BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

実家/本/高山文彦さんの本-181127。

帰りに実家に出向き、
といっても家には入らず、
外の郵便ポストに
兄あての封書をいれてきた。
家のまえの駐車スペースに
車がなかったから
兄がまだ仕事から帰っていないとわかった。
実家を訪れる必要が生じた
いきさつは、こうだ。
実家の光回線の名義を
わたしから兄に変える件。
「権利譲渡」の書類には
わたしがかつて契約したときの
IDとアクセスキーを
記入する欄がある。
だが、契約したのは
もう10年まえのことで
IDが記載された紙をわたしは
紛失しちゃってた。
まさか10年後に
要る、といわれるとは思わず。
そこで電話会社にたのんで
契約情報が書かれた封書を
10年ぶりに再発行してもらい
実家に送ってもらう
手はずをととのえた。
それを見て兄が書類を
完成させればよいと考えた。
だが、紙は実家でなく
わたしの部屋に届いてしまった。
郵便局に住所変更届を出してあるから
郵便が気をつかって
わたしの部屋に
転送してくれちゃったのだ。
じつは、この作戦をたてたとき
ちょっと、
そうなっちゃうんじゃないかなーと
予想してたが笑
わたしはきょう、その封書を
実家に届けにいったというわけだ。

兄が帰宅していない
ということは 家のなかで
母親がひとりで兄の帰りを
まっているんだろうなとおもった。
居間でねっころがって
おもしろくもないテレビ番組を
何時間も観ているんだろう。

実家においてわたしは
おもに仕事で
いつもいそがしく不在がちだった。
家にいても苦しいから
いそがしくしてたという面もあるが。
家には寝るために帰っていただけ。
高校生くらいまではふつうに
テレビを観ていたし
好きだったと思うが
いったん観なくなるともう不要になり
なんかばからしいものに思えて
テレビについて上からものをいう
くせがついた
からしいと思うというのは
テレビという機器が、ではなく
それにうつしだされるテレビ番組が。
昨年暮れに倒れて
今年はじめに退職し
家でやすんでいた数か月のあいだ
「テレビ(を観る母親と兄)をみる機会」
がふえて
ますます
さいきんのテレビって
つまんないんだなと
それをおもしろいかのように
毎日みながら食事してる
母親と兄ってなんなのかと。
ばかのひとつおぼえみたいに
「東大生がかんがえたクイズ」
「脳にいいなんとかかんとか」
「からだにいい食べ物」
「知識人になにかをおそわる」
そんな番組ばかり。
ほんとにかしこくなれるとか
知識教養がえられるとか
体にいいものだとかいうならば
それを何回も観る必要はないはずだ
真理ってのはそんなにたくさんないし
ころころ変わるものでもないんだから。
一回学べば用はたりる
でも何回も、しかもびみょーに
ちがった内容のものが毎日
だるい・・・
まるで
あなたたちはおばかなので
こういうのがいいんでしょう、と
これで数字とれますよね、どうせ
そんなふうに
足元みられてるかんじがする
そんなひねくれたことしか
おもえないわたしは
だから家族のはぐれ者なんじゃないのか

でも
人はたぶん
真理をつたえてくれるからという理由で
テレビを観るわけじゃないんだろう
わたしが
真理をおしえてくれるからと信じて
本読んだり映画みたり
してるわけじゃないのとおなじで。
なぜするかといえば
ひまつぶし、エンターテインメント
あそびだ、
友だちだから。本や映画は。
なにかしてくれるから
友だちなわけじゃない。
ばかだから昔は
本はとくに
真理を、こたえを教えてくれると
本気でおもって読んでたけど。

だから母親も兄も
テレビはひまつぶし、
またはにぎやかし、
ただそのとき
なんとなく楽しいから
流しておくものなんだろう
なんとなく楽しいから。
家族で語り合ったりとかしながら
食卓をかこむことよりも。
わたしがしるかぎり
わたしの家族はそうだった。
そういえばずいぶんまえに
兄が食卓についたのに
テレビをつけないでだまって
食事をはじめたことがあった
台所のことをすませて
やや遅れてきた母親は
テレビがついてないことにきづき
「(テレビを)つけないの」と兄にきいた
兄は「観たいものがないんだ」と。
すると母親は
「テレビつけないで、なに話すのよ」。

そういうこと言う笑?!

そういういじけたことをいって
どうしろというのか
兄に、わたしに。
その発言にこめられたテーマ
大きすぎるだろ

それに
逆ベクトルのたとえだが
ちょっとやかましくてきびしいけど
いつも家庭の中心、
お日さまみたいなおっかさんが
めずらしく1日でかけて
夜まで帰らない
留守番の家族は
「なんかおふくろいないと
うち、しずかだな」とおもう。
どこになにがあるか
わかんなかったりするし。
夜、帰ってきたおっかさんの姿をみて
「やっぱりおふくろいると
にぎやかでなんとなくうれしい」
とほっとするが
そこへおっかさん自身の口から
鬼の首でもとったかのように
「お母さんいないと、この家ったら
火が消えたみたいね笑」
とか言われたらちょっと
いらっときませんかね

自分で言いますかそれ、みたいな。

ああこういうことをおもうから
わたしは一家のはぐれ者
ろくでなしのきちがいなんだよな

父がはぐれ弟がはなれ
わたしはひきちぎって捨てた

ただ、
テレビ番組にも(話もどすのそこ?)
それなりにいろいろあって
22時以降や
深夜の番組はたまにみると
おもしろいけどなあ笑

「ろんぶーん」まだやっているのかな。

まあ
いろいろ書いたが
そもそもどうでもいい。
わたしの部屋にはテレビがない
すくなくともテレビのことでは
というかテレビと家族とをめぐる
いろんなことでは
もうイヤなおもいはしなくてすむ
部屋はとてもしずかなのだ

さて、
実家に到着したが
家にひとりでいるであろう母親に
わたしがきたことを
気づかれたくなくて
つい家の50メートルくらい手前から
足音を消してしまうわたし笑
ポストのフタも
何秒もかけて音をたてないように
ゆっっっくりと開けた笑

そしてミッションコンプリート。

まだ駅前の市立図書館があいている
時間帯だった。
なんか開放的なきもちになっていて
寄って何冊も本をかりてしまった
こんなにかりても
エコバッグとか
入れるもの何も持ってないのに笑
駅前の書店にも寄り道したところ
たいへんめずらしいことに
小林泰三の新刊が
幻冬舎文庫からでてた
クリストファー・ノーラン
メメント」みたいなかんじの
ストーリーのようだ
小林泰三はそんなに出さないから
ほんとうにめずらしい
即購入
これをレジのおねえさんにたのんで
いちばんおおきな袋にいれてもらい
そこに図書館でかりた本も詰めて
なんとか自力で持って
帰宅することができた。


きのう
高山文彦の「麻原彰晃の誕生」を読んだ
(「高」はほんらい「はしごだか」みたいだが)
重大事件や著名な人物を
文学的といってよいアプローチで
評するところが
この人のノンフィクションの
特色だと思う
なにか黙示的な意味がみいだせると
信じているかのように
事件や人物の全体像を
観察しているのを感じる
まえに
神戸市連続児童殺傷事件の
「少年A」のことも書いてた。
そこにおいて、
事件の舞台であり、
少年Aの暮らした街でもある
新興住宅地には、墓地がひとつもない
(当時。たしか火葬場や葬儀場も)
と指摘してた
あれははたしか
高山文彦さんだったはず。
人の一生にかならずある
死についての場所が
もうけられていない
死から目をそらし人工的に排除して
ひたすらに生へと偏向する
不自然さ、ゆがみをかかえた街と。
見るとこが違うなとおもったことは
よくおぼえている

本書は関係者への聞き取りが
とてもていねいで充実していた。
短い本だが
松本智津夫の生涯を
教団創設以前の生育歴から
じつにこまかく追っていて
どんな人間だったかを
描き出そうと
しているところがよかった。
化け物とか
人の心をもたない異常者とか
ただのうそつきとか
金の亡者とか
そんなかんじに言うのではなく。

事件から教訓をえようとするとき
そういう視点はだいじだとおもう。