BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

萩尾望都「ポーの一族 春の夢」(小学館)を読んだ-180831。

萩尾望都
ポーの一族 春の夢」
(小学館フラワーコミックススペシャル)

f:id:york8188:20180831225750j:plain

https://www.shogakukan.co.jp/books/09139560#header

ずいぶんまえに
発売されたとき購入したきり
ちゃんと読んでなかった。
読んだ。

ブランカが思い出の歌を
歌うところと、
彼女がとおまきに、かつて憩った
家のようすをみつめるラストシーンが
ぞっとしたくらいよかった。

よくあのような表情が描けるものだ。
よっぽどの自信か、
ぜったいこうしたいのだ、
というきもちがなければ
とても描けないだろう。


ブランカ、は たぶん「白」の意味だろうから
彼女がああなることの暗示であったのかなあとおもった。


彼女のような思いをする必要も、あれほどつらいがまんをする必要も、子どもにはないのに、
背負わされてしまったことがほんとうにあわれだ。かわいそうなことをした。
あんな目にあった子どもひとりひとりのところにその場そのときにかけつけて
ぜんぶなかったことにして、最初にもどしてあげて、
頭をなでてやり、ごはんを食べさせて、お風呂にはいらせてあげて、ふとんで寝させて、手を繋いで、おうちの人が待っている彼らの故郷にひとりひとり送ってあげる力が
自分にあればよかったとおもう


ブランカの花のときはとてもみじかいが変化と起伏と色彩に富み、
つらくて、痛くて、切ないが、
まぶしいようにきらきらしている。


エドガーたちの時間は
美しいかもしれないが
凍りついていて、
なにも変わらない。
彼らはなんのために
生まれてきたのかと。
それがもんだいだ。
彼らはなんのために生まれてきたんだろうな。

「友だちでいたい、だから聞かないで」
手慣れた言い種が胸にせまる。


それにしてもわたしはアランがすきじゃないよ、ずっとまえから笑。
すきじゃないっていうか
だいっきらいだな笑


・・・



苦しいのもあるていど度をこすと、
もう本心なんて
人には話せなくなるもんなんだなと
このところ頻繁に実感する。
気を許して、受け入れてもらえなかったとすこしでも感じたときの自分の傷つきようを想像すると
それだけでとってもじゃないが耐えられないきもちになり、
ますます心を広げることができなくなっていくものだ。
相手にも相手のつごうとかがあり
そういちいちちょっとしたことで
傷つかれてもめんどくさいだろう
わたしもそれはほんとうによく
立場として理解できるとおもうのだが
いまはそういう
おたがいさまとか
どうせ他人どうしだからわからないどうしで当たり前とか
それがもう、そのおりこみずみの摩擦さえがまんすることができそうにない。


でもそれでも毎日の
生活を回していけないわけでは
けっしてない。
かんけいのないところであれば
いくらでも他人にやさしくできる。
なにを言われても大丈夫だ。
頭も手も調子よくうごく。
「めんどうなことを頼んでしまってごめんね」なんて
めんどうでもなんでもない。
こっちとしては造作もない。
むしろやらせてくれてありがとうといいたいし、まだまだいくらでもやれる。


まいにち、楽に死ぬ方法がないかなとかいっしょうけんめい考えているが
いっぽうで「来週は」とか先の話をしてる自分にそのときはぜんぜん疑問をかんじない。


なんだこれは、馬鹿じゃねえのかって
あとですごくおもって
しんそこ気持ち悪くなったり、
どうしようもなく
いらいらしたりする。


わたしも自分でも自分が
なんなのかまるでわからない。
子どもじみた欲求だが
言うことがゆるされるなら
おもうのは、
らくになりたい。
ということだ。

別冊カドカワの欅坂46本-180830。

書店で「別冊カドカワ」の「欅坂46総力特集」を買った。

f:id:york8188:20180831220159j:plain

https://www.kadokawa.co.jp/product/321803001674/

読んでみてつくづく思った

いったいなにが得たくて、
どんな気持ちになりたくて、
この本をわたしは読んだんだろうか笑

読むまえからわかりきってはいた。
「彼女たちはまだお若く、というかほとんど『子ども』に近い」
だから、
「ロングインタビューなんか読んでも、たいしたことなんて言ってるわけがない。『おっ』と思うような発言なんか出てくるわけがない」
ということを。
冠番組観てるのも
彼女たちにそういう
「手応え」みたいなものを期待してのことではないし
ただなんとなく
かわいらしいなあ、いい子だなあ、とか強いていえばそんなことをおもうだけだ

彼女たちはただのふつうのあの年齢の女の子なのだ。
おもしろいこというねこの子、とか
たまにおもう場合もあるが
それは欅坂じゃなくても
だれにでもそうおもう。

飛び抜けたなにかであるとはべつにおもってない。
そうなってほしいとねがってるわけでもない。

わかっていたし、
読んでもやっぱり
「思った通り」だった。

かといって
けっして、
彼女たちはかわいらしくて
きれいなだけの、
おつむのよわいアイドルだ、
と思ってるわけじゃない。
そうであってほしいとも
考えたことはない。


読んでもがっかりはしなかった。
「期待どおり、
やっぱり彼女たちは
な~んにも考えてなかった。」
などとも、おもわなかった。


読んでみて、いま、自分のきもちを言葉にしたときいちばんちかいのは

とくになにも感じない、だ笑

でもこの本がダメだともおもわない
なんで読んだのか、とすごくおもう笑

ただなんとなくの好意ではあるんだろうな
理由のない嫌悪ではない。


べつにグラビアが観たいわけでもないしなあ。


わからない。なんとなく
あ、欅坂だ、と。
まるまる一冊、欅坂だー、と。
それでなんとなく買っちゃった笑


自分にとっての欅坂46とは
なんなのかとおもうね


わたしの欅坂46のたのしみかたは
もしかして、かなり、なにかを
絶望的に
まちがっているんだろうか笑


わたしは自分は
欅坂46好きだとおもうけど笑
ほんとはべつに好きじゃないんだろうか、こんなになにも感じないなんて笑


けどまあ
菅井友香ちゃんが
「曲の世界観を大事にして、自分を追い込んで死ぬ気で表現するということを、今まで平手ちゃんが先頭に立って教えてきてくれたこと、大事にしてきたことなんだから・・・」
と語ってたのは、
多少、ぐっときたようなかんじはした。

これがもし
「(平手ちゃんが)大事にしてきたことなんだと思うから」
だったら、
平手ちゃんの姿をみて
菅井ちゃんが勝手にそう解釈した
という意味合いになるが

「大事にしてきたことなんだから」
だから、
菅井ちゃんが、なにかのおりに
平手ちゃんから
「そういうきもちでわたしはパフォーマンスをしている」
と、直接聞いたことになる。


平手ちゃん本人が
ほんとにそうおもってるか
わからないのに
「大事にしてきたことなんだから」
などと
断定的ないいかたにはならないだろう


だから
「あ、平手ちゃんてやっぱりそういうかんじのところにいる子なんだなあ」
とおもった。


グループのなかでも
いちばん年少ときいてるけど
とても早熟だなあといつもおもう。


最初は、プロデュースする側が
「あ、この子はなんか影があるから、それっぽい雰囲気をだせる」
と踏んだために、
そう仕立てあげられたときが
あったかもしれないが
本人にその資質と、多少なりと
「やってやる!」がなければ
ここまでだって続かなかったろう。


やらされてるじゃなくて
本人がわかったうえで
自分でやっている、
やろうとしている部分があると思う。

「そういう子に見えるように撮影とか工夫してそう見せている」
んじゃない。
平手ちゃんて、もう、やっぱり。


殻をやぶるスピードが
ふつうよりあきらかに早いし、
でもやっぱり17歳の
ふつうの女の子だしで、


だからあんなにいつも
見てて痛そうだし苦しそうだし
わたしも痛いし苦しいんだなあ。


それにしてもやはり
菅井ちゃんと平手ちゃんは
そのような話題で
語り合ったことがあるわけだ。
パフォーマンスとは、表現とは、
センターをやるとはどういうことか、
とかについて。

平手ちゃんがそれで
上記のような返答をしたならば
聞いた相手が相手なら
どん引きしてもおかしくないだろうな、
鼻白む人もいるかもしれない。


みんなのなかでひとりだけはやめに
ちがうところにきてしまったところを
大人に見つけられてしまった子は
それはそれで大変なものだ。


ほめられてうれしいけど
次またおなじことをやって
「できませんでした」
とはもう言いにくいし
やらないわけにいかないし
でも
やりたくないのにやってるわけではなく
内心ではやっぱりなにか
熱いものが駆り立てられたりも
確実にしてて
そうして
いったいなんのためなのか
誰のためなのかわからないが
走りつづけることになり、
そうしたらべつに心から
そうなりたいと望んだつもりもないのに
ほんとうになにかが目覚めてきて
いつのまにか自分なりの
「こういう気でやっていくんだ」という
意思のかけらみたいなものまで
うまれていくのだろうと。

読書感想-松田美智子「新潟少女監禁事件 密室の3364日」-180828。

きょう読んでみた。

松田美智子著
「新潟少女監禁事件 密室の3364日」
(朝日文庫)

f:id:york8188:20180829020026j:plain

https://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=10126


事件や公判については
Wikiなどでだいたい知ることができる。

ur0.link


わたしがこの事件について
よくおぼえているのは
被害者の女性
(監禁時9歳、救出時19歳)が
両親などに語ったというコメントが
いずれも とても表現ゆたかで
詩的ですらあったことだ。

たとえば、救出されたのち、
見舞いの家族や友人と会うと、
そのときはたのしいが、
あとでどっと疲れてしまうという。
そのきもちについて
「九年間、私がいない間に
流れている川があったとして、
私が戻ってきて、
またその川に入りたいんだけど、
私が入ったがために
水の流れが止まったり、澱んだり、
ゴミがつまったら嫌だから、
私はこっそり見ているだけで、
入れない」。

・・・

ずっととじこめられて
ひどいめにあわされ
心が壊れても おかしくなかったのに
彼女のこの表現力、言葉の力が
残っててくれてよかったなあ
とおもったのを覚えている。

・・・


さて、本書は
わたしには
あんまりおもしろくなかったし
とくに目をひく
「新事実」とかもなかった。
ほぼ傍聴記録とその感想文、
というかんじであり、
いたってまじめな内容ではあるが、
つっこんだ独自取材とかはされてない。
でも
加害者の生い立ちについての情報や
加害者のお母さんの肉声が
かなり多めに盛り込まれていた
その点はよかったとおもう。
この事件についての本は
まとまったものはそんなになく
新聞や年鑑みたいなののほかは
毎日新聞の新潟支局編集の単行本や
宝島社新書かなにかのだけしか
読んでないのだが
それらのなかでも
本書ほど ちゃんとは
加害者側の情状について
ふれてなかったとおもう。

ところで
被告人に本格的な精神鑑定を
おこなうかどうかが
公判の序盤で検討されたと記憶してる。

専門家は
精神分裂病(統合失調症)じゃないよ」
「被告人にはたしかに
強迫性障害とか人格障害
あるみたいなんだけど、
それが犯行に影響したわけじゃないよ」
という意味の所見を
簡易鑑定で提出している。
つまりちゃんとした精神鑑定を
するまでもなく、責任能力はあったよ。
というかんじだ。
だからあきらかに
「じゃあ精神鑑定はしないっぽいな。
精神鑑定をするとなると、
時間がすごくかかるけど、
しないなら比較的早く裁判がおわるな」
というムードだった。

ところが専門家の所見をきいた裁判長は
「では精神鑑定をします」
と結論付けた。

これは当時
報道をかなりチェックしてた
わたしもびっくりした
あきらかに
「やらなくていいよね」
ってニュアンスだったのに?!と。
メディアもにたようなことを
感じたらしく
閉廷後の弁護人会見で
裁判長の判断について
どうおもうかと聞いた人がいた。
たしか弁護士さんは
「よくわかんないけど、
念には念てことじゃないかな」
的な回答。

あのときの驚きはよくおぼえてる。
だから本書を読めば
あの裁判長の判断の背景が
なにかわかるかなとおもった。

だがやっぱり
よくわかんなかった。

べつに
精神鑑定なんか
しなくてよかったのに
とか おもっているわけじゃない。
ただどうしてだったのかなと
きになったのだ。


あの被害者女性は
いまはどうしているのかな。


加害者はもう出所してるはずだ。
加害者のお母さんは80代あたりで、
本書によればその後
認知症を発症し
介護施設ですごしているという。
加害者は入所中に
母が施設にはいったときいて
「母にはそのほうが幸せかもしれない」
「出所したら以前行きたいと
いっていたところに
車で連れていってあげたい」
などと話したそうだ。


自分自身と、
母とのあいだのことについては
このように
あたたかいものを感じさせる
言葉をつかい
「思いやり」みたいな、
他人のわたしが聞いても
ふつうに理解できる
人間の「きもち」をみせている。


でも被害者女性と
その両親 とのあいだにも
かけがえのない関係があったのに
それは加害者は考えなかった。
ふつうならあったはずの
よそのお宅の
平凡でも大切な「日常」を
自分がぜんぶ奪った
ということについては
実感をもって考えられてない。


それが加害者Sの決定的な
問題だったようにおもう。

胸の痛み。-180828。

胸の痛みを言葉にすることを
こころみるとき
いちばん 先におもいうかぶのは

「『こいつはこういうふうに扱ってもいいやつだ』と思われた・・・」
だ。

「なのに当時は自分がそれをされてくやしいって気持ちを自覚してなかった」
「なのに怖くて抵抗できなかった」
「なのに自分を守ることができなかった」
その後悔で、
今ややりばとてない怒りで、
激しい屈辱感で、
体のなかが焼けそうだ。

どうしても
おさえこむことができない。
1回ならまだなんとかなったのかともおもう
でも考えてみれば
いつもつまずいたとき
ふりかえるとあれもそうだった、
と思い返すことがいくつもある。

すごくイライラしてしまうか、
とにかく消えたいという気持ちになる。

自分が
なにかシナシナとしょぼくれて情けない、なんかの糸屑みたいなやつだ、という気がする。

読書感想-山田ルイ53世『ヒキコモリ漂流記(完全版)』-180827。

映画は、おもしろいものをぜひとも観たいと、
また強くおもうようになってきた。
5年ぶりに「時間がたっぷりある」
というのを体験することとなり、
なにをすればいいかわからないし・・・
まあ映画でも観に行ってみるか、と
やっていたら、
映画がすきなきもちがもどってきた。

本は、とにかく数が読めない。
つかれてしまう。
書かれてあることの意味を
理解しようというきもちが
長持ちしない。
ようするに、こういういいかたもあれだが
「高度な内容」の本がぜんぜん読めない。
なにか、筋力みたいなものが衰えたかんじだ。
「本がだいすきである」という習性までは
さすがにうしなってないと 信じているが。


大森望さん責任編集の
SF小説の短編アンソロジーを読んでて
ずっとかなりおもしろいと
おもっていたんだけど
円城塔さんが頭がよすぎて
さっぱりついていけず
円城塔ストップ。
あと100ページくらいで読了なのに。
とばして読むのも 負けた気がする笑
図書館の貸し出し期間を
1週間延長申請した。
1週間だけがんばって
それでもだめならあきらめる。

だがさっそく別の本に浮気した。
これは2時間で読破。
1ヵ月くらいまえに
プロ棋士先崎学さんの著書を読み、
先週は江戸川乱歩の「怪人二十面相」を
がんばって3日かけてぜんぶ読んだ
まともに最後まで読みきったのは
それ以来だ。
よくやったと
自分をほめてやってもいいだろう。
いや、えらいのは自分じゃなく
本だけど。
高度とか高度じゃないとかは知らないが
おもしろかったのだ、とにかく。


山田ルイ53世(山田順三)
『ヒキコモリ漂流記』
角川文庫

f:id:york8188:20180901024729j:plain

https://www.kadokawa.co.jp/product/321707000553/

「ルネッサ~ンス!」の
バロン閣下の手記だ。


成績優秀、スポーツ万能
将来を嘱望された「神童時代」から
とある小さな事件をきっかけに
6年あまりのひきこもり生活に突入、
私立中学中退、高校には進まず
大検合格も、なんとか入った大学を除籍、
失踪同然の単身上京、
家賃8000円3畳のアパートで赤貧の日々、
やがて閣下となり、そしていま、・・・と
自身の半生を
すてきにきらめく文才でつづる。


手記、自伝のたぐいを読むとき
いつも不満におもうポイントがある
なかなかうまくいかない事情も
すごくよくわかるんだが。
最たるものは
「それをいったいどうやってやったのか、が書かれてない」
「いつからやってたのか、が書かれてない」。
そのことだ。

貧しくて苦労した
裸一貫から成功した
みたいな自伝で、
「こまかいこと」が
はっきり書かれてないのがあまりにも多い。

たとえばこんなことだ
天涯孤独で、体も弱く、
生きるためのバイトで
高校時代から必死だったのに
「大学に進学した」って、
そのお金はどこから?勉強は?
が、書かれてない。
昼の私立の大学とかに進んで
ちゃんと卒業してる。

「このころのわたしは
○○県のだれそれと結婚して
娘が生まれていました」
って、
あなた両親から心理的虐待をうけていて
成人にもかかわらず給料ぜんぶ親にとられ小遣い制、
家をでるなんてぜったいむりな雰囲気だったのに
いったいどうやったの?
が、書かれてない。
いきなり結婚して子どもがいる。

はたまた
「家の一部を改築してアトリエにしました。
戦後まもないあのころ、女でこんなことをした人は
あまりいなかったでしょう」
いやいや、そのプロセス求む!!!!

みたいなことだ。

詳細を知って
自分もまねしたい、というわけではない。
ただ
なにかするときは
手続き、手順、段取りというものがあるだろう。
必要なら相手と話して
許諾をえなくちゃならないはずだし
引っ越し、進学、留学、起業、結婚、育児
家を建てる、親を介護する・・・
なんでもさきだつものがあるのではないか。

みんな悩んだりするはずのところだ。

なのに
多くの手記でよりにもよって
その部分の描写がぬけおちて
いつのまにか次のステージにすすんでる。
三國志水滸伝
「そして幾星霜」で
平気で50年とか経ってしまう
あのかんじみたいで
いかにもひどいなとわたしはおもってる。


その問題が閣下の場合
たいへんすくなくおさえられてた。
わたしにはとてもうれしいことだった。
おかげでストレスなく 最後まで読めた。
そしてやはり なにか書くにあたって
いつから、どうやって、
だれといっしょに、お金はいくら、
つまりディテールに、または背景に
ちゃんとふれることは
大事なんだと実感した。
どんなジャンルのものにも必須、とはいわないが。

閣下の場合はこういうことだ。
不潔恐怖と日常生活とのバランスは
どうやってとっていたか。
ひきこもり状態におちいっていたあいだ
気まずい家族関係をどうしていたか。
親の反応はどうだったか。
きょうだいとの関係は。
クラスメートや教師は。
ずっと家にいて体調はどうだった?
太ったりしなかった?
6年のあいだ 実家にずっといたわけではなく
いくつかの場所を転々としつつの
ひきこもりだったらしい。では
どこにどれほどの期間いたか。
引っ越しはどうやって?
暮らしはどうやって?
それはだれの援助によっていた?
何歳のとき?
お金はどうしていた?
大検にうかって 大学にはいったのに、
漫才のオーディションやコンテストにでるために
全国を車で走ったりした時期があったというのは
どういうことか。
運転免許は いつとった?
ないならだれが運転を?
知り合いとていない東京にやってきてから
アパートに入居可能になるまでのあいだ、
どこでどうして雨露しのいだか。
入居数ヶ月でアパートに泥棒がはいり
わずかな所持金を全額ぬすまれたあと
どうしていたか。
服とか靴とか交通費とか家賃とか食事の問題。
多重債務とそれをつかいまわす自転車創業ライフの詳細。

そういうこと。
気になるのはまさにそういうこと。
ほんのちょっとの気遣いでもいい。
気遣いがなされていると感じられるだけでもいい。
ちゃんと書いておいてくれると
安心できる。

それに、
ひきこもっていたころ、
人生に絶望していたころの
閣下の心のうごきは
それじたいを抽象的な言葉で
何ページにもわたって
かきつらねるよりも
生活の実態の描写から
生ゴミのすえたにおいのように
たちのぼってきた。


閣下、おじょうずです。


芸人一本で食べられるようになるまでの
8年、おつきあいした彼女と、おわかれしたあと
現在のおくさまと出会うまで
などについては
まあまあまあまあそこは、と
スルッと流されてたが
わたしもぜんぜんそれでかまわない。


「なんにも取りえがない人間が、
ただ生きていても、
責められへん社会、が正常です。」
なんにもとりえがなくていい、
ただ生きてていい、
やりたいこととかあるフリをしなくていい。
彼は生まれてきた娘にもそう言ってやりたい、という。
「こういう人間になってほしい」
とかいう親の勝手な期待を
将来、娘に、重荷に感じさせたくない。
だから名前も、へんに意味を盛りすぎた
キラキラネームとかにはしなかった。 ・・・

「あの6年は、(自分に限って言えば)完全に無駄でした」。

「『ナンバーワンでなくても良い。オンリーワンであれ!』
素晴らしい。
しかし反面、
『オンリーワン・・・・・・
結局、何かしら特別でないと駄目なのか』
と恐ろしくもなる。
殆どの人間は、
ナンバーワンでも、オンリーワンでもない。
本当は、何も取柄が無い人間だっている。
無駄や失敗に塗れた日々を
過ごす人間も少なくない。」


自分がいっぱしのなにがしかであること、
またはその可能性を、証明しつづけなければ
居場所が確保できない
そんなふうにおもってしまう環境に
閣下はずっとおかれてきた。
はじめのうちは、
「自分がなにがしかであることを証明する」バトルに
彼自身が意欲的だったから、まだよかった。
野心があり、体力もあり、
頭がよく、要領もよく、
そして、おさなかった。
ゲーム感覚で 人生のバトルを
楽しんでいたふしもある。
傷つきすり減っていく
自分の心に気づかないでいることができた。
だが、気づいてしまった。
そこからはじまった、
命がけの抵抗運動だったのだと
わたしは理解する、閣下の6年を。

さくらももこさんの旅立ちによせて。-180827。

漫画家の さくらももこさんが
お空に旅立った。

「ちびまるこちゃん」の
単行本なら
自宅にもずらりと ならべられている。

だがわたしは
さくらももこさんの作品は
エッセイこそ 圧倒的にすきだ。

とくに
もものかんづめ
さるのこしかけ
たいのおかしら
の三部作は
あきれるほどよく読んだ。

ハードカバーは表紙が白色だから
冗談抜きで 指紋と手あかまみれだ。

わたしになにかあったら自宅から
もものかんづめ」を回収して
指紋を採取したらいいとおもう。
兄や弟のも 付着しているだろうが
わたしの指紋がぜったいに一番多い。
しっかり比較検討すれば
良質のサンプルがとれるにちがいない。
いみわからんが。

専攻だった「源氏物語」だって
ああまで読みつぶしはしなかった。

おじいさんのお葬式、
親戚から贈られたシャープペンとボールペンのセット、
お父さんやお姉さんのこと、
多感な時期に「水虫」になったこと、
会社か漫画かどっちかにしろと、
勤務先の上司に決断をせまられたほど、
職場で居眠り常習犯であったこと、
こつこつためた100万円を握りしめて単身上京したこと、
引っ越しがだいすき、
ネコのミーコ、
ビートルズの大ファンであった当時の夫が
ポール・マッカートニーのライブに行った話、
インド旅行
・・・
などなど、
第1作の「もものかんづめ」を中心に、
読んだエピソードの数々を、
いまでもよくおぼえている。

何年も経ってふと読み返しても
はじめて読んだかのように
ゲラゲラ笑うことができたので
父に
「おまえはほんとに安上がりだ」
といわれたこともあった笑

ちなみにわたしは
「練馬」を「ねりま」と読むことも
たしか
さくらさんのエッセイで学んだ。
漢字の学習までしてたわけだ。

どのエッセイか失念したが
さくらさんの友人が
さくらさんにあるものを渡すか、
見せるかするために、
来なくていいと止めたのに、
真夜中に練馬から自転車で
何キロも飛ばして家までやってきた、
というエピソードがあった。
さくらさんの当時のおすまいは
都内と書かれていたと記憶してる。
都内のどこであるかは、
いま思い出すことができないが
東京といってもとても広い。
常識ではかんがえにくい距離だ、
というかんじのニュアンスを
書きぶりから 感じた。
当時のわたしは、まだ辞書がひけなかったし、
東京都練馬区を、実感として よくしらなかった。
「練馬」が読めない。
どこにあるかもよく知らない。
馬のつく地名というと
群馬県くらいしか、イメージできない。
群馬は「ぐんま」であるから
「練馬」が地名ならば
「れんま」かな、と当時のわたしはおもった。
このへんからもう
「れんま」を群馬とかさねて、
というかほぼ イコール群馬として
考えてしまっている。

まるちゃんのお友だちは
「れんま/群馬」から東京に
自転車できたんだ!すごい!
という驚きに わたしは興奮した。
さめやらず
仕事から帰ってきた父に
本を読んで聞かせた。
れんまからおうちまで
自転車でくるなんてすごいよね!
父はウンウンと聞きながら
なにもかも理解したみたいだった。
「『ねりま』は東京で、群馬じゃないけど・・
でも まるちゃんのおうちまで
自転車でくるなんて たしかにすごいな。」
「練馬」のただしい読みを知らされたうえに、
「群馬から東京にきた、と 
いつのまにかまちがったイメージを
ふくらませてしまっているかわいそうな子」
へのフォローも怠りなかったものだ。


さくらさんのエッセイは
エンタメ本だ。
教養とかそんなものじゃない。
深いことなんか書かれてない。
たまにはそういったことも書かれてるが
なにごともあまり深刻に書くまいという、
からっとした姿勢が
どの著書からも感じられる。
キレのいい文体で
毒にも薬にもならねえよしなしごとを
圧倒的におもしろおかしく読ませてくれる、
それだけ。
だが
子どもだったし 世間知らずだったわたしは
「まるちゃんが一足先におとなになって
いろんなことを教えてくれている」
みたいな感覚を
おそらく、さくらさんのエッセイに感じていて
バカみたいにまじめに貪欲に
いろんなことをそこから吸収していた。


印象ぶかいのは、先にちょっと挙げたが、
実のおじいさんの葬儀に関するエピソード。
「ちびまるこちゃん」は
作者の自伝的なマンガであることが しられている。
まるちゃんのおじいちゃん「友蔵」さんは、
とっても孫思いでやさしい人だ。
だがさくらさんは 実の祖父を好いていなかったと、
お葬式のエピソードにおいて 明言している。
いじわるで、ぼけたふりをしてうそをつくし、
がめついところがあり、大嫌いであったと。

この、祖父の葬儀に関するエッセイは
初出の段階から
ずいぶん物議をかもしたようだ。
もものかんづめ」の著者あとがきによれば、
読者から
「死んだ家族のことを悪く書くなんて」
「さくらさんがきらいになった」
などという反響が、すくなからずあったとのこと。

しかしさくらさんは、
それらを受け止めたうえで
堂々と反駁していた。
ほんとうのことを書いたまでである。
家族だからといって
なかよし円満とはかぎらない。
「ちびまるこちゃん」の友蔵じいさんは、
「わたしもほんとうは祖父と
こういう関係を築きたかったのに」
という願望を込めたキャラクターである。
祖父の葬儀のエピソードを読んで
わたしを嫌いになったというなら、それでけっこう、と。

家族だからってなかよしこよしとは限らない、
嫌われることをおそれて
書きたいことをがまんするようなことはしたくない
そのスタンスに
子どもながら共鳴したことを記憶している。


享年から逆算すると
わたしはたぶん いま
もものかんづめ」執筆当時の
さくらさんより年上だ。


エッセイはだいじにしまっておき
また読み返してゲラゲラやりたい。


やすらかに。

映画の感想-『検察側の罪人』-180826。

※ねたばれというほどのことは書いていません。




検察側の罪人
英題:KILLING FOR THE PROSECUTION
原田眞人監督
2018年、日本
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www.youtube.com




原作はこちらの小説


books.bunshun.jp

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観た。
想像していたよりずっと重厚。
また、観る者に、きわめてまじめな
問題提起をしてくる映画だった。



だが、観ていてときどき
「まあしょせんは『おはなし』、
『エンタメ』なんだよな」
みたいな気持ちにはなった。
おはなしもエンタメもなにも、
映画は 映画であることによって
すでにおはなしであり、エンタメだ。
それなのに
なぜこのように感じたかといえば
言葉そのままの意味のことを思ったわけではなく・・・
つまり
まじめな物語だけに
こっちもすごくまじめに観ちゃうのだが
そうすると説得力の不足とか
設定のよわさとかがどうしても
みえてしまって たまにちょっと「しらけた」、
そういうことだとおもう。
本作が単独オリジナル脚本なら
それは脚本のまずさということにつきるが
原作ものなので、
原作も一定のレベルでまずかった
ということなんだろう。
たとえどんなに
「原作よりおもしろくしてやる」という
りっぱな気概があり
アレンジも巧みな映画化作品だとしても
いいミックスは
いいマスターなしにはできない。


まあ、たまにそんな感じで一瞬
「しらける」かんじがあったことは事実だった。
だが
じゃあこの映画は駄作かい、というと、
そうともわたしは感じなかった。


おもしろかったし、
何度もいうようだが
すごくまじめに
うったえかけてくる物語だった。

オープニングが工夫されていた。

また
らせん階段の描写は
ヒッチコック映画の映画や、
(なぜか)ジェームズ・エルロイの
小説を連想させた。

ラストの別荘のシーンで
ひとりは階上にむかい
ひとりは階下にむかう・・・というのが、
(これまたなぜなのか、)
エッシャーをおもわせた。


期待したとおり、
木村拓哉二宮和也両氏の
ダブル主演は
すばらしくみごたえがあった。
このふたりの演技バトルだけで
2時間じゅうぶんたのしめた。


若手検事の啓一郎/二宮と、
参考人・松倉の 対決は
すさまじかった。
「二宮くんってこんなにやれる役者なの!?」
心底おどろいた。

二宮くんの演技には・・・
一朝一夕ではきかない
準備と練習、台本読みの
努力がうかがえた。
「伸びがいい」というか
まだあれよりももっと
何かやってくれ、と頼めばいくらでも
「あ、いいっすよ♪ 」といって
別の演技プランを見せてくれそうな
おそるべき潜在能力を みたようにおもった。
ニノ検事が いきなり松倉を怒鳴りつけたとき
わたしは本気で驚いて
シートのうえで1センチくらい飛び上がった。
ニノ検事はそのあと(多分)2分以上も 延々と
怒鳴ったり、犠牲者の写真を投げつけたり、
松倉の変なクセをマネしてみせたり、
しずかな声でねちねちと脅しつけたり、
手を変え品を変えして
松倉にプレッシャーをかけつづけた。
気圧された。かたずをのんで観入った。
まばたきするのも惜しいような感じだった。
この取り調べのシーンがおわったとき
乾ききっていた眼から 涙がつーっとでた。
あのセリフのよどみのなさといい
『わたしがやりました、の一言をひきだすために、
 あえて怒った演技をしてプレッシャーをかけることも
 検事の仕事ではあるものなんです』
という意味での演技感といい
まとめると
「二宮くんスゲエ」。


木村拓哉さんは
気鋭のベテラン検事を演じていた。
ニノ検事は、研修生時代からこのベテラン検事に心酔している。

キムタク検事は、おのれの正義のために
ある決定的なボーダーラインを
踏み越えようとする。
いざ、という時、
彼の心は「やるんだ」と決めていても
体が拒否反応を起こす。
この場面がじつによかった。
脆い人間の姿。
ああいうとき、
人はたしかに「ああなる」だろうな、と思わされた。

一線を越えてしまってからの
キムタク検事の眼は、
(撮影時に、光の入れかたを
工夫したからなのだろうが)
ツヤ消しの黒メノウのようだった。
顔の筋肉のうごかしかたも、
不自然におもえ、
頬骨のあたりが緊張して
ひくひくしていたし、
うまくとりつくろっているつもりでも
ロボットみたいになっていた。

正しいことをしてやったぞ、
俺はなにもわるくないんだ、なんて
キムタク検事は絶対におもっていないだろう。

厳密にいえば
彼は正義を執行したかったのではなく
たいせつだったあの思い出を、
あのかわいらしい女の子を
汚されたかなしみ、
なにもできなかった くやしさを
わすれることができず、
「ああでもしなければ」、
もう苦しくて生きていけなかった。
というだけのことだとおもう。
日和って、正義を出したりひっこめたりする卑怯者、
というのとはちがう。
キムタク検事の正義は、あの女の子の思い出に
関することにだけ 発動した。
たまらない心の痛みに、
彼が「正義」と名前をつけただけなのだ。

キムタク検事は、検事の仕事に就いてかなり長い。
わたしが思うに、このような仕事をしていれば
「こいつ絶対にクロなのに、くやしい、
不起訴にするしかない」
なんてことは過去に何回もあった、
そういう背景があることを想定してもまったく
的外れではないだろう。
では、キムタク検事はこれまでにも別件で、
法で裁けない犯罪者に
ひそかに正義の鉄槌をふりおろす
そういうことをやったことがあるんだろうか。
すくなくとも映画をみていたぎりでは、
そのような設定はまったく感じられなかった。
もし別件で何度も 
今回みたいなことをやったことがあったら、
今回の物語の件でも、
今までにやってきたことを、またやるだけなので、
もっと手慣れた様子だったはずだ。

キムタク検事は あの女の子のことだけに反応したのだ。

かといって、あの子のために、と その一心で
検事を志した、とかいうほどでもなさそうだった。
あの女の子のことが キムタク検事の人生に
そこまで実際的に影響してきたようには、
(映画をみたかぎりでは、)
わたしは思えなかった。
長く検事を続けてきて、経験を積んできて、
今になって、
あの子の無念をはらせるチャンスが
たまたまめぐってきた。
そうなると、根がまじめなだけに
おもいこむと抑制がきかず
地位があり能力もむだに高いので、暴走した、
というかんじにはみえた。
まあでも人の心とはそういうもんだとも思う。
「●●したい一心で」なんて、そうそうありえない。
人は、日々の暮らしや気持ちを消化して生きている。
人は、きわめて雑多な人生を普通に生きている。
でも何か、いくつになっても、
どんなに人生経験を積んでも、心のこの部分だけは、
突かれると妙にムキになってしまう、みたいなのがある、
・・・そういった感じのものだと思う。


キムタク検事は、
「俺がまちがっていた」とか
「だれか俺を止めてくれ」なんて
言えなかったのだとおもう。
そりゃそうだろう。
恥を知っていたらそんなこと口が裂けても言えない。

だれよりもそんなことは自分が内心
いちばんわかってるんですよ・・・ってことを
かわいがってきたニノ検事に
ずばり言われてしまうシーンがあった。
あの時の、つらそうな、なさけない、
キムタク検事の表情は、リアルでよかった。


ニノ検事が
キムタク検事に心酔しているという
だいじなポイントの説明が
弱かったことは問題だったと思う。

二宮和也くんは見るからに
「サトリ系」というのか
なにやってても つまんなそうな顔だ。
いっちゃわるいが、例えば、
「僕はこの人についていくんだ! 」
とか殊勝なことを考えて、
職場のカッコイイ先輩とか上司を
メンターとして崇拝するような
キラキラおめめの純真な若者・・・とは
対極の人におもえる。
二宮和也くんその人がそういう顔で
冷めたキャラに見えるから、
二宮くんが演じる若手検事も
そういう冷めたキャラにしか見えない。
でも、ニノ検事は、まさに
メンターたる存在の登場を待ち望む、
目のキラキラした若者、
として造型されていたのだ。
だとすれば、もう少しわかりやすい、
「かわいげ」みたいなものが欲しかった。
先輩! 先輩! と子犬のように
キムタク検事にくっついてまわるかんじが、
もっとあってもよかった。
二宮くんの顔が、そっち系の面構えじゃないだけに、
多少やりすぎってくらい、いじらしい後輩キャラを
行動によってもっと強調した方が良かったと思う。
もしかしたら二宮くんは、
そういう演技をちゃんとやってたのかもしれないが
残念ながらわたしには伝わらなかった。
心のどこかで人をばかにしてる
(それはキムタク検事だけでなく、
基本的にだれのこともばかにしてる、
という感じだろうが・・・)
そういうのが感じられてしかたなかった。
はじめてキムタク検事に
牙をむくシーンが
すばらしかっただけに
もっとちゃんと丁寧に
「尊敬してるんです、
おねがいだからずっと
尊敬させてください、
あなたが犯罪者かもしれないなんて、
疑いたくありません、
どうか俺のかんちがいであってください」
的な・・・疑惑と葛藤の軌跡を
みせてくれていれば。

なにを考えてるんだか
さっぱりわからないかんじが
いまの若者、ってやつなのか
どうかわからないが。


だが 何度も言うけれども
基本的には
キムタク・ニノのふたりだけでなく
脇をふくめみんな
すばらしい仕事をしていた。


優秀な人、高い能力をもつ人は
社会に、国に求められる。
しぜんと
人々を牽引するような仕事のところに
あつめられていくものだとおもう。
三権のトライアングルの頂点とかに。
だからキムタク検事が検事になり
学生時代の仲間が
国会議員や弁護士になりして
それぞれにえらくなっても
まだ友人関係がつづき
たまに会っては超高級店で
食事をしてても
べつに
そんなうまい話があるかい、
とはならないだろう
そんなうまい話に
なることがふつうにあるのが
あるヒエラルキー
頂点にいる人たちなんだとおもう。
そこに自分がいないから
わからないだけだ。
優秀な人の一族は 
郎党そろって優秀である可能性がたかい
優秀であることによる
既得権益、地位、立場をまもるために
一族みんながささえあい
立場を保ち受け継いで
なにかあれば助け合ったりするように
なっている。
優秀な人の一族とは いってみれば
しがらみであり血であり呪いだ。
生きているうちは ほぼ絶対に
ぬけだせないレベルで
そこにどっぷりつかっている。
そうして彼らのうちのだれかは
崇高な理念の実現のために
ネオナチやらヤクザもんやら
人権派きどりだがおつむが気の毒な、
どこぞの業界の重鎮やらに
金をつかませ利用したり
やっぱりいらないとなれば
殺してみたり・・・
そんなこともあるんだろう。
べつにへンじゃない。
自分はそこまでのことをしなければ
身を守れないような世界にいないから
見えない、それだけのことだ。

だがそんな勝ち組?の友人で
現職国会議員の醜聞と
そんな彼らの共通の思い出である
あのかわいい女の子の
時効事件の再燃が
時間的に完全に
かさなることにかけては

そんなうまい話があるかい!

そこがまあ
しょせんおはなし、
エンタメなのではあるが。
サイドストーリーとして
学友たちのことを
ちりばめるのはかまわない。
でも、リンクさせるなら
せめてもうすこし
「あたかも関係があるかのように」
接着を頑丈にしてほしかった。
そうすればこちらも
だまされることができた。



ちょっとなんだかいろいろ
惜しい気はしたが
ひたむきであり、
ちゃんとした映画だった。
藁の楯』(2013年)ほどのズサンさは
感じなかった気がする。
いや『藁の楯』もそんなに
ヒドカッタとは思ってなくて
それなりに楽しんだ映画ではあったが。

この映画と同じようなテーマの映画で、
もっとお金をかけて作って、話題になっていても
結果ぜんぜんおもしろくない、という作品なんて、
ハリウッドなんかでいくらでも観たことがある笑
それにくらべたらずっとずっと意欲的で、
作品としてまじめであり、
一種の折り目正しさのようなものさえ感じた。
良作だった。

なんといっても
木村拓哉さんや二宮和也さん、
その他すべての役者さんの
名演をたのしむだけでも、
この映画はじゅうぶん、間がもつ。
とくに二宮和也の迫真のキレ芸に
ふるえあがりたい方には
自信を持っておすすめできる作品だ。