BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

吉田兼好→古文は現代語訳で→おもいで→ボコられる自尊心→逃避

きょうはかなり寒かったです。
職場でついに一日中 上着を脱ぐことができませんでした。

自分のいる部屋は 比較的広いですし
窓から出入り口に一直線に風が
ふきぬけるかんじの間取りになっています
夏は風通しがよくて
たいへんけっこうなんですが
冬場は底冷えがします。
吉田兼好徒然草で 
家のつくりようは夏をむねとすべし、
冬はいかようにも住まう。
(家は夏の暑さ対策こそを大前提として作れ、
冬なんかはどうやったって暮らせる)
といっていて、 
まあそれはたしかにそうなんですけど。

徒然草でおもいだしたのですが
いぜん 自分の知っている人が
徒然草ってすごく変な作品だ、いったいなんであんな
おもしろくもなんともないものを 書こうとおもったもんか、
また、残そうとおもったもんか」と
あらたまって スゴイことを言っていました。
徒然草の存在意義とか 
つまるだのつまらないだのについて
考えたことなんて 自分はそれまで一瞬もなかったものですから
返答に窮しました。
たしかに なんでといわれると・・・・(^^)

そんな 古典文学のことでおもいだしたのですが
つくづく考えるんですけど
古典って
むりして原文で読まなくていいんじゃないですか。
現代語訳でばんばん読んだ方がいいですよね
意味がわかるだけおもしろいですから。

シェイクスピアとかチェーホフもそうだとおもいますよ
わからないところや読んでいると眠くなってくるところを
全部読まなくては・・・と むりに時間をかけなくてもいいのです。
もとが演劇なんですから。
照明器具やマイクや舞台装置がいまのようにちゃんとしていないせいで
表現しきれないことを
観客席のうしろのほうにまで聴こえるように
セリフで説明しようとしたから
(また、衣装替えなどの舞台裏の作業の時間をかせぐために)
あのように もってまわった長ったらしいセリフなどが
つらつらと続く、そういう側面があるのではありませんか。
わからないところ、あきるところは 
研究者でもないなら
とばして読んでいいのです。
まずWikiで調べながらでもなんでもいいですから
雰囲気を感じ、流れをつかみ、とりあえず読むと。
研究者だってさいしょはそうしたのではないですか。
そうでなくちゃおもしろさだってわかるわけがなかったはずです
つまんないとおもったら、べつにそれでいいし(^^)

希望者は、それから原文、それから細部へと踏み込めばいいのです。

でも原文で読んでもぜんぜんおもしろいと感じないけど、わたし(^^)
だって時代と、言葉がもう、昔すぎますので。
読みはしますし、理解もしますけど、
文章がうまいとかどうとか以前の問題で 
その意味でまったく楽しむことができないし。
ただ小さい子のかわいらしい様子を描くシーンなんかでは
筆が走ってるな というか、
ウキウキしてるな、作者が、
くらいのことは わかりますが・・
源氏物語の話ですが。
(若紫、夕霧、雲居雁、冷泉帝はほんとうにかわいいです。)
それ以上のことは 正直いってよくわかりませんよ。
外国語みたいなものですよ。
母語じゃありません。
母語じゃない言葉は、どんなに深くしっかり身につけたつもりでも
母語とおなじように 微妙なニュアンスまで感じ取れるようには
ならないとわたしはおもいます。
しらんけど(^^)

あと、確実にいえるのは、
国語の教科書にのっている源氏なんて
なにがおもしろいんですか あんなもの(^^)
そりゃみんな古文 苦手って言うわ。
どうだっていいのではないですか(^^)、品詞分解なんか。
(品詞分解まるでできません、わたし。)
もっと先のもっとおもしろいところを
娯楽として読んだほうがいいですよ。
現代語訳いっぱいでてますから。
なんでもいいんですよ。
谷崎潤一郎円地文子のはとくにおもしろく感じます。
登場人物たちが 勝手に動き出す感じがするところが
いいとおもいます、生き生きとして。
それでも54帖もあるし
昔のもので、冗長に感じることは否定できませんから
あまりずっと読んでいるとしんどくなりますが。

まず 文学のおもしろさにふれることからだということ。
おもしろさに分け入る術をしることからだということ。
その術とは必ずしも 文法を学ぶことではない可能性があること。
そういうこと わかってる先生がいたんです
高校3年生のときの現代文の先生。
あの人の授業はおもしろかった。
本人が、文学を愛していることがとてもよくわかる教えかただった
のではないかと。
定期試験の問題は、創意工夫と 今おもえば
生徒の潜在的知力や 自力で考える力への刺激にみちていて
好きな人にとっちゃ とてもわくわくするものでした。
点数よりもどんなふうに考えたのかを見ようとしてくれる試験でした。

安部公房のデンドロカカリヤとか
シュタイナーとか読ませてくれる先生なんて
あまりいないのではありませんか。
シュタイナー(^^)!! 
どこからもってきた!!
文学っていうの あれ!
あの先生よかったな。
おもいでぶかいのは 学年末試験のとき、
問題にとりくむ1時間があまりにもたのしくて
あっというまだったので
前の席の ぜんぜんそれまで接点がなかった
すごくおとなしい系の同級生の男の子と
おもわず「おもしろかったよねこれ!!!」って
目で会話をしたことが 心に残っています。
回答用紙をうしろから前に回収していくときに
目が合ってね。 その子の色白のお顔が紅潮して
瞳がきらきらしていたのをよくおぼえています。
わたし、その子とほとんど 話したことはなかったんだけど、
その子の文系科目の成績がたいへんに優秀だということは知ってました。
それで内心 いつも競うきもちでいたんですよね
自分も比較的 文系科目はすきだったものですから。
なんかわかりあった瞬間でしたねあれ。
よかったなあの問題。
またあの先生の授業 きいてみたい。
そもそも あのころ先生はおいくつで、
いま、おいくつなのか。
現役でいらっしゃるのだろうか。


平家物語吾妻鏡も教科書のはぜんぜんおもしろくない、
那須与一おもしろくない(^^)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

きょうも職場で自尊心をボコボコにされてきました。
まいりましたね。
あまり考えたくはないけれど
パワーハラスメントの範疇とみていいだろうとおもいます。
バカだとおもわれているんだなとおもいながら働くのは
しんどいものです、
むくわれないんだなという思いがつのるから。
自分で自分をバカだとおもうことは いいのですが
他人にいわれると、なにを!! 
というきもちになるのは
おかしなものですね。
そんなにバカだとかいうんなら 
全部自分でやってくださいよーとか
ちょっとおもってしまうんですけれど(^^)
まあ相手には相手の考えがあるのでしょう。
とっくに 理解することを放棄してしまったからなあ・・
でも心はいたく傷つきます。当然のことです。
人の立場を 自覚的に奪うなんて最悪ですよ。
辞めて ほかの職場にいこうかな(^^) 
なんてね。

でも自分にとって 世界は仕事だけではない、
というのが
救いですね。
わたしは、
家に帰ることができれば、仕事じゃない時間をもつことができれば
の話ですが、
仕事とぜんぜん関係のない勉強に打ち込むことによって 
まったくべつの世界にいける本を読むことによって、
その日のしんどい気持ちを かなり忘れるか小さくすることができます。
勉強とは逃避のためにするものではないかもしれません。
でも逃避のためにやっちゃいけないという法律もありませんし、
たのしいからいいか。というきもちです。
あしたになったらまた きつい現実と立ち向かわなくちゃ
いけないわけですが・・。

さてどうなることか。
あしたの心配はまああしたに任せるとしましょうかねー。

オリヴァー・サックス「道程 On the Move」/ヨハネ8:3

仕事が進まず、たまる一方で 
しんどいです。
これほどまでに 進まないと感じて、
気が重くなる仕事はひさしぶりです。
こまったもんだ まったく。
自分としても 肉体的疲労がいちじるしいことも 
仕事が停滞してしまってることの原因なのかもしれない 
とはおもいます。
しかしですね! 
どう休めっていうんですかこれで(^^)!
みんな会社にとまりこんで連日徹夜してるよ(^^)!

休んでいる場合じゃないことは ほんとに毎日感じているんですが
きょうは日曜日というのもあり もう 休んじゃいました。
というか家にいて、家で仕事してました。
仕事のことがねー 
心配で 頭からはなれません。

ただですね!!
哀しいかな、
わたしはねー この仕事を愛しているんです!!!
仕事への愛を人質にとられちゃってませんか、
わたしってやつはバカだから!!

なんだかなあああーーー!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本は毎日ちゃんと読んでます。
いつどうやって読んでんだ、
そんなことしてるから仕事が遅れるんだ
いろいろ言われそうですが
読む時間はつくるのです
それには命をちょっとだけね、けずるのですよ(^^)
つまり睡眠時間をちょっとアレするのです。
あとは電車にのっている時間にね。
好きなことをするのにまとまった時間をとろうとすると
失敗しますね。
まとまった時間、なんてものが作れるとおもったら大間違いです。
そんなものは作れません。
すきまを つかうのです。
わたしはそれを理解し実践するのにずいぶん時間がかかりました。

意地でも最低5冊、最低1200ページくらいは
読むことにしてて、また、読めているとおもいます。
しらんけど(^^)

なかんずく
神経科医のオリヴァー・サックス氏の自伝
「道程」がすばらしかった。


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レナードの朝」っていう映画、あります
ロバート・デ・ニーロロビン・ウィリアムズのやつ。


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movie.walkerplus.com


サックス氏はレナードの朝の原作となった本を書いた人です。

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わたし 映画観たことありますしだいすきですけど
その時点でわたしは一作も氏の本を読んでませんでした。

氏は2年前になくなりました。
新聞で訃報をみましたけど、
その時点でわたしは一作も氏の本を読んでませんでした。

「道程」を読み、
「いままでこの人の本を読んだことがなかったとか
わたしはいったいどういう神経をしてんだ!!バカか!!」
という わりと週に何回かくるあのろくでもないショックの
特大版を体験しました。

自由で闊達な感性
その正直さと臆病さ
心のやわらかさ
病み傷ついても走り続けた強さが
あまりにもいとおしく、また、うつくしいとおもいました。
とってもじゃないけど理解できない、
ってところも多々あったけど。
自分が力をつけていくことによって、
これからわかるようになっていく
・・・だろう、と 自分に期待します。

本書の、本筋とはややズレているのかなとおもいますが、
ふたつ、とりわけ心をうたれた部分がありました。
もう図書館に返してしまったので、引用は正確ではありませんが・・

ひとつは、
サックス氏が、老境にあった友人に、
「人びとに、自分のことをどのように記憶していてほしい?」
と尋ねたときのエピソードです。
その友人は、在野の人ながらきわめて多才で、たしか生物学方面の
研究、著述、教育、さらに実業家、法律家、政治家などなどとして
精力的に働いた人でした。
じつは本人は教育者の道にしぼって活動したかったみたいなんですけれど、
晩年はそれができなかったようです。
教師としてだけ活動したくても いろんな業界から引く手あまたなもので、
むずかしかったんですね。
※読んだかんじ、幅広い分野にずばぬけた才能を発揮した彼だけど
そのなかで教育者としての側面はあまり高く評価されてなかったような・・・
そんなニュアンスもあったかな。
(でも本人は やりたかったんですな。)
晩年の彼はサックス氏に「みんなにどのように自分のことを
覚えていてほしいとおもうか」と聞かれて、
「教師として。」
と答えたそうです。
うめくように、じゃなかったか とわたしは想像します。

自分がどういうふうに人におもわれて死んでいきたいかを
思うことは わたしは たまにあります。でも、
どういうふうに人におもわれて死んでいきたい?と
人に尋ねたことはこれまでなかったし、
尋ねようという発想が、そもそもなかったことを
ここで告白します。
人にそう聞かないのは、もしかして、
「どう記憶されたいか」について
じつは自分自身がまだちゃんと考えていないから じゃないかと
おもわされました。

また、結びの、謝辞の一節にも考えさせられました。

「人生で出会ってきた愛する人びとすべてについて、本書において
語ることができなかったのは残念だ。でも、自分が彼らのことを
忘れたわけではけっしてない。たとえ本書のなかに名前がでてこなくても、
自分があなたのことを心から愛していて、忘れないということを、
信じてほしい。」

さきにのべたように 引用は正確ではないですが、
主旨と、「信じてほしい。」は間違いなく正確です。
「信じてほしい」。
言葉のチョイスのおさなさ、シンプルさがいいですね。
原語がなんだかわからないけど。

本書をあらわしたころはサックス氏も
病気が重くなっていて、
死期について考えていたろうとおもいます。
人は死んだあとのことは自分ではどうにもできないわけなんですけれど、
「(いなくなっても)自分はこうおもっていたということを信じて。」
「(いなくなっても)けっして変わらないから、そう信じて。」と
彫り込むように刻み付けるようにこうして書き残そうとした
その せつなる思いが胸にせまりました。
人の心は変わりやすく 命は有限、しかし循環するということを
よくよく思い知って生きた人だということが 
わたしにもわかるから、
その人がこのように書いたということが 
いとおしく感じられましたね。

彼の、一般向けの
いわゆるメディカルエッセイ的なもので
日本語訳があるものは
この1か月くらいで どれもがっつり読みました。
とってもおもしろいので
氏の著書はどれもつよくおすすめします。

まー あれですよ、
大丈夫です。

わたしと会ったことがあり すこしでもわたしのことを知る人なら、
わたしがいかに 「理系っぽいこと」全般に弱いかをごぞんじのはずです。
「脳神経科」「医学」
このふたつのワードがわたしの口からでた時点で
「おまえ頭大丈夫か! 熱はかってみろ!!」レベルですよね。
そのわたしが読んだんです 全著作を最後まで。
そしておもしろいと言ってる。
だから だいじょうぶ。
みなさんはぜったいに読めるし、
わたしよりももっとふかく理解できておもしろがれるはず(^^)


「音楽嗜好症」には ひじょうな共感をよせつつ読みました。
どーでもいいけど表紙のデザインがかっこいい(^^) 
こういうのだいすきです。
図書館でかりて読んだあと 自分で新品を購入もしました。
氏の著書の文庫版は どれもハヤカワノンフィクションで
音楽嗜好症とおなじデザイナーさんが手がけたのであろう
表紙デザインのものがほかにもあります。
カッコイイです。
どーでもいいっていったけど やっぱりどーでもよくはないですね。
ルックスがかっこいいことはだいじです(^^)

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あと
「見てしまう人々」

見てしまう人びと | 種類,単行本 | ハヤカワ・オンライン


「色のない島へ」

色のない島へ | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン



タングステンおじさん」

タングステンおじさん | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン




「火星の人類学者」

火星の人類学者 | 種類,ハヤカワ文庫NF | ハヤカワ・オンライン


などなどなどなど・・・・・

ハヤカワノンフィクション文庫に感謝します。
高いけど(^^)!!
まえに
高橋和巳澁澤龍彦バタイユをいっぱい出してくれる河出文庫にも
同様の感謝をよせたことがありましたが。

サックス氏の文章の魅力は、
論理と時制をとびこえる発想。
直観と連想と転換。
文章で書ききれない種類のことを 書いているからですね。
そういうものを見てきたことについて、書いているわけなので。
人の脳の不思議、知覚の不思議。
だからこういうかんじになるのでしょう。
子どもの落書きさながらの熱と 賢者の知性が混交しまくってます。
すばらしい~。
おこがましいにもほどがあることをこれからいいますが、
なんか、こういう自由なスタイルでいいんだとおもうと
自分ももの書きのはしくれとしてはすごく勇気をもらえます。

それにサックス氏の著書は
翻訳もとてもいいんじゃないかなと感じます。
いつも大田直子というかたが担当されているようですが。
柴田元幸氏のポール・オースターみたいに
ブドウのかおりがちゃんとします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、
まえはいろんな 人間のいとなみのなかで、
社会的にうしろゆびさされるようなことについては
わりと杓子定規というか、
ぱきっと 子どもみたいに
「そんなのってありえない!」という
スタンスを示すことがおおかったです。わたし。
ダメなものはダメ的なね。
社会的に認められてないこと、倫理にもとることは
当然、してはいけない。あたりまえだ。
というかんじのことです。

でも、そんなことって 言えんよな。
どこのどいつですか 
そんなつまんないことをまじめぶって言う輩は(^^)
そういう自分がどれほど おキレイだというんですか(^^)
あやまちをおかしたことのない人間なんていない(^^)
そんなことくらいわかっているんじゃなかったのか おまえは(^^)

人の心を檻にいれて カギとかかけておくことは できない(^^)

まったくつくづくまいります。
毎日生きるごとにひとつひとつ 
自分のそういう 心の未熟さにあきれ、
がっくりきますわ。

しかし檻のカギがかかっていないからといって
じゃあ そこから
「やったー! 出ちゃえ出ちゃえ」と
あとさき考えずに飛び出していくか
(出たその足下が地獄の窯だとしても)
いや、慎重に、と
とどまってさらに一考するかを
自分できめられるのが 人、ではあるとおもいます。
いちおうね。
理屈としてはね(^^)。







忙しくてどうしようもない/知識と教養は依存しても困ることはない/JK3とシガー・ロス

こんばんは。
どなたか存じ上げませんが、毎日、ほんとに
多くのかたが このブログを読みにきてくださり
心からありがたくおもっています。
おどろいてます。
1週間に10人もきてくれたら、スゴーイ!という
かんじだったのに、
いったいいつのまにこんなことになったのでしょう。

御身の人生のたいせつな時間を割いて、このような
ブログをのぞきにきてくださって ありがとうございます。
殺風景なつまらんデザインのブログで
まことに気の利かないことですみませんが
どうぞお気のむくまま ゆっくりしていらしてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

暮れにかけて じつに仕事が忙しいです。
なにしろ終わらない! 進まない!
心配ごと、不確定要素がおおすぎて
毎日不安でしょうがなく、仕事いくの気が重いです ほんと。

正直 家に帰ってきている場合じゃないというかんじなんですが
会社にずっと詰めて 朝から晩までろくろく寝ずに机にむかって
なんてことを際限もなくやってると、病みますからね。
体も心も。
そういうことはやっちゃいけないです。
一時期ほんとにそれをやって凝りましたから。
意地でも毎日家にちゃんと帰り、自分の部屋で2時間でも寝て、
新しくつぎの1日を始めなくちゃいけないとおもっています。

それよりなにより、忙しさにかまけて
多方面に不義理をかさねていることになやんでます。
まいっちゃったなあ・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仕事は忙しいですけど 
勉強をしたり本を読んだりをかかさず
いっしょうけんめいやっています。
読む本の種類がさいきん 激変しつつあります。
考えることの内容も 激変しつつあります。
性格とかが変わったわけじゃないですが。
でも・・・すこしだけ、
以前よりも へこたれない性格にはなったかな?
これは読む本が変わったこととは関係がないか(^^)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

人はだれしもなんらかのものに よりどころを
求めつつ生きているもんなんだろうとおもいます。
恋人や家族、ペット、友だち、
趣味とかそういうの、
それから、お酒、買い物、クスリなどなどに
なると 病気扱いにはなりますが、
でも よりどころという意味ではまあおなじなのかなと。
なければ生きることはむずかしい気がします。

わたしの場合、よりどころは、
知識、教養です。
知識を吸収する、教養をえることは
すごくわたしを救ってくれます。
おもえば子どものときからそうだったかなと振り返っています。
それにこのたぐいのことは、吸収してもしすぎることはないし、
むだには絶対になりませんからね。

学問がこの世にあってよかった。
学問がわたしを拒まないでいてくれてよかった。
心からそう感じます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自分のアイデンティティにかかわることについて 
けっこう 真剣におもうところができはじめ、
手探りながら そろそろと 実践にもうつったほうがいいのかな?
とか おもっているところです。
でも、深刻な話のつもりはありません。
いやー どうなんですかねえ。
でもべつに 答えがでなくてもいいのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨今 すきな音楽シリーズ。
身近な友だちとかにはしょっちゅうこの人たちイイ!って話
しているので もう飽き飽きされてるかもしれませんけど

www.youtube.com


やっぱり イイなあ~。
わたしは速い音楽が好きなので
もう「Running」というタイトルと このすがすがしい
疾走感からして この世に生み出されたときからもう
わたしに好かれることが決まってた、みたいな
音楽だとおもいます。
いいなあ。

しかしさきにものべたとおり、
わたしはこのところJK3の話を人にしすぎているので
もう みんな飽きているでしょうから
ほかの音楽も今回はあげたいとおもいます。

これ。

www.youtube.com

 

シガー・ロス
「Olsen Olsen(オルセン オルセン)」

「Agaetis Byrjun(アゲイティス・ビリュン、『良き船出』の意)」
っていうアルバムにはいってます。

あれ、速い音楽がすきとか ついさっき言ってなかった、
ってかんじなんですけど 
気にしない気にしない。

アイスランドのバンドなんですけれど。
アイスランドのミュージシャンというとビョーク
メジャーなんでしょうかね。
わたしビョークもだいすきです。
いわゆるポストロックでしょうかね。シガーロスは。
わたしが知っているくらいだからすでに著名なはずです。
寒いところで生まれた音楽だな、いかにも、というかんじがします。

シガー・ロスでは 
これもしょっちゅう聴いています。↓
疲れすぎてて眠ることもままならないような夜に
まっくらな部屋で音量を極小にまでしぼってかけておいて
ボケーっと聴き流していると、
眠れなくても、心がだいぶやすらぐかんじがします。

www.youtube.com


あと、これも。

www.youtube.com


「Hoppipolla(ホッピポッラ)」
なんかいい。
ひやりとしているけれど優しくて、祝福されているかんじなのが
いいですね。
あと、おもいもよらないところで 聴いたこともないような
音がきこえてくるのも 意外なかんじでたのしいです。
おなじアイスランドmumっていうバンドもそういうかんじですけど。












 

もしもシリーズ:ベーシックインカム

ベーシックインカムをもし日本で導入するならばという話なのだが、

導入するならば、
生活困窮者への継続的な生活支援、みまもりをわすれないでほしい。
さらに、幼児段階から、生活のしかた、お金とのつきあいかたを
おぼえさせるべく、教育をかえてほしい。
みんながそれを学ぶ機会をえられるようにする意味でも
幼児教育から義務化してほしい。

つまりベーシックインカム関連の施策は
ベーシックインカムの導入
生活困窮者への継続的・包括的生活支援とみまもり
幼児教育の教育課程の改革
幼児教育の義務教育化(大学の無償化よりもこっちが先かと)
の4つを一体化、セットでやってほしい。

ぎゃくにいえばそれができないうちは 
ベーシックインカム導入はしてほしくない。

日本まるごと根元から腐らせたいなら話はべつだが。

お金にこまりがちな人は お金だけでなく 
ほかのこともいろいろこまりがちなのであり、
いってしまえばおよそ社会生活をおくることじたいが
壊滅的にヘタクソなのだ、と わたしは考えている。
今月だけどうしても要り用で 貯金にちょっと手をつけちゃった、
みたいなのとはわけがちがう。 

わたしの身近(連絡先をおたがい知ってて会うこともあるような
関係ということ)にはたまたまいないにせよ、
世のなかには ほんとにほんとに かなりまずいレベルで
生活がヘタクソな人がじっさいにいることを
だれもが知っておくべきなのだとおもう。
存在だけでなく そのヘタクソぶりの深刻さをも。

その人は、お金があればあるだけ(なければかりてでも)
一瞬でお酒などに使ってしまい、
「それで今月生活するのだ」というふうに考えることを知らない。
ある意味 けものにちかい生き方をしてる。
単身者だけでなく家族がいる人でもだ。
なんとか依存症みたいな病気とかじゃない場合もある。
ただ、生活のしかたを知らない。

ふつうの社会生活は ふつうの社会生活をおくれるだけの 
基礎的な養育をうけてこそみにつくものだということを
わたしたちは改めて理解しなくてはならない。
教わってないものは身につかない。
大人になってから勉強したかったらどうぞしてくださーい、というものと、
そういうもんでないものとが世のなかにはあって、
お金とのつきあいかたを含む「社会生活」は
「そういうもんでない」ほうのことだ。

社会生活ってのは、人に生まれたらだれでも自然に
できるようになるってもんじゃないわけだ。
自分が知っていることを、知っているようにしか、人はできない。

お金とのつきあいかたを含む一般的な消費生活、
ごくふつうの社会生活、それは、
できない人はほんとにできないし 
できないまま大人になる。

くどいようだが「ほんとに」できない。
その「ほんとに」の内容の深刻さを、
深刻じゃない人たちこそ
ちゃんと知っておくべきではないだろうか。

でないと 国のなにをどう変えようが
その人たちをおいてきぼりにしてしまい、やがて、
「できる人だけ」が生きられるという体制を
積極的におしすすめる国になってしまう。
最初はそれもいいのかもしれない。
ただなりゆきでそうなった、未熟ではあるがとりあえず
やってみるだけだから最初はこれでいいだろうということにして
やった、そんなかんじでおのれをだまくらかして
できない人をおいてきぼりにした事実をわすれたふりも
できないことはないだろう。
あたかも なにかが成功したように見えることだろう。
できる人だけでサクサクやったほうが
なにごともラクにきまっているのだから、
おそらくおおくの国民に歓迎されるはずだ。
でも、
そうして、見てみないふりをしているうちに、
できない人たちは着々と ふえていく。
これは確実だろうとおもう。

ことは、次の世代に連鎖するからだ。

日本は 子どもと若い人がへりつづけており
おじいさんおばあさん、お父さんお母さんの年代が
どんどん増えていっている。

国民全体のなかの生活ヘタクソさんの割合がいまより増える。
べつのいいかたをすれば、
国民ひとりあたりの
「支えなくちゃいけない生活ヘタクソさんの人数が増える」。
ひとりあたりの負担がそうやってずっしりと
こなきじじいのように重くなっていく。
そしてみんな、その状況をかかえて高齢になっていく。
するとどうなるかというと、
わたしがおもうに 
「めんどうみるのがめんどうくさいし実りもすくなくて、支える側がつらいだけ」
だから、
「生活ヘタクソさんに死んでほしいと思うようになる」。

さすがに今生きている人に 「そんなわけなので死んでください」とは
言えないが、
まだいない人に「生まれてこないでください」と
言うことは できるだろう。

「どうせどう教えたって一生できない人に、
その状態でこの社会で生きていってくださいと言うほうが、
本人にとって酷というものだよ。そもそも、
なんでちゃんとできる人たちが、わざわざできない人を
支えてあげなくちゃいけないの?
わたしだってぼくだってそんなに余裕があるわけじゃないなか、
一生懸命まじめに生きているのにさ」。

これは、わたしがおもうに、
優生思想とむすびつきやすい考え方だ。
優生思想そのものは そのなりたち的にみるとべつに
悪い考えかたではない と わたしはとらえているが 
勘違いが起こりやすく、人は弱いから、
自分の都合の良いように拡大解釈してしまい、
結果、まずい心理とむすびつきがちだ。 
相模原の障害者施設で起こった あの19人が犠牲になった事件の背景に 
この思想があったとみられているように。
あの事件は、それだけがすべてでは、なかったと
わたしは想像してるけども・・・。

優生思想は、たぶんいまのわたしたちの手には 
あまる思想であるとおもう。

このように、
「できない人」たちに、合法的にいなくなってもらいたい・・・
と思うきもちが、国の空気のなかに蔓延し始めると、目も当てられない。

蔓延・・・いや、ちがう。
すでに たぶん 国民のなかに眠っている
そうしたきもち・・・
ルサンチマンともふかくかかわっていそうなきもちが
「隠さなくってもいいもの」として扱われるようになり、
はっきりと外にだされるようになってきたら、大変なわけだ。

カッコイイ言葉でいうと 日本の社会に生きる人間としての
最後の矜持を捨てるということなのだが。
つまりおもってても口が裂けても言っちゃだめ方面のことを
言ってしまうということ。
武士は食わねど的精神をかなぐりすてるということ。

こうしたことこそが、先述した、わたしのおもう 
「日本をまるごと根元から腐らせる」ということだ。
そして、それは、わたし個人のかんじでは
すでに、ちょっと、はじまってる。

できる人だけでサクサクやったほうが
なにごともラクにきまっていると さっき書いたが、
これはほんとうにそうにきまっている。
だから、いったん「もうそういうことでいいよね!」と
誰かが言って、それをみんなが受け入れてしまえば、
「できない人は生きられない」国づくりなんて
あっというま、まさにあっというまだとわたしはおもう。

やったことがあるのだし。
ユダヤ人であるというだけで何百万人という人を殺したことがある。
黒人だからというだけで奴隷として働かせた。
ネイティブアメリカンやロマの人たちを差別した。
精神障害や同性愛やハンセン病の人に断種手術を強制したことがある。
在日朝鮮人の人たちを ただそれだけでいじめたことがあったではないか。
われわれは いろんなことをやってきた。

言ってもいい、やってもいいと誰かが言いだし、
そうだそうだという空気があったということにさえしてしまえれば、
こんなことはかんたんにやれてしまう。
そういうところがあるのが人間だ。
時代もなにもかんけいない。
いつでもこうなる可能性がある。
わたしたちは無関係ではない。

でもわたしはやっぱり、それでもいいはりたい。
すくなくともわたしはなんだけど、
国民がその矜持を堂々と捨てる国には住みたくない。
そんなところには怖くて住めない。
なにがおこるかわかったもんじゃない。
「(なにがであろうと)できない人は生きられない」
そんな場所にはわたしだっていられない。

なにせ、わたしだって、できないことばかりの人間だ。
わたしのできない数多くのことのなかのどれが、いつ
「それができない人は 残念ですがこの国では生きないでください」
の条件に当てはまるとされるか、わからない。
たとえば泳げない、
たとえば視力が低い、
たとえば結婚をしていない、
たとえば子どもがいない、
・・・
いまはなんでもない こうしたことが、
足切りポイント」に絶対ならないと、だれにいえる?

わたし以外の人はどう思っているんだろ?

話をひろげすぎと 人はいうだろうか。
でも、
本気で そういったことから、
安易なベーシックインカム導入は まずいと 
いまはわたしはかんがえる。

数カ月まえまではベーシックインカムってなに、っておもってて
「インカム」という言葉から「ベーシックなトランシーバー」みたいな
通信機器的なものを想像してたレベルだったけど・・・。

お金のつかいかた、お金への態度のとりかたが
一般的に想定しうる範疇をおおきく、しかもマイナス方面に
逸脱してしまってる人に、
お金でだけ 生活保障をしても それは生活保障じゃない。

そのお金はすぐ 消えてしまう。
彼らをすこしも活かしてくれないうちに。

お金で生活保障をするのがわるいとはいわないが、
それはお金とのかかわりかたを
ある程度理解している人にとって、の話にすぎない。

お金とうまくかかわれない、またはそうなる危険性が高い人
(お金とうまくかかわれない人の、子ども。)
がどこにいるか、それがだれかを
がっちり把握してサポート体制を構築しないまま
かんたんに施策を導入しちゃまずい。
ベーシックインカムをすでに導入している国のやりかたを
よく勉強させてもらい、けっしてうわべだけ、骨組みだけマネするような
ことがあってはいけない。
やっている国にあって 日本にないもの、なければならないものを
よく確認しておく必要がある。
なぜ実現が可能だったのかをしっかりたしかめ、
なんのための、だけでなく 施行したことによる社会への影響や効果までも
シミュレーションしてほしい。

生活が上手にできない人に、生活するのがもうすこしうまくなるように、
似たようなことで二度も三度も困窮することがないように、
お金のつかいかたと暮らしかたの基本をおしえ、
継続的に支援するという 盤石の用意が必要だとおもう。

ベーシックインカムをもし導入するなら
そこをまずかためてほしい。

つまり包括的支援、 
ようするに福祉、
しかしおおもとをたどれば幼児教育であり、
けっきょく
話がとっぴすぎるといわれるかもしれないが
幼児教育を義務教育化するとこからだと わたしは思う。
なんで幼児から、小学校からではいかんのかという意見も
もしかしたらあるのかもしれないけど
わたしは幼児教育からだろうとかんがえる。
そのわけは また時間があったら書きたい。

人体の不思議

4ヶ月くらいまえに遭遇した事故の影響で 
うまく声がだせない問題をかかえるようになり 
ずっと治療をうけてきました。 
事故前と まったくおなじにもどれた、という実感は 
ありませんが 
筆談せざるをえなかった時期まで あったことをかんがえると 
よくもまあここまで、というくらい 回復できました。
いまや ほぼ なにも困らず。

心因性の、っていったって まず 
心は目に見えません。
頭にものどにも異状がない場合
便宜上 そういうことにする(心因性とみなす)的な部分も
多々あると推察します。そうなると、治療する側も 
これでほんとにこの患者 声でるようになるかなー、
医学的にまちがったことはしてないけど・・・ 
でるかな でるかな みたいな
ヒヤヒヤするとこがあるんじゃないですかね 
程度の差こそあれ。
すくなくともわたしが医者だったら 
けっこう 内心 気が気じゃないと想像します(^^)
だからその意味でも おおむね双方
「よかったね」という結果となり
(半分よけいなおせわですが)ほっとしたというか。

信用できるお医者さんと訓練士さんで 
わたしも治りたいもんで 自分で言うのもなんですが努力してますから
容態が すみやかに好転してくれたのかなともおもいます。

ただ 
すごくよくなったんですけど
人の体ってのはわからんもので 
なぜか じゃっかん吃音ぎみになってます。
さいしょの1フレーズがすらすらとでてこなくて
冒頭1文字を何回かくりかえす、というのが 
不定期に 発生します。

なにこれ(^^) 

すごくよくしてやるひきかえに 
これだけは残してくぞ みたいな
契約上のトレードオフ的なことなんでしょうか。
(どんな悪魔との契約だ(^^))
万事都合よくは いかないもんですね。何ごとも。
でも考えてみると 基本 
「すらすらと」なんて話せたためしがないのが 
元来の自分だった気もする。

きょう 病院にいったところ 
「ほぼ問題ないともいえるので、気にしなければ、
治療をやめてもかまわない」とのこと
ならば まー もういーか という気持ちに
かたむきはじめました。
以前は ぽーんと 声を張れていたから、
それを できることなら とりもどしたい
(プラス 可能ならこの「どもる」のも解消できれば)
 というだけの話なんですけど
これだけのことなら 今すぐでなくても・・・。
ちょっと考えて 治療はもういいやとか まだ続けるわとか 
意思表示する約束をして きょうの通院をおえました。

心と体の連関と反応は ほんとに複雑怪奇、
考えようによってはおもしろいです。
生まれたときから この体なのに 
われながら ちっとも理解できません。
心のどの部分と体のどの部分とがつながって 
なにがどうなってこうなるのか 
っていうことが 起こりまくります。
たとえば、まったく同じできごとでも 前と今とで 
ちがう反応がでる、ということも ありますし
「自分の体のことは自分がいちばんわかっているよ」
よくきくフレーズですけれど
言えるか そんなこと(^^)!!

弾丸京都20171103。

日帰りで京都にいった。

友人に 京都にでかけることを話したところ
自転車を利用しての散策をすすめてくれた。 
トライしてみることにした。

嵯峨嵐山のほうにいった。

JR嵯峨嵐山駅→駅前のお店で自転車をかりる→大覚寺(だいかくじ)→
直指庵(じきしあん)→愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)→化野念佛寺(あだしのねんぶつじ)→お昼ごはんを食べる→祇王寺(ぎおうじ)→二尊院(にそんいん)→常寂光寺(じょうじゃっこうじ)→清凉寺(せいりょうじ)→JR嵯峨嵐山駅前のお店にもどって自転車を返却する→あるく→嵐電嵐山駅→北野白梅町駅→あるく→北野天満宮→ちかくのバス停からバスにのる→四条河原町バス停でおりる→周辺の繁華街をあるく→錦天満宮→(駅の名前をわすれたが)地下鉄にのる→京都駅→新幹線にのって帰る

古都の地名って なんて独特で美しいんだろうか。
書いているだけで心がはずむのを感じる。

おもしろかったこと。感じたこと。


・自転車、快適。
 →さいこうだ。こんな楽しいものはない。しかも早い。
 帰りの時刻がきまっていて みじかい時間でいろいろやりたいが
 自動車の免許はもってないし しかしバスはできれば乗りたくない 
 という わたしのような場合
 自転車こそ最強の移動手段となる。
 歩きではいつも 疲れてしまって
 あきらめちゃうようなところでも 
 あと、車では逆にいけないというようなところでも、
 自転車なら するするといける。
(自転車だからこそいけない、というところも もちろんある)
 次回から日帰りで京都や鎌倉にいくときは 
 積極的に自転車を使いたい。
 ただし自転車は あたりまえのことだが 疲れる。


・次回はぜったいに電動アシスト付き自転車に。
 →電動アシストのないふつうの自転車を選択した。
 ゆるやかではあるが地味につらい上り坂に出会うたび
 電動アシスト付きにすればよかったなーとおもった。

 
大覚寺門跡寺院大覚寺のセミがかわいい。
 →門跡寺院とはお公家さんや皇族のかたが住職をつとめる
 特定のお寺のことだ。
 大覚寺嵯峨天皇がおくさんのためにたてた別荘を 
 あとでお寺にし 皇孫の恒寂入道親王というかたを住職にすえ
 真言宗大覚寺派本山として開いた(876年)もの。
 菊のご紋が随所にみられ 建物は寝殿造
 ゆったり広々とした作り、どちらかといえば簡素なかんじで
 センスが抜群にいい。
 格子窓に 金細工のブローチ大くらいの精巧な
 セミの飾りがついていて すごくかわいかった。

公式サイト↓

旧嵯峨御所 大本山 大覚寺


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嵯峨天皇のご宸翰が美しい。
 →大覚寺では 嵯峨天皇のご宸翰(天皇直筆の書)も見学した。
 直筆の場合、
 ふつう 字は 上下左右のバランスをとりながら
 無意識に 大きさや 次に書く字との距離感を
 変えて書くものだ。
 1行めの3字めに書いた「安」の字と
 23行めの一番下に書いた「安」の字とを
 取り出して並べてみたときに
 ふたつがまったく同じ大きさ、同じ雰囲気の「安」に
 仕上がってることは ありえないということだ。
 けど、嵯峨天皇の字は とってもきちょうめんだった。
 もしかしたら別々の箇所から おなじ文字を抽出して
 並べて見比べても ぜんぶおなじ大きさじゃないかなと
 おもったくらい 統一感があったし 集中して書かれていた。
 たしか聖武天皇の文字も
 フォントか活版印刷をおもわせるほど
 機械的に美しかった という話をきいたことがある。
 昔の 天皇になる人というのは
 当然のことながら当代最高の教育をうけていたはずで
 それは 一般的にまず不可能なことができてしまうような
 ある意味で特殊な人間をそだてるかんじの教育だったのかもしれない。
 まあ 明治神宮の宝物館でみた 明治天皇のご宸翰は
 おそれおおくも
 あんまりきれいな字じゃなかった と記憶してるけども(^^)


・直指庵にくる人たち。仏さまのまなざし。
 →大覚寺の真裏にあたる位置に直指庵がある。
 江戸時代から
 臨済宗黄檗宗→浄土宗のお寺として
 すたれたり復興したりをくりかえしてきた。
 浄土宗のお寺になっておちついたのは幕末ごろとのこと。
 悩める現代人の いこいの場として人気があるそうだ。
「想い出草」なる手作りの和紙飾りのノートが 置かれていて 
 来た人はだれでもなんでも そこに書き込んでいい。
 わたしがいったときは 3冊 お膳の上におかれていた。
 それらをざっとだが 読ませてもらった。
 筆跡が それぞれ ぜんぜんちがうことや、
 書かれた思いのたけや 苦悩の内容の多種多様さに
 おどろかされた。
 けれども、しだいに、
 わたしにはみんなちがって思えるけど、仏さまにとっては
 みんなひとしくかわいそうでいとおしい 
 ちっぽけな子どもたち、
 なんだろうなと 感じるようになった。
 わたしはこのノートには なにも書かなかった。

公式サイト↓

直指庵



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愛宕念仏寺の石の羅漢さま軍団

 →愛宕山という山があり これは「あたご」やまと読むが
 愛宕念仏寺、これは「おたぎ」ねんぶつじと読む。
 この手前の化野念佛寺にのみ行く予定だったが、
 もうすこし坂をのぼると愛宕念仏寺があることがわかり、
 せっかくなので行ってみた。
 石の羅漢さまが何千体もならんでて 
 みんなお顔やポーズが違い、眺めているとたのしい。
 わたしはなにかに耳をすましているらしいポーズの
 羅漢さまが すきになった。おだやかな表情で。
 つい「写真とらせてもらってよろしいですか」と
 声に出しておうかがいをたててしまった。
 撮ったあとは 頭をなでなでしといた。

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公式サイト↓

おたぎねんぶつじ, Otagi Nenbutsu-ji Temple




愛宕念仏寺のカメムシ
 →愛宕念仏寺にはカメムシがいっぱいいた。
 お堂の縁側ですずんでいた美人の女性が、
 「カメムシ超いっぱいいますよ~」と話しかけてきた。
 「お寺で殺生はいかんので踏まないようにしないと」と
 答えておいたが 縁側の床には ふんづけられたらしいカメムシ
 無数のあとがのこってた。
 まああんなにいたら そりゃ踏んじゃうよ。

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愛宕念仏寺にあって興ざめした、なくて寂しかった。
 →お寺の公式インスタグラムアカウントが掲示されていたのが
 やや興ざめだった。
 もとはなにかの像が安置されていたと見られる場所が空っぽだった。
 廃仏毀釈で撤去されたものとおもわれ 寂しく感じた。


・化野念佛寺は特殊。やさしい。
 →化野念佛寺は
 1200年くらい前に空海が開いた、つまり真言宗だったお寺を
 のちに法然が浄土宗のお寺として 開きなおしたものだそうだ。
 空海が 周辺一帯にころがっていただれともしれない遺体や骨を
 ひろいあつめ 彼らを供養するために最初のお寺をひらいたのが
 はじまりであったという。
 化野念佛寺は 相当特殊なかんじのお寺だった。
 見た目が なにしろ異色だ。
 何千という ひざ下くらいのおおきさの
 こけむした石仏、石塔が ずらり8千体ちかくもならんでて、
 それらの真ん中におかれた仏さまが 石塔をやさしくみまもってる。
 石塔はすべて 昔 この化野に葬られていた人たちの
 お墓なのだそうだ。
 化野は昔は、葬送の地だったので。
 死者の係累が死に絶え 供養してくれる人がいなくなるなどして 
 無縁仏になって放置されていたお墓を
 明治時代にお寺と地元の人たちが せっせと拾ってお寺に集約し
 合祀したものという(この合祀エリアを西院の河原と呼ぶ)。
 集めたその意欲に感心させられた。
 お寺さんのこころざしも 
 同意協力した地元の人たちのやさしさも 
 ちょっと 現在だったらあるかどうか。
 西院の河原は撮影禁止だった。写真撮ってない。

公式サイト↓

あだし野 念仏寺




祇王寺大覚寺の塔頭であることとその事情。
 →自転車ですいすい走っても
 大覚寺祇王寺はけっこう離れているかんじがしたが
 祇王寺はそれでも大覚寺の塔頭なのだそうだ。
 (大覚寺祇王寺では両寺の共通拝観券が購入できる。)
 大覚寺でかい!
 とおもったら、あとでパンフレットを読んだところ、
 そういうことじゃなかった。
 祇王寺が明治時代に廃寺となったとき、ご近所さんだった大覚寺
 祇王寺で管理していた仏像やお墓をひきとって
 代理で供養するようになった。
 当時の大覚寺のご門跡は 祇王寺をいつか復建してあげたいと
 お考えだった。
 一方、当時の大物政治家で 祇王寺のなりたち、祇王の伝説
 (平家物語の一巻を参照。)を知って 心うたれた人がいた。
 この先生、「祇王寺の復建に役立てて」と
 自分の別荘を気前よく寄付。
 祇王寺はこの建物をもちいて めでたく復建の運びとなった。
 そして以後、大覚寺祇王寺を塔頭寺院として正式に登録した、
 ということのようだ。
 つまり他人だけれど養子縁組したようなかんじのことだ。
 大覚寺のひろい敷地内の一施設であった ということじゃない。
 大覚寺真言宗なので、祇王寺真言宗ということになる。

公式サイト↓

祇王寺 京都奥嵯峨 「平家物語」悲恋の尼寺 - 京都奥嵯峨「平家物語」悲恋の尼寺として知られる 祇王寺 の公式ホームページ



二尊院の総門と 参道・お堂から受ける印象がことなることの事情。
 →百人一首やら 古い歌集にさんざんっぱらでてくる
 小倉山の、ふもとにある 天台宗のお寺、それが二尊院だ。
 総門がすごく豪壮で、派手なかんじのものなのだが、
 中に入ると、すっきりひろびろとして、
 どちらかというと女性的な雰囲気のお庭に
 いかにも京風のお堂 という 印象のギャップがふしぎ。
 京風とかんじたのも、あとでパンフレットを読み返すとなっとくで
 本堂外観は京都御所の紫宸殿のデザインを模していて
 内陣も御所のお内裏のそれと同様につくられているんだそうだ。
 明治にはいるまでは 勅使による参詣もおこなわれており、
 旧摂関家菩提寺にもなっていて
 お公家さんとのつながりが深いお寺とのこと。
 なるほどなあ。
 でも、それは、中の雰囲気が京風であることの理由であって、
 総門と中の雰囲気がちがうことの理由とは 関係ない。
 総門だけ 印象があまりに異なるのは
 作られた時代や縁起が ちがうからかもしれない。
 と おもって調べたら 事実そのとおりで、
 総門は イケイケ大商人の角倉了以が 江戸時代に
 廃城となっていた伏見城の門を 移築したものだそうだ。
 二尊院の本堂再建はその100年くらいまえみたいだし
 再建にあたってデザインを一新した とかいう情報はないから
 承和年間の開山当初のデザインが継承されたとおもわれ
 そのときから一貫して「もちろん京風に」との意識だったはずだ。
 でも伏見城は 秀吉が建てたお城なんだからな・・。
 総門との印象のギャップだけはちょっと気になったものの、
 わたしは今回の京都行でみた お寺のなかで
 この二尊院がいちばん美しく感じ、だいすきになった。
 総門から続くひろく長い参道は
 紅葉のシーズンには いっそう美しさを増すことだろう。

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公式サイト↓

小倉山 二尊院|トップページ



清凉寺は秘蔵の仏さま出血大公開サービスキャンペーン実施中
 →清凉寺が あんまり人気がないといわれるのは
 たぶん京都御所の「清涼殿」と同名なのに
 別もの、というのの ちぐはぐ感がなんとなく・・っていう
 程度のことじゃないかな。
 清凉寺じたいには なんの好かれない理由もみあたらない。
 雰囲気のいい すてきなお寺だった。
 宝物館である「霊宝館」で
 国宝の「阿弥陀三尊」像などが特別公開されている。
 いまのシーズンは京都全域のおもだったお寺で
 こうした 秘蔵のお宝出血公開キャンペーンが実施されている
 ようだ。なかには何百年に1回ご開帳があるかどうかという
 ものもあるとか。
 「阿弥陀三尊」像は 入ってすぐ、左側にいさぎよくドーンと
 おかれていて大迫力だった。
 釈迦十大弟子像もみられ、アーナンダとサーリプッタ
 表情のちがいがたまらなかった。

公式サイト↓

HOME | 清凉寺(嵯峨釈迦堂)




・お昼を食べたお店のご主人の グチがスゴかった
 →化野念佛寺をみたあと、祇王寺にいくまえに
 とおりかかった洋食喫茶店でお昼にした。
 ほかにお客はほぼいなかった。
 そこにあとから大所帯の外人さんグループが来店。
 言葉は さっするにドイツ語だった。
 うち4人は7~9歳前後の子どもたち。
 彼らは10分くらいお店にいたとおもうのだが、
 子どもたちになにか飲ませた以外は
 ほぼなにもオーダーせずに水だけ飲んで帰っていった。
 あとでご主人が食後のコーヒーをもってきてくれたとき
 「外国の人は自分の都合だけをかまわずおしとおしてはばからないし
 ものすごくいろいろ困らされる。迷惑だ。」
 ということを
 相当くちぎたなく グチってきたのには驚いた。
 具体的に あの国、この国の人がいちばんキライ、
 でもどこそこの人は話がわかる連中で迷惑したことがない、
 テレビなどの影響でみんな「迷惑な外人観光客」というと
 アジアのどこそこを思い浮かべるだろうが
 自分にとってはかれらはかわいいもので、
 いちばんきらいなのはうんぬん・・
 あと、日本人でも 他県の出身なのに京都に引っ越してきて数年で
 京都人を名乗ったりする人も 自分にとっては京都人ではないので
 きにくわない
(これ外国人観光客の話と関係なくない(^^)!?)
 ・・・
 いさぎよいまでにストレートな グチのオンパレード。
 京都のサービス業にたずさわる人の
 生の声をきいたのはこれがはじめてだ。
 正直おどろいた。おどろいたし、
 こうまで心をひらかれても わたしとしては
 気分のいいものではなかった。
 でもよっぽど 腹にすえかねることが 毎日 あるんだろう。
 それはわかる。 
 言葉の壁 文化の壁ということをしりながらも やっぱり腹がたち 
 じっさいに これはできる、でもこれはできないと はっきり
 お客にいわなければきりがないという現実と闘っていることも。
 このお店の おとなりにある 着物レンタルのお店は、
 やはり「外国人の観光客のあんまりなところ」にこまりはて、
 会員制にふみきったとのことだった。
 まあ でも グチをきかされた身としては めいわくだった。
 「あちらさんは知能指数が低いから」とか
 「頭がおかしいから 郷に入りては、ということを知らない」とか
 そういう言いかたをしていたことも 下品であると感じた。 
 正直なところがっかりだ。
 だが お店の料理はおいしかった。
 コーヒーも。
 また きたいと おもうほどだった。 
 せつない・・



京都行をおえて
全体の感想としては
とりあえず当日の夜からもう 筋肉痛がスゴイ。
しかも、自転車にのったので、足が痛くなるのかなと
おもっていたのだが、
意外にも足の痛みはそれほどひどくなく、
脇腹、背中、腰、首のうしろなど
上半身、体の「うしろがわ」を中心とする筋肉の
痛みがすさまじい。
自転車に乗ると こういうふうになるんだったか・・。
ふだん乗らないからすごくめずらしい体験をしている。
けど あしたにはよくなってるだろう。

京都に行くといつも例外なく
美しいものが見られ、たのしいことがあり、
以前にいったことがある場所でもまた新しい発見があり、
そしてかならず 心が洗われる。
京都がすきだ。
また会いに行きたい。
京都もわたしに会いたいとおもってくれているとは
とくにおもえないが(^^)

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閉まる直前に行った北野天満宮
お守りを購入し 絵馬をおさめてきた。
夕方から夜にかけての神社ってだいすきだ。


 
 







  
 
 
 
 
 

交友関係を整理したり整理できなかったり/GUIROとフィッシュマンズ

たいへんすぎて血尿がでる 
そんな昨今。
ちょっとまて。血尿はまだ早い。
いつも12月中旬くらいのはずだ。

だが毎日 いっしょうけんめい いろんなことをやってる。
おかげで気分がいい。
コーヒーを飲みすぎてしまってるのは
よくないのかなあ、というかんじがする。
こんなに コーヒーを 飲むようになるつもりはなかった。
コーヒーって、クセになっちゃうんだなあ。
よくないかもしれない。
飲む回数をへらしたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

雨ばかり降るので 気がめいる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

きょう ラジオ番組のゲストとして 
倍賞千恵子さんがでてた。
とてもかわいらしく、すてきな人で だいすきになった。
倍賞千恵子さんがでてる映画も今後 積極的に観たい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

交友関係を考え直し、
かなりおもいきって 整理していっている。
自分勝手だと そりゃおもわなくもないが、
しかたがないことだともおもう。

率直に言うと やや 疲れた。

だが そのくせ、
継続してもどうしようもない、
なにか残るとすれば「自分の心が参っていく」ことだけだと、 
頭では理解できる関係でも それでもおわらせられなくて、
保留、というのも 正直いうとちょっとある。

まだ信じていたいというか、
まだ なにか方法があるのでは みたいな。

でも終わっているはずなのだ。
すごくかなしいんだけれど。

表面上はなにがあったでもない。
うまくいえないが 役目を終えたというか・・
できることはもうなにもない、
どんなに確認しても。短いあいだだったにせよ。
むしろ 今 終わったことは
今後のためによかったとさえ言える。
続けたとして なにがあるというんだ。
だが
だれあろうわたし自身が それを受け入れられないでいる。

継続しても それだけで心が傷つくことは必至だが
切れば切ったで 今度は切ったことに傷つくだろう。
だから わかってるけど、いまはまだできないってかんじがする。

それに、
一度むすんだ縁を 解消するのも、
「解消し続ける(こんりんざい関わらない)」のも
はんぱな覚悟じゃ まず不可能だ。
相手がいる以上
自分の覚悟だけでは どうにもならないというのもある。
人の縁って ずいぶんだ。
むすんだ以上は ほどいたその最後まで、しかも最悪まで、
すべて自分で責任をもつ必要がある。

自分がおもってることと 相手がおもってることが
どの程度までかさなってることか、
またはかけ離れていることか。

相手のことをおもえば、
それこそなにもなかったってふりをして 
先にすすめることも できないことはない。
むしろそんなの案外 簡単だ。
けっこうなんでも まあ長くても3年くらいもすれば
状況は変わるものだから
今はこんなに迷って苦しいけれども
3年も経ったらどうか。
そのときはもうこんなことで苦しんでないかもしらん。
だが ふりはできても・・・、
自分の心を だまくらかすことはできんわなあ。

生きていくことはほんとにむずかしいよね。

すくなくともわたしの心は
人のすることによってしか傷つかないし、
人によってしか救われない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このまえにひきつづき
おしまいにひとつ 
自分が愛してやまない音楽、音楽家を紹介してみる

このまえ海外の昔の人だったから 今日はこれ

www.youtube.com


GUIRO「エチカ」
「Album」(2007)収録

公式サイト↓
(正直とくになにも めぼしいことは 書かれていない(^^)!)

GUIRO OFFICIAL WEB SITE


GUIROは日本のグループだ。ギロと読む。
なんでこの人たちを知っているのか 忘れた。
知ったのはずいぶんまえのことだ。
正直言うと いまも 
グループの概要すらよく知らない。
たぶん4~5人の基幹メンバーがいて、
場合に応じてオプショナルメンバーがはいり、
パフォーマンスをしているんじゃないかとおもう。
フルアルバム、1枚しか出てない。
「Album」っていうタイトルのアルバムだ。
新譜、めったに出ない。
名古屋で今年のはじめ ライブをやったみたいだ。
フィッシュマンズのトリビュートアルバムに参加してる。
とってもいい。

たしか まずフィッシュマンズがすきで、
それでトリビュートアルバムでギロを知ったのかもしれない。
フィッシュマンズをなんで知ったかも 忘れたが(^^)。

旋律といい音楽的な構成といい
なんだかものすごく複雑なのだが、それが
聴きやすくキャッチーな方向に 
ダラダラと時間をかけて
なんとな~く いつのまにか収束していくところが 
聴いていて妙にたのしい。
いつまででもやっててくれていい、
ずっと終わらないでほしいという
気持ちになるし、
何回聴こうとあきないのもいいところだ。
ずっと終わらないでほしい というのは おもに
フリージャズとか聴いているときに いだく気持ちだ。

夜中に仕事するときなんかに ごく小さい音でかけておき
聴きながら作業をしてる。
音楽がけっして粗くならないところと
意味がありすぎないところ、 
質感がひんやりして まとわりついてこないところが
「ながら聴き」によい、という気がするな。

フィッシュマンズのトリビュートアルバムの
ギロの演奏はこれ。

www.youtube.com


GUIRO「MAGIC LOVE」
「SWEET DREAMS for fishmans」(2004)収録

このアルバムももう何百回 何千回と聴いてる。
UA、曾我部恵一、SAKEROCKカセットコンロス
自分が好きな人ばっかり ぜいたくに参加してる。
フィッシュマンズは、ボーカルとギターを担当してた
佐藤伸治さんが亡くなったことにより、99年に活動を休止した。
こうして トリビュートがでたことからもわかるように
一般のファンだけでなく ミュージシャンからも愛される
ミュージシャンだ。
たしか12~13年くらい前にゲストボーカルで
復活ライブをやってたかな。
しかしながら、
佐藤伸治さんが ほぼぜんぶの曲の作曲と作詞を
手がけていたことを考えると・・・。

フィッシュマンズがいなくて心からさびしい。

※ちなみにオリジナルの「MAGIC LOVE」はこんなかんじ

www.youtube.com




ご興味があったらぜひ聴いてみていただきたい。