BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

新潟の小さい子の事件の速報にふれて-180514。

きのう、平清盛の全盛期(爛熟期?)にあたる時代をえがく
映画「地獄門」をみたところへ続けて、
人にすすめられてきょうから五木寛之
親鸞」を読みはじめたら、
こちらは平清盛後白河上皇の関係が悪化し、
平氏にあらずんばの時代に
かげりがみえはじめるころの物語だった。
「地獄門」では、清盛と後白河上皇
まだうまくいっていたみたいなんだけど。
ねらって観たわけでも読んだわけでもないが
偶然こうした流れになり、
ほんとに諸行無常、とつくづく。

・・・

新潟で小さな女の子が殺害されたのち線路に棄てられた事件で、
近所に住む20代の男性が死体遺棄容疑で逮捕されたとの
ニュースに接した。

インターネット上のその速報には
ユーザーによるコメントがすでに多数よせられていた。

実名報道をもとむ」
「極刑を!」
「ゆるせない」
「人命を奪い電車の運行をさまたげ人に迷惑をかけた。
ふざけるな」。

なんなのかとおもう。
とくに
「ふざけるな」とか
「ゆるせない」
「極刑うんぬん」って なんなのか。
逮捕された人物は(逮捕容疑が容疑でなく事実だとして)
べつにふざけてやったわけではないだろう。
電車の運行なんやかやにいたっては噴飯ものだ。
ゆるせないって・・・
なぜそこまでおもうのか(他人なのに?)。
ゆるせない、ってなんなのか。
ゆるしがいつ望まれたのか。
ゆるせないって、どういう気持ちか、わかってて書いたんだろうか。
わかってのことならば、なぜゆるす必要を感じたのか。
さらに言うなら、ゆるす必要をほんとうに感じたうえで
ゆるせないと書いたとはとてもおもえないのだ。
「極刑」うんぬんも、あまりにかるがるしくはないか。

ほんとはなにも言うほど考えてやしないのに
書かれたコメントばかりだ、としかおもえないのだが 
どうなんだろう。

ちがう。
だからどうしてほしいとか言ってるわけじゃない。
(わたしがどうしてほしいと仮に言ったからといって
どこの誰とも知れぬ コメントの書き手たちが
何かを改めなくちゃいけないなんてこと、ひとつもない。)
でも 
書きたいことをほんとに書きたい言葉で書いてないだろう。
なぜもっと自分が伝えたいことに近い言葉を
探そうとしなかったのか。
探したという形跡を、すこしでも感じさせる文言に
なっていないではないか、どれもこれも。
もし少しでも探したならもっとひとつひとつ
まったくおもむきのちがう文になるはずだ。
じゅうぶんに言葉を探してない、それだけならまだしも
いうほどなにも思ってやしないのに書いてないか。
それほどたいした意味を持たせる気もないのに
なぜ言葉を投じたのか。
結果 あつまったこの言葉の山の
肥料にさえならない こえだめみたいな 
おぞましさはなんなのか。胸が悪くはならないか。

ゆるすって なんなんだ。実名報道を求むとは。
それでなにをどうする?どうなるとおもって書いたのか?
実名報道するなと言っているんじゃない。
実名報道しろと言うな、と言っているんじゃない。
なんのつもりで書いたんだろう、と気になるのだ。
なんのつもりでもないのに書いたとしかおもえないからだ。
なんのつもりでもなく書かれたと考えてさしつかえなさそうなのに
やたらと気になってしまうのは、
言葉が投じられているのを見たからだ。
芸も工夫も思考の軌跡も感じられない
似たような言葉が 吐き気をもよおすほどたくさん
ひとつところに集まっているのを見たからだ。
これならゴミ捨て場のほうがまだすこしは分別があり
出した人それぞれの個性がかんじられるというものだ。

いやそんなことはどうでもいいのだが
感じるのだ。
軽視されすぎではないか。
インスタントすぎて正視にたえないではないか。
乱暴に無神経に、とびついてしゃぶりつき、
くいやぶって捨てすぎだ。しつけのなってないけものみたいだ。
そうではないか。ちがうだろうか?
なにがそんなにインスタント、乱暴に扱われていると
感じるかというと、
人命であり、おそらく人の立場であり、権利もだ。
おかしい。いちばんそれをやっちゃいけないと
わたしたちがおもうはずの 分野のことだ。
こういうふうに人を扱う人たちばっかりの社会にいると、
自分だって軽視され、無神経に搾取される側に
いつ まわることになるともしれない。

どうしてなんだろう、こんなにくるしいのは?