BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

ちょっと馴れてきた営業さん/いいわけする脳みそ-190422。

先週の締め切り日のこと。
予測外の注文が同時多発的に殺到し
大変なことになった営業さんがいた。

彼女 すごく仕事がデキる。
どんなに忙しくてもいつもなら
たいていひとりで全部やる。

画像の加工処理とか受注登録とか
自分でできないこと、
自分のパソコンにソフトが入ってなくて
やれないといったようなことは
内勤スタッフに依頼するが
基本的にぜんぶ 自分でやる。

まれに、内勤スタッフに依頼するときも、
わたしにはけっして言ってこなかった。
じつは彼女 
人見知りがきわめて激しいそうで、
なかなか打ち解けてくれないよ、
誰に対してもそうだよ、と
まえもってほかの人から
聞かされて、知っていた。
おかげでわたしも、
なんか彼女にすごく嫌われてる・・・とか
つまらないことで悩まずにすんではいた。

ただ、1年おなじ職場で働いていながら
1回も 彼女に頼られたことがなかった。
ほんの1文字2文字の誤字修正すら
やらせてはもらえなかった。
人見知りのうえに デキるので
彼女は基本的にぜんぶ
ひとりでやる。

でも、この締め切り日は
ほんとうにほんとうに
忙しかったみたい。
内勤スタッフのデスクがならんでる
シマにかけよってきて
だれか原稿手伝ってくださ~い涙と。
そんなこと彼女がいうの
すごくめずらしい。おどろいた。
とっさに「あ、やれますよ~」と
手をあげて応じたら
すんなり お願いします~と
ファイルをよこしてくれた。
きわめてめずらしいことだった。

ぜんっぜん慣れてくれないネコが
どういう風のふきまわしか今日だけは
ヒザにのってきた、ってときくらい
衝撃的な感激を味わった瞬間だった。
でも、ここで興奮して
「おまえ ヒザにのってきたのか~
どうしたんだよ~ カワイイなあ~」
とかいって
わしゃわしゃ体をなでたりしようものなら
とたんに嫌われて今度こそ二度と
近寄ってきてくれなくなる。
それはあきらかだ。
わたしはあえて平静をよそおった。
そしてこのチャンスをむだにしないよう
原稿の修正を完璧にかつ迅速に終え
彼女にファイルを戻したことであった。

そして週明けて きょう、
なんかちょっとあの営業さんの
わたしへの態度というか
接しかたみたいなものが かわった。
自分からほんのちょっと
話をしてくれるようになったし、
会話が続くようになった。
廊下ですれちがうとき
にっこりわらって
おつかれさまです~と
言ってくれるようになった。
(それすらもこれまではありえなかった)
カワイイ・・・
やはりツンデレのネコちゃんみたいだ・・・
苦節1年。(苦しんでないが)
退職1ヶ月前にしてやっと
ほんのすこし 信頼してもらえるようになり
彼女との心の距離を
ちぢめることに成功したようだ。
気の長い話だ・・・

・・・

今月の4月8日、おもに都内において
事故や機械故障などによる
電車遅延が多発し、
通勤通学や入学式にむかう人たちの
足が大いに乱れた。
わたしが朝乗った電車も
15分くらい遅れたと記憶してる。
ある駅は入場規制がかかるほどの大混雑
押されて転んでケガをした人もいたらしい。
しかしそれだけのことになったにもかかわらず
こりゃだめだ、と家に引き返した人や
タクシー、バスに乗り換えた人は
駅に残って いつくるともしれない電車を
待ち続けた人たちにくらべたら
圧倒的にすくなかったという。
そのできごとをうけた
このような記事を読んだ。

「通勤ラッシュ時のトラブル 駅が大混乱でも電車を待ち続けるワケ」

www.moneypost.jp


ネットユーザーたちのコメントは、
この記事における識者の見解に
たいへん批判的だった。
識者はまあようするに
日本の電車はふつうすごく時間に正確だから
待っていれば必ず時間通りにくるので
それに慣れきっていると行動も思考も固定化し
自分で考える力が鈍くなる。
それに、みんなとおなじに、という
いわゆる同調圧力がとても強い社会であるから
いざ電車が来ません、って事態が起こっても
ではどうしようかと考えて
自分にとって一番いい行動をとるってことができなくて
だまってその場で待ってしまうのだ、と。
こうした見解への
ユーザーコメントのおおくは
「違う。これまでの経験上 ほかのアクセスで
行くよりもこのまま電車を待つほうが
結局早い、ということを経験上知っているから
意図して待つのだ。
なにも考えていないわけではない」
といったものだった。
考えることができなくってついぼーっと
みんながそうしてるから自分もってかんじで
待っちゃう自分を 指摘された気がして
はずかしかったんだろうか。
そんなコメントがじつに多かった。

べつに、ぼーっと待っちゃってるのが
はずかしいとかそんなことを
おもわなくても
いいのではないかとはおもう
だが、なぜそんなにも
「自分は考えているぞ」
ということにこだわるのかなって気はする。
考えることは考えないことよりも
えらいんだろうか。

「自分が考えている」などと
なぜ言えるのか?

この1年で
頭って、いいわけするんだなってことを
思い知った気がする。
頭は、ものすごくもっともらしい
筋の通ったいいわけを
わたしに考えさせておいて、
わたしの体や行為を
コントロールしてくるのだ。
脳がわたしの体を動かすにあたり
わたしに納得感がないと苦しいので
大義名分をあたえたうえで
わたしを行動させている。

わたしは、自分の思考のすべてが
自分の意識によって制御されて
なされているものであるなどと
もはや おもわない。
わたしは自分の頭に
動かされているとおもう。
自分で考えてなんでも
やっているとおもったら
おおまちがいだ。

自分が動物だってこと
忘れちゃいけないと思う。
わたしは自分の心も体も
コントロールできてたつもりで
まったくできてやしなかったことを
できないのだ、ということを
すごく知った。

自分の頭に動かされている、
考えさせられているんだという側面を
知っておいた方がいいようにおもう。