BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

手記-其の拾(仮題)-20171202~20171203-接触-1。

2017年12月2日 土曜日。
自宅休養をおえたのち
4日 月曜から職場復帰する予定。

G夫妻の奥さんを
けっこうな長時間にわたりつきあわせて
メッセージのやりとりをおこなったところ
以下の問題がうかびあがり
そして 試みるべき タスクがみえた。

・すくなくとも経済的な面での不安感を
 すこしでも 払しょくしたうえで退職したい。
・何も考えずにゆっくり治療・休養に専念できるだけの
 時間がかせげるような、そんな辞めかたがのぞましい。
・失業給付と、健康保険組合傷病手当金にくわえ、
 調べてみたところ、職場に未払い賃金の請求を
 申し入れることが 可能そうだ。
・しかし、雇用契約書に不備があり 未払い賃金の
 有無と その正確な額面が じっさいのところ よくわからない。
・会社に書面で請求を申し入れるにしても、
 いまの状態では 適切な書き方が不明である。
・労働問題を専門とする窓口に、書面の書き方を
 中心に相談に乗ってもらうべし。

メッセージのやりとりをおえたのは
この日の 17時すぎ。
奥さんがネットでみつけてくれた相談窓口
NPO法人POSSEさんは 
週末も22時まで 電話相談を受け付けていた。
直後、窓口に電話をかけてみたところ
はきはきとしたかんじの
男性のスタッフさんが応対してくれ
手際よく 事情の聞き取りを行ってくださった。

自分は とにかくびっくりするくらい
頭が回らない状態にあり
われながら 何を言っているのかわからない、
といった ていたらくであった。
「仕事が忙しすぎてどんづまった結果 病気で倒れた、
続けられそうになく 会社を辞めざるをえない、
できるだけ安心して辞めたい、
あした会社に話すが 自分がとるべき対応について
おしえてほしい」
とか なんとかそれっぽいことを
それなりに いっしょうけんめい話したような
覚えはあるが、
もしわたしが聞き手の立場なら 
これじゃなんのことだかぜんぜんわからない・・・
と思ったにちがいない。

そもそも、せっかくG夫妻の奥さんと話して
「未払い賃金の請求をしたいが雇用契約書に不備がある、
 会社に要求書を提出するにあたり どう書いたらいいか」
と 相談したい内容を 
具体的にしぼっておいたというのに
ぜんぶ ふっとんでしまっているではないか。

メールやメッセージなら まだもうすこし うまくやれる。
書いて送るまでに 文面を考える時間があるから。
電話じゃなくメールがいいなあ~・・・と 
話す間 何度もおもったことだった。
ただ、メールだと、返信を待たなくてはいけないからな・・
電話ですぐに 窓口の人と話せるならそのほうがいいことは
たしかだ。いそぎでもあるし・・

スタッフさんは
そんなわたしの アワアワとした相談に
じつにしんぼうづよく つきあってくれた。

どうも こいつはいろんな意味で、
多方面にかなり おいつめられているな と 
潜在的な問題がかくれていることに・・・ 
お気づきになったようだった。
こういうかんじの相談に、
すごく慣れているんだろう。
おそらく自分などよりももっとしんどい環境におかれ
もっと体調も悪く 心もつかれきっている人が
たくさん この窓口を頼ってくるのだろう。
患者と、お医者さんの関係と おそらくにたようなものだ。
相談内容の うわっつらだけを聞き 真に受けるのではなく
そこにある潜在的な要求や悩みを
さぐりあてる必要があるということを
おわかりなのにちがいない。

わたしの場合もそうだった。
表面上は 
うまく辞める方法、という相談なんだけれども、
(それを相談したいこともたしかなんだけれども、)
ほかにもなにか・・・
というかむしろ そっちのほうが
(相談者本人にとって)重大、くらいの
困りごとがあるんだろう、といったような。

彼はわたしから、周辺事情をすこしずつ聞き出していき、
そもそもの発端である 11月末の昏倒の背景に
上司による連日の叱責からくる
「(いわゆる)ストレス」があったらしいこと、

つまり パワーハラスメントの存在を 
つきとめてしまった。

「どなったり、ものに当たったりするのは、
たった1回だってアウトなんですよ」。


スタッフさんが言うには、
・未払い賃金の請求にはタイムカードなどの証拠が必要
パワーハラスメントの証明にも 録音や、言われたことの
 メモなどの証拠があったほうがよい

とのこと。
まあそれは そうだろうな。

タイムカードのコピーは
ぜんぶは さすがに持っていない。
ただ、4か月か・・・6か月分くらいなら、持っている。
まえに職場の先輩が、
「いつか辞めるときぜったい残業代
 請求してやるんだもんねっ!」などといって、
自分のタイムカードを毎月コピーして 
とっておいていることを 明かしているのを聞いたのだ。
それで、いっとき、
「自分もそうしたほうがいいのかなあ」
などと考え、コピー&保管を試みていた時期があった。
短かったけど。
タイムカードの打刻機と 
コピーをするのに使う印刷機が、
どちらも 専務などの席の真後ろにあるものだから、
なかなか やりづらくて、やめてしまった。

※しかも このあとまもなく判明したことだが、
未払い賃金などの請求には
退職日からさかのぼって過去2年、という時効がある。
わたしがタイムカードのコピーを試みていたのは、
たしか入社してから1年経ったか経たないかくらいのころだ。
わたしは勤続4年になるところ。
とってあるタイムカードを証拠として
仮に請求をしたとしても、
これは無効となるのだった。※

また、
ずいぶん前のことだが、職場の先輩から
聞いたことがあった話を
窓口の人と話しつつ、
思い出していた。
昔 わが職場に在籍していた人が、
やはりわたしと同様
未払い賃金の請求を企図したものか、
退職後に、タイムカードの提出を会社に求めたようなのだ。
しかし、
会社はのらりくらりと 半年以上もかわしつづけて応じず、
けっきょくタイムカードは 出してもらえなかったという。
・・・

上司の叱責の 録音データなども 
わたし、とってないなあ。
業務日報とか日記的なものもとくに
つけていないし。
(忙しくて、そんなものを書いているひまがあるとはおもえなかった。)
わたしの頭にはもちろん、
言われたこと されたことが
忘れたくても忘れられないほどつよく
きざみこまれているけれども。

立証は、きびしいのかもしれない・・・。

ところで、
スタッフさんは 
月曜にひかえた 職場復帰についても
アドバイスをしてくれた。
自分は窓口であり 専任の相談員ではない
専任の相談員からいそぎ 追って連絡をさせるが
週明けの職場復帰までに それが間に合うかわからない。
できれば月曜は有給休暇を使って休み、
時間をかせいでほしい。
出社してもかまわないが、
退職について話をつめよう という流れになった場合、
「やはりちょっと迷っているのでいったん保留に」
とでもいって 先延ばしにしたほうがよい。
上司のパワーハラスメントについては、
今からでも、レコーダや録音ソフトなどを終日
回しておき、上司の発言を逐一録っておきなさい、と。

専任の相談員さんからの 連絡を待つことにして
電話相談をおえた。
さて・・・
まあ なんだか いろいろ
望み薄かな?というかんじはしたが・・・
話を聞いてもらえて気分がすこし すっきりしたようだ。

電話をおえて、
G夫妻の奥さんにその旨 報告。

上司のパワーハラスメントの証拠集めとして
録音を試みるようにいわれたことを 話したが・・・

「・・・でも、上司がとくに わたしをつるし上げた
直接的な原因となった仕事は、今週いっぱいくらいでもう
終了しているはずなんです。もともと、理由もなく怒る人
ではないから、もう、わたしのことをあれほど
怒鳴りまくることも ないんじゃないかなと」

と、
ここまでくると 
われながら 涙ぐましいほど楽観的。
そして結局
「・・・
 はい、月曜日は出社します。
 専任相談員の人と話すのが間に合わなかったとしても」。

いやいやいや・・・・。
おまえはいったい これまで だれからなんの
話を聞いてきたというんだ・・・
人さまの忠告が なにひとつ 耳にはいっていない!!

奥さんも さすがにあきらめたか
だーから、会社に行くのはやめておけってのに、
とは もう言わなかった。
「無理していないというあなたの言葉を信じる」。
しかし、
「出社するなら常時録音はしておこうね」と
やんわり 再度 忠告することは
わすれないでいてくれた。

・・・・・・・・・・・・・・・・

翌12月3日 日曜日。
歩いて行ける距離のところに住んでいる
友人宅をたずねた。
たちのわるい酒飲みのうえにヘビースモーカーのくせして
味覚が鋭敏で 料理じょうずな彼女は、
病み上がりのわたしの退院祝いにと
あたたかい鍋料理をつくって 
ふるまってくれた。

この人・・・Nさんと わたしは同年齢だが
彼女は 広告代理店時代のわたしの直属の先輩にあたる。
わたしは のちに転職したのだが
彼女はずっとその会社で働き続け
いまや会社に欠かすことのできない
ベテラン社員となっているのだ。
わたしたちの友人関係は
一緒に働かなくなってからもずっと続いている。
むしろ 離れてからのほうが
おたがいになんでも話せるような 
どちらかが困ったときにはどちらかが支えるような 
固い信頼関係がめばえた感がある。

といっても ここまでの人生 9割9分がた
わたしのほうが困ってて 
わたしのほうが支えてもらっているんだが。

2017年11月27日、
倒れるまえ、
さいごに連絡をとった相手が彼女だった。
といっても メッセージのやりとりをしたことを
ほとんどわたしは覚えてないのだが・・・。

入院生活にはいり、
救急搬送のどさくさで
職場におきっぱなしになっていた携帯電話が
バイク便で 病院にとどけられると、
充電が切れる寸前の端末から
わたしはまず 彼女に 現状を報告した。
メッセージアプリに
搬送された日の昼間、彼女とやりとりをした履歴が
のこっているのを発見したからだ。

「倒れてしまった。」
「Nさんの言ったとおりになっちゃいました」

・・・

「はっきり言うけど、
いまの〇〇(わたし)には
なーーんにもできないのよ。」
「仕事のことはもう置いといて
とにかく休むんだね。仕事とかなんてのは
どうせ なるようにしかならない」

・・・

ごはんをいただきながら Nさんに
おそらく退職することになると話した。
Nさんは
「そりゃそうでしょ。」
わたしの顔を見にきてくれた 
後輩のOちゃんも
当然でしょう、死んでしまう。
むしろもっと前に決めてても、迷わず賛成した。
リミットがきただけのこと、と。

「また、失ってしまった。
ここでも、必要だと言ってもらえなかった。
自分の居場所ってどこにあるんだろーか。」

ヘヴィーななきごとをもらすわたしを 
ふたりは

「体が丈夫じゃないのはわかりきってる。
居場所とか 能力がなくて必要とされなかったとか 
そういうのじゃないよ。」
「また うちの職場に短期間でも もどってくるなりして
調子をとりもどしながら 考えればいい。」
と はげましてくれた。

※またうちの職場に・・・、というのは、
・・
わたしは 辞めたあとも 
かつての職場である この広告代理店の人びととの
つながりを 保持してきた。
転職活動中のすきま期間に Nさん経由で紹介をうけ
この会社にまいもどり バイトをさせてもらったことが
以前、あった。 
すくなくとも人間関係などの面では
なんの気まずいこともない 円満退職であったため
そんなことが可能だったのだと おもわれる。
おかしな話だとは思うが、
いわば この職場は・・・
この職場ではたらいていたときにきずいた人間関係は・・、
ほんとうの家族とのむすびつきが
どうにもよわい わたしにとって、
第二の故郷のようなものだ。

・・・・・・・・・・

退院後、
家族から見た自分は 
決定的に何がどう・・・というのではないが
でも何かが確実におかしい、何か安定感に欠け、
どこかふわふわとして、ほうっておけない、
というかんじだったらしい。
本人が いかにももう大丈夫、もう元気というかんじで
「いつもどおり」にふるまいたがるのが
どうもちぐはぐで、気味が悪いといったふうだったらしい。
しかもそれがなかなか改善されないため、

とくに兄にはかなり心配をかけていた。

ちょっと近所のコンビニに行く程度でも
家人に行き先と帰宅時間を告げてから出るようにと
もうしわたされ、
「携帯電話の常時携帯」も厳命された。
門限は22時に設定、遅れる場合は連絡を
いれるようにとも 約束させられるしまつだった。

わたし自身の当時の感覚としては、
ふわふわしている・・・というのは
ぴんとこない。
でも、
生活のあらゆる面において
パフォーマンスの低下が顕著であることは感じていた。
とにかく何もないところで転ぶし、
ぶつけるし、おっことすし、字を書き間違えるし、
いろいろなことをすぐに忘れる。
歯磨き粉で顔を洗うし、シャンプーで手を洗う。
からまったコードをほどくとか、
ボタンをとめるとか、そういう
こまかい作業がぜんぜんできなくて、
しかもできないことに 妙にいらいらする。
なにか奇妙にのどがかわく。
すぐ疲れる。
そのくせぜんぜん、夜、眠れない。
耳鳴りが気になって、人の話が理解できないことがある。
また、これはほんとうに当時 こまったのだが、
頭痛というか、左側頭部にラップがはりついたような 
違和感が 搬送直後から退院後にいたるまで
ずっとつづいていた。
この感覚は 生まれてはじめてではなかった。
自分の経験では、この違和感がだんだんと
眼の奥のほうなど 一か所に集約されていく感じをおぼえ、
やがて本格的かつ激しい頭痛が始まる・・
頭痛の前ぶれ、文字通り 頭痛の種としての
「頭にラップ巻いてる感」なのだ。
(ま、でも、鎮痛剤のんでちょっと横になれば
すぐ おさまるたぐい。)
でも今回に限っては、
違和感が何日も続くだけで、いくらびくびくして待っても
激しい頭痛には発展してこないものだから、
ヘンなかんじがしてはいた。
(長く続いたこの違和感は幸いにも 
のちに ゆるやかにひいていき
2018年2月のおわりごろには、すっかり消えた。)

まあ、率直に言って 
こりゃ 半病人だ。
これを元気とは、いわない。
でも、よくなっていってないはずがない、とおもっていた。
退院したんだし、もう元気な人として扱われるべきだと。
そうじゃなくちゃいけない とおもってた。
そして、翌4日 月曜日には
これでふつうに 職場復帰するつもりでいた、
退職にむけて動きだすつもりであったにしても。























手記-其の玖(仮題)-201712**-初旬-起こり-2。

さいきん 人にやさしくする、ということについて
いろいろ 思いをめぐらせたりしている。
わたしは、なんて
人にやさしくすることができない人間であることか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このたび 自分がいまだ渦中にある
とある闘いにおいて
多大なサポートをいただいている
G夫妻という存在については
前回の項で紹介したとおりだ。
ただ、おもったんだけれど
今後 当ブログは
登場人物がすごくふえる予感がする。
それらの人物たち全員を 今のように 
アルファベットを利用した仮名表記にしたら
なにがなんだか わからなくなってくるかもしれない。
場合によっては なにかほかの 仮名表記のしかたを
考えたい。
たとえば下川さんだったら 上山さんにするとかさ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて
退院した週末、自宅休養しつつ
わたしはG夫妻に このたびのことの事情と
退職の意向をうちあけた
G夫妻の奥さんのほうは、
わたしをちからづよく励ましてくれ、
ご自分の総務関連の知識を活かして
わたしが安心して退職→休養できるようにするために
とりうる選択肢をアドバイスする、と申し出てくださった。

わたしは これは辞めるしかないかも
わからんなと思いつつ
思っているだけで、実際的なことは
あんまり深く考えていなかった
(なにせ体調が悪く 頭がまったくまわらないうえに
わりと、生来のぼんくら気質である)。
でも、辞めたあと しばらくなにも心配せずに
休養に専念するようなことが 可能な辞めかた・・・なんて 
もしほんとうにあるのだとしたら
それは助かるよなあ・・・とおもい
奥さんに 助言をあおぐことに決めた。

2017年12月1日のことだ。

2017年12月2日の夕方ごろから
奥さんによる質疑応答形式のレクチャーが開始された。

いちおう、年内退職の方向で話は進められた。

職場の締め日は毎月20日だ。
週明けに 退職を願い出た場合、
はやければ
2017年12月20日付で退職となるだろう。

出版業界には
「年末進行」という魔の期間が存在する。
どんな業界にも似たようなあれはあるとおもうんだが
一応説明すると、
出版業界における年末進行とは、
年末年始に、製本所や印刷所といった製作工程部門が
冬休みで閉まってしまうために、
原稿制作・編集工程部門
(ここではわれわれ編集プロダクション)の締め切り日が
いつもよりもさらにさらに 繰り上がることをいう。
イメージしにくいかもしれないけれど、
まあ、すごく大変だ。ということだけ
なんとなく想像していただければけっこうだ。
年末進行にあたる11月中旬~12月中旬の編プロは
けっしておおげさでなく 殺人的に忙しくなる。

そんななか自分ひとり 辞めることが
ゆるされるかわからない。
が・・・。

また、
仕事を辞めるとして、辞めるまでの20日間を
どう過ごすかについて考えたとき・・・
つまり 半病人だけに・・・もし可能であるなら
有給消化のかたちで 
休みたいときゆっくり休むことができればなあとか
夢想したとき、
気になることがひとつあった。
ふつう 会社勤務の場合
法定の年次有給休暇が発生するはずだが
わたしの職場で この有給休暇ってものが
いったいどうなっているんだか
まったくわからない状態だったのだ。
すくなくともわたしは
自発的に「これは有給休暇だ」と認識したうえで
休みをとったことは
この職場において 一度もなかった。

奥さんはわたしのまとまりのないメッセージから
そうした事情を把握していきながら、

「そういう手続きをやる 総務みたいな人って誰?」と。

職場の営業兼・実質的責任者は専務だ。
しかし、
総務関係は 専務の御母堂であるところの社長が
担っているのではないかとおもわれた。
かくしゃくとしておいでだが高齢であるし
どこまでいろいろ ちゃんとわかっているのか
たまに会話するときの感触でいくと 微妙な気はするが・・・
でも 総務関連のことをやっている可能性がある人といえば
社長しか考えられなかった。
専務は正直、そういうのなにひとつ
わかってないってイメージ。
だれひとり なにひとつ わかってないっていうのは
さすがに考えにくいし。会社なんだからね。

そのことを奥さんに話すと、
奥さんはわが職場が 中小の 
しかもいわゆる同族企業であることを知り、
今回の件を 考えるにあたって
警戒レベルをちょっと高めに 再設定したみたいだった。

彼女はさらに わたしから
加入している社会保険、および
給与明細の記載項目、
加えて 入社時の雇用契約について
ヒアリングしていった。

社会保険
加入している。
社会保険料雇用保険、厚生年金の各項目が
給与から引かれる形となっている。

・給与明細に・・
残業手当、または職務手当といった記載は、ない(涙)。
あったとしてもその額が明記されてはいない(涙)。
また、給与にかんしては
「所定時間外労働あり
基本給与〇〇万円(裁量手当含む)」
との記載がみられる。

・有給休暇
年次有給休暇の概念はいちおう
わが職場にも生きている。
だが自分がとったことのある休み(病欠とか)と
有給休暇の関係(病欠したあの日に有給が充当されたのか
どうか・・、っていうようなこと)は わからない。

雇用契約
雇用契約をむすぶとき、雇用契約書はあった。
契約時に面談した社長に申し出て
コピーをとったので
写しを手元に持っている。

・職場の規模
年中 人がいれかわりたちかわりするが、
13~15人でだいたい推移している。

就業規則
就業規則書、みたことがない。
入社時に、もらっていない。
職場のどこに置いてあるか、不明である。

・タイムカード
存在する。
夜23時を回った時点でいったん退勤打刻することが
暗黙の了解となっている。
また、20日締めであるからなのか、毎月20日には、
定時の夜19時になった時点で専務が勝手に
全員分 退勤打刻し、
カードを回収する。
そのため20日は、19時以降にいくら残業をしても
記録に残ることはない。


・・・
奥さんいわく
中小で同族企業にありがちなパターンで、
経営者側が、総務・法令順守を徹底していない可能性がある。
あまりよくわかっていないで労務士やらにまかせきりに
しているか、
わかっているんだけれど意図的に無視しているか。

わたしの退職をめぐって
わたしの職場にかくれている可能性のある問題は
ふたつに大別できるとのこと。
ひとつは労働報酬面、
もうひとつは退職関連面。
(病気で辞める、という事実を含む)。

奥さんは、労働報酬についてのことから
先に考えようと提案してくれた。
わたしが退職するにしても 退職でなく休職などを
することになったとしても 
職場にかかわるかぎり 労働報酬のことは
つづく問題であるからだ。

彼女は、<前提>として
労働基準法の順守義務をあげた。
雇用主がこれを守らない場合 ペナルティがあること
守る義務があるのは
「入社時に、賃金や労働時間を労働者に明示すること」
「時間外や休日に労働させた場合は割増賃金を払う」
「一定の有給休暇を与える」
などのことだ。

しかしながら、わが職場ではこれが
守られていないとみられる。
とくにわかりやすいのは、残業代だろう。
平日・休日出勤時に残業代が発生しているはずだが
支払われていない。
専務が勝手にタイムカードを押してしまうときも
月に1回あるとはいえ
それ以外の日は、定時以降23時までは
残業した記録がカードに残っているのに
そのぶんの残業代が 出ていないのだから。

また、給与明細にみられる
「所定時間外労働あり
基本給与〇〇万円(裁量手当含む)」
という記載。
奥さんいわく、
この「裁量手当」が
残業代にあてられているとみられるとのこと。

えーと

どういうことかは追って 
もっと深く、詳述させていただくが、
これは、いまおもえば、
裁量労働制」に関連する 
発見だったとおもわれる。

裁量労働制っていうのは・・
日本の 労働時間制度のひとつだ。
・・ある仕事をするとき、どんな時間配分で、どんなやりかたで、
どういうふうにすすめても、労働者の自由。出退勤も自由だ。
約束の期日に、指示されたとおりに仕事をすませさえすれば。
といっても 所定労働時間(月にこのくらいの時間働くでしょう、
という時間)はあらかじめ決めておく。
もし、所定労働時間を8時間ということにした場合、
仮に10時間働いても15時間働いても、
いや、8時間働いたのだ、ということになり、
差分の(実態に即した)残業は原則みとめられない。
ただ、この「所定労働時間」も法律の範囲内で設定しなくちゃ
いけないことになっていて(1日8時間まで、週40時間まで)、
これを超えて働く可能性がある場合は、36協定という
労使協定をとりかわす必要がある。
所定労働時間を超えて働いたら、別途、割増賃金が
支払われることにもなっている。のだが、そこは、
「まあ毎月このくらい残業するでしょう」としてあらかじめ設定される
「みなし残業代」(固定残業代とかいろいろな呼ばれかたがある)
で対応されるのが ふつうみたいだ。

「どういうふうに仕事をすすめてもあなたの自由。」
つまり「裁量は 働く側であるあなたにある」。
高度あるいは専門性のたかい技能をようする職種・・・
われわれのような 出版編集、放送関連などなど
特定の業界、職種にのみ適用され、
労使協定をむすぶなどの 一定の手順をふまなければ
もちいることができないシステムだ。

・・・
奥さんいわく、
わたしの給与明細にみられる記載
「基本給与〇〇万円(裁量手当含む)」の
「裁量手当」が、
「みなし残業代」「固定残業代」にひとしいと
考えられる とのこと。

「『裁量手当』が、固定残業代にあたる感じだけど、
それが実態とあまりにかけはなれるのはまずいものなの。」
「裁量手当の額がいくらなのかと、実際に残業として
どのくらい働いているのかによって 問題の程度がかわる」
「そして、深夜労働はそれとまた別問題」。

ちなみに、雇用契約書を読むかぎり
裁量手当について
「月〇〇時間労働したものとみなして〇〇円支給する」
といったような記載は
なかった。

それを確認したとき、わたしは、
社会人経験1年目の職場であった
広告代理店のことを 寒気がするような感覚とともに
いっきにおもいだしていた。
求人広告をとりあつかう仕事であった。
わたしたち従業員は、
労働基準法の基本などについて
ひととおり学び、検定試験を受けて
社内資格に合格する必要があった。
だからあのころは、ほんとうにさんざん勉強したものだ。

そして、求人広告の制作には こういう大前提があった。

「求人広告の給与項目は、その額の内訳が
明記されていることがのぞましい。つまり、
読者が、その求人情報上で、自分が月何日働いて
何時間残業した場合 何円給与をもらえるか・・・を
自分で計算できるようになっているべきである。」
それは、
「企業における雇用契約書の給与欄が、
原則的に、そうであるのに準じて」。

ひっくりかえせば
企業の雇用契約書の給与欄は 原則的に、
労働者が 
自分が月何日働いて何時間残業した場合 
何円給与をもらえるか・・・を
自分で計算できるように
書かれていることがのぞましい、のだ。

忘れてた。
思い出した。
なんで忘れていられたのか。
この雇用契約書には 重大な問題があるじゃないか。
ぜんぜん気づかなかった・・・。
そのことに、入社4年にもなろうという・・・
そして 立ち直るのがむずかしいレベルで体調を崩し
辞めざるをえないとまで感じる いまになってようやく
気づいた。

内心 自分のアホさにがくぜんとしつつ
奥さんのレクチャーは続く。

奥さん
「裁量手当(「裁量労働制」)については、法律上、
具体的にみなし残業時間を定めることになっていて、
実態でその時間を超えたら、超過勤務分を
別途支払う義務がある」

わたし「そうでしたね・・。」
(広告代理店にいたとき毎日かならず読んでいた
労基法関連の冊子を思い出しながら・・・(涙))

奥さん
「ね。だから、
(超過分が支払われていないのだとしたら)
支払いを要求することはアリよね。
労働報酬については、このとおり、おそらく未払い分がある。
雇用契約書も不備だし、支払い要求をするのに時間や
手間はかかるだろうけどね。」

奥さん
「お金のことをさきに整理しよう。
この場合、退職にあたって
①会社の協力がなくてももらえるお金
→失業手当
②もらえる可能性があるお金
(会社の協力が必要だが、協力なしでもなんとかなる)
傷病手当金
→未払いの残業代」

奥さん
「未払いの残業代は、会社と争ったりしなくても
払ってくださいと申し入れれば払ってくれる可能性がある。
社長さんて、払ってくれそうなかんじの人?」

わたし
「確証はないけど払ってくれそうかも。
払って、という要求を書面にして
提出すればよいでしょうか」

奥さん
「実際に未払い分があるかどうか、雇用契約書から
推測できないんだよね(→そうだね!!)。
だから、提出するにしても、どういう書面にすればいいのか
決められない。書面のほうが、いいとはおもうけど。
書面の内容を、労働の専門家に相談したほうがいい」。

わたし
「はい、
(契約書上に算出ルールが記載されていないから、)
未払いの残業代とは何なのか、がわかりません」
「(明日、職場復帰して、退職の意向を上司に話すつもりだけど)
会社でまだしないほうがいいこととか、言わない方がいいことは
あるでしょうか」

奥さん
「自分の意思で辞める、そのことをあした話す、
そして現時点で、書面でもメールでも まだ
退職の意思を明示していない、のであれば
あしたは、まだ、
未払いの残業代を請求するつもりです、みたいなことは
言わないほうがいい。
要求書を提出するまえに、証拠隠しをされたり、
雇用契約書を改ざんされたりするおそれがあるから。」

なるほどなあ・・・

奥さん
「でも、いまの体調は、
職場復帰できるくらいのかんじなの?
もし、復帰できるくらい体調がいいのだとしても
週明け月・火くらいは休んで、労働相談窓口とかに
行ったほうがいいような気がするよ。
有給は1年に10日もあるし、
有給使うのにいちいち理由とか言わなくていいんだし。
なんなら やっぱり調子悪いから・・とか言って、
月曜休んで 窓口に相談にいったら?」

わたし
「たしかにおっしゃるとおりですが、会社にすでに、
月曜から復帰するって言っちゃったからなあ・・・
入院してからこっち、いろんな人がわたしの仕事を
かぶってくれていますし。
これ以上は休めません・・・」

(→この期におよんで 社畜の発想。)


奥さん
「わかるよ でもね、そういう状況になっているのは
マネジメントが悪いせいであり、あなたのせいではない」

じつはこのやりとりをしていたとき
わたしは くだんのコインランドリーにいた。
この瞬間 わたしは
きかんしゃトーマス発作」第1回にみまわれ卒倒。

なんなんだ??? なんで倒れたんだろう・・・??
倒れる直前 一瞬 会社の光景が目の前に
ひろがったのは あれはいったい・・・???
グルグルと考えまくりつつ
店内でしばらく休んだあと 自宅に戻り、
ベッドの上に落ち着いた。
数十分後、やりとりを再開し
長い時間をかけて また 奥さんと
話し合っていった。

家に戻ってベッドのうえでパソコンを開くと
とつぜん連絡がとだえたわたしを
心配してくださっている
奥さんのメッセージがいくつも届いていた。

奥さん(倒れた事情を知って)
「やっぱり調子は悪そうだね 
ふつうにやっぱ月火くらい休んだら。
無理して出て、また倒れたら・・・」
「体は正直だよ。心のほうが、ごまかしがきくの。
やばくなると 脳が心をごまかすから
むしろ元気がでてきたりするよ。
それのままいくと、体が音を上げるの。」

そのとおりだ。わたしは
もう自分の「大丈夫!」が
まったく信用できなくなってきていた。

わたしは、奥さんに
すでにして 漠然とながら思い至っていた
さきほど倒れたことと
きかんしゃトーマスの走行音(に似た音)」の
関係について告白してみた。

奥さんは
「あなたがおかれている状況が
かなり理解できた気がする。
話を聞かせてもらえてよかった」
といってくれた。

奥さんは、わたしが
会社に 未払い残業代の要求書を提出するにあたり
その書面の内容について助言してくれそうな
相談窓口を インターネット上からいくつか探し
紹介してくれた。

そのなかに、
NPO法人 POSSE」の名があった。

奥さん
「対象年代的にもちょうどあてはまってるし
無料で夜22時まで相談受付ってのがすごい。
ここならいまから問い合わせても受け付けてもらえるね」

www.npoposse.jp



自分もサイトにアクセスしてみた。
どうしようもなく頭の回転がにぶっている自分でも
わりと 読んでみようかなという気になるような・・
個人的に好きなかんじのレイアウトの
サイトトップが ぱっと表示。
(誰にとってもそうであるかは、わからないよ。
もちろんね。)

あ、ここならなんか・・・
なんか・・
大丈夫な気がする。

「さっそく連絡してみます」。

これが、
のちに自分のとある闘いを
強力に支えてくれることとなる
労働組合「総合サポートユニオン」との
出会いのきっかけだった。










寺山修司作品へのすこしの関心を満足させる

寺山修司のことを考えることが 
やや増えていて
彼の著作で手持ちのものを ひっぱりだし
とりあえずぜんぶ 読んでみた。

幸福論
家出のすすめ
書を捨てよ、町へ出よう
不思議図書館
さかさま世界史英雄伝
誰か故郷を想はざる
馬敗れて草原あり
戯曲毛皮のマリー/血は立ったまま眠っている
あゝ荒野
寺山修司青春歌集

ほぼ角川文庫。
あゝ荒野だけ河出文庫


わたしは 詩をまるっきり解さないたちなのだけれど、
寺山修司は 詩人だ。
涙が出てくるくらい純粋な。

理論でなく感性でうけとる必要がある。
感性なんだから、べつに、
なにもわからなくても、触れてかまわない。
けど、なにもわからないのに触れるのでは、
じっさいのところおもしろくもなんともないのが
寺山修司作品であるとおもう。

この人は、あらゆる種類の、
あらゆる時代の美というものを
コンテンポラリーにして 
出血大放出しちゃってる。
なにもかもごっちゃまぜにひっくるめてのみこんで、
しかもおそろしいことに
すっかり自分の血肉にしてしまっている。

「まっくらになりました。
だが、コブラや亀は頭をもたげ、さそりは立ちあがり、
短剣は肉を切り裂くために身をかがやかし、
月は真っ赤に地獄を照らす。
聖なる女衒は港町へ去り、
あとに残った男たちは、互みの心臓の海に
情欲の錨を投げあい、求めあい、
帆柱をこの手で熱く熱くこすりあいながら、
馬よりも逞しい死を死のうとする。」
(「毛皮のマリー」)

ジャン・コクトー、ベルク、フェリーニ
パゾリーニヴィスコンティ
ギリシャ古代演劇、歌舞伎にお能
常磐津、新内、長唄
見世物芸、民謡、大衆歌謡、
シャンソン、カンツオーネ、リート、オペラ
そのほかいろいろ、いろいろ。
なんでもかんでも飲み込んでかみくだいてきたことが
ぐいぐい伝わってくるし、
時代もジャンルも関係がないみたいだ。

時代もジャンルも関係がない。
ここがすごい。
いうのはかんたんだけれど
こんなことはふつうできるもんじゃない。

時代もジャンルも関係がない。

信じられないくらい 許容範囲がひろい。
しなやかで 貪欲な感性の持ち主だったらしいことが
弱いもの、負けたものにやさしいまなざしを注ぐ人だったことが
ほんとは 汚いものをできれば見たくなかったのに 
鋭敏すぎる感性が彼にそれをゆるさなかったことが
どの作品を読んでいても よくわかる。

寂しがりやだったのかも。
自伝みたいなものもいくつも出してるけれど
ココ・シャネルみたいに なにがほんとでどれがウソだか
よくわからないようなところも多々あり
信用ならないのだが。

彼の思想からは
ひとりっていう発想じたいが ふしぎと
あまり現実味をもっては感じられない。
なんでもいいからいろんなものや
いろんな人にいつでも 囲まれていなくっちゃ、
というタイプの人だったのかもしれない。
ひとりじゃ ごはんがたべられないような。
でも、そうやってみんなにそばにいてもらうことを
当然のごとく要求しすぎてしまうために
ときに、かえってまわりから人が離れていく、
ということもあったかも
幼年~少年時代にかけて、おそらく
いわゆる普通の家庭環境ではすごせなかったのであろうことが
けっこうはっきりとわかってくるものだ。
とくに父なるものの不在、
というよりも お母さんとの相~当~に複雑な関係。

それは「田園に死す」とかに。

「眠る母見れば 白髪の細道 夜の闇
むかし五銭で 鳥買うて とばせてくれた顔のまま
仏壇抱いて高いびき 
長子 地平にあこがれて 
一年たてど 母死なず
二年たてども 母死なぬ
三年たてども 母死なず
四年たてども 母死なぬ
五年たてども 母死なず
六年たてども 母死なぬ
十年たちて 船は去り
百年たちて 鉄路消え
よもぎは枯れてしまうとも
千年たてど 母死なず
万年たてど 母死なぬ
ねんねんころり ねんころり 
ねんねんころころ みな殺し」

こんなもの、完全なつくりものじゃ 絶対に書けないよ。

・・・ともかく、
「なんでもいいから何かに囲まれていたい」
という たちの人だったとしたら、
どんなに通俗的、大衆的にすぎるものでも
かならずやそこに美、詩、気品を見出して
ごくごく飲み干すことができた 
というのもわかる気がするのだ。

ただ そうなると、
寺山修司の作品に触れたいならば
こちらもあらゆる種類の美意識を
できるだけおおく、できるだけ深く知り、
心にしみこませたうえでないと
そうでないと ぜんぜん 理解ができないんだとおもう。

時空を超えてぜんぶが「今ここ」という意味での
コンテンポラリー感は 
なにも寺山修司の専売特許じゃない。

同じ時代の人で すぐ連想されるのは
三島由紀夫

ただ、三島は寺山修司とあきらかにちがう。

三島作品にわたしがかんじるのは 
ここまでやるかという人工美
都会っぽさ、上流階級志向
(平岡公威はほんとはぜんっぜん
そういう人じゃなかったはずだが、だからこそなんだろう。)
見た目的になにか貧乏くさいもの、いなかっぽいもの、
とくに日本の小汚さ、まずしさを感じさせるものは
それがなんであれ徹底的に排除、
そのうえに構築されたのが 三島文学だとおもう。
※あの人はサドとかレアージュみたいな
西洋的「デカダン」は 「いいね!」だったみたいだから・・

わたしは三島文学にかんじられる
徹底した人工美への傾注には
正直なところ 何回読んでも あんまりなじめない。
すごくおもしろいのだが。
(でも「憂國」と豊饒の海の「天人五衰」はすきかな・・・)

寺山修司三島由紀夫の決定的なちがいは、
日本的な自堕落性、退廃、反権力(太宰治のような。)を
受け入れてたか否か、にこそ
あったんじゃないかなと感じる。



こういうときはこういうこと・・・
引き寄せというか
タイミングのよさというか
シンクロニシティというか
が案外あるものだな、とおもうのだけど、

目と鼻の先にある はとこの家を
はとこの おばあさんの顔を見に 訪ねたところ
たいへんな文学少女だったらしいおばあさんが
わたしを学友かなにかとかんちがいしたのだろう
いつもの 本やらレコードやらの貸し借りのつもりなのか
わたしからすれば文化財級に貴重な古書や レコード、
ビデオテープ、レーザーディスクを 
1回では持ち帰れないくらいたくさん
もたせてくださった。
レーザーディスクってどうやって観るの??)

古書だけでも
レアージュ鶴見俊輔レヴィナスマラルメレールモントフ
セリーヌ、谷崎、吉本隆明バタイユ高橋和巳
フッサールハイデガー、ユンガー、フェヒナー、
湯浅博雄、三島、ブランショマルケス、サキ、
バシリエヴィチ・ゴーゴリ立原正秋デリダランボー
チェーホフヴァレリー、サルトイコフ・シチェドリン

おばあちゃん・・・・ すごいね・・・
なんだかこわいよ・・・いったいどんな学生だったの。

そうしてそのなかに おどろいたことに
天井桟敷78年初演版「身毒丸」の公演ビデオが。
みつけたときは 指がふるえた。
まだ 観ることができていないが 
ぜひ時間をつくって鑑賞したい。

はとこのおばあちゃんは じきに100歳に手が届く。
わたしの係累は 早死にで 
戦死でなければことごとく60代そこそこで
(全員ガンで)なくなっているのだが、
このおばあちゃんだけとても健勝で すごく長生きだ。

さすがに 弱ってきているし
わたしを女学生時代のお友だちと信じて疑わないとか
そういうのも ありはするのだが、
おだやかにおっとりと 暮らしておられて、
行けばいつも、やさしくむかえいれてくれる。
園芸の達人で、5~6年くらいまではお庭でいくつもの
鉢植えを 年中きれいに咲かせていた。
いまや 話しても内容がすこしもかみあわないし、
たぶんわたしが話すことの意味なんて
わかっていないとおもう。
ご自分でご自分がなにを話しているかも
あんまりわかっていないのかもな、と
でも、
わたしはこの人のことがすきだ。

わたしは 自分の家族とは ひどい没交渉の状態にある。
(これでも努力して 多少の改善はみられているのだが。)
たとえこんなに近くに暮らしている
親戚のおばあさんのことでも、
もしものことがあったとき、たぶん家族はわたしに
知らせてはくれないとおもう。
だから、わたしは叔父にあらかじめ、しつこくたのんである。
はとこのおばあさんに いつかそのときがきたならば、
わたしの家族がわたしにそれを知らせたか否かにかかわらず、
かならず叔父の口から教えてくれるようにと。




小林賢太郎さんのコント公演 KAJALLA #3 『働けど 働けど』-180304。

ラーメンズ小林賢太郎氏主宰コント集団
「KAJALLA」第3回公演
「働けど 働けど」をみてきた。
神奈川芸術劇場 ホール 14:00開演)

kentarokobayashi.net

 

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音楽やパフォーマンスを観るのには
ライブがいちばんだ
そして、
ライブは、その完成のために、
鑑賞する側のコンディションてものが、とてもたいせつだ。
鑑賞者となる者は、コンディションが良いとは言えないと
自分でわかるくらいならば、
たとえプラチナチケットだろうが 
一緒にいく約束をしてる友人とかに迷惑をかけることになろうが
そのライブに行くべきでない。
(ほかのことではこんなふうにはおもわないんだけど。)
つまりいちばんだいじなのは
ライブそれ自体なんだとおもう。

わたしは今回、ギリギリどちらか 
微妙なラインの 真上にいた気がする。
観に行ってる場合じゃなかったかもしれない。
前日まで 行かないほうがいいようなかんじがしてた。
地元の最寄りの駅までとりあえず歩いて行ってみて、
ダメだとか イヤだとか かんじるなら 
引き返せばいい、とおもって
そのようにしてみた。
ダメだとまでは感じなかったので
そのまま日本大通り駅までいき、
そのまま神奈川芸術劇場にいき、
そのまま指定席につき、コートをぬいで、
だまって座って待ち、
そのまま開演時刻をむかえた。
客席が暗転していくのをみるあいだ、
「やっぱりくるべきだったんだろうな」
多分・・、というようなことを おもってた。

「働けど 働けど」は、よかった。
基本的にはただ
げらげら笑って観ていればいい 2時間だったんだけれども、
どのシーンも妙になにか 身につまされたのは
わたし自身のここ数か月の体験や
現在の境遇が多分に関係していたんだろう。
そうでなければ 笑って観ているだけで、
「笑ってればいいだけのはずなのになんか胸が苦しい」
などという変わった感覚を味わうこともなかったので、
演劇とか観に行ってる場合じゃないコンディションだったのかも
しれないけれど、
そういうコンディションだったから
ぎゃくによかった、ということにもなる。

舞台のタイトルはもちろん
石川啄木の「一握の砂」におさめられている歌

はたらけど
はたらけど猶わが生活楽にならざり
ぢっと手を見る

から とられていたはずで、
じっさい この歌をおもわせるコントも
ひとつ用意されていた。

美しく晴れたある日のこと、
仕事をサボったのかなんなのか、
会社員風のスーツ姿の男が、しずかな砂浜にひとり。
バッグをほうりすて 革靴をぬぎすて
ズボンのすそをヒザまでからげ、
たまにカニとあそんだりしながら、
いっしょうけんめいに砂のお城をつくっている。
お城はうちよせる波?によって
つくったそばから すぐ崩されてしまうのだが、
男はそのたびにまた最初からやりなおし、
さらに高くそびえるお城をつくろうとする。
・・・

まだ公演が続いているから、ストーリーについて
これ以上くわしくは書かないが、

このコントで自分が よかったとおもうのは、
「だましだまし、いろんなことをがまんしながら
何かをやること」が
けっして否定されていなかったところだった。
また、
「多分にウソのまじった動機であったとしても、
また、動機そのものがたいしてなかったとしても、
それなりにやっているうちに、
真剣になっていく場合もある」。
そして、
「うちよせる波風に耐えることによって、かえって心の土台が
固められていき、当初まったくそのつもりがなかったほうへと
意思や方向性がさだまっていくことがある」。
「もし波風がまったく起こらず、起こってくれてもいいのになと
思うようであれば、起こるように みずから仕向けてもかまわない」し、
さらに、
「自分の意思ではないかもしれないものに流されて
今そこにいるのだとして、
べつにそれを 恥じなくてもよい。
たぶんあのときこういうことだったから、
それで自分はこうなったんだろう。
それでよかったんだ、と 
あとから理由付けをして現状を受け入れる・・
すなわち あとだしじゃんけんでも 悪いということはない」。

「どうであれ、生きるべし」。

わたしには、そのように言ってくれているようにみえた、
このコントが。

(この「一握の砂」のコントに出ていたのではないが、)
出演陣のなかでは、野間口徹さんがよかった。
なぜだか、彼がいるのをみるだけで妙に笑えた。
また、声がやわらかく、
空気にたいしてかすかに抵抗しつつも
すばやくとけていくのが いいような気がした。


ちなみに、
全編をとおして
いちばん自分が単純に 笑ったし大好きだったのは
「タイムカード」のコントだった(^^)
短いけれどもすごくよくまとまっていたとおもうし
作者の「っぽさ」がとくにはっきりと出ていたような気もする。

小林賢太郎作品のいいところは、

・流行りすたりがあまりない
・そこはかとない気品
・えげつない性のにおいを感じさせない
 (が、多層的であり、その意味では性的でもある)
・おしつけがましくないけれども
 ナルシシズムイデアみたいなものは
 かならずあり、しかも分量が適切である

このへんかなとわたしはおもう。
言葉にすると やすっぽいうえに
だからなんだよという話にもなるね。




それはそれとして、
いま、
寺山修司のことをやや頻繁に考えるようになっていて
できれば 身毒丸とか 毛皮のマリーとか観てみたい
けど そうそうみられるものでもないから
彼の著作をひっぱりだしてきて
ちょっとまた 読むくらいのことはしようかなあとおもう。







アドルフ・アイヒマン

「100人の死は天災だが、1万人の死は統計にすぎない」
・・・本人


「我々は誰でも等しくアイヒマンの後裔、
少なくともアイヒマン的世界の後裔である。
我々は機構の中で無抵抗かつ無責任に
歯車のように機能してしまい、
道徳的な力がその機構に対抗できず、
誰もがアイヒマンになりえる可能性があるのだ。」
・・・アンデルス


手記-其の捌(仮題)-201712**-初旬-起こり。

2017年暮れのできごとや 自分の心の変遷を
できるだけ正確に追いたいとおもうために
当時のメール、メッセージ履歴や
手帳の記載を ひっくりかえして たどっている。
その結果、前回までの項で書いてきたことに
誤りがあったのに 気づいた。
客観的には たいした問題ではないはずだけれど、
自分にとっては重要なことにおもわれるため、
ただしておきたい。

自分が退職の意思をかためた もっとも最初の時期は
職場復帰 初日(2017年12月4日)ではなく、
どうも入院中の いつかであったようだ。

退院した週の週末
2017年12月1日のこと、
自宅休養していた自分は
雑誌制作のための撮影に協力してもらった友人夫妻に
メッセージを送っていた。
そこに、自分の書いた 以下のような記述がみられる。
(※・・・)はわたしが補足のつもりで付加したもの。

「年内退職ということになりそうです。
入院中に くさるほど考えて。(※中略)
心残りや心配ごとはやまほどあり、心情的には、
(※仕事が)すきだから続けたいのですが・・・」

「ものに当たって大きな音を出されたり、
返答に困るような質問形式のイヤミを
ぶつけられることは、受け入れてきた
(※これまでの)こととは明らかにちがうので、
不当に感じ、耐えることが困難」

「怒鳴りたければそれでもいいし、
ものに当たるのもいいから、
せめて、みんなのまえでやるのだけはやめてほしかった
(※中略)
(※専務が)いつも
(※上司が怒鳴るところなどを)
そばでみていても
制止さえ してくれなかったので
これはこの会社ではアリなことなんだとおもうと・・。
危害を加えられても まだ吸収できることがあって、
そっちの価値のほうがおおきいから頑張ろうと 
おもえるかどうかで考えると、
そうは思えない、というほうに考えがかたむきました。」

・・・

時期が やや 前倒しにズレていた。

けれども、 
思考の道筋はたしかに自分のものだ。
まちがいない。
なるほど 
正直 当時は
あの発熱、あの頭痛、あの倦怠感だったもので
あまりよく覚えていないのだが
入院中に悶々と
このようなことを考えていたのだな。
これじゃ休まらなくて当然だ。
なまじ 時間があったのと
眠れなかったために
頭から離れないイヤな記憶、浮かんでくる考えと
真っ向から向き合ってしまったのかもしれない。
そういうことするの ぜんっぜん すきじゃないんだけど。

退院→自宅休養を経て
週明け2017年12月4日(月)に出社するや、
おのれの不調の深刻さを思い知り、
これはダメだと感じたことが
退職を決意したいちばんのきっかけではなかった。
これはダメだと 確認はしたが、
それではじめて「退職するしかない」と
思ったというわけではなかった。

2017年11月の約1か月間に
上司から受けた一連のひどい叱責が心外で、
このことだけには なんとしても どうしても
耐えることができなかったのだとおもう。
自分にとってたぶん、屈辱だった。
立場を不当に侵されるたぐいのものだった。

疲労や無茶がたたって病気になっただけなら、
何度でも治して、
何度でも職場に戻ろうとした。
これまで、じっさいに、そうしてきた。

けれど、心に負わされたものは。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

上記のメッセージを送った相手である友人夫妻だが、
(以後、G夫妻とお呼びすることにしたい。
※夫妻がこれを読んでくれていたら・・・
ご了承ください、アルファベットのチョイスにかんして)
奥さんのほうは、わたしが以前働いていたことのある
会社の元・先輩だ。
ただ、同じ会社とはいえ別の営業所のかたであった。
その会社に在籍していたころは、お互いあまり接点がなかった。
それがなぜか わたしも先輩も のちにくだんの会社を離れ
それぞれの道をすすむようになってから
たいへん親しくさせてもらうようになった。
そういうことって、あるもんだ。
(その最初のきっかけが なんだったかぜんぜん思い出せない。)
だんなさんのほうは、ふたりのご結婚後に知り合った。

G夫妻は
(ほんとは だから友人夫妻ではなく「先輩夫妻」だ)、
当ブログで今後しばらく 
つづっていくつもりであるところの
自分の とある闘いにかんして
絶大な協力、助言、支援を提供してくれた。
くれた、というか 今もしてくれている。
今後、当ブログ内で何度も 彼らとのやりとりのことを
書いていくとおもう。

わたしと夫妻とのコミュニケーションはつねに、
そう、いかなるときも、
彼らのとぎすまされたインテリジェンスと
わたしの ぼんくら度の コントラストが
それこそ眼にしみるほど あざやかだ。

そいつをなんとか 表現していきたいのだけれど。
まあ むずかしそうだ・・。

夫妻の承諾もいただいてあるので
メッセージ履歴をそのまま
ここにすべて書き写して みなさんに読んでいただけば
もうそれでいいかとも 一瞬おもったのだが

そっくり書き写すだけならば いつでもだれにでもできる。
どうしてもむりなら 最後はそうすればいいんだから
まあ もうちょっと頭を使って なにか 手を考えたい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、
先にしるした G夫妻との
メッセージのやりとりは、
わたしが オフィシャルじゃないけれど対外的に
退職の意思的なものを表明した さいしょのものだった。

このラリーは けっこう長く続いた。

夫妻は
公的制度などを活用することによって
退職後の(おもに経済的なものを中心に)
不安をできるだけ払しょくすること、
つまり
「賢く退職」することを わたしにすすめてくれた。

奥さんいわく
以前から、ずいぶんな働きかたをしているらしいことは聞いていたし、
このとおり、体調を崩すという 重大な結果が出てしまっている。
退職するにあたり、受け取ってしかるべきものは受け取り、
公的支援制度もフルに活用すれば、
辞めてから 安心して休養しつつ、今後について考えることも
できるのではないか。

・・・

フラフラの病み上がりのうえに
基本的に考えなしのところがあるわたしは
この期におよんでも 
自分の今後について 具体的に思案してはいなかった。
とくに退職に関しては
週明けの復帰によって 漠然とただ 
これは会社を去らざるをえない、
もうここで、これまでと同じように働くことはできない
という
体感を得るにいたっただけだ。
それはつまり会社を去るということだけれども、
べつになにをどうしようとも 考えていなかった。
だが、辞めてからしばらくの間はまともに働けない、
まじめに休養に専念しないととても治らない、
ということは感じていたので

「安心して休養しながら今後について考える」
そんなことが可能になる道があるなら、
そうしたい、とだけ 思った。

奥さんは
もしも知りたければ、
自分の持つ総務関連の知識などを活かして
わたしが退職にさいして取りうる選択肢を
あらいだし、
それぞれの手続きなどについてアドバイスする、と
申し出てくれた。

わたしは、
「ぜひともおねがいしたい」と返答。
メッセージのラリーが開始した翌日の
12月2日から 奥さんによる
ウィザード形式のレクチャーが開始された。

奥さんは、
職場の 労務・総務関係の状況を
わたしから細かく 聞き取っていく。
そして
職場に どうも隠れているとおもわれる
長時間労働や 賃金の未払い的な・・・つまり
労働関係の法令に違反する?
(か、・・反しない程度に・意図してかしないでか
・上手にやっている(かもしれない) etc etc・・・)
黒い「穴」の存在を指摘してきた。

「穴」の存在を、うすぼんやりとしたこの頭で
認識したこと、

それが、わたしの とある闘いのはじまりだった。




お読みくださりありがとうございます

多くのかたが当ブログにお越しくださり
たちどまって読んでくださっていることを
しかと 把握しております。
心より感謝申し上げます。

今まで基本的にまったくなんの内容もない・・・
誰もかなしませないけど 
誰にも求められておらず
誰のことも楽しませない、
みたいな
これはこれである意味 重大な害悪といえそうな
ことしか 書いてこなかった気がします
しかし、
いまは、
「もしかしたら 誰かの役に立つかもしれないこと」
に近いなにかを書くことができている 気がしています。
それが どうもほんとうに稀有な感覚なのですけれど
自分にとり おおきな支えとなっています。
だから 読んでくださってるかたがいるとわかることが
ほんっとうにうれしいです。
見てくれている人がいるんだなあとおもうと
その人と会ったことがなくて知らない人で
顔もみたことがなくても、
そのだれか、そのたったひとりのために
書こうという きもちがわいてきて、
ほんとにつらくてしょうがない記憶と向き合うことも
ひとりでやる場合よりはちょっとだけ 怖さが薄れます。


わたしは正直なところをいうといま、
できればこの世からいますぐ
消えてなくなってしまいたいくらいの
どうしようもなく くさった気持ちで毎日
生きているんですけれども、

書いているときだけ、
蜃気楼かもしれないけど 
ちいさくかわいらしい 
豆電球かなにかみたいな
光がみえるんです。
ちらっとね、ゆらゆらとしたのが。
蜃気楼かもしれないけど。

その光のほうに近づいていって
手をかざしたらあったかいだろうなあとか 夢想することが
できるから 
それがほしくてねえ。 だから 書いてるのかなとおもいます。
蜃気楼でもいいです。なんにもみえないよりは。
あるとおもいたい。
でないととてもじゃないけど耐えられない。

一生かかっても返しきれない負債
負い目、
選ばなかった道、
開けなかった心、
土足でふみにじってしまったもの、
伝えられなかったもの、
受け止めきれなかったもの、
おのれの弱さ、
おのれのおろかさ、
おのれのあさましさ、
おのれの罪深さ、
かなしみ、
きえない傷、
孤独、
よりそうことのかなわないところに行ってしまった心
自分がしてしまったこと
もう戻れないということ

これらすべてを見つめきることが
わたしの仕事であると認識しています
もちろん 笑っている場合でも
泣いている場合でもないでしょう。