BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

下北沢/賢者の横顔/「ヴァン・ゴッホ Van Gogh(1991)」。

下北沢の茶沢通り沿いにある
タウンホールというところに行き
労働問題関係の無料講座を聞いてきた。
3年目だという 若き女性の弁護士さんが講師を務め
ハラスメントなどの就労上のトラブルへの
対処法を教えてくれた。
質疑応答で、
セクハラってどうしてこんなにも横行しているのか、
加害者はどういう気持ちでハラスメントを
はたらくのだと思いますか?
との質問に対し、
社会にはまだまだ男尊女卑的ムードが色濃く
従業員を人ともおもわず搾取する使用者が
すくなからずいるのだ、とのこと。
「こんなことを申し上げるのもなんなのですが・・」と前置きし
「じつは 弁護士の世界もそういうところがあるのです。
古参の弁護士には
メンタリティがほんとうに古い者がおおくて。
明治時代の人なのかなんなのかしりませんが・・・」
とも 話されていて、その 正直な見解に
会場の人たちが くすくす笑ってた。

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それにしても
この優秀な 女性の弁護士さんのお顔立ちを見て 
おもったのだが
知力の高い人ってのは、
ルックスに似通っているところがある気がする。

気のせいだろうか
まず、総じて色白、総じて端正。
まんなかにきゅっとパーツが集まったような顔立ち。
やや 細目の人が多い。
そして 高い確率で一重まぶた。
女性は眉があがりがち、
眼は それにたいして下がりがち。
男性は眉も目も上がりがち(つまるところ『きつね顔』の傾向)
男女とも、眉が短い人が多い(横を向いたとき見えるか見えないかくらい)。
傾向的に、手の指が長い。
血液型が OかAB型のことが多い。
※血液型はわたしが出会ったなかでは
BとかAの人ももちろんいた。
ただ、これはわたしだけの勝手なジンクスなのだが
わたしの人生の一大転換点には
かならずOかAB型の人があらわれて
わたしになんらかの 強い影響をあたえていくのだ。
(自分で その人に血液型を聞いてチェックしているんだけど。)
なので
たぐいまれな頭脳の持ち主、という特徴とあいまって
O型かAB型の人がとくに記憶にのこる 
ということなのかもしれない。

そうじゃないルックスで賢い人もたくさん知っている。
眼がおおきくって健康的な地黒さんで、
ちっちゃな手の人ももちろんいた。だから
自分で言ってて 筋がとおってないことはよくわかっている。
だが、
おなじ頭がよいといっても、
まず遺伝的に上質なエンジンを積んでいて、
きわめて恵まれた生育環境のもと、良質の教育を受けてきた、
としか思えないたちの 
いわばサラブレッド的頭のよさを発揮している人というのは たいてい、
顔立ちがこういうかんじだ。 
そう思われてならない。

かつて働いた広告代理店の先輩だったYさん、
その別部署の先輩の夫君であるKさん、
べつの職場の先輩だったAさん、
その職場の上司だったMさん、
それから中学の同級生のM、
高校の同級生のA、D。
最近知り合ったT。
みんなルックスが似てる。
Tと初めて出会ったときおもった、
あ、またこのお顔だ。って。
ずばぬけた秀才のはずだと。
そしてその予想はあたっていた。

賢者の血族とでもいうべきものがあって、
もう今となっては 彼らのあいだに
実際的な意味での血のつながりはないんだろうけど、
広い意味での 縁者なのかもしれない。
知らんけど。

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下北沢は、せまいエリア内にいろいろなお店があって
楽しめそうな街だなとはおもうが、
あのお店たち小劇場たちを すべて見て制覇したい、とか
そういう願望は持たないし、
長居したいともおもわない。
でも、渋谷なんかよりはまだかなり健全な街だなと直感する。
わりとアカデミックなというか
理性と、自律的な選択と、知的好奇心みたいなものが
街に満ちているのを感じる。
街を歩く人たちの会話の内容も 
わたしにとって身近で受容しやすい、
はっきり言うなら「まとも」っていうかんじ
を うけるのかもしれない。

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ゆうべ、
芸術家のゴッホの伝記映画を観た。
フランス映画だ。



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「ヴァン・ゴッホ
(Van Gogh、モーリス・ピアラ監督、1991年、仏)
movie.walkerplus.com



探したけど「ヴァン・ゴッホ」単体での
ポスタービジュアルの ちょうどいい画像ってないんだよね
5年くらいまえに 監督の作品の特集上映が開催されたときの
ポスターしか発見できなかった。

91年・・・
27年も前の映画なんだね
それにしちゃ 古さをちっとも感じさせなかったなあ。

最初はメディアプレイヤーソフトの画面をちいさく表示し、
横目でちらちら話をおいながら
べつの仕事をしていたのだが、
だんだん画面を大きくしていき、
最終的には仕事そっちのけで
映画に夢中になってた。
良作だったんだろう。

「説明」というものが、 
いかなる意味においてもまったくない映画であったので、
ちっともおもしろくない、なにがなんだかわからないという
感想を持つ人がいても すこしもおかしくないだろうとおもった。

ゴッホの最晩年だった。
主人公や彼の周辺人物の心が
追い詰められていくようすが
あくびがでるくらいたいくつな
彼らの日常の風景のなかに
ぼつっ、ぼつっと描き出されていった。
容器のなかで ゴショゴショと混ぜすぎて
もう何色だかわかんなくなったような
ヘンな色の水彩絵の具を 
たらしたみたいだった。
(エピソードの配置のしかたが。)

ゴッホがなんで死んだのか
(自殺ということになってるが)なんで死のうと思ったか
はっきりわかっていないようなのだが、
映画を観てもわからない。
明確な理由があったかのように
解釈をつけて描く 手法もあるだろうが、
本作は わからないようになっていた。
死を決意したタイミングもぜんぜんわからない。

さっきまで家族とたのしそうに食事をしてたのに
ひとり部屋に戻ると拳銃をとりだし
こめかみにしようかみぞおちにつきたてようか
今ひきがねをひこうかやめようかと
撃鉄をひっきりなしにならしながら
おいつめられた表情で思案する。

死にたいと思うくらい心がすさんでいる人って、
はたから見ても 元気がないなとかずいぶん荒れてるなとか
なにか兆しがあるんじゃないの、と 思いたくなるところだが、
たとえどんなに激しく追い詰められた心でも
そのうつりかわりなどは、まず見えない、ということが
その切なさが、
よくよく伝わった。

主治医の娘であるところのマルグリットが
不器用ながら真摯に、そして一貫して
ゴッホを「呼び戻そう」としてたし、
彼の愛をもとめてもいたのだが。
なにせゴッホ自身が 彼女がさしのべてくれた手をとらなかった。

愛されたからといって 愛し返さなくちゃいけないわけではない。
さしのべられた手はかならずとらなくちゃいけない というわけでもない。
あたえられた愛情をうけとろうとせず、
自分が思う孤独のままに
死んでいく人がいる。
なんて自分勝手なんだ、わたしはこんなに愛してたのにと
のこされた人は おもうかもしれない。
自分じゃだめだったのかと。
でも そういうことじゃないのだ。

心からつくせば、懸命にあなたが必要だと叫べば
つなぎとめることができる・・・と信じるのは、
すごく美しい姿勢なのかなとはおもう。
それに結局、周囲はそうするよりほかにできることがない。
でも 
その姿勢が絶対正しい、そうすれば救えると信じることは
傲慢でもあるということを、わかっていたい。
そうでもないと、
なぜ止められなかったのかとか 自分の力不足だったとか
真相についてわかりようもないことをいつまでも考えてしまい
苦しむことになるんじゃないかな。
苦しむのはかなしいよ。
受け取らなかったから死んだわけじゃない。
また、受け取らなかったかもしれないけど、
拒んだ、というわけではない。
ほかのことで頭がいっぱいだったのであり、
愛について考えることよりも
そっちのほうがだいじに思えていたから
なんじゃないかな、ま、失礼な話だけどさ。

わたしはそれが確認できて
いま、すこしほっとしてるんだよ。

マルグリットの愛情は、とても不器用だったし
ゴッホの心には(自殺を思いとどまらせるほどには)
届かなかったのだが、
でも 彼に愛してもらえるかどうかは関係なく
ずっと続いていくものだったし、強固なものだったのがよかった。
この映画のただひとつの救いだった。
ほかの人の思いはどれも、悪気はないが
長続きはしないし、強固でもなかったので。
死んでしまったから もうゴッホがどう思うかはわからないのだが、
マルグリットの ちょっとばかり粗野で熱い愛情が
彼の魂のなぐさめになるはずだ、と思わせる終りかただった。

ラストシーン、
マルグリットの
「ええ、(彼はわたしの)親しい人だった」というセリフに
ややおっかぶせるように
オーケストラ曲が場違いな大音量で
オネゲルかな? わかんないが)
鳴り響いたのが すごく印象的だった。
愛する人に思いを受け取ってもらえなかったマルグリットの 
なまなましい心の傷を 連想させたし、
でも 前を向いて生きていこうとする彼女の強さを
あの決然としたフォルテシモが 象徴してたようにもおもう。