BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

芸事にふれたい願望。諸星大二郎と星野之宣。HELLSING OVAの感想。

ミス・サイゴンとアラジンとライオンキングが
人生に一度くらいはみられるといいとおもう。 
チケットとれるのかな?
あとヴェルディアイーダか椿姫もみてみたい。
アイーダは高校生のときに1回みたきりだ。
クラシックのなにかをまたききたい。
マーラーを生演奏でききたい願いはまだかなえていない。

あと池田達也さんのベースをまたききたい。


いつのまにか諸星大二郎さんの
Facebookアカウントをフォローしていたようで
きょう諸星大二郎さんがなんとかをシェアしましたの画面が表示されて
おどろいた。「生命の木」が掲載されたときのジャンプ?の
巻末の目次ページだった。
諸星大二郎さんのマンガはほんとにどれも宝物だけど
わたしは生命の木から 諸星大二郎ワールドに入っていったし
あれがいちばんいまでもすきだな。
日本の潜伏キリシタン関係の歴史に興味もつようになったとき
勉強できそうなものをかたっぱしから集めていて
当時お世話になっていた学習塾の先生におしえてもらったんだよね
生命の木。
そののちあれ「奇談」っていう映画になったよね
みたけど(^^)
イヤー すごかった(^^)
藤崎恵麻ちゃんはかわいかった(^^)


その「諸星大二郎 生命の木」の目次のとなりに
星野之宣 カルネアデス計画」の目次がならんでいることの
ゴージャスさにもだいぶびっくりしたけど。
星野之宣さんの「レインマン」は2巻を買ったきりまだ読めていないから
早く読みたい。


きのう、「HELLSING OVA」の最終回をみたが、
まだ全部を1回ずつしかみていないからか
おわりかたにいまひとつ納得がいかなかった。
もう完結しているマンガでありアニメだけれど
やっぱり結末とかにはふれないほうがいいのかなあ?
一応やめておくか。
納得いかなかったというのは、
アーカードが最後ああなってああなったのを見て、
「それができるなら最初からやっといてもよかったんじゃないのか」
おもったのだ。
彼はどうも、自分が生きていずれ死ぬという人間としての運命を
生きているうちにはどうしても受け入れることができなかったから
悪魔の誘惑にあまんじてヴァンパイアになったみたいであり、
たとえ老いて見た目がおとろえても、短い命をどうにもできなくても
ふつうに生きて死んでいくことを受け入れている人間たちに対して
敬意をはらっているようなところがあった。
英国の女王さまとかインテグラのようなふつうの人間に
あこがれているようなところがかいまみえた。
でもどんなにそういう存在になることをいまさら望んだところで
もう「ほぼ不死」のヴァンパイアになってしまったから
どうしようもないからただその生を生きているんだ、とおもってたんだが。
できることなら人間みたいに 死ぬ存在になりたいと
おもっているんだとおもってたから、
最後にああなってああなったとき、
「なんだ、それができるなら もっとまえにやればよかったのに」と
おもった。
「それ」を自我を保ったままやることができるなら
自分ひとりの命になれるから
すくなくとも「不死」ではない状態になれていたんじゃないのかな?
長命であることはどうしようもなかったかもしれないけど。

「ほんとはもう不死のヴァンパイアなんてイヤ」だけど
それでもまだ看板をはずせない理由がなにかあったんだっけか?

そこがよくわからなかった。
もっとよく見ていたら理解できたかもしれない。
いきなりアニメーションから入ってしまったが
原作もやっぱり読んでみないと。
だが意外と書店には売ってないね。

HELLSING」すごくおもしろかった。
こんなアニメーションを日本は作れるのか。
日本すごいな。
なにがすごいってその執拗さとマニア気質みたいなものがすごい。

音楽も映像も音もすごく凝ってた。
ミレニアムの首領の「少佐」の長い長いセリフが忘れられない。
「諸君 わたしは戦争が好きだ」から始まるやつ(^^)
あれはほんとにすごかった。
アニメーションでみていたとき
最初は聞き流していたが
なにかすごく異様なことが起こってるということに気づいて
巻き戻してもう1回、もう2回とくりかえしきいてしまった。
あとインテグラの「サーチ アンド デストロイ!」も
なんかすきだった。
ふだんの生活で使ってみたい(^^)

それにしてもバトラーのおじいちゃんはなぜ最後に
あんな行動をとったのか??
まったくわからない。

いろいろと謎がおおい物語だった。
その謎がおおくて難解なかんじが
「説明不足」とか「伏線をほったらかし」などと
評価されるのではなく
作品の魅力の一部になっているのであろうことが
容易に想像できるかんじだった。

やっぱり原作を読まなくちゃいけない。
読んでもわかるのかどうか。

いいよねHELLSING



 

『ブラッククローバー』が破壊的につまらない-160719。

アルスラーン戦記と モブサイコ100
ベルセルクのアニメーション版が
もうはじまっているんだな。
まだどれも 観始めていないんだけど
時間ができたら動画共有サイトなどで
まとめてキャッチアップしたい。
ベルセルクのアニメ版が 
聖鉄鎖騎士団、ファルネーゼのところから始まるときいて 
それはちょっとおどろいた。
作る人によっていろいろ解釈があるものだ。
たのしみだなー。
すきなマンガがアニメーションになるのは
ほんとにうれしいよ。
マンガは音がないし動かないけど
それがアニメになると 
しゃべって動いてるところが観られるから。
あと 読んでも理解できなかったところとかが
アニメだとわかりやすくなってて理解できたりするし。
大胆に換骨奪胎がなされるからこそ
「こういうことが言いたかったのか!」とか
新たな発見ができたりする。

それにさいきんのアニメは
絵も音楽も動きもかっこよくて
演出もおしゃれで、驚かされることばかりだ。

いま週刊少年ジャンプ
ブラッククローバー』というマンガをよんでいるが
残念だがこれはちっともおもしろいとおもわない。

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ふつうにまじめに、ちゃんと描かれている
マンガだということに異論はないが、
いかんせん独創性が 
かけらもかんじられない。
こう言っては申し訳ないのだが、
『ワンピース』を
おもしろいと言って嬉々として受け入れる読者たちが、
なぜ同じマンガ誌上に
ブラッククローバー』のような作品が
存在することを容認しているのか 
正直言ってまったく理解できない。
ワンピースをおもしろいと思っているんだよね?
だったら『ブラッククローバー』は
読めたもんじゃないと思うのだが。

わたしは、「ファンタジー」の世界には、
「仲間」とか「あきらめない」とか
そういう、今の価値観の言葉を
不用意に持ち込むべきじゃないとおもう。
ブラッククローバー』には、
「あきらめないのが俺の魔法だ!」
「石ころは石ころでも 
 おれはダイヤモンドを砕く石ころだ!」
なーんてのがあったが
正直言って噴飯ものだ。

現代の現実世界を舞台とする
スポーツマンガとかだったら 随時 
必要に応じてそういうセリフも
使って良いとおもうが。
よっぽどうまいこと作りこんでくれないと
ただでさえファンタジーには 入り込みにくいのに
「現代」を感じさせるワードを 
鈍いセンスで不用意に挿入されると
興覚めしまくるから やめた方が良い。

「仲間」「友情」「勇気」
そんな言葉をわざわざ使わなくても
まさしく「仲間」「友情」「勇気」を
伝えてくるファンタジーこそ 
すごいとわたしはおもうがな。
ついさっき書いたけど『ベルセルク』とか。
うしおととら』とかすごい。
進撃の巨人』もいい線いっている。
進撃はちょっとちがうか。

それとも今の少年少女は
はっきりと 
「仲間」「友情」「勇気」とかはっきりと
書かないと そういう概念を理解できない、とでもいうのか?
だとしたら、へそで茶が沸く。
若者の感性を信用しないで描かれた少年マンガ
いったいどこが少年マンガなのだ。

インデペンデンスデイ・リサージェンスを結局みなかった。斉木楠雄のΨ難。

インデペンデンスデイ・リサージェンスを見に行こうと思ったが

あんまり暑いからやめた。

暑い時期の自分の 生活全般にたいする意欲の減退っぷりには
ほんとあきれるわ。

みにいきたいんですけどねー
だるいっすわー。 暑いんだもん。
だるいっすわー。
もう5度くらい気温が下がってくれれば
行くがなー。
だれか一緒にいってくんないかなー


家でずっとブログの移行作業とかしていたから
肩が凝ってしょうがない。

斉木楠雄のΨ難(さいきくすおのさいなん」ていう
アニメをたまたま知ってしまったが
ばかくさくてほんとすばらしい。
最高。
心が疲れた大人こそ観るべき癒しの1本。


おもうんだけど シリアスなものよりも
笑わすもののほうが 作るの大変だよね絶対。
センスがものをいうわなー。




読書感想-『カルトか宗教か』-160717。

竹下節子
『カルトか宗教か』
(文春新書)

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books.bunshun.jp 

人がカルトにひかれていくときの心の動きや、
実際にハマってしまった時の脱出のしかた(させかた)、
カルトと対決するにあたって伝統的宗教が
どんな役割をになうべきかなどを教えてくれる本。
 
この本を、なにが知りたいがために読むことにしたのか、
忘れてしまったのだが(忘れんなよ!)、
自分が知りたいとおもっていたこととはまったく別の、
しかも期待以上のものを与えてくれた本だった。
ご興味があるかたは
ご自分でぜひとも読んでみてほしいのだが・・・
わたしが この本を読んで
「おもしろいな」「読んでよかったな」
と感じた部分を以下にあげると
 
まず、
ヨーロッパ、とくにフランスは、
カルトとの闘いに関してベテランである。
日本がいま体験している宗教文化的なできごとを、
200~300年くらいまえに通過してきている。
それからずっとカルトと向き合っているから、
ベテランなのである。
これはどういうことか?ということを
かなり詳しく教えてくれた。
いろんな考え方があるもんだ。
歴史ってのは切り口によって
ほんとにいろんなものが見えるもんだ。
 
次に、
ではそのフランスは、現在、どんなふうに
カルトと向き合っているのか。
また、伝統的宗教(とくにキリスト教)のみなさんが
その場にどうからんでいるのかを参考にしながら、
日本でのカルトとの闘いかたを提示していた。
本家キリスト教の人にとってみれば、
無認可の亜種がポコポコ生まれて
自分はメシアですとか言っちゃってる人とかもいて、
まったくもう、と言いたいところなんだろうが、
「認めない、でも排斥もしない、
 対話をみずから申し出、門戸は常に開く」
というスタンスを保持しているそうで。
そこからいくと、日本ではたとえば
オウム真理教の人たちが街に施設を建てようとすると、
「オウムは出ていけ!」なんて反対運動が起こるが、
(そりゃ心情としては当然だが。)
これはただ忌み嫌い排斥してるだけで、
対話も理解も試みてないということに。
ただこわがって排斥するだけ、というやりかたでは、
「友だちや家族がカルトにハマってしまった
 できれば脱会させたい」
というときに困る。
たとえどんなにみょうちくりんなグループにみえても、
そこに入りたいとおもうだけのファクターが、
その団体に、または外の世界にあったから入ったのであり、
ダメだダメだの一点張りは、
少なくともいまの彼・彼女には通用しない。
では、そんな彼・彼女をやっぱり取り返したい場合、
どうしたらいいのか?
その点について解説する「カルトの見分け方」の章に、
とても心に残った一節があった。
いわく
「夫婦や親子のような近い関係にあった誰かが
 ラディカルに新しい生活を選んでしまったら、
 残った方が以前とまったく同じ生活を営むことは
 もはやできない」。
でも、
「一時の別れはあっても人生は続いているし、先がある。
 その『先』の部分でもう一度出会うことも可能なのだ。
 長い間カルトにかかわっていた人は、
 普通の生活に戻ったときに、
 そこのテンションが低いと方向を見失ってしまう。
 迎える方も、以前のままではなくて、
 試練の中で成長し強く大きくなっているのが望ましい」。
 
また、
国連・世界保健機関(WHO)では、
「健康とはなにか」について再考がおこなわれていて、
WHO憲章の「人の健康の条件」の改正案にあらたに
霊性(spiritual)の健康」が追加された。
って知ってた!?
わたし知らなかった!
WHOは
「どこも病気じゃないから健康かといったらそうじゃない。
 逆に、病気だからって不健康ということにもならない。
 あなた自身を世界にむけてポジティブに発信し、
 世界から積極的にもなにかを受け取り、
 それを幸せだと感じられる状態が健康なのだ」
という考えなんだって(意訳)。
この「霊性の健康」、
世界と関係しあうことを幸せだとおもう という点が、
カルトのシステムからは抜け落ちている場合が多い、
ということだった。
なにをいってるんだおまえは。と思うかもしれないが、
そう思うあなたにこそ本書を読んでみてもらいたい。
 
そして、
「特別な修行・呼吸法をがんばって、
 不滅の肉体を手に入れよう!」
「霊魂のステージを上げて
 さらに進化した特別な存在になろう!」
とかいうのを提供してくるかたがたについて、
著者は「生命の進化とは、退化とはそもなんぞや」
というところから、ていねいに語り起こしてくれる。
この本でそのような話が読めるとは、
ぜんぜん思っていなかったから意外だったうえに、
しかもその部分は、まさかの本書における圧巻であった。

科学って、実は精緻かつ深遠で、
しかもすごくロマンチックなんだな。
カルトのみなさんが、お金もうけのために
あっちこっちのなんやかんやな思想を
切り張りして作ったような教義は、
内容がどうにも性急で浅くって、
早い話がザツなのだ。
 
一部のカルトを名指しで非難するような本ではなく
(例として実在の団体をあげることはあったが)
おもに海外の例をあげながら、
日本ではどうしたらいいかを 
個別レベルにまで落とし込んで解説を試みる内容。
 
おしまいに、
なぜだか、読み終えたときに あったかい
優しいきもちになれる本だった。
よし、あしたもがんばろう!と思える。
ぜひ多くのかたに読んでみていただきたい。

Photoshop。深キョン。『青の祓魔師』。吹奏楽コンクール断想。-160707。

Photoshopの新しい技をひとつ 
デザイナーさんに教えてもらい
仕事がとてもらくになった。
いままでいつも困っていたことを 
どう解決すればいいかがわかり
心配ごとが一気に減った。
心が安定。最高。
もう心配しないですむ・・・



深田恭子ちゃんの写真集 わたしちょっと見てみたい。



青の祓魔師』というマンガの
アニメーション版の新シリーズが
放送されるときいて うれしい。

以前放送されたアニメ版旧シリーズは 
当初は原作をなぞる形で物語が進行していたのだが、
とちゅうからオリジナルのストーリー展開となった。
それが自分にはそれほどおもしろい内容ではなく
最後のほうは、まともに観なかった。
もしも、オリジナルストーリーに切り替えずに
原作通りの展開で放送が続けられていたら、
「不浄王」という悪魔と戦う長編に突入していたはずだった。
個人的にはこの「不浄王」編こそ『青の祓魔師』の
ここまでの物語におけるハイライトだとおもっている。
なのになぜ「不浄王」編をやらずに、 
オリジナルストーリーに差し替えられてしまったのか
当時、本当に理解に苦しんだ。
「不浄王」編を放送しないなんて
じゃあなんのために『青の祓魔師』をアニメ化したのか。
そういうふうにおもったくらい、解せなかった。

そこへきて、ちかいうち始まる新シリーズは
まさしくその「不浄王」編を放送するという。
そうだよね! 
ぜったいそうするべきだとおもうわ、わたしも。
カラーで動いてしゃべっているところ、見たいもん。
すごくたのしみだな。
青の祓魔師』は 
わたしがあらゆるマンガのなかでも最高に好きな作品、
というわけではないし
「いま日本でいちばんおもしろいマンガはなに」と問われて
青の祓魔師』をあげるマンガファンは 
おそらくいないだろうともおもう。
でも とてもよくできた、安心して楽しめるマンガであり、
ずっと読んでいる。
これからどんな方向へ話がすすむかわからないが 
がんばってよい終幕へとかけぬけてほしいとねがう。



7月下旬から8月あたまあたりというと
思い出すのは吹奏楽コンクールだ。
コンクールなんてものがすきだったことは1回もないが
ある楽団にいたとき 吹奏楽コンクールの課題曲として
演奏した『吹奏楽のためのラメント』という曲は
あれだけはおもしろかった。
あの夏はよかったな。
ああいうふうにだったらまた 
コンクールにとりくんでもいい。
あのときは、音楽を解釈するということがたのしかった。


でも疲れたからもう今日は書かない。
またこんど。



タイヤに穴が開いている。

わたしは自分のことを基本的に 
穴があいたタイヤをつけた自転車みたいなもんだと認識している。
ほかのだれよりもわたし自身が わたしにまるで期待してない。
いままでにわたしを見限った人は、少なくない。
その人はけっしてまちがっていないと考えている。

でもその人たちがわたしを見限っても
さしあたりわたしは生きる必要がある。
(・・・ん? ある・・のか??)
そのとき問題になるのが
この「自分は穴があいたタイヤをつけた自転車」感覚だ。
どうあっても心から出ていってくれないこいつに一度とらわれてしまうと
だいぶつらくなって何日も浮上できなくなってしまう。
生きてきて幾度となくそういうことがあった。

でもここ数年はふしぎと その感覚がわいてこない。

しょせん自分なんてそういうやつだからなにやってもだめなんだよな 
というような 徒労感的なものにつぶされることがなく、比較的らくだ。
そういうやつだけどしょうがないだろ!
そういうやつは生きていたらいけないのか! というかんじになる。

たぶん けっこういま たのしいからなんだろうな。
なかでもここ2年間はたのしい。
体はほんと毎日 かんべんしてくれってくらい疲れてんだけど。
心は意外にも元気いっぱいでたのしい。
やだなーとおもうことも やりたくないこともいっぱいあるし
乗り越えられそうにない高さの壁ばっかり たちふさがってきて
きついけど・・・。こいつをどうやって制覇してやろうかと
必死こいて戦うのはたのしい。
あと 自分の力を常時120%以上発揮して戦うせいいっぱいのかんじが
いい。すっごいやだけど。いい。
使いものにならない系であるという烙印がすでにおされているからか
あまりそのことにかんしてモジモジしないですんでいるのもいい。

まわりはおそらくいい迷惑なんだろうが・・・。

仕事で昇格したことについて

編集者である。
ついこのまえまでは、戦力外通告一歩手前になったくらいの
まったく使えない系であった。
ひどいもんだったぜ。
すこしくわしくいうと、試用期間中に一人前になれると
判断されなかった場合は、さようならするのがきまりなのだが
わたしはその試用期間を、例外的にのばされた。
そしてそこをなんとかがんばって、首の皮一枚でここまできた。

1冊の本を作る過程を自分でぜんぶやれて昇格、一人前だ。
1冊の本を作る過程を自分でぜんぶやる係を 
わたしの職場では「進行」と呼ぶ。
去年、戦力外リストからようやくはずれて
ちゃんと正社員に登用された。
でも、その当時、わたしは病み上がりの状態にあった。
なんとか仕事を続けたくて飛ばし続けた結果、内臓の病気にかかり、
それが寛解したばかりであったのだ。
会社としては、病人なので、
正社員登用はするがまだ進行まではできねえだろうなという判断で、
わたし自身も「いま、これ以上仕事をしたら死ぬな」とおもっていたから
「しばらく、進行はやらない」ということになった。
進行をやらない人(一人前にはなれないと判断された人)を正社員にする、
というやりかたは
その会社ではいままで一度もやったことがなかったらしい。
(たとえ一時的にとはいえ)進行をやる能力がないと判断された人は
さっきも書いたように試用期間があけたらさようならするのがきまり。
「たぶんだいじょうぶ」とか「あと数か月待てば伸びるかも」みたいな
ことを考えているときりがないので、そのときだめならもうだめなのだ。

でも自分はほんとにそのへんがまさにスレっスレの
「帯に短し、たすきに長し」キャラであったようで
たまたまそうならなかった。
こんなイレギュラー対応をしたのは会社にとってはじめてのことで
あったから、
さぞかし とまどったんじゃないかなあとおもう。
一度「こいつは使えない」と判断されると、
その評価が改まる雰囲気が、客観的に見てもまったくない職場だ。
「使えない」と、まちがいなく判断されたのに、
なんでまたその判断が 改まったのかは不明。
まあいろいろと、キープしとこうかなとおもった事情は
あるのかもしれないが・・・ わからない。
わたしが使えるようになるのを待つよりは
新しい、できる人を、入れたほうがいいんだろうなともおもえた。
わたしをなんとかしようとして面倒をみてくれる
教育係の先輩もたいへんであったはずだが
わたしもすごくたいへんであった。

ただ、わたしのほうは 
まだこの仕事を続けたかったから、
まわりになんとおもわれようが、結果的に評価が改まることがなかろうが
さしあたりどうでもよく、
雇い続けようとおもってもらえるまでがんばろうとしか考えてなかった。
もっというならそんなことを考える余裕もあまりなかった。
体調管理と激務とのバランスとりに必死であった。

でも、今月、無事に昇格し、
もともとの話にあったように、進行もまかされるようになった。

病気がおちつき、
飲む薬が1種類にまで減り
数か月に一度の通院でよくなったことにくわえ、
じつは、この背景には、
先輩がひとり、事実上のドロップアウトをしたという事情がある。
先輩はいまも問題なく会社にきてはたらいてるが、
神経がちょっとまいってしまったのだ。

取引先があまりに理不尽な要求をしてくることにくわえ、
うちの職場は、職場環境という意味で、問題がかなりおおい。
「みんなでおなじ仕事をしているんだから仲間。味方。」という
きもちが、一部、希薄。
平気で人のせいにする、口汚く罵倒する、弱い者いじめをする、
新人さんいびりをする、辞める人いびりをする、
不条理なことでどなりちらかす、
回答に困るような意地悪な質問形式のイヤミをぶつける、
いらいらすると人やものに当たる、
さらに人間関係の地雷(あの人とこの人は表面上はみせないが
じつは犬猿の仲、みたいなそういうこと。)が無数に、
それこそ無数に存在し、
それらを踏まないように細心の注意を払いつつ、それでいて仕事は
とどこおりなく進めないといけない、なーんていう
ほとんどミッションインポッシブル的なかんじのあれだ。
性格が繊細であればあるほど、人を気遣うよき人であればあるほど
うちの職場では、無傷で歩ける道を見いだしにくくなるといえる。

ま、上にかいたようなことをするのはほんとうに一部の人であるのだが。
けっしておおきくない会社であるが 経営陣がそういうのを
調整することはいっさいない。
経営陣はそういうのではたよりにならない。
そういうのでは、というか
基本どういう意味においてもたよりにはあんまりならない(^^)
われわれはみんな信じられないくらい忙しいが、
個人レベルでお互いに助け合えたら助け合う、というかんじで生きている。

そんなこんなで先輩の神経はちょっとまいってしまった。
「外にも内にも自分の味方はいない。どうせ悪いのはいつだって
自分だけ。けっ」というきもちになってしまったわけだ。

その傾向は去年の夏ごろからすこしずつ見えてきていた。
そのときは先輩もがんばってふみとどまったが
今回はもう、ちょっとむりかな、というところまできてしまった。
先輩はプロジェクトの進行役をおりた。
かわりをさがしたところ、
まあ、べつにだれでもいいけど
・・・ こいつでいっか。
的なかんじで、わたしになった。

という経緯である。
いやはや。笑えねえ。

不安でしかたがなかった。
環境に対する不安もあるが、
なんといっても自分自身の適性ということで。
わたしはリーダーとかまとめ役というやつが
大の苦手なのだ。
とくに大人になってからは、さけてきた。そういう役回りを。
それにわたしが大人になってから所属した組織や集団は
どこも決してわたしにそういう役をさせようとはしなかった。
わかる人にはわかるもんなのだ。

もちろん、さきに書いたように、この職場においては
進行役ができて一人前である。
だから働き続けるならばわたしもいつかはやらなくてはならない。
なので 本心をいえばやるのは怖いけどそこはもちろんやることにした。

今月の進行としての仕事は来週末に終わる。
やってみてまずの印象は、
「外」からのプレッシャーは、事前の印象よりよほど軽い。
というか、こういうたぐいのやつであれば、
まえに働いていたことがある会社でこの400倍くらいのを
毎日感じてた。400倍というのは、おおげさとか適当ではなく、
自分が進行をまかされる案件(取引先)は毎月1から多くて2件なのだが
まえに働いていたことがある会社では400件あまりあり、
それを来る日も来る日も電話でFAXでメールで相手取り、
交渉に次ぐ交渉、折衝につぐ折衝、説得につぐ説得をしていたのだから。
そしてそれを3年間続けたが、わたしの精神は無事であった。

「内」からのプレッシャーは、どうかわからない。
わたしはもともと職場において
「ついこのまえまで使えなかったやつ」である。
まあ、みんなにゴキブリみたいに嫌われているとまではおもわないし
かげで悪口とか言われているとかもおもってはいないが 
使えないやつという烙印をおされていることは間違いない。
つまり元来が何もかもろくなもんじゃないので
不当な扱いを受けていてもいまさらそれをどうともおもわないというか・・・
あと、さっき書いたような 
職場の環境をぐずぐずにしている一部の人たちのことも、
わたしはずいぶんまえにそっくり受け入れてしまった。
この人たちを変えることなんてだれにもできないし 
わたしの役目でもないと知った。
そもそも、すでに書いた「前に働いていたことがある会社」において
もっと すっげー超いやなやつと わたしはパートナーシップを
くまされて 3年間一緒に働いていた。
わたしとここ数年間でも実際的なつきあいがある人なら、
そのあたりの事情をわたしから聞かされて、知っているとおもうが。
あのときにくらべたら・・といったらなんだが、
やっぱり、あれを知っているからな・・・ 
あれを知っているほうとしては、
ああいう人と3年間一緒にいても狂うことができなかった自分というのを
知っているわたしとしては、
まあ、いまの職場でも、すくなくともむこう3年は、大丈夫なんじゃね?
と考えてしまうのだ。
わからないけど。

いちばん自分が苦しむのは、
さきにも書いた適性の問題だ。
つまりほんとはこういうのが向いていないのにやることについての
自分自身の心の痛み的なやつがすごくある。
たとえば人にものを任せたりお願いしたりすることが
破滅的に苦手であり、
そういうのができないやつには、中型~大型船の船頭はむずかしいのだ。
できない自分には苦しんでる。すごくいらいらさせられる。
胸の奥や胃に、こげつくような痛みを感じる。
できないのにやるときに生じる激しい違和感と苦痛に悶絶してる。
でも、そんなとき、自分のプロジェクトに今月参加してくれた先輩が
「進行やるとき、そんなまわりに気回さなくていいですよ」と
いってくれて、「そうします!あざっす!」と
わたしも笑うことができたから
なんか、その拍子に あ、大丈夫かも。と思うことはできた。

まあ、いい機会だとおもうからがんばる。なんといってもまだ
1回めだからな。
まいってしまった先輩はこれをすくなくとも2年間がんばって
それでちょっと疲れてしまった、ということなのだから
わたしもすくなくとも2年はがんばる必要があるだろう。