

または おつむが気の毒な保護者が
おもしろ半分、嗜虐半分、口頭で文言を指定したのを 
お嬢ちゃんがすなおに書き取ったか

どちらかじゃないのか。

だから わたしは、
子どものいたいけな謝罪文・・・
お父さんにゆるしてもらいたい一心で・・・
そういった意味では 心を寄せない。
(虐待が事実として)お嬢ちゃんを死なせた人間の
酷薄さに、身の毛がよだつ。
こうまでクズなことがやれるのが人間、
そのことを あと何回思い知らされるんだろうか。
自分も「キャリア」だから怖い。だって人間なのだから。

お嬢ちゃんを死なせたのが事実 彼女の両親だとして
ふたりを鬼とはおもわない。 ふたりは人間だ。
人間はけっきょくこれだけクズなことができる生き物なのであり、
けっきょくその程度のものなのであると
その意味で 人間だ、と たしかにわたしはいいたいのだが、
でも、それだけではないかなともおもう。自分の心のうちをさらうと。

逮捕され連行されていく ふたりの表情を
ネットニュースの 動画などで見た。

父のほうはちょっと 感想ののべかたがむずかしいが、
母親のほうは、これでやっとおわりにできる、逮捕されてよかったと
そんなようなことを 思っている人の顔にみえた。
これでやっとおわりにできる。

父のほうは・・・
自分はこれだけのことをやった、
それにたいしてあんたたちは 何をかえしてくるの?
しいていうならそんなようなことを
言いたそうな表情にみえた。
自分のしたことが是か非かは関係なく
したことと同等のなにかが返ってくるはずだと
500円払ったから500円のものが買える、というのとまったく同じ意味で。
なにかそんなかんじのことを。

そうしたふたりの表情を見て、人間だとやっぱりおもった。
どちらも 人ひとり死なせた疑いがかかっている者の
思考としては ややおかしいのかもしれないが、
意味が理解できないということはないし、
ややおかしい考えをする人だとしても、
そうなったすべてが本人のせいというわけじゃないとおもう。

我が子をいじめて手にかけるような親は
死んだ子とおなじ目にあわせて死刑にすればいい
そう多くの人がおもうのはそりゃもっともだ。

お嬢ちゃんは とてもかわいらしい子だった。
かわいらしいふつうの小さい子だった。
お嬢ちゃんの生前の映像をテレビでみたときは
おもわず かわいい、気の毒に、と声がもれた。

彼女を苦しめて死なせたのが親なら
その親も苦しんで死ぬべきなのかもしれない。
だがお嬢ちゃんはそれを望んでいるのかなとおもう。

知覧-鹿児島の作家さんの本・・・なにが「戦争」か-180602。

知覧についての本が、17~20冊。
有名な高木俊明「特攻基地 知覧」もあるが
鹿児島のちいさな出版社から出た本も、ある。
著者は相星雅子さんという地元の作家さん。
内容は「富屋食堂」と鳥濱トメさんに関する短いルポだ。

読み返した。

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華のときは悲しみのとき : 知覧特攻おばさん鳥浜トメ物語 (高城書房出版): 1992|書誌詳細|国立国会図書館サーチ


高城書房


知覧、富屋食堂、鳥濱トメさんについては、ネットなどで。

生前のトメさんは、
特攻隊の兵隊さんたちについて、あちこちで語ってきた。
「あの子たちは運命を従容として受け入れていた。
 りっぱに戦って散った、神さまのような人たちでした。」
そう結ぶのが常だった。
しかし、著者がいぶかしむように、
また、人ならばだれもが理解するであろうように、
まさか「神さまのような人たち」だったわけはなかった。
彼らはもちろん、まだまだもっと生きたかった。
目前に迫る死という運命に戸惑い、恐怖し、
愛する人たちとの別れが悲しくて、毎日泣いていた。
そして飛び立った。そういうことなのだ。当然だ。
特攻兵のみなさんと親しく交わってきたトメさんは
こうした彼らの素顔をちゃんと見て知っていた。
しかし、公に語ることはなかった。
それはなぜなのか。

「本当は、彼らも死ぬのが怖かったのでしょうね。
 彼らの等身大の素顔について語ってくれませんか」
著者が水を向けると、
トメさんは途端にだんまりをきめこむ。
著者は、そんなトメさんの真意をこう解釈した。

「母ごころ」(本書202ページ)。

「『特攻隊はこのように
  泣きごとも恨みごともいわず、
  時代の要請に応え身を捨てて
  祖国を守ろうとしました。
  しかし、その時を前にして
  彼等がどれほど苦しみ悩み、
  生きたい気持ちとたたかわなければならなかったか、
  わたしは知っています。
  彼等の心中をしのぶとき、このように酷い、
  戦争というものが
  二度とあってはならないと思うのです』
<中略>
 トメさんは実はこんなことくらい百も承知だったのである。
 わかっていながら故意にこの論法を採らなかった。
<中略>
 彼女は特攻隊員たちの心の軌跡を
 口さがない世間の興味の対象にされたくなかったのだ。」
(同 201-202ページ)

著者は、それでもトメさんに語って欲しかったと言っている。
彼らの苦悩と涙を、語り残せる人がいるとすれば
彼らの「鹿児島のおっかさん」だったトメさんをおいて
他にないからだ。
「そこに触れることを避け、
 暗黙の共感にとどめておくとすれば、
 いつかそのことは歴史から消されていく。
 そして特攻の壮行だけがひとり歩きして
 戦争の温床にされかねないのである。」
 (同202ページ)

とはいえ、本人が話したがっていないのに、
「それが世界平和のため」だからといっても、
ムリに語らせなくちゃいけない法もない。
人がやりたくないものをムリヤリというような、
力でいうこと聞かせる系のアレが、
まさに戦争をひきおこしたんだぞ! 
とかそこまでいうつもりもないが、
人の心はだいじだ。
人の世界を回すのは人の心だから。
「私が見せてほしいのは
 あなたの胸の引き出しの中ですよ。
<中略>
 隠してあげているつもりのガラクタ屑こそ
 最も真実で 美しいものですよ」
(同20ページ)
トメさんに話をしてほしい著者は、
このように内心で願いながら、当初はトメさんが
その気になるのを待ったらしい。
しかし、最後にはトメさんの気持ちを尊重し、
周辺取材から先述の推論をみちびくにとどめている。
力ずくでも「真実」を、
それがジャーナリスト魂というものだとしたら、
著者はそれを貫けない人、ということになるのかもしれない。

でも、わたしはこの本が好きだ。
著者のまなざしがやさしい。
掲載された写真に見る、若かりし頃のトメさんの姿は、
作家・島尾敏雄の妻、ミホを思わせる。

・・・

そういえば「帰還せず」という本にも、
取材対象から話を聞き出し切れないという
くだりがあった。

www.shogakukan.co.jp


太平洋戦争期、
アジア戦線に送られた兵隊さんで、
敗戦をうけ本国復員命令が下ったにもかかわらず
自分の意思で、帰らないと決めた人がいた。
著者がその人たちに取材してまとめたのが本作だ。

インタビューに応じてくれたかたのなかに、
こういうことを語った人がいた。
自分が「帰らない」と決めたのは、
上官たちが「あること」をする現場を
偶然目撃してしまったからだ、と。

「あること」の内容は不明だ。
本人が明かさないのだ。
著者は、無理に聞き出すことをしなかった。
どれほどか帰りたかったろうに、しかし帰るまい
一個の男にそう決断させたほどのこと。
それさえわかれば、
強いて聞かなくてもいいではないか。
といったことを述べている。

・・・

特攻隊=「戦争」とは理解しない。
戦死より病死が多かったという
レイテやサイパンインパール
それが戦争だ、と言われると、反論したい。
「おなかがすいてしょうがなくて、
 妹の粉ミルクを毎日こっそりなめていた」
そんなエピソードがあたかも
「戦争」の象徴のように語られることも
腑にはおちない。
(「戦争」ではなく「飢え」のエピソードだ)。
群盲象を評すとかいうけど・・・。

「戦争」をしないため、「戦争」を知るべき。
それはそうかもしれない。
まちがっているとまではおもわない。
しかし、体験してないからわかりません、
知らないので正しく判断できません、
なんていうのでは、この場合お話にならない。
やったことはないけど、でも、しない。
わたしたちはそう決断するのでなくてはいけない。

ぎっくり腰のシーズン/夢をみる/Nicc-180530-180531。

近所の接骨院の先生が 言っていたんだけど、
ぎっくり腰のシーズン、があるそうだ。
先生は、季節の変わり目ごろに・・・、とか
そういうふうには言ってなかったが、
年間で、ぎっくり腰の症状を訴える人が 
あきらかに多いと感じる時期があるという。
「今年もそういう時期か」、と思うそうだ。

わたしも10日ほどまえから腰を痛めて、診てもらっている。
毎晩というかほぼ朝まで ヘンな姿勢でパソコンの前にいて 
書いたり読んだりしていれば まあ
腰のひとつやふたつ 悪くなって当然だろうが。

あー腰をやってしまいそうだな、というときは
数日前からぴりぴり、というしびれが、
はしるようになったりするから、けっこうわかる。
以前、それを感じて
「数日以内に腰を痛める気がするから、いま診てください」
と 先生のところにいったら 忙しかったのか
「痛めてから来い、おれは対症療法だ」
門前払い(涙)
もちろん、ほんとうに痛めてからでは遅い。
翌日、すいている時間にもう一度行ったら
冷たいことを言わず、診てくれたが。

数日前に、やはり急性腰痛の予兆をかんじたとき、
今いったらまた追い返されるかなと迷ったのだが。
おっかなびっくり先生に事情を話したら
「なんだ、おまえもか。」と。今回はすんなりみてもらえた。
腰痛を訴える患者さんが増えていると。
この道何十年のベテランである先生も
「ぎっくり腰を訴える人が増える時期」だけは、
体験するたびに新鮮なおもいだという。
肩こりとか腱鞘炎とか骨折とかには、シーズンなんてないみたいなので。
なんでぎっくり腰だけが、とおもうそうだ。

早めにみてもらったので ふつうに生活できている。
靴ひもを結ぶとき かがむのがちょっと大変だが。

・・・

ゆうべ、といっても早朝5時くらいだが
ようやく 寝付いたときに
昨年暮れから今年3月末にかけて
前職の職場を相手取ってやった団体交渉にまつわる、夢を見た。
昨年暮れからこっち、おそらくはじめてのことだった。
フラッシュバック反応で見る、白昼夢とは違った。
変な時間に寝たから、まともな睡眠とも言えないが、
悪夢というかんじでもなかった。寝ると見る、あの夢だった。

まえにカウンセラーの先生が
「会社との争いや、上司にされたことの
夢を見るようになったら、心と頭の両方で
記憶が正常に処理されはじめた証拠」
という 意味のことを。
本人としては実感が皆無すぎてかなしいが、
わたしの体も頭もがんばって、治ろうとしているようだ。

枕や服がしぼれるくらい
涙が絶賛滝のごとく流れまくり状態で覚醒し、処理にまいったが
これがフラッシュバックだと もっと、 
烈しい苦痛と疲れ、恐怖感が あとあとまで残るものなのだ。
今回はそういうのはなかった。ただの夢。

・・・

ゆうべ、夜から吉祥寺に行き、
オーストリアのロックミュージシャン・Niccのライブをきいた。

niccmusik.com


彼のなにを知っているわけでもない。
以前、三軒茶屋でおこなわれたライブに、彼が出演してた。
そのライブに行った理由は忘れた。
演奏を聴いた。日本でドイツ語でロックをやってた。
それで知っていただけのことだ。
が、Twist&Jamsのくらさんの、
自分の所属しているバンドが(かわいいHPだな。)
Niccのライブのオープニングアクトをやる、との投稿を見て、
Niccって、あのNicc?と。こんなところでつながるとは。
つながるというか・・・べつにまあたまたま知っていただけだが。

聴きたいとなると あとさきかんがえず
のこのこライブハウスに足をはこんでしまった。
あとで 体調のことを思い出してすこしは後悔した。 
しかし、さいわいなことに
閉塞感のないよい雰囲気のライブハウスで
行ってみると まだライブが始まっておらず
イスに座って待っていられたし
知り合いが何人かいて話すことができたし
つらいことは なかった。

Niccは前に聴いたときよりもはるかに思索的で
ソリッドな音楽になっていた。
前はもっと通俗的で、キャッチーだった気がした。
どうかな とっつきにくくはなったのかもしれないが。
おしつけがましさはなく 
聴きやすさは いいバランスで保たれていた気がする。
歌詞から意味がすべりおちるほどのむちゃなテンポ感で
歌わないところも、個人的にはよかった。

かつて聴いたとき
くらい洞窟の奥から見る 早朝の森のような
清新なグリーンの印象を音から受けたことをおぼえてる。
最後から2番めの曲のときから
ステージのライトアップが
まさにそんなかんじの みずみずしく健康的な
グリーンベースに転じた。
やはり 彼の音楽に目のくらむような森の緑を見る人は
すくなくはないんだろう、と。

ハーモニクスがゆたかに鳴りまくり
ピットにオケでもいるのかい、というほど
音に厚みがあった。

音楽の売れる売れないはよくわかんないが・・・
まあ 売れないんだろうけど・・・ いい音楽だったとおもう。

www.youtube.com

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そもさん-7-180529。

商社の営業事務だったときのこと。

自分よりも10ちかく年下の同僚が、
営業に
「めんどうなことを頼んでしまってごめんね」
とかなんとか あやまられたときに、
こう返した。

「いえいえー、お仕事ですから。」

それを聞いて、
この子は おとなだなあー と
思ったことを、よくおぼえている。

「いえいえー、お仕事ですから。」
的な感覚が、わたしには 皆無だ。
わたしの仕事観はもっとこう・・・
部活みたいなかんじであり、それは、たとえば
「ドライ」とか「ビジネスライク」とかいう
言葉とは 無縁の範疇にある。
全人格、全存在をかたむける。
生身の人としての信頼関係、
人間関係、感情、なにかそういうものを
もちこんではばからない。
仕事だから、仕事じゃないから、そんな考え方がまずできない。
導入しようとつとめたことは何度もあったが、
ちゃんと成功したためしはない。

帰れる場所、・・・たとえば家族
心に持っていれば またちがうのかなとおもうが。
ないなら新しくいまから作ればいい というのともちがい、
もっとこう・・・
絶対的な、安心感を与えてくれる場所ということだ、
基本的な、根本的な意味での帰れる場所。
それを持っていない。
持っていないから、ほしくて、仕事に求めてしまっていると 
指摘される。

そのとおりだ。

ほかの人はどうかわからないけど、わたしは 
帰る場所がない、と感じながら生きることは
きわめてむずかしい。
とても弱い人間だから。

それだから いま、こんなにも喪失感をあじわっている。
刺激的でたのしい仕事だったからというだけでは
すまないほどつよく 退職に挫折を感じ、望みをうしない、
無力感にうちひしがれている。
またも、ここでも必要とされなかった、とか考えて傷つき、
自分の「居場所」はどこにあるんだろう
なんて悩む。

でも 本来 仕事に
家族みたいなかんじを求めるのは 筋違いだろう。
求めずにいられないのは きもちの問題だから
しょうがないのかもしれないが・・・

企業に所属してとりくむ仕事である場合・・・
企業って、そういうものじゃないから。
企業は 利益の追求のためにある。
家族みたいな職場環境をつくることが
利益をあげるために効果的、と判断された場合において
家族っぽい職場環境をきずく、そんな方針がとられる
・・・ことはあっても、
それは当然のことだが、ほんとうの家族じゃない。
模しているだけだ。家族じゃない。
それに気づいたときに
必要以上に傷つくまぬけは、わたしだけだ。
いつもそうだった。

一般に、とか 規範、とかいったものから
はずれることがすごく怖い。
自分が傷ついたときのきもちは いつだって、
「みんなできてること、あたりまえにやってることが、
自分だけできない」だ。

なにか決定的に違う。
根本的に欠けている。
バランスがおかしい。
平均値を逸脱してる。
お呼びでない存在だ。
自信がない人間であるくせに
この劣等感、「欠陥商品」感、「余剰人員」感にだけは
確固たる自信がある。

もっとまえなら まだなんとかなったろう。
でもいまとなっては とりのぞくことがむずかしい感覚だ。
なんとなく 弱まってくれるとき、
つらいきもちにさいなまれずに 過ごせる時期も
さいわい なくはないけれども、
ちょっとした拍子に、すぐ頭をもたげてくる。

回復の過程にあるとき、
きもちは
ぜんぜんたのしくないしうれしくもない。
なまあたたかい空気、イヤにふきあれる風、
不快に強い雨が降る、蒸したかと思えばぐっと冷え込む。
季節の変わり目がそうであるように
上がったり下がったりをくりかえしながら
なんとなく、いつのまにか、
あらたな正常値が決まっていくんだろう。
決まるまで、
おとなしくしているべきだったかもしれない。

回復にむけた いわば過渡期を
自分にゆるすことができなかった。
しずかに休養することに たえられなかった。
それをすると、まだ過去になってない過去と
向き合う時間が増えかねなかったからだ。
でもその判断は、あやまりだったかもしれない。
他人にとばっちりがいく。
必要な時期だったんだろう。
治ったけど、治ったとまだいわれたくないよ、
まだもうすこし休んでいたいよ、と体が訴える、
そいつに耳をかたむけてやるべきだった。
治癒の過程として欠いてはならなかった 甘えの時期を、
人にめいわくがかからない場所で、 
おとなしく甘えて、過ごしてみればよかった。