BRILLIANT CORNERS-2

観た映画・読んだ本など関心ごとへの感想メインの、なんということのなさすぎる身辺雑記帳です。 少しずつ、いろいろ更新してまいります。 お気が向いたらお読みいただければさいわいです(^O^) ブログのタイトルは、セロニアス・モンクのアルバムから。「すみずみまで光り輝く」というような意味だそうで、なんとなくいいなとおもうもんで。

手記-其の伍(仮題)-途絶-20180223

もしかしてなんだけれど

本題に入れないのは 
思い出すことを恐れているからなんだろうか。
そこまでのことだとおもっていないつもりだったけど。
じっさい そこまでのことじゃないような気がしてるんだけどなあ
またぞろ たかをくくってたんだろうか。
文章化し 客体化することによって
はっきりと自分の眼で見るのが怖い
ってことかな??

書きたくないから こんなに
さして必要ともおもえない 前段階の記述が
長くなっちゃってるのかなあ。

そんな繊細っぽい問題に 
このわたし程度の者が ぶっつかるもんだろうか
わたし程度の者だから 
むしろぶつかるのかな???

書くのをやめてしまったらもう
前に進むことができない気がする。
ほかに方法があるとおもえるなら まだぜんぜんいいのだが。

手記-其の肆(仮題)-そもそもの話をそろそろ-きかんしゃトーマスはまたこんど

直接面識がある友だちとかが
もしかしたら 読んでくれるかもなー
でもみんな本とか ふだんあんまり読まないみたいだしなー
こんな長くてたいくつなの 読んでくれないなー(^^)
まあいいかあ
みたいな。

そんな気持ちでわりと書いている。

身近な人たちの顔を思い浮かべながら書いている、
そのことも、この「手記」を 
わけのわからないものにしている
要因だろう。
わたしの周囲の人びとが先刻承知の、
「基本情報」のたぐいを
すっかり省いて 気の向くままにやっちゃってるわけだ。

けど なんとなくそれにも
限界というものがある、という
かんじがしてきたから

で、なんですか結局。そもそもなんですか。の話を
ここですこししておきたいとおもう
礼儀として。
?。

だがぜんぶ話そうとすると これは 長くなる。
ほんとうの必要事項か否か、
すべてのことについて精査するよゆうも あまりない
それってさ、だいじじゃない??!!ってことを
平気で書き落とすこともあれば、
たいしてだいじとも言えないことに 
やたら筆をさくことも
やっぱりあるかもしれないね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もうしおくれたけれど あらためて自己紹介を。

わたしはいま30代。独身の女だ。
もと、都内の某編集プロダクション勤務の
雑誌編集者。
会社には2013年の春に入社し、
2018年、つまり今年の1月下旬をもって退職した。
最終学歴は短大卒、私立大学 満期除籍だ。
学生をやめておそるおそる社会にでたのは24歳のとき。
学習塾の事務兼・推薦入試志望の生徒を
対象とする小論文講師とか
総合広告代理店の原稿作成・営業事務とか
工業用部品などの専門商社の営業事務とか
いろんな仕事をしてた。
だいたい3年くらいずつ。
※3年サイクルなのはただの偶然。

先述の専門商社のキャリアにおいて、
職場の女の子たちとの関係が
最悪レベルと言ってさしつかえないほど悪化し、
業務遂行が 到底 不可能になったという事情から
(ま、要は「いじめにあった」ってこと(^^))
退職することとなった。
※自分の名誉のためにいうけど 会社は味方してくれたよ(^^)※

失業し、これからどーしようかなと 考えたとき
「人生で一瞬でもいいから 本を作る仕事がしたい」という
ささやかな目標にいちど たちむかってみる気になった。
年齢的にこれがさいごのチャンスかもなーというのもあって。
その前に働いてた総合広告代理店が
声をかけてくれたのに甘えて
バイトをさせてもらいながら、就職活動を敢行。
未経験だから150社以上受けて ほぼぜんぶ落ちたけど
1社だけ ひっかかった会社があった。
それが、先月まで働いてた編集プロダクションだ。
都心のマンションの居室2つを事務所とする会社
だいたい15人前後で増減する編集部員のひとりに
わたしはなった。

本を読むのも、自分で文を書いてみるのも
昔からすきなほうであったし、
本を作る、まさにそれをやる 
編集プロダクションでの仕事は
おもしろかった。
覚えることがあまりにおおく
デザインソフトにさわるのももちろん初めて、
しかもコンピュータにくわしくなかったわたしは
(どのくらいくわしくないかというと
「ダウンロード」と「インストール」の違いがわからなかったくらい。)
教育係の先輩を ほとほとこまらせたが
なんとか必死に業務を身に着けていき
最終的に
人の倍やって半人前、くらいのところまで
こぎつけることはできたようだ。

しかし、
これまでの3回の「手記」で述べたとおり、
旧年暮れ、体調をおおきく崩した。

・・・
村上龍の なにかの小説にもあったが
編集プロダクションっていわれて
どんな仕事か想像できる人は 世の中に
あんまりおおくないとおもう。それはたしかだろう。

編プロというのは 発注元・・・おもに出版社から
「こんな本を作ってください」
「うちで出してるこの雑誌のこのページを作ってください」
と注文を受け、デザインソフトなどを使用してそれを遂行する。
企画構成、取材、紙面へのレイアウト、執筆までぜんぶやる。
そして完成した原稿をおさめてお金をもらう・・・
ということをする、出版関連企業だ。
この仕事は、
たいへんな激務であることが わりと知られてる。
そのことをごぞんじでなくても、
局の依頼を受けてコンテンツ制作をする
テレビ番組制作会社や アニメ制作会社が
超忙しいんだってね、と 聞いたことがおありであれば、
編プロもまさに、ああいうかんじだ。
そのイメージを応用していただいて
ほぼさしつかえない。

編集者っていうと、出版社の「あの編集者」・・・
作家先生のお屋敷に日参して 
うちで書いてくださいませんか、とかやる
あの編集者、がまず 想起されそうだが
編集プロダクションの編集者と
「あの編集者」は、ちがう。
・・・・・・
で、話がわきにそれたが、
そんなぐあいに 
まあ筆舌に尽くしがたい 
凄惨なまでの激務だったもので、
わたし、働いてきた数年間で何度も
調子が悪くなったことはあったのだが、

今回ばかりは 限界がきたみたいだ。

後述することとなるが、
倒れた2017年11月は まるまる1か月間
わたしだけでなく職場全体、みんながみんな、
これまでに例がないほど忙しく、
すごく・・・混乱した状態にあった。
肉体とともに神経もまいってしまったらしいわたしは
職場でぽっくり倒れ、入院となったしだい。

退院日の翌週 12月1日から、
いちど職場に復帰し、10日ちょっと がんばってみた。
会社もはれものをあつかうように
早く帰れ、それが終わったら帰れ、定刻で帰れ、と
配慮してくれた

けれども、それ以前も以前、
初日にデスクの前に座ってみた瞬間、
あ、こりゃむりだな。と自分でわかったものだ。

倒れるまえとはなにもかもがちがってしまっていた。
失われていた。
できのいい編集者とはいえないにせよ
それでも長く働くうちに
デザインソフトと自分の頭が 指先でもって
接続されてるかんじを たしかに獲得したのに、
その感覚がなくなってた。
頭とデザインソフトが 離れてしまってた。
また つなぐのは、骨だ。
1回はつないだんだから、またやればできるだろというのが
この場合の理屈だろうが・・
はっきりいって、できる気がしない。
なんでだろう。
それに、体がだるくてしょうがない。
なぜこんなに頭が痛むんだ???
出てくるべきじゃなかったかも・・・。
そのことを痛感するためだけに 来てたような
10日間だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

これは、おもえば
事情をよく知ってくれている友人などにも
いままで 話してこなかったことなんだけど、

わたしが
「今週は休んで、週明け12月1日から復帰だ」とか
はりきってた 休養中の土日のこと。
わたしの母が 勝手に会社に連絡をとってた。
社長(会社は一種の同族企業。専務の母が、社長だ。)に、

「もう働かせられない。死んでしまう。辞めさせます。
本人がどう言うかはしりませんが。親の意向はこうなので」
と、 宣言したようだ。

わたしは、それをあとになって専務の口からきかされた。
(母に厳重抗議したことはいうまでもない。)
復帰後、会社で
「早く帰れ」「定刻で帰れ」「ムリなら休め」と
だれもかれも毎日のように言ってきたのは
そういう背景があったからだったのだ。
専務は「おふくろさんに怒られちゃうから」と。

わたしは復帰最初期は
すくなくとも続ける気満々であったから
それを知ってほんとにまいった。
勝手なことをしてくれたものだと。
子どものケンカに親が出て、じゃないけど
なんていうか 言うまでもなく とてもみっともないことだ。
そんなことを言われてしまって
それがわたしの意思であるととられでもしたら・・・。

でも、復帰間もなく、先に述べたように
「これは、むりだ。もう前のようにはできない。」と
痛感させられることになった。
わたしは、
これは、だめだ、退職せざるをえないと
休職ではなく 休養でもなく もうここにいることができないんだと
そう 自分自身で さとった。

母のしたことはまったく問題外と言えるけれど、
しかし、母の気持ちをおもえば わからなくもない。
退院後しばらくたって、
叔父宅を訪ねた(母の実弟。)とき、
叔父の奥さん(わたしの叔母。)に
じつはわたしが辞めるのを決める前に母がこんなことを、と
話した。
すると、叔母が
「あんたのお母さんは、今回のことですごく負い目を
感じたんだとおもうよ」と。
なんでも、夜中の電話で救急搬送の報をうけた母は
その場で腰をぬかしたそうだ。
電通の元社員で 将来を嘱望される才媛だったにもかからわず
自死をとげた 高橋まつりさんの件など
過重労働、過労死問題などが
いま、わが国でおおきな話題となっている。
でも母は、そういうことって テレビのなかのできごとみたいに
思っていたんだろう。まさか自分の家族に当事者がでるとはと。
わたしは まったく家にいつかず
休日も朝から家を出て仕事に行き 
家族が寝静まった深夜にようやく帰宅する、
毎月3日、4日泊まり込むのがあたりまえという
生活をずっとしていたんだけれども、
それでも 母は
テレビのなかのことと現実とをうまく重ねて
考えることはできなかった。
それに加えてなのだが、
・・・
さきほど、
前職の商社において、いじめが原因で
退職を余儀なくされたと述べた。
このときのことなのだが、
わたしは、退職したことを 家族になかなか打ち明けられなかった。
しかし、国民健康保険の払込票が自宅に届いたことによって
知られるところとなってしまった(会社を辞めると保険の
変更手続きをしなくちゃいけないからね)。
母は 辞めた理由を激しく問い詰めてきたが、
とてもじゃないが話せなかった。
いじめにあい、仕事を続けることができなくなった。
そんなこと、どうして言えるだろう。
母は 合理的な理由もなく 正社員の職をみだりにすてた
わたしをひどくなじり、
ほとんど「人間失格」さながらに非難した。
しんぼうのきかない人間は社会で生きていけない、
大変なことがあってもみんな耐えてがんばっているのに
おまえだけはいつもそれができない。
おまえはダメな人間だ。
正社員だったのに。
がまんということがなぜできないのか。
・・・
たぶん、母も、不安だったのだろう。
落胆したのだし、困惑したのだろう。
それをこうして 怒ることでわたしにぶつけた。
そういうのは、わかる気がする。
叔母の言う、 
母が娘、つまりわたしに感じている負い目のヒントは
この点にあるというのが 叔父夫妻(あと兄も)の共通見解だ。
あのとき、ひどくなじってしまったために
「たとえ死ぬほどつらくとも、がまんをしなければ
社会人として、人として、合格とは言えない」
そのように 娘に考えさせてしまった。
今回 娘が倒れたのは
強迫観念めいたその気持ちが悪いほうに作用して
文字通り死ぬ寸前まで 
がんばろうとしてしまったのではないか。
すくなくとも母はそう自分を責めているようだ。と。

まあ、考えかたの道筋として、たしかにすごくありそうなかんじだ、
母の性格的に。
母の考えとして 大筋で正解だろうと踏んでる。
でも、ほんとうにわたしが そんなきもちに駆られて
「がんばった」結果
死にかけたのかどうか・・・でいえば、
明確に、それはちがう(^^)
たしかに当初、つまり前職を辞めたことが知られてひどく
非難された、あのときは、
「肉体も精神も壊れるまで頑張らなければ、社会人として合格とは
言えず、存在する価値もない人間ということになるのか」なんて
考えたくらい 深く傷ついた。それは認める。
そういう考えって、ふだんのわたしもけっこうしがちだから、
心になじみやすかったんだろう。
だから 最初はそう思ったこともあった。
でも、わりとすぐ 思ったということじたいを忘れてしまった。
今回倒れたのの原因は、おもに「不養生」にある。
体調が悪いことについて真剣に考えることができないくらい
体調が悪くなっていて、
つらいなら休むとかそんな考えがわかず、
状況的にも休めなかったし
だから 倒れた。
母があのようにいったからがんばらなくてはならない、
死んだとしても、しかたがない。
いかにわたしがバカでも まさかそんなことは考えない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話をもどす。
わたしは、辞めざるをえないと感じ
考えたすえ 退職することをきめた。

しかしながら、なんだけど、
このままなにごともなかったかのように
ばいばーい、とは できないとの結論にも
達した。

べつによかったんだけど、当初は。
・・・いままでに籍を置いたどの職場でもそうだったように
最後に職場のみんなに送別会を開いてもらい
いままでありがとう、つぎの職場でもがんばってね、
なんて言って おいしい食事をともにして
さよなら
そういう辞めかた。ふつうのおわかれ。
でも、その道を選ばないことにした。

そのような考えにいたった背景を次回 ふりかえりたい。
そして、いよいよ まあ使い古された表現だけども
ひとつところでうろうろしてる
時計の針を 先へとすすめたい。
そこからが 
この「手記」の主題となる。

そうしたらようやく
きかんしゃトーマスの話ができるな。
→イヤだれも待ってないよね(^^)!!









手記-其の参(仮題)-ちょっとすすめて20171129-20171130未明

数多くの 詳細な検査の結果、
心臓やら脳やらに悪いところがあって倒れたのではないことを
いちおう確認することができた、お医者さまらが。

激しい頭痛と側頭部の違和感はつづき
ひねった足首と頭のたんこぶの痛みも 
まだその存在を声高に主張していた。
さらに、
謎の熱が でたりひっこんだりをくりかえしてたが、
「まあ、このくらいならば、退院するなとまでは言いません」
とのこと。
 
治りかけの肺炎にともなう高熱によって
けいれん発作を起こしたもの、というところで落ち着いた。
(1か月後、もう一度 詳しい検査を受けたが
やはり頭やら胸やらに原因はみつからなかった。)

わたしもできれば
家の 自分の部屋で休みたい・・・と願っており、
はやく仕事に復帰しなくてはと 考えてもいたので、
退院がきまったことを 心からうれしくおもった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

退院の日 11月29日。
洗面台でコップを洗っているとき、
インターンのおふたりがきてくれて、
きょう退院ですね、当初よりずいぶん元気になってよかった、
あとでまた来ますから、と。
わたしは
おふたりとお話した時間がすごくよい気晴らしになったと
伝え、厚くお礼をもうしあげた。

左隣のベッドの・・・
ナースコールを床におとして 困っていたところを
自分がお手伝いしたおばあちゃんは、
朝からいくつもの検査で 院内をぐるぐるまわっているとかで
ついに ごあいさつすることもなかった。
あいさつくらいしておわかれしたかったような、
でも会わずにすんで 正直ほっとしたような。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

朝10時すぎごろ、母と兄が病院に迎えにきてくれた。

わたし自身は
毎日 都内の職場まで通勤してるわけで
取材やなんかで都内をかけまわってるわけで
新宿、歌舞伎町、若松河田、代々木、大久保・・・
東京メトロ都営地下鉄副都心線京王線
小田急線、中央線、山手線・・・どれもこれも
なんということはない。 東京は、活動圏内だ。
けど、兄は職場までマイカー通勤でほんの数十分。
母にいたってはおそらく 
自宅周辺半径2.5キロメートルくらいの
範囲内でしか ふだん活動してないと思う。
入院した期間は3日間にすぎなかったが、
彼らにとって その間 毎日 都心まででてくるのは
けっこうプレッシャーのかかる、大仕事だったろう。
救急搬送された夜以外は、電車できていたようだから
(兄は東京の道に慣れていないので 車でくることを
さけざるをえなかったのだろう。27日深夜も、
たぶんタクシーで来たはずだ。)
わたしは兄まで 毎日通ってこなくても 
よかったんじゃないかとおもうんだが
(仕事を2日も休ませてしまった。)、
母も、せめて兄がついててくれないと
不安だったのかもしれないね。
いろいろな意味で 
ふたりには、悪いことをしたとおもう。

そういえば、父方の親戚のお墓が台東区にあったので、
子どものころ年に何回か 中央線などを利用して
東京にでかけたものだが、
この おもえば1時間半ちょっとのおでかけを
とほうもない大冒険のように感じてたことを記憶してる。
煉瓦作りの橋の下をながれる隅田川
電車の窓から見える
長屋づくりの家々はすっごく「細くて」、
おたがいにひしめきあって建ってるようにみえたものだ。
お墓参りのあとはいつも、
浅草花やしき」に連れていってもらったっけか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さいごにあいさつをすることになっていた
主治医の先生やインターンの先生がたが
退院予定時刻になってもこなかったので、
わたしたちはぼんやり そのまま待ってた。
わたし、体がかなりつらく ふつうに横になって待機。
自動販売機で買ってきた冷たいウーロン茶のペットボトルを
あごの下にはさみ 熱でほてる首を冷やしながら
寝てた。※はたからみるとかなりヘンな姿だ。

家に帰りたいのはやまやまだけど 
帰る道のりがなあ・・・ 
ぜったい かなりきついだろうなあと内心。
小田急ロマンスカーを使おう、座れるから。
わたしが3人ぶんのお金を出せばいい。

そんな時間を過ごしつつ
わたしは ふと

「会社、クビになるかもしれない、
こんなことになってしまったんじゃ・・・。」

と つぶやいた。

じつをいうと、ふだんのわたしは、
家族とほぼ完全に 没交渉だ。
仕事がとにかくずっとずっと忙しかったから
生活のサイクルからし
家族のそれとすっかり乖離して長いし、
家にぜんぜんいないし・・・、
そもそも 母とも兄とも
良好とはいえない関係にある。
それがこんな 
「きもち」みたいなことを
見せてしまうとは。
言ってしまうとは、おもわなかった。
漏れた自分の声を 聞いてはじめて
「あれっ、なにいってんだろう、わたし」
って。

「こんなことになってしまった」なんて
妙にキッチリした言葉遣いをしているところが
いかにも ぎこちない関係ってかんじだよね(^^)

心が弱ってたからなのか?
発言をコントロールできず。
こんなことを言って どう思われるかとか
なにも考えてなかった。

たぶんだけど、
気になっていたんだろう、
このことがずっと、一番に。

「クビになるかもしれない」。
仕事を愛してる。
たのしんでやってきた。
ものすごく大変だったけど。
なんども体調を崩したが 
そのたびになんとかふみとどまり、
自分なりに工夫をかさね、乗り越えてきた。
やっとのおもいで 本を作れる仕事につけたのになあ。
自分にはできない、能力がないということを
今回こそ露呈してしまった。
戦力外通告されるかもしれない。
ここでも必要とされないかもしれない。
一番 必要だと 言ってもらいたい場所なのに。
もしそうなったら、
わたしの居場所って、いったいこの世界の
どこにあるんだろうな?
それを探す旅を 再開できるんだろうか?
すべてうしなっても、また?

そんなかんじだったかとおもう。

わたしがこんなふうに すなおっぽいことを言うなんて、
母と兄にとっても たぶん超意外だったろう。
だって、
ここ4年~5年くらいは
兄はまあともかくとしても
母となんて ほんとうに、
まともに会話してなかったからね。
家にいないんだもん、わたし(^^)!!

けれども、
母と兄のリアクションは 
なかなかに わたしをおどろかせた。

「何を言ってるんだ。
まさか仕事を続けるつもりなのか。
死ぬところだったというのが わかってないのか。
バカなことを言うんじゃない。
一刻も早く辞めろ。」

ふたりは目をまんまるにして 
異口同音にこう言った。

あれっ、そういう反応!!??
(じゃあどういう反応なら納得だったのかといわれると
それもよくわかんないんだけども。)

返答に窮しているうちに
遅れていた先生がたが病室にみえて、おわかれ。
退院手続きと清算をすませ、
帰途につくこととなった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

わたしは 母が清算をしてくれているあいだ、
待合スペースのふかふかしたイスに
全身をしずめて呆然としてた。
ていうか寝てた。
いつのまにか隣の兄の肩によりかかってた。
帰りは小田急線の特急を利用して 
すわって帰りたいとか いろいろと
考えをめぐらせていたはずなんだけれど、

こうして外にでて いざ歩いてみると、
意識がずいぶんもうろうとしていて
まっすぐ歩くことさえおぼつかなかった。
眼前が かげろうみたいにゆらめいて
よく見えない。
母がわたしの腕をつかんで 
軌道修正しながらでなければ
蛇行してしまってまともに歩けない状態だった。
つかれていて、また、眠くもあった。
入院して休まされていたというのに
じっさいにはまったく休めてなかった。
この「休んでいるはずなのに実質まったく休めてない」という
かんじは、
以後もずっと、続くことになった。

なにせ頭が痛くてしょうがない。
考えがぜんぜんまとまらない。

特急に乗ろう、お金を自分が払うから、と
ついに提案できないまま。
ふつうの快速急行に乗り(昼間でとても空いてた)
ふつうのJRに乗り換えて、
最寄りの駅からだけ タクシーに乗り、
病院を出た1時間ちょっとあとには、もう自宅に到着してた。

自室に戻るとベッドがととのえられていた。
このまま横になってしまったほうがいいのか
すこしはなにか口に入れたほうがいいのか
ぜんぜんわからず。
(そのどちらかをやったほうがいいことくらいは
いちおうわかってたのだが。)

兄が お風呂をわかしておいてくれ、
母に
「お風呂にはいって、寝てしまいなさい」
と言われ、
そのようにした。

目が覚めると25時を回っていた。
11月30日だ。
ざっと10時間以上 寝入ってたことになる。
病院では3日間ほとんどまともに眠れなかったのに。
わたしって案外繊細なのかもしれないね(^^)

携帯電話の充電は 入院2日目の夜から切れたまま、
パソコンの電源もいれずじまい。
パソコンをひさしぶりに開いて、
メールを見てみたところ、
取引先からはさいわい連絡がなにもはいっておらず。
職場の同僚に、わたしといっしょに作業をしていた人がいて
わたしがこういうことになってしまったので
仕事を かぶってくれたらしく
プリプリしながら
「Aのデータはどこにありますか 連絡ください」
「Bの画像はどこにありますか 連絡ください」みたいな
ことを言っているメールが何件か。
(どうやら わたしが倒れて入院した事実は
専務の口からオフィシャルには共有されなかったようだ。
じつはうちの職場ではそれがデフォルト。重要なことが、
なにも知らされない(^^)!!!)
しかし、それをほかの同僚が カバーしてくれたようで、
「AとBの件はなんとかしたので大丈夫です、
うわさ聞いてます、こっちのことは気にしないで
快復に専念してください」と
やさしいことを言ってきてくれていた。

専務が
「電話だけはつながるようにしといて」と言っていたのに
音信不通の状態になってしまってたことが気まずく、
でも もう夜中だったので 電話もしづらく、
とりあえずぜんぶ あした、あした!ということにして
いさぎよく また横になることにした。
だが、もう眠れはしなかった。
職場の状況を想像すると、もう休んでいられないっていう
きもちになっていた。

しっかり睡眠をとったのに
頭がやっぱり痛くてたまらなかった。
なんなのかこの頭痛は。
たしか何度も頭が痛いと 先生に話したはずなんだけど
なんか、まともに聞いてもらえなかったよなあ・・・
頭が痛くても、脳に異状さえなければ、
だいじょうぶってことだったのかもしれない。

鎮痛剤のロキソニンを口にほうりこんで
しょうがないから朝まで本を読んですごした。

翌11月30日は木曜日だった。
考えたすえ この週いっぱいはすべて欠勤することにした。
専務に電話をしてその旨つたえると
「いいよ、ぜんぜん!でもいつ戻るか決めたら教えてね
せかすわけじゃないけど」。とのこと
あ、戻っていいのか、すくなくとも専務レベルでは。

では翌週12月1日から復帰しよう。
ほかの人たちになんて 言われるかわからないけど・・・。
もうこなくていい、辞めろといわれたら
それは・・・帰ってくるよりないだろうが。

そんなことをおもいながら
週末をすごすことになったわけだが・・・、
この間に、じつに くそくらえな現実に
ぶちあたることとなってしまった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、おおくのかたがたにとって
ここまでまっっったく 
なにがなんだかわからない
ほんっとに 意味不明な手記が続いた感が 
おありだったかとおもう。
なんなんだ、なんのための文章なんだ、
なにを言おうとしているんだ、
病気の話ばっかりしてるけど。
なんなんだ。方向性が見えない。
どういう気持ちで読めばいいのかわからん。
これ書いてるやつって頭わるすぎだろ。
っていうかマジで なに!!!??

そういう内容になっちゃってること
わたしもよくわかってる。
わかってるけど そのまま 指が動くのに任せて書いてる。
もうしわけないとはおもうけれど、
今はまだ このまま放置しておいていただきたい。

次回以降は、
きかんしゃトーマス」について書きたい。
(いよいよもって あたまおかしいんじゃねえのかと 
おもわれるかもしれないが だいじょうぶ、正気だ(^^))
わたしが病気にかかって入院して退院した話、とかいう
超どうでもいいストーリーは
この「きかんしゃトーマス」をもって 
いったん終了とし、
つぎのセクションへと すすむつもりだ(^^)
でも次回「以降」は、というところだけが決まっていて
ほんとに次回
きかんしゃトーマスがでてくるかは
ちょっとわたしにもわからない。
















 

 

手記-其の弐(仮題)-さかのぼって20171101~20171127

いまおもえば、
11月に入った頃から
加速度的に 体調が悪くなってきていた。
夜から朝方にかけて連日連夜 セキがとまらない。
咳止めの薬をのんでも あまりきかない。
なんというか うっとうしく重いセキなのだ。
もう セキをしすぎて胸部の筋肉痛がつらかった。
(ただ、1日か2日、凪の時期なのかとおもうほど
まったくセキがでない期間もあったりした。)
それにくわえて 頭痛、発熱などが
顕著にあることは感じていた。
カゼだろうとおもってた(おもってる ということにしてた)。
わたしは しんぼうがきかないほうであるので
体調が悪いと感じると とにかくすぐ治したくなって
病院にかかってしまうのだが、
このときは、お医者に診せることもなく、放置しつづけた。
というのもこの頃、離席することがはばかられるほど
仕事が忙しかった。

ちょうどこんなようなことが、
当時からさかのぼって1年半くらい前にもあった。
仕事がいそがしくて休憩がとれないから
病院にかかることもできず
結果 体調をくずす、という失敗が。
そのときにはわたしは腎臓などという部位をわずらい
寛解にいたるまで9か月以上ものあいだ
通院、服薬、経過観察をうけるはめになった。
今回も「これはあのときと同じだ、危険なやつだ」ということは、
わかってたとおもう。最初は。
でも、だんだん、なんにも、わからなくなっていった。

のちに別の側面から、
詳しく事情を述べていくことになるとおもうけど、
ちょっと近くのコンビニに、みたいなことさえ
なんとはなしに しにくい、というほど・・・・
とにかく11月は、
2017年の11月は、異様に忙しい時期だった。

ということは やらなくちゃいけないことが信じられないくらい
たくさんあって、しかもどれもこれも 急ぎだったってことだ。

けれども わたしはとにかく調子が思わしくなかった。
なんだか 自分の体を構成してるちっちゃなパーツや
おおきなパーツが ばらばらと音を立てて脱落していくのを
なすすべもなく見つめながら 
とにかく机にむかって仕事してる、というかんじ。
上司から矢継ぎ早に指示がとんでくるのだが、
一応聞いてはいても 頭にはいってこない。
指示内容が ぜんぜん遂行できない。
わすれてしまう。行動に移すことができない。
体も頭も すこしもおもいどおりにならないのだ。
通常、まあ2時間もかければ終わるかなという作業が
6時間経ってもなぜかとりかかれもしないという
(そのあいだなにをやっていたのかと叱られても
自分でもまったくわからなかった。)
なんだか 救えない状態におちいって いってた、
日をおうごとに。

2017年11月27日
22:30~23:30のあいだのどこかだったとおもう。

とりあえずなんとか 数ページ、原稿を
仕上げることができたので、
プリントアウトして上司の机に置いてこようとおもい、
数時間以上ぶりにイスから立ち上がった。
軽い立ちくらみのようなものを覚えた。
あ、くらっときたと思い
ちょっと座ろうと考えて
イスじゃなく仕事場の床にぺしゃっとすわりこんだ。
たしか、そのまま10分か20分くらいも
ぼんやりしてたような気がする。
はっと我にかえった。
そうだ、原稿をプリントアウトして上司の机に置いてくるんだった。
立ち上がって、歩こうとした。
卒倒したのはたぶんその瞬間だった。

このときわたしを懸命に介抱してくれた同僚たちに
あとで聞いたところによれば
わたしは 人としてちょっと考えにくいムリな姿勢で床に倒れてた。
(そんな変な姿勢になったのは
全身性のけいれんをおこしたからのようだ)

救急隊員さんたちの呼びかけに 答えることはできなかったが、
「会社に連絡をしなければならない」という意味のうわごとを
しきりにくりかえしてたらしい。
会社に連絡をもなにも、そこは会社だったのだが。

発見時、体が冷え切っていたせいもあるのか
首元や手首で脈がふれなかったそうで、
死んだんじゃないかと 同僚たちはすごくあわてたそうだ。
そりゃそうだろうな。
でも、死んでなかったし、死ななかった。
幸運だったとおもう。
わたしが助かったのは同僚たちのおかげだ。

搬送直後は救急の処置室みたいなところで
いろいろな応急処置と
脳の異状をみるための簡易的検査がおこなわれたそうだ。
通報の段取りをつけてくれた同僚が連絡をとったらしく、
処置室にまだ寝かされている状態だったところに
会社の実質的責任者である専務がかけつけてきた。

すごく印象的・・・というかこれだけははっきりと
覚えているんだけど
専務は
死んだ魚のように寝かされているわたしの頬を
指先でそっとたたき、
「おーい」と言って わたしをなかば覚醒させた。
そして
「ごめんね!働かせすぎちゃったね!」
「いつごろ仕事戻れそう?せかすわけじゃないんだけど」
「まあとりあえず休んでね。携帯だけはつながるようにしといて」
と、言い、さっそうと帰っていった。

わたしはぼんやりと
「携帯の充電切れてたんじゃないかなー」と思ってた覚えがある。

専務がきたのとだいたい前後して
母と兄が駆けつけてくれた。
時間帯から推測するに もう終電はなかったはずだ。
兄の運転かタクシーかで必死にきてくれたようだ。

母はこの処置と検査で 異状なしの診断がでれば、
朝いちばんでわたしを連れて帰ると主張したようだが、
処置も検査もごく応急的なもので
急変することも考えられるので、ということで、
さらに詳しい検査を行うためにも
しばらく入院、ときまった。

じっさい わたしの頭には
倒れたときにどこかにおもいっきりぶつけたらしく
巨大なたんこぶができていた。
足首をねんざしており、どこでひっかけたのか手指が血だらけ、
口のなかも血だらけであった。
よほどハデに倒れ、ハデにひきつけをおこしたんだろう。

診断は
肺炎による熱性けいれん発作ということだった。

しっかりしてきた頭で 先生がたの説明を聞いているあいだ
肺炎だったんだな。
どうりでいろいろ カゼにしては 重いとおもった。
ということを考えていた。

熱は入院中も上がったり下がったりしながらだんだんと
平熱ラインにおちついていった。
退院予定日の朝に39度の熱がいきなりでたのには
わがことながら正直 引いたが
もしかして、まだ休んでいたいよと
体が必死に訴えようとしたのかもしれない。と
今は思う。

診断は肺炎とひきつけ、だった。
それだけだ。
収容された あの神経内科病棟の大部屋で
ぜったいわたしがいちばん軽症だったとおもう。
おもう・・・のだが、
しかし、
体の不調ならまだよかった、
それだけではすまされないことになってしまった
ということを
わたしは 退院後、だんだんと認識していった。










手記-其の壱(仮題)-20171127~20171129頃

2017年11月27日深夜、
職場で仕事中に昏倒。
同僚が外出先から戻ってきたところ、
意識不明の状態で倒れていた わたしを発見
ほかの仲間とともに介抱のうえ
119番通報してくれた。

若松河田の
国立国際医療研究センター病院に救急搬送。
救急病棟→神経内科病棟に
入院することとなった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

みじかい入院期間だったが、
いろいろなことを見聞きした。

なかでも、
わたしよりもずっとずっと年長の
同室の入院患者さんたちが
夜になると
まるで幼児退行をおこしたかのように「甘えた」になるところを
まのあたりにしたことには 正直ものすごく驚かされた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

入院初日は救急病棟
意識がまだはっきりしていなかったようで、
この日のことは 正直あんまり覚えてない。
ただ、救急のためか じつにさまざまな患者さんがいたようだ。

音、声は いろいろ聞こえた。
聞こえすぎだったかもしれない。
距離感がつかめず 実際にはもっとはるか遠い病室の
話し声などか 耳元で聞こえるような感覚があった気がする。

「その筋」のご職業の男性患者が 
おそらく「おくすり」関係の症状で
ちょっと説明がはばかられるような
苦しい処置をうけているようす。

これまたおそらく「おくすり」関係の症状で
廊下をところせましとかけまわる
男性患者の
「やっほー!!」という雄たけびと
それをおいかける数名の看護師さんの 足音。

「〇〇さん!あなたは重度のインフルエンザなんですよ!!」
「知ったことか!バカヤロー!」
という恐ろしいやりとり。

わけありっぽい壮年の男性患者は
「〇〇社関係の人の面会は断ってくれ・・・」と
特別対応を求めていた。

わたしのとなりのベッドのおじいさんは
腰の骨を痛めているために、横になることが難しく
当面、車イスで過ごさざるをえないようで
ご機嫌ななめにもほどがあった。
やつあたりで看護師さんにモノを投げつけるなどし、
きつくしかる男性職員の声がきこえてきたのも
一度や二度ではなかった。

・・・そんな記憶はある。
(あれ! けっこう覚えてるね(^^)!!)

わたし個人のことでいえば、
ベッドから起き上がるパワーも気力もなく。

血管がほそくなりすぎていてうまく血が採れないと
スタッフさんを何分もわずらわせ
あげく 血液がドロドロですと言われる。

身ひとつで担ぎ込まれたため、
ほんとうになにも、なにも持ってない。
お金は1円も持ってない。
メガネもない。
パソコンも携帯電話もない。
明日も見えない。
なすすべもなく 起き上がれもせず
ただひたすらに横になっていた。
しかも、眠れなかった。
自分でもおかしいんじゃないかとおもうような
全身の倦怠感におののき、
ものすごく寝たいのだが、
まったく眠くならないのだ。

もうなにがなんだか。
というか 自分がいるところがどこだかも
実をいえばあんまりよくわかってない。 
ゆうべの処置室で
何度も何度も聞かれた覚えがあるのだが。
入院した病院の 正確な名前は退院時に知った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

だが 特筆したいのは
先述したとおり、2日め以降だ。

わたし個人の状況
まず頭がけっこうしっかりしてきて
普通の声量で普通に話せるようになってきた。
インターンの先生がたの長時間の質問にも
横になったままだが 問題なく答えられた。
ただ 搬送前後のことはほとんどなにも思い出せなかった。
あと、頭が割れるように痛い。
左側頭部に薄い膜がはったような(ビニールラップを頭の
左半分に巻いているような)違和感がある。
胃が痛む。
体が相当だるい。
インターンのおふたりはクラシック音楽をたしなまれるとのことで
たしか長身の男性のほうはチェロあるいはコントラバス
小柄な女性のほうはヴァイオリンをやられると 話していた。
逆だったかな。
わたしも音楽がすきであるし
おふたりと(彼らにとっては仕事なのだが)
話せたことは
すごく気持ちに はりあいがでた部分があって
ありがたいことだったとおもう。
食事もちょっとならとれる。
一応自力で歩ける。
脳の異状の危険性から 首になにか
金具のような固定具がつけられていたようなのだが
いつのまにかはずされていた。
腕につけられた何本もの針が 痛いの痛くないのって。
血圧計がかさばってわずらわしい。
神経内科病棟にうつされた。
同室には、命に別状こそないが
不慮の事故などで重いケガを負った患者さんが
多く収容されていた。

たしか6人部屋にわたしをふくめ 
5人の患者さんがいて、
ほぼ全員 年配の女性。

彼女たちは、昼間はみんな、しっかりしていらした。
面会にみえるご家族に、
自分が不在のあいだの家のことを指図したり
保険関係の書類の保管場所を知らせたり。
しっかりとした口調であれこれと話しているのが
カーテンごしに にぎやかに聞こえてきた。

わたしは みんな ふだんはおうちの おかあさんなんだな、
暮れの忙しいときにこんなことになって
大変なんだろうなとか 思いつつ
ひとり ぐったり寝てた次第。

※というのも ほんとはわたしも 母に 
 家からiPadを持ってきてもらって そいつをかり、
 ベッド上で 仕事をしたいと考えていたんだけれど、
 母のiPadはなんと、プロバイダ契約未締結だった。
 自宅に導入してる無線LAN回線につないでのみ
 使える、つまりWi-Fi環境がない場所では 
 ほぼ、ただのつるつるの板にひとしいわけだ。
 プロバイダ契約しないで タブレットを使うなんてことが 
 可能だと わたしはこのときまで知らなかった。
 病棟にWi-Fi環境はない。
 モバイルWi-Fiお持ちですかとか
 テザリングさせてくださいとか
 同室の患者さんたちに  まさか聞ける雰囲気じゃなかったし。

「※」が長くなりすぎて 何を書こうとしてたんだか 
われながら忘れかけた。

・・・ともかく、
そのように 
昼間は気丈にしておられた奥さんがただが、
面会がおわる夕方以降、
ようすがかわってきた。

看護師さんが仕切りのカーテンをしっかり閉めないで
立ち去ろうとすると、
まるで10代の女学生のような甲高い声で
「カーテンを閉めてよ!」と いちいち叫ぶ
80代にもなろうとおもわれる奥さんがいた。

骨折したのは両足で 腕は健康なのだが
「できない。食べさせて頂戴」といって
看護師さんに「はい、あーん」を求める、
40代の奥さんも。

21時の消灯以降はさらに なんというか
状況がエスカレートしてきた。

寝付けなかったわたしは、
職場からバイク便で届けられた 自分の荷物のなかに
数日前に図書館でかりた本があるのを見つけ
ながめて ひまつぶしをしていた。
21時すぎごろ、左隣のベッドから
「ああっ!! だれか早くきて! 助けて!!」という
悲痛な叫び声。
70代後半くらいの、右足と首を痛めたおばあちゃんだ。
どうしてナースコールを押さないんだろうなとおもったが
叫び声はおさまるようすがなく くりかえされた。
容態が急変したのかと 心配になってしまい
おもいきって
「すみません、開けます」と断り
隣のカーテンを開けてみた。
おばあちゃんは、ベッドの下にナースコールを落として
しまっており、そのために叫ぶしかなかったのだった。
これかあ、とおもって ナースコールを拾い上げ、
押したうえで、両手でおばあちゃんの手をとり、
そこにしっかりとにぎらせてあげた。
おばあちゃんは、
「ありがとう。」と
笑いかけてくれた。
わたしはそのまま病室をでて ナースセンターに向かい、
こちらにやってくる看護師さんに手を振ってしらせ
「隣のおばあちゃんが 助けてほしいみたいでした」と
伝えた。
看護師さんにあせる様子がなく、ゆっくりとした
足取りで歩いてきたことに、ちょっと違和感をおぼえたのだが、
看護師さんのあとについて病室に戻ってみて、
そのわけがわかった気がした。
おばあちゃんのナースコールの要件とは、
「スタンドの明かりを消してほしい。」だった。
(スイッチは起き上がらなくても押せるよう手元に延ばされている。)

さらにその1時間くらいのち。
今度ははすむかいのベッドから
「さめざめと」という表現がぴったりの
泣き声が漏れ聞こえてきた。
よくよく聞くと
「情けない、情けない・・・」と
つぶやいている。
両腕と頭をケガした女性だった。
小用をたすことさえ看護師さんの力をかりないとできない
自分の状況が情けない ということなんだろう。

他のベッドのだれも反応しない。
いびきが聞こえる。みんな寝入ってるんだろう。
わたし、さっき隣のおばあちゃんを手伝った手前
この女性のこともなぐさめてあげたほうがいいのかなと。
さっきみたいにカーテンを開けて入っていき
彼女をなぐさめてあげればどんなにかいいだろう。
だが、
正直なところわたしは心底ふるえあがっていた。
真っ暗な病室のなかで
昼間は元気だったあの女性が
しくしく泣いてるそのかんじは
ほんとにちょっと表現がむずかしいくらいなにか異様で
わたしは本気で怖かった。
ちょっといったん 部屋の外にでてロビーで一息いれてこよう。
5分くらいして戻ってきて そのときまだ状況が変わってなければ
そのときこそはあのカーテンを開けて、
彼女の背中でもさすってあげよう。
そんなことを考えて、のそのそ起き上がり、
ロビーで 深呼吸を何回もしてみた。
数分後、意を決して病室に戻ってみると
泣き声はやんでいて、彼女のいるところから
おだやかな寝息が聞こえた。

ほっとしたわたしは、窓際の自分のベッドに戻ろうとした。
すると、さっきナースコールを落として困っていた
隣のおばあちゃんが、カーテンの隙間越しに
わたしをみとめ
「ありがとうございました。ありがとうございました。」
と声をかけてくれた。
反応することができなかった。
わたしは正直言うと
この 全体的な・・・病室の・・・
とにかく異様な状況にほとほとまいっていた。
なんなんだろう、この人たち。
みんな、昼間とは別人みたいだな。すごく元気だったのに。
赤ちゃん返りしたみたいだ。
いい大人が泣いたりして。

でも、
ベッドに戻って再び本を読み始めたとき、
思いが千々に乱れ ちっとも活字に集中できないことに気づいた。
隣のおばあちゃんは、ナースコールを拾ってあげただけなのに、
わたしににっこり笑いかけ、礼まで言ってくれた。
彼女の 無邪気な笑顔が眼前にちらつき、
なんだか・・・
「この人たちってなんなんだ。いい大人なのに・・・」とか
思ってる自分に、はたして
あの笑顔を、あの礼を享受する資格があるのか、なんて。
そんなことを思って、
いたたまれなくなった。

何とも言えない気持ちをもてあまし、
起き上がって またぞろ ふらふらとロビーに向かった。

そのころになるともう、
なんだかむしろ
堂々と 子どもっぽくわがままな患者っぷりをさらけだす
同室のおくさんがたが
うらやましい?みたいな気持ちにまでなってきていた。

わたしは 見てて正直なところ引いたんだが、
医学的?見地からいえば あるいは、
体と心が治っていく過程には
ああしていったん 子どもに還るような期間が
あって当然なのかもしれないとも。

結果を先に言うと わたしは
入院中一度たりとも ああはなれなかった。
かたくなに、「ああなること」を拒んで過ごした。
神経内科病棟の入院患者は
(脳の異状の危険性が払しょくしきれない状態のため)
たとえ小用を足すことひとつにおいても
ナースコールを押すことが必須とされていたのだが、
わたしは早々に 押すことをやめた。
手洗いには自分で行った。
点滴バッグのスタンドを引いて
自動販売機スペースや地下の売店にもこっそり行った。
自分は 同室の奥さんがたにくらべれば
身の回りのことなど自力でやるのになんら問題がなかった。
と自分では思う。
(わたしも脳の異状を確認するための検査待ちの状態だったのだが。)
だれかがナースコールを押すたびに
すぐちかくのナースセンターで「オーラリー」の通知音が
鳴り響くのに気づき
自分があの音を鳴らさせるのはイヤだなと
速い段階から思うようになっていった。
※無断で売店にまで冒険したときはさすがにめちゃくちゃ
 看護師さんに怒られた。

・・・
ロビーのイスに腰かけ 
ボーゼンと虚空を見つめるわたしに
看護師さんが 何度か声をかけてくれた。  
「いえ・・・、なんかその・・・眠れないものですから。」
と答えると
メガネをかけた小柄な看護師さんが
「まあ・・・、そうですよね(^^)」
と苦笑まじりに 共感をよせてくれた。

入院2日目はそのようなかんじ。
一睡もできなかった。
初日は眠れたのかというと・・・
まんじりともしなかったのだが。









今後どのように生きていこうか問題への暫定的な結論

今後、自分に期待をすることをいっさいやめたい。
手持ちの能力と、そのときどきの意欲の程度に応じて
ただ、やれることだけをやっていきたい。

過去のどこかの段階では、あるいはもう少し
違うことを考えてたこともあったかもしれない。
しかし、
いまの自分の状態において、
腹の底をさらってみるに、

わたしには、これといった将来への展望や
夢、希望といったものがない。
ではなんなのか。今まではなんだったのか。

記憶にある限り、わたしの行動原理の根底には常に
「怒られたくない」
「周囲の、おもに母の、意に沿わないことをして
怒鳴られたくない。がっかりした顔をされたくない」
「周囲に、おもに母に、非難されるのが怖い」
しかなかった。

自分の行動の理由を尋ねられると、だからいつも困った。
「それをやりたいのはなぜか」
「それをやって、先々どうしたいのか」なども
聞かれると困った。
その答えは基本的にはありはしなかったから。
ぜんぜんなかったとまで言うつもりはないが、
原則わたしは
「これをしたら(母は)がっかりするだろう」
「これを言ったら(母は)怒るだろう」
そうはなりたくない、それだけは回避しよう。
・・・
ただそれだけの気持ちにしたがって
自分の行動や思考に理由付けをしてきた感がある。
説明を求められたときいつもそうだったのではないか。

わたしの母は、母子家庭であることを理由に
われわれ子どもになにかをあきらめさせたくないという気持ち、
または「母子家庭だからあの家の子はどうこう」というふうに
周りに言わせたくないという気持ちが
非常に強かった・・・とおもわれるので、
※あくまでもわたしが勝手に心のなかに像をむすんできた、
母の姿にすぎない。母がじっさいにこうしたことを思っていたかは
知らない。※
わたしはわたしで、母に、
要求どおりのしっかりした子としての自分を
見せなくてはならないと 
思ってきたところがあった。
志操堅固、聡明、確固たる展望と思考のもと
きらめく瞳で夢に向かって生きる少女。
みたいなかんじかな(中身がまったくないね!)?
常に何者かでなければならない、
何者かになろうとして努力している人間でなければ
生きることをゆるされない。
そんなふうに 感じてきたのではないかな。
もっとも、母親をうらんだり だんじて してない。
なにしろ ここまでで述べたわたしの「母」像は 
100%わたしの心のなかの虚像なのであり
じっさいの母の思考の軌跡は
「わからない」が正解なのだ。

でも、すてきに前向きな輝く少女であることは
自分にとって じっさいにはほんとに難しかった。
わたしのように身体的にひ弱な子どもは
ここ、というときに
がんばりがきかなかったりもしたので・・・。
そういった意味においても。
ほとんどなにも 実現できてなかったとおもう。
ただ、
基本的には、いつもこんなようなことを
無意識に?考えて、勝手に緊張状態にありつづけ
勝手に焦燥にかられ 勝手に腐ってた、
そんな日々だった。

わたしはあまりしっかり考えてきたわけじゃなかった。
主体性があまりなかったとおもう。
全然、なにもかも、やりたくもなんとも
ないのにムリをしてやってきた・・・とか、
そこまで言うつもりはないが。
ただ、思考は もろかった。しっかりは考えてなかった。
くりかえすようだが、だからいつも
行動に対し、理由の説明を求められるとよわった。
いいかっこうをして、うそをつくことがあった。
そして、さらにまずいことに
うそでも、口にするとなんとなく
ほんとうの自分の気持ちのような気がしてきて
しまうこともあったりするものだ。
自分で自分を振り回してしまっていたのだ。
いつもほんとうに、こうしたことには困ってきた感があった。
まあ、今思えばだが。

では、今後、どうしたいか。
ひとつだけはっきり言えることがある。
わたしは二度と、同じことを繰り返したくない。
それだけはしたくない。
わかっているのは、
「何かがやりたい」じゃない。
「これだけはしたくない」だ。
一見 消極的な文言だけれど、
この意志薄弱なわたしという
人間の心のもちかたにとって、これはほとんど唯一の
頼りとなっていくとおもう。これからずっと。

ただ、そうはいってもちょっとは頑張って
考えてみる。今後どうするかについて。
いかにしてやっていくかについて。

その前に、技能、性向といったようなものに関して
自分がいまできることを ちょっと整理してみた。
どれもおもしろいように 履歴書には書けないこと
ばかりだが(^^)
結果、
・人よりいくらか速く、多く、本が読める。
・難解な内容の理論や他人の思考を
 文字情報をとおしさえすれば、かなりのところまで理解できる。
・人よりそこそこ、まあまあ、整った文章が書ける。
・他人の文章を読んで、どうすればより読みやすく
 できるか、考えることができる。
・いちから本を作る手順を知っている。
・あるものごとを、やりたいかやりたくないかが
 自力で明確に判断できる。
・あるものごとをやりたくないとき、やりたくないと
 はっきり言える。
・生命の危機に直面したとき、そこから逃げることが
 できる。
・自分よりもはるかに自分を理解してくれているとおもわれる
 友人にめぐまれている。
・自分よりもはるかに聡明な友人にめぐまれている。
・味方のふりをして自分への加害を計画するような
 人が、さいわい周囲にいない。
・人の道に大きくはずれるようなことはしないように
 教育されており、ある程度 社会的に生きられる。
・こだわりがどんなことにもまったくないとまでは
 言わないが、あっても それほど強くはない。
・求められれば、最善を尽くすことができる。

・・・この程度のものだ。
わたしとしては、とにかく
「絶対にこれをやりたい、これをやるために
自分はこの世に生まれてきた」
などと思えることがなく、
また、おそらく それは今後もないと言い切って
しまいたい。(こう述べたからといって、べつに
自分を見捨てたとかそういうつもりはない。)
なにもない自分である ということを
そのまま、受け入れてしまいたい。

しかし、だからといって絶望するつもりはない。
なにもできない自分であることを悲観して自殺するつもりはない。
普通に生きて、普通に死んでいければそれでよいという考えだ。
夢とか希望とかそういうものが ぜんぜんないけれど、
自分は自分なりにまじめに 
可能なら、すこしでも建設的におもえることを たまにはしながら
この命を燃やしつくしたい。

では 基本的にどうやっていくかだが、

周囲の、わたしが愛する友人たちや
信用できる人たちの、判断に わたしをゆだねたい。
わたしという存在の適切な使い道を考えるにあたって、
自分自身の判断よりも、
信頼できる周囲の人びとのそれを優先していきたいのだ。

極寒の雪山などに放り出されれば
まあ30分以内には死ぬたぐいの人間なのだが
きちんと安全で、学術的な・・・というか
なにかそういう それなりの場所でなら、
力を発揮する可能性が いくらかある。
それがわたしだ。
そうした環境なら、
なけなしの能力も かなりしっかりと出していけるので、
世界の役に少しは立っている・・・というのが大げさなら
たしかにこの世に生きていて 世界とかかわっているという
感覚をえることができるかもしれず、
そうしたら、わたしはもしかしたら、
生きていてよかったと たまには思えるかもしれない。

しかしながら わたしは
「自分はこれだ!」と
生きる道を自力で決めることが
どうやらうまくない。
鼻がきかないというかな。
世の中には、人生に対するセンスが鋭敏な人ってのが
いるなと、つくづく思うのだが
わたしはそれじゃない。
どうも、とらわれすぎて、うそをいいすぎて、
自分が見えなくなってしまったから、
今やもう、自分のことがわからないのかも。

世界はわたしにとって 複雑すぎる。
無数の可能性と、可能性のふりをしているものが
いたるところに あふれかえっていて 判断できない。

だが、さいわい、わたしの周囲には
才気あふれる友人、
わたしに関心をいだき、わたしを見てくれている友人が多い。
とるにたりない他人のために 自分の時間をついやして
一緒にウンウン悩んでくれる友人、
わたしがどんなであろうと見捨てないでいてくれる友人、
そんな人たちが、わたしにはどういうわけか
おおぜい与えられている。

別に自分をほうりすててしまおうとか
自分のことなんてどーでもいいとか
言いたいわけじゃない。
周囲が勧めてくれること、
やってみれば? と言ってくれること、
わたしの助力を求めてくれること、
それをこそ積極的にやっていきたいのだ。
やりたくない、
やるくらいなら死んだ方がまし、
人の道に反している、
そういうたぐいのことならば、わたしは判断できるし
断れるので、その意味では問題がない。
そもそも、わたしの周囲の人びとが
わたしにそんなことをやらせるとは思えない。

「それとこれと何の関係があるの」と
言われそうな雑多なことどもに、
いろいろ取り組むことにもなりそうだが、
わたしはそれでいいと考える。
つじつまが合わなくていい。
結果、おまえ損しているよと言われてもいい。
わたしが愛する人たちが わたしを見込んで任せて
くれたという経緯がある限り、
あるいは
わたしと一緒におもしろいことにトライしようという
気持ちで声をかけてくれたことである限り、
もしくは
「やりたくないのに嫌われたくなくて無理してやった」のでない限り、
基本的に、いっこうにかまわないというスタンスでいく。

今後、そのくらいでいいかなとおもってる。

とにかく、ほんとに、
ガッカリされたくないとかいうおびえた気持ちに
支配されるのだけはいやだ。

それこそがおおもとではないのか。
わたしの欺瞞、わたしのうそ、わたしのムリの
おおもとと言えるのではないのか。

なんてばかばかしいことだろう。
だれも、ほんとうは、わたしにこんな思いをさせる
ためにいたわけじゃなかったろうに。
あるかどうかもわからぬ「だれかの意向」を
勝手にわたしが忖度し、
勝手にわたしがわたしを縛ってきたのだ。
からしい。
それだけはもういやだ。

わたしは自分の使い道の決定をみんなにゆだねたい。
だが、
使ってもらう、活かしてもらう以上は、
役に立つべく、研鑽に努める。
このままの自分を受け入れてほしい・・・なんてのは
この場合、怠慢にあたるだろう。
自分の能力がこれ以上伸びないなどと
決めつけるつもりは毛頭ない。
関心が向くこと限定になるかもしれないが
学びをやめない。
知識を深める努力を続ける。

うまくいくかどうか、
やはり、これも自分では
よくわからないのだが、
いろいろなことにトライし、
そのときどきに心を動かし、
友だちを作っていき、
と やっていくうちに
うまくすれば、もうすこしくらいは
自分という人間の輪郭が明瞭になってくることも
あるかもしれない。
そうなったら、今よりも少しだけならば、
自分で自分の使い道を 正確に考えることが
できるかも。

まあ、しかし、期待するのはよくない。

わたしは、この程度。
この程度の人間だとはっきり言っておきたい。
これ以上でも以下でもない。
これがわたしのなかから見たわたしだ。

はっきり宣言する。
わたしは自分の判断を信用しない。
自分よりもまわりの人たちの厚意と
まわりの人たちがわたしに寄せてくれる関心を信じる。
それで自分が不利益をこうむろうとかまわない。
とうぜんのことだ。
判断は人にゆだねるけど、
取り組んだことを後悔したりはしない。
結果的になにがあっても 
選択の責任、行為の結果の責任は自分自身が負う。

もし周りの人に
わたしがもうちょっと「それっぽく」て、
もうちょっと「何かができる」
優秀な?ちゃんとした人に
見えているとすると・・・(見えているらしいのだが・・・)
そのことだけはほんとに・・・理解に苦しむ。

わたしには
意思的に努力して身に着けたことなんて
いままでひとつだってなかった気がする。
わたし、いままでなにか努力したっけな。
がっかりさせたくない、非難されたくないという
きもちの影響をうけることなく ただ自分が
努力したいからした、という努力が
かつてあったかどうか。
音楽、楽器演奏くらいかな???
たいしてないわ。
一般的な教育を受け
社会において30年あまりも もまれたならば
だれだってこのくらいのキャラクター、
これくらいの個性は持つようになるだろう。
人はみんなちがうんだから、という意味で。
わたしの場合は、
なんか、生きてたらこうなった。
というほどのことにすぎない。
それっぽい人間に見えるかどうかは知らないが、
わたしはあくまでこの程度だ。

でも、これまでとほんの少し違うことが
ひとつだけでてきたことを感じてる。
いまの自分は
自分がこの程度の人間だということに
むやみに絶望してない。
自分の存在が はずかしくない。
こんなふうにおもえたことは 
すくなくとも物心ついてからこれまでは 
一度だってなかった気がする。

願わくはこの、本心を、
わたしはいつか自分の母に話したい。

「すくなくともクスリに手を出したりはしない。
人倫にもとることもしない。
自分でかかさず納税をする。
自殺もたぶんしない。
もし、わたしがなにかの分野でひとかどの存在に
なるかもしれないと期待してくれていたのだとすれば、
言っておくけどそれは望み薄。
悪いとはおもうよ。
あたかも将来大成するかのように
わたしがあなたを だましてしまったのだろうから。
ただ、約束する。
普通に生きて、ちゃんと死ぬことを。
もうしわけないが、それでかんべんしてくれ。
それでいいよと言ってくれないか。」

そう話したい。
でも、いまや、話せるときが一生こなかったとしても、
しょうがないかなとも思うし、
それを必要以上に かなしまない。
認めてほしいけれど、
親には親のいろいろなことがあり、
別の人間であるので。
ほかならぬわたしが、
自分で自分を受け入れることができたようなのだ。
今はそれでいっか、と。

これが、
いったん なにもかもぜんぶ失ったという気持ちを
骨の髄まで味わってみて そしてそこから浮上して・・・
そのあいだずっと 悶々と考えてきたことを
文章化してみた内容だ。

わたしは、自分の考えを表現するために
もちろんできるだけ 適切とおもわれる言葉を選んで書いた。
これを読んでいる人に 自分がおもっているとおりのニュアンスで
内容が伝わればいいな と願う。
けど、おもいどおりには伝わっていなかったということが
仮にあとでわかったとしても、別にかまわない。
わたし自身はなにもかわらない。
わかってほしいと 自分がおもうようであれば、
そのつど 改めて説明を試みることは あるかもしれない。






おのれをあざけるのはさもしいことである。それは、ひしがれた自尊心から来るようだ。

自分の思考、自分の志向であるはずと信じてきたものが、
よくよく考えてみると どこかのだれかのお仕着せだったかも
しれないって おもうことがある。
嫌われたくないばっかりに 
受け入れてもらえそうな考え方を 
さも自分自身のものであるかのように語り
怒られたり非難されたくないばっかりに 
あらゆる意味での衝突を回避できそうな選択を
さも自分が心から望んだことかのように しつづけて、
そんなことばっかりやっているうちに
自分は結局なんなんだ、
自分は何を考えているんだ、
自分はどうしたいんだ、
ってのが 見えなくなってしまったんじゃないかと。
そう考えるとき 心底ぞっとする。
もし ほんとうにそうだとしたならば
いったいいつにまでさかのぼって・・・考え直せばいいんだろう、とか。

途方にくれてしまう、ほんとに。

でも、この数日、身辺にすこしだけ変化があり
きづいたんだけれど、
わたしが人を想う気持ちだけは、
絶対に お仕着せられたものではない。
だれだかわからないだれかに怒られたくないからなんて理由で
無意識に選び取った感情などではけっしてない。
そんな消極的、受動的な動機からは
わたしが人を想う気持ちはうまれない。
わたしたちのかかわりにおいてのみ生まれた
個人的な、重要な気持ちじゃないかな。

わたしは もしかしたら実際、
いつもだれかの眼を気にして恐々とし、
「非難されたくない」を人生の第一義に
押され流され 生きてきた
そんなあゆみだったのかもしれない。
まったくたいくつな 人間であるのかもしれない。
でも、いつもぜんぶがそうではないわけだ。
想う気持ちだけはまぎれもなく自分のもの。

これに気づいて かなり気がらくになった。
むりに気持ちをおさえこんだり棄てようとしたり
しなくてもいい、そのままにしておいても
べつにかまわないという 周囲の助言の意味が
自分にはよくわからなかったけど
そしていまでも たぶんわかっていないとおもうけど
でも この意味においては
たしかに棄てなくて正解だったみたいだ、
なぜなら、
この気持ちを頼りにわたしはいま
わずかにこうして 力を取り戻すことができたんだから。
こんなことが いちいちなくても
自分てなんなんだとか 思ったりせず 惑わない
すこやかな心が、うらやましい。
そういう のびやかな心を見るにつけ
なんて美しいのかと
わたしには おもえてならない。
でも自分の心はどうやらそういうのじゃない。
かなしいけど どうしようもないことだ。

これだからこそ人間関係っていうのは人が生きるうえで
だいじなものなんだろうな。
人と人との関係ほど ときとしてたよりなく、はかないものも、
ほかにないんだけど・・・。

おもえばずいぶん 後ろ向きなことを
ずっと考えてしまっていたものだ。
あまりに短期間のうちに おそらくは自尊心を 
気力・体力もろとも大幅に損なったために
なんだか ほんっとに わかんなくなってしまった、
いったい なんなんだ、自分てなんなんだ、
なにもないじゃないか、今やすべてうしなわれた、
みたいなことを。

とりかえしがつく・・・のかも しれないけれど 
おわってしまったことにかかずらうのは
あまりに時間がもったいない。
とりかえす努力をする必要はもう、ないと考えたほうがいいだろう。

すべて今から 新しく積み重ねていくことを考えるほかない。
そうした決意を
禁じる法などどこにもない
だれがなんといおうとも、 
わたしがやりたければ やっていいはずなのだ。