BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-「蟹工船(2009)」ひどい-190321。

蟹工船
SABU監督、2009年、日本

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破竹の勢いでつまらなかった。
田舎の高校の演劇部でも
もうちょっと見させる
演出 脚色をするだろう。

この映画は、
原作のなにをも伝えられていない。

まさか
原作読まないで作ったんじゃないだろうな。

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青空文庫でも読める。↓

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松田龍平が いい男なだけに
つい最後まで観てしまった。

アニメ「ドリフターズ」13~14話/セリフのニュアンス-190318。

ドリフターズ」アニメ版の
13話、14話を
ぼけーっと 観てた。

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この13~14話で 観られるのは
きたる黒王軍との決戦にそなえ、
自軍増強のために
織田信長があれやこれやと
策謀をめぐらすところと、
その計画の 基礎となる
海洋商業連合×オルテ帝国の
和平交渉のエピソード。

わたし 原作でも
このあたりのエピソード、
スリリングで だいすき。

ただ
アニメの
サン=ジェルミのセリフは
ニュアンスが一部
まちがっている。
何回も聞いたけど・・・
やっぱり
まちがってるとおもうなあ。

それは、
オルテ帝国の全権公使、サン=ジェルミと
海洋商業連合のトップ、シャイロック
和平交渉のシーン。
サン=ジェルミが
・・・こちらから(オルテ帝国から)
ふっかけた戦争なのに
こんな話でなんだけど
お互いにとって
さらなる脅威となる敵が
迫っているから
ここでひとつ 矛をおさめましょう、
でもって もうしわけないけど
和平にあたって
うちになんの賠償請求もしないでね。
・・・と もちかけるところだ。

賠償免除を要求する根拠として
サン=ジェルミは

「どーせうちの海軍も
廻船商人も壊滅してる
海はあんたたちのモノじゃない 
飲んでよ!!」。

この
「海はあんたたちのモノじゃない」が
アニメだと
「海はあなたたちのものではありません」
のニュアンスに聞こえる。

でも、
文脈から考えてこれは
「どうせ海の権利は今やぜんぶ
 あんたたちのものなんだから
(賠償なしの白紙和平でも)
 いいでしょ!」
のニュアンス、つまり
「海はあんたたちのモノでしょうが!」
的な言いかたが 
正解ではないか。

海で好き勝手できる
実権を手にしたことが
賠償金の代わりになるはずだ、
ということだ。

じっさいこの前の前あたりの
エピソードで 
商業連合のナンバー2 ブリガンテが
いまや海洋の覇権はわれわれが
握った、といった意味のことを
言っている。
サン=ジェルミは
商業連合がオルテ帝国を
ボコボコにしたことを
ちゃんと把握している。
いちはやくそれを予測し
オルテ帝国の命運が尽きると
判断したからこそ
彼は 漂流物側に与した。

「海は商業連合の手に落ちた」。
サン=ジェルミは理解している。
それなのに この和平交渉で
「海はあなたたちのものではありません」
は、おかしい。

これはもったいない・・・

おもいかえせば
アニメでは
そもそもの そもそも
いちばんはじめ
第1話の豊久のセリフも
リズムがおかしかった。

平野耕太のマンガ作品は
・・・といっても 
ヘルシング
ドリフターズくらいしか
読んだことないが・・・
セリフがすごく独特だ。
一般的な日本語の言い回しで
考えると
ちょっとおかしい、というような
ところや、
それ必要?といった
繰り返しなども見られるのだが
全体の流れでみると それが
とてもまとまりがよく、
また 忘れがたいシーンを形成する
重要な要素になっている。
あれがすきで読んでるファンは
わたしだけじゃないのでは

アニメでは
基本的に そうした
原作のセリフが
よくぞここまでやってくれました!
とおもうくらい
誠実に再現されている。

だからこそ もったいない・・・
と 思わずにいられない

でも それでも

おもしろいから OK。


商業連合と和平をとりむすんでこい、
信長にそう要請されて
サン=ジェルミがキーキー言う場面
原作でもおもしろかったが
アニメで
キャラクターが動いてしゃべると
ほんとにおかしくて
ゲラゲラ笑ってしまう。

本筋には関係ないが
ヘルシングOVAと同様
ヴェルディのオペラアリアなどの
クラシックナンバーが
じょうずに使われているところも
いいところ。

それにしても
自分が
こんなことを
考えるのもなんなのだが
いったい
ドリフターズ
このようなマンガを
好きこのむなんて
どういう種類の
人間なんだろう・・・

つまんないとおもう人には
まったくもってつまんない
マンガのはずだ。
こんなものがアニメにまでなって
いったい
だれが観るんだ、という
かんじだ

わたしは
ブルーレイまで買っちゃってるが。

The Cavemans-190318。

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なかなか体調がもどってこない
まだねんのため
おとなしくしといたほうが
いいだろうなという
かんじである

迷ってた。
だけど 今日という日が
近づいてくるにつれ
何をしていても 
気になって 
頭から離れなくて
そわそわしてきて
今日 
最悪でもこの時間に出発しないと
まにあわない、という時刻の
30分前にまでせまったところで

こんなに迷うだけ
心と体力の浪費だから
もう 行こう・・・
タクシー使って行こう・・・
それでいいじゃないか・・・
とまで 考えるにいたって
行ってきた。

ライブ。

わたし
The Cavemans
だいすき。

彼ら聴いてすぐ帰った。

ミュージックビデオなども
YouTubeで公開されているけど
それらは音が整いすぎている。

ライブで聴いたほうがいい。

つらすぎ。-190313。

会社のひとたちみんな
セキするか くしゃみするか
鼻すするか 目薬さしてるか
生理痛で唸ってる(1名)

カゼと花粉と生理痛の季節だ。

パートのおねえさんが
わたしも生理痛重いから
きもちとってもよくわかります
といって、かえり道
駅で別れるまでずっと
いっしょにゆっくり
歩いてお話してくれた。
おやさしいから
わたしこのひと
だいすきだ涙

月経困難の
有効な治療方法として
お医者にピルの使用を
すすめられても
薬であるから副作用があるので
うのみにせず
慎重に考えたほうがいい、
とアドバイスしてくださった。

自宅の最寄り駅についたが
自宅までこのまま
あるくのかとおもうと
たいした距離でもないのに
あんまりつらくて
いま駅ビルのカフェで
休んでいる

こんなことを自分がするとは
おもわなかった。

レジにさきに並んでた
おじいさんが
すごい長考型で
メニューをきめるのに
なんと5分かかった
レジはひとつしかなく
待つ人はどんどん
ふえていくのに
動じないところが
ほんとうにすごかった
待ったわたしもわたしだが
そのくらい
なんかもうつらすぎて
じゃあどうするとか
ほかのお店にとか
考えたり決めたりする
気力がなかった

からだの求めにおうじて
たっぷりついだ
ホットココアに
ジンジャーパウダーを
まぶしてもらった
飲んでみたところ
気分がかなりましになった

体があたたまるなあ。

あしたはもうすこし
らくになっているように
祈らずにはいられない。

・・・

ピエール瀧
コカインをやったかどで
逮捕されてしまった。
容疑を認めているという。

ばかだなあ。
でもやっちゃったものは
もうやっちゃったのだ。
どうしようもない

人間の行動って
理由がないときもたくさんある
なんでもへったくれもない
やっちゃったんだから
しょうがない。

赤江珠緒さんを
あんなに泣かせて。
かわいそうに。

ばかだなあ。

こまった毎月のお客さん/こんなわたしでも成長できる-190312。

毎月くるべきものが 
2017年の末から
2018年の末まで
ほぼ1年間 とまってた。
昨年11月頃に再開し
以来ちゃんと
毎月 きてくれているが
こんどは ものすごく
痛むようになった。
このように 激しく痛むことは
とまるまえまでは 
なかったことだった。

とくに今日のあけがたから
午前中などは
激痛で目が覚めて
立ち上がることも難しいほど
それに 痛むばかりか 
高熱と激しい頭痛に悩まされ
下半身をめぐっている血液が
ぜんぶ出ちゃうんじゃないかと
おもうくらいの 出血。

このたぐいのことで 
病院にいくのは
ほかのことでも
もちろんイヤだけど
わをかけて・・・もっとイヤだ。
でも
行かなくっちゃいけないかなあと
さすがにおもう。
悪い病気とかだと
こまるからなあ・・・
わたしも30代なので
それなりにいろいろ
あると思ってなくちゃ
いけないだろう。

しかしさいわい 夜になって
ようやくらくになった。


・・・


毎日毎日 
なにかしら書いてきて
過去のものを 読み返し
今と比べると
自分の文章力が
確実にアップしていることが
わかって うれしい。
伝える力が向上している。
語彙が増えている。
それに 大人になったのか
思考力もちゃんと伸びている。
自分でものを考えることが
できるようになっているのだ。

ああ自分もさすがに
1ミリたりとも成長できないほどの
バカじゃないんだと おもえて
それってすごく 感激だ。

レーニングといえるようなことを
しているわけではない。
レーニングなんて
方法がそもそもわからないし
そんな名前がつくと
わたしはたぶん とたんに
やらなくなる、
やらなくちゃいけないことのような
気がして 身構えてしまうのだ。

できるのはただ
自分で書いたものを
読み返して
もっとこうしたほうがとか
別の言い方はないかとか
ここは何をいってるのかわからんとか
いろいろつきあげてくる
その衝動に任せて
ひたすら書き直してみる 
それを何回も何回も
くりかえすことだけだ。

でも 成長する。
それでも成長する。

ほんの2年もまえの
ものになると
外国語かとおもうほど
われながら
何をいっているのか
さっぱりわからないか、
なんてまぬけなことを
いかにも いいこと思いついた風に
悦にいって書き散らしていることかと
はずかしくって たまらないかの
どっちかしかない。
こんなものを世間さまに
さらしとくのは 罪悪だろう。
ぜんぶ削除してしまいたくなる。
でもなにやら それももったいない
財産になるからどんなことでも
ちゃんと全部書いて残しとけと
言ってくれた友人もいた。
それだからこそブログも
始めたのだった。

削除ではなく 
書き直すのだ。

こんなこと 毎日あきずに
やっているから
わたしは よくかんがえると
あんまり 家で
たいくつすることがない。

映画の感想-「キャタピラー Caterpillar(2010)」-190308。

キャタピラー
英題:Caterpillar
若松孝二監督、2010年、日本

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わたしは 好きじゃない。
決定的な ねじれのようなものと
欺瞞を感じる 映画だからだ。

・・・

<シゲ子を案ずる必要がない>
シゲ子を、わたしは
一度も 案じなかった。
感情表現がゆたかで
しかもオープン、
そのうえ誰よりも声がでかい。
彼女の叫びを さまたげるものも、
周囲にまったくなかった。
さらに、
自分の立場を守るために、
適当な演技で世間体をとりつくろい
そこに自己矛盾を感じすぎないよう
感情を処理するのも
じょうずな人だ。
物語が始まった当初から、
つまり夫が四肢欠損の状態で
帰ってきた冒頭のシーンから
わたしはシゲ子を
心配することをやめた。
その必要がない。
本作はいわば
「あたしは幸せ!」
「あたしは自由!」
「何があろうと誰よりも強く
 生きていってやるのよ!」
シゲ子がそう謳歌するだけの
2時間だ。

・・・

<久蔵の未来は見えすいている>
気にかけるだけの何かがあるとすれば
それはシゲ子の夫、久蔵。
彼に のこされたものは
健康な「男性の機能」と
戦地でみずから作った「罪」の記憶、
そして「名誉」だが、
それらを持っていること自体が 
久蔵を追い詰めていくこととなる。
「こんな状態になっても
まだ思い通りにできるものがある」
最初は そう思いたくて
妻を求めたように見えた。
だが、腕があったころには
力ずくで組み伏せていたものも
いまや口にくわえたエンピツで
紙に「やりたい」と書きつけ
妻にうなずいてもらわなくては
行為がかなわない。
そうして行為がなんとか
たちゆくようになると
こんどは妻とのそれが
おのれの心の傷をかきむしられる
つらいものでしかないということに
気づいてしまうのだが
彼にはそれを拒絶する力がない。
さらに、
犯した罪について語ること、
それは久蔵の心の救済に必要な作業だ。
でも、言うまでもなく不可能だ。
機能的に困難だし、
語れる内容ではないし、
聞き手として考えられる相手、
つまり妻との関係は はるか昔に
自分の手で破壊している。
そして彼の「名誉」は、
敗戦とともに価値を失う。
久蔵の未来は
もう決まっている。
予想どおりの結果となった。

・・・

<「反戦映画」とは言えない>
本作を
「これが戦争だ」などという
コピーをはりつけ
反戦映画として提出した
その点にわたしは
どうも、疑問を禁じえない。
たしかに、
シゲ子の生命力を解放せしめ、
久蔵のいじけた攻撃性を閉じ込めた
または
シゲ子の生命力を閉じ込め
久蔵のいじけた攻撃性を
解放せしめていたのは
戦争、だったといっても
そこにさしつかえはなさそうだ。
だが、そうであるならば
この映画にとって「戦争」は
舞台装置にすぎない。
そういう使われかたしか
していなかった。
シゲ子と久蔵 どちらの精神性を
光のもとにおしだすかの
切り替えスイッチ
回り舞台の軸部に
「戦争」があっただけ。
軸は「戦争」じゃなくてもいい。

心弱い者が巧みに人を支配下におき、
そのすこやかな心をおびやかす。
そうした構図は
現代の日本にも
見いだせるではないか。
たとえば いじめや 
各種環境下におけるハラスメント
野田市の小4女児虐待死事件のように。

不当に抑圧された心が
解放されるきっかけは
「戦争」のほかにもいろいろある。
逆に、おだやかでふつうの
精神性の持ち主にみえる人物が
独裁者、支配者に豹変する
そのきっかけも 
「戦争」でなくとも あちこちに
転がっているのではないか。

本作において
戦闘シーンなどが
実在の記録映像に
たよりきりであること、
広島・長崎の原爆による死者数や
玉音放送」の内容の「口語訳」が
安直な白字のテロップで
表示されることなどから、
とってつけた印象をうけて
わたしは
きもちがわるかったのだとおもう。
本質的に、反戦映画になろうとしている
映画であるとは言えないのに
作り手は反戦映画だと言う。
あるいは本質的に反戦映画じゃなかった
撮ってみてそのことに気づいたが
反戦映画ということにした、
そこがどうも独善的で姑息
というかんじだ。

これは完全にひいきめだが
反戦映画のつもりなら、
たとえお金がなかろうと
結果 不十分だろうと
戦争にまつわるシーンを
新しく自力で撮る気概がほしい、
「野火」(2015)のように。

york8188.hatenablog.com


しかるに
本作「キャタピラー」は
久蔵が戦地においてある罪を犯す 
本作の最重要項目といえる
シーンさえ
眼もあてられないほど安っぽく
「セット」感まるだしだった。

・・・

<戦争と個人の対比が活きてない>
「死」の象徴「戦争」と
「生」の象徴「セックス」との
ダイナミックな対比構造を 
指摘する意見もあるだろう。
だが
マクロ(本作では「戦争」)
を わからせるために
ミクロ(本作では「セックス」)
と対比させることは
個人の共感を呼ぶために
きっと必要になる作業だ。
戦時を舞台にするとき
この構造の導入はむしろ容易では。
また、両者を対比させたいにしては
そのわりに 本作はザツ。
先にのべたとおり戦闘シーンは
記録映像の切り貼りで、
久蔵とシゲ子のシーンにも
とくにこれといって
観る者の眼に焼き付けてやろう!という
意欲のようなものが
感じられなかったのだ。
素人目にみても撮りかたが
変化に乏しく たいくつであり、
クローズアップが少ないために
熱感も伝わらない。

・・・

 

<久蔵から奪うべきだったものは>
では本作は
何を描いた映画として
仕上がるべきだったのだろう。
どこがどうなって
どんなふうに手渡されたら
わたしはもっとすんなりと
本作を受け取れたのか。

ひとつ おもうのは
久蔵が失うものが
精神/脳と、男性機能だったら
話が違ったかも。
イメージとしては
植物状態」で帰ってくる形だ。
本作は逆だ。
手足と声と精悍だった容姿を失い、
脳と男性機能は、健康なまま。
かつてシゲ子を苦しめたのは
おもに夫の高圧的なふるまいと
暴力をともなう性行為の強要だった。
逆に言えば
夫が おだやかで心優しく
夫婦生活に愛がありさえすれば
シゲ子は苦しまなかった。
シゲ子の幸福はそこに
かかっているということだ。
とすれば
もし、精神が破壊され
セックスもできない状態となって
久蔵が帰ってきたならば
シゲ子は彼の出征前よりも
「不幸」になったことだろう。
というのに語弊があるならば
シゲ子の幸福の可能性が
永遠に宙に浮いただろう。
なぜなら、かつて彼女を哀しませた
夫の人間性を作り上げていたのは
彼の精神/脳だが、
それが壊れたとなると、
シゲ子は恨みをぶつける先がない。
夫がいまや非力なのをいいことに
「あのときはよくもひどいことを
言ってくれたわね」
などと 怒りをぶつけたくても
夫がいまや非力であるからこそ
「何を!嫁の分際でうんぬん」と
かつてのように言ってくれないばかりか
傷ついた表情ひとつうかべない
それがむなしくなるだけだということが
シゲ子にはすぐにわかるはずなのだから。
そして、若く健康な彼女が 
体のうずきをなぐさめる
対象も同時に、ない。
それでいて、
夫がお国のために粉骨砕身した
軍神さまとして
祀り上げられる存在となったので
シゲ子は妻として
久蔵を介護する責任から
のがれることができない。

これならシゲ子のゆくすえを
わたしはもうちょっと
案ずることも できたろう。

夫が手足と声を失って帰ってくる
これも もちろんそれなりに
やっかいな事態ではある。が、
口こそきけないが精神が生きている。
一方的なものにせよ性交渉が可能。
ふたりには魂の交歓の
可能性が残されてしまう。
これでは
シゲ子の追いつめられかたは
半端と言わざるをえない
とおもうのだ。

久蔵から奪うものを
精神/脳と、男性機能にすると
見た目にわかりにくく
パンチがきかない。
だからこの案はもちろん
採り入れるわけにいかなかったろう。
でも もしこうすれば
かなり陰惨で、現実感のある
ドラマになったのかも。
そのうえであえて
敗戦のところまで
物語を描かずにおけば
さてこのあとシゲ子は
どうなったのでしょうかと
シゲ子がこんな思いをしなくては
ならなかった理由はいったいどこに
あるのでしょうか、と
鑑賞者に考えさせることも
できたのではないだろうか。


久蔵はたしかに本作においても
ストーリーの終盤くらいから
妻との性行為によって
おのれの心の傷が呼び覚まされるという
激しい苦痛をおぼえるようになり
精神の均衡をくずしはじめ、
性的不能の症状をも ていしていく。

シゲ子はその理由がもちろん
わからない。
それに、
夫が何かつらいことを抱えているようだ、
悩みを解消してあげられないかしらと
案じてやろうとするほどの
夫婦の信頼関係が
そもそもふたりのあいだには
構築されていなかった。
いくらなんでももうちょっと
考えてやっても
よさそうなもんだと
他人事にせよおもったくらい
シゲ子は案外鈍感だった。

久蔵の内面的な崩壊の速度は
かなり緩慢で、まだらでもある。
シゲ子はそこに目を向けない。
彼女はどんどんたくましくなる。
夫の介護がうまくなる。
夫のわがままのかわしかたがうまくなる。
夫が不能になってもそれほど不満でなくなる。
夫を利用するようになる。
情勢の変化に適応していく。
久蔵の心の崩壊が 妻を苦悩の底に
ひきずりこむ力よりも、
シゲ子の生きる力の目覚めと
その輝きのほうが 早く、強い。
敗戦のしらせに接したときの
はれやかな笑顔をみれば
シゲ子が今後 自分の力で
幸せを獲得していけることは
ますます確実におもえる。
夫から両の手足と声を奪うくらいでは
シゲ子を不幸にはできなかったのだ。

久蔵は いつかこうなるだろうと
予想されたとおりの
末路をたどることになった。
でも、彼に意思があり
両手両足を失っても
自分で自分の最期を
決める力が残されていただけ
彼はまだ自由だったと
言えると わたしは思う。
末期の姿には
痛々しいものがあったが
こうなるように自分でしむけた
といえるのでもあり、
また、なんといっても
幕をひいたのは
彼自身だった。

久蔵に
自分でものを考えられるだけの
健康な思考力と精神を
残したことは
失敗だったとおもうし
だんだんとそれが失われていく
という流れにしたのも
いささか半端であったとおもう。

・・・

<まとめ>
反戦映画であるとは言えないのに
反戦映画の顔をしているところに
欺瞞を感じる。
戦争のために
にっちもさっちもいかぬ
状況においこまれ
人が不幸になる・・・
国が始めた戦争の責任を
個人の肉体が負う・・・
だから戦争はいけない、
そう語るのであれば
もっと決定的な形で 
久蔵から奪うことによって
立場の弱い 女であるシゲ子を 
不当に暗い場所へと
追いやるべきだった。

映画の感想-「野火 Fires on the plain(2015)」-190307。

「野火 Fires on the plain」
塚本晋也 監督・製作・主演
2015年、日本

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大岡昇平の小説の映画化だけど
原作を読まないで観ても
とくに問題はない。
もちろん 原作は ぜひ
どなたさまにも一読を
おすすめしたい。

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本作を鑑賞したあと
原作をわたしも読み直した。
田村一等兵は戦地で病を得て
中隊から追い出されて以降、
どこの集団にも
けっきょく最後まで
所属することができない。
病院は破壊されてもういられない
一歩も歩けないというほど体は悪くない
気の弱い者を下僕のごとく使うような
イヤな人間にもなりたくない。
食べ物を誰かと奪い合うような
はずかしいことをしたくない
自分の靴がやぶれても
死体から靴をはいで失敬することは
できれば最後までしたくない
人をできれば殺したくないし
もちろん自分も死にたくない・・・
態度を決めかね ぐずぐずした結果
荒野を彷徨う羊となる。
田村はたったひとりだ。
どこにも落ち着いていられない
行けそうな場所もどこにもない
でも、死ぬこともできない・・・
というとき
人がどうなるかという、
小説なのかもしれない。

・・・

「賛否 まっぷたつだろうな」
が 鑑賞直後の感想だった。
わたしは、すきだった。

塚本晋也監督作品が
自分はけっこう
好みなのかもしれない。

お金がなかったらしく
安っぽく見えるところが
ちょいちょい見受けられはしたが
夜の闇と光と音をつかって
かなり上手にやっていた。

「極限状況下の人肉食など
平時の環境下で紡がれた倫理によって
どうこういえる問題じゃない。それに
生きるためにやむなくしたのを
だれも責めはしない。
なのにことさらそれを扱って
戦争はむごいねとか語るのは
おおげさであり わざとらしい」
「過激なグロやスプラッタで
描写する反戦映画なんて
いまさら感があり、古い」
「きもちわるい」
「救いがない」
「ハードすぎてかえって喜劇」
市川崑版のほうがよかった」
「田村の心の変遷が描かれない」
・・・
まあ 公開当時
だいたいこんなことをいわれて
けなされたであろうことは
想像できる。
それはそれでわかるな。
わかる。
わかるけど・・・

わたし
この映画、よかった!!

映画というよりも、
「野火」の映像化というよりも、
モザイク画、
写真集、画集をながめるような
感覚で観た。

いや、本作は
かなり忠実に
原作のストーリーを
なぞっており、
「野火」の映画化作品であることは
もちろんたしかだ。
このシーンは原作のあの場面
あの場面を映画では入れてない
あのセリフが映画ではこうなってる
ちゃんとわかる。
まちがいなく「野火」だ。

だけど描写のひとつひとつに
小説のそれとはあきらかにことなる
特異な熱がこもっていた。
映画をとおしてにじみでる
原作の熱ではなかった。
「野火」の原作はその点でいくと
また まったく別個の
ものをもっているのだ。

連続性、一貫性が多少欠けても、
ほかに(わたしのわからない)
何かの要素が足りてなくても
すべてのシーンを
今できるせいいっぱいでもって
撮りきろうとした。
それは
誠実さのようなもの
いったんとにかく絶対に
自分の手で形にするんだ、との
強い意志をつらぬいた、
そんなようなことを、
熱としてわたしは受け取った。

監督が感じたとおりの、
「このまま」を
焼き付けるのには今しかない
その衝動が
苛烈で爆発的な
非連続性の描写の
つみかさねとなって
あらわれたのではないか。

語るべきことを持っていても
伝える手段、効果的な言葉が
ない、そういう人はいる。
もう年をとっていて
伝えたくても
時間も体力もないとか。
太平洋戦争の体験者などは
まさにそうだろう。

でも他者が受け取って
代わりに伝えるという
やりかたがありえる。
そのときは
受け取ったことがらに
対する姿勢としてなにより
誠実であるべきだ と
わたしはおもう。
どんなに努力しても 
結果 足りなかったり
やりすぎたり、そういうことは
さして問題にならない。
罪悪なのは
「不誠実であること」
なのではないかな。



頭蓋骨がこなごなに砕け、
そこからあふれた脳みそが
機銃掃射からにげまどう
兵士たちによって
踏みつけられ
バシャッ、という音がする。

顔の皮膚の左半分が
眼球もろとも べろんとはがれ
アゴの下で
まさに皮一枚でつながっている。

露出した腸があふれだし
垂れ下がって地面につく。
はやくもそこにハエがたかる。
でも本人はまだ生きていて
アワアワ言っている。

けもの道の両脇に
死体や死体や死体や死体や
行軍できなくなった兵士たちが
ぎょうぎよく並んで寝ている。
歩ける兵士たちは
もうそのようなものには目もくれず
ほとんど無意識に
当たらないよう避けながら
とぼとぼと歩を進める。

「良い日になってよかったです」
のんびりとした口調で言い残し
若い兵士が手榴弾で自決する。

米軍の捕虜探索のジープに
現地人女性が乗っている。
保護されたのだろうが、
それまでに、
なかば暴徒と化した日本兵によって
よほどの目にあわされたと見える。
白旗ふって車に走り寄る日本兵
人間ともおもえないような声で
ギャーギャー叫びながら
機関銃でハチの巣に。
米兵が「NO!」と叫んで
必死に制止しようとしている。

廃墟と化した教会堂で
現地の恋人たちが愛しあう
その外には
何十もの日本兵の死体が
つみあげられている。

人差し指ほどもない
たった1本の  
ちいさなイモを
上官と部下とが
血眼でとりあう。

餓鬼さながらにやせた
田村と永松が
岩場につきさした銃剣を
相手よりも一瞬でも早く
とりにいこうと走る姿は 
命の奪い合いにもかかわらず
「ビーチフラッグ」ゲーム
のようだ。

連続はしてない。
メッセージを持たされている
わけでもおそらくない。
だけど鮮烈だ。
描写として、すさまじいまでに。
一貫していることが何かあるとすれば
花も雨も沢の水も、砂も樹々も
風景は常に美しいのに
人間だけがきたならしくて、
しかも激しく損なわれていく
ということだけだった。

それ以上に、でも、
何が必要だろうか。


原作において
田村はクリスチャン(棄教者)だ。
抑えがたく暴れる生存本能と
あわい信仰のうずき
飢餓と理知とのはざまで
彼は苦しく葛藤することになる。
それは、映画では描かれない。
信仰の有無をしめす
描写さえも排されている。
思考や感情の
説明になりえるシーンが
ほとんどないので
彼の心のうつりかわりを
映像からおしはかることは
かなりむずかしい。
しかしながら、
朽ちた教会にしのびこむ
シーンはよかった。
彼は 
まるで「悪さ」をしたことが
ばれないか内心びくびくしつつ
必死につっぱって平静をよそおう 
少年のようだった。
祭壇との距離感が 絶妙なのだ。

道端にたおれた死体の
耳や首のところにわく
巨大なウジたちをみおろして
「生のほうがうまいか」
とつぶやく田村。
しかし
死んでいるとおもわれたその兵士が
「ああ??」と凄んできたので
おもわずたじろぐ。
このシーンはわたしに
田村の精神の危機をしらせる。
口ぶりから、
すでに飢餓にたえかね
人肉に手をだしてしまったか、
というかんじがするのだが
じつはこの時点では食べてない。
狂い始めている。
田村のなかで
現実と幻想の区別が
このあたりからぼやけてくることが
あとで考えるとよくわかる。

兵士はやっぱり
死んでいたかもしれない。


※もっとも、たしか原作では
このシーンにあたる場面は
水たまりにつっぷして
倒れている兵卒をみて
おれもそのうちこうなるのかな、と
誰かが言ったところ
てっきり死んでいるとおもったその兵が
「何っ!!」と起き上がる、という
流れだったおぼえがある。
おれもそのうちこうなるのかな、は
田村の言葉ではなかった。



田村は 復員し
妻との平穏な生活をとりもどす。
しかし、その心に
安息のときがおとずれることは
もうない。

彼にとっていまや
食事の時間は
苦しいものでしかないようだ。
彼は食事をする姿を
どうも妻にも見せたがらないらしい。
見せてもらえないので、
なぜ見られたくないのか、
何をしているのか、
はっきりとはわからない。
しかし、妻は夫の食事を
ある日 彼の背中越しにではあるが
目撃する。

体を激しく
上下、前後に振りたてていた。
一般的な、人間の日常の動作の
何にもそれは似ていないが
あえてなにかにたとえるなら、
呪術、祈祷・・・とか。
そう、田村は拝んでいた。
何十回と 狂おしく、
なにものかに届けようとして。
上半身全体をこわばらせ
臍にむかって
集約させるように
ちぢこまらせている。
組んだ両手をシェイカーのように
上下に振るときの、きぬずれと
両の手をあわせてさするような音が
ちいさく 交互にきこえる。
キリスト教式に手のひらを組むか
仏式に合掌してこすりあわせるか
しているのだろう。
つまり宗教的な行為だとしても
拝む神なんかは なんでもいいのだ。
この動作は
不安神経症のように
いつまでもとめどなくつづく。
そうしてからでなければ
ものを食べ始められないようだ。

やがてなんとか箸をとる。
しかし、
ものすごい速さで
かきこんで おしまいだ。
食事という作業を
「だれにも(神にも?)
知られないうちに
一刻も早く終わらせたい」
とでもいうかのように。

田村のようすを見つめる妻の
微妙な表情の変化が美しいとおもう。
推測だけれども
本作の設定において 
おそらく田村は
ふだん食事しているところを
見られたがらないどころか
食べることそれじたいを
なんだかんだと理由をつけて
しぶるときもすくなくないのかも。

だから妻は 夫の食事を
盗み見し始めたとき、
置いておいたお膳を
夫が引き寄せたところを見て
安堵したような表情をうかべる。
「食べようとしている、よかった」
というかんじだろうか。
すこし目元がゆるんで
微笑のように
見えなくもない顔なのだ。

しかし、彼が先述したような
およそ これから食事をしようと
するときのものとはいえない
奇矯な行動をとりはじめると
妻の表情は凍り付く。
※そもそもお膳を引き寄せるとき
位置的に彼は体を横に向けたので
背後にあたる部屋の入口に
妻が立ってみていることに
気づいてもよかったはずなのだ。
見られたくない姿を
いままさに見られようとしているのに
田村はそれでも妻の存在に気づかない。
彼はこれから 
すさまじくやりたくない一方で
やらなければならない、あることに
精神のすべてを集中している
ということなんだろう。

妻は田村のおかしな行為を目撃し
激しく動揺した表情をみせる。
だが、さすがというのか
あの人 狂ってしまったわ、
病院に連れて行かなくちゃ、
そのへんの解釈を
いったんすばやく脇におく。
彼の中に ああでもしなければ
とてもいられない
何かが巣食っているらしい・・・
そう 直感しつつあるのか
ひそめていた眉をひらき
「見てしまったからには、
見とどけなくては」と
覚悟を決めたようすをうかがわせる。

田村の「食前の儀式」は
このわたしにも
彼の心に開いた巨大な穴の
深さ暗さをつたえてくる。