BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

最近読んだ本の感想をちょっとだけずつ。

このところ 読んでた本の感想。
読んだもの全部は思い出せないから 
思い出せるだけ。
マンガもいろいろ読んでるけど
そっちはまた別枠で。




チャールズ・ブコウスキー柴田元幸 訳
パルプ
ちくま文庫

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→これ以下はないってくらい 
下の下の下な私立探偵・ニックのもとに
いくつかの奇妙な依頼がいっぺんに舞い込む。
とっくに死んでいるはずの著名な作家を探してほしい。
宇宙人にとりつかれてる。
妻が浮気をしてるみたいだ。
赤いスズメを探してほしい。・・・
ブコウスキーは「くそったれ少年時代」がいちばんすきだけど 
柴田元幸さんの訳書という枠ではオースターよりも
ミルハウザーよりも何よりも
この「パルプ」がすきだ。
というか柴田元幸さんの訳でなければパルプ読みたくない。
ほんとうにたまにだけど 狂ったように読み直したくなる。
ブコウスキーの才能を見出した編集者は 優秀だ。
才能だ、と信じたところが まずすごい。
ただ これからパルプ読もうとおもう人は
あんまり わかりやすい「感動」みたいなものを
もとめて読まないほうがいい。
「小説とはこういうもの」
っていうのを頭に持った状態で
読むと 不当にガッカリすることになる(^^)
そういうやつじゃないから(^^)





中村智志
「命のまもりびと 秋田の自殺を半減させた男」
新潮文庫

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秋田県で、中高年の事業主などを対象とする
自殺防止相談窓口のNPO法人をたちあげた 佐藤久男という
人物についての 密着ルポルタージュ
秋田県は自殺率がかなり高いらしいのだが、
それを数年で半減させた功績に大きく貢献した人物なのだそうだ。
佐藤氏自身も会社経営者として かつてものすごく
苦労された経験があり、その頃のことを振り返る章が
とにかく圧倒的。
あと、日本における自殺問題の基礎情報にかんしても
詳しく解説されていて 勉強になった。
日本国内では 自殺率のカウントの指標が
ひとつではなく、ふたつあるということを 
わたしこの本読むまで
知らなかったし。




西村雄一
「殉愛 原節子小津安二郎
講談社文庫)

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→映画監督の小津安二郎と女優・原節子との絆について
関係者への取材とゆかりの地歴訪を重ねて まとめた評伝。
うーん おもしろかったけど
かんじんの小津監督と原節子
話を聞けてないってところが 残念というか、
それいっちゃあおしまいなんだけれど、
でも やっぱり・・・。
監督はしかたないかもしれないけど
原節子はつい数年前まで存命だったんだからなあ。
本人に話を聞けなかったところ、
グイグイいけなかったところが
つまり著者らしさといえばらしさなのかもしれない。
でも・・・ こういう本を書くんだったら・・・、
きっとアタックかけても原節子は結果 
なにも話してはくれなかったろうけど、
ぶつかってみるだけのことはするべきだったのでは。
結果ムリでもそれだけやった、ということだけでもあれば
まだ 読んだあとの気持ちが 違ったような気がする。
「小津と原節子の恋愛関係」に
かんしては 著者が「そう思いたいだけ」ってのが
出ちゃってて なんというか どうしようもなく。
いや、もちろんそれなりの状況的根拠があるのは
よく理解できた。
公然の秘密的な部分があったことは
わたしだっていちおう知ってるし。
でも、なんといっても本人に話聞いてないから。
ただ、映画ファン必読の一冊ではあった。
おもしろかった。当時の日本映画の現場のことを
くわしくいろいろ 知ることができて。





瀧波ユカリ/犬山紙子
「マウンティング女子の世界 女は笑顔で殴りあう」
ちくま文庫

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→なんつう本出しちゃってんの(^^)!!
笑ったけど(^^)!!





・押川剛
「『子供を殺してください』という親たち」
新潮文庫

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→心の病で苦しんでいるとおもわれるが病院にいかず
家でひきこもるなどしている人を
説得して医療にアクセスさせる・・・という
精神障害者移送サービス」を行っている著者が
これまでに経験した事例を紹介し
その対策案を提示する。
精神保健福祉法が改正されたことで
当事者たちがますます苦しい状況におかれるようになってきた
ということが克明に解説されている。 
震えあがらされる 内容だった。
精神的にも状況的にも苦しい状態に置かれている患者を
もし本当にぜったいに救いたいとおもうなら
家族などのだれかが 自分の人生のすべてを
投げ出すくらいの覚悟がなければならない
と すこしも大げさでなく伝えようとしていた。
あと、「自分の家族が心を病んでいる、病院に行かせたい」
ってことを窓口に相談したいとして、
家族で解決できないから第三者にたよるわけなので、
どれくらい困っているか、なにをしてほしいのか、
いかに本気かということを 具体的に、何度も、熱意をこめて
相談しなくっちゃ、第三者には伝わらないし、動いてもらえない。
ということをくりかえし言っていて、なるほどなと。
いや この本は 読んだほうがいいですよ。




中島義道
「東大助手物語」
新潮文庫

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→哲学者の中島義道氏の、
エッセイのような極私小説のような。
わたしこの人の著書はかたいのもやわらかいのも
ぜんぶ読んでるんですけど
これは「やってくれたなあ・・・」ってかんじの1冊。
ぜったいこの人 
こういうの書いたら最強におもしろいだろうなと
まえからおもってた。
すごくよかった。
いたましくて、いじらしくもあり、
読むのが苦しかったけど。





多島斗志之
「少年たちのおだやかな日々」
双葉文庫

株式会社双葉社 |少年たちのおだやかな日々


→中学~高校生くらいの少年を主人公とする短編小説集。
わたしは多島斗志之さんのこの 繊細さと偏執性とが 
ギリギリあり?なし?なラインでブレンドされた
奇跡の視点が すき。
「それではっきりするんなら、いつまでかかったっていいです」。





・鬼塚忠
「花戦さ」
(角川文庫)

www.kadokawa.co.jp


→映画を観たので、直後に買って読んだ。
これは・・・ ダメだったな(^^)。
読んで 失敗したと感じた。
自分が書いたわけじゃもちろんなく
作家さんが苦労して書いて上梓したものに
はなはだ失礼なことをいうようだけれど、
なんかこの作品にかんしては
小説と映画とで、ダメなところを見つけ合い
掘り下げ合っているような
おたがいの関係的に
不利益しか生んでないかんじをうけた。
絶対的に、
小説は読まないでおいたほうが幸せだった。
映画だけで終わらせておいたほうが、よかった(^^)





小林泰三
「因業探偵 新藤礼津の事件簿」
(光文社文庫)

www.kobunsha.com


→頭はキレるが性格が最悪なヒロインが
抜群の推理力を活かして私立探偵を始めたんだけど
最初の宣伝でお金をかなり使ってしまい
支払いに困って いろいろとバイトをすることにする。 
そんなバイト生活のなかで
いろいろな難事件を解決するという
連作短編集。
おもしろい。
読んでて いい気分転換になった。
多島斗志之と同じ方面の雰囲気を 
ちょっと感じる作家さんだ。





プチ恩人がたくさんいる。

「世間に忘れられてしまうことを恐れる」
ってことのなにが問題なのかねえ。
恐れてとうぜんじゃない。
それが死ぬってことなんだから 人間にとって。
死ぬのが怖くない人間は 原則いないんだから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それはそれとして、
まったくの別件なんですけど、

恩人って、いっぱいいるよなあと 思ったんですわ。
恩人ていうと、
命を救ってもらったとか
困ってたときに大金をぽんと貸してくれたとか
仕事を紹介してくれたとか
のちに結婚相手となる人と引き合わせてくれたとか
なにかそういう おおきな事件と
からんでいなければならないということではなくて
あと、もっといえば、おたがいに名前もしらなくてもべつによくて、

そういうんじゃないけど 
恩人だったな、あの人。って
おもう人っていっぱいいるなと おもったんですよ。

日々を一生懸命消化していくのに
必要な力を いろんな人から
少しずつ もらっているのですね。

親友とか恩師とかね、
そういうおおきなあれの話ではないんです。
親友も恩師ももちろんね、いますけど。
人じゃない場合も。
動物とか物とか音とか。においもか。


たとえばわたしの場合
大学の編入試験のとき、試験会場の階段教室で、
最終試験の合格者発表を待っていたときに、
うしろの席にすわってた受験生の女性とちょっと
話したんですよね。
そのとき、その女性がスーツ姿なのをみて、
「あ、スーツ着てるんですね。わたしもスーツにしとけば
よかったのかなあ」ってわたしが言ったら、
彼女が
「なんでもいいんですよ。でも、スーツって
決めちゃうとラクですよ~」
って。
それがなー。 なんか、その彼女のリアクションが、
すごく きもちを落ち着かせてくれたんですよね。
合格発表、めちゃくちゃ緊張してたので。わたし。
スーツ着てこなかったことを後悔していたとかでは
ないんですよ。
スーツという選択肢があるということすら
自分は考えていなかったし。
会話の内容がどうということではなくて、
あのときの彼女のリアクションというか・・・
彼女の雰囲気というか。
それがわたしをほっとさせてくれたんですよねー。
わたし、その大学に編入できたんですが、
入学後、あの女性には会いませんでした。一度も。
あの口ぶりでは、ほかの大学も受けていたようだったから
ほかの大学にすすんだのかもしれません。
学部がちがったのかもしれないし。
だから名前もわからないし顔ももう覚えてません。
けど「スーツって決めちゃうとラクですよ~」
って 笑ってらしたのはほんとにはっきりおぼえてますわ。
それですごくほっとさせてもらったことをね。

あと、
今の職場の、前の、前に働いていた職場では
たのしいことよりもしんどいことのほうが
ずっとずっと多くて、
毎日 結構 苦しがっていたんですけど
毎朝 ちかくの法律事務所の社員犬が、
わたしが出社するころ、
会社付近を お散歩してたんですよね。
どこかしら気品ただよう、毛足の長い、おおきな犬でした。
あのワンコ、見るのたのしみでした。毎日。
ワンコのお散歩してた男性は、
脳梗塞かなにかをやられたのか、
半身がやや不自由のようにおみうけしたことを覚えてます。
なんか、かわいらしい いいコンビで。
ゆっくりゆっくり歩いてて。
あれ見るのすきだったんだよな。
あのワンコと男性。


前の、前に働いていた職場といえば、
真夏に、会社のまえの歩道で
わたしの目の前で
ハデにすっころんだ少年がいたんです。
あの子もなんかよかった。
キックボードで豪快に転んでて。
意外にも顔とかが無傷で驚きましたが。
わたし、子どもと話すのがあまり上手じゃないんですが、
びっくりして、
とっさに「大丈夫かあ???」って言いながら
彼のところに歩いて行ったんですよね。
少年は、はずかしかったのか、
こんなに思いっきり転倒したという状況に
自分でも驚いていたのか
モジモジしながらわたしをみつめて、
ウン、って大きくうなずいて、
キックボードで走り去っていきました。すぐに。
あれ よかった。
わたし 当時 職場で人間関係に悩んでたというか
よりわかりやすくいうと いじめにあってました。
男の子が いじめ解決してくれたとかいう
わけじゃないんですよ。
でも、なんかね、
あのやりとりよかったな、好きだったなとおもって。


それから、今夜あったことなんですけど
かえりの電車のなかで、すわって本読んでたんですが、
ちかくにいた女学生さんが調子悪くなったので、
席ゆずったんです。
自分は彼女の前に立って 本を読み続けました。
だんだん電車がすいてきて、
女学生さんにゆずった席のとなりが、あいたんですよ。
そしたら、その席の前に立っていた男性が、
ご自分はその席にお座りにならないで、
わたしのヒジをつんつんて つついて、
「ここ・・・。さっき、席ゆずってたでしょう。」
って、わたしに 座るよう促してくれたんです。
にこっと ちょっとお笑いになって。
こんなあたたかいきもちになることって
めったにないですわなあ。


それに、 
毎日通ってる職場の、ビルの管理人さんでしょ。
出社すると、あいさつするんですけど。
管理人室で、いつも宮城谷昌光かなんかの
本読んでるんだよな あの管理人さん(^^)


ヴァイオリンの、やさしいヴィブラート。


メイリオ」のフォントもいいですね。
(オタクがすぎますかね!)
メイリオよくないですか(^^)?
メイリオいいよ〜。なごむわ~。
どこかスキがあるというか
あけっぴろげといか
簡明、明瞭なかんじがいいですね
だから「メイリオ」?
ほんとはもっと 作る本に使いたいと思うんですけどねえ。
いいと思ってるの自分だけかもしんないです(^^)


これらはすべて、
恩とかじゃないかもしれないんですけど、
べつに命のやりとりとか していないんですけど、

日々を生きるうえでの 
救い・・・というと
おおげさではあるが・・・
でも それに近いことが 言いたいんですよ。
わたし。
適切な表現がみあたらないんですが・・・

そういうの いっぱいあるなとおもって。

覚えていてよかったな、覚えておくべきだなとおもってね。

ことさら あらたまって 言うほどのことでも
なかったりするんですよね。
「あのとき あなたのあれに救われた」とかね。
言えればむしろ運がいいくらいのもので、
こっちが勝手に そのできごとを覚えているだけで、
むこうはわたしの名前も知らないし覚えてないし、
二度と会わない間柄で 起こることがほとんどですから。
うまくいえないなあ。
でもそういうのちゃんと覚えていて、
それで少しずつ日々をまた 生きていくんだとね。
おもったりします。

まとまらねえな(^^)




自分について書かないなら 書く意味はない。

自分のことも書かなくてはならない。

本来はそのつもりで 始めたブログではあった。

なかなかそれができないことが、自分でもはがゆい。
正直なところいうと、
自分のことを書くと、自分がけずれていき、
いつか、書く必要を感じなくなってしまうんじゃないか、
というかんじがする。
わたしは 表現すれば けずれていって
まもなく失くなる程度のうすっぺらい存在だから、
書いたらけずれて こんりんざい回復しないかも、と

書く必要がないと感じるようになる ってどういうことか。
完全な人間になれるわけでは絶対になさそうだ。
書かないでいて それでどうやって
わたしは 日々を消化していくんだろうなあ。
そんなことがほんとに可能なんだろか??

なにか 言いようもなく怖くて、
書くことができない。
というのも、書く必要を感じなくなるというのが
どういうことなのか いままで経験したことがなく、
なくなったら自分はどうなるのかと 思う。
どうなるのかなというか、
たぶん 死にたくなるか、
死ぬんじゃないかなと 予感する。

わたしのなかにあるものって
けっきょくその程度のものかもわからん
という すごくなにか
ばかばかしい 恐怖感があり

自分を手ばなすのがためらわれる。
自分のなかにあるこの なんか
ガサガサしたきもちのわるい
つねにわたしの胸の裏側にぴったりくっついているこの
不快感というか
これがなくなるというのが。
毎日、むしろ、なくしたいと思っているはずなのに。

でも
おまえ そんなたいそうな人間じゃないだろ そもそも
たかがしれてるだろ、あってもなくても

やっぱり
どうなるかは
自分のことぜんぶ書いてみないとわからないので、
書いてみないとしょうがないんだろう。


自分の核心について書く勇気が 
意外にも、これほどまでに、ない。

書いてるつもりでいた時期もあったけど
そのじつ やっぱり 全然書いてなんていなかった。

他人のことや、他人が作ったなにかについて
あーだこうだと好き勝手なことを言うのは 
わたしじゃなくてもできる。
むしろ わたしなどが そういうのをやらなくても
もっと上手に、より的確に
なにかを言える人は いくらだっている。


書くのであれば、
わたしはわたし自身のことを
書かなくっちゃ 意味がなかろう。
わたしがそれで けずれて、いなくなったとしても。
なのかな?

この、書いたら自分が削れてなくなってしまって、
書く必要を感じなくなってしまうかもしれない
っていう感覚は
気のせいなんだろうか。

それと、

書いてだれかが喜ぶんだろうか?
それは もう答えでてる。
もちろんだれも喜ばない。
だけど書かないといけないようなかんじはずっとある。




ブログ読みにきてくださってありがたい

ブログで映画の感想なんかを書くと
ネットのキーワード検索で 
映画のタイトルとかでヒットするのか
ときどきブログ読みにきてくれるかたの人数が
通常と比較してずいぶん増えることがあり、
びっくりするとともに とてもありがたい。

映画の感想は 基本的にネタバレ全開的なかんじで
書いてしまっている
編集機能の「記事の概要」項目に
ネタバレした内容のときには「ネタバレしてます」と
一言そえるようにはしているが、
ネット上から直接 偶然 このブログにやってきた人が
その概要を 本文を読むまえにかならず読むのかどうかまでは
よくかんがえると知らないので
ネタバレしてることを
お読みいただいてはじめて知ることになるかもしれず
ガッカリさせてしまっているかもしれない。
今後は映画の感想を書く際には
「記事の概要」項目だけでなく
本文中でも ネタバレ注意を喚起するつもりだ。

といっても
しょせんはわたしのブログであるから
どう転んでもたいしたことは書いてないのであり
べつにそこまで気にしなくても いいのかもしれないが。
ネタバレどうこう以前に
このブログに偶然きてくれてしまった人たちに
ありがたいどころじゃなく
むしろもうしわけないのかもしれない。

でもまあせいいっぱい 
自分以外のかたがお読みくださってもそこそこまあまあ
おもしろいと おもっていただけるかもしれないような
ことを 書けるようにこれからも日々努力はしていく。

でないと なんで公開しているのかわからないからな。

世界にとりあえず謝罪しておきたい。
存在をゆるしていただけたらさいわいだ。



古い映画をみるのはたのしい。

世にも怪奇な物語」の
「影を殺した男」のときのアラン・ドロン
とてもすき。
「ウィルソン!!」と叫ぶところと
ブリジット・バルドーの背中を打つところの
表情がすきで何回もみてる。
アラン・ドロンはただイケメンなだけじゃない
というかんじが あの表情をみるとすごくして、好きだ。
世にも怪奇な物語」は
ほかにもジェーン・フォンダテレンス・スタンプなどの
どえらい役者さんがでていて 
監督さんも3人ともマエストロといわれた人たちで
何度みてもわくわくする。
テレンス・スタンプの「悪魔の首飾り」は
いたましすぎて みるのが苦しいから なかなか
みる気になれなくて
いつもジェーン・フォンダのでる短編と
アラン・ドロンがでる短編をみたら
そこでみるのをやめてしまうのだが・・・。
どういう気持ちのときに
「悪魔の首飾り」をみればいいのかが わからない・・

こういう、スゴイ役者さんが何人もでてくる
オムニバス映画がほかにもあったとおもうんだけどなあ
みたことがあるんだけど。思い出せない。
それにもたしかフェデリコ・フェリーニが参加していたような気がする。
いや、参加してなかったか・・?
なんか、お堅いかんじの男とその妹(いとこ?)がでてきて
たいくつなお食事会みたいなことを 家でしょっちゅう開いてて
でもその男にはじつは妙に背徳的な願望がある、みたいな内容の
短編映画があった。そのオムニバス映画には。
牛乳が関係するストーリーだった。
子どもの声ですごく印象的なテーマソングが歌われたのを
おぼえているんだけど。
そのテーマソングに何度も「牛乳(Latte)」って
歌詞がでてきてた。
そのオムニバス映画も変わってておもしろかったんだけど。
たしかルキノ・ヴィスコンティが参加してたか・・

タイトルが思い出せないんだよなー。

古い映画をみるのはたのしい。
いまの映画もいいけど昔の映画もたのしいとおもう。
いまの映画にはないものがいろいろみられるし 感じ取れる。

小津安二郎成瀬巳喜男の映画などもみていきたい。

古い映画をみるのはたのしい。

「花戦さ」(2017)の感想。

「花戦さ(はないくさ)」(篠原哲雄監督、2017年)をみてきた。

movie.walkerplus.com

 

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けっこうたのしかった。
原作は鬼塚忠の同名小説で、
古い伝説をもとにした時代劇であり、
トーリーはだいたいこのようなかんじだった。


ときは天正年間、舞台は織田信長から豊臣秀吉へと
治世がうつりかわるころの京都だ。
都に、頂法寺というお寺がある。
お坊さんがみんな、「池坊(いけのぼう)」という流派の華道をやる。
町の人たちにも気軽にお花を教えたりするので、とても慕われているお寺だ。
そこに、専好(野村萬斎)というお坊さんがいる。
天才的な華道家の彼は、ときの天下人であった織田信長にも目通りして
その才能をみとめられ、そのなかで出会った
茶道の大家・千利休佐藤浩市)と
親交をふかめていく。
しかし、信長が死に豊臣秀吉市川猿之助)の時代になると、
おだやかだった専好の身辺がさわがしくなってくる。
というのも、秀吉と利休の関係が悪化してきたのだ。
利休はやがて、自害を命じられて果てる。
利休が秀吉との関係に長年苦悩してきたことをしる専好は、
友の死に心をいためる。
秀吉は、利休と親しかった専好のことも気に食わない。
専好が民衆を扇動して自分に反抗しようとしてるんじゃないかなどと 
よしないことを考えはじめる。
しかも秀吉は、跡取り息子をうしなったことをきっかけに
心のバランスを崩し、いっそう酷薄な暴君と化していく。
自分を悪く言う歌が市井に貼りだされたと聞けば 町民をとらえて虐殺し、
自分を「猿」と からかったといっては、いとけない子どもまでも打ち首にする。
千利休の最期と町の人びとの苦しみをまのあたりにした専好は、
その心にしずかに怒りの炎を燃やしていき、
やがて秀吉を相手どり「華の道をもって上さまをおいさめする」、
「花戦さ」に挑むことを決意する・・・。


さっき古い伝説をもとにした・・・と書いたが、
その伝説は京都の池坊頂法寺につたわっているものだそうで、
頂法寺池坊専好(初代)も実在している。
初代専好は実際に信長と秀吉に会っており、
千利休とも生きた時代をおなじくしているらしい。
だからこの物語はまったくのフィクションてわけじゃない。


わたしはこの映画には 深みとか隠喩とか 
思考に値するものはぜんっぜんないなー、と感じた。
それに、エピソードの取捨選択とそれぞれの接続、
という点で、不親切なところがすくなくなかった。
昨今の時代劇映画の主流らしく、親切設計を旨としているかんじが
非常に強かっただけに、なんか、穴が気になった。
はっておいてほしい伏線をはらないというか、
「こんなこともあったよね!」とだいじなところに
初見のエピソードをいきなり持ち出すっていうのが散見された。
「そんなだいじな話あるんだったら前もっていっとけや!」
ってなるわけだ。
(そのへんハリウッド映画はほんとにうまいなあ。)
みなしごの蓮の話をいれなければ 
この映画でもそういうのは十分可能だったんじゃないかとおもうんだが。
でも、ひとつひとつのエピソードは、
とても誠実に描かれていたし、
どの話も わたしはとてもすきだった。


とくに、序盤も序盤だが、
専好と利休の、草庵の場面がよかった。
じつをいうとわたしは泣いた。
なんだかとても、ふたりのことがいとおしくかんじられて。
主人公の池坊専好は、ひとことでいって、変わってる。
心が純で、けっして悪い男じゃないが、
病的といっていいほど、人の顔と名前、そして約束ごとが覚えられない。
頭にいれたはずのことを数分後にはわすれ、
別のことに気をとられて、心がそっちに飛んでいく。
まわりに助けられてなんとかなってるが、彼ひとりでは、社会生活にも難儀する。
現代でも、身近にいられたら、正直かなり困るタイプだ。
それなのに、彼ははやくから、
寺をとりしきる役目なんかをまかされてしまう。
要人と会見してそつなく談笑・・といったような大人の実務が
壊滅的に苦手な彼にとっては、寺の顔役なんて役目はつらいだけだ。
専好はただ日々 仏さまを拝み、
町の人たちといっしょにお花をやっていたいだけなのに、
それがどうにもままならなくなったことに、悩んでいる。


千利休の草庵での場面が、そんな専好の悩みを晴らす
おおきな転機として描かれていて、とってもいいのだ。
専好は、利休がたててくれたお茶に深くいやされ、
吐き出すように悩みをかたりだす。
まともに会って話すのはこの日がはじめてなのに、
子どもみたいにおのれのダメさをさらけだし、
男泣きに泣く専好を、利休は
「もう一服飲んでくか。」と やさしく受けとめる。
利休は利休で、このころにはすでに 
秀吉の偏執的イビリに悩むようになってきていた。
相手が天下人なだけにさからうこともできず、
やりばのないストレスに苦しみ、
でもそれだからこそ人の心の痛みがよく理解できる利休という人物を 
佐藤浩市がうまく演じていたとおもう。
あの「目が笑ってない」かんじがとてもよかった。
わたしは佐藤浩市には人間的にメンタルがなんだかささくれてそう、
みたいなイメージをもっているので、佐藤浩市千利休!?と 
さいしょはおもったのだが、
メンタルささくれ感が、かえってよかったみたいだ。


専好を演じた野村萬斎は偉大だった。
専好があまりにもヤバいかんじの人物だったもんで、
みていてイライラさせられたほどだったが、
そんなふうに観る者に思わせる演技ができるなんて、すごい。
声の高低差やしゃべるスピード、視線などをコントロールすることで、
専好の性格やオン・オフのモード切り替えを
くっきりと表現していることがわかってきて、
まったくおそろしい役者さんだとおもわされた。


豊臣秀吉役の市川猿之助は、多面的で分裂ぎみな
秀吉の人物像をまじめに引き出そうとしていた。
たしかに、こういうかんじの男だったろうなという、納得感があった。
でも、欲をいえば、もうちょっとエキセントリックでいてほしかった。
信長の御前で平気で耳をほじったりする
「猿」なかんじを、えらくなってもまだひきずっててほしかった。
ただ、利休に対したときの、
キモチ悪~い「男のいじめ」の表現はすごくうまかった。
わたしは千利休と秀吉の関係の話については 
いろんな本で読んできて、知らないわけじゃないけど、
いまだに、いったいあれはなんだったのかねー、とおもう。
女よりも男のいじめのほうが、陰湿でたちがわるいとは聞くけど。


石田三成役の吉田栄作は、秀吉の腰巾着キャラをうまくこなしてた。
彼はかつてはもっとカッコイイ、イケメン俳優の部類だったとおもうが、
歳をかさねてやつれた顔を堂々と見せていて、尊敬した。


専好が秀吉にしかけた「花戦さ」が、
この映画のまさにクライマックスだった。
ちょっと冗長だったような気もするが、
専好が披露した大作が華やかでうつくしく、
場面は緊張感にあふれ、よかった。


それにしても、花の背後にかけられた絵は
いったいどこからもってきたのか・・・
秀吉が執着してコレクションしてたらしい
「むじんさい(無尽斎?)」の絵だ。
モデルは長谷川等伯の、あのおさるの絵だと考えて
まちがいないとおもうが。あのかわいいやつ。 
そうならば、前田利家かだれかにたのんで、
所蔵品をかしてもらったということなんだろうか。
でも利家の持ち物だとしたら、
秀吉にとられずに隠しておけたのもおかしいような気もするが。
秀吉はすごくこだわっていたから。あの絵師の作品に。
ああいう画題の絵だと知ったら
「だれがいるかこんなもん」とは言ったかもしれないが、
画題をしってたらしってたで今度は、怒って利家を殺さなかった
(または絵を棄てさせなかった)理由がわからない、
ということになる。
ネットでしらべたかぎり、長谷川等伯のおさるの絵は
前田利家の息子の持ち物だった」ってなってるから、
利家の所蔵品という設定なんだろうが。
どうせなら、蓮にあの絵を描かせた、
という設定にしてもよかったのに。
・・・ダメか(^^)。


それにしても「花戦さ」の場面は、
まあやっぱり、くさっても
秀吉が「良いものは良い」とちゃんと言えるだけの
大人の見識をもっててくれてたからよかった、
ということなのだ。
秀吉はときの最高権力者だ。
専好をその場で殺すことはできた。いつでも。
でもそれをしなかったところが秀吉なんであり、
あのときはそういうときだったのだと感じた。
わたしは専好のことはふつうに斬り殺して、
そのあと秀吉が号泣、でもよかったとおもうが。
・・・ダメか(^^)。


息子をなくして失意の底にあった秀吉に
「あやまちをおいさめする」なんて
一介の花坊主の趣向が通じるのか、ともおもったが、
心が激しくへこんでいるときだからこそ
かえって人のきびしい意見がすんなり耳にはいってくる、
ということもあるだろうから、
それを考えるとかえってアリなタイミングだったのかも。


本作は、
野村萬斎市川猿之助
つまり狂言と歌舞伎のトップスターの演技合戦がみてみたい人には 
それだけでもかなり 価値ある映画ではないだろうか。
ただ、
お茶やお花が「趣味」「たしなみ」でなく、
「人生」であり、「闘い」であったという
歴史的大前提をすこしでも理解してないと、
この映画はちょっと、わけわからんだろうという気がする。
だからそこだけは、
雰囲気だけでも把握しておくことをおすすめしたい。

読書感想-阿部謹也「ハーメルンの笛吹き男-伝説とその世界」

阿部謹也ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界」(ちくま文庫)

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おもしろかった。
グリム童話などでしられている
ハーメルンの笛吹き男の物語は、
西暦1200年代後半ごろにじっさいに起こった事件がもとになっているのだが、

本書は、いかにしてその事件が「ハーメルンの笛吹き男」の物語に
なっていったのか、また、どうしてこれほど長きにわたって
人びとに語り継がれる必要があったのかについて論じていた。

同種の研究は じつは欧米で500年くらいまえから
いろんな学者さんがしてきたそうで、
著者は既存の研究をかなりていねいに紹介しつつ
するどく矛盾点を突き、
自分にしかできない切り口から結論をだしていた。

とくに、こういう考えかたは昔の学者さんはまだ
できなかったのかもしれず、
著者だからできたのかもしれない。
「伝説とは本来庶民にとって自分たちの歴史そのものであり、
その限りで事実から出発する。
その点でメルヘンとは質を異にしており、
『伝説は本来農民の歴史叙述である』(ゲオルク・グラーバー)
といわれるゆえんである。そのはじめ単なる歴史的事実にすぎなかった
出来事はいつか伝説に転化してゆく。そして伝説に転化した時、
はじめの事実はそれを伝説として伝える庶民の思考世界の枠のなかに
しっかりととらえられ、位置づけられてゆく。
この過程で初発の伝説はひとつの型(パターン)のなかに鋳込まれてゆく。
その過程こそが問題なのであって、こうして変貌に変貌を重ねてゆく
伝説の、その時その時の型をそれぞれの時代における庶民の
思考世界の次元をくぐり抜けて辿ってゆき、最初の事実に遭遇したとき、
その伝説は解明されたことになるかもしれない。
しかしそれはなかなか難しい。解明しえたと思ったとき、
気がついてみればわれわれがわれわれの時代環境のなかで、
伝説の新しい型を『学問』という形で形成していることに
なるかもしれないからである。伝説も庶民が世界と関係するその絆なので
あるし、学問もわれわれが世界とかかわる関係の表現であって、
そこには本質的な違いはないからである。」
(「ハーメルンの笛吹き男-伝説とその世界」117ページ)

これって つまりまあこういうことじゃないだろうか。
 
人びとが語り継いでいる伝説ってものがあって、
それはなんらかの歴史的事件に基づいている可能性が高い。
その事件てなんだったのかについて考えるときは
つぎのことに気を付けなくっちゃいけない。
すなわちそのおおもとの歴史的事実ってのは
おおまかにいって2種類のヴェールを 何枚も何枚もかぶってる。
昔のものであればあるほどヴェールの枚数が多いのだが、
それをぜんぶ、ていねいにはがさなくちゃいけない。
まず1種類めは、
まず 当時の人びとがどんな社会でくらしてて、
どんなものの感じかた考えかたをしてたのか というヴェール。
2種類めは、
そんな当時の人びとがその事件を語り継いでいくうえで
よりわかりやすいようにより受け入れやすいように語りやすいように
「お話」としての一定のパターンてのに自然とはめていったわけで、
その「パターン」という名のヴェール。
これらをぜんぶわきまえたうえで1枚1枚はがしていかないと
歴史的事件は歴史的事件なんだけど、
ほんとのところとは全然ちがう歴史的事件にたどりついて
しまうかもしれない。
「なんとかお姫様の物語」は本当はAという実際に起こった事件が
元になった話なのかもしれないのに、
ヴェールのはがしかたをまちがえたり2枚も3枚もまちがえていっぺんに
はがしちゃったりすると
AじゃなくてD事件が元でした、という 誤った結論を
出してしまうおそれがある。
でもこの作業はけっこう難しい。
考察するわれわれ新しい時代の人間は
いろいろと知って頭がよくなってきちゃっているので、
「昔の人びとのものの考え方」
「昔の人びとが構築したお話としてのパターン」と
いう従来の古いヴェールのうえにまた
こんどは「学問」っていうヴェールを
自分でかぶせてしまっているかもしれない。
それが「この伝説の元になった事件てなんなのだろう」と考えるのの
さまたげになってしまうのかも。

・・・・


本屋で立ち読みしたときは、
ブリューゲルヒエロニムス・ボッシュの絵が
挿絵としていっぱい載っているのを見て、
もっと見たいとおもって買ってみただけだったが、
内容的にすごくおもしろかったし、感銘さえうけた。