BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

そもさん-7-180529。

商社の営業事務だったときのこと。

自分よりも10ちかく年下の同僚が、
営業に
「めんどうなことを頼んでしまってごめんね」
とかなんとか あやまられたときに、
こう返した。

「いえいえー、お仕事ですから。」

それを聞いて、
この子は おとなだなあー と
思ったことを、よくおぼえている。

「いえいえー、お仕事ですから。」
的な感覚が、わたしには 皆無だ。
わたしの仕事観はもっとこう・・・
部活みたいなかんじであり、それは、たとえば
「ドライ」とか「ビジネスライク」とかいう
言葉とは 無縁の範疇にある。
全人格、全存在をかたむける。
生身の人としての信頼関係、
人間関係、感情、なにかそういうものを
もちこんではばからない。
仕事だから、仕事じゃないから、そんな考え方がまずできない。
導入しようとつとめたことは何度もあったが、
ちゃんと成功したためしはない。

帰れる場所、・・・たとえば家族
心に持っていれば またちがうのかなとおもうが。
ないなら新しくいまから作ればいい というのともちがい、
もっとこう・・・
絶対的な、安心感を与えてくれる場所ということだ、
基本的な、根本的な意味での帰れる場所。
それを持っていない。
持っていないから、ほしくて、仕事に求めてしまっていると 
指摘される。

そのとおりだ。

ほかの人はどうかわからないけど、わたしは 
帰る場所がない、と感じながら生きることは
きわめてむずかしい。
とても弱い人間だから。

それだから いま、こんなにも喪失感をあじわっている。
刺激的でたのしい仕事だったからというだけでは
すまないほどつよく 退職に挫折を感じ、望みをうしない、
無力感にうちひしがれている。
またも、ここでも必要とされなかった、とか考えて傷つき、
自分の「居場所」はどこにあるんだろう
なんて悩む。

でも 本来 仕事に
家族みたいなかんじを求めるのは 筋違いだろう。
求めずにいられないのは きもちの問題だから
しょうがないのかもしれないが・・・

企業に所属してとりくむ仕事である場合・・・
企業って、そういうものじゃないから。
企業は 利益の追求のためにある。
家族みたいな職場環境をつくることが
利益をあげるために効果的、と判断された場合において
家族っぽい職場環境をきずく、そんな方針がとられる
・・・ことはあっても、
それは当然のことだが、ほんとうの家族じゃない。
模しているだけだ。家族じゃない。
それに気づいたときに
必要以上に傷つくまぬけは、わたしだけだ。
いつもそうだった。

一般に、とか 規範、とかいったものから
はずれることがすごく怖い。
自分が傷ついたときのきもちは いつだって、
「みんなできてること、あたりまえにやってることが、
自分だけできない」だ。

なにか決定的に違う。
根本的に欠けている。
バランスがおかしい。
平均値を逸脱してる。
お呼びでない存在だ。
自信がない人間であるくせに
この劣等感、「欠陥商品」感、「余剰人員」感にだけは
確固たる自信がある。

もっとまえなら まだなんとかなったろう。
でもいまとなっては とりのぞくことがむずかしい感覚だ。
なんとなく 弱まってくれるとき、
つらいきもちにさいなまれずに 過ごせる時期も
さいわい なくはないけれども、
ちょっとした拍子に、すぐ頭をもたげてくる。

回復の過程にあるとき、
きもちは
ぜんぜんたのしくないしうれしくもない。
なまあたたかい空気、イヤにふきあれる風、
不快に強い雨が降る、蒸したかと思えばぐっと冷え込む。
季節の変わり目がそうであるように
上がったり下がったりをくりかえしながら
なんとなく、いつのまにか、
あらたな正常値が決まっていくんだろう。
決まるまで、
おとなしくしているべきだったかもしれない。

回復にむけた いわば過渡期を
自分にゆるすことができなかった。
しずかに休養することに たえられなかった。
それをすると、まだ過去になってない過去と
向き合う時間が増えかねなかったからだ。
でもその判断は、あやまりだったかもしれない。
他人にとばっちりがいく。
必要な時期だったんだろう。
治ったけど、治ったとまだいわれたくないよ、
まだもうすこし休んでいたいよ、と体が訴える、
そいつに耳をかたむけてやるべきだった。
治癒の過程として欠いてはならなかった 甘えの時期を、
人にめいわくがかからない場所で、 
おとなしく甘えて、過ごしてみればよかった。