BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

親鸞/疵

しりあいにすすめられ
五木寛之の「親鸞」を読んでみている。
三部構成になっていて、各部上下巻の全6巻。
そのうちの第一部上下巻を読み終えた。
ものすごくおもしろくてページを繰る手がとまらない、
とまではいかないが、
主人公の親鸞の ゆくすえが気になり、
ちゃんと最後まで読みたいかなーという気にはなる。

後白河上皇への印象が、この小説を読んでだいぶ かわった。
学校の日本史の授業などで習ったかぎりでは
後白河上皇には、足利義昭かだれかと似たりよったりの
傀儡のおばかさん、というイメージしか
ほぼ もったことがなかった。
和歌はヘタだが今様は大好き、
まずしい人や商売人ときらくにおしゃべりし、
町の賭場にも顔をだす・・・みたいな
奇特すぎるキャラクターも、かろうじて覚えているが
それでも印象としては百歩譲って
うつけもの、かぶきものくらいのかんじしかもっていなかった。

でも「親鸞」での彼は、相当な文化人で
もののわかった好漢、どちらかというとアーティスト
というかんじに描かれている。
親鸞はあまりにも苦労人だ。
彼は彼なりに正しいと信じた道を
一生懸命歩んでいるだけなのに、
(なのに、というか だからこそ、というべきか。)
とにかく各方面からやっかまれ、白眼視され、
嫉妬され、弾圧され・・・と ひどい目にあいつづける。
後白河上皇などはなんといっても雲上人で、
親鸞とは立場が、身分がちがいすぎる。
同じ時代の京に生きてはいるが
直接 親鸞を助けてくれるわけでもなんでもない。
だが ふところがふかくインテリの上皇が、
親鸞のような規格外の人間を肯定してくれる
数少ない側に存在していることに
すこし、救いを感じる。

第一部は 親鸞が師とあおぐ法然の一門が
一斉摘発処分のようなことになって離散。
親鸞法然の高弟であるとして危険視され
死罪でもおかしくなかったところをどうにかこうにか
命だけはたすかり、越後国に遠流となる・・・
というところでおわった。
流罪になったわけだが 親鸞は、 
せっかく越後国に初めて行くんだし
法然の教えをかの国の人びとにもしっかりひろめるぞ、と
希望をいだいて旅立っていく。

あんまり愚直すぎて
見ていてちょっとイライラしてくるくらいだが
これから 彼がどうやって生きていくのかは
やはりけっこう気になる。
がんばっていちおう最後まで読もうとはおもう。

・・・

どこまで逃げても 見てみないふりをしても
自分の心からは逃げることができない。
つくづくおもう。
心なんてものはなければよかった。
これがなければ傷つくこともひとつもなかった。
わたしはほんとうにバカな人間だとおもう。
ぜんぶわすれて、なにもかもすてて
どこかべつのばしょにでもいってしまいたいと
夢想してみることも 一度や二度じゃない
しかし、
それでも自分を脱ぎ捨てることだけはできない。

核心から めをそらした会話を
いくらかさねても もうなんにもならない。
言葉がうわすべりするばかりだ。
でも自分がそうおもっているだけでは
もうどうしようもない。
話をしなくてはならないのに。
でもそれを相手がいやだというならばどうしようもない。
ちょっとつかれてしまった。
わたしもほんとうにばかだな。

わけもなくいらいらしてしまう。
いらいらさせないでいてくれる人たちと
一緒にいるかぎりにおいては
もちろんそんな気持ちにはならないが、
でも、この人たちといつまでも一緒にいてはいけないと
すでに自分の心が告げてきている。
きっとそうとおくないうちに わたしは、
このやさしい人たちのそばにいさせてもらうことも
耐えられなくなっちゃうんだろう。それに、
このやさしい人たちと やさしくしあっても、
お互いに、たぶんなんにも残らない。
わたしはつい この人たちに何かしてあげたいと
そういうふうにおもってしまうけど
わたしがそんなことをして何になるだろう。
何が残るだろう。
やらなくちゃいけないのは 
なにもわたしなわけじゃない。
わたしであっては ならないわけだ。
なのに彼らがほんとうにやさしいから、
心をなぐさめてくれるから、
つい 明け渡してしまいそうになる。
自分のよわさが ほんとにかなしい。

自分でいってておかしいなとおもえてきたけど、

やさしくされるだけなら傷つけられたほうがまだいいと
そういうことを感じているんだろうか。

処置なしだ。
どの人ともあんまり近くならないほうがいい気がする。
また似たようなことで苦しくなってしまう。

町田出港バンド/あるいは夕日ビール-180520。

町田天満宮の縁日にふらっと行ってみた。
tenmangu.newsinet.com

 

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町田出港バンドというバンドがある。
彼らが縁日で演奏するという情報をSNSで えた。
町田出港バンド。
クラシックともジャズともロックともパンクとも
またぜんぜんちがう、ぜんぜんちがう音楽だ。

ギター&ボーカル、パーカッション、チンドン屋三線
基本編成なのかな・・・ここにたぶんベースが入って
5人がフルメンバーだとおもうけど。
メンバーのひとりが、まえに
「うちは自由出席制だから3人とかのときもある」
と言っていた。
自由出席制(笑)。
彼らのライブの告知にはいつも
「今回は3人出港バンド」「4人出港バンド」
というふうに付記されている。

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いわゆる歌以外に、
文明開化期ごろにちまたで大流行したという
オッペケペー節」をやることもあれば、
日本の伝統的な漁師歌や地方の民謡、俗謡の
レパートリーもおおい。
(これらは三線担当とチンドン屋担当のふたりが歌い手をやる。)
パワフルで、たのしいパフォーマンスだ。
われわれ日本人のルーツ感をくすぐってくるからなんだろうが、
詞の意味などはたぶんよくわからないであろう
子どもや若い人などもふくめてお客さんに喜ばれ、
ライブがすごく、盛り上がる。
きょうもオープニングに「オッペケペー節」をやっていて、
お客さんの心を迅速につかんでいた。

ボーカルの須田邦夫さんは
「夕日ビール」というバンドのフロントマンも兼任している。
(わたしもバンドとバンドの関係とかどっちの誰がどうとか 
そういう、系譜みたいなものはほとんど知らない。
だが、町田出港バンドと夕日ビールは一部メンバーがかぶる。
両者は関係があるとおもう。ご関心がおありのかたは
ライブにいらしてご本人たちに直接聞いてみていただきたい。)
わたしはむしろ「夕日ビール」を先に知っていた。その関係で、
町田出港バンドのことも知った、そんなおぼえがある。

須田邦夫さんときたら 
歌声がもう、たまらなくいい。
ポーンと地声を放り出すように歌うが、
技術の裏づけがなくっちゃあんな歌いかたはできなかろう。
声がとおくまでのびて、聴く側の心にすんなりしみいる。
さびしさ、せつなさの成分が、いつもすこしだけ
歌声に含まれているところもすてきだ。
8月末から9月初旬ごろの風にわずかに秋のつめたさを感じ
あ、夏が終わるなーとおもうときの、あれがちかい。
ただ元気なだけじゃない、ただ嘆くのでもない
深みのある、いとおしい声だ。

(わたしが彼らの音楽をきくタイミングは おもえば
だいたい初夏から盛夏にかけてやってくる。
そのためか町田出港バンド、夕日ビールというと
「夏」のイメージがわくものだ。)

カホンとパーカッション担当は中村秀正さんだ。
パフォーマンスをみていただくとわかるとおもうが、
この人は、あからさまにたのしそう。
わたしはメンバーのなかでは彼のことだけすこし知っていて
お会いすればお話をすることもあるが、
秀正さんは演奏から離れたときのキャラクターも 
この動画からつたわってくるかんじそのまんま。
たのしそうだし、ふところが深く、寛厚なかただ。
たまに彼が歌うとき、
須田邦夫さんのような安定感などが
あるかどうかはさておいても
あんまり愉快そうに、めいっぱい歌うので、
聴くこちらもたのしいきもちになる。
町田出港バンドの鷹揚さ、笑顔、たのしさの成分を
濃くするのに一役かっているのは、秀正さんじゃないか。

この人たちの音楽をきくと、わたしは元気がもらえる。
体にむだな力が入っていたことに気づかされて、
それが少しラクになり、そして芯からちょっと温かくなる。
つらいことを あとかたもなく忘れて
けろっとハッピーになれるとか、そんな
お手軽な(そしてありえない)ものではない。
しんどいことばかりだけど 
あしたもまたちょっとだけがんばってみるか。
あさってもちょっとだけがんばってみてもいいかも。
そう持ち直すだけの力をあたえてくれる。
・・・というよりは 遠慮がちに背中を押してくれる、という感覚かも。

町田出港バンドのきょうのステージは
3曲だった。もっと聴いていたかった。

夕日ビール・町田出港バンドのTwitterアカウント

twitter.com


あんまり更新していないみたいだが。
Facebookのアカウントをおもちのかたは
町田出港バンド か、
@machida.voyage
で検索すると、バンドのページに移動できる。
最新のライブの情報などが、えられるとおもう。

活動拠点は町田市が中心で
原町田の「タロー庵」といううどん屋さんや
木曽団地内の「隠れ家」という居酒屋さんで
定期的にライブを敢行している。

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隠れ家のほうだけ何回かいったことあるな。
いい音楽をやるバンドだ。
みなさんも 一度ライブに足を運んでみていただきたい。

新潟の小さい子の事件の速報にふれて-180514。

きのう、平清盛の全盛期(爛熟期?)にあたる時代をえがく
映画「地獄門」をみたところへ続けて、
人にすすめられてきょうから五木寛之
親鸞」を読みはじめたら、
こちらは平清盛後白河上皇の関係が悪化し、
平氏にあらずんばの時代に
かげりがみえはじめるころの物語だった。
「地獄門」では、清盛と後白河上皇
まだうまくいっていたみたいなんだけど。
ねらって観たわけでも読んだわけでもないが
偶然こうした流れになり、
ほんとに諸行無常、とつくづく。

・・・

新潟で小さな女の子が殺害されたのち線路に棄てられた事件で、
近所に住む20代の男性が死体遺棄容疑で逮捕されたとの
ニュースに接した。

インターネット上のその速報には
ユーザーによるコメントがすでに多数よせられていた。

実名報道をもとむ」
「極刑を!」
「ゆるせない」
「人命を奪い電車の運行をさまたげ人に迷惑をかけた。
ふざけるな」。

なんなのかとおもう。
とくに
「ふざけるな」とか
「ゆるせない」
「極刑うんぬん」って なんなのか。
逮捕された人物は(逮捕容疑が容疑でなく事実だとして)
べつにふざけてやったわけではないだろう。
電車の運行なんやかやにいたっては噴飯ものだ。
ゆるせないって・・・
なぜそこまでおもうのか(他人なのに?)。
ゆるせない、ってなんなのか。
ゆるしがいつ望まれたのか。
ゆるせないって、どういう気持ちか、わかってて書いたんだろうか。
わかってのことならば、なぜゆるす必要を感じたのか。
さらに言うなら、ゆるす必要をほんとうに感じたうえで
ゆるせないと書いたとはとてもおもえないのだ。
「極刑」うんぬんも、あまりにかるがるしくはないか。

ほんとはなにも言うほど考えてやしないのに
書かれたコメントばかりだ、としかおもえないのだが 
どうなんだろう。

ちがう。
だからどうしてほしいとか言ってるわけじゃない。
(わたしがどうしてほしいと仮に言ったからといって
どこの誰とも知れぬ コメントの書き手たちが
何かを改めなくちゃいけないなんてこと、ひとつもない。)
でも 
書きたいことをほんとに書きたい言葉で書いてないだろう。
なぜもっと自分が伝えたいことに近い言葉を
探そうとしなかったのか。
探したという形跡を、すこしでも感じさせる文言に
なっていないではないか、どれもこれも。
もし少しでも探したならもっとひとつひとつ
まったくおもむきのちがう文になるはずだ。
じゅうぶんに言葉を探してない、それだけならまだしも
いうほどなにも思ってやしないのに書いてないか。
それほどたいした意味を持たせる気もないのに
なぜ言葉を投じたのか。
結果 あつまったこの言葉の山の
肥料にさえならない こえだめみたいな 
おぞましさはなんなのか。胸が悪くはならないか。

ゆるすって なんなんだ。実名報道を求むとは。
それでなにをどうする?どうなるとおもって書いたのか?
実名報道するなと言っているんじゃない。
実名報道しろと言うな、と言っているんじゃない。
なんのつもりで書いたんだろう、と気になるのだ。
なんのつもりでもないのに書いたとしかおもえないからだ。
なんのつもりでもなく書かれたと考えてさしつかえなさそうなのに
やたらと気になってしまうのは、
言葉が投じられているのを見たからだ。
芸も工夫も思考の軌跡も感じられない
似たような言葉が 吐き気をもよおすほどたくさん
ひとつところに集まっているのを見たからだ。
これならゴミ捨て場のほうがまだすこしは分別があり
出した人それぞれの個性がかんじられるというものだ。

いやそんなことはどうでもいいのだが
感じるのだ。
軽視されすぎではないか。
インスタントすぎて正視にたえないではないか。
乱暴に無神経に、とびついてしゃぶりつき、
くいやぶって捨てすぎだ。しつけのなってないけものみたいだ。
そうではないか。ちがうだろうか?
なにがそんなにインスタント、乱暴に扱われていると
感じるかというと、
人命であり、おそらく人の立場であり、権利もだ。
おかしい。いちばんそれをやっちゃいけないと
わたしたちがおもうはずの 分野のことだ。
こういうふうに人を扱う人たちばっかりの社会にいると、
自分だって軽視され、無神経に搾取される側に
いつ まわることになるともしれない。

どうしてなんだろう、こんなにくるしいのは?

アルスラーン戦記9巻/読みたい本1冊/見失うことへの不安感

2週間くらいまえに道でつまずいて
足首の靭帯を何本かいっきに切る、
すなわち重度の捻挫というそこそこのケガを負った。
(いつも思うのだが、
遭遇するトラブルとその結果のバランスがおかしい。)
あんまりまじめに養生しなかったので
お医者さんに叱られたし
叱られてもけっきょくあんまりまじめに養生しなかったし
というか、いまも養生らしいことはしていないが
そのわりにはよくなってきている。
あと1週間くらいだろうか。

・・・

アルスラーン戦記」(荒川弘版)9巻で
シンドゥラ遠征編が完結した。
原作になかったけれども、もしこういうシーンが原作にあったら、
たしかによかっただろうな・・・とおもうような、
後日談的シーンが、ふんだんに挿入されていた。
いっぽうで原作の場面も、勘所をおさえて誠実に再現されており
屈指の名場面とわたしが認識する
ジャスワントアルスラーン麾下にはいるシーンも
ちゃんと描かれていた。
ラジェンドラとは、9巻をもってしばらくおわかれで、さびしい。
サリーマに袖にされるシーンの彼はよかった。
ラジェンドラを好きか嫌いかはもちろん人によるのだろうが、
器がちがうとわたしはおもう。彼は、あれでいい。
多面的で人間らしいキャラクターだ。
シンドゥラ勢には、物語の登場人物として、というかんじでなく、
現実にいそうな、人間的な「大人」が多いような気がする。
ラジェンドラやサリーマ、シンドゥラ先王、
マヘーンドラなんか、そういうかんじ。
「この人は、こういう生きかたで今まできたんだな」と
こしかたまでも、しのばれるものがある。

・・・

読む速度がいちじるしく低下した。
読みたいという気持ちも、減退ぎみだ。
必要にせまられないと、なにごともこうなるのかもしれない。
あれほどまでに読むことは、もう今後ないとおもわれる。
けっこうな本読みを自認してきたが、
その資格は返上したほうがよさそうだ。(誰にかは知らないが。)
手持ちの本をおもいきって処分してもいいかもしれない。
なければないで、案外平気だろう。
なんとなくさびしいきもちなどを本で埋めているのかも。
ゴミ屋敷のできあがりかたと考えかたがおなじではないのか。
ただ、少しまえよりは意欲はでてきている。
いま熱いのは
「貧困と自己責任の日本近世史」(木下光生、人文書院)。
貧困自己責任論がきかれる昨今だが、
この風潮がいまにはじまったことでないということを 
史料によって証しし、貧困自己責任論が生じた経緯を
考察するものだ、ザツにまとめると。
いまにはじまったことでないということがわかる史料
ってのが誇張でもなんでもなく垂涎もの。
書店でななめ読み済みだが、そのとき手がでないお値段で、購入せず。
細部を読みこまなかったことを後悔している。
初版は2017年の秋だが、県立図書館に早くも入っていることがわかった。
取り寄せの手続きをとった。

・・・

「頼られる」のは、
自分にこたえられる範囲内でならうれしい。
だが、たとえ自分にできることであっても、
「駆り出される」のは 
うれしくない。
属性でしか人を見ることができない人はどこにでもいる。
こういうふうに見られていたのか。とがっかりしたり
こういうふうにいつも見られてしまうんだよな。と
内心傷ついたりすることも、そうなるとでてくる。
自分だって人をそのように絶対に扱っていないかと言われると
自信がないし、おたがいさまだ。
まさにそれはおたがいさまで、おたがいに「そんなつもり」は
ぜんぜんないことがほとんどだとおもう。
ちゃんとすり合わせればたいがいのことはすっきりする。
こんなに性急に決めつけるんじゃなかった、
もっと早くちゃんと話せばよかった、
そんなふうに思うことばかりだったりする。
この「社会」でふつうに生活していくには、
いつでも自分に正直に、自分の人生のことだけを
考えているわけにはいかない。
その「いつも~なわけにはいかない」の許容量が
わたしはどうやら人よりすくないかもしれない。
神経質でワガママでしんぼうがきかない性格ともいえる。
あんまりそうとは考えたくないんだけど・・・、
冷静に考えると、そうとしかいえないとおもう。
いろんなことに耐えられなくなりやすく、
そのたび、からにとじこもりたくなる。
(そのくせ、からにとじこもることを承認されたかったりする。)
できるだけじっと自分のきもちの中身を見て考え続けていないと、
なにもわからなくなってしまい、
このわからなくなること、というのが
今やたいへんな損失、大事件のようにおもわれてしかたがないのだ。
原則、からにとじこもっていたほうが、心のためにはいいのかもしれない。
いろんなことをやりながら同時にきもちのなかも見続けるなんて
器用な作業は、不得手とおもわれるからだ。
すぐに疲れてしまうし、
ムラがありすぎてまわりを困惑させていないかも気になる。

わりといつも、思うように心のうちを話せないことを
感じて苦しい。その気持ちには本当に苦しめられる。

「地獄門 Gate of Hell(1953)」。

DVDで観てみた。

「地獄門」
(英題:Gate of Hell 衣笠貞之助監督、1953年、日本)

movie.walkerplus.com

 

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平治の乱前後の京を舞台にえがかれる物語。
原作は菊池寛だそうだ。

このポスタービジュアル、いいね。
左はじのコピー、意味わからないけど勢いがあっていい。
作品をまともに観ないで書いたコピーであることが
ひしひしと伝わる(笑)。

平治の乱は、平安末期の政変だ。
源義朝らが、後白河上皇・・をかつぐ平清盛一門・・
をたおして、平氏の台頭を阻もうとした。
平清盛が遠方にでかけたスキをねらっておこされたが、
しらせをうけて帰京した清盛勢にほどなくして鎮圧され、
けっきょく源氏による政権奪取ははたされず。

戦火は御所にもおよび、上皇とその妹・上西門院の身にも危険がせまる。
上西門院を逃がすのに身代わりがたてられることになり、
お付きの袈裟という女性が、その役目を買ってでた。
袈裟の車の護衛をした武士・盛遠は、美しい彼女にひとめぼれ。
論功行賞で、袈裟をめとりたいと願いでるも、
彼女は渡辺渡という御所付きの侍の妻だった。
しかし、あきらめられない盛遠はしつこく彼女にいいより、
妻にならなければ渡を殺す、と脅す。
悩みぬいたすえ、袈裟は夫婦の邸にあえて盛遠をまねきいれ、
夫の身代わりにその刃をうけて果てた。
盛遠は、自分のきもちを押し付けて恋する人を追い詰めた
身勝手を悔い、渡に自分を殺してくれと懇願。
だが渡は盛遠を手にかけることなく
なぜ夫たる自分に相談してくれなかったのかと
袈裟のなきがらをかきだいて泣く。
渡に殺してもらえなかった盛遠は、
袈裟の菩提をとむらうため、出家する。

・・・

演技がふるくさい。
録音の関係か、何をやってるのか聞き取りにくく
映像もガチャガチャしてときに状況が読めない。
セリフは重罪級に棒読み。

盛遠と兄の政治的対立の要素は
話がややこしくなるので、いらなかった。
それをけずって、もっとしっかりと
袈裟への妄執がエスカレートするさまを描いてほしかった。
実際的に会える機会が少なくても、
いや、むしろ少ないからこそムダに燃え上がる岡惚れの炎を
もっと描写してくれてよかった。

田舎ざむらいとさげすまれたという
北面武士を演じるには、長谷川一夫は品が良すぎた。
あと滑舌が悪すぎて何を言ってるのかわかりにくかった。

ただ、これら欠点という欠点の山を掘り返した底に
残って光るものはたしかにある映画だった。

カンヌでコクトーに絶賛されたというだけあり、
色彩はあざやか。
貴人の服の色柄もまじめに再現され
見入ってしまうものがあった。
音楽も個性的で美しい。

また、「地獄門」の意味をかんがえていたんだけれど。
最初は盛遠の暴走する妄念を指しているのかなとおもったのだが
それだけでもないことに気づいた。というのも、
渡が、妻の死を知って、盛遠にこんなことを言った。

「おまえはわたしに斬られて死ねば楽になれるのだろう。
だが妻に頼ってもらえなかったあげく、みすみす死なせた
わたしは、これから先どうすればいいのだ」。

袈裟が渡に窮状を相談しなかったのは
渡を信用できないからとかそういうつもりではなかったろう。
だんなさまに迷惑をかけてはいけない。
よその男に言い寄られるなんて、自分が至らないからだ。
そんなはしたない女が妻というので
だんなさまの評判が落ちたら・・・などと考え、
自力で問題を解決しようと思いつめた、そういうことのはずだ。
だが、渡も言っていたことだが、
夫としては相談してほしかった。頼ってほしかった。
世間に何を言われようとも彼だけは袈裟の味方をしたのに。
妻を守って、ストーカー化した盛遠と決闘できれば
それこそ本望だったはずだ。
なのに何ひとつ打ち明けてもらえなかったばかりか
最愛の妻の命とひきかえに自分が生き残る始末。

盛遠は袈裟の死をきっかけに出家し、罪をそそいで
煩悩からさめることもできるかもしれない。
犠牲になった袈裟も、愛する夫を守れたのだと
納得して死んでいったのだろう。
だが渡は、妻に信頼してもらえるだけの夫になれなかった、
そんな心の傷をかかえて生きていかなくてはならない。
盛遠のように出家して、妻の菩提をとむらうにしても、
妻に頼られなかった俺、というすさんだ心でする供養より
心からの改悛にもとづく盛遠のそれのほうが、
よっぽど仏の御心にかない、袈裟の霊をなぐさめるだろう。
まじめな渡はそこまで考えるのではないか。

作中に登場する山門「地獄門」は
義朝勢の首がさらされた場所であり、
乱ののち、盛遠が袈裟と再会した宿命の場所であった。
渡の殺害を企図した盛遠が、袈裟の邸にむかう途中、
琵琶法師に時刻をたずねたのも、この地獄門の下だ。

しかし出家した盛遠は、この門の前を早足でとおりすぎていった。

地獄のほうがまだましと思えるような
つきせぬ悔恨と苦悩をかかえて生きていかなくてはならなくなった。
地獄への門をくぐったのは、盛遠ではなく、渡。

連休のおもいで-ラフォルジュルネTOKYO/散走-180505。

5日5日。朝早く有楽町に行き、
ラフォルジュルネTOKYO(丸の内エリア)最終日をひやかした。

www.lfj.jp

アブデル・ラーマン・エル=バシャが聴きたかった。
来日の機会は、けっしておおくない。

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このCD何回聴いたか。

www.japanarts.co.jp


すっきり辛口の音で、暑苦しい解釈はしないのに
おどろくほど支配的で意思の強い演奏を聴かせてくれる。
(無味乾燥とも言われるようだけど)

www.youtube.com

 

www.youtube.com


彼のステージだけは1回でもいいから 聴きたかった。
だが 今年はついにチケットがとれず。

エカテリンブルクフィルハーモニー合唱団を聴いた。
https://beta.prx.org/stories/196216-dwf-16-22-yekaterinburg-choir-2-20-2017

↑ ここで聴けたけど いいのかなこれアップロードして。
リンクだけだからかまわないのかな(^^)??

正教の御法度にのっとる無伴奏の合唱団。
和声のうつくしさ、複雑さがなまなましくつたわる。

テノールの、ある団員さんに目がいった。
ひとことでいえば、風采があがらない。
小柄でやせ型、猫背。ゴーゴリにでてくる貧乏な小役人みたいだ。
表情に生気がない。目が死んでる。「どうしようもなくつまんなそう」。
楽譜を見て歌う合唱団なのに、彼だけなぜか譜面を持たず
両手をダラリとおろしていたのも、目立つ。

だが演奏を聴くなかで、
団員それぞれの歌声を分析できるようになってくると
この人がただの小役人ではなく
抜群に華麗なテノールの小役人だときづかされた。

全身からたちのぼる無気力感はお気の毒としかいいようがない。 
むしろ人一倍意欲的で、変人レベルでまじめな人なのかもなと
おもわされるシーンが多々。
後列のメンバーがソロを歌うために列を割って前にでてくるとき、
完璧なタイミングできっちりと体を横にし
彼らの通り道を作る。彼らが通りおわると
ドアのように ぱったん、と体をもとにもどすのだ。
ソロを歌うなどの活躍をしたメンバーは曲終了後に
シェフから紹介され、個別に拍手してもらえるが
そんなときにはどこぞの北の兵隊さんよろしく
様式美あふれる、パーフェクトに教練的な拍手で
率先して仲間をたたえていた。
歌うときに各自が自由に体をゆらしたり 身振り手振りをしたりする合唱団。
なごやかな雰囲気のなか、小役人さんだけが、死んだ魚の目で
正確無比なアンサンブルを生産しつづける姿は、わすれえぬ光景。

なんで楽譜もってなかったのか。
楽屋に置いてきちゃったんだろうか。もしそうなら
わたし本番当日に 家にリード忘れたことあるから人のことはいえない。

午後の予定まで時間があり、屋台村で軽いお昼にした。
混み始める時間帯のなか運よくイスがみつかった。
となりのイスも2つあいていた。
それらのうちひとつにバッグをおいて食事をとった。
すると、まもなく自分のまえに、
キャリーバッグをひき、片手に食事のトレイをもった
外国のご夫婦づれが。バッグをどかしてイスを空けたら
たいへんよろこんでくださった。だんなさんが
「ぼくもあなたが食べているやつにすればよかった。どこで買ったの」と。
直接ケータリングトラックまでおつれした。
だんなさんをつれてもどると、待っていたおくさんが
ロゼのボトルを移動販売で買い、グラスを3つもらい
一緒に、というしぐさをしてくれた。
ご夫婦はリトアニアのかたで、1月からずっと日本旅行中だそうだ。
1週間後に発ち、つぎはニュージーランドにいかれるとのこと。
バッグには特設店で購入したらしい
マリインスキー管弦楽団などのCDが何枚も入っていた。
おたがいに言ってることのたぶん2割もわかってなかったが
ボトルを開け 最終的には3人で「新世界」を大合唱。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

午後、明治神宮外苑までいき、サイクリングのイベントに参加した。
明治神宮外苑、南青山一帯を8キロくらいながすもので、
じっさいにはサイクリングほど本格的ではなく、
主催者側の造語で「散走」という。
(「散歩」の自転車バージョン、ということみたい。)

www.ove-web.com


とはいえ自転車は
11段階調節が可能なギア搭載のちゃんとしたスポーツタイプ。
わたしに貸し出されたのは真っ白のシンプルなデザインが
かっこよく・・・自転車 ほしくなった(^^)

自転車にまともにのるのはほんとにひさしぶりだったが
スタッフさんが列のあいだに入り先導・伴走してくれたため、
安心して走れた。
8キロは自転車だと あっというまで、
もっと走ってもよかった、というのが率直な感想。でも、
そうおもうくらいでやめておくのがちょうどいいのかも。

体を動かすのはたのしい。

・・・・・・・・・・・・

あとで この日のことを話したところ
友人に「飲酒運転じゃん!」といわれた。
いわれてみればそのとおりだ(^^)。

わからないのはバカだからじゃない-180504。

足を傷めているし 天気もやや荒れていたから
ここ2日は遠出をせずにおいた。
本を読んですごした。
ゲド戦記で涙ぐんだ。
講中
シュタイナー講座のテキストになっている、
「教育の基礎としての一般人間学」「自由の哲学」にくわえて
「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」も 
読んでみている。
たびたび意識がとおのく。
でもあきらめることじゃない。

自由の哲学だってあんなに意味不明だったのに
けっこう入ってくるようになった。
成長する。大人になる。ときを過ごす。
それだけで 読めなかった本が読めるようになることがある。
わからないのはバカだからじゃない。
成長してない。大人になってない。ときを過ごしてないからだ。
受け売りだけど。

言葉の生成について (内田樹の研究室)


さいきんもそういうのがあった。北一輝
学生時代、学習塾の先生がかしてくださった
日本改造法案大綱」、理解できなかった。まったく。
先生は読めるとおもったからすすめてくれたのだろうに
「わかりませんでした・・・」と本をおかえしし はずかしかった。
何十回となくリトライし昨今、入ってきた。
北一輝が活動したころの世界情勢 米・英・中・印
政党政治 派閥の興亡 軍部と天皇  
高校の社会科の資料集で 自分なりの感想をもてるくらいまで
(「二・ニ六事件は 将校さんたちみんなよかれとおもってがんばったのに
死刑になってかわいそう」とか(^^))
のみこみなおしてから読んでいったら 話がちがってきた。

書はわたしのためにあるのではない。
内容を理解するために努めて接近を試みる手もある。
言ってもしょせんは書ともいえ、気負うのもどうか・・・。
だがすくなくとも やる気をだすのは悪いことじゃない。
理解の方法はいくつもあり、さっき言ったように、
人としての成熟度やタイミングもおおきい。