BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

二階堂ふみとロミー・シュナイダー。「墨攻」(2006)。

毎日暑い。
もう、これから8月いっぱいくらいまでは、
日中はへたに 外にでるもんじゃないだろうな。
仕事か約束でもないかぎりは。

窓に触れてみると、
冷房のきいたこちらがわは ひんやりしているけど、
外のすさまじい熱気を、感じるもんね、手のひらに。

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ゆうべは、友だちがバイトをしている串焼き屋さんに
いって お酒を飲んだり焼き鳥を食べたりした。
夏場になるとどうしても食欲が減退しまくるが、
みんなでいっしょに食卓をかこむと、
楽しいからけっこう食べられる。
このときに、いっしょにいた友だちと
テレビにでるような有名人で すてきだとおもう人、カッコイイと
おもう役者さんなどを つぎつぎに挙げて、
単純にそのルックスについて批評してたのだが
ひとり、どうしても、顔はわかるが名前がおもいだせない
若手の女優さんがいて、
夜おそく、帰宅してようやくパッと おもいだすことができた。
桐谷美玲ちゃんだわ。桐谷美玲ちゃん。
有村架純高畑充希桐谷美玲の3セットで、
脳内のおなじ引き出しのなかに入っている。

ところで、
わたしは若い女優さんでは 二階堂ふみちゃんにこそ
別格の評価をしてる。
単純にその雰囲気、そのルックスの話だが。
彼女をみていると、ロミー・シュナイダーをおもいだす。

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ロミー・シュナイダーって女優さんは・・・
ドイツとかフランスで活躍した人で
一時期アラン・ドロンの婚約者でもあったようなんだが。
あの人、イングリッド・バーグマン
グレース・ケリーカトリーヌ・ドヌーヴみたいな
あっち系の女優さんでは断じてなかった。
道ですれちがったらバラの香りでもしそうな、
正統派の美女ではなかった。
けども、ロミーには、
なにか、なまなましい 特別な、女の存在感がすごくあった。
こりゃあ 近づいちゃいけないぞ、
大変なもんだぞみたいな(なにが大変なんだかわかんないが(^^))。
そういうかんじを、
当時のきれいどころの女優さんは
どこの国の人であろうが
ぜったい隠して売り出していたはずで。
でも、ロミーだけは、
生きた女の体温というのか・・・ 
腕とかさわったら熱いだろうな、みたいな。
顔や首に、ちゃんと毛穴あるだろうね、みたいな。
道ですれちがったら、きっとバラの香りではなく、
香水とたばこと、肌のにおいが混ざったにおいが
するだろうな、って。
そういうことを思わされる存在で、
そこに、すごくわたし、ひかれるんだが。

そのロミー・シュナイダーをおもわせる。
二階堂ふみちゃんは。
まえに、「プレイボーイ」でバニーガールのかっこで
グラビアやってたけど、
わたし、あれをネットのニュースで見たとき、もう、
あまりのなまなましさ 特別さに
ロミーが思い出されてしょうがなくて、
なんか
「あーーーーーーーーーーーーーーー」
っていうきもちになったからね
あーーーーーーーーーーーーーーー
っていうきもちに(^^)。

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きのう、おそくに帰宅してからは、
墨攻」という映画を観た。
(ジェイコブ・チャン監督、2006年、中国・日本・香港・韓国)

movie.walkerplus.com

 

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わたしはこの映画がなかなか、まあまあすきだ。
正直レッド・クリフなどにくらべるとバトルシーンに迫力はないし
いろいろと、もっとほかにどうにかできたのではと
感じないこともない。
しかし、難しい複数の要素を けっこうわかりやすく
まとめあげていて、かなり意欲的に、
がんばっている映画におもえる。
かくしようもない安っぽさテキトーさは、
いかにも中国というかむしろ香港というかんじがして、
べつに、そんなにイヤじゃない。
外国の映画を観るたのしみのひとつとして
受け入れられる範囲内だ。

ところで、
現代にものこる言葉で、墨家思想が語源のものとして
「墨守(なにがなんでも決まりごとなどを守って変えないこと)」
があり、博愛・非抵抗を説く集団だったわけだから
墨攻」なんて言葉は生まれえなかったのだが、
邦題では「墨攻」だ。
原作のタイトルどおり。原作者の造語だそうだ。
この「墨攻」を墨守してるところが
とても特徴的だと わたしには おもわれる。
中国語には墨攻って言葉がないんだろうし、
むりやり字からなにがしかを解釈しようとすると
彼らは彼らの価値観で なんか まったくちがう印象を
もってしまうのかもしれないから、それはしょうがないんで、
日本だけ、日本における漢字文化のなかでだけ、
ありえたタイトルなんだろう。

墨攻」は
映画としての厚み、気迫、品格どれをとっても
くらべるべくもないのだが、しかし、
内容的に、
まあ「七人の侍」に やや近いところを
かすっている映画だ。
それに、
墨家思想がどうして けっきょく絶えたのか、
まちがってはいなかったように思えるのに、
なぜ受け入れられなかったのか
ということについて考えさせられる映画でもある。
墨家も自分たちの思想を当時 ひろめていくためには
どうしても戦争にかかわらなければならなかった、というのが
すでに自己矛盾になってしまっていて、
気の毒だし、
みててイライラするくらい 不器用な人たちだったんだなと。
主義主張的に 存在する時代を完全にまちがえている。

どんな弱小国の王だって、
軍の指揮権を、どこの馬の骨ともしれぬやつに
渡したいわけがない。

梁の王も 梁の民衆も、いい気なもんだが、
でも ああいうもんだったんだろう。
革離目線でみるから革離が気の毒におもえ、
梁王が救えないあほうにしかみえないけれども、
梁王や梁城の民衆からしてみれば、
雇っておいてなんだが、見れば見るほど
いったいこの墨者ってのはなんなんだ、
なにを企んでいるんだと
うたがわしくなって当然だったろう。
本人に利益がないのに なんの約束もしてないのに、
他人のために命を賭けようとしている人間なんて、
もしほんとうにいたら、そりゃ信用できない。


この映画の 日本でのキャッチコピーは
「10万の敵にたった1人で挑む。」だった。
革離は梁の軍の指揮権をちゃんと王から借り受けて、
梁城内の民衆もつかって防衛戦を展開したわけなので、
ぜんぜん「たった1人」ではない、という声もあったようだが、
でも、映画をみれば、たった1人 と言うのもおおげさではないことが
わかってくるとおもう。
革離は趙だけでなく 雇い主の梁までも敵にまわして
戦うはめになっていたので。
つくづく革離は気の毒な男だなあ。
苦労ばかりで みのりがない仕事をしてる。
本人がそうしたかったんだから まわりがどうこういっても
しょうがないのだが。

騎馬隊の女騎士が 東伯が死んで以降
軍務から離れて平服でうろうろするようになった理由が謎。
彼女は梁王の重臣の娘らしかったが、
その重臣て東伯なんだろうか?
そうならば、父の喪に服すから軍務から離れた、というので
納得してもよいのだが、
それでも、あんなに革離の力になりたいといって 
昼夜をわかたず働いていた騎士だったのに、
きゅうに鎧を脱いで ふつうの服で城を徘徊するようになった。
それに、やっぱり東伯の喪に服してたんじゃないみたいなんだよな。
そのあとに起こった、敵軍の地下道侵入作戦のとき、
彼女はほかの持ち場にいたから、作戦の顛末はみていない、と
話していたから。ふつうに仕事はしていたはずなんだよ。
なのにぜんぜん 勤務中の彼女のシーンがでてこなくなるんだよね
東伯の死以降。 
そういうとこ ザツなんだよ~(^^)
あと、彼女が革離の居室に出入りするようになったという情報を、
だれかがもっと早く キャッチしなかったものかとおもう。
そうすれば、革離が気に入らないっていうんなら
雇われ者の墨者が仮にも王の家臣に手をだした ということで
こじつけて、殺すこともできたのに、
だれもそうしたことには目をむけず、
革離の「謀反」をでっちあげたことは 納得がいかない。
革離は謀反もなにも、もともと梁の人間ですらないのだし
謀反で 革離を追い出そうという動きには 無理があったとおもう。
それで王の嫡子を死なせてるんじゃあ 仕事がずさんにもほどがある。

あの女騎士の存在じたい、
墨攻」には そぐわなかった。
たしか原作にはでてこなかったとおもうんだよね あの女騎士。
画面に華をそえるためだったのだろうし、
ファン・ビンビンはもちろんきれいだったが、
必要性がかんじられないキャラクターだった。


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先週も本をずっと 何冊か読んでたが
感想は別枠であらためて。

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テレビにでてたおばあちゃんの話と所感。

たとえほんのいっときでも、かりそめにでも、
自分を必要としてくれたり、案じてくれたり、
会いたいとか話したいとか言ってくれる人には
心からの感謝を捧げたい。
そんなことを言ってくれる人はほんとうに貴重だ。
あしたへの力になるし、自信にもなる。
たいせつにしなくてはならない。
そういう人に 不義理はぜったいしたくない。
そういう人にだけは ガッカリされたくない。
そのように心の底からおもう。

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まえから、このことを覚えときたいから
いつか書かなくっちゃなと
おもっていたんだけど、
数か月前の日曜日の昼間に、テレビをみていて、
ある番組に登場したおばあちゃんのことが
印象に残ってる。

番組は、途中から観たし、最後まで観なかったから、
どういう趣旨のものだったか正確にはわからない。
でもまあ、
一般のご家庭にカメラが入って、
そのおうちのかたに、家族の歴史とか思い出を
語ってもらうような 内容だったことはたしかだ。

それで、番組スタッフが、あるお宅を訪問した。
おばあちゃんがひとりで暮らしている、
ほんとうに一般のふつうのおうちだった。

おばあちゃんは70代~80代で、
お国なまりが かなり強く、
当然しゃべりのプロではないので、
話があっちこっちに飛びまくるし、
よくわからない登場人物がいっぱいでてくるし、
正直なにを言っているのかわかんない、
要領を得ないところも多々あった。

のだが、
よくよく話を聞いてみたところ、
取材開始からずいぶんたってから わかったことがあった。
おばあちゃんは、娘さんを亡くされていた。
娘さんは まだ30代になったかならないかのお若いうちに病をえて、
幼い子どもをふたり残して亡くなったのだ。

おばあちゃんはその娘さんのことを、
(自分には娘がほかにもいるけれど、)あの子だけが
わたしの夢をひきついで、かなえてくれた子だった、
と なつかしそうに語った。
子ども好きのおばあちゃんは、
若い頃、小学校の先生になりたかったのだが、
時代も時代のことで、まともに通ったのは小学校ぐらいで、
ついに夢はかなわなかった。
しかし、亡くなった娘さんが小学校教諭になったことで
自分の夢がかなったような気がしてとてもうれしかったようだ。

が、学校の仕事にも慣れて これからだというときに、
娘さんの体に、難しい病気が見つかった。

そこからの壮絶な闘病、そして最期のときまでの思いをかたった
おばあちゃんの言葉がすごくて、
数か月もたったけど いまも覚えている。

要約すると、
おばあちゃんはこういうことを言っていた。

「『わたしの命をかわりにさしあげますからなんとかこの子は
助けてやってください』と、仏さまに何度おねがいしたか
わからないが、でも、本心は、
わたしも生きて、娘が元気になったところを見たい、
というきもちがあったから、
その点で、わたしのねがいは本当じゃなかった。
だから仏さまは、わたしのおねがいを
聞き届けてくれなかったんだとおもう」。

このようにおばあちゃんが話すのを聞いたとき、
かなり強い衝撃を受けた。
じゅうぶんな学校教育をうけてなく、
社会的地位とかもまったくなく、
ふつうの、ご近所のお年寄りである
このおばあちゃんの
自分自身の心を見つめる力のたしかさ、
素朴な信仰と現実的な思考とがまったくぶつかりあうことなく
ブレンドされたその心のしなやかさ、
心の美しさにおどろかされた。

苦悩と、傷と、かなしみと、混沌と、透徹と、あきらめの
まじりあいが ほんとに美しいと感じて
胸をうたれてしまった。

これほどまでに高水準な心の境地に
到達できてしまっている人だったのだが、
カメラが入ってなかったら、ちゃんと長い時間をかけて
話をしんぼうづよく聞いてなかったら、
このおばあちゃんの心はだれも見られなかったのかも
しれないとおもう。
こんな思いを抱えて生きてきたことを、
ご家族にだってちゃんと話したかどうかわからないし。
むしろご家族だからこそ話さないこともあるだろうから。

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なにかを好きだとおもう気持ちと、
そのなにかに関する知識量および経験値とは、
本来 かんけいがない。
「好きこそものの・・・」ということわざはあるし、
まあそれはそのとおりだ、とはおもうが、
そのことわざは、えーーーと要するに
話のステージが、いまからわたしが言おうとしていることとは、ちがう。
必ずしも誰もが
「●●が好きだから●●のことめっちゃ知ってる」
っていう状態でなくても かまわないのではなかろうか。 
●●のこと好きだけどあんまり知らなくって、
でも知りたいとはおもってる。」
みたいなきもちであることを 恥じる必要はまったくない。
だって・・・ 最初はみんな、そこから始めるんじゃない。


まして
「そんな自分は中途半端なんじゃないだろうか」
「そんな状態で●●がほんとに好きな人たちの輪に飛び込んだら
『あなたは本物のファンじゃない』とか言われちゃうだろうか」
とか 心配する必要はさらにない。 

とくに後者のように
「まわりになにか言われることを恐れる」思いでいることは 
とてももったいないだろう。

自分にとってたいせつな人であればあるほど 
その人がこの手のことで苦しんでるのをみると 
千尋の谷的な 清水の舞台的な 
ものっすごい高いところから
「うっせーーーー!!行ってこい!!!!」って 
うしろからドーンと突き落としてやりたくなる。
よけいなおせわだから もちろんやらないけど。

仮に
「あなたは●●のことちゃんと知らないから、本物のファンじゃない」
といったたぐいの ばかげたことを 言ってくる人がいても、
それは言う人のほうに問題があるのであって、
言われたほうに非はないと わたしはおもう。
たいして知らないくせにすごく知ってるっていう
フリをするのだとしたら 
自分自身の心に対してたいそう非があるだろうが。

「自分はまだこうこうだから、こんなことを言ったら
みんなに批判されるかも・・・」
という気持ちはだれでも(わたしも。)抱くもんだ。

だが、それは多くの場合ただの「心配ごと」、もしくは
「心配ごとのようにみせかけた『やらないいいわけ』」であって、
「最優先事項」では断じてありえない。
「他人に批判されないようにすること」
が最優先事項になりえてたまるかよ。

「批判されたくない」「傷付きたくない」が先に立ち、
自分がなにをしたいとおもっているのか 何がすきなのかが
わかんなくなる、
またはそれについて考えるのをやめてしまうようでは、
やっぱり いけない。

知らないことも、足りてないことも、恥でもなんでもない。
人の体はほとんど水でできてるんだから、
構造的に、熱くなりにくいんだとおもう。
自分で自分が半端におもえようがなんだろうが、
ちょっとでも心に熱いものが沸き立つ予感をおぼえたなら、
だいじにしたほうがいいんじゃなかろうか。

きらいなものよりも 好きなもののことについて
たのしそうに話してくれる人のほうが わたしは絶対的にすきだ。
(わたしの好き嫌いはどうでもいいか。)

ところで、こんなことまで 
いま言う必要は本来ないんだろうが
口がすべったから言ってしまうけど(なんだそれ!)、
もちろん、自分にとってどうでもいい人の前であったら、
おのれの責任の範囲内で
いくらでも自分を演じていればいい。
うそもつけばいい。
本心を隠しててもいい。 
それはすきにすりゃいい。
だれだって、程度の差こそあれ 
対する人によって自分を演じ分けて うまいことやっている。
でも もしも そんなことに腐心しすぎたあまり
結局自分がなんなのか、なにがしたいのかを忘れてしまったり、
非常に重要におもわれたなんらかの好機を逸したり した場合に、
(べつにそれもそれで人生なんだが、)
ともかく、
他人のせいにだけはしてはいけない。
それだけはお約束だ。
それはなぜかというと、
いつかこのさきの、自分自身のために、
人のせいじゃなく全部自分でそうしてたんだということを
理解していることがすごく大事だからだ。

 

定期健康診断てやつはまったくたいへんだ。

きょうは職場の社会保険の定期健康診断を受けた。
それにしても、
以前働いたことがあるべつの職場でも
こういう健康診断があったわけだが、
そこは健診先の医療機関
こういっちゃなんだが環境的に なにからなにまで劣悪そのもので、
健康診断だってのに、行っただけむしろ調子が悪くなりそうな
なんだかそのくらい 行きたくな~いかんじだった。
行きたくないかんじだったということを
かくも鮮明におぼえてるくらいひどかった。

けれどもいまの職場で受ける健診はそういうことはない。
一流ホテルもかくやとおもわれるような 
サービスがゆきとどいていて
いやな思いなんて まったくしない。
職場はまじりっけなしのブラックなのだが 
健診だけは、純白だ。


そんな健診で、
まともにいろんな計測などをうけたなかで
体重と体脂肪とBMIが昨年より歴然と減ってて
驚愕した。
正直おどろいて ねんのためもう1回 
はかってもらった。まちがいではなかった。
だが体調には さいわいなんの問題もない。
問題ないどころかむしろ 自分にしては いい。

じつをいうと 今年 春ごろに、
以前から なかよくしてもらっている先輩から
話をきいて すすめられた本を読んで、
この数か月 軽い糖質制限をやってみたのが大きい。

やったことを具体的にまとめると
白いごはんなどの炭水化物と およそ甘いものをすべてやめる。
1日1食~2食。
お肉、卵、チーズ、お豆腐、野菜、海藻をいっぱい食べる。
(これらを食べる量に制限はない。むりにいっぱい
食べる必要もない。)
食べるときは最低30回噛む。
※でも友だちと遊ぶとか 飲み会とか 
月数回程度のイベント的なことのとき、
これらの制限がむずかしいようなら、解禁しても可。
以上。

その本は、以下に一応紹介するが、
じつにわかりやすかったし、
そして画期的な内容にもおもえるものだった。
ちょうど自分の友だちが、
出産後の体型の変化に悩んでて
ダイエットしたいなー的なことを
言っていたのを思い出して、
この本のやりかただったら 簡単なんじゃないのかなとおもって
その子に 本をすすめた。ふかく考えもせずに。
しかし、内容がやや画期的にすぎたようにもおもわれたので、
間違ったこと教えてたらヤバイなと あとで気になってきた。
わたしは独身だから
多少なにか問題がおこっても自分だけのことだから いいが
その友だちは結婚して子どももいるから
まちがったダイエットをして体をこわしたりしたら大変だ。
あとになってからそのことが気になってきて
結果、身をもって自分が
本に書かれていた内容で 糖質制限をやってみたわけ。
といっても やれ糖質量がどうだとかカロリーがどうとか
細かい計算はいっさいしてない。 
ほんとに一番ライトなやつを
できる範囲で やっただけだ。
そもそもまず
お医者に相談したほうがいいんだろうし、ほんとは、
こういうのを始めるときは。
だが、結果 すくなくとも自分には合ってたらしく
客観的にいっても食生活をかなり変えたにもかかわらず
体調を崩すこともなく なんのストレスもなく
数値的にはなんと中学校時代とおなじ状態、
というか やや割り気味くらいのかんじにしあがった。

まあこれなら大丈夫なんじゃなかろうか。

ずいぶん大幅に 数値が変わったことにめんくらったんだが
もとが じつのとこ やせ型であるところへもってきて
しかもここ10年間は 金太郎あめみたいに
毎年まっっったくおなじ数値をキープしてきてたので
われながらその数値の大変動をみて
見慣れない感が すさまじかったというだけのことだ。
体が あきらかに軽くなってきていたことは
もちろん 始めて幾日か経ったころから
すでに自覚してはいた。
体感的に 今このくらいかなーというのは 感じてたが
家に体重計がないから数字で見たのは今日が初めてだった。

これから 自分の体にとって最適な数値に
ゆっくりと戻るなどして 推移していくんじゃないかなとおもう。
本にもそんなようなことが書かれてたし。

べつにいまのままでも どこも悪くはないからかまわないが。

その、先輩からすすめられた本てのを
以下に紹介しとく。
でもほんと 合う合わない できるできない
すべて人それぞれなんだろうし
わたしはどこぞの回し者じゃないもんで
トライするなら自己責任でたのみます。
個人的な感想としては、
「食事にあんまり興味ない人」のほうが
すんなり慣れるかもしんない。
わたしなんかはどっちかというとそのタイプでして。
「定期的な運動」とか求められてないところも
自分にはありがたかった。運動苦手なんだもん。

本はこの2冊。↓↓

ケトン体が人類を救う 宗田哲男 | 光文社新書 | 光文社

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www.php.co.jp


後者のほうがずっと実用的で簡潔ではあるが
お子さんがいる人、家族がある人は
前者を読むと いろいろ勉強になるとおもう。
自分だけでなく家族みんなのために、と
思って実践して それが成功したら最高なんじゃないかな。


まー ずいぶん体重やらなんやらの話を
長々つづけてしまったが
それはどうでもよくて(マジか。)
ほんとにいいたいのは

自分史上初めて 婦人科健診をですね!
受けたということなんですよ!!
きょう!!

わたしは婦人科健診を受けることがですね
イヤでイヤでイヤでイヤで
しょうがなかったんです 
これまでずっと。
なぜかというと 
怖いからです!!
怖いじゃないですか!! ふつうに!! 
怖いでしょあれ!!
そんなわけでですね
明確に逃げてきました。婦人科健診から。
昨年なんか事前の申込書の婦人科オプション健診の欄に
マルをつけるかいなかで2週間以上もなやんだすえ
つけませんでしたから。
けど もういい大人なんでね。
それに、アナウンサーの小林麻央さんなどの著名人が
その命を賭して啓発してくれてるじゃないですか
それですごく このわたしも刺激をもらいまして。
勇気をふりしぼって 今年はうけましたよ。
オプション健診の欄につけたマルを
何度 消しゴムで消してやろうとおもったか
ほんと ぎりぎりまで迷いましたが。
いやー
がんばりましたわ。
でも、さいわいなことにお医者さんが できたかたで、
いまのわたしに必要な検査とそうでない検査を
事前の問診でふりわけてくださって、
必要最低限のものだけでいいということになり、
かなり精神的なプレッシャーが軽減されましたね。
もうこっちは こうなったら
俎上のなんとやらのつもりでいたからよけいに。
だからそんなに おそれていたほどの
気持ちにはならなくてすみました。
そのお医者さんは、
女性の、ぱきぱきしたかんじのすてきなかたで、
いろんなことわかりやすく教えてくださって、
それだけでも なんか 
受けてよかったなって気持ちになりました。
これなら来年以降は 大丈夫ってかんじがします。
もっと本格的な内容の検査を
受けざるをえなくなったとしても。

あと問題はですね!
胃部レントゲン、つまりバリウム服用ですよ!
これだけは 一生涯 
飲まない方針をつらぬきとおすつもりです。
あんなわけのわからんものを体にいれるなんて
とうてい無理ですから。
だれが飲むか あんなもん!
よくみんながまんしてるよなあ。
もうほんとかんべんねがいたい。
胃カメラ飲むほうが まだしも ましなんで
きっぱりお断りして 胃部レントゲンは
キャンセルしてもらいました。
というわけで
胃カメラ飲む予定です。
必要を感じたらね(^^)

最近読んだ本の感想をちょっとだけずつ。

このところ 読んでた本の感想。
読んだもの全部は思い出せないから 
思い出せるだけ。
マンガもいろいろ読んでるけど
そっちはまた別枠で。




チャールズ・ブコウスキー柴田元幸 訳
パルプ
ちくま文庫

www.chikumashobo.co.jp

→これ以下はないってくらい だらしがなく甲斐性もなく
下の下の下な私立探偵・ニックのもとに
いくつかの奇妙な依頼がいっぺんに舞い込む。
とっくに死んでいるはずの著名な作家を探してほしい。
宇宙人にとりつかれてる。
妻が浮気をしてるみたいだ(これは探偵への依頼としては一般的か。)。
「赤いスズメ」を探してほしい。・・・
ブコウスキーでいちばんすきなのは、というと
「くそったれ! 少年時代」だけど 
柴田元幸さんの訳書という枠でいうと
オースターよりもミルハウザーよりも何よりも
このブコウスキー、この「パルプ」がすきだ。
柴田元幸さんの訳でなければパルプ読みたくない。
ほんとうにたまにだけど 狂ったように読み直したくなる。
ブコウスキーの才能を見出した編集者は 優秀だ。
才能だ、と信じたところが まずすごい。

ただ これからパルプ読もうとおもう人は
あんまり わかりやすい「感動」みたいなものを
もとめて読まないほうがいい。
「小説とはこういうもの」
っていうのを頭に持った状態で
読むと 不当にガッカリすることになる(^^)
そういうやつじゃないから(^^)





中村智志
「命のまもりびと 秋田の自殺を半減させた男」
新潮文庫

www.shinchosha.co.jp


秋田県で、中高年の事業主などを対象とする
自殺防止相談窓口のNPO法人をたちあげた 佐藤久男という
人物についての 密着ルポルタージュ
秋田県は自殺率がかなり高いらしいのだが、
佐藤氏はそれを数年で半減させた功績に
大きく貢献した人なのだそうだ。
佐藤氏自身も会社経営者として かつてものすごく
苦労された経験があり、その頃のことを振り返る章が
とにかく圧倒的。
あと、日本の自殺問題の基礎情報にかんしても
くわしく解説されていて かなり勉強になった。
日本では 自殺率のカウントの指標が
ひとつではなく、ふたつあって、
そのうちひとつは自殺者が多く見積もられ、
もうひとつは少なくカウントされることになる、ということを
わたしこの本読むまで
知らなかったし。




西村雄一
「殉愛 原節子小津安二郎
講談社文庫)

bookclub.kodansha.co.jp

→映画監督の小津安二郎と女優・原節子との絆について
関係者への取材とゆかりの地歴訪を重ねて まとめた評伝。
うーん おもしろかったけど
かんじんの小津監督と原節子
話を聞けてないってところが 残念というか、
それいっちゃあおしまいなんだけれど、
でも やっぱり・・・。
監督は亡くなったのがずいぶん前だから
そのとき著者がこの本を書きたいとおもってなかったとしたら
インタビューできてなくても しかたないと思うけど
原節子はつい数年前まで存命だったんだからなあ。
じっさい著者自身も この本を書いているあいだに
原節子の訃報にせっした、と あとがきで明かしていたし。
なぜ生前 話を聞こうとしなかったのかと。
本人に話を聞かなかったところ、
グイグイいかなかったところが
つまり著者らしさといえばらしさなのかもしれない。
でも・・・ こういう本を書くんだったら・・・、
きっとアタックかけても 原節子は結果的には
なにも話してはくれなかったろうけど(門前払いされたろうけど)、
ぶつかってみるだけのことはするべきだったのでは。
結果ムリでもそれだけやった、ということだけでもあれば
まだ こっちとしても 読んだあとの気持ちが 違った気がする。
「小津と原節子の恋愛関係」に
かんしては 著者が「そう思いたいだけ」ってのが
出ちゃってて なんというか どうしようもなく。
なんとでも解釈できるから、前提に沿って資料を読めば。
いや、もちろん それなりの状況的根拠があるのは
よく理解できた。
公然の秘密的な部分があったことは
わたしだって いちおう知ってるし。
でも、なんといっても本人に話聞いてないっていうのがな・・。
ただ、映画ファン必読の一冊ではあった。
おもしろかった。当時の日本映画の現場のことを
くわしくいろいろ 知ることができて。
ちょっと、話があっちこっちと動きすぎて
ややこしい構成だったけど(^^)





瀧波ユカリ/犬山紙子
「マウンティング女子の世界 女は笑顔で殴りあう」
ちくま文庫

www.chikumashobo.co.jp


→なんつう本出しちゃってんの(^^)!!
笑ったけど(^^)!!





・押川剛
「『子供を殺してください』という親たち」
新潮文庫

www.shinchosha.co.jp

→心の病で苦しんでいるとおもわれるが病院にいかず
家でひきこもるなどしている人を
説得して医療にアクセスさせる・・・という
精神障害者移送サービス」を行っている著者が
これまでに経験した事例を紹介し
各種の問題とその対策案を提示する。
精神保健福祉法が改正されたことで
当事者たちがますます苦しい状況におかれるようになってきた
ということが じつに克明に解説されている。 
震えあがらされる 内容だった。
他人事ではないと。
精神的にも状況的にも苦しんでいる患者とその家族を
もし本当にぜったいに救いたいとおもうなら
当事者家族などのだれかひとりが 自分の人生のすべてを
投げ打つくらいの覚悟で臨まなくてはならない、
と すこしも大げさでなく 伝えようとしていた。
あと、「自分の家族が心を病んでいる、病院に行かせたい」
ってことを第三者機関に相談したいとして、
家族で解決できないから他人にたよるわけなので、
どれほど困っているか、なにをしてほしいのか、
いかに本気かということを 具体的に、何度も、熱意をこめて
相談しなくっちゃ、第三者には伝わらないし、動いてもらえない。
ということを くりかえし言っていて、なるほどなと。
いや この本は 読んだほうがいいですよ。




中島義道
「東大助手物語」
新潮文庫

www.shinchosha.co.jp


→哲学者の中島義道氏が
東京大学の助手をしていた30代の頃の 過酷な体験を振り返る
エッセイのような極私小説のような。
「やってくれたなあ・・・」ってかんじの1冊。
ぜったいこの人 
こういうの書くと 最強におもしろいんですよ。
中島義道氏のファン?だったら みんなそういうこと
思ってるとおもう。
すごくよかった。
いたましくて、いじらしくもあり、
読んですごく胸がしめつけられたけど。
わたし自身のつらかった体験の記憶が
呼び覚まされるような感覚もあったからなあ。





多島斗志之
「少年たちのおだやかな日々」
双葉文庫

株式会社双葉社 |少年たちのおだやかな日々


→中学~高校生くらいの少年を主人公とする短編小説集。
わたしは多島斗志之さんのこの 繊細さと偏執性とが 
ギリギリあり?なし?なラインでうろうろしてる
奇跡のバランスが すき。

「それではっきりするんなら、いつまでかかったっていいです」(^^)。





・鬼塚忠
「花戦さ」
(角川文庫)

www.kadokawa.co.jp


→映画を観たので、直後に買って読んだ。
これは・・・ ダメだな(^^)。
読んだことは失敗だった。
自分が書いたわけじゃ もちろんなく
作家さんが苦労して書いて こうして世に出したものに
はなはだ失礼なことをいうようだけれど、
(いうようだけれど、っていうか、めっちゃいうけど(^^))
そもそも小説として
個人的に お寒く、うすっぺらく、
おもしろくなかったうえに
なんかこの作品にかんしては
小説と映画とで、ダメなところを見つけ合い
掘り下げ合っているような
おたがいの関係的に
不利益しか生んでないかんじをうけた。
秀吉の改心の理由が信長、っていうのは
映画にはその視点があまりなかったんだけど、
小説ではかなりそこが意識されていて、
まあなんか、なんとなく、よかったような気はしたが。
絶対的に、
小説は読まないでおいたほうが幸せだった。
映画だけで終わらせておいたほうが、よかった(^^)
小説を先に読んだなら、
映画は観ないほうがもしかしたら幸せかもわからん。
・・・
いや、
やっぱり小説はいいから映画を観たほうが 幸せかな(^^)?
映画はあれはあれで ちゃんと観られる「形」になっていたから。
人物造形とかが。
役者さんたちの演技にすごく助けられていた。
映画ってのは役者だけじゃないとはおもうけど。
説得力があったとおもうんですわ
利休と専好のキャラは あれで最適解だったと。





小林泰三
「因業探偵 新藤礼都の事件簿」
(光文社文庫)

www.kobunsha.com


→頭はキレるが 性格が最悪なヒロインが
抜群の推理力を活かそうと考えて私立探偵業を始めたんだけど
最初の宣伝でかなりムダに金をつかってしまい
当面の必要から いろいろと別の実入りのよいバイトをすることに決める。 
そんなバイト生活のなかで
いろいろな難事件を解決していく・・・という
連作短編集。
おもしろい。
気分転換になった。
多島斗志之と同じ方面の雰囲気を 
ちょっと感じる作家さんだ。





プチ恩人がたくさんいる。

「世間に忘れられてしまうことを恐れる」
ってことのなにが問題なのかねえ。
恐れてとうぜんじゃない。
それが死ぬってことなんだから 人間にとって。
死ぬのが怖くない人間は 原則いないんだから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それはそれとして、
まったくの別件なんですけど、

恩人って、いっぱいいるよなあと 思ったんですわ。
恩人ていうと、
命を救ってもらったとか
困ってたときに大金をぽんと貸してくれたとか
仕事を紹介してくれたとか
のちに結婚相手となる人と引き合わせてくれたとか
なにかそういう おおきな事件と
からんでいなければならないということではなくて
あと、もっといえば、おたがいに名前もしらなくてもべつによくて、

そういうんじゃないけど 
恩人だったな、あの人。って
おもう人っていっぱいいるなと おもったんですよ。

日々を一生懸命消化していくのに
必要な力を いろんな人から
少しずつ もらっているのですね。

親友とか恩師とかね、
そういうおおきなあれの話ではないんです。
親友も恩師ももちろんね、いますけど。
人じゃない場合も。
動物とか物とか音とか。においもか。


たとえばわたしの場合
大学の編入試験のとき、試験会場の階段教室で、
最終試験の合格者発表を待っていたときに、
うしろの席にすわってた受験生の女性とちょっと
話したんですよね。
そのとき、その女性がスーツ姿なのをみて、
「あ、スーツ着てるんですね。わたしもスーツにしとけば
よかったのかなあ」ってわたしが言ったら、
彼女が
「なんでもいいんですよ。でも、スーツって
決めちゃうとラクですよ~」
って。
それがなー。 なんか、その彼女のリアクションが、
すごく きもちを落ち着かせてくれたんですよね。
合格発表、めちゃくちゃ緊張してたので。わたし。
スーツ着てこなかったことを後悔していたとかでは
ないんですよ。
スーツという選択肢があるということすら
自分は考えていなかったし。
会話の内容がどうということではなくて、
あのときの彼女のリアクションというか・・・
彼女の雰囲気というか。
それがわたしをほっとさせてくれたんですよねー。
わたし、その大学に編入できたんですが、
入学後、あの女性には会いませんでした。一度も。
あの口ぶりでは、ほかの大学も受けていたようだったから
ほかの大学にすすんだのかもしれません。
学部がちがったのかもしれないし。
だから名前もわからないし顔ももう覚えてません。
けど「スーツって決めちゃうとラクですよ~」
って 笑ってらしたのはほんとにはっきりおぼえてますわ。
それですごくほっとさせてもらったことをね。

あと、
今の職場の、前の、前に働いていた職場では
たのしいことよりもしんどいことのほうが
ずっとずっと多くて、
毎日 結構 苦しがっていたんですけど
毎朝 ちかくの法律事務所の社員犬が、
わたしが出社するころ、
会社付近を お散歩してたんですよね。
どこかしら気品ただよう、毛足の長い、おおきな犬でした。
あのワンコ、見るのたのしみでした。毎日。
ワンコのお散歩してた男性は、
脳梗塞かなにかをやられたのか、
半身がやや不自由のようにおみうけしたことを覚えてます。
なんか、かわいらしい いいコンビで。
ゆっくりゆっくり歩いてて。
あれ見るのすきだったんだよな。
あのワンコと男性。


前の、前に働いていた職場といえば、
真夏に、会社のまえの歩道で
わたしの目の前で
ハデにすっころんだ少年がいたんです。
あの子もなんかよかった。
キックボードで豪快に転んでて。
意外にも顔とかが無傷で驚きましたが。
わたし、子どもと話すのがあまり上手じゃないんですが、
びっくりして、
とっさに「大丈夫かあ???」って言いながら
彼のところに歩いて行ったんですよね。
少年は、はずかしかったのか、
こんなに思いっきり転倒したという状況に
自分でも驚いていたのか
モジモジしながらわたしをみつめて、
ウン、って大きくうなずいて、
キックボードで走り去っていきました。すぐに。
あれ よかった。
わたし 当時 職場で人間関係に悩んでたというか
よりわかりやすくいうと いじめにあってました。
男の子が いじめ解決してくれたとかいう
わけじゃないんですよ。
でも、なんかね、
あのやりとりよかったな、好きだったなとおもって。


それから、今夜あったことなんですけど
かえりの電車のなかで、すわって本読んでたんですが、
ちかくにいた女学生さんが調子悪くなったので、
席ゆずったんです。
自分は彼女の前に立って 本を読み続けました。
だんだん電車がすいてきて、
女学生さんにゆずった席のとなりが、あいたんですよ。
そしたら、その席の前に立っていた男性が、
ご自分はその席にお座りにならないで、
わたしのヒジをつんつんて つついて、
「ここ・・・。さっき、席ゆずってたでしょう。」
って、わたしに 座るよう促してくれたんです。
にこっと ちょっとお笑いになって。
こんなあたたかいきもちになることって
めったにないですわなあ。


それに、 
毎日通ってる職場の、ビルの管理人さんでしょ。
出社すると、あいさつするんですけど。
管理人室で、いつも宮城谷昌光かなんかの
本読んでるんだよな あの管理人さん(^^)


ヴァイオリンの、やさしいヴィブラート。


メイリオ」のフォントもいいですね。
(オタクがすぎますかね!)
メイリオよくないですか(^^)?
メイリオいいよ〜。なごむわ~。
どこかスキがあるというか
あけっぴろげといか
簡明、明瞭なかんじがいいですね
だから「メイリオ」?
ほんとはもっと 作る本に使いたいと思うんですけどねえ。
いいと思ってるの自分だけかもしんないです(^^)


これらはすべて、
恩とかじゃないかもしれないんですけど、
べつに命のやりとりとか していないんですけど、

日々を生きるうえでの 
救い・・・というと
おおげさではあるが・・・
でも それに近いことが 言いたいんですよ。
わたし。
適切な表現がみあたらないんですが・・・

そういうの いっぱいあるなとおもって。

覚えていてよかったな、覚えておくべきだなとおもってね。

ことさら あらたまって 言うほどのことでも
なかったりするんですよね。
「あのとき あなたのあれに救われた」とかね。
言えればむしろ運がいいくらいのもので、
こっちが勝手に そのできごとを覚えているだけで、
むこうはわたしの名前も知らないし覚えてないし、
二度と会わない間柄で 起こることがほとんどですから。
うまくいえないなあ。
でもそういうのちゃんと覚えていて、
それで少しずつ日々をまた 生きていくんだとね。
おもったりします。

まとまらねえな(^^)




自分について書かないなら 書く意味はない。

自分のことも書かなくてはならない。

本来はそのつもりで 始めたブログではあった。

なかなかそれができないことが、自分でもはがゆい。
正直なところいうと、
自分のことを書くと、自分がけずれていき、
いつか、書く必要を感じなくなってしまうんじゃないか、
というかんじがする。
わたしは 表現すれば けずれていって
まもなく失くなる程度のうすっぺらい存在だから、
書いたらけずれて こんりんざい回復しないかも、と

書く必要がないと感じるようになる ってどういうことか。
完全な人間になれるわけでは絶対になさそうだ。
書かないでいて それでどうやって
わたしは 日々を消化していくんだろうなあ。
そんなことがほんとに可能なんだろか??

なにか 言いようもなく怖くて、
書くことができない。
というのも、書く必要を感じなくなるというのが
どういうことなのか いままで経験したことがなく、
なくなったら自分はどうなるのかと 思う。
どうなるのかなというか、
たぶん 死にたくなるか、
死ぬんじゃないかなと 予感する。

わたしのなかにあるものって
けっきょくその程度のものかもわからん
という すごくなにか
ばかばかしい 恐怖感があり

自分を手ばなすのがためらわれる。
自分のなかにあるこの なんか
ガサガサしたきもちのわるい
つねにわたしの胸の裏側にぴったりくっついているこの
不快感というか
これがなくなるというのが。
毎日、むしろ、なくしたいと思っているはずなのに。

でも
おまえ そんなたいそうな人間じゃないだろ そもそも
たかがしれてるだろ、あってもなくても

やっぱり
どうなるかは
自分のことぜんぶ書いてみないとわからないので、
書いてみないとしょうがないんだろう。


自分の核心について書く勇気が 
意外にも、これほどまでに、ない。

書いてるつもりでいた時期もあったけど
そのじつ やっぱり 全然書いてなんていなかった。

他人のことや、他人が作ったなにかについて
あーだこうだと好き勝手なことを言うのは 
わたしじゃなくてもできる。
むしろ わたしなどが そういうのをやらなくても
もっと上手に、より的確に
なにかを言える人は いくらだっている。


書くのであれば、
わたしはわたし自身のことを
書かなくっちゃ 意味がなかろう。
わたしがそれで けずれて、いなくなったとしても。
なのかな?

この、書いたら自分が削れてなくなってしまって、
書く必要を感じなくなってしまうかもしれない
っていう感覚は
気のせいなんだろうか。

それと、

書いてだれかが喜ぶんだろうか?
それは もう答えでてる。
もちろんだれも喜ばない。
だけど書かないといけないようなかんじはずっとある。




ブログ読みにきてくださってありがたい

ブログで映画の感想なんかを書くと
ネットのキーワード検索で 
映画のタイトルとかでヒットするのか
ときどきブログ読みにきてくれるかたの人数が
通常と比較してずいぶん増えることがあり、
びっくりするとともに とてもありがたい。

映画の感想は 基本的にネタバレ全開的なかんじで
書いてしまっている
編集機能の「記事の概要」項目に
ネタバレした内容のときには「ネタバレしてます」と
一言そえるようにはしているが、
ネット上から直接 偶然 このブログにやってきた人が
その概要を 本文を読むまえにかならず読むのかどうかまでは
よくかんがえると知らないので
ネタバレしてることを
お読みいただいてはじめて知ることになるかもしれず
ガッカリさせてしまっているかもしれない。
今後は映画の感想を書く際には
「記事の概要」項目だけでなく
本文中でも ネタバレ注意を喚起するつもりだ。

といっても
しょせんはわたしのブログであるから
どう転んでもたいしたことは書いてないのであり
べつにそこまで気にしなくても いいのかもしれないが。
ネタバレどうこう以前に
このブログに偶然きてくれてしまった人たちに
ありがたいどころじゃなく
むしろもうしわけないのかもしれない。

でもまあせいいっぱい 
自分以外のかたがお読みくださってもそこそこまあまあ
おもしろいと おもっていただけるかもしれないような
ことを 書けるようにこれからも日々努力はしていく。

でないと なんで公開しているのかわからないからな。

世界にとりあえず謝罪しておきたい。
存在をゆるしていただけたらさいわいだ。