BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『オリエント急行殺人事件』-180108。

※以下、原作ファンのかたには
申しわけない内容を多分に含みます。 
おイヤなかたは お読みにならずに。

原題:Murder on the Orient Express
ケネス・ブラナー監督・主演
2017年、米

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74年ルメット版のほうが
グッときたことは事実だが、これはこれで。

ケネス・ブラナーのポワロ、イイ。
わたしはむしろ従来の
ポワロのルックスこそ、好みじゃないので(^^)
お国なまり満載の英語表現には驚嘆。
小説なら
「ポワロの英語は、なまってます」と
説明すればいいだけだが 
じっさいにやるのはたいへんなはずだ。

トム・ベイトマンは、
すくすく育った健康優良児体型といい、
ボンボンで、チャラ男で、
でも憎めなくて、頭も悪くない
アルスラーン戦記」の
ラジェンドラみたいな役をやらせたら 
天下一品だ。

ジョニー・デップは、まじめにやってない。
ポワロとの対比。
そこをもっとやってほしかったのに。

ミシェル・ファイファーには拍手を。
お歳相応の、・・・お肌のかんじとかを、
いさぎよく出していた。
華やかなマダムだが、
ポワロ視点のときだけ妙に老けてみえる、
という演出だった。
であるならば そう撮られることを
彼女が受け入れたはずだ。
わかる者にだけわかる
ハバード夫人の心のいたみは、
そう撮られることで効果的に表現できると
納得ずくだったのだ。一流だ。

古典ともいわれる小説が原作。
実写版映画は、
ストーリー、トリック、犯人さがしを
楽しむものではない。
雰囲気を、アレンジを、華麗な美術を、
豪華俳優陣の演技を味わう、
それが実写「オリエント急行殺人事件」だ。
その点は 成功してた。
(もっとも、数年前の、
三谷幸喜監督の特別ドラマ版は 
果敢にもストーリーやトリックまで凝ってた)。

エンディングまでゴリゴリに
装飾的にしてないところが 
個人的にヒット。
そこまでやられてたら
ノーサンキューだったが、
単色濃紺の背景に、
ポワロの瞳のブルーのクレジット。
スッキリしててよかった。

最終章
(「犯人はおまえだ」のところ)は
胸にせまった。
役者さんの熱演のたまもの。
脚色の妙もさることながら。 
実際にはそれほど詳細には描かれない、
各キャラクターの人生の苦みや、心の痛みが、
推し量られて、泣ける。

ちなみに 原作にかんして。

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現代文学史にのこる作品ということで、
わたしも、
数年に1回 読みかえしさえするものの、
(こんなことをいうと
世界中のファンに1回ずつ
心臓にナイフをつきたてられそうなのだが)
おもしろいと 感じない。

数年に1回読みかえすと述べた。
その理由は、ほかでもない
「世界が認める古典的名作を 
良いと感じないなんて、
自分がおかしいのでは。
良さがわかる精神的ステージに
きてないだけでは」。
今回こそは良いと思いたい、から。
けれども 今のところいつ読んでも 
おもしろくない。

ミステリーは
だれがそれをやったか
どうやってそれをやったか
なぜそれをやったか
の どれかに主眼をおく形に、
ほぼ例外なく、なる。
それはアガサ・クリスティー以前に
発見され確立された ひとつの類型とみて
さしつかえないと思われる。だから
アガサ・クリスティーが物語の構成を
試行錯誤していた その中途段階の小説、
ということにはならないはずだ。
彼女ほどの人が 類型を知らなかったとは 
考えにくい。
しかるに小説「オリエント急行・・」は、
わたしが読むかぎり、
この3つのどれにあてはめても半端だ。
すべてに半端にあてはまる。
「なぜそれをやったか」に
力点をおこうとしたことは確実だが
(でないとそもそも成立しない小説)、
成功してるとはいえない。
3つの要素の「おもしろみ」の
希釈限界値を探る実験小説
じゃないかとさえ おもいたくなる。

では たとえば
シャーロック・ホームズ」シリーズが
いまとなっては
ヴィクトリア朝英国のかおりをつたえる
「雰囲気小説」と化しているのと同様に
オリエント急行・・」も 
もう昔の小説だし、雰囲気をたのしめば、
という話かもしれない、が
これがまた「オリエント急行・・」は 
文章表現が淡泊すぎて 
雰囲気もへったくれもない! 
文から映像をイメージする力が
貧弱な わたしのような読者には 
無理なのかも。

逆に 作品発表当時の読者たちは 
なんと想像力がゆたかだったことか。 
自力で補完し、読みとる力の、
なんと鍛えられていたことか。

でも、
「それでも、なにも感じない 
とは言わせないよ。
ほんとに駄作だとおもうなら 
たとえ名作の呼び声高くとも 
数年に1回読み返すなんて 
絶対しないはず」
そんな声がどこからか 
わたしの頭に響いて 無視できない。

この偉大な小説によもやガッカリしたくない 
という気持ちが 生む幻聴か、
それとも こういう種類のおもしろさだって
厳然とあるんです、世の中には。
という絶対的真実の、呼び声なのか。

シャーロック・ホームズの誕生日の過ごしかた/魔裟斗とコブラ/『事件』-180108。

1月6日は
シャーロック・ホームズの誕生日ということに
されている日だ。

ベイジル・ラスボーン版ホームズの実写映画
『緑の女 The Woman in Green』(1945年)
『闇夜の恐怖 Terror by Night』(1946年)
殺しのドレス Dressed to Kill』(1946年)

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を観て、
さらに小説
「バスカヴィル家の犬」
「踊る人形」を
読み返してたのしんだ。

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5年くらい前までは
ホームズの誕生日には
ケーキを買ってきて食べていた。
でも昨今は このように
映画やドラマを観返し、
小説を読み返すのを習慣にしている。

作品群すべてのうち、
『踊る人形』が いちばん好きだ。
(短編集『シャーロック・ホームズの帰還』に収録)
これよりおもしろいものは
ほかにいっぱいあるはずなのだが。
おもえば 初めて触れた「ホームズ」が 
わたしはこれだった。
小学校高学年という多感な時期の入り口に読んだ。
それでなにか特別 思い入れができたのかもしれない。

ラスボーン版ホームズの上記3作のなかでは、
『闇夜の恐怖』がなんとなく好みに合う。
あんまり停まらない長距離列車、
という準密室的状況で発生する
殺人事件、となると
オリエント急行の殺人』が
どうしたって思い浮かぶが まあそれはしょうがない。
終盤も終盤になってバタバタといっきに物語が
展開し始めるのがとてもせわしないのだが、
ホームズがしかけるアクロバティックなフェイクが
おもしろかったりして、楽しく観られる。
深刻になりすぎないところがいい。
あと、女優さんがすごくきれい。

ラスボーンのホームズはあまり知られてないようだけど
わたしは悪くないとおもっている。
(もっともわたしは やっぱり
ジェレミー・ブレット派なんだけど・・)
ルックスがかなりそれっぽくて 
わたしはなんの不満も感じない。
頭が良すぎてもはや変人というホームズのキャラを強調しすぎず
抑制ぎみに演じているのも、飽きずにみていられるという点では
良いようなかんじがする。
自信たっぷりなキャラもよく出ており、安心できる。
ヴァイオリンはぜんぜん弾けてないが。

このシリーズのワトソンくんはとにかくヌケてて
ホームズの足をひっぱる使えないおじちゃん設定だ。
でも原作のワトソンは優秀な医師で良識ある紳士でもあり、
ヌケてるおじちゃんというかんじじゃ決してない。
人物像が原作と乖離しているせいか、
このシリーズのワトソンくんにはファンからの批判が多い
(というか評価に値しないくらいの扱い)らしいのだが
聞くところによれば、ベイジル・ラスボーンは
ワトソン役を務めたナイジェル・ブルースの演技を
高く評価し、信頼していたそうだ。
ワトソンくんの人物像を、みててイライラしてくるような
ヌケ作に設定しようと決めたのは、当然、演出側だ。
ナイジェル・ブルースは役者として、オーダー通りの
仕事をしただけなのだから
すくなくともナイジェル・ブルースに落ち度はない。
役者コンビという意味では、ラスボーンとブルースの息は
じっさい、ぴったりだとわたしはおもう。

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・・・

きょう、テレビで、
格闘家の魔裟斗が、
毒ヘビと闘ってた。
ヘビの眼が
くりっとしていてかわいかった(^^)

・・・

11月、
「野火」「レイテ戦記」などで有名な
大岡昇平
「事件」の文庫版がでたようだ。
読売新聞の書評欄で見かけて 
おもわず二度見した。

www.tsogen.co.jp


『理由』(宮部みゆき)という小説がある。
(傑作だ。暮れに書棚を整理したとき 
まよわず手元にのこした。)
作者はぜったい意識してたと思う。
大岡昇平の『事件』を。

『事件』・・・。
渋い。なにせ古い。
40年以上もまえの小説だ。
けれど タイムリーだ、ともおもう。
出版社が 何を考えたか知らないが、
わたしは「やるなあ!」っと感じた。
「シンプルにおもえること、平凡に見えることほど 
実情は複雑だ。隠された実情は、与えられる情報からは
けっしてわからない。疑問をもたないことには、
そして的確な手法をもって探りに行かないことには」
って、言おうとしている小説だから。
そういう姿勢こそ いま われわれに足りてなくて、
しかもとても難しいことでもあるとおもうから。

何回も文庫になったりべつの社から出たりしてきて、
そのたびに大幅に、書き直されてきたと聞いてる。

そのうちのどれが今回の文庫の底本になったのか。
最終バージョンかな。でもいつだってなんだって
最後が一番とも限らない。
わたし、最終バージョン読んだことないとおもうな

もう持ってるけど 底本が気になるから また買おう・・・

波がある/徒歩励行/ダーウィン、池谷裕二、バチカン/The Grateful Dead-171227。

体調に波があり、
鋭意 必要な治療・療養に
いそしんでいる。
自分で思っているよりも
こたえているらしく
想像も及ばないようなところをふくめて
さまざまな影響がでている。
もうさすがに出尽くしたろ、
もうないだろと思うのだが、
思い出したように 
まだこんなところにも!!みたいな。
驚きの侵食ぶりだ。
案外長引くのかもしれない。
とはいえ、
こうなった原因とおもわれるものからは
すでに距離をとっている。
下がるだけ下がるかもしれないにせよ
いずれにしても
あとは上がるだけ、のはずだ。

問題は自分でも
自分の状態が いまもって
正確にわからないということ。
正確にわからないし
どっちかというと
楽観視しすぎている。
というか
元気じゃないということを
受け入れられない。
つまり
自分では 元気だとおもってる。
そこへ びっくりするような
不調にしばしばみまわれる。
まさかそんなことになるとは
予想もしてなくて
元気なつもりで
いろんなことをやっているから
そういうことが起こると 
やってきたことが頓挫するので困る。
実際にいくつか頓挫した。
それに、
まわりの人も驚かせてしまう。

こういうことも
ありえる時期なんだと
頭では理解してるつもりだが
これといった対策は講じてない。
わたしはわたしの置かれた状態を
完全にナメている 
と言ってさしつかえない。
おしりに火がつかないと
なにもやらない、悪い性格傾向は
こういうとこにも 
しっかり出てる。
いけないことだ(←思ってない)。

・・・

病院で頭の検査をうけた。
頭に電極的なものを
いっぱいつけられた。
そのとき頭皮に塗られた
白いクリーム。
検査がおわったとき 
ふきとってもらったが
少しのこったみたいで
いま なんか かゆい。
あとで髪の毛をあらうときに 
ちゃんと落とさないとなあ・・・

・・・

元気なときは
問題なく元気だ。
3駅~4駅ぶんくらい
(徒歩40~60分)であれば
歩くように努力している。
歩くのは気分がいい。
歩き用のルートとして 
いまのところ想定しているのは
最寄りF駅-H駅 4駅相当と
最寄りF駅-M駅 3駅相当、
さらにS駅-W駅 4駅相当だ。
電車をつかったとき、
いちばん駅と駅の間隔がひろくて
時間も長く感じるのは
まんなかに挙げた 
最寄りF駅-M駅 3駅相当だから
「最寄りF駅-M駅 3駅相当」が
一番 長いルートだと
おもっていた。
でも、
調べてみたところ 
いちばん距離が長く時間もかかるのは
「最寄りF駅-H駅 4駅相当」だと
わかって 意外におもった。
正直そんなに
遠くも長くも感じない。
地元で土地鑑があるので
そう思うのかも。

・・・

本は読んでる。
最近読んで
おもしろかったのはこの3作。

チャールズ・ダーウィン著、ノラ・バーロウ編
ダーウィン自伝」
(筑摩叢書)

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偉大な人物のなしたことや 
それをなすにいたった考えの道すじ
知りたいとおもったとき 
自伝は第一級の資料だと
いわれるが たしかにそのとおり。
書かれていることが
客観的事実でなかった、
わざとウソを言ったとしても
事実でないことを 
あえて言うことを選択した、その点に
当人の思考を
見ることができるとすれば・・・
といったふうに。
ああ それにしても
ダーウィン 文章うまい。
訳がよいのだろうが、
読んでてしあわせだった。



池谷裕二
「単純な脳、複雑な『私』 
または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義」
講談社ブルーバックス

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心と脳は関係しているから 
心のことを学ぶなら
脳科学、神経学の本も読んだ方がよいと
助言してくれた友人が
この人の本をすすめてくれた。
人は、それを「やらない」ことを
選択できる、という点に
おいてのみ自由である
という考えかたに打たれた。
わたしでも 
理解できないところは
いっこもなかったくらい
ていねいで易しい解説、
しかも内容は深遠かつ 
限りなく現行最新ときている。
これは読んだほうがいいよ!


あとは 再読だけど
ジャンルイージ・ヌッツィ
バチカン株式会社 金融市場を動かす神の汚れた手」
柏書房

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ローマ教皇庁
お金の管理運用を任されている
特別機関が 
じつは何年にもわたり
巨額のマネーロンダリングを行ってた。
司法当局も把握はしつつも
相手が相手だけに手をだしあぐねていたのだが
著者の証拠提出と本書による告発で
決定的な裏付けを獲得、
ついに、資金洗浄されたとおもわれる
お金(円で26億以上)の
押収に乗り出した。
著者がこのような本を
書き上げることができた背景には
特別機関の悪さを
長年にわたって目の当たりにしてきた
とある人物のひそかな訴えがあった・・・
タイトルがなんだか安っぽく、
とくにサブタイトルはいかにもださい。
キリスト教文化圏外の人間が
ちょちょっと15分くらいで考えて
とってつけたってかんじだ。
しかし、中身は、
欧州の報道人の本気が伝わる
超一級の告発本。
わたしはお金のこと数字のことが
さっぱりわからないたちで、
本書もかなり難解に感じはしたのだが、
それでも理解することを
あきらめる気にはならない
筆力と密度。
まー人間なんてほんと 
寄り集まると
考えること、モメる原因はみんな一緒。
神さまがほんとにいるなら 
そんなわれわれ人間をお空から見て
いったいどう思っていることか。

・・・

最近聴いてる音楽。

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The Grateful Dead(ザ・グレイトフル デッド)
「Wake of the Flood」(1973年)

・・・本国アメリカさんにおいては
知らぬ者のない
伝説的ロックバンドだそうだ。
サイケデリックロック、
で間違いはないはずだが
カントリー、フォークの雰囲気が確実にあり
でもアシッドロックのようでもあり
ホークウィンドみたいな・・・なんか
ああいう宇宙っぽい?かんじの
音もきこえてくるし
レゲエの香りもする!
どの曲もどのアルバムも
全部ちがってて、
内容がとにかく多彩。
しかも流行っている音楽の
うわべだけをちょろっとパクって
それらしく整えましたというような
安いものではなく
(そんなことができるだけでも
ある意味たいしたもんだが。)、
どんなテイストも
自分たちのものとして 
飲み込み、取り込み、
自分の音楽にしてしまってる。
また、たとえば
ベースを担当している人が
クラシックトランペットの経験者で
ふつうロックバンドのベースで
こういう動きってあまりしないよねっていう
変わった演奏を聴かせてくれたりと
いつの時期も精鋭ぞろいの
すばらしいグループだったみたいだ。
みんな「ハッパ」やってたけど(^^)
このアルバムは・・・
ちょっとジャズっぽいかんじもある。
女声コーラスやヴァイオリンも入って
清潔感あるサウンド
なっているところもいい。

長年のファンは
ツアーをバンドと一緒にめぐり、
ボランティアで裏方・運営のお手伝いもする
文字通りのおっかけだったそうだ。
ちなみに、グレイトフルデッド
ファンサービスとしても
いろいろ先進的なことをやったグループで、
オーディエンスがライブの音声を
録音することを許可していたし、
ツアーについてきてくれるファンのために
巨大な宿泊キャンプや食事、
ヘルスケアサービスまで提供したそうだ。

「いまさらだなオイ!」って
叱られそうだけど
ヒットだなこれは(^^)
音楽的に 
まちがいなく偉大な、
本物の、ミュージシャンだ。
やっていることはあきらかに
高度なのに 主張が強すぎず
ゆったりとした雰囲気で
きもちがいい。
いつまで聴いていても飽きない。
たぶんこれからずっと、
おばあちゃんになっても聴ける。

正義は本質的に無神経なものだ-保育園の子どもの声がうるさいという訴えが最高裁に棄却された件

朝日新聞デジタルの、この記事を読んだ。
以下、内容をそっくり引用した。
リンクが切れてしまうと読めなくなるので・・


www.asahi.com



園児が遊ぶ声「うるさい」 訴えた男性、敗訴確定
12/21(木) 18:03配信
「園庭で遊んでいる園児の声がうるさい」として、
神戸市の男性が近隣の保育園を相手取り、
慰謝料100万円と防音設備の設置を求めた訴訟の上告審で、
男性の敗訴が確定した。
最高裁第三小法廷(木内道祥裁判長)が19日付の決定で、
男性の上告を退けた。
一、二審判決によると、保育園(定員約120人)は2006年4月、
神戸市東灘区の住宅街に開園。
高さ約3メートルの防音壁が設けられたが、
約10メートル離れた場所で暮らす男性は
「園児の声や太鼓、スピーカーの音などの騒音で、
平穏な生活が送れなくなった」と提訴した。
今年2月の一審・神戸地裁判決は、園周辺の騒音を測定した結果、
園児が園庭で遊んでいる時間帯は国の環境基準を上回ったが、
昼間の平均では下回ったとして、
「耐えられる限度を超えた騒音とは認められない」と結論づけた。
7月の二審・大阪高裁判決は、園児が遊ぶ声は
「一般に不規則かつ大幅に変動し、衝撃性が高いうえに高音だが、
不愉快と感じる人もいれば、健全な発育を感じてほほえましいと
言う人もいる」と指摘。
公共性の高い施設の騒音は、反社会性が低いと判断し、
一審判決を支持した。
(岡本玄)


わたしはこういうのについても 
最近ほんとおもうんだけど、
っていうか 考えをこういうのにまで拡張して 
おもってることがあるんだけど、

感じかたと事情と背景は人それぞれであるので
訴える権利はだれにでもいつでもある。
上告がしりぞけられたけど、それでも今後も
訴える権利はだれにでもある。
困ってるなら困ってると、言っていい。
敗色が濃いから最初から断念する、というのも
もちろん本人の自由なのだが、
負けそうだろうが 感じが悪かろうがなんだろうが
訴えたいとおもうなら まったくかまわないはずだ。

「ノイズキャンセラ付きのヘッドホンでもしとけや」とか
「イヤなら引っ越せば」とか
「訴えるのはいいがそのまえに 自分でやれる努力を全部やったのか?」
的な言い草は、わたしに言わせれば、つめたい。
「やることは全部やったけどそれでもだめでした」と
まわりにいちいち言い訳して 認めてもらってからでないと 
訴えることもできない
なんてことは あるはずがない。
いかにも そんなかんじがしなくもないが・・・
本当は、まったくそんなことはない。

困っているときは ただ困ってる、と言っていい。
もちろんそういうのは訴えてみて初めて実感できることだから、
訴えてない立場では わからなくてあたりまえだが。

いや わたしがいいたいのはじつは そこじゃない
・・・前にも何度も似たようなこといってきたかなとおもうんだけど、
こういうとき、
「自分だって子どもだったときがあっただろ! 
さわいでも周りの大人は多めにみてくれたんじゃないのか。
だから大人になったら 子どもがさわいでも許してやれ」
と 言うのは簡単なのだ。
(そしてそれはほんとにもっともな言い分なのだ。)
でも、

この「自分だって子どもだったときがあっただろ!」・・・
は、
(殺人などの)重大事件の加害者が、
ちょっとでも擁護されたときにかならずといっていいほど 
どこかからきこえる
「自分の身内が殺されても同じことが言えるのか!」
と言う声と 質的におなじではないだろうか。

鬼の首でもとったかのような こういう声が
かならずどこかからでてくるんだが・・・。

言っとくけど、
その「声」は、どうかんがえても正しい。
何度もいうけど べつに わたしは 
その声の内容が、まちがってると言っているんじゃない。
言うな、と言いたいのでもない。

ただ、
正しいからこそ危険だし、
場合によっちゃ人を殺すこととおなじくらい、
こういう声は、暴力だ。
正しいからこそ、たちがわるい。ってことがあるんじゃないかね。
ひとりひとりの声は、たいしたおおきさじゃないかもしれない。
「正しいことを言ってやりこめた気持ちになってみたい」とかいう
その程度のきもちで 言ったことかもしれない。
でも、そうしたちょっとした声も、
集まって固まれば 弾丸にも刃にもなる。
それは問題の渦中にある人の心を・・・というか 
とても重要な足場というか・・・
立場を、激しく損なってしまうおそれがある。
生きていけなくなるくらいに。

立場を奪われるってのは人にとって
ものすごくつらいことだよね。

そういうことは、していいのかな?
悪いことをした人、その考えには逸脱があると認定された人は、
「ダメなやつ」だから、何をされてもしかたがないかい?

わたしはそれはちがうと考える。
たしかに、
敗訴がきまったこの人が訴えた、園児の声のうるささは、
客観的にはそこまでじゃないよ、と されたのだし、
たとえば殺人などの重大事件の加害者は、そりゃ、
殺人などの重大事件の加害者なのだ。

けれども、
その認定が、または、「重大事件の加害者である」という事実が、
彼らの立場を奪っていい理由になるかというと、
やっぱりならないかなとわたしはおもう。

たとえどんな間違ったことをしたのだとしても、
それだからその人をどんなふうにも傷つけていいんだ、
ということにはならないはずだ。

とくに、その人物と実際的にはなんの関係もない人たちが、
正しさをふりかざすことによって その人物の立場をおかすことは
許されないことではないかなとおもう。

今の世の中、
誰でも、なんでも、すぐに言うことができる。
正しいっぽいことを言って悦にいることも簡単だ。

それだからこそ、なにごとも、
ことはそう単純じゃない っておもってないと 
危ないんじゃないかな。
そんなかんじがしてしょうがないんだけど。

無神経な正しさは、暴力にひとしい。
否、
正しさとは、本質的に無神経なものなのだとおもう。


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※フリー素材サービス「足成」でもらってきた画像です。



朝早い/読書への衝動/ベートーヴェンとピーターソン/「BOX」

あしたも病院にいくのか・・・。
朝早いな。
寒いから起きるのがつらい。
もうすこし近いところの病院に通えないか相談してみよう。
なんだかんだで超いそがしい。
できればすべてのことを一刻も早く終わらせて、
とにかく明日のことを気にせず 1日でもいいから
眠りたい。
それさえかなうなら ほかには当面なにもいらない。

図書館に立ち寄ったとき、
持ち帰るあてもないのに何冊もてあたりしだい本をかりてしまい
両手で抱えて電車にのり家まで歩くはめになった。
とちゅうで これはむりだなあとおもい
100円均一ショップでショッピングバッグを買ったが(^^)
読みたければ いつでも買うなりかりるなり
とにかく今日じゃなくたって読めるはずなのに
なんだって いつもこうして 
衝動をおさえることができないのかと
われながらおもう。
本だけはどうしても しんぼうがきかない。

友人がベートーヴェンと オスカー・ピーターソン
ベストをかしてくれたので
ぜんぶMP3プレイヤーにいれて聴いている。
ミサ・ソレニムスとか 聴いていてきもちがいい。
でも 騎士バレエのための音楽は
なーんでベートーヴェンもこんな曲つくったかねと
恐れ多くもおもってしまうくらい
なんということのない曲だなと感じる(^^)
なんでもありがたがって聴くもんじゃない。
ベートーヴェンも人間だからね。

オスカー・ピーターソンのピアノは 明るくて軽いところ、
豪快なのにミスが少なくて安心して聴けるところが
いいところだなと感じる。

諸星大二郎の「BOX」の3巻を買ったので
今夜 読んでから横になろうとおもう。

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kc.kodansha.co.jp



この巻で完結するようだ。
いつもスッキリ短くて イイわ 諸星大二郎氏のマンガ。
でもこの先 あと何作読めるのかなあ。とか思ってしまう。

映画の感想-『恋とボルバキア』-171218。

小野さやか監督
2017年、日本

ポレポレ東中野、12:30~

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映画『恋とボルバキア』公式サイト}

www.youtube.com

 

よかった。
今年観た映画では
ダンケルク』の次くらいに
よかったな。
井上魅夜さんのエピソードを
構成上の芯に据えた時点で 
この映画の「勝ち」が
決定したものと 確信する。
※上映後に、本作の監督と
話す機会をえたのだが
彼女によれば、著名な映画監督に
本作をみせて助言をあおいだところ、
井上魅夜の話は外したほうがよい
と いわれたそうだ('_') 
な~んでそんなことを 
その映画監督は言われたのか。
失礼ながら わたしには
ぜんぜんわからない。

井上魅夜さんのエピソードは 
「してやられた」と 
なんか思わされたくらい
心をわしづかみに 
つかまれた。

ゆれうごき 
グラデーションを描き続ける 
人間の心、サガを 
あの人こそが象徴してた。

なぜ、してやられたと 感じたか
あとで よくよく
考えてみたんだけれど、
わたしもけっきょく、
期待や はりつけたいラベルを
井上魅夜さんに押しつけて、
観てたんだとおもう。
井上さんは、悩み多き
「男の娘」たちにとっての 
頼れる姐御であり、
その界隈に根を下ろして
ずっと彼女たちを
支えていくのです・・・、
というポジションなんだと。
ポジションというのは
つまり本作にとっての、
ということであり、
社会における井上さんの、
ということでもあるんだけど。
勝手にそう思いながら
観てたってこと。

けど、井上さんは
そうじゃなかった。
わたしはその展開に 
当初かなりびっくりしたんだが、
いや、そうだった、
人の心は変わるんだ、と。
そうだったそうだったと。

LGBT LGBTっていうが、
自分は体も心も男/女だ、って
信じてうたがわない人でさえ、
そんなことはなにひとつ
「わからない」っていうのが
ほんとうのところなんだろう。
ゆらぐ。
やっぱり人の性って
人の数だけあるものみたいだ。

井上魅夜さんは 
性別どうこうじゃなくて
その人生の歩みというところで、
大きくゆらぎ 
ひるがえすさまを見せてくれたが
あの人をみていたら、わかった。
人はゆらぐんだ、
わからないもんなんだ、
だからこそ何かにしがみつきたいし
愛し愛されたいんだということを
この映画は言いたいんだ、と。

あと、女装を趣味とする
50代くらいの男性が
ひとり登場していた。
彼はこの映画にでてくる人たちのなかで
まちがいなく最年長。
おもえば年長の人ほど、
本作において 言葉少なだった。
若い人ほど赤裸々に悩みを吐露し、
迷っているということを
あきらかにしていた。

迷いや弱さを秘することと 
あきらかにすることと
どちらが強いのかとか
そういうのはわからない。
正直わたしには 
本作に登場するどの人も、
とっても心が傷ついて
弱っているように見えた。

また、本作は、
へたなフィクションの恋愛映画より
よほど ひりつくような、迫力ある、
しかもなんというか・・・うん、いや、
「恋」がみられる映画だった。

わたしは 
かなわぬ恋というのは、
けっきょくのところ自分に 
相手を振り向かせるだけの魅力が
なかった、それにつきるのであって
同性だからとか年齢がとか
そういうのは
あまり関係がないとおもう。
その前提にたつからこそ
本作にでてくる人びとの 
恋の苦しみ、胸の痛みがすごく
伝わってきた。
傷つきたくない
傷つけたくない
決定的なことを言って
相手の逃げ場を奪いたくない
早晩 終わりだとわかっているけれど 
それをいまはまだ 認めたくない
言っても大丈夫そうなときだけ
本当のことを言う卑怯さ
「結婚して、子どもがほしい」・・・
機先を制して相手の口を封じるずるさ
「この指輪の意味は?」
「意味とかどうでも良くない?」
心から血が噴き出す瞬間
その他もろもろ。
そいつはどれもこれも、
他人の眼から見たら
おろかなんだけれども、
でも 人をこれほどまでに
おろかにする
それこそが恋なんだろう。

安藤忠雄展。

国立新美術館で、
安藤忠雄展をみた。

国立新美術館開館10周年 安藤忠雄展―挑戦―|企画展|展覧会|国立新美術館 THE NATIONAL ART CENTER, TOKYO

 

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自分は建築のことはまったくなにも わからない。
渋谷の松濤美術館を手がけた人とカンチガイしてた。
松濤美術館の設計は白井晟一という人みたいだ。)
友人が誘ってくれたので行ってきた。
※その友人も安藤忠雄のこと特別知ってるわけじゃなかったみたい(^^)

結果的には 行って正解だった。すごくおもしろかったし
山盛り もりだくさんの内容で 予備知識などなにもなくても楽しめた。

建築の美術展て、どうやってやるのかなと まずおもうよね・・。
手がけた建物を美術館に持ってくるわけにもいかないだろうし。
建築施工において、おそらくは、
プレゼンテーションや、施主への説明のために
何千分の一かのミニチュアの 完成模型を用意するようなのだが、
その完成模型が各セクションに多数展示されており、
また解説パネルのほかに、小型モニタで各作品の内外観の映像が
紹介されていて、みていてあきない展示構成。
じっくり全部ながめたところだいぶ疲れはしたが。
第1セクションを見るだけでざっと1時間はかかった気がする(^^)

コンクリート打ちっぱなしの スタイリッシュな外観の建物は
いまでこそわりと 頻繁に見かけるけれども、
あれが70年代初頭、ふつうに住宅街にぽこっとあったら
スタイリッシュどころのさわぎじゃなかったろう。
なんだなんだと思うわな。

安藤忠雄氏は海外でもおおいに活躍されている。
あるときは フランスで大きなプロジェクトの 国際コンペを勝ち抜き、
場所も決まってあとは着工するだけだったのに
いろんな事情で企画がたちきえになったことがあったそうだ。
しかし、そのコンペティションのとき知遇をえていた人物から
声がかかり、
イタリアはヴェネチアの街と 歴史的建築物をぜいたくに使う
一大アートコンプレックスを手がけるにいたった。
プンタ・デッラ・ドガーナという、昔の港湾管理施設かなにかの
建物を活用する現代美術館が目玉で、
巨大な完成模型がすごくかっこよくて見入ってしまった。
こういう模型ってたぶん3Dモデリングソフトで作ったのを
積層法か切削加工法で 形にしていくのかな・・・
ちっちゃなパーツをボンドとかでくみ上げていく
昔のプラモデルみたいなのとは ちがうとはいえ
あれだけ大きいと 作るの本当に大変だろうな。

でも2年くらいかけてでもいいから わたしも
プンタ・デッラ・ドガーナの模型作ってみたい(^^)
毎日ちょっとずつやれば できないことはないとおもうんだが(^^)

www.palazzograssi.it

 

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安藤忠雄展はほとんどの展示が 先述のとおり
文と動画による解説、模型だったのだが、
ひとつ 安藤氏の作品の原寸大レプリカが野外展示されていた。
大阪府茨木市 春日丘教会(通称「光の教会」)礼拝堂がそれ。

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正直なところわたしには、ああ、簡素だけど、たしかに美しいな
ということのほかには あんまり 心に響くものはなかったのだが
これはANDO作品のなかでも とくに有名なものみたいで、
じつにたくさんの人が 中に入って観ていた。
この 壁の十字架型の切り込みが意匠のすべてであり、
ほかには床にも壁にも天井にも
宗教的装飾がなんにもない、というのはおどろきだよね。
しかしながら、
外からながめると 
外壁のコンクリートの積み上げかたがザツにおもえて
しかたがなかった(^^)
あきらかにブロックとブロックの継ぎ目のところが
ズレてた(^^)
本物は もっとていねいに積まれていて
ザツさなど決してかんじさせないはずだ。
急ごしらえだからしかたがないのかな。


この2日後の土曜日に、
叔父の家を訪問したとき、
叔父は建築家なもんで、
安藤忠雄展を観に行ってきたと 水をむけてみたら
意外なほど目をかがやかせて食いついてきた。
「おまえ行ったのか! どうだった!??」。
気難しくて かなりおっかない人なんだけど
めずらしく話がもりあがって笑顔まで見られたので
それだけでも 安藤忠雄展行ってよかったなと 思っちゃったね。