BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

Hくんの魂にささぐ。-190117。

梅原猛さんが亡くなってさびしい。



そのうえ きょう、
以前同じ職場で働いた人が、
若くして
亡くなっていたことを知った。

元気なら おそらく いま、
30をちょっとすぎたか…という
くらいだったとおもう。

朝、会社に向かう道で行きあうと
彼はいつも 歩きながら
伊坂幸太郎
「陽気なギャング」シリーズや
海堂尊
チーム・バチスタシリーズなんかを
新品のハードカバーで 読んでいた。

ちゃんと前をむいて
歩かないと危ないよ、と
声をかけると 
そーなんだけど
先が気になって、と
笑っていた。

研修で新人どうし
電車で移動したときに
当時 伊坂幸太郎とかを
読んでなかったわたしは
でも こういうのだったら
今、カバンに入ってるよと
諸星大二郎の「汝神になれ鬼になれ」を
出してみせたことがあった。

うわー、なに、この絵。
古くさいかんじ。
と 笑いつつ
電車に乗っているあいだじゅう
声をかけるのが はばかられるような
集中力を発揮して
しずかにそれを読みふけり
電車をおりるときに
なにもいわずにそっと
本を返してきた
何ごとか言いたそうだが
でもけっきょく言わずに
鼻のうえのメガネを直してたことを
記憶している。
もしかしたら 
おもしろかったのかも。

重いご病気にかかったそうだ。
お若いと進行も早い、といった
話を聞くけど、
まさにそうだったのかもしれない。

さぞかし怖かったろう。
納得いかなかったろう。
たまったものではなかったろう。
孤独だっただろう。
不安だったろう。
いろんなことを抱えて
苦しいきもちだった
ことがあっただろう。

だが ご病気に苦しめられ
亡くなるにいたるまでのその期間が
彼の生のなにもかもを
ぬりつぶしてしまうほど
重大なこととは 
わたしはおもいたくない。

病が発覚してから
死にいたるまで
彼はたくさん苦しんで
泣いたことだろうが
でも それ以上にたくさん笑って
いろんなことを体験した人生だった。
そうだったはずだ。
そんな30年あまりもの
かけがえのない年月が
死ひとつ病ひとつで
おじゃんになるはずは
ないとおもうのだ。

ほんとうに短いあいだで
わずかな接点だったけれども
それでも
彼の笑顔をたしかに見た。
本をあんなにたのしんで
読んでいたことを 
知っている。


・・・

生きるってのは
いったいなんなのだろう。
なぜこんなふうにいちいち
つまずいたり失敗したり
傷ついたりしないですむように
あらかじめ 
性能をととのえたうえで
われわれ人間をおつくりに
ならなかったのか。
神よ。
とか つい思うこともおおい。

わたしは苦しい。
だけど このように
いろんなことを感じることが
なにせ たいせつなようなのだ。
この世界に在って、命を燃やすことが
苦しいことであれかなしいことであれ
感じて生きるということが
それじたい だいじなのだということが
最近すこし理解できるようになった。
そんなことを自分が理解するとは
ちょっとおもってなかったが
納得できるようになってきた。

だけど逃れたい。
かなしい思いは 
たくさんだ。
心なんてものが なければ 
よかったのになあと、
やはり思わずにはいられない。
感じる心を投げ捨ててしまいたい。
そうすればきっともう
かなしくない。

そもさん-8-190113。

きのう 
外出したときのことだが、

一緒にいた人は 
わたしがフラッシュバックを
起こすおそれがあることを
知ってくれている人だった。

仮にフラッシュバックが起こったとき、
なにかしてほしいことはある?と聞かれた。
わたしはほとんど間をあけることなく
「わたしの状態を
動画で撮ってほしい」と。

じっさいにこう言うまで、
自分がそんなことを してほしいと
おもっていたとは知らなかった。

考えてみれば当然のことかもしれないが、
フラッシュバックの
襲撃にあっているときの
自分を 客観的に見たことがない。
どんなかんじなんだろうな、と
おもったことはあった。
震えながらしゃがみこんでいるとか
汗をだらだらかいているとか
記憶がつくりだす幻影のなかの誰かと
はなしながら
うわごとをいったり叫んだりしている、とか
倒れて数分間、ただただそのまんま、とか。

まわりからどう見えているんだろうと。
そう思っていたきもちが、たぶん 
「動画で撮ってもらえば、
どんなふうに見えているのか、
はたからみて何が起こっているのかが、
知れる」・・・という考えに 
育ってたんだろう。

そして、その動画を自分の目で見て
(なにを、かはわからないが)
客体化することが
フラッシュバックの解消への
糸口になる、と
ぼんやりと信じているのかも。

動画を撮ってほしいと。
そう言った。
ぽろっと口をついて出た。
たのみごとというか
ただ、そう言ったというかんじだった。
もし手助けが必要だな~と
わたしが危惧していたとしたら
あらかじめ自分からお願いしたとおもう。
「倒れたら びっくりするだろうけど
死なないから そのまま見守ってほしい」
とか
「怖がっているようなそぶりだったら
聞こえてなくても 大丈夫 大丈夫と
背中をさすってくれないか」
とか なにか頼んだろう。
たとえば目の不自由な人が 
道案内をたのむとき 相手に
肩をかしてくれ、と頼むであろうように。
わたしの言いかたは
たのみごとってかんじの
テンションじゃなかった。
「自分の状態を確認できたらいいかも」
という おもいつき、だった。
動画を撮ってほしい。
一緒にいた人は、そうする、と
うけあってくれた。

さいわい けっきょく
フラッシュバックに
見舞われなかった。
一日 元気にすごせた。

・・・

フラッシュバックの周辺のことを
話したり書いたりすることは できる。
周辺とは 
フラッシュバックがつらい
フラッシュバックがおさまったとき
自分はこんな状態である、
フラッシュバックによって
生活にこんな影響がでている、
といったたぐいのことだ。

でも中心、核心については
話すことも書くこともむずかしい。
中心、核心とは、わたしが思うに
それを体験しているときに
なにが見えているか、
どう感じているか、
なぜ苦しいのか、
なにを自分は望むのか、
・・・
のようにも思われるし、
でも、そうではないような気もする。
また、それだけではないようでもある。
いちおう書いてみたが、ほんとに
なにか、違う、というかんじがする。
というか・・・
ぜんぜん、こんなことじゃない。
わからない。
言葉が消えてしまう。
いつも、何か 言いたいことが
あるような気がするし
もうすこしで わかりそうだと
いうかんじがすることも、あるが
なんともいえない。
言葉が消える。
というのは
ほんとにそのまま、言葉が消える。
言い表す言葉がない、
絶対に届かない、
そんな実感があるのだ。

フラッシュバックについてのことで
わたしが自分で説明できるのは 
あくまでも その周辺のことだけだと、
こうして文章化できるように
なるまでにも 
おもえば時間がかかった。

核心に なにかを感じている。
それを言葉で表現するのが
とても大事だという、気がする。
なのに
核心の内容が よくわからない。
あっても言葉にできそうにない。
もどかしく、
途方もないかんじがし、
とてもつらい 
そんなことが、さしあたって、
言いたいことだとおもう。
それを
「本心が言えない」
「かんじんなことが伝えられない」
「なにをいってもわかってもらえない」
「発した言葉が指のあいだを
砂みたいにすべりおちる」
といったふうに表現している。

フラッシュバックのなかに
「衝撃の新事実」とか
「封印された忌まわしい記憶」
なんて
映画や小説みたいな 
具体的ななにかがあるわけじゃない
また、それが 
精神の崩壊があやぶまれる
レベルのことゆえに 
自分で取り出して
くることができない・・・
なんてこともない。
そういうのじゃない。
ただ 感じていることを
言葉にできないのだ。

でも、考えてみよう。
もう一回。
あきらめちゃいけない。

言葉にできない、
それはひょっとしたら
わたしの頭が
言葉でないたぐいのものを
「言葉で表現と認識が可能な、
もっとも近いもの」に
妥協して変換し
わたしに見せているから
なのかもしれないな。

言語化できそうに
見せかけてくるのに
ちっともできないというか、
たとえ言語化しても
「それじゃない」ってことを
心の奥底では知っているから、
それで苦しいのかも。

フラッシュバックが
発生しているさなか
わたしが見て、聞いていることは、
じっさいには 
見たり聞いたりするような
ものではなく、
概念、
心に受けた衝撃、
そういう
形のないものなのかもしれない。
頭のシステムはよくわからないが
本来 形のないものを
五感で認識可能なものに変換して
伝えてきている・・・ 
そういうことだろうか。
つまり
・・・これもかならずしも
的確ではないだろうが・・・、
わたしがほんとうに言いたいことは
しいていうなら たとえば
「怖かった」
「屈辱的だった」
「イヤだった」という
「きもち」なのに
それをわたしは
フラッシュバックのなかで
「なにかの音がどんどん大きくなる」
「部屋の壁や床が
視界のはじのほうから
カビがひろがるようにじわじわ
真っ黒に染まっていく」
といったような
「できごと」「もの」に変換して
見ている、のかもしれない。

音が大きくなる 
部屋の色が黒くなる
なんてことが
怖い、屈辱といったきもちの表現として
「いちばん的確」かどうかは疑問だ
でも ともかくわたしの頭は
わたしのきもち
そういったものに
コンバート・アウトプットしてくる。
的確じゃないことは 頭のほうでも
百も承知なのだろうが
一種の妥結点として
さしあたってこんなかんじ、
と 見せてきている。
・・・のだとしたら、
あんまり 正直
納得はいかないが まあ 
そうなんだからしょうがない
としか 言いようがない。

心のことも体のことも
わたしは自分のことなのに
まったくなんにもわかっちゃいないと
この1年 イヤってほど
思い知ってきたじゃないか。

わたしが言いたいのは 
だとすれば
やはり
「フラッシュバックでは
こんなものを
見るんです、聞くんです」
ではない。
それを表現するうまい言葉なんて
探しても おそらく 
しかたがない。
言いたいのは
怖かった、屈辱的だった。
とても助けてほしい。
そっちなのだ。
そう 今はおもわれる。

完璧とも巧みともいえない手法を
もちいてでも、
心は 頭の機能を利用して
わたしに訴えてきている。
そう考えるべきだろう。
ほんとうに重大なことだから。
なんとしても伝えようと
してきている。
たぶん 
怖かったのだ、
屈辱的だったのだ、
はずかしかったのだ、
傷ついたのだ、
絶望感を味わったのだ、
裏切られたと感じたのだ、
とてつもなく疲れたのだ、
それを 等身大でもっと
キャッチしてくれないと困る、
もっとちゃんと理解してくれ
まだ足りない、もっとちゃんと、と
言ってきている。

でも、
どうして?
どうしてそんなにも
あのときのことが
わたしを苦しめるんだろう。

事実の重さの感じかた
そこにおく価値の認識が
わたし自身の考えと
わたしの心身におこっていることとで
あまりにもちがうのはなぜなのか。

わたしは、
そこまで傷ついたつもりがない。
一方的に会社が悪かったとも
じつはおもっていない。
わたしが戦力外の状態であったのが
わるかった。
わたし以外のみんなも疲れていた。
みんないらいらしていた。
最悪の状況だった。
だからこそ
できないわたしが 槍玉にあげられたと
そんな側面もあったと理解している。

でも 心はそうじゃない。

いまでもやはり
受け入れられていない、
ってことなんだろう。

倒れるまでのたった1ヶ月やそこら
上司に怒鳴られたり物を投げられたり
つるしあげられたりした程度
たいしたことではなかった。
みんなは社会で
もっと理不尽なことにも耐え
何年もひとつの場所でふんばって
認められようとして
がんばっているではないか。
なのに ちょっとつらいことが
あったくらいで
こんなに引きずって・・・
みんなできることが
わたしだけできない
わたしが半端者なのだ。
と この期に及んで 
考えていたい。

なぜか。
そう考えることが
正しいと 教えられてきたからで
それを 
わたしが受け入れているからだ。
おそらくは。

たいしたことではなかったと
わたしの心は ほんとうは
とらえていない。
たいしたことだったのだ。
心が泣いてる、
たいしたことだったと
認めてくれと。
でなかったら こんなに
心がいつまでも
騒がしいわけはない。

わたしは でも
受け入れるのが・・・
ほんとうに怖いなあ。
ここまで 口ではいろいろ 
理解しているようなことを
言ってきたけれど
それでも、まだまだ、まだまだ
ということならば
わたしは なにかもっと
あけたくないフタを
あけないといけないんだろうな。
自分ひとりでそれを
やれるとはとてもおもえない・・・
怖い。だが・・・。

ぷ、プロに相談・・・かな汗


「社会ではみんなはもっと
つらいことがあっても
がんばって耐えている」うんぬん
というのは ・・・
つまり いわば「社会規範」だが
それは 
「誰か」が 言い出したことで
わたし自身が一生懸命考えて
だした結論ではない。

「世の中そういうもの」っていう 
誰が言い出したのかわからない
「答え」を いつのまにか
本心であるかのように
自分のなかにとりこみ、
行動していくうえでの
一種の・・・ 
心の柱にしている。
としたら・・・

その「社会規範」が
正しいものなのかどうかは
わからない。
わたしはそれが
自分の心のなかだけでなく
わたしのまわりに あることを 
やっぱり確実に感じる。
あるからには 
そこにはやっぱり
何か意味があるだろう。
そう考えるのがよい、という
なにか、その理由が。

ただ、 
わたしがわたし自身を
これからも生かしていくことを
考える場合にかぎって言えば、
何度 死にたくなっても
何度でも 最終的には
「生きる」のほうを
選びつづけること、
を 最優先に考える場合には、
・・・
わたしの心のなかの
その柱を廃棄しないことは、
相当な問題のようにおもう。
くさりはじめている。
わたしがもうその柱の安全性を
信じなくなってきている。
今やわたしには合わない。
ほかの柱に取り替えなくてはいけない。
できれば
誰だかわかんない人が作ったものが
いつの間にやら はめ込まれてた
っていうのではなく
自分で考えて削り出したものか、
自分でこれだと信じたものを
自分で決めた そのときに 
はめ込む、
というかたちで。

まさに いま
大道具作家のMくんに
自分のお金と
自分のオーダーによって
自分の部屋のためだけの 
自分のための はめ込み型書棚を
作ってもらっているように、だ。

そうか、
書棚が 
部屋に作られることが
こんなにもだいじなことに
おもえてならないのは
だからなのかもしれない。

自分で生きていくための
自分でちゃんと作った、選んだと
おもえるような 柱がほしい
という きもちを
わたしは書棚に託しているのだ。

映画の感想-「三国志 三國之見龍卸甲 Three Kingdoms: Resurrection of the Dragon(2008)」-190111。

三国志
(原題:三國之見龍卸甲
/Three Kingdoms: Resurrection of the Dragon
ダニエル・リー監督、2008年、中・韓)

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movie.walkerplus.com


DVDなどで何回か観ている。
あんまりおもしろくないけど
好きなところが それなりにある。

諸葛孔明がなかなかかっこいい。
ゲスなまでに頭がキレるところは
あれはあれでわるくない。
孔明はそのくらいでないと。

「長坂の戦い」のくだりは好き。
いつもここだけは
何回もくりかえし観ている。

劉禅救出作戦のところは壮絶。
劉禅の保護に成功するも
曹操軍の追撃にあって
赤ん坊を守りながらの死闘、
馬上から棍棒で頭をぶん殴られて
気絶しかけるが、ふみとどまり
兵士どもをけちらし戦車を奪取
もう1台の車両は力任せに破壊、
死んだとおもわれた愛馬が
奇跡的に復活し
追いかけてきたのをみて
戦車から馬に乗り換え
丘をかけのぼり
なんと曹操のいる本陣へ。
「孟徳」の銘がはいった剣を奪い
曹操に間近にまで迫られるも 
逃げおおせる・・・
ここまでの数分は
死に物狂いの趙雲の戦いを
アンディ・ラウが めちゃくちゃに
がんばって演じていてすばらしい。
「ゾーン」状態としかおもえない
鬼神のごとき戦いぶりだ。

趙雲の任務は
敵地にひとりでいき、
劉禅をみつけて
連れ帰ることだったので
(これだって 死んでこいと言われたのに
ほぼひとしいミッションインポッシブル)
曹操の本陣に迫れたのは
完全なボーナスステージで
音楽の曲調も変わるのがおもしろい。

もはやこれまで というときに 
背中の劉禅が元気に泣きだしたのをみて
呵々大笑する 趙雲がすごくイイ。

三國志だなあってかんじがちょっとする。

趙雲の馬が追いかけてくるところには
毎度のことながら涙ぐんでしまう。

この長坂の戦いのところだけは、
何回観ても 緊張感やスピード感が
おとろえるかんじがしない。
よくできているシーンなんじゃ
ないかなと わたしはおもってる。

趙雲が五虎大将軍の一角として
北伐の将に抜擢される儀式のシーンで
彼だけ妙にめだつ真っ白の衣を
鎧の上から着て現れるのは
主役とはいえ どうかとおもう。
曇り空の下 白が映えて美しいが
重厚感にかけ なんか弱そうに見える。
白はたしか 喪の色でもあるから
縁起がわるいかんじもするというか。
それに 五虎将軍では新参なのに
あんなふうに目立つかっこうでは
古株の関羽張飛に失礼と考えて
ほんとうの趙雲だったら決して
着なかっただろうな、と
おもう、というかそう信じたい。

兄貴分の裏切りの背景を
せっかくならもっとしっかり描けば
よかったのにと すこしおもう。

それにしても
ここというときに趙雲が思いをはせるのは
兄貴分とともに立身出世を夢見た
まだ何者でもなかったころの 
記憶ではなく
劉備麾下 五虎大将軍となってからの
関羽張飛たちとの思い出、というのが
けっこう 
はたでみていて切ない・・・
兄貴分の羅平安は 
チャンスがめぐってきても とうとう
武功をたてられずじまいだったので
趙雲だけだった、
名をあげることができたのは。
羅平安は関羽張飛となんて
口をきくこともゆるされない
立場であり距離感であるとおもう。
趙雲は  
あなたはいつまでも
おれの親愛なる兄上、と
敬意をもって羅平安に接しつづけたが
その心のなかには
羅平安には近づくべくもない
のぼりつめた者としての
趙雲だけの思い出が 
できていたのだ。
もっとも 羅平安の前で 
関羽張飛のことを
立派だったとかなんとか
不用意に語らないのが
趙雲だったろうが。

地にあっては 羅平安を慕い、
天にあっては 戦友との思い出が
彼を待っている、ということだったんだろうか。



あとはとくに・・・。
映画として考えると 
できはよくない。

三國志と あまりにもいろいろちがうのは
知っていてわざとそうしているようだから
なにもおもわない。

中国は歴史が長いなあ・・・
そのあいだにさまざまなことが
起こってきたが
それらの記録は虚実さまざま
質量とも うなるほど残されていて
ちょっとそこから切り取ってくれば
歴史ものの映画とかいくらでも作れる。
それに 中国史においては
悪事も戦争も人死にも伝説も
スケールがとにかく けた違い。
つまりネタに困ることが
なさそう、というイメージ。
そうかんがえると
何かほんとうにうらやましい。
歴史の厚みみたいなものが。

まだまだ/「眺めのいい部屋」/「宝石の国」-190110。

ちょっとがんばろうとすると
体の調子が崩れる。
てきめんだ!
体のなかに誰か お目付け役の
ちっさいおじさんかなにかを
飼っているようだ。

がんばろうとか
身の程しらずのことを
考えてるんじゃないだろうな。
おまえ なに調子に乗ってんだ。
がんばっていいなどと誰が言った。

そう ちっさいおじさんに
スゴまれているような気がする。

まだまだまだまだ、だ。
今週はでも さいわい1回も
フラッシュバック
体験していない。
それだけでも気分は全然ちがう。

・・・

フォースターの
眺めのいい部屋
読み返してみている。
ゆっくりと。
なんか前より妙に
ほほえましさのようなものや
おかしさを 感じるようになってきた。

・・・

アニメ「宝石の国」の第8話
アンタークチサイトとの別れのところ
あまりに残酷だ。
でもすごく美しい。
この場面が描きたかったがために
作者は物語の主人公を
「宝石」にしたのかな、
とさえおもう。

エンディングの歌がいい。
無垢で冷たい歌声が 作品の印象に
よく合っているなとおもう。

アンタークチサイトが戻ってくること
あるのかなあ。
人差し指を口のまえで立てて
「しーっ、静かに」とやった
あの姿が最後とは、あまりに酷だった。

長命な、彼ら宝石たちは
やっぱり いつ死ぬかわからない人間とかと
くらべると 1日の、1年の、精神的な内容が
うすくはあるが、
それでもおおくの宝石たちは
自己鍛錬とか 技術の向上、研究開発に
ちゃんと努力している。
その長い年月のあいだに
仲間をうしなったり
おおきな失敗をしたり 
つらいことがたくさんあり
でもそれをどうにか乗り越えて 
暮らしてきている子たちばかりだ。

フォスは月の秘密よりも
自分の心の秘密について
考えてみるべきなんじゃないのかな。
月の秘密が知りたいのはわかるのだが・・・
それがわかって、自分という存在との
つながりも わかったとしても
でも それは 自分がどう生きたいかの
答えにはならない。
ルーツはルーツだろうが、
未来まで縛るルーツなんかない。
自分がなんのねらいで
なぜ生まれてこさせられたか
知ることに意味がないとはいわないけれども

でも なんにしても、
この先どうしたいのかは
自分で決めていいはずだ。

ちゃんと決めていくために
フォスには心すこやかでいてほしい。
まわりの先輩たちに
すべてのことを どうやって乗り越えてきたのか
聞いてみたらいいのに。
月人と話すのではなくて
先輩と、自分と話をすればいいのに。

あんなに傷ついて
心を凍り付かせてしまって
フォスはかわいそうだ。
これまで300年以上も
なにも考えず 
日々を無為にすごしてたことの
反動もあるかもしれないが
この調子だと 体の部位どころか
心まで彼は損なわれるだろうなと
心配でしょうがない。


・・・

あんまりすきじゃないこと、もの。-190109。

あんまり好きとはいえないこと、もの。

ビジネスバッグからのぞくマンガ雑誌

オロビアンコのバッグ
リボンをつけたまま。
たいていよれよれ。

手入れの行き届かない 真っ白(のはず)の靴。

マフラーにイヤリングが
ひっかかること。

会社に来て
朝礼とかすませたあと、
と おもわれる時間帯に
大挙してやってきて
トイレの鏡と手洗い場をふさぎ、
おしゃべりしながら
お化粧にいそしむ女性たち。

彼女たちが 
いっせいにでていったあと
流しのうえにちらばっている
ながい髪の毛。

「暗黙の了解」。
それに甘んじる自分。

知らなかったことを知っていくときや、
あまり得意じゃない ものの考え方を
実践せざるをえないときの
いかにも不器用な頭の動き。

ユーモアに欠ける、悪口。

人の目の前でドアを閉める行為。

ありがとう、ごめんなさい、
大丈夫?、いいよいいよ、
そういう ちょっとした言葉の欠如。

みじめなきもちになっているときの自分。
感情的になりそうだから
こういうときは人とかかわりたくないなーとおもう。

ていねいじゃない手書きの文字。

極論化、単純化

自分の心が傷つきやすいだけで
他人の心には鈍感であること。

カギこわれる/スウェーデンボルグかけめぐり-190108。

今朝、玄関のカギをかけようとしたところ
カギが、鍵穴から抜けなくなった。

ああ・・・

あったなあ、これ。
ずっとまえにも・・・
そのときは、職場のカギだった。
会社は、3階建て 下2階が職場、
最上階がアパートになっており
施錠可能な共用玄関が設けられていた。
最上階にお住みのかたもふくめ
みんな共用玄関のカギをもってた。
さいごに会社を出る人は、
最上階のかたが在宅か否かにかかわらず、
共用玄関のカギを
かけて帰ることになっていた。
その日、わたしが最後だった。
カギが、かからなくなった。
施錠できないし、あと、抜けない。
施錠できないことにも困るが
カギが抜けない、ってのに参る。
だって カギがささったまま
その場を離れるわけにいかないし。
共用玄関以外に、
各居室の扉にカギがあるから、
玄関のカギを、最悪かけなくても、
セキュリティが ざるになる
ってわけじゃないんだけど、
でも鍵穴にカギがささったままは
さすがにだめだ。

だが あのときは
いろいろ試行錯誤して、
なんとかふつうにカギを
抜くことができた。
先に退社していた上司と
運よく電話がつながった。
カギではなく ドアのほうに
ちょっとしたクセがあり
カギをまわすまえに ドアを
ちょっとこうしてああすると・・・
的な コツを伝授してもらったのだ。
そのとおりにやってみると
施錠に成功、カギも抜けたのだった。

今回も、
それと同じケースかどうかは
もちろん わかんない・・・
けど、
なんか、あの職場のドアと
形状とか似ているし、
もしかして、やってみてもいいかも。
それで、かつての職場の 
あのドアに施した
カギをかけるときの ひみつの小技を、
やってみた。

すると、
カギが たぶん、折れた!!!!
なんか 変な音した!!!!

いや。
いったん落ち着こう。
カギが折れるなんて
そんなわけあるか。
金属なのに。
ペットボトルのフタをあけるだけで
指をねんざするような人間が
カギみたいなぶあつい金属のプレートを
折ったりできるはずない。
そんなことしたら
こっちの骨が 先に折れるよ。

たぶん鍵穴のなかの
繊細なメカニズムを
ドアを乱暴にいじったことで
つぶしちゃったんだとおもう。

そして カギは抜けない。

いちおうドアノブをまわしてみる。
やっぱり施錠はできていない。

施錠さえできていれば
この際どうせカギ抜けないんだし
出発しちゃってもいいかなとか
おもったんだけど(イヤ、だめだろう)。

だがしかし、
施錠ができてないので、つまり
部屋のなかに入れる。
部屋に 楽器用の オイルがある。
あれを もってきて、
鍵穴にさしてみたらどうか。
すべりがよくなって
カギを抜くことだけでもできないだろうか。

急いで部屋にはいってオイルをとってきて
さしてみる。
カギを 引き抜くかんじに
力をいれてみたが びくともしない。

だめだなあ。
ということで アパートの管理会社が
24時間対応で提携している 
カギ屋さんに電話をかけて 
緊急出動を要請した。

なんと、ほんの20分たらずで 
きてくれるという。

待つあいだ 寒いので部屋にはいった。
グーグル先生にちょっと聞いてみる
今回はもう レスキューたのんじゃったけど
自分で対処できたこととか
なにか なかったのかなーとおもって。

「玄関 カギ 壊れた 抜けない」

ヒットしたいくつかのサイトを読んだ結果

カギが抜けなくなったときに
絶対やってはいけないことランキングの
不動のワンツーに君臨する項目を
自分がやっちゃってたことに
気づかされた。

www.kagi-rits.jp


・カギ用じゃないオイルをむだにさす
・無理に抜こうとする/ドアノブをまわす

・・・。

先に読んどけ わたし!!!



対応してくれたカギ屋さんによれば
やはり 鍵穴のなかのメカニズムが
つぶれてしまっているとのこと
一番はやいのは 
鍵穴部分もろとも カギを全交換、だ。

しかたがない。
ついこのまえ セキュリティ強化のために
カギを交換したばかりなのだが。

はあ~。

いろんなことが起こるなああああ~。
まだまだ こんなの 序の口だろうな。
このさき1年くらいは こういうこと
なにかあるかもしれない。
まあ覚悟しておこう。


・・・


図書館でかりた本のうち
返却期限が今日のものがあったが
まだ数十ページ のこっていたので
仕事がおわってから
ちかくのスターバックスに入り
コーヒーをのみながら 読んだ。
読み終えて図書館にいき、本を返却。
まだ かりて未読の本があるから
今日はなにも かりないで帰った。


・・・

目下 
スウェーデンボルグに夢中だ。
いっしょうけんめい 
読んできたおかげで
ようやく 
彼の流儀みたいなものが
わかるようになってきた。
この人、
けっして文学的叙述の才能とかが
あったわけじゃない とおもう。
ただ、書きたいことが 
すごく明確にあった。
また、直接体験にもとづいて
論説を提示しているので
描写がものすごくパワフルで、
彼自身の新鮮なよろこびや感動に満ち
表現は拍子抜けするくらい シンプル
・・・いや、いうなれば
一種の幼児性みたいなものをたたえ
そして、クリアだ。
彼のいうことには、
どこか、ぺかーっと明るいかんじがあり、
読んでいて 気分がいいというのもある。

後世の研究家の手になる
解説付きの抄訳も
参照しつつ読んでいくと、
ああ いいたかったのはそれだったのか、と
すこし とっつきやすくなることが多い。
哲学者でスウェーデンボルグ研究者の
高橋和夫さんには
もうお世話に なりっぱなしだ。
このかた、とても文がうまい。
なにか かなり高度におもえることを
平易な言葉で わたしのような者にも
するっと理解させてくれる。

詩的なるものがぜんぜんわからないわたしは
ヨハネの黙示録」とかを ひとりで読んでも
まったくといっていいほど入ってこないが
スウェーデンボルグという人の視点をとおして
読んでみると
あ、え、これってそういうこと!!!???
って はっとできたりして おもしろい。

たぶん、かなり
救われている部分があるとおもう。
スウェーデンボルグに。

心にやさしいものを
もたらしてくれない「真理」なんて、
どんなにそれが正しくても、ほしくないと、
わたしはおもうのだけど、どうかな。

あしたから仕事だ-190106。

せっかくの冬休みだけど
頭が痛む日なども多く
寝ている時間が長かった。

新年も6日になって、
はじめて何冊か本を読んだ。
アレクシス・カレルというお医者さんの
聖地ルルドについての本と
人間、この未知なるもの
という本がおもしろかった。
図書館でなんとなくかりたのだが
また読みたいので
自分で購入しようとおもう。

ルルドはフランスにある。
19世紀、
この地の貧しい家の娘
ベルナデットのまえに
計18回も、聖母マリアが出現
マリアがさししめした洞窟に
湧いた泉の水が
当時の医師が匙をなげた病やケガを
たちどころに治す奇蹟の水とされ
ルルドカトリック公認の
聖地となった。
以来、いまにいたるまで
この南仏のちいさな街には
重い病や障害にくるしむ人びと
難民などの生活困窮者
貧困にあえぐ社会的弱者
リセの社会科見学
敬虔な信徒やそうでない信徒
巡礼者が世界中からひきもきらない

なにかしらの宗教の聖地は
世界にあまたあるが
エルサレムよりメッカより
年間の巡礼者数がおおいのは
いまやこのルルドと聞いてる。

カレル氏は
ノーベル賞をもらったような
バリバリのサイエンティストで
ドクターだが
あるとき
聖地ルルドの奇蹟にふれて
きっぱりと信仰の道にはいり
さいごは宗教者として
亡くなった人だ
ルルドについての著書は
ノーベル賞をもらって
その地位を確立してからでないと
とても出すことが
できなかったという。

神の奇蹟を信じるって
なんなんだろう
どういうことなんだろう

トマス・アクイナスの哲学書
神学大全も読んだ。
頭が痛くなった。
いきなり読んでもこんなもん
わかるわけがない。

・・・

さっき2時をまわったころ
またもう一冊
べつの本を読もうとして
あした仕事始めであることを
おもいだして はっとした。

いそいでふとんに入って
いまにいたる。

・・・

大道具作家Mさんが
着実に書棚の製作を
すすめてくれている。
きょう送ってくれた写真では
もうだいぶ書棚ってかんじの
見た目になっていた。
わくわくしか沸いてこない笑!

納期について
はっきりいつと話し合ってないし
彼には本業もあることだから
そちらを優先していただくので
いっこうにかまわないと
考えてるが
おもったよりはやく
完成、設置にこぎつけるかも
うしろだおすことは想定しても
早まることはあんまり
かんがえてなかった笑
うれしい誤算かもしれない
部屋をかたづけておかないとなー

まずベッドの位置を
あした、変えたい。

頭が痛いのがなー
治ってくれればたすかるが。