BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

はためいわく-181008。

動じないとか強いとかいうのも
人の心のありかたとして
かっこいいかんじがするし、
とてもいいことなのかなとおもう
だけど、
いまわたしが こうありたいと感じる
ありかたをしめす表現として
いちばん ひかれるのは
「人を追いつめない」
だ。

やられるとわかるのだが
追いつめられると
たいへんしんどい。


人を追いつめるとは
どんなかんじかというと
たぶんそれにはいろんな種類があり


わたしも
追いつめるたちだとおもう
自分自身をまず追いつめる
不安からくることなのだが
その不安が
人を追いつめるたぐいのものに
かたちをかえて
外にでてしまう


わたしには
「でなければならない」
「であるべきだ」
「なんとかをしなければ許されない」
「原因をつきとめなくてはならない」
みたいなかんじに
四角四面にものごとを
かんがえるところがある


いつもなにもかもそう
というわけじゃなく
そんな傾向がつよいというか。
とくに神経がまいっているとき
疲れているときに
そういうほうにいきがち。
なぜなら、
はっきりした答えとか
ぜったいこれが正しいこれしかない
というのをつかむことができれば
安心できる、という考えがわくからだ。
というか
はっきりとした
答えを自分がもってないから
こんなに不安なんだ、
というかんじかもしれない。
答えとかそんなもの、
あるわけないんだけど・・・
すごく
心が落ち着きをうしなって
あせりだす
そしてわたしは神経がほそく
ストレスをためやすく
器がちいさい笑
神経がまいっているとき
疲れているときがわりとデフォルトだ

答えだとかなんだとか
よけいに不安になるような
よけいに苦しくなるような
ものの考えかたをしてしまう
じっさい
こんなことしてると、
すごく疲れる。自覚がある。
考えかたの問題だという自覚が。


こういう自分のたちが
とくにいま、
よろしくない状態にあるいま、
他人のきもちまでもきりきりと締め上げ
いごこちをわるくしていないか心配だ

たとえば、なにかあったとき
ちょっとまちがったらミスに
つながりかねないから、
いま確かめなくちゃみたいなときとか・・・
ちゃんと細部まで決めないで
話をすすめたために
途中でやっぱりたちゆかなくなってきた
というようなときとか・・・
その原因をつきとめようとして
あるいは、おおもとに話をもどして
ただしくやりなおそうとして
やたらめったら
こだわりだす。
また、
どうも論理的といえない
不明瞭な内容をふくむ書面などが、
すんなり理解できるかたちに
改められるまで、承服できなかったり

完全にまちがったことをしてる
とまでは
さすがにじぶんではおもわないが
問題は
まず
わたしがそこまでする分際か、ということ、
それから
「前からなんとなく話はついてるんで、いまさらそもそも論で混ぜ返すと
かえってややこしくなりますので」
的なところを
よりによってつっついてしまう
そんな場合があったら
逆にめんどくさい、ということだ。

およびでないことを
やってるかもしれないと

わたしでなかったら
(というかつまり『ふつうならば』)
ここまで固執しないだろうに、
というようなことに
いつまでもくいさがり、
こともあろうに
他人をつきあわせてしまうことがある
つきあってもらうその人には
責任がない場合がほとんどなのだが、
当人にしてみればなんとなく
「自分が責められている」
ようなかんじがすることだろう。
それで
いごこちわるく感じさせて
いるだろうなとおもうのだ


いまあげたことはひとつの例で
ほかにもなんか
たぶんわたしはやらかしている


そんなとき、おもう
なんかわたし
やってることおかしい
はためいわくであり
人をいいきもちにさせないことを
していると


この人はつくづく
他人をおいつめないなあ、
だから他人がほっとして
寄ってくるんだろうなあ
そんなふうに(わたしの目には)
みえる人が
わたしのまわりにはいる。
自分もそういうふうだったら
どんなにいいだろうなあと
日々おもって観てる


なぜ人をおいつめてないと
感じるんだろうか・・・
もうちょっと
じっくり観察していけば
わかるのかなあ