BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

「リーダーズハイ」とかあるの(^^)?

ちょっと新規事業に
片手?片足くらいつっこむことに決めており
それが始動する10月が
はやくこないかなー、と
いまや 待ち遠しくてしかたがない。

来月に備えて
事前に目を通すことが可能な本については
すすめられたもの、
自分でこれかなーとかおもって適当に買ってみたもの、
図書館の書棚の はじからはじまで著者名順に
かりまくっているもの、
すでに着手しており そして あと2週間くらい?で
とりあえず一巡する。

本を読むことがこんなにおもしろいとおもったこと
これまでなかった。
とか言うと
わたしをよく知る人たちはきっと
「は????????!!!!!!!」
っていうリアクションをするだろう。

わたし自身もこんなふうに 自分が感じてることに驚いてるが
しかし おもしろいもんは おもしろい。

本を読むのがおもしろい(^^)!!
なに このきもち(^^)!!

いままで 「おもしろいから」という理由では
本を読んでなかった。
あらためて考えたことさえない。
おもしろいからという理由で友だちとつきあってないのと
だいたいおなじような意味で。
しいていうなら
読んであたりまえで 生活の一部だから 読んできた。
それか 仕事で必要だから 読んできた。

内容がおもしろいおもしろくないは 個別にもちろんある。
でもいま 言っているのは
読書それ自体がおもしろいかどうかの話で、
とにかく 
すごく新鮮に、すごくゆかいなきもちだ。

わからなければ何回でもおなじところを読み返せばいい。
1ページ読むのに5時間とか かかることもあっていい。
そんなことはだれにもなにもいわれない。
速く読むこと、大づかみにしてつめこむことが
仕事ではとにかく要求されるため
本の読みかたが(もともとザツなうえに)すごくザツに
なってしまってたみたいだが
今は 心からおもしろがってて
だから逆に 平時のさらに1.5倍速くらいで
すいすいいける。
わからないことがわかるのがたのしい。
知らないことを知れるのもたのしい。
内容を理解するまでの道のりがたのしい。
活字を追うこと。
わかんない単語を辞書でしらべること。
それらが頭にしみとおってくるのを感じること。
たのしくてしょうがない。
いくらでもいける。
しょせんベースが自分では 
それがどこまで実効につながるかでいえば
たかがしれてるのかもしれないが
こんなおもしろい思いができるとわかっただけで
しかも読書なんて 自分にとってあたりまえの行為に
新しい発見があったというだけで
もう ねがいの3分の1くらいはかなったようなもの、
えらい収穫 っていうかんじがする。

わたしはいま 本を読むとき 
確実に顔がニヤニヤしている。

ほんとうはもっと
いろんなことやってみたい・・・
でも 周囲は 最初はとりあえずやめとけ、
慎重にいけ、自重せよと 
異口同音にわたしに言う。
人さまのアドバイスが耳にはいってくるうちは
ちゃんと聞いといたほうがいい、というの
もちろん 
経験上 骨身にしみている。

体力的なことも考えにいれておかなくちゃいけない。
いまはさいわい めずらしいほど平穏無事だが
たとえば 秋が深まりもっと寒くなってきたらどうか。
そんなにめちゃくちゃ丈夫な人間てわけではないことを
ちょっと調子にのると すぐ わすれる。

だいじなのは 自重の精神だ。
最初はそれでいこう。
いちおうわかっている。

「三度目の殺人(2017)」の感想と解釈(ごく一部のシーンについての)。

※公開中の映画の内容に触れていますので ご注意を。





ダンケルク」4回めも およそ褪色ということをしないおもしろさだった。

とはいえ ダンケルクばかりでもなんだ。
もう1本 みたいとおもっていた映画をみた。

三度目の殺人
是枝裕和監督、2017年、日本)

movie.walkerplus.com

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主人公は重盛という刑事専門の弁護士(福山雅治)。
たのまれて やむなく 死刑がほぼ確実視されている
(弁護側にとっては不利な)案件を引き受けることになる。
被告人は三隅(役所広司)。
勤め先の工場をクビになった直後、
工場長を川べりに誘い出して殴り殺し、
ガソリンをまいて死体を燃やした。
被害者の財布も盗んでいる。
自白ずみ。
三隅は30年前にも殺人をやっている。
もう1件やったとなっては、しかも金目当ての強殺とあっては
死刑でまあかたいのだが
重盛は引き受けた以上は というので
無期懲役狙いで 事件を調べ始める。
三隅は どこかおかしな男だ。
会うたびに その供述が二転三転し、
そもそも 動機もはっきりせず
なにを考えているのか わからない。
しまいに三隅は 
殺害は、被害者の夫人(斉藤由貴)から頼まれてやったこと、
と 新事実をほのめかし始める。
被害者夫人と不倫関係にあり、
工場の経営状況がよくなかったので
保険金目的で被害者の殺害を依頼されたというのだ。
それがたしかなら被害者夫人が 殺害を指示した主犯と
いうことになり
三隅の量刑が軽くなる可能性は でてくるのだが・・・。

そんななか、被害者の娘・咲江(広瀬すず)の存在が
突如クローズアップされてくる。
じつは三隅と咲江には、交流があった。
重盛はふたりの関係を探っていくうちに、
ある重大な秘密にたどりつくことになる。
三隅はなぜ工場長を殺したのか。
本当に工場長を殺したのか。
彼がやったのでないなら 誰がなぜ殺したのか。
三隅のいうことのなかでどれが本当でどれがウソなのか。
真相をつかみだすため 被告人の心に迫ろうとするうちに
三隅がかかえる大きな闇にのまれていく重盛。

・・・・・・・・・・・・・

<感想>
たぶん是枝監督の作品のなかでは
あまり多くの人には 好いてもらえないほうのやつだろう。
クライムサスペンスのようでありながら
だれがやったか、なにがなされたか、なぜなされたか、
ではないことを表現してた、
法廷を舞台に。 
そうである以上 
好かれないことがあってもしょうがないんだとおもう。

わたし自身の関心事にほぼ等しいことが、
だいすきな映画監督の手によって 
このタイミングで こうして映像化された、
という事実に
終始驚きながら観た。

しかし おなじことでも人によって感じかた、
表現のしかたがほんとにぜんぜんちがうもんだな。

おもに反射を利用したシャドーの表現が、
きれいだったし、うまかった。
どちらがどちらのシャドーなのかについてもふくめ。

さいしょは、「三度目の」ではなく「三つめの」のほうが
適切なんじゃないかとおもったが、
自分の理解のまちがいにあとで気づき、
三度目の、でよかったと考えなおした。
でも 三度目の殺人が どれを指すにせよ
前の2回とはやっぱりあきらかに
質がちがうとおもうけどな。

役所広司福山雅治斉藤由貴が光ってた。


・・・・・・・・・・・・・

<自分なりの解釈>

咲江は父を殺してないと わたしはおもう。

さいしょは、
咲江にもなにか 贖うべき罪があるらしいことを
確信してた。
というのも、
まず、
物語のなかで印象的につかわれるマークとして、
十字架があった。
三隅・咲江・重盛の3人で雪遊びをするファンタジー的シーンで
彼らが地面にねころぶ姿を 上空からとらえて
いたのだが
重盛が「大の字」になっていたのに対し
三隅と咲江は両足をとじて 「十字架」の形でねていた。
そのシーンは 
まだ、三隅が工場長を殺した線で疑いない、という段階で
でてきた。
だから
十字架=殺し=罪 だと そのときは理解した。
あとから咲江をめぐる ある事実があきらかになったとき
じゃあ 咲江もあのシーンで十字架の形で寝てたから、
彼女もなにか罪を犯したんだな。 とおもった。
でも、
あの十字架がなにを意味してたのか
死なのか 罪なのか 贖いなのか 
なんなのか
いろいろ可能性がでてきたな! 
と考え直すことになった。
いろいろというか 正直なところいうと
「十字架」=「死」
じゃないかとおもってる。
「罪」じゃなく、「贖い」でもなく。

なぜかといえば
それは作品のタイトルの意味を考えたときに。

三度目の殺人」が意味するものが
三隅の「死刑を利用しての自殺(死にたい)」 
だとすれば
物語における「十字架」は
イエス・キリストの前からの
十字架の意味であるところの
「死」、とおもえた。
つまり
「三隅も咲江も罪を犯した」という意味での十字架ではなく、
「三隅も咲江も(それぞれの理由で)死を求めている/死者(同然である)」
という意味での十字架。

「生まれなかった方が、その者のためによかった」
という言葉が聖書にあったとおもうんだけど・・・。
イエス・キリストがユダを指して言ったんだったかな。
あ、マタイによる福音書みたいだ。

生まれてこない方がよかった人間だと
三隅は自分のことを思っている節があった。
咲江も 幼時はそんなこと思ってなかっただろうけど
14歳を境に そのくらいおもいつめてもしかたのない日々を
強いられるようになったことが わかっている。

十字架の意味がイエス・キリストより前のものなら
生まれてこない方がよかった、またはそれに類する作中頻出のワードを
イエス・キリスト以後とつなげるのはおかしいのかなあ。

でも、
もし仮に あの十字架が 罪を表すものなら、
小鳥のお墓に十字架つけないとおもうんだよ。
死を表すものならば、
被害者の死体をわざわざ十字架型にととのえたのと
小鳥のお墓に十字架を付したのが わかるんだよね。
くわえて、
十字架イコール贖い、赦し(あなたの罪はゆるされた)だとなると
被害者の死体を 十字架型には意地でもしなかったはずだ。
三隅がやったのだとしても、咲江だとしても。

まあ わかんねえけども(^^)

きっと
何度も何度も何度も何度も変えたんだろうな、脚本。
こうやって 観る者に考えさせるために。

たぶん正解とかないから 
わからないね(^^)

また、
三隅のあまりに多面的なキャラクター。
自己韜晦なのか素なのか。
発言とその意味との狂的変動。
ヤバそうに見えるが まともにも見える。
人を殺すけれど守ろうともする。
あこがれるけれども侮蔑してもいる。
救いたかったのか、助かりたかったのか。
彼がどうしたかったのかもあるが
まわりが彼をどう見たいかも からむ。

これらをはっきりさせることも難しいことに
あとで気がついた。
つまり三隅とは結局こういう男です、と
わかりやすく評価することはできないし
そうすることにあまり意味がない、という点こそが
この物語のポイントであるのだ。
なぜなら両立するからだ。
真逆の思いもひとりの人間のなかで両立する。
もちろん、段階により境遇により、
いろんな思いのどれかひとつが 
一番だいじなもの、というかんじで
当人を形づくるように見えることが おおいのだが。
両立し、表に見える面が くるくる変わるから
見えかたも変わる。まさに千差万別ということになる。
本人が見せたい表面と まわりが見たい表面とが
マッチすればまあ・・・
「自分はこういう人間=この人ってこういう人」
と 一応なって、オーライ。なのかなあ。
それもちがうか。


三隅が一羽だけ逃がしたという鳥は
咲江、だろうなとおもう。
退廷していく三隅が、
傍聴席の咲江には目もくれず、
両の手のひらを お椀形にして上にむけ、
いましも そこに包んだ小鳥をはなったように
中空をみやる姿が印象的だった。

容疑者Xの献身の あの数学者のように、
彼のなかでは 今や咲江だけが、
光であり華でもありえた、と
一応 いえる。

でも咲江のことも、
三隅にとって いつも最重要事項でなかったとしても
べつに おかしくはないわけで、
変わるのだ。人は。

三隅は控訴しないんだろう。

咲江も闇が深い女の子だ。
広瀬すずちゃんは
そう おもわせる演技がすごく上手だった。
自分がやった罪を他人がかぶってくれている、というとき
そう平気でいられるもんじゃないだろう。
それもあって わたしは一応 
咲江はやはり父を殺してないはず、とおもっている。
だが 殺しててなお あのように平静でいられる子、
と おもわせなくもない演出だった。

彼女が北大志望であることをにおわせてたが
志望校を母がまだ知らない設定にしておいたほうが 
よかったんじゃないかなと わたしはおもう。
北大進学は 咲江の 生きよう、という最後の意欲のあらわれに
ほかならず、そこにはギリギリまで 母がからまなかったほうが
よかったかんじがした。

咲江は 法廷でついに話さなかったあの重大な秘密を
このままずっと だれにも明かさないでいくのだろうか?
それで彼女が救われるのか気がかりだ。

咲江の足のハンデの真相が
「生まれつき」なのか
「高所から飛び降りたことによるケガ」なのか
が ゆれたままなのが やはり少し気になった。

ほんとは飛び降りたのに生まれつきとウソをいうなら
なにかわかる気もするのだが、
生まれつきなのに 飛び降りてケガをしたとウソをいう、
というのは解せんな と。
どちらのウソも 状況が状況なら無意味なのだが。

しかも咲江は「え? ウソじゃありません、
ほんとに飛び降りたんです」。

「ほんとに飛び降りたんです」。
そもそも飛び降りたのはなぜ。

うそを言う子キャラ というブラフってことでいいだろうか。
うそを言う子も ほんとうのことを言うことはもちろんあるし。

まだまだほかにも
理解のしようがありそうだ。

小説を読む気にはならないが(^^)
こういうとき小説を読むと
小説がほんとにつまらなくおもえてしまうんだよね。
何度それで悔やんだことか。

三度目の殺人
もう1回くらい みようかなあ。
もう1回観たら観たで 先入観がはいってしまうからなあ・・
答え合わせみたいなことはしないつもりで
虚心に観られたら一番なのだが。


「ダンケルク Dunkirk(2017)」3回め。

ダンケルク
Dunkirk クリストファー・ノーラン監督
2017年、英・米・仏・和蘭

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午後から予定があったから
ものすごいムリな早起きをし 
低血圧と頭痛のなか 3回めを観てきた。
3回めでも少しも飽きない。
衝撃は薄れない。
むしろ飽きたその先に見えるものが早く見たい。
飽きるまで何度でも観たい。
よくよくふりかえると
観ているあいだ なんの言葉もおもいうかんでない。
自分がどんなふうに 身じろぎをして
いつ足を組み替えているかとか わからない。
すくなくとも自覚できるかぎりでは
やばいくらい無心にちかい状態で 観てる。


だが
3回めにしてトム・ハーディが出てることに気づいた。
出る映画出る映画 ぜんぶ顔がちがう気がする あの人!
隊長の声がたぶんマイケル・ケインであることにも
3回めでようやく気づいた。
キリアン・マーフィの眼があいかわらず美しい。
どうしてもあの眼の青色、見せたいね、監督!
キリアンの役どころがどうも謎。
考えればわかることのような気もするから考えてみたい。
エンドクレジットとかに答えがあったりするんだろうか。
つぎはオペラグラスを持って行って 
細かい字に目をこらしてみたい。


わたしはすっかりこの映画に恋をしてる。


戦争を描くというのではなく サバイバルを、
生き残ろうとする行為そのものを描こうと
しているところが ほかの戦争映画とかなり違うようにおもう。

キャスト自身、「自分が生き残れる役なのかどうなのか」を
わかってないで演じているのでは、とおもわせるくらい
残酷で、かつ うすらさむいほどリアリスティックだ。
登場人物が、
「自分は最後まで死にませんよ」
「ぼくはこの次の爆撃にふきとばされて死にます」
といったように
自分の結末をわかっている。ってことが、
観客にバレてしまう物語ってのは もちろんいけない。
台本があるのだから 役者は自分の役がどうなるのか
わかっていてあたりまえなのだが、
役者がわかっていても、
物語の登場人物たちが ちゃんと 自分の未来が
わかってなく見えるように
演じられてるかどうかということ。

ダイ・ハードマクレーン刑事が
殺しても死なない男であることをわかっているのは
観客だけでなくてはならない、のとおなじで、
その逆もまたしかりであるとおもう。


リアルだ。
でもちゃんとフィクションで
ちゃんと最終的には物語だ。
ちょっと 古い英国文学・・・バイロンみたいな 
ああいうのを感じさせるような 
きどったセリフとか ふいに入れてくる。
セリフがほとんどないうえに 
ほぼ飾りっけもへったくれもない業務連絡ばかりのため
そういうセリフだけ はっきり浮いて聞こえるのだ。

「いやあ、物語なんですう。すいませんねえ(^^)」。

耳元でささやかれて一瞬正気にかえりかける
そこまで含めて 
わたしは監督の てのひらのうえだ。


血があまり描かれない。
状況的にはちょっとした湖ができるくらい流されているはず。
流血シーンのたび バカ正直に「赤」を出してたら
画面にまんべんなく色彩がでてしまうから
血はもういいや、と、避けたのかなとおもう。
色彩をだしたかったのであろうポイントが明確に用意されてて、
だからこそ 痛みをともなうほど効いてる。


それは音楽も。
あの音楽。
時限装置みたいな時計の音。

怒る人は頭がいい人だと思ってた/羽生善治さんすごい/新しい道に。

わたしの上司は
なんの誇張もなしに言って
へたな 893者よりもよほどおっかなくて、

はいったばかりの新人さんが
しこたま どなられまくった結果
今日から ふっつり
会社にこなくなってしまいました
イヤ すさまじかったからな。
まったく。
連日 台風直撃レベルのやつでした。

わたしは怒りの感情表現ができる人を
基本 尊敬してます。
自分に自信があるから怒れるんだとおもって。
自分の意見の正当性に自信があるから
怒るという、人にもっともイヤがられる表現手法を
とることもいとわず それを主張できるのではないかと。
それに、怒るって、ある意味スピードだから、
頭の回転が速くないと
できないんじゃないかなとおもうんです。
だから、
怒っている人は、そりゃ怖いんだけど、
一方で、この人はほんとうにスゴイ人なんだなあ、と感じます。
基本はね。
でも、上司をみていると、
というか
怒っているいろいろな人を いろいろな場面でみていると、
「そういう怒りかた(尊敬に値する怒りかた)」
じゃない怒りも
あるっぽいな、と気づかされます。
怒りの発露のしかたではなく
なぜ怒るのか、のほうのことだとおもうんですが。

怒りとは もっと広く深く細分化して
考えなくちゃいけないことだなと 気づきました。

さて、話をもどして、
新人さんは、
ふたり。
そろってこなくなってしまいました。
実働でおよそ 勤続40時間。
即日退職も すこしもめずらしくないなか 
よくこらえたほうだと確実にいえます。
ひとりは30代でそれなりに社会経験もあってなお、だから
よっぽどだな、ってかんじだし、
また、社会経験があるからこその迅速な決断だろうとも。
もうひとりは20代、
毎日泣いてました。
自分は毎日 肩をぽんぽん 頭をなでなでしてました。

こちらとしても無論 傍観はしたくないが
しかし なにしろいそがしい
「最近どうよ」とお酒でものみながら・・
とか きちんとやってあげるよゆう なし。
というかそんなことをしてさしあげる前に
去られてしまったわけです。
無念。無力。力いたらず。
こういうのいつまでたってもダメで慣れないわたしは
みおくるたびに内心 かなしまずにいられません
が、
じっさいのとこ
耐えるだけ時間のムダという考え方もあり。
つらいのをがまんしてでも、・・・かどうかっていう
ラインは 本人が決めるものです。
そのラインを自分で正しく見極める力を、失ってからでは遅い。
わたしは その力を一定レベル以上 保持しつづけることこそが、
この社会を 社会人として生きるうえでの必須事項ではないかと
考えます。
知力、一般教養、コンピュータの技能、語学力、
コミュニケーション能力、計算力、身だしなみ、
人間性、人脈 そうですね・・あと 要領の良さとか?
なんでもいいのですが ・・・
一般に社会人ならコレ持っていたいね、
といわれる もろもろ
なにもかも そういうのは まったく表面的ですよ。
二の次、二の次。
畢竟、
(各個人レベルで。そして心身ともに、)
いかに ベストに近い健康状態を できるかぎり長くキープして 
存在していけるか。
何かのときに迷わず一歩 新たな行動を起こすための
体力・気力、ほんのちょっと。
必要なのは こういうのではないでしょうか。
だって・・・ それらを欠いて 
いったいどうするというんです(^^)?
逃げるが勝ちというときもおおいにある ことになります。
逃げる、なんていうから 悪いことみたいにきこえますが
まったく 悪くもなんともないっすわ。
ほんとの意味では、わたしには
彼らの人生の いかなるジャンルの「責任」も
とってあげられはしない。
どの新人さんも みんなずっといっしょに
仕事をしていきたい とおもって教育するので
こういうことがあると 毎度初めてかのように
自分は落ち込んでしまうんですが
それぞれの道で、自分の判断を信じてやるしかないのですわ。
まあ わたしはあきらめることなく
もっとマシで効率的な教育方法を考えてみるつもりでいます。

上司のスタンスを
「変える」ということは わたしにはできないから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

台風といえば 
台風が接近しています。
こういう激しい荒天 天候の急変が近づくと
いわゆる天気痛とか気圧痛とか ああいうものなのか
重い頭痛に悩まされることが多いです。
とおい過去にやった骨折とかそういう
自分の体の弱点という弱点が
ふだんはおとなしくしているのに
一気に暴れだすこともあります。

でも気象予報で事前にだいたいわかるから
むりしないで休み休みやるとか
前日とか数時間前に薬をのんでおくとかすれば
まあかなり大丈夫。
そううまくいかないことも多いけど。
今回はどうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

将棋の羽生善治さんがいかにすごいかを
最近ようやくそこそこ理解しました。
将棋のすごい人、という認識しか
なかったのですが
なにがどうだからすごい人なのか の部分を
ある程度のみこみました。
すごい人です(^^)
羽生善治さん以外にも強い棋士がたくさんいることを
同時に知って どの人の経歴にも強さにも感嘆したのですが、
どこかのサイトでみた 次のようなメッセージ
「仮に
将棋星人みたいな 将棋がめちゃくちゃ強い異星人が
地球に襲来して、
地球代表と対局して 勝ったら地球をもらうぞと
いってきた場合(そして断れない場合)、
地球代表はやっぱり 
言っても羽生善治さんじゃないとイヤだろ。
ほかにも強い棋士いるけれど 羽生さんじゃないと
こういうときはイヤだろ。
羽生善治がたいして強くない とかいうやつは
地球規模で考えろ。」
よくわからないようでなんとなくわかることが
言われており
笑いました(^^)
それ むしろ
羽生善治さんじたいがもう
「将棋星人」ってことでもいいのでは(^^)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

10月からちょっと
新しい道に ふみこんでみることにしました。
周囲の強いすすめもあった関係で、
かんがえたすえ、
いったん来春までのおためしということにしました。
大丈夫そうだと思えたら、
来春からは本格的にその道に 
いきたいものだとおもっています。

ここからの半年間、
来春から本格的にやっても大丈夫だということを
自分自身 よくチェックするために
一生懸命 おためしするつもりです。
つっぱしって まわりが見えなくなりがちな 性格のため
周囲の意見をきく心の余裕があるうちは ちゃんときこうと
心がけて・・・・いても失敗することが多々なのですが
今回は わりかし ちゃんとできましたかね(^^)
なんといっても 自分のまわりには
優秀な友人、思慮深い友人、
わたしよりもわたしをよくわかってる友人、
経験ゆたかな先達が
たくさんいるので、ほんとうにたすかってます。
かれらの わたしをおもってのアドバイス
いつでもちゃんと聞いて 
行動や思考に反映させられる・・・わけではないことを
悪いなとおもっているのですが。
いつだって 感謝しています。

決めるのに多大な勇気を要しました。
自信がないから自分に投資する勇気がもてなかったのです。
でも やらなくっちゃ後悔するだろうなと考えました。
そう考えるとたいていのことは
「やっぱ やる!」って なっちゃいますよね(^^)

失敗だとおもったら やめることもできるのだし
がんばろうとしている今は
せっかくなので
せいいっぱいやってみたいと考えてます。
あとは仕上げをごろうじろ。

これに際し、
わたしのおせじにも名誉とは言えない
ある経歴を明かしたとき
悪くいわないでそのまま受け止めてくれた友人がいて
ほんとうにありがたかったです。
内心でどうおもっていたかは別として(^^)
まあ 他人のことそんなに気にしないか、そもそも。

過去はそりゃもう とりかえせないので
まー残念ではあるのですが、
ここはひとつ
前を向いていってみたいとおもいます。

なにしろ
今後の人生について考えるとき
あまりむやみに暗い気持ちにならなくなったな。
人生を懸ける遠大な目標ができたせいか
生きることがちょっとだけ 怖くなくなったかんじです。



必要は成長の母/お誕生日会で巻く締め切り/ジェット・リーのメガネ/生体反応

書く速度は結局そんなに
アップしていない実感があるが
本を読む速度は
上がった。

こんなことできるなら なぜいままではできなかったのかと。
(わたしはヒマさえあればその手のことを思ってるな(^^))

必要な情報を頭にたたきこむ速度が
上がったことにより、
書く速度はそんなに速くなくても
余裕をもって仕事をすることが可能になった。

まえはとうていできなかった納期で
とうていできなかった仕事量が
こなせるようになったかとおもう。

それでももちろん 
大変は大変だ。
だが人間 必要にせまられると飛躍的に成長する
ということを、この仕事に就いて身をもって知った。

あきらめるとかあきらめないとか以前であり、
できるとかできないとかも関係ない。
ただ必要だったため、やった。
するとできるようになった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

毎度のことながら
きょうもすごくつかれた。
なかなか飛ばしてる。
あしたも飛ばす。
あしたが正念場だ。
きのうの段階でとつぜん、
締め切りが当初より24時間も早まるという知らせが入り
自分なりに立てていたスケジュールが
ぜんぶ狂ってしまったので
正直 愕然としたのだが
(わたしだけでなく社内の全員そうだが。)
その理由が 
取引先の都合などでなく
わが社の上司が どうしても金曜の夜の 
お子さんのお誕生日パーティーに参加したいから、
であることを 今日知った。

だいじ(^^)!!

いさぎよくすべてを 文字通り あきらめ
24時間巻きへの対処案を
ひねりだす方向へと転換。

こうなると
家に帰っても 
自分のことをする時間がほとんどもてないのが
つらいといえばつらい。
だが これがずっと続くわけじゃない。
今週いっぱいはひとまず なんとかやるつもりだ。
この先の さらに先のことをかんがえると
やや暗いきもちになるんだけれど。

のんびりやさんの取引先とのバトルもつづく。
当方のメンバーにしわ寄せが きすぎないように
責任をもって 納期調整に努めなくてはならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あまりプライベート関係のことにかかずらっている
余裕が いまはないのだが、
SNSで友だちの投稿を読んだり
フォロー中の 映画俳優や音楽家が投稿している
映像や音楽を 聴いたりするのはたのしい。
最近それで気になっていることがひとつあるのだが、
近ごろのジェット・リーがかけている
丸フレームのメガネ
彼の顔の形だと どうも似合わないから
よしたほうがいいとおもうけどな・・・。

「ブラック・ダイヤモンド」のときの
サングラスも
絶望的に似合ってなかったんだけど
(たぶんフレームと眉の距離感の問題か
頬骨の高さの問題というかんじがするんだけど。)
今回はさらにその上をいっている。
本人はどうおもっているのか。
かなり高い確率で どうともおもってなさそう!!
自分で買ったかどうかもあやしいものだ。
旅先で出会う 仕事の関係の人かなにかに
たまたまプレゼントされたものを 適当にかけている
というかんじがすごくする。
ジェット・リーには おしゃれで美人の奥さんや
お年頃のお嬢がいるのに
身に着けるものにアドバイスしてもらえないんだろうか。
パパ それヘンよ!って(^^)
なにしろ身なりにかまわないんだよね彼って。
だれかに冗談で
李大哥、そのメガネお似合いですね(^^)(・・・ププッ)とか
言われたのを すなおに信じちゃったのかもしれない。

そこがまた 彼のすてきなところではあるが。

ジョゼフ・ゴードン・レヴィットと
レナード・バーンスタイン
カラヤンのページの
投稿はいつもおもしろい。

あと、わりと普段
コンスタントにログインしているように見受けられる
友だちが
何時間も姿を見せず 内心 やや気になりだしたところへ
ひさしぶりにログインの形跡をみせたことに気づいたとき、
それが 今くらい遅い時間帯だったりすると
「ひさしぶりだねえ。おつかれっ。」とか
ふつうにパソコンごしに声をかけてしまうことがある(^^)!!!
大丈夫か!
われながら
いろいろ末期だな。

だが 友だちが元気にしているようだという 
その生体反応が
SNSを介してそこはかとなく 感じられるだけでも
ほんとうに ちっちゃな、
しかしかけがえのない
救いになったりするわけよ。
言ってもしょせんSNSだけどね(^^)

体に気をつけて、元気でいてね。





生きていくうえでなにに重きをおくか/伝える

生きていくうえで何に重きをおくか、か。
え、それって 
具体的なかんじじゃなくてもいい?
家を買うこととか
結婚する、子どもを育てる
社会的成功
将来の安泰 とか
愛する人の幸福 とか
そういうのじゃなくてもいい?

この問いへの答えになってるかどうか
自分でもわかんないんだけど

わたしは
なぜ自分が生まれてきたのか、生きるのか 
答えを知らないでは死ねないんですわ。
そんなこと考えるのはつまらないから やめなはれ、
と いわれても むり。
重きをおくというか
気になってしかたがないのです。
これが わかるならば、
みんながほしがるような ほかのものが
なにも手に入らなくてもかまわない。
逆にそれらがすべて 手に入っても
自分がなんで生まれて生きるのかが
わからないなら わたしは苦しいままでしょう。
ずっと気になり続けるのだから。
棄てられるとおもっていましたが。なんらかの契機があれば。
でも、やはり、答えをつかまえられないかぎりは
棄てられないとおもいます。この気持ちは。
そんなことを思いますよ。

ほかの人も みんな、程度の差こそあれ
にたようなこと考えているんじゃないかと
わたしは 現時点では おもうことにしているのですがね。
そこんとこマジでどうなの(^^)???
似たようなこと考えているってんなら
たのむからわたしと たまにはその苦しみを
分かち合ってくれませんか(^^)!!
苦しいですよね! たまったもんじゃありませんよね!
わかるーってかんじじゃありませんかね。
そうならそうと お願いだからわたしに
耳打ちしてくれませんか。
そうしたら わたしもどれほど楽になれることか。
ほんのたまにでもいいんです。
だまってないで!
わたしはいつだって 公表してますよ、
このように。
はずかしがらずに、さあ(^^)!!


生きていていい、という絶対的な承認がほしいですね。
すくなくとも 生きるあいだ、消えない承認が。
それさえあれば 
なんかもうちょっとラクかもなあとか
思います。
しょっちゅう思います。
なぜ、それがない、と これほどまでに感じるんでしょうか。
なぜ それがないという感覚が こんなにも苦しいんでしょうか?
不明なのですが。
だからそいつを獲得することが
わたしが生きていくうえで重きをおくこと の内容
なのでしょうかねえ。
わからないな。
そうでもないようなかんじもするし。
もっとほかのことに重きをおいているのかもしれません。
これから変更になる可能性も。

でも そうした焦燥 渇望から
自由になったときのきもち、ってのが
もしもあって、
そして生きてるうちに そいつを味わえるんならば、
一度でもいいから体験してみたいとおもいますね。
意外とたいしたことなかったりするんでしょうかか(^^)

幸せの青い鳥はさいしょからそこにいたのです的な。

うーん ほんとにわからないな。
そもそも どうやったらそんなたいそうなものが
生存承認というものが
えられるのかもわかりませんよ。
どうなれば 承認をえた、と自分が感じられるのかが
わかりません(^^)!!!
なんなんでしょうか、それ!!!
承認をえたいと思っているふりをして
そのじつ ほんとは認められでもしたら困るんですけど、
と 内心逃げているんだったりしてね。
つまり苦しんでいる自分に酔っているとか?
(もう話がややこしすぎますね。)


大前提としまして、
わたしは自分の価値的なものは 
まるで信用できません。
これっぽっちも。
そんなもの信用できるわけないです。
自分の価値なんてもの信用できないってことを
自覚してしまっているから もう解除は困難です。
でも
あきらめているわけではないし、
なげやりになってもいません。
とてもイタイ人であるとしても。

というのも、
場合によっては「役に立てる」、ということは理解するのです。
人とかかわるとき そのかかわった人とのあいだに
ちょうどまんなかのところに
なんか生まれるな、ってことは理解するのです。
つかのまだが、そのときだけのことだが、
たぶんそれこそ 価値ってものなのかなとおもいます。
だとすればわたしという単独の存在には
価値なんてものは やっぱりないのかもしれません。
でも 人とかかわったときあいだにうまれるものが
価値だ というのなら、
それなら、 わたしは仮に 
自分自身に絶対的価値がぜんっぜんないという結論を
あらためて つきつけられたとしても、
(今はそれを 怖がっているけれども)
そんなこと ぜんぜん平気でしょうな。

なにそれ!! 
まだまだ思考がたりない思考が。
ぜんぜんたりてないですよー。

場合によって自分が役に立てることは理解。
だから勉強します。
新しいことをちゃんと吸収します。
成長する努力をおこたらないようにします。
なまけません。たゆみません。
そして人と できるだけちゃんとかかわります。
つらそうにしている人の味方にちゃんとなる努力をします。
つらそうにみえなくても つらいのかもしれないと
考えることをわすれないようにします。
自分にできることはそんなもんでしょう。


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人を愛するとき、
愛しているということを
伝えられればなあ。
できんのです、それが意外にも。

以前はそれをするにあたって
相手がわたしを 
求めてくれるかくれないかなんてことを
そんなに気にしてませんでした。

わたしがその人を愛しているということを
まえは いっさい怖がることなく
またある意味では 相手の都合も考えず
ばんばん 伝えることができてしまっていたのです。

人のことを好きになると
自分がそんなたいした存在じゃないってことを、
つい忘れがちになりませんか。
なんなんですかねこの変な 全能感。
バカなんじゃないかと(^^)
いかに異常事態であるかがよくわかりますね。

気持ちを投げたとき 
返ってくるかこないかの可能性について
考えて 当然なんですけど 
ちっとも考えませんわな。

いままでは たまたま、
同質のものが 返ってくる可能性が
いつもありませんでしたので、
ある意味 安心してたのかもしれませんけど、
(安心てなんだ! へこめよ(^^)!!)

でもよく考えますと
もし返ってきてたら とても問題になったことも
あったと 想像されます。
仮に返してもらってもですよ、
じゃあその人が望むなにかを ちゃんと与えてあげられますか。
っていわれると 与えられるものとか一個もない! 
みたいな。

お金を一銭ももってないのに これ買いたいんですけどって
レジまでもっていってしまう、
みたいなかんじでしょうか。←ちがう。

蛮勇というか無謀というか 無策というか
考えなしというか 間抜けというかまあ
アホですねえ。ほんとうに。

でも、
アホですけど 罪はないってかんじ。
なんか そのほうが 今の自分のスタンスよりも
まだよかったのかな とかおもうのは
まちがいなんだろうか・・。
すくなくとも まあよくいえば
果敢にして率直ではあったとおもわれ、
その点は評価。
また、正直でもありました。
べつに 悪いことではなかったでしょう。
うそはいいませんでした。
相手がイヤがっているのにしつこくせまるみたいな
そういうこともしなかったわけだし(^^)
わたしは常に本心を
伝えてもさして問題がないときに
さして問題のない程度で、伝えていたとおもいます。

それがいったいどうしたことか ほんとに
いまはそのような行動に ほんとに出づらい。
なんだというのでしょう。

もんだいは それだけではないのですが
しかし どれも 些末といえば些末。
一番のもんだいは 
畢竟・・・・、

わたしもムダに大人になってしまったものです。
傷つくことが こわいとは。





中村雄二郎さんやすらかに。

中村雄二郎氏が亡くなったのを機に 
ここ数日
家にある彼の著書を 読めるだけ読み返してみた。 
正直しばしば涙がでた。
亡くなったこと 心からさびしくおもう。
尊敬してる。
お空にいってしまってさびしい。

高校・大学のころは彼の本が 
ほんとに友だちだった。
哲学の現在、ミシマの影、魔女ランダ考・・・ 

books.rakuten.co.jp

 

goo.gl

 

魔女ランダ考 - 岩波書店



ろくろくわかりもしないくせに 
どれもこれも のめり込むように読んでた。 
中村雄二郎著作集なんて
当時の地元の図書館で かりてたの
わたしだけだったんじゃなかろうか
何度も かりて返してまたかりて返してってやっても
なんにもいわれなかったし。
まあ悪いことしてたわけじゃないから
なにかいわれる理由もなかったのかもしれないが
ほとんど私物化してたわけで。

その図書館で、年末に、
古くなったかなにかで貸出用図書でなくなった本が
無料で譲渡されるイベントが
催されたことがあったんだけど
それのときも 図書館のだだっぴろい会議室一帯に
ずらっとならんだ 段ボール箱のなかを
ちまちまぜんぶ見てまわり
中村雄二郎氏の本をいくつか発見し
すべてもらって帰った。
そうやって わたしのものになってもらった本が
いっぱい部屋の書棚に入っている。

有益なことが書かれている本だとわかってても
なぜかどうしても最後まで読み切れないみたいな、
いかんともしがたい「合わなさ」を
感じさせられる本てのが あるものだが、
たぶん 中村雄二郎氏の著作は 逆で、
よくわかんないにせよ なんか自分には
「合ってた」のであり、わかんなくても読んだし、
そしてそんな程度の読書経験ですら ムダではなかったと感じる。
だって今でも読むわけだから。

このたび 読み返しながら
「この人、わたしがいつも思ってるようなこと書いてんな!」
とか 何度も思ったんだけど
ちがう。 
逆。
なに ばかなこと考えてんだ。
わたしが、中村雄二郎氏の影響をうけてるんだわ。

中村雄二郎吉本隆明梅原猛(は存命)の3人こそは
この自分にとって、
考えてもしょうがないようなことを
いじいじ たちどまって考え込んで
勝手に堕ちていくキモイ癖のある 自分にとって、
終生の友だちになるであろう本を 
うなるほど残してくれた人たちであるし、
ものを考えるとはこういうことよ、と
手をとって ひとつひとつ 
教えてくれようとした人たちだった。
はたしてわたしがその教えを
どれくらい理解したかわからない
わかってたらこんな いけてない大人にはなってないか。
できがわるくてもうしわけないな。

じまんの父親みたいな人たちだ。
さびしいなあ。
おいていかれた。