BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想をおもに記録しています。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

下北沢/賢者の横顔/映画の感想-「ヴァン・ゴッホ Van Gogh(1991)」-180129。

下北沢の茶沢通り沿いにある
タウンホールに行き
労働問題関係の無料講座を聞いた。
3年目だという 
女性の弁護士さんが講師を務め
ハラスメントなどの就労上のトラブルへの
対処法を教えてくれた。

質疑応答で、
セクハラってどうして
こんなにも横行しているのか、
加害者はどんな気持ちでハラスメントを
はたらくのだと思いますか?
との質問に対し、

労働社会にはまだまだ
男尊女卑的ムードが色濃く
従業員を人ともおもわず
搾取する使用者が
すくなからずいるのだ、と。
「こんなことを申し上げるのも
なんなのですが・・」
と前置きし
「じつは 弁護士の世界も
そういうところがあるのです。
古参の弁護士には
メンタリティがほんとうに
古い者がおおくて。
明治時代の人なのか
なんなのかしりませんが・・・」
とも 話されていて、その 正直な見解に
会場の人たちが くすくす笑ってた。

・・・

・・・

下北沢は、せまいエリア内に
いろいろなお店があって
楽しめそうな街だとはおもうが、
あのかわいいお店たち小劇場たちを 
すべて見て制覇したい、とか
そういう願望は持たないし、
長居したいともおもわない。

でも、渋谷なんかよりは
まだかなり健全な街だなと直感する。
わりとアカデミックなというか
理性と、自律的な選択と、
知的好奇心みたいなものが
街に満ちているのを感じる。
街を歩く人たちの会話の内容も 
わたしにとって身近で受容しやすい、
はっきり言うなら「まとも」
っていうかんじ
を うけるのかもしれない。

・・・

それにしても
この優秀な弁護士さんの
お顔立ちを見て 
おもったのだが
知力の高い人ってのは、
ルックスに似通っている
ところがある気がする。

気のせいだろうか
まず、総じて色白、総じて端正。
お顔のまんなかにきゅっと
パーツが集まったような顔立ち。
やや 細目の人が多い。
そして 高い確率で一重まぶた。
女性は眉があがりがち、
眼下がりがち。
男性は眉も目も上がりがち
(つまるところ『きつね顔』の傾向)
男女とも、眉が短い人が多い
(横向きだと見えるか見えないか)。
傾向的に、手の指が長い。
血液型が OかAB型のことが多い。
※血液型はわたしが
出会ったなかでは
BとかAの人ももちろんいた。
ただ、これはわたしだけの
勝手なジンクスなのだが
わたしの人生の一大転換点には
かならずOかAB型の人があらわれて
わたしになんらかの 
強い影響をあたえていくのだ。
(自分で その人に血液型を聞いて
チェックしているんだけど。)
なので
たぐいまれな頭脳の持ち主、
という特徴とあいまって
O型かAB型がとくに記憶にのこる 
のかもしれない。

ここに挙げたふうじゃないルックスで
賢い人もたくさん知っている。
眼がぱっちりおおきくって
健康的な地黒さんで、
ちっちゃな手の人も
もちろんいた。だから
自分で言ってて 
筋がとおってないことは
よくわかっている。
だが、
おなじ頭がよいといっても、
本人の努力のみで知識教養などを
詰め込んできたタイプとちがい
まず遺伝的に上質な
エンジンを積んでいて、
そこにきわめて恵まれた生育環境のもと、
良質の教育を受けてきた、
としか思えないたちの 
いわばサラブレッド的頭のよさを
発揮している人というのは たいてい、
顔立ちがこういうかんじだ。 

そう思われてならない。

かつて働いた
広告代理店の先輩だったYさん、
その別部署の先輩の夫君であるKさん、
べつの職場の先輩だったAさん、
その職場の上司だったMさん、
それから中学の同級生のM、
高校の同級生のD。
最近知り合ったT。
みんなルックスが
どこか似てる。

Tと出会ったときおもった、
あ、またこのお顔だ。って。
ずばぬけた秀才のはずだと。
そしてその予想はあたっていた。

賢者の血族とでも
いうべきものがあって、
今となっては 彼らのあいだに
実際的な意味での
血のつながりはないんだろうけど、
広い意味での 縁者なのかもしれない。
知らんけど。

・・・

ゆうべ、
芸術家のゴッホの伝記映画を観た。
フランス映画だ。



f:id:york8188:20180129000627j:plain


「ヴァン・ゴッホ
(Van Gogh、モーリス・ピアラ監督、1991年、仏)
movie.walkerplus.com



探したけど
本作単体での
ポスタービジュアルの 
ちょうどいい画像がない。
5年くらいまえに 開催されたらしい、 
監督の作品の特集上映の
ポスターしか発見できなかった。

91年・・・
27年も前の映画か
それにしちゃ 
古さを感じさせなかった。

最初は
メディアプレイヤーの画面を
ちいさく表示し、
横目でちらちら話を おいながら
べつの仕事をしていたのだが、
だんだん画面を大きくしていき、
最終的には仕事そっちのけで
映画に夢中になってた。

おもしろかったんだとおもう。

「説明」というものが、 
いかなる意味においても
まったくない映画であった。
本作を観て
ちっともおもしろくない、
なにがなんだかわからない、
そういう感想を持つ人がいても 
わたしは驚かない。


描かれるのは
ゴッホの最晩年。
主人公や彼の周辺人物の心が
追い詰められていくようすが
あくびがでるくらいたいくつな
彼らの日常の風景のなかに
ぼつっ、ぼつっと描き出される。

容器のなかで 
ゴショゴショと混ぜすぎて
もう何色だかわかんないみたいな
ヘンな色の水彩絵の具を 
たらしたみたい。
エピソードの配置のしかたが。

ゴッホがなぜ死んだのか
(自殺ということになってるが)
なんで死のうと思ったか
歴史的には
はっきりわかっていないようなのだが、
本作を観てもわからない。
明確な理由があったかのように
解釈をつけて描く 
手法もあるのだろうが、
本作はすくなくとも
そうじゃなっていた。
まあ自殺であるとして、
死を決意したタイミングも
ぜんぜんわからない。

さっきまで家族と
たのしそうに食事をしてたのに
ひとり部屋に戻ると
引き出しから拳銃をとりだし
こめかみにしようか
みぞおちにつきたてようか
今ひきがねをひこうか やめようかと
撃鉄をひっきりなしに ならしながら
おいつめられた表情で思案する。

死を思いつめるほど
心がすさんでいる人って、
はたから見て 元気がないとか
ずいぶん荒れてる、とか
「自分はもうすぐ死ぬから」
とか思わせぶりなことを言うとか
なにか兆しがあるんじゃないの、と 
思いたくなるところだ。
そう一般的に言われてもいる。
だが ちがう、と本作は言う。
たとえどんなに激しく
追い詰められた心でも
その変化、変遷は、
はたからは まず見えない。
その切なさが、
よくよく伝わった。

主治医の娘マルグリットが
不器用ながら真摯に、
そして一貫して
ゴッホを「呼び戻そう」としてた。
彼の愛を もとめてもいた。
だが なにせゴッホ自身が 
彼女のさしのべる手をとらなかった。

愛されたからといって 
愛し返さすことは義務ではない。
さしのべられた手は
とらなくちゃいけない 
というわけでもない。
愛情をうけとろうとせず、
自分の思う孤独のままに
死んでいく人がいる。

なんて自分勝手なんだ、
こんなに愛してたのにと
のこされた人は おもうかも。
自分じゃだめだったのかと。
でも 
そういうことじゃないのだ。

心からつくせば、
あなたが必要だと叫べば
つなぎとめることができる
・・・と信じるのは、
美しい姿勢かなとはおもう。
それに結局、
周囲はそうするよりほかに
できることがないんだから。
でも 
その姿勢が絶対正しい、
そうすれば救えると信じることは
傲慢でもあるということを、
わかっていたい。
でないと、
なぜ止められなかったのか
自分の力不足だった
そんなふうに、
せんないことを
いつまでも考えてしまい
苦しむことになるんじゃないかな。

苦しむのはかなしいよ。
その人はみずから命を断った。
だが、
あなたの愛を
受け取らなかったから
死んだわけじゃない。
愛してなかったわけでもない。
また、受け取らなかった
かもしれないけど、
拒んだとは言えない。

ほかのことで
頭がいっぱいだったのだ。
愛について考えることよりも
そっちのほうが
だいじに思えていたから
なんじゃないかな。

わたしはそれが確認できて
いま、すこしほっとしてる。

マルグリットの愛は、
とても不器用だ。
ゴッホの心には届かなかった。
でも 
彼に愛してもらえるかどうか
とは無関係に、
ずっと続いていくものだったし、
強固なものだったのがよかった。

それが この物語の救いだった。
ほかの人の思いはどれも、
悪気はないが
長続きはしないし、
強固でもなかった。
死んでしまったから 
もうゴッホのきもちはわからないが、
マルグリットの
粗野で熱い愛情が
彼の魂のなぐさめになるはずだ、
と思わせる終りかただった。

ラストシーン、
マルグリットの
「ええ、
(彼はわたしの)親しい人だった」
というセリフに
ややおっかぶせるように
オーケストラ曲が場違いな大音量で
オネゲルかな? わかんないが)
鳴り響いたのが印象的だった。

愛する人に愛されなかった
なまなましい心の傷を
おもわせるとともに、
でも 前を向いて生きていく
彼女の強さを
あの決然たるフォルテシモが 
象徴してたようにもおもう。