BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

そもさん-8-190113。

きのう 
外出したときのことだが、

一緒にいた人は 
わたしがフラッシュバックを
起こすおそれがあることを
知ってくれている人だった。

仮にフラッシュバックが起こったとき、
なにかしてほしいことはある?と聞かれた。
わたしはほとんど間をあけることなく
「わたしの状態を
動画で撮ってほしい」と。

じっさいにこう言うまで、
自分がそんなことを してほしいと
おもっていたとは知らなかった。

考えてみれば当然のことかもしれないが、
フラッシュバックの
襲撃にあっているときの
自分を 客観的に見たことがない。
どんなかんじなんだろうな、と
おもったことはあった。
震えながらしゃがみこんでいるとか
汗をだらだらかいているとか
記憶がつくりだす幻影のなかの誰かと
はなしながら
うわごとをいったり叫んだりしている、とか
倒れて数分間、ただただそのまんま、とか。

まわりからどう見えているんだろうと。
そう思っていたきもちが、たぶん 
「動画で撮ってもらえば、
どんなふうに見えているのか、
はたからみて何が起こっているのかが、
知れる」・・・という考えに 
育ってたんだろう。

そして、その動画を自分の目で見て
(なにを、かはわからないが)
客体化することが
フラッシュバックの解消への
糸口になる、と
ぼんやりと信じているのかも。

動画を撮ってほしいと。
そう言った。
ぽろっと口をついて出た。
たのみごとというか
ただ、そう言ったというかんじだった。
もし手助けが必要だな~と
わたしが危惧していたとしたら
あらかじめ自分からお願いしたとおもう。
「倒れたら びっくりするだろうけど
死なないから そのまま見守ってほしい」
とか
「怖がっているようなそぶりだったら
聞こえてなくても 大丈夫 大丈夫と
背中をさすってくれないか」
とか なにか頼んだろう。
たとえば目の不自由な人が 
道案内をたのむとき 相手に
肩をかしてくれ、と頼むであろうように。
わたしの言いかたは
たのみごとってかんじの
テンションじゃなかった。
「自分の状態を確認できたらいいかも」
という おもいつき、だった。
動画を撮ってほしい。
一緒にいた人は、そうする、と
うけあってくれた。

さいわい けっきょく
フラッシュバックに
見舞われなかった。
一日 元気にすごせた。

・・・

フラッシュバックの周辺のことを
話したり書いたりすることは できる。
周辺とは 
フラッシュバックがつらい
フラッシュバックがおさまったとき
自分はこんな状態である、
フラッシュバックによって
生活にこんな影響がでている、
といったたぐいのことだ。

でも中心、核心については
話すことも書くこともむずかしい。
中心、核心とは、わたしが思うに
それを体験しているときに
なにが見えているか、
どう感じているか、
なぜ苦しいのか、
なにを自分は望むのか、
・・・
のようにも思われるし、
でも、そうではないような気もする。
また、それだけではないようでもある。
いちおう書いてみたが、ほんとに
なにか、違う、というかんじがする。
というか・・・
ぜんぜん、こんなことじゃない。
わからない。
言葉が消えてしまう。
いつも、何か 言いたいことが
あるような気がするし
もうすこしで わかりそうだと
いうかんじがすることも、あるが
なんともいえない。
言葉が消える。
というのは
ほんとにそのまま、言葉が消える。
言い表す言葉がない、
絶対に届かない、
そんな実感があるのだ。

フラッシュバックについてのことで
わたしが自分で説明できるのは 
あくまでも その周辺のことだけだと、
こうして文章化できるように
なるまでにも 
おもえば時間がかかった。

核心に なにかを感じている。
それを言葉で表現するのが
とても大事だという、気がする。
なのに
核心の内容が よくわからない。
あっても言葉にできそうにない。
もどかしく、
途方もないかんじがし、
とてもつらい 
そんなことが、さしあたって、
言いたいことだとおもう。
それを
「本心が言えない」
「かんじんなことが伝えられない」
「なにをいってもわかってもらえない」
「発した言葉が指のあいだを
砂みたいにすべりおちる」
といったふうに表現している。

フラッシュバックのなかに
「衝撃の新事実」とか
「封印された忌まわしい記憶」
なんて
映画や小説みたいな 
具体的ななにかがあるわけじゃない
また、それが 
精神の崩壊があやぶまれる
レベルのことゆえに 
自分で取り出して
くることができない・・・
なんてこともない。
そういうのじゃない。
ただ 感じていることを
言葉にできないのだ。

でも、考えてみよう。
もう一回。
あきらめちゃいけない。

言葉にできない、
それはひょっとしたら
わたしの頭が
言葉でないたぐいのものを
「言葉で表現と認識が可能な、
もっとも近いもの」に
妥協して変換し
わたしに見せているから
なのかもしれないな。

言語化できそうに
見せかけてくるのに
ちっともできないというか、
たとえ言語化しても
「それじゃない」ってことを
心の奥底では知っているから、
それで苦しいのかも。

フラッシュバックが
発生しているさなか
わたしが見て、聞いていることは、
じっさいには 
見たり聞いたりするような
ものではなく、
概念、
心に受けた衝撃、
そういう
形のないものなのかもしれない。
頭のシステムはよくわからないが
本来 形のないものを
五感で認識可能なものに変換して
伝えてきている・・・ 
そういうことだろうか。
つまり
・・・これもかならずしも
的確ではないだろうが・・・、
わたしがほんとうに言いたいことは
しいていうなら たとえば
「怖かった」
「屈辱的だった」
「イヤだった」という
「きもち」なのに
それをわたしは
フラッシュバックのなかで
「なにかの音がどんどん大きくなる」
「部屋の壁や床が
視界のはじのほうから
カビがひろがるようにじわじわ
真っ黒に染まっていく」
といったような
「できごと」「もの」に変換して
見ている、のかもしれない。

音が大きくなる 
部屋の色が黒くなる
なんてことが
怖い、屈辱といったきもちの表現として
「いちばん的確」かどうかは疑問だ
でも ともかくわたしの頭は
わたしのきもち
そういったものに
コンバート・アウトプットしてくる。
的確じゃないことは 頭のほうでも
百も承知なのだろうが
一種の妥結点として
さしあたってこんなかんじ、
と 見せてきている。
・・・のだとしたら、
あんまり 正直
納得はいかないが まあ 
そうなんだからしょうがない
としか 言いようがない。

心のことも体のことも
わたしは自分のことなのに
まったくなんにもわかっちゃいないと
この1年 イヤってほど
思い知ってきたじゃないか。

わたしが言いたいのは 
だとすれば
やはり
「フラッシュバックでは
こんなものを
見るんです、聞くんです」
ではない。
それを表現するうまい言葉なんて
探しても おそらく 
しかたがない。
言いたいのは
怖かった、屈辱的だった。
とても助けてほしい。
そっちなのだ。
そう 今はおもわれる。

完璧とも巧みともいえない手法を
もちいてでも、
心は 頭の機能を利用して
わたしに訴えてきている。
そう考えるべきだろう。
ほんとうに重大なことだから。
なんとしても伝えようと
してきている。
たぶん 
怖かったのだ、
屈辱的だったのだ、
はずかしかったのだ、
傷ついたのだ、
絶望感を味わったのだ、
裏切られたと感じたのだ、
とてつもなく疲れたのだ、
それを 等身大でもっと
キャッチしてくれないと困る、
もっとちゃんと理解してくれ
まだ足りない、もっとちゃんと、と
言ってきている。

でも、
どうして?
どうしてそんなにも
あのときのことが
わたしを苦しめるんだろう。

事実の重さの感じかた
そこにおく価値の認識が
わたし自身の考えと
わたしの心身におこっていることとで
あまりにもちがうのはなぜなのか。

わたしは、
そこまで傷ついたつもりがない。
一方的に会社が悪かったとも
じつはおもっていない。
わたしが戦力外の状態であったのが
わるかった。
わたし以外のみんなも疲れていた。
みんないらいらしていた。
最悪の状況だった。
だからこそ
できないわたしが 槍玉にあげられたと
そんな側面もあったと理解している。

でも 心はそうじゃない。

いまでもやはり
受け入れられていない、
ってことなんだろう。

倒れるまでのたった1ヶ月やそこら
上司に怒鳴られたり物を投げられたり
つるしあげられたりした程度
たいしたことではなかった。
みんなは社会で
もっと理不尽なことにも耐え
何年もひとつの場所でふんばって
認められようとして
がんばっているではないか。
なのに ちょっとつらいことが
あったくらいで
こんなに引きずって・・・
みんなできることが
わたしだけできない
わたしが半端者なのだ。
と この期に及んで 
考えていたい。

なぜか。
そう考えることが
正しいと 教えられてきたからで
それを 
わたしが受け入れているからだ。
おそらくは。

たいしたことではなかったと
わたしの心は ほんとうは
とらえていない。
たいしたことだったのだ。
心が泣いてる、
たいしたことだったと
認めてくれと。
でなかったら こんなに
心がいつまでも
騒がしいわけはない。

わたしは でも
受け入れるのが・・・
ほんとうに怖いなあ。
ここまで 口ではいろいろ 
理解しているようなことを
言ってきたけれど
それでも、まだまだ、まだまだ
ということならば
わたしは なにかもっと
あけたくないフタを
あけないといけないんだろうな。
自分ひとりでそれを
やれるとはとてもおもえない・・・
怖い。だが・・・。

ぷ、プロに相談・・・かな汗


「社会ではみんなはもっと
つらいことがあっても
がんばって耐えている」うんぬん
というのは ・・・
つまり いわば「社会規範」だが
それは 
「誰か」が 言い出したことで
わたし自身が一生懸命考えて
だした結論ではない。

「世の中そういうもの」っていう 
誰が言い出したのかわからない
「答え」を いつのまにか
本心であるかのように
自分のなかにとりこみ、
行動していくうえでの
一種の・・・ 
心の柱にしている。
としたら・・・

その「社会規範」が
正しいものなのかどうかは
わからない。
わたしはそれが
自分の心のなかだけでなく
わたしのまわりに あることを 
やっぱり確実に感じる。
あるからには 
そこにはやっぱり
何か意味があるだろう。
そう考えるのがよい、という
なにか、その理由が。

ただ、 
わたしがわたし自身を
これからも生かしていくことを
考える場合にかぎって言えば、
何度 死にたくなっても
何度でも 最終的には
「生きる」のほうを
選びつづけること、
を 最優先に考える場合には、
・・・
わたしの心のなかの
その柱を廃棄しないことは、
相当な問題のようにおもう。
くさりはじめている。
わたしがもうその柱の安全性を
信じなくなってきている。
今やわたしには合わない。
ほかの柱に取り替えなくてはいけない。
できれば
誰だかわかんない人が作ったものが
いつの間にやら はめ込まれてた
っていうのではなく
自分で考えて削り出したものか、
自分でこれだと信じたものを
自分で決めた そのときに 
はめ込む、
というかたちで。

まさに いま
大道具作家のMくんに
自分のお金と
自分のオーダーによって
自分の部屋のためだけの 
自分のための はめ込み型書棚を
作ってもらっているように、だ。

そうか、
書棚が 
部屋に作られることが
こんなにもだいじなことに
おもえてならないのは
だからなのかもしれない。

自分で生きていくための
自分でちゃんと作った、選んだと
おもえるような 柱がほしい
という きもちを
わたしは書棚に託しているのだ。