BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

そもさん-3-180423。

「仕事と遊び」「働くことと余暇」
だれに教わったわけでもないのに、
そんなふうにセットでとらえる思考のありかたはおそらく、
仕事、働くことがまずあって、それから生まれたものではないか。
働くことがうまくいくように、
より生産できるように、より利益があげられるように、
心と体の疲れをおとし、パワーを充電するために、
遊び、余暇をちゃんととろう。そう考えられたからこそ
仕事と遊び、働くことと余暇という、セット思考が生まれた。
遊ぶため休息するために疲れることが必要だから働こう、
というふうには、どうしたってならない。不自然だ。

働くことがまず一番、働くことが生活の中心、
それが社会なんじゃないだろうか。
すくなくともわたしが住むこの社会は。
「遊び社会」ではどう考えてもない。
労働社会…労働至上社会?

でも、その考えかたはもう、案外古いのかなとおもう。

わたしにはワーカホリックの傾向がまちがいなくあった。
雑誌編集などという、電撃的な刺激にみちた仕事を、 
まえと同程度の重さで、もしももう一度始めたら、
きっとものの3時間で、ワーカホリック状態に逆戻りだろう。
(薬物依存みたいなこと言っているが。やりたいなあ。編集!)
危なさを感じるけれど、でも、そんな自分でもいまはわかる。
仕事があって余暇がある、いい仕事のためにいい余暇を。
とかいったような、両者をくっきりわける…
いや、仕事と余暇が対比するまったくべつのもの、
みたいに考えることはもう社会の実態に、案外あわない。
わたしでも気づいているから、そういうもんじゃないって。

その労働って意味あるの?
不利益をこそ積極的に生産してない?
みたいな労働がある一方で
なんにもしてないようにみえて
確実に何かを生んでる、
みたいな余暇もあるようにおもう。
編集の仕事は死ぬほどきついが心がわきたつほど楽しかった。
そこにいるだけでしんどい余暇が、うんざりするほど今はある。

わたしは働くことを…つまり生きることを?もっとゆるく、
もっとやわらかく考えることを自分に許すべきなのかも。
許すというか、いや…それはむしろ いままでよりももっと
ある意味でしんどいところにいくことなのかもしれないけど、
でも、求めるものはそこにこそあるのではないかと。

楽しいこと、向いていることだけやって暮らしたいと
考えることに、罪悪感をおぼえたくない。

楽しいことだけやって生きて、なにがいけない。
…能動的に主体的に生きて、その思いを体現している人は、
大変そうだけれど、すごくかっこいいではないか。

労働そして余暇、という単純で対比的なものの考えかたは
もうこのわたしにとってさえ、かなりジャマだ。
つらい仕事をがんばってるんだから、
(つらい仕事をがんばっているのでなければ、)
余暇くらい楽しまなければ。
(余暇をたのしむことはゆるされない。)
どっちをどうひっくり返しても
「でなければ」「しなければ」が、くっついてくる。
何かそのように感じられてならない。しんどい。

ときに、会社組織の一員としてする労働よりも、
子どもたちが縁日で大人に見守られてやる「お店やさん」のほうが
働くってこういうこと!という 原初的イメージに
きわめて近いものを生み出してはいないか。

昨年の暮れは病気だったこともあり行かなかったが
ここ数年、大みそかから元旦にかけて
山梨県のお寺に座禅をくませてもらいにいっている。
そのお寺は、地域によくひらかれている。
おまいりしに、お堂にやってくる信徒さんたちを相手に
お堂では、お寺の息子さんを含む近所の子どもたちが
「くじ屋さん」をやる。
お堂のまえで参詣者全員にもれなくくじが配られており、
お堂でそれを子どもたちに渡せば、くじの色に対応する
おみやげがもらえるのだ、メモ帳とか。
たあいのないものだ。アルバイトですらない。
小学生、せいぜい中学生だから。
でも、子どもたちは、目をきらきらさせてそれをやる。
例年、その日の朝からお寺にあつまって熱心に準備を始めるし
(お寺のなかにたえず たくさんの子どもたちがいて、
だれがどこの子だか わかったものではない。
もう何回もあのお寺におじゃましてるが、
お寺の息子はひとりだけで、
あとはみんな近所の子であると知ったのは、つい最近だ。)
ある子などは、「これはぼくの仕事なんだ!」
と、はっきり言っていた。
あ、「仕事」っておもっているんだなと、
わたしの「仕事」とずいぶんちがうもんだなあ、と
それを聞いて思ったのを、今でも覚えている。

彼らはくじ屋さんで、お金や利益を生み出さない。
でも…、では何も生み出してないのか、
だったら仕事じゃないのかというと
どうもそうとも言いたくないようななにかがあると
わたしはおもう。
べつにたいそうなことを言いたいわけじゃないけど。
彼らは全力であるし、おどろくほど楽しんでる。
信徒さんたちも、くじ屋さんでおみやげをもらって
うれしそうなのだ。
その光景をいま回想してみるにつけ、
うーん、と思わされる。

そもさん-2-180422。

自分にとって前職は「生きがい」であった。
多分だが、いままでもずっと、仕事をすることそれじたいを、
「生きがい」として心のなかに位置づけてきたとおもう。

遊ぶことがきらいなわけじゃない。
が、遊びって、これはこれでけっこう大変だ。
せっかく遊ぶのだから楽しまなくちゃ!
「楽しくなければ」「笑ってなければ」的なきもちに
追われてしまう気がする、と言えなくもない。
それに、遊びは心も体も消耗するわりに、原則何も生まない。
役に立たず、使う方が多い。
それに対し仕事は、やれば何かが生まれ、作れる。
だから仕事のほうが…意味があることをしているような気がして…
生きがいと感じやすいのかも。

でも、わたしのまわりに何人かは、
仕事ってのは、休日に遊ぶお金をかせぐためにするもので
仕事がイコール人生とか生きがいとかじゃないんだよ、と
言い切る人もいる。
彼らにとっては、仕事は生きがいじゃないことになる。
できれば仕事なんかしたくないけど、
生活のため余暇の充実のためにするわけで、
人生のうち「仕事じゃない部分」に
たのしみとか幸福感をみいだしているんだろう。

ぜんぜんわからないわけじゃない。
編集者をしてたとき、激務であった。
楽しかったけれど…体調は崩した。
最悪だったとき…入社1年半後くらい。
腎臓から肝臓から6か所くらいに病気が発覚、
寛解まで9か月を要する事態となった。
今思えばバカだったけど、即入院との医師の指示を
断って職場にもどり、
とおのく意識のなか連日原稿を書いていた。
あのときはさすがに、
働きかた、つまり働くことへの考えかた、つまり生きかたが
自分はまちがっている、と痛感したものだ。
体を壊してまで仕事なんかするもんじゃない、
頭使って効率的に働いて早く帰り、
日々の休息と、週末を確保しなくては、と考えた。
実践し、ある程度までは成功した。
しかし、のちに再び失敗して、今度は死にかけた。
それなりに社会人をやってきたけれども、
ここまでではついに会得できなかった、
自分なりの、継続可能な、うまい働きかた。
それに…それに、本心をいえば、
燃やし尽くしたかった、仕事によって、自分を。
灰しか残らなくても別にいい。
ゆっくり休む時間、週末。…。ちがう。
働いてないと、生きているかんじがしない。
だから頭でわかっていても結果こうなった。
選んだ、仕事に生きる意味をみいだすことを。

だがそれはまあいいとして、考えをもどすと、
つらくてもやりがいある「仕事」に生きる意味をみいだすか、
たのしくて笑っていられる「余暇」にこそそれをみいだすか、
仕事はつらいもの、遊びはラクなもの 
そんな考えかたってもう、古いっていうか、
ステレオタイプかもしれないとも。

仕事と遊び。容易におもいつく2項だ。
でもこんな考えかたが完璧にフィットするシチュエーションなんて
ほんとうにあるのか。
「働くのか、遊ぶのか」なんてのは、だれかのただの「考えかた」、
抽象でしかないのかも。
…でも けっこう多くの人の考えかたみたいだよね。
いつだれから教わったのか…

小休止中の「手記」に頻繁に登場するG夫妻は、
「なんの仕事をしているの」と人に聞かれたとき、
説明するのが困難であろう仕事をしている。
彼らが仕事で開催したワークショップに参加したことがある。
そのとき、わたしには、彼らが仕事をしているように見えなかった。
わたしはかつてスゴイ顔をして、毎日働いていた。
でも、G夫妻は、楽しそうだった。遊ぶように仕事をしていた。
うまくいえないのだが…だから、
仕事みたいにしんどい遊びも、遊びみたいに楽しい仕事もあり、
同じ人で同じことでもときには話がちがったり、
ゆれうごくものなのかも。

G夫妻は、ボードゲームの愛好家でもある。
モノポリーとかだけじゃなく、世界には、
バラエティに富んだいろんなものがある)
愛好家が集い、ボードゲームをしまくるという 
けったいな会があり、わたしもときどき顔をだす。
ボードゲームは遊びだが、ルールを覚える必要がある。
輸入版は、マニュアルの日本語訳が微妙。
それに、やはりなにか感覚が決定的にちがうのか、
ゲームのユーザーインターフェース自体、
…日本人から見て…一見して理解できない場合が多い。
そいつをテーブルに広げ、コマを並べ、
経験者が、初めてやる人に遊びかたを解説する。何十分もかけて。

遊びでも、ルールがあるものなら、トレーニングは必須だ。
最終的にはたのしいものでも、最初からそうなわけじゃない。
へたしたら死ぬ遊びもある。
キューバダイビングとかロッククライミングとか。
これらはそもそも どう始めればいいのかわからないたぐいの遊びだ。
そこへ「やりませんか」と声をかけ、やりかたを教え、
現地でガイドする。…つまり
遊びを教える仕事が、確立されている。
仕事と遊びって、やはりそうかんたんに
楽しいとかつらいとか、作り出せるとか出せないとか
わけられるものではなく、わかちがたく結びついているものみたいだ。

呆然散歩/KAJALLA#3-東京千穐楽/「双亡亭壊すべし」7-8巻

始発で都内にでて、南新宿・四谷・飯田橋・早稲田・池袋を歩いた。
住宅街や、公園や銭湯や神社があるところ、
工事現場ばかりがやたらあるようなところを選んで。
朝早いと東京ってほんとうにしずかだ。
やすらかな気分になれる。
歩いてこのルートをたどったのははじめてだったから
すごく距離があったような気はした。実際半日かかった。
寄り道したり、とちゅう公園で呆然と座りこんで
ハトをながめたり、軽く迷子になったりしながらだったし。
最短ルートで7キロ弱といったところのようだ。
普段の散歩コースのほうがよほど距離はある。
といっても早く目的地に着くことが狙いではなく、
とりたてて目的地があるわけでもない。
多く歩くことが目的でもないのだ。
もとめるのは自分ひとりの時間と、平穏だ。
ふりすてるまで歩くことだ、心にまとわりつく
つらい気持ちとか疲れとかを。
写真なんか1枚も撮ってやしない。

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午後、池袋駅に到着し、東京芸術劇場に行って、
ラーメンズ小林賢太郎さんの舞台を観た。
この公演を観るのは2回め。

kentarokobayashi.net

 

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同じ内容の舞台だが、前にみたときよりも
こまかな部分がブラッシュアップされていた。
前回同様、野間口徹さんが最高におもしろかった。
あの人の様子のよさ、存在そのもののおかしみは、
他人にはまねできないものだろうとおもう。

ひとつだけ、(野間口徹さんではないが、)
「持ってるにきまってんだろ!
宝物だよ!おまえらがくれたんだから!」
というセリフは、もうちょっと聞き取りやすいとよかった。
あのセリフ、わたしすきなんだよ(^^)

小林賢太郎さんの舞台は行けばいつでも大入り、
回をかさねるごとに、会場も大きくなっていっている。
それに、このわたし程度、人かずにもならぬ者の観劇ブログでも、
タイトルに「KAJALLA」「小林賢太郎」とかがあると、
キーワード検索でヒットしやすいのかなんなのか、
小林賢太郎さんの舞台の興行期間の前後には、
アクセス件数が怪奇現象のごとくはねあがることを把握している。
どんな経緯にせよブログをのぞきにきてくださることはありがたい。
ただそれにしても、ぜんたい、訪問してくださるかたが
どういうお気持ちでこの手の内容のブログを訪れるのかは、
書いておいてなんだが、皆目わからない。
「自分が観た(観たかった)舞台を他人はどう感じたか」
がお知りになりたいのか、
「これから自分が観る予定の舞台を他人はどう観たのか」
を知っておきたいとお思いになるのか。
観たい・観る予定・観たかったけれど観られなかった、
いかなる場合でも、
わたしはその舞台(映画でもライブでもなんでもいいが)についての 
他人の感想など、積極的に知りたいとはおもわない。
作者自身の解説やインタビューさえ、読みたいとおもわない。
すきなものほど、他人と共有したくないというきもちになるみたいだ。
矛盾のある思考であることは、自覚ずみだが。

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藤田和日郎マンガといえば、
からくりサーカス」のアニメ化決定が話題になっているが、
わたしは目下「双亡亭壊すべし」に集中してる。

websunday.net


人の皮をかぶった人外の者、人間性を棄てた人間を描かせたら
藤田和日郎の右に出る者は…すぐには思いつかない。
「しの」のきもちわるさよ。
いったいどうやってあのかんじを出すのか。

坂巻泥努の姉のたのみごととはなんだったのかな。

ロクロウの、父の最期は、
なにか、映画「灼熱の魂」を連想させるものがある。

movie.walkerplus.com

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york8188.hatenablog.com

バスの炎上シーン。
ロクロウとナルワンとでは、
事情も心の向かう先もちがうものの。

双亡亭壊すべし」は、あくまでも、
「理屈でなんとか解決できそうなかんじ」
「どんな怪奇現象も、特定の原因の『結果』として起きている」
という見地で物語がすすめられている。
登場人物たちが、そうであってほしいと願っているからだろうし、
読者もその点は似たようなものじゃないだろうか。
荒唐無稽!ありえない!こじつけ!と
好きに言いつつ、いちおう理屈がないと落ち着かない。
「なんでそうなったのだ!わけがあるはずだ、わけが!」。
双亡亭の外見や構造が
時代により見る者によりあきらかに異なることの理由まで
ちゃんと解明されてしまった。
わからないままでも別にいいという気がしてたが。
科学の恩恵に浴し、いまどきの精神性によって生きる者が、
従来の思考では受け止めきれない怪奇や謎と出会ったとき、
いかにそれと向き合うかというのが、作者の視点(のひとつ)なのかな。
でも、邪眼は月輪に飛ぶとかのころからちっともかわらず
キャラはみんな暑苦しいまでに熱い。
今どき流行らないほど泥くさく、いとおしいほどクソまじめ。
悪者だって、悪事に一所懸命だ。

「アポロンの地獄 EDIPO RE(1967)」。

はとこのおばあちゃんが、VHSをかしてくださった。
ブルーレイやDVDも、でているみたいだ。

アポロンの地獄」
(EDIPO RE ピエル・パオロ・パゾリーニ監督、1967年、伊)

movie.walkerplus.com

 

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冒頭とおわりの部分以外は、
ソフォクレスの「オイディプス王」。

オイディプス王の物語は、岩波文庫などで読める。

ソポクレス オイディプス王 - 岩波書店


こんなサイトもあった。

greek-myth.info

 

greek-myth.info

 

greek-myth.info



オイディプス役の名演。
受け入れたくない真実をつきつけられた、動の演技と、
光をうしないさまようラストの静の演技が印象的。
オイディプスにはずっと、
狂気すれすれに激しく燃える、生命力を感じていたけれども、
物語も終盤にちかづくにつれ一気に老けこむみたいに朽ちて
眼が濁っていった。

知らなかったとはいえ父を弑し、母と交わった。
必死にあらがってきたつもりが、
宿命から逃げられたときなんて一瞬もなかったと知ったら
ああして泣き叫ぶ以外にできることはない。
やけくそかなんなのか、妻が母と知ってなお、
彼女を抱くシーンは生々しい。

冒頭とラストの舞台が現代に設定されていたことは、
ギリシャ悲劇の普遍性の暗示かと当初おもったが、
そんなことパゾリーニがするとも…。
罪とつぐないが、時と血を超えようやく終わる、
ということかも。
ほこりっぽく汚い映像ばかりが続いたところへ、
ラストだけは、空と芝生の青が目にやわらかい。

古典の単純な映画化ではなく、
監督のエディプスコンプレックスが
コアにすえられた個人的作品と見ても、
べつにさしつかえはないだろう。
監督自身のプライベートと作品とを
いちいちつなげてうんぬんするのもあれだけど、
パゾリーニは実父との縁がうすかったと聞く。
その父は軍人だったはずだ。
本作の冒頭とラストに登場する若き花婿も、軍人。
彼とその妻とが愛し合うシーンのあとに、
生まれたばかりの彼らの子が目をぱっちりあけたカットが入ると、
まるでこの赤ちゃんが母と通じる未来の
メタファーのようにおもえてしまうが、
あれは我が子に嫉妬し、妻をとられるかもしれないと
情事の最中にも赤子の視線を気にしている、
父の予感とあせりの投影とおもわれる。
パゾリーニが、そうして鏡のように、自分のことだけでなく 
父の心のなかまでものぞきこんでは苦悩してきたとすれば。
オイディプスの罪とそのつぐないが、ようやく終わった、と
さっき書いたけれども、
これでもう終わりにしたい、そして自分だけの新しい未来へと
進んでいきたい、ということでもあったかもしれない。

魔物退治のシーンに、有名な「スフィンクスの謎かけ」がなかった。
しゃがみこんでぶつぶつ何かいってるスフィンクス
いきなりとびかかって撲殺、という展開には、ちょっとおどろいた。
どんなシーンになるのかなあと、おもって待っていたんだけど。

オイディプス青年の諸国遍歴や、デルフォイの神託の場面などで
雅楽や「ケチャ」、モーツアルト弦楽四重奏などなどが、
耳にとびこんできたのがすごく新鮮。
徹底したリアリズム描写のために映像が暗く汚らしく、
その意味では、観ていてもたのしくない映画であるので
せめて耳で楽しめたことは、よかった気がする。

手持ちカメラによる荒っぽいシーンの連続で頭はふらつくし、
熱量がすさまじすぎ、1時間半ちょっとにしては、へとへとに疲れた。
だが、過去・現在・未来と語り継いでいくダイナミクス
さまざまな人の証言から主人公の過去が暴露されていく
プロセスの描写はおもしろい。
時間のならべかた自体はシンプルであるので、
観るほうは、オイディプスがなにをしたか、
ぜんぶわかったうえで、なりゆきを見守るしくみだ。
それにもかかわらず、飽きさせない。
宿命にのたうちまわるオイディプスの悲劇を
ふつうにかたずをのんで見守ってしまった。

同時代の、最新作のほうが、
こうした昔の作品よりも、
自分にはすんなりはいってくるし、
きっとはるかにおもしろいと感じているんだろう、ということは、
いちおうわかる。
古いものはどうしたって古い。
解説なしには理解できなかったり、価値観がちがってたり。
へんな話なのだが、多くの人に観られてきたせいで
「すりきれてしまっている」「薄まってしまっている」と、感じることもある。
でも、古びてもなお、こうして観たときに、心にくる。
芯の部分がしっかりと残ってる。

映画の時代の映画なんだとおもう。
説明なしでどこまで理解させられるか的な
限界値の実験をはやとおりこし、
理解されることをむしろ拒んでるとしか思えないような
心象風景の羅列のくせしてそれでも共感させる。
もう今ではだれもこんな映像
作らない、流行らない、
そんな原初的、動物的な描写をもろにぶっつけられて、
センスがグラグラゆさぶられる。

「昔」の作品の偉大さだ。
観るのをやめようという気にはやはりならない。

そもさん-1-180417。

自分は生きていてよい存在なのか、
生きる意味があるのか、
そんなことをどうしても、思わずにいられない。
それはみじめだし、とてもかなしい。

わたしの生命のどこか、人生のどこか、
つまりたぶんこの心のどこか奥のほうに、
こんなことを思わずにいられなくなる事態をひきおこすような、
欠陥、大きな穴が、あいている。
しくみはよくわからないが、
そんな欠陥を認識するときのかなしいきもち、
「ない」「たりない」「欠けている」というきもちが
心に拡がるのにしたがって、
冒頭にのべたような思いが、増大してきたんだろう。
でもどうしてわたしは、
自分は生きるに値するとか、生きる意味があるというきもちを
こんなにほしがるのか。
どうしてわたしは、
生きる意味がわからないことにはとても死ねない、
なんて、追い詰められたように、おもうんだろうか。
そういうのがないと、ほんとにわたしはだめなんだろうか。
わからない。
赤ん坊だったとき、わたしはさすがに、
「生きる意味がわからないよー」とかいって泣きはしなかった。
単純におもしろければにこにこわらい、
おしりがきもちわるければわあわあ泣き、
おなかがみたされればぐっすりねむる、
それだけのことだったはずだ。
赤ん坊のときは生きるのが苦しいとおもわなかった。
そこにいるだけでひたすらに満足だったのだとおもう。
でも今はおもう。
今は苦しいと感じる。
どうして。
それに、わたしにとって、生きる意味とはいったいなんなんだろう。

かえりみる

おわったことをいつまでも嘆いてもしょうがない、
それはそれとして背負って前に進もうと、
そんなあたりまえのことを考えられるときも、一時期よりは増えた。
いまや関知できないところにいってしまった人が
どうやら元気にしていると風のたよりにきけば
それだけでもずいぶんきもちは軽くなる。
光だ。いまでも。どうしようもない。

なにもなかったことにはもう死ぬまでできない。
なにもなかったころの自分をとりもどすことはできない。
忘れられさえすればほんとに、ほかにはなにもいらないのになあ。
短期間のうちに、いろいろありすぎた。
それらのうちのほとんどは、
「経験する必要あったのか、これ???」と
おもわずにいられないようなものばかりだ。
あったことを今さら否定してもはじまらないから 
まけおしみみたいに、前向きな意味づけを試みてしまうのだが、
わたしにしてみれば事実は心も体もギッタギタになっただけで
なにものこらなかった、というか、わたしが焼け野原(涙)。
自分ひとりの力だけで生きてきたような気で、
やっぱりいままではいたのかもしれない。
そんなつもりはなかったんだけれども、
こんなにまいってしまったのは
わたしが弱かったから、減菌室育ちだったから、
もろくて ものを知らなかったから、慢心してたから、なのかも。
自分の価値なんかたかがしれてるとわかっていたつもりでも 
やっぱりそうとはおもいたくなかったのかも。
そいつを思うとほんとうにはずかしい。

「アレキサンダー Alexander(2004)」。

先日自宅で観てみた。
アレキサンダー
(Alexander オリヴァー・ストーン監督、2004年、米)

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迫力の歴史活劇だとおもって観始めたけど、
冒頭30秒で「そういうのじゃない」とわかった。
アレキサンダー大王の伝説に関心はない。
熱烈に期待して選んだ作品でもない。
だから期待はずれ!と腹がたつこともなかった。
納得ずくで心をほうりなげ、観つづけた。

結果、かなり胸にせまる秀作という印象。

本作のアレキサンダーコリン・ファレル)は、
家庭オンチの夢想家。
健全な家庭環境を与えられなかったため
心のよりどころ、帰る場所を持てないでいる。
おなじ家庭オンチでも、凡庸な人間なら、
伝説が生まれることもなかったろうが、
アレキサンダーは優秀な王で軍略家。
結果、世界のはてまで「探しにいく」旅を企図、しかもこれが実現した。
帰る場所を探す旅、それがアレキサンダー大王の東方遠征。
本作は、そういう切り口の物語と理解した。

本作のアレキサンダーには
「おれには心のよりどころがない。そいつを求めずにはいられない。
だからこんなに苦しいんだ」という認識が、たぶんなかった。
なかば狂える母への愛憎にもだえ、
父王への信頼と疑心とのあいだでなやむ姿は描写されていたが、
本人が自分の言葉で心を語るシーンがなかったから、判然としない。
でも、彼の言動には、その心にある巨大な穴が
いちいちすなおに、すけてみえた。
とりつくろわないのは、自覚がないからだ。

たとえば、
ガウガメラの戦いでペルシャのダレイオス王をやぶる。
敵の敗走をいったん見逃したアレキサンダー
「地のはてまで逃げるがいい。だが、おれからは逃げられない!」。
このあと、ペルシャ中枢をすっかり占領したので、
仮にダレイオスが戻ってきても、もう怖くもなんともなくなった。
ここはいちど国に帰って兵を休ませるべきだろう。
それなのにアレキサンダーは進軍を続け、
2年以上もの年月をダレイオス討伐についやす。
軍略上重要でもない相手にこだわりつづけたアレキサンダーの心の秘密は、
「おれからは逃げられない」、これにつきる。
かかわってくれる相手、自分の心を動かしてくれる相手は、
敵だろうがはなしたくない。愛と憎しみと執着の区別がつかない。
叫びはアレキサンダー自身にはねかえる。
「地のはてまで行っても、おれの心にあいた穴からは逃げられない」。

もう何年も遠征で疲れた、国に帰りたい、家族に会いたい、
そんな不満が兵たちから噴出。彼らの思いを知ったアレキサンダー
「おれがまちがっていた。老兵から優先的に帰郷を」
と、ものわかりのいいことを言いだしたかとおもいきや
とつぜん目の色かえて大興奮。
「やぶった国の略奪をゆるしてやったし、
女だって犯すなとは言ってないぞ。おまえたちだって、
なんだかんだいってもけっこういい思いをしてきただろ。
罪で汚れた手のまま、国に堂々と帰れるつもりでいるのか。
おまえたちは一生おれの道連れだ!」。
雑兵の群れを相手にわめくアレキサンダーの姿は
おびえた子犬にも似て、正視にたえない。

帰りたい。家族に会いたい。アレキサンダーには
ぴんとこないばかりか、何かムカつく訴えであったろう。
そもそもなにがかなしくて、
疲れるし人が死ぬし金もかかる、遠征なんか、続けるのか。
みんな持ってる心の家が、帰る場所が、自分もほしいからだ。
彼は、それを夢に見ることさえできない。
具体的なイメージを持てたためしがないのだから。
それをいともかんたんに、家だ帰るだと口にする兵たちをみて
無性にイライラしたにちがいない。
場面の雰囲気にそぐわない、優しい長調の旋律が、
殺気立つ兵士の人波におぼれかけながら叫びまくる
アレキサンダーを、つつんでいた。

わたしとしてはそれでも、親友の
フェファイスティオン(ジャレッド・レト)の存在は
アレキサンダーにとってよかったと思った点だったが
彼は急逝。アレキサンダーの慟哭する姿をみるのはつらかった。

本作は高く評価されていないようだが、
それはテンポが遅く冗長だからであり、
バトルシーンが長ったらしいからであり、
コリン・ファレルに貫禄がないからなんだろう。
でも、ストーン監督は、そんなことはすべてわかって、
あえてハズした、くらいに考えたい。
潮時を知りながらわざと数秒ひっぱる、
そんなふうにテンポをゆらすことで
「シンプルな大作歴史ロマンをお求めでしょうけど、
そういうのじゃないかもよ(^^)!!」と訴えたのかも。
ギリシャの圧勝と語り継がれているガウガメラの戦いなのに
血まみれ死にかけのギリシャ兵が山と描かれる点や
凄惨なだけで見せ場のないバトルが、何分も続く点には、
ま、戦争なんてこんなもんだよ、という監督の考えかたが
(監督はベトナム帰還兵だ)よくでている、とはいえないかな。
本作で味わえるのはスリルやロマンじゃない。
アレキサンダーという古代の傑物の、孤独な心模様だとおもう。