BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

ブログ読みにきてくださってありがたい

ブログで映画の感想なんかを書くと
ネットのキーワード検索で 
映画のタイトルとかでヒットするのか
ときどきブログ読みにきてくれるかたの人数が
通常と比較してずいぶん増えることがあり、
びっくりするとともに とてもありがたい。

映画の感想は 基本的にネタバレ全開的なかんじで
書いてしまっている
編集機能の「記事の概要」項目に
ネタバレした内容のときには「ネタバレしてます」と
一言そえるようにはしているが、
ネット上から直接 偶然 このブログにやってきた人が
その概要を 本文を読むまえにかならず読むのかどうかまでは
よくかんがえると知らないので
ネタバレしてることを
お読みいただいてはじめて知ることになるかもしれず
ガッカリさせてしまっているかもしれない。
今後は映画の感想を書く際には
「記事の概要」項目だけでなく
本文中でも ネタバレ注意を喚起するつもりだ。

といっても
しょせんはわたしのブログであるから
どう転んでもたいしたことは書いてないのであり
べつにそこまで気にしなくても いいのかもしれないが。
ネタバレどうこう以前に
このブログに偶然きてくれてしまった人たちに
ありがたいどころじゃなく
むしろもうしわけないのかもしれない。

でもまあせいいっぱい 
自分以外のかたがお読みくださってもそこそこまあまあ
おもしろいと おもっていただけるかもしれないような
ことを 書けるようにこれからも日々努力はしていく。

でないと なんで公開しているのかわからないからな。

世界にとりあえず謝罪しておきたい。
存在をゆるしていただけたらさいわいだ。



古い映画を観るのは楽しい。-170614。

世にも怪奇な物語』(1967年)の
『影を殺した男』のアラン・ドロンがとても好き。

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www.youtube.com


「ウィルソン!!」と叫ぶ所と
ブリジット・バルドーの背中を打つ所の
アラン・ドロンの表情が好きで、何回も観ている。 
アラン・ドロンはただイケメンなだけじゃない、
という感じが、あの表情をみるとすごくするのだ。
世にも怪奇な物語』はアラン・ドロンの他にも
ジェーン・フォンダテレンス・スタンプなどの
人気役者が出演していて、 
監督も3人とも実力ある人たちであり
何度観てもわくわくする。

ただ、テレンス・スタンプの『悪魔の首飾り』は苦手だ。
いたましすぎて、なかなか観る気になれず、
いつもジェーン・フォンダの短編と
アラン・ドロンの短編を観たら、そこまでで
あとは観るのをやめてしまう・・・。

こういう、スゴイ役者が何人も出演している
オムニバス映画が他にもあったと記憶している。
観たことがあるんだけど。タイトルを思い出せない。
それにも確かフェデリコ・フェリーニが参加していた。
いや、参加してなかったか?
お堅いかんじの男と、その妹(いとこ?)が出てきて、
退屈なお食事会みたいなことを家でしょっちゅうやっていて
でもその男には、実は妙に背徳的な願望がある、みたいな内容の
短編を含む、オムニバス映画だった。
牛乳が関係するストーリーだった。
子どもの声で、すごく印象的なテーマソングが
歌われたのをおぼえているんだけど。
そのテーマソングに何度も「牛乳(Latte)」って詞があった。
変わってておもしろかったんだけど。
たしかルキノ・ヴィスコンティが参加してたか・・・
タイトルが思い出せないんだよなー。

古い映画は本当に楽しい。
今の映画も良いのだが、
昔の映画では、今はもう観られないようなものが
いろいろ観られるし、感じ取ることができる。

日本の名作・・・小津安二郎成瀬巳喜男
映画などもこれからは積極的に観ていきたい。

映画の感想-『花戦さ』-170612。

篠原哲雄監督
2017年、日本

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www.youtube.com


けっこうたのしかった。
原作は鬼塚忠の同名小説で、
古い伝説をもとにした時代劇。

ストーリーはだいたいこのようなかんじ。
ときは天正年間、
舞台は織田信長から豊臣秀吉へと
治世がうつりかわるころの京都だ。
都に、頂法寺というお寺がある。
このお寺は、お坊さんがみんな、
池坊(いけのぼう)」という流派の華道をやる。
町の人たちにも気軽にお花を教えたりするので、
とても慕われているお寺だ。
そこに、専好(野村萬斎)というお坊さんがいる。
彼はときの天下人・織田信長に華道の才能をみとめられ、
信長との謁見の際に出会った千利休佐藤浩市)とも
親交をふかめていた。
しかし、信長が世を去り豊臣秀吉市川猿之助)の治世になると、
おだやかだった専好の身辺がさわがしくなってくる。
秀吉と利休の関係が悪化してきたのだ。
利休はやがて、自害を命じられて果てる。
利休と親しかった専好は、利休が秀吉との関係に悩んでいたのを
知っていたので、友の死に心をいためる。
だが、秀吉は、利休と親しかった専好のことも気に食わない。
専好が民衆を扇動して反乱を企てているのではないかなどと
よしないことを考えはじめる。
秀吉は、跡取り息子の急死をきっかけに心のバランスを崩し、
いっそう酷薄な暴君と化していく。
自分を悪く言う歌が町に貼りだされたと聞けば 
町民をとらえて虐殺し、
自分を「猿」と言ってからかったといっては、
いとけない子どもまでも打ち首にする。
町の人びとの苦しみをまのあたりにした専好は、
その心にしずかな怒りの炎を燃やし、
やがて秀吉を相手どり
「華の道をもって上さまをおいさめする」、
花戦さ」に挑むことを決意する・・・。


古い伝説をもとにした・・・と先にのべたが
その伝説は京都の池坊頂法寺
つたわっているものだそうで、
池坊専好(初代)も実在の人物だ。
初代専好が信長と秀吉に目通りした記録も残っていて
千利休とも生きた時代をおなじくしている。
だからこの物語はまったくのフィクションてわけじゃない。

わたしはこの映画には 
深みとか隠喩とか 思考に値するものは ない、と感じた。

エピソードの取捨選択とそれぞれの接続、
という点でも、不親切なところがすくなくなかった。
昨今の時代劇の主流らしく、親切設計を旨としているかんじが
基本的には強かっただけに、かえってちいさな穴が気になった。
はっておいてほしい伏線を、肝心な所ではらないというか、
「実はこんなこともあったんだよね!」と、
だいじなところで初見のエピソードをいきなり持ち出す
唐突なパターンが散見された。
「そんな大事なな話あるんだったら前もっていっとけや!」。

たとえばだが、
みなしごの蓮の話を割愛すれば 
もっともっとていねいな話運びをすることは十分可能だったろう。

ただ、
配置や接続の問題はおいても
ひとつひとつのエピソードは、とても誠実に描かれたものであったし
どの話も わたしはすきだった。

とくに、序盤も序盤だが、
専好と利休の、草庵の場面がよかった。
じつをいうとわたしはちょっと泣いた。
なんだかとても、ふたりのことが いとおしくなって。

専好は、変わってる。
心が純で、悪い男じゃないが、
病的といっていいほど、人の顔と名前、約束ごとが覚えられない。
だいじな用事も約束も三歩 歩けばわすれ、
別のことに気をとられて、心がそっちに飛んでいく。
まわりの理解があるからまだいいが、
彼ひとりでは、社会生活にも難儀すると思う。
現代でも、身近にいられたら、正直かなり困るたぐいの人だ。
それなのに、彼ははやくから、
寺をとりしきる役目なんかをまかされてしまう。
本当なら、適任の者はほかにいくらでもいたのだが、
その人たちがみんなたまたま病気になったり
都合がつかなくなったりでダメになってしまい、
結果的に専好におはちが回ってきたのだ。
でも、要人と会見してそつなく談笑・・といったような
大人の実務が壊滅的に苦手な専好にとっては、
寺の顔役なんて役目は、つらいだけ、苦痛なだけだ。
専好はただ、日々 仏さまを拝み、町の人たちといっしょに
お花をやっていたいだけ。
そんな おだやかな生活がままならなくなったことに、
専好は悩んでいる。

千利休の草庵の場面が、
そんな専好の悩みを晴らすおおきな転機として描かれていて、
とってもいい。
専好は、利休がたてたお茶に深くいやされ、
吐き出すように 悩みをかたりだす。
じつはふたりがまともに会って話すのはこの日がはじめてなのだが
幼児のごとくおのれの心をさらけだし、男泣きに泣く専好を、
利休は「な、もう一服やってくか、な・・・」と
やさしく受けとめる。
利休は利休で、このころにはすでに、秀吉によるいじめに
悩むようになってきていた。
相手が天下人なだけにさからうこともできず、
やりばのないストレスに苦しみ、でもそれだからこそ
人の心の痛みがわかる利休、そんな人物像を 
佐藤浩市がうまく演じて表現していた。
あの「目が笑ってない」かんじがとてもよかった。
わたしは佐藤浩市には、メンタルがささくれてそう、
みたいなイメージをもっているので、
配役を知ったときには佐藤浩市千利休!?と おもったのだが、
メンタルささくれ感が、かえってよかったみたいだ。

専好を演じた野村萬斎は 偉大。
先述したように、専好がものすごくぶっとんだ人物で、
みていてイライラさせられたほどだったのだが、
観客をイライラさせる演技ができるなんて、すごい。
声の高低差やしゃべるスピード、視線をコントロールすることで、
専好の性格やオン・オフの切り替えをくっきりと表現していて
おそろしい役者さんだとおもわされた。

豊臣秀吉役の市川猿之助は、
多面的で分裂ぎみな秀吉の人物像をまじめに引き出そうとしていた。
なるほど、秀吉は確かにこういう男だったろうな、という、
納得感があった。
欲をいえば、もうちょっとエキセントリックでもよかった。
信長の御前で平気で耳をほじったりするかんじを、
えらくなってもひきずっててほしかった。
ただ、利休に対したときの、キモチ悪い「男のいじめ」の表現は
すごくうまかった。
千利休と秀吉の関係については、いろんな本で読んできて、
わたしも知らないわけじゃないけど、
いったいあれはなんだったのか、とつくづくおもう。
女よりも男のいじめのほうが、陰湿でたちがわるいとは聞くけど。

石田三成役の吉田栄作は、秀吉の腰巾着キャラをうまくこなしてた。
彼はかつてはもっとカッコイイ、イケメン俳優の部類だったとおもうが、
歳をかさねて しわができ、ちょっとかわいてやつれた顔を
隠すこともなく堂々と見せていて、尊敬した。
それがすごくかっこよく思えた。

専好が秀吉にしかけた「花戦さ」が、
この映画のまさにクライマックスだった。
このシークエンスは冗長だったような気もするが、
専好が披露した大作は華やかでうつくしく、
場面はすみずみまで緊張感にあふれ、なかなか。

それにしても、花の背後にかけられた絵は
どこからもってきたのだろうか・・・
秀吉が熱心に収集していたらしい
「むじんさい(無尽斎?)」の作、ということになっていた。
モデルは長谷川等伯の、あのおさるの絵だと考えて
まちがいないとおもうが。あのかわいいやつ。 
そうならば、専好が前田利家にたのんで、
あの時だけ所蔵品をかりた、という設定だったんだろうか。
でも利家が、あの絵を秀吉に奪われずに隠しておけたのも
おかしいような気がするが。
秀吉は「むじんさい」の作品にむちゃくちゃ執着していたんだから。
ああいう画題の絵だと知ったら、秀吉はもちろん、
「なにっ、誰が要るかこんなもん」とは言ったかもしれないが、
画題をしってたらしってたで今度は、
「こんな絵を隠し持っていやがって、内心で俺をバカにしていたんだろ」と
怒って利家を殺さなかった(または絵を棄てさせなかった)
その理由がわからない、ということになる。
ネットでしらべたかぎり、長谷川等伯の、あの おさるさんの絵は
前田利家の息子の持ち物だった」らしい。
前田家の代々の所蔵品ということになり、
花戦さ」のなかでは利家の持ち物ということだと思うが、
秀吉があんなに血眼でコレクションしてた「むじんさい」の絵を
利家が持っていたのにどうして秀吉に奪われずにすんでいたのか、
画題がよりにもよってサルなのに、秀吉がどうして怒らなかったのか
あの絵が(利家が)無事だった理由がよくわからない。
話がややこしくなるので、
どうせなら、蓮に完全オリジナルの絵を描かせた、
という設定にすれば良かったのに。
・・・ダメか(^^)。


それにしても「花戦さ」の場面は、
まあやっぱり、秀吉がくさっても「良いものは良い」と
ちゃんと言えるだけの見識を持つ男だったからよかった、
ということなのだ。
秀吉はときの最高権力者だ。
専好を殺すことはいつでもできた。
でもそれをしなかったところが秀吉なのであり、
あのときはそういうときだったのだ。
専好をふつうに斬り殺して、そのあと秀吉が号泣、
でもよかったとおもうが。・・・ダメか(^^)。
跡取り息子をなくして失意の底にあった秀吉に
「上さまのあやまちをおいさめする」なんて
一介の花坊主の趣向が通じるのか、ともおもったが、
心がへこんでいるときだからこそ
かえって人のきびしい意見がすんなり耳にはいってくる、
ということもあるだろうから、
それを考えるとかえってアリなタイミングだったのかも。


本作は、
野村萬斎市川猿之助、つまり狂言と歌舞伎の
トップスターの演技合戦が観たいという人には 
それだけでもかなり 価値ある映画だったのではないか。

ただ、お茶やお花が「趣味」「たしなみ」ではなく、
「人生」であり「闘い」だった時代があった、という
歴史的な大前提を理解できていないと、
この映画はちょっと、わけがわからないのではないか。
だからその点だけは、なんとなく雰囲気だけでも
ああそうだったのね、と、押さえてから、観ることが必要だろう。

読書感想-阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男-伝説とその世界』-170522。

阿部謹也
ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界』
(ちくま文庫)

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www.chikumashobo.co.jp


おもしろかった。
グリム童話などでしられている
ハーメルンの笛吹き男の物語は、
西暦1200年代後半ごろに
じっさいに起こった事件が
もとになっている。

本書は、その事件がいかにして
ハーメルンの笛吹き男」の物語に
なっていったのか、また、
どうしてこれほど長きにわたって
人びとに語り継がれる必要が
あったのか、について論じていた。

同種の研究は 
じつは欧米で500年くらいまえから
いろんな学者さんがしてきたそうで、
著者は既存の研究をひとつひとつ
かなりていねいに紹介しつつ
するどくその矛盾点を突き、
自分にしかできない切り口から
結論をだしていた。

以下のような
考えかたは
昔の学者さんはまだ
できなかったのかもしれない。
もちろん、時代に関係なく
著者にしかできなかったのかもしれない。

「伝説とは本来庶民にとって
自分たちの歴史そのものであり、
その限りで事実から出発する。
その点でメルヘンとは質を異にしており、
『伝説は本来農民の歴史叙述である』
(ゲオルク・グラーバー)
といわれるゆえんである。
そのはじめ単なる歴史的事実にすぎなかった
出来事はいつか伝説に転化してゆく。
そして伝説に転化した時、
はじめの事実はそれを伝説として伝える
庶民の思考世界の枠のなかに
しっかりととらえられ、位置づけられてゆく。
この過程で初発の伝説は
ひとつの型(パターン)のなかに
鋳込まれてゆく。
その過程こそが問題なのであって、
こうして変貌に変貌を重ねてゆく
伝説の、その時その時の型を
それぞれの時代における庶民の
思考世界の次元をくぐり抜けて辿ってゆき、
最初の事実に遭遇したとき、
その伝説は解明されたことになるかもしれない。
しかしそれはなかなか難しい。
解明しえたと思ったとき、
気がついてみればわれわれが
われわれの時代環境のなかで、
伝説の新しい型を
『学問』という形で形成していることに
なるかもしれないからである。
伝説も庶民が世界と関係する
その絆なのであるし、
学問もわれわれが世界とかかわる
関係の表現であって、
そこには本質的な違いは
ないからである。」
(『ハーメルンの笛吹き男-伝説とその世界』117ページ)

つまりまあ
こういうことじゃないだろうか。
↓ 
人びとが語り継いでいる「伝説」がある。
それはなんらかの歴史的事件、
歴史的事実に
基づいている可能性が高い。
そのおおもとについて考えるとき、
つぎのことに気を付けなくっちゃいけない。
すなわちそのおおもとの事実とは
おおまかにいって2種類のヴェールを 
何枚も何枚もかぶった状態で
いま、ここにある。
昔のものであればあるほど
ヴェールの枚数が多いのだが、
それをぜんぶ、ていねいに
はがさなくちゃいけない。
まず1種類めのヴェール、
当時の人びとの
くらしのありかた、社会の姿、
ものの感じかた考えかた。
そして2種類め。
そんな当時の人びとが
事件を語り継いでいくうえで
よりわかりやすく
より受け入れられやすく語りやすく
「お話」としての定型に
自然とはめて語っていったと
思われるのだが
その「定型」、これが2種類めのヴェールだ。
これらをぜんぶわきまえたうえで
1枚1枚確実にはがしていく。
それでなければ
歴史的事実は事実でも、
ほんとのところとは全然ちがう
場所にたどりついてしまうかもしれない。
「なんとかお姫様の物語」は、
本当はAという実際に起こった事件が
元になった話なのに、
ヴェールを雑にはがして一部破れたり
2枚も3枚もいっぺんに
はがしちゃったりすると
A事件じゃなくてD事件がもとでした、
そんな 誤った結論を
出してしまうおそれがある。
でもこの作業は難しい。
考察にあたる新しい時代の人間は
いろいろなことを知って
頭がよくなってきている。
「昔の人のものの考え方」
「昔の人が構築したお話の定型」
これらの古いヴェールのうえにまた
こんどは「学問」というヴェールを
新たにかぶせてしまっているかもしれない。
それが「この伝説の元になった事件」
を考えるにあたり
さまたげになってしまうのかも。

・・・・


本屋で立ち読みしたときは、
ブリューゲルボッシュ
挿絵としていっぱい
載っているのを見て、
もっと見たいとおもって
買ってみただけだったが、
内容的にすごくおもしろかったし、
その考察の緻密さと真摯さに
感銘さえうけた。

わたしなんかには
すごく高度に感じたが
文庫になっているということは
一般向けに易しく書かれたものなんだろう。
阿部謹也さんの本気のやつに
トライしてみたい気がする。

2017年5月7日の思い出/映画の感想-「ワイルドスピード ICE BREAK THE FATE OF THE FURIOUS(2017)」-170522。

5月7日は
ワイルドスピード」を観た。

ワイルドスピード ICE BREAK」
原題:THE FATE OF THE FURIOUS
F・ゲイリー・グレイ監督
2017年、米 

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movie.walkerplus.com


今回はドミニク(ヴィン・ディーゼル)が
仲間を裏切ってサイバーテロリストに加担するという話だった。
シャーリーズ・セロンが、
ずいぶんうまく、サイコな悪役をやっていたとおもう。

ジェイスン・ステイサムがすっごくかわいらしかった(^^)
あと、ヘレン・ミレン姐さんもすてきだった。

車を使ったアクションは、シリーズをかさねるごとに
派手に、手がこんできている。
今回の敵は、街中にある何台もの自動車を遠隔操作して、
弾丸代わりに使う(じっさいの映像をみればわかる)
という とんでもないやつらなもんで
街がもう、スゴイことになっていた。よくやるわなー。

めちゃくちゃなところは数多く、
ドミニクが部屋の入り口にかけた十字架のネックレスが・・・
というところを観たときはもう
ツッコミを入れる気力もうせてたが、
そんなところがいくらあったとしても
観ていてあきることがなく、ずっとたのしめた。

ただ、これいっちゃ身も蓋もないかもしれないが、

「車」がすごくだいじなポイントのシリーズなのに
車をそまつにあつかいすぎってかんじがする(^^)
壊しすぎでしょ車!
シリーズの最初のほうはここまでじゃなかったと
記憶しているんだけどなあ。
もうちょっと、車をだいじにしたらどう(^^)???


2017年5月4日と5月5日の思い出/映画の感想-『帝一の國』-170521。

2017年5月4日は、
高校生のときに所属していた
市民楽団でお世話になった
ご夫婦のところに遊びにいっていた。
当時楽団でなかよくしていた
同年代の友だちといっしょにいった。

ご夫妻のあいだには
中学にあがったばかりの女の子と
小学校高学年の男の子がいて、
とってもかわいい。
まだまだ、遊ぼう遊ぼうと
甘えてくるが
このまえにあったときよりも
ずいぶん大人っぽくなっていて
おどろかされた。

子どもってかわいい。
すぐに成長してしまうから、
おちおち目をはなしては
いられないだろうな。

奥さんがいつも 
びっくりするくらいたくさんの
美味しいごちそうを
作って迎えてくれて
ありがたい。
しかしほんとこっちはなにひとつ
おどろくほどなにひとつ
役にたてないので
恐縮でもある。

・・・

翌5月5日は、
帝一の國』を観た。

永井聡監督
2017年、日本

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www.youtube.com

かねて観たいと
おもっていたわけでもなんでもなく
なんとなく映画観たいなとおもい
映画館にいって、
ちょうどいい時間にやっているものを
選んだらこれだった。

結果、かなりおもしろかった。

いろいろ、弱かった部分もあり、
それはときに
ストーリーのかなり
重要なとこにまで
及ぶ問題ですらあった。

たとえば、
主人公の帝一が
「自分の国を作りたい」
と熱望する理由が
のちのちあきらかになるが、
あれはもうちょっと、
彼の幼少期のエピソードを
時間をかけて描いてたら
より納得感がでて、
よかったはずだ。

また、帝一が通う学校では
学内の権力闘争がさかんで
ライバルどうしの足のひっぱりあい、
頭脳戦がすごいわけだが、
帝一に恋人がいるという
超重大な情報を
最後の最後になっても
本気でだれも把握してない、
という点が気になった。
帝一本人が
「恋人がいるだなんてすごいスキャンダル」
と言っており、
彼女と会うときにはわざわざ変装し
盗聴防止に、連絡には糸電話を
使っていたくらいであるから 
これは完全にフリで、
ぜったいあとで
だれかが彼の恋人の存在をかぎつけ
帝一を失脚させるための
切り札にしてくるだろうと
おもって観ていたのだが、
ほんとうにだれにもバレてなかった。
これはおかしいんじゃないか。

また、
帝一が最初についた生徒会長候補が
帝一の父の政敵側の人物と発覚、
それがバレると
帝一にとってもマズイ・・・
という話になっていたが、
そのくらいのこと、
なぜ事前に腹心に
探らせておかないのかとおもった。
政界の重鎮である
父親同士のライバル関係が
息子たちの生徒会長選にも
影響をおよぼすということの
表現が、どうも中途半端だった。

生徒会長候補のキャラが
いまいち立っていなかったため
最後に彼が大変みっともないところを
見せたときも、
「うわー みっともなーい」と
思い切ることができなかった。
みっともなさに説得力がでるように
もっとおもいっきり高慢に、
おもいっきりイヤなかんじの
キャラ造型をしておいてほしかった。

千葉雄大はハマってた。
さわやか苦学生を演じた
役者さんもよかった(^^)

スピード感がおとろえず、
観る者の感情にむりくりうったえかけ、
パワーで引っ張りきるかんじは最高。

おなかかかえて笑ったシーンも
多かった。
とくに「拍手」に笑わされた。
あの拍手をきっと
みんなで練習したのだろう。
撮影現場を想像するだけで
コーヒーの一杯や二杯は
噴き出しそうだった。

帝一を演じた若い役者さんが、
多面性のある強烈な男子学生を、
あきれるくらい
まじめに生ききっていた。
うまいのかどうかは知らないが、
力いっぱいやってて、よかった。
最初は、だれだこの人、
って思ったけど、
だんだん、彼がいないシーンが
たいくつに感じるようになっていった。

彼ら若い役者さんの
父親を演じたベテラン俳優陣も、み
みんなかっこよかったし、
いてくれてほんとによかった。

いろいろと、粗さや不十分さは
あったような気がするが、
これからも国産の映画を
応援していくという前提にたつとき、
どうも、ぜひ観ておいたほうがいい
映画のような気がする。

2017年5月3日の思い出-小林賢太郎さんのコント公演 KAJALLA #2 『裸の王様』。

5月3日は
ラーメンズ小林賢太郎さんのコント公演
「KAJALLA #2 裸の王様」を観た。
(日経ホール 14:00開演)

 

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kentarokobayashi.net



前作「大人たるもの」は
自分には響かなかったのだが
今回はすごくたのしかった。
おなかかかえて笑ったし、
「裸の王様」の物語の
新解釈的なセリフには
「なるほどなー」と。

まったく別々の短いコントの
よせ集めにみえても
ひとつのテーマにつらぬかれている、
そういうつくりのものが、
小林賢太郎氏のコント公演
じゃないかなとわたしはおもう。
でも前作はなにか散漫で
らしくないようにおもえた。
でも 今回は
おしつけがましくなく、
深刻にならず、それでいて
どこか響いてくる
重みを帯びたメッセージが
ちゃんとあった。
わたしは
やっぱりこういうのがいい。
でもまあそれは観る側の願望
作るほうがどうしたいかと
違っていてもふしぎはない。

春夏秋冬
それぞれの国をめぐる
仕立て屋を演じた
役者さんがよかった(^^)
かわいらしかった。 

夏の王さまを演じた
役者さんがすごい筋肉マン。
彼が衣装をぬいだときに、
ムキムキの腕がのぞき、
観客席からちいさく
歓声があがっていた(^^)

あと、ラーメンズ
コントに 以前でてきた
あのキャラクターが復活してた。
うれしかった。
うれしかったというか 
一瞬わが目を疑った。

次のKAJALLAもぜひ観に行きたい。

それにしても
いまでも気になっているのだが、
日経ホールの各座席の背中に、
主電源マークが描かれた
ちいさなスイッチみたいなものが
ついてた。
なんだったんだろう。
開演を待つあいだ、
気になって気になって、
押してみたくて押してみたくて
しょうがなかった。
スイッチじゃなかったかも。
ただのランプだったのかも。
なんだ あの主電源マーク。
いったいなんだったのか。
押せるのか
スイッチなのか
押すとどうなるのか
確認したかった。
でも、座席の背中に
ついているということは、
わたしがみている
スイッチを押した場合、
わたしの座席に
なにかが起こるのではなく、
わたしの前の座席に
起こるということになる。
とりかえしのつかないことを
しちゃうといけないから
やっぱり押せなかった。
自分の後ろの席の人に、
「わたしの席が
どうなってもいいですから
ちょっとこの背中のスイッチを
押してみてくれませんか」と
頼もうかとおもったけど
開演前のこのみじかい時間に
めんどうなことになるのも・・・ と
だまっていた。
押してみたかった(^^)