BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-『三度目の殺人』/ごく一部のシーンについての感想と解釈-170919。

※公開中の映画の内容に触れています。

『三度目の殺人』
是枝裕和監督
2017年、日本

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www.youtube.com

主人公は
刑事専門の弁護士、重盛(福山雅治)。
たのまれて、しかたなく、 
弁護側にとって不利な案件
すなわち死刑がほぼ確実視されている
案件を、引き受ける。
被告人は三隅という男(役所広司)。
勤め先の工場をクビになった直後、
工場長を川べりに誘い出して殴り殺し、
ガソリンをまいて死体を燃やした。
被害者の財布も盗んでいる。
自白ずみ。
三隅は、30年前にも殺人をやっている。
そこへもう1件やったとなっては、
しかも金目当ての強殺とあっては
これはもう死刑でカタいのだが
重盛は 引き受けた以上は
・・・というので
無期懲役を狙えないものかと、
事件をもう一度 慎重に調べ始める。
この三隅、どこかおかしな男だ。
会うたびに供述が二転三転し、
そもそも動機もはっきりせず
なにを考えているのか 
いまいちよくわからない。
しまいに三隅は 
工場長殺害は、被害者の夫人
斉藤由貴)から頼まれてやった、
と 新事実をほのめかし始める。
被害者夫人と不倫関係にあり、
工場の経営がかんばしくないから
夫を殺してくれないか(保険金目的)
と、依頼されたというのだ。
それがたしかなら被害者夫人が
殺害を指示した主犯ということになり
三隅の量刑が軽くなる可能性は
でてくるのだが・・・。

そんななか、
被害者の娘・咲江(広瀬すず)の存在が
クローズアップされてくる。
じつは三隅と咲江には、交流があった。
ふたりの関係を探るうちに、
重盛はある 重大な秘密にたどりつく。

三隅はなぜ工場長を殺したのか。
本当に工場長を殺したのか。
彼でないなら 誰がなぜ殺したのか。
三隅のいうことの
どれが本当でどれがウソか。
被告人の心に迫るうちに
三隅がかかえる大きな闇に
のまれていく重盛。

・・・

<感想>
是枝監督の作品では
あまり多くの人には 
好いてもらえないほうのやつだろう。
クライムサスペンスのようでありながら
だれがやったか、
なにがなされたか、
なぜなされたか、
ではないことを 表現してた、
法廷を舞台に。 
そうである以上 
好かれないことがあっても
しょうがない。

おもに反射を利用した
シャドーの表現が、
きれいだったし、うまかった。
どちらがどちらの
シャドーなのかについてもふくめ。

さいしょは、
「三度目の」ではなく
「三つめの」のほうが
適切ではないかとおもったが、
自分の理解のまちがいにあとで気づき、
三度目の、でよかったと考えなおした。
でも 三度目の殺人が 
どれを指すにせよ
前の2回とはやっぱりあきらかに
質がちがうとおもうけどな。

役所広司福山雅治斉藤由貴が光ってた。


・・・

<自分なりの解釈>

咲江は父を殺してない。

さいしょは、
咲江にもなにか 
贖うべき罪があるらしいことを
確信してた。
というのも、
まず、
物語のなかで
印象的につかわれるマークとして、
十字架があった。
三隅・咲江・重盛の3人で
雪遊びをする
ファンタジー的シーンがあった。
彼らが地面にねころぶ姿を 
上空からとらえていた。
重盛が「大の字」なのに対し、
三隅と咲江は両足をとじて 
「十字架」の形でねていた。
そのシーンは 
まだ、
三隅が工場長を殺した線で疑いない、
という段階で でてきた。
だから
十字架=殺し=罪 
だと 理解した。このときは。
咲江をめぐる ある事実が
あきらかになったとき
じゃあ 咲江もあのシーンで
十字架の形で寝てたから、
彼女もなにか罪を犯したんだな。 
とおもった。
すなわち、
工場長殺害の真犯人は
工場長の娘である咲江。
咲江をかわいがっていた三隅が
その罪を肩代わりした。
または ふたりで協力しあって
工場長を殺害した。
そのように考えた。

でも、もう少し観ていくうちに
この物語における
「十字架」の意味付けが
もっと多岐にわたる
可能性に気づいた。
はっきり言うと
「十字架」=「死」
じゃないかと。
「罪」じゃなく、
「贖い」でもなく。

タイトルが意味するものが
三隅の
「死刑を利用した自殺」 
「塀の内側にこもることによる社会的死」
だと したとき
物語における「十字架」は
イエス・キリスト以前の
十字架の意味であるところの
「死」、とおもえた。

十字架、十字架による磔刑
痛いし 長く苦しんで死ぬ。
また、ユダヤの律法において、
極めて重い罪を犯した者か、
悪事をはたらいた奴隷に
適用される刑だったそうだ。
極めて重い罪を犯した者、とは
当時でいえば政治犯
政治犯、とは 
ユダヤの律法を犯した者、
瀆神行為をはたらいた者、
に、ほぼ等しい。
ユダヤ教は生活密着型・民族型の
伝統宗教なので 
当時のパレスチナでは
「あなたはユダヤ教徒ですか」
とかいう問題じゃなく 
ユダヤ教こそ生活であり文化だった。
だからイエス・キリストも その意味で
ユダヤ教徒だった)
十字架による磔刑
死刑なので、死ぬ。
それに、
律法を犯した者や 
奴隷という存在などは、
生前から社会的に死んでいたようなものだ。
したがって磔刑にかかることは
「死」そのもの、という共通認識が
当時の(十字架刑があった地域の)
人びとの心にあった、と聞く。
イエス・キリスト
十字架刑によって死んだとき、
この世のすべての人の罪を
その一身にて贖ったことになったので
あとから 十字架=贖い、という
意味付けもなされたが、
イエス・キリストより前の十字架は、
贖いとかではなく
まず 死、という意味だったようだ。
もちろんそれにほぼかぶる形で 
罪、の意もあったろうが。

で、
三隅と咲江が
十字架にみえる形で寝転んでいたことに
見られる意味とは

「三隅も咲江も罪を犯した
(→十字架刑に処されてしかるべき人間)」
ではなく、
「三隅も咲江も
(それぞれの理由で)
死を求めている、
あるいは死者(同然である)」
ではなかろうかとおもうのだ。

「生まれなかった方が、その者のためによかった」
という言葉が聖書にあったとおもう。
イエス・キリストがユダを指して
言ったんだったかな。

生まれてこない方がよかった人間だと
三隅は自分のことを思っている節があった。
咲江も 14歳を境に 
そのくらいおもいつめても
しかたのない日々を
強いられるようになったことが 
わかっている。
幼時はそんなこと思ってなかっただろうけど
虐げられると 人は自罰的になるのだ。

十字架の意味が 
イエス・キリスト以前のものなら
「生まれてこない方がよかった」
またはそれに類する作中頻出ワードを
イエス・キリスト以後と
つなげるのはおかしい ということに
なるかねえ。
三隅がクリスチャンかわからないし。
三隅の借家にお仏壇か
それに近いものがなかったか・・・

でも、
もしあの十字架が「罪」を表すなら、
小鳥のお墓に十字架つけないとおもう。
小鳥は悪いことをしてないんだから。
くわえて、
十字架イコール贖い、赦し
(あなたの罪はゆるされた)だとなると
工場長の死体を
十字架型には意地でもしなかったはずだ。
やったのが三隅だとしても、咲江だとしても。
だけど「死」そのものの意ならば、
小鳥のお墓に十字架を付したのも
被害者の死体をわざわざ
十字架型にととのえたのも
三隅と咲江が十字架の姿勢で寝転んだのも
ある程度、納得がいく。

三隅がクリスチャンか
わからないと さきほど述べたが
クリスチャンではないとしても 
それだからこそ
十字架に付す意味合いを
うろおぼえ 初歩程度の教養 知識により
気分で使い分けてみた
(という設定)、
と考えることも可能になる。

小鳥→死んだ→お墓に十字架=「死」
三隅→死にたい→十字架=「死」
三隅→罪人→十字架=「罪」
三隅→咲江を救って罪を贖う?→十字架=「贖い」
咲江→心が死んでいる→十字架=「死」
工場長→悪いやつ→十字架=「罪」
こんなふうに 
同じ十字架でも全部意味がちがう
・・・ということであっても
べつに ありといえばありだ

たぶん正解がないから 
わからないね(^^)

また、
三隅の多面的なキャラクター。
自己韜晦か、素か。
発言とその意味との狂的変動。
ヤバそうに見えるが 
まともにも見える。
人を殺すけど守ろうともする。
救いたかったのか、
助かりたかったのか。

彼がどうしたかったのかもあるが
まわりが彼をどう見たいかも からむ。

これらをはっきりさせることも
難しいことに
あとで気がついた。
つまり三隅とはこういう男です、と
わかりやすく評価することはできないし
そうすることにあまり意味がない、
という点こそが
この物語のポイントだ。
なぜなら両立するから。
真逆の思いも 
ひとりの人間のなかで両立する。
もちろん、段階により境遇により、
いろんな思いのどれかひとつが 
一番だいじなもの、というかんじで
当人を形づくるように
見えることが おおいのだが。
両立し、表に見える面が 
くるくる変わるから
見えかたも変わる。

本人が見せたい面と 
まわりが見たい面とが
マッチすれば・・・
「自分はこう=この人ってこう」
と 一応なって、オーライ。
なのかなあ。
それもちがうか。


三隅が一羽だけ
逃がしたという鳥は
咲江、だろう。
退廷する三隅が、
傍聴席の咲江には目もくれず、
両の手のひらを お椀にして上にむけ、
いましも そこに包んだ小鳥をはなったように
空をみやる姿が印象的だった。

容疑者Xの献身の 
あの数学者のように、
三隅のなかでは 今や咲江だけが、
光であり花でもあった、と
一応 いえる。

でも咲江さえも、
三隅にとって 
いつも最重要事項でなかったとしても
べつに おかしくはない。
変わるのだ。人は。

三隅は控訴しないんだろう。

咲江も闇が深い子だ。
広瀬すずちゃんは
そう おもわせる演技が上手だった。
自分の罪を他人がかぶってくれている、
というとき
そう平気でいられるもんじゃない。
それもあって わたしは
咲江は父を殺してないはず、
とおもっている。
だが 殺しててなお 
あのように平静でいられる子、
と おもわせなくもない演出だった。

北大志望であることを
におわせてたが
母がまだ志望校を知らない
設定にしておいたほうが 
よかったんじゃないかなと 
わたしはおもう。
進学は、咲江の 
生きよう、という
最後の意欲のあらわれに
ほかならず、そこにはギリギリまで 
母が からまなかったほうが
よかったかんじがした。

咲江は 法廷でついに話さなかった
あの重大な秘密を
このままずっと 
だれにも明かさないのだろうか?
それで彼女が救われるのか
気がかりだ。

咲江の足のハンデの真相が
「生まれつき」なのか
「高所から飛び降りたことによるケガ」なのか
が ゆれたままなのが 
少し気になった。

ほんとは飛び降りたのに
生まれつきとウソをいうなら
なにかわかる気もするのだが、
生まれつきなのに 
飛び降りてケガをしたとウソをいう、
というのは解せんな と。
どちらのウソも 
状況が状況なら無意味なのだが。

しかも咲江は
「え? ウソじゃありません、
ほんとに飛び降りたんです」。

「ほんとに飛び降りたんです」。

飛び降りたのはなぜ。

うそを言う子キャラ という
ブラフってことでいいだろうか。
うそを言う子も
ほんとうのことを言うことは
もちろんあるし。

まだまだほかにも
理解のしようがありそうだ。

小説を読む気にはならない。
こういうとき小説を読むと
小説がほんとにつまらなく
おもえてしまう。
何度それで悔やんだか。

もう1回くらい 観ようかなあ。
もう1回観たら観たで 
先入観がはいってしまうからなあ・・
虚心に観られたら一番なのだが。

「ダンケルク Dunkirk(2017)」3回め。

ダンケルク
Dunkirk クリストファー・ノーラン監督
2017年、英・米・仏・和蘭

movie.walkerplus.com

 

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午後から予定があったから
ものすごいムリな早起きをし 
低血圧と頭痛のなか 3回めを観てきた。
3回めでも少しも飽きない。
衝撃は薄れない。
むしろ飽きたその先に見えるものが早く見たい。
飽きるまで何度でも観たい。
よくよくふりかえると
観ているあいだ なんの言葉もおもいうかんでない。
自分がどんなふうに 身じろぎをして
いつ足を組み替えているかとか わからない。
すくなくとも自覚できるかぎりでは
やばいくらい無心にちかい状態で 観てる。


だが
3回めにしてトム・ハーディが出てることに気づいた。
出る映画出る映画 ぜんぶ顔がちがう気がする あの人!
隊長の声がたぶんマイケル・ケインであることにも
3回めでようやく気づいた。
キリアン・マーフィの眼があいかわらず美しい。
どうしてもあの眼の青色、見せたいね、監督!
キリアンの役どころがどうも謎。
考えればわかることのような気もするから考えてみたい。
エンドクレジットとかに答えがあったりするんだろうか。
つぎはオペラグラスを持って行って 
細かい字に目をこらしてみたい。


わたしはすっかりこの映画に恋をしてる。


戦争を描くというのではなく サバイバルを、
生き残ろうとする行為そのものを描こうと
しているところが ほかの戦争映画とかなり違うようにおもう。

キャスト自身、「自分が生き残れる役なのかどうなのか」を
わかってないで演じているのでは、とおもわせるくらい
残酷で、かつ うすらさむいほどリアリスティックだ。
登場人物が、
「自分は最後まで死にませんよ」
「ぼくはこの次の爆撃にふきとばされて死にます」
といったように
自分の結末をわかっている。ってことが、
観客にバレてしまう物語ってのは もちろんいけない。
台本があるのだから 役者は自分の役がどうなるのか
わかっていてあたりまえなのだが、
役者がわかっていても、
物語の登場人物たちが ちゃんと 自分の未来が
わかってなく見えるように
演じられてるかどうかということ。

ダイ・ハードマクレーン刑事が
殺しても死なない男であることをわかっているのは
観客だけでなくてはならない、のとおなじで、
その逆もまたしかりであるとおもう。


リアルだ。
でもちゃんとフィクションで
ちゃんと最終的には物語だ。
ちょっと 古い英国文学・・・バイロンみたいな 
ああいうのを感じさせるような 
きどったセリフとか ふいに入れてくる。
セリフがほとんどないうえに 
ほぼ飾りっけもへったくれもない業務連絡ばかりのため
そういうセリフだけ はっきり浮いて聞こえるのだ。

「いやあ、物語なんですう。すいませんねえ(^^)」。

耳元でささやかれて一瞬正気にかえりかける
そこまで含めて 
わたしは監督の てのひらのうえだ。


血があまり描かれない。
状況的にはちょっとした湖ができるくらい流されているはず。
流血シーンのたび バカ正直に「赤」を出してたら
画面にまんべんなく色彩がでてしまうから
血はもういいや、と、避けたのかなとおもう。
色彩をだしたかったのであろうポイントが明確に用意されてて、
だからこそ 痛みをともなうほど効いてる。


それは音楽も。
あの音楽。
時限装置みたいな時計の音。

怒る人は頭がいい人だと思ってた/羽生善治さんすごい/新しい道に。-170915。

わたしは
怒りの感情表現ができる人を
基本 尊敬してきた。

自分に自信があるから
怒れるんだとおもって。
自分の意見の正当性に
自信があるからこそ、
怒るという、
もっとも人にイヤがられる表現手法を
まよわず選んで 
自己主張できるのだと。
それに、怒るって、
ある意味スピード勝負だ。
頭の回転が速くないと
できないんじゃないかな。

怒っている人は、怖いけど、
一方で、この人はほんとうに
スゴイ人だなあ、と感じる。
基本は。

でも、わたしの職場の
上司などをみていると、
というか
怒っているいろいろな人を 
いろいろな場面でみていると、
「尊敬に値する怒りかた」
じゃない怒りかたも あるようだな
と気づかされる。
怒りの発露のしかたではなく
なぜ怒るのか、のほうの
ことだとおもうが。

もっと広く深く細分化して
考えなくちゃいけないことのようだ。

・・・

台風が接近している。
こういう激しい荒天 
天候の急変が近づくと
いわゆる天気痛とか
気圧痛とか ああいうものなのか
重い頭痛に悩まされることが多い。
とおい過去にやった骨折とか・・・
ふだんはおとなしくしている
自分の体の弱点という弱点が
一気に暴れだすことも。

でも気象予報で
事前にだいたいわかるから
むりしないで休み休みやるとか
前日ないし数時間前に
薬をのんでおくとかすれば
まあかなり大丈夫。
そううまくいかないことも多いけど。
今回はどうか。

・・・

将棋の羽生善治さんが
いかにすごいかを
最近ようやくそこそこ理解した。
将棋のすごい人、という認識しか
なかったのですが
なにがどうだから
すごい人なのか の部分を
ある程度のみこんだ。
すごい人だ(^^)

羽生善治さん以外にも
強い棋士がたくさんいることも
同時に理解し、
どの人の経歴にも強さにも感嘆した。
しかし、
どこかのサイトでみた 
次のようなメッセージ
「仮に
将棋星人みたいな 
将棋がめちゃくちゃ強い異星人が
地球に襲来し、
地球代表と対局して 
勝ったら地球をもらうぞと
いってきた場合(そして断れない場合)、
地球代表はやっぱり 
羽生さんじゃないとイヤだろ。
強い棋士はほかにもいるが
こういうときは
羽生さんじゃないとイヤだろ。
羽生善治なんてたいして強くない 
とかいうやつは
地球規模で考えろ」

よくわからないようで
なんとなくわかる

・・・

10月からちょっと
新しい道に 
ふみこんでみることにした。
かんがえたすえ、
いったん来春までのおためし。
大丈夫そうだと思えたら、
来春からは本格的にその道に 
いきたいものだとおもっています。

ここからの半年間、
来春から本格的に
やっても大丈夫だということを
自分自身 よくチェックするために
一生懸命 おためしする。
つっぱしって 
まわりが見えなくなりがちな 性格のため
周囲の意見をきく心の余裕があるうちは 
ちゃんときこうと心がけて・・・いても
失敗することが多々だが・・・
今回は ちゃんとできた(^^)

なんといっても 
自分のまわりには
優秀な友人、思慮深い友人、
わたしよりもわたしを
よくわかってる友人、
経験ゆたかな先達が
たくさんいて、たすかってる。
かれらアドバイス
いつでもちゃんと聞いて 
行動や思考に反映させられる
・・・わけではないことを
悪いなとおもっているが
いつだって 感謝している。

決めるのに多大な勇気を要した。
自信がないから
自分に投資する勇気がもてなかった。
でも やらなくっちゃ
後悔するだろうなと考えた。
そう考えるとたいていのことは
「やっぱ やる!」って なる。

失敗だとおもったら 
やめることもできるのだし
がんばろうとしている今は
せっかくなので
せいいっぱいやってみたい。
あとは仕上げをごろうじろ。

必要は成長の母/お誕生日会で巻く締め切り/ジェット・リーのメガネ/生体反応

書く速度は結局そんなに
アップしていない実感があるが
本を読む速度は
上がった。

こんなことできるなら なぜいままではできなかったのかと。
(わたしはヒマさえあればその手のことを思ってるな(^^))

必要な情報を頭にたたきこむ速度が
上がったことにより、
書く速度はそんなに速くなくても
余裕をもって仕事をすることが可能になった。

まえはとうていできなかった納期で
とうていできなかった仕事量が
こなせるようになったかとおもう。

それでももちろん 
大変は大変だ。
だが人間 必要にせまられると飛躍的に成長する
ということを、この仕事に就いて身をもって知った。

あきらめるとかあきらめないとか以前であり、
できるとかできないとかも関係ない。
ただ必要だったため、やった。
するとできるようになった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

毎度のことながら
きょうもすごくつかれた。
なかなか飛ばしてる。
あしたも飛ばす。
あしたが正念場だ。
きのうの段階でとつぜん、
締め切りが当初より24時間も早まるという知らせが入り
自分なりに立てていたスケジュールが
ぜんぶ狂ってしまったので
正直 愕然としたのだが
(わたしだけでなく社内の全員そうだが。)
その理由が 
取引先の都合などでなく
わが社の上司が どうしても金曜の夜の 
お子さんのお誕生日パーティーに参加したいから、
であることを 今日知った。

だいじ(^^)!!

いさぎよくすべてを 文字通り あきらめ
24時間巻きへの対処案を
ひねりだす方向へと転換。

こうなると
家に帰っても 
自分のことをする時間がほとんどもてないのが
つらいといえばつらい。
だが これがずっと続くわけじゃない。
今週いっぱいはひとまず なんとかやるつもりだ。
この先の さらに先のことをかんがえると
やや暗いきもちになるんだけれど。

のんびりやさんの取引先とのバトルもつづく。
当方のメンバーにしわ寄せが きすぎないように
責任をもって 納期調整に努めなくてはならない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あまりプライベート関係のことにかかずらっている
余裕が いまはないのだが、
SNSで友だちの投稿を読んだり
フォロー中の 映画俳優や音楽家が投稿している
映像や音楽を 聴いたりするのはたのしい。
最近それで気になっていることがひとつあるのだが、
近ごろのジェット・リーがかけている
丸フレームのメガネ
彼の顔の形だと どうも似合わないから
よしたほうがいいとおもうけどな・・・。

「ブラック・ダイヤモンド」のときの
サングラスも
絶望的に似合ってなかったんだけど
(たぶんフレームと眉の距離感の問題か
頬骨の高さの問題というかんじがするんだけど。)
今回はさらにその上をいっている。
本人はどうおもっているのか。
かなり高い確率で どうともおもってなさそう!!
自分で買ったかどうかもあやしいものだ。
旅先で出会う 仕事の関係の人かなにかに
たまたまプレゼントされたものを 適当にかけている
というかんじがすごくする。
ジェット・リーには おしゃれで美人の奥さんや
お年頃のお嬢がいるのに
身に着けるものにアドバイスしてもらえないんだろうか。
パパ それヘンよ!って(^^)
なにしろ身なりにかまわないんだよね彼って。
だれかに冗談で
李大哥、そのメガネお似合いですね(^^)(・・・ププッ)とか
言われたのを すなおに信じちゃったのかもしれない。

そこがまた 彼のすてきなところではあるが。

ジョゼフ・ゴードン・レヴィットと
レナード・バーンスタイン
カラヤンのページの
投稿はいつもおもしろい。

あと、わりと普段
コンスタントにログインしているように見受けられる
友だちが
何時間も姿を見せず 内心 やや気になりだしたところへ
ひさしぶりにログインの形跡をみせたことに気づいたとき、
それが 今くらい遅い時間帯だったりすると
「ひさしぶりだねえ。おつかれっ。」とか
ふつうにパソコンごしに声をかけてしまうことがある(^^)!!!
大丈夫か!
われながら
いろいろ末期だな。

だが 友だちが元気にしているようだという 
その生体反応が
SNSを介してそこはかとなく 感じられるだけでも
ほんとうに ちっちゃな、
しかしかけがえのない
救いになったりするわけよ。
言ってもしょせんSNSだけどね(^^)

体に気をつけて、元気でいてね。





生きていくうえでなにに重きをおくか/伝える

生きていくうえで何に重きをおくか、か。
え、それって 
具体的なかんじじゃなくてもいい?
家を買うこととか
結婚する、子どもを育てる
社会的成功
将来の安泰 とか
愛する人の幸福 とか
そういうのじゃなくてもいい?

この問いへの答えになってるかどうか
自分でもわかんないんだけど

わたしは
なぜ自分が生まれてきたのか、生きるのか 
答えを知らないでは死ねないんですわ。
そんなこと考えるのはつまらないから やめなはれ、
と いわれても むり。
重きをおくというか
気になってしかたがないのです。
これが わかるならば、
みんながほしがるような ほかのものが
なにも手に入らなくてもかまわない。
逆にそれらがすべて 手に入っても
自分がなんで生まれて生きるのかが
わからないなら わたしは苦しいままでしょう。
ずっと気になり続けるのだから。
棄てられるとおもっていましたが。なんらかの契機があれば。
でも、やはり、答えをつかまえられないかぎりは
棄てられないとおもいます。この気持ちは。
そんなことを思いますよ。

ほかの人も みんな、程度の差こそあれ
にたようなこと考えているんじゃないかと
わたしは 現時点では おもうことにしているのですがね。
そこんとこマジでどうなの(^^)???
似たようなこと考えているってんなら
たのむからわたしと たまにはその苦しみを
分かち合ってくれませんか(^^)!!
苦しいですよね! たまったもんじゃありませんよね!
わかるーってかんじじゃありませんかね。
そうならそうと お願いだからわたしに
耳打ちしてくれませんか。
そうしたら わたしもどれほど楽になれることか。
ほんのたまにでもいいんです。
だまってないで!
わたしはいつだって 公表してますよ、
このように。
はずかしがらずに、さあ(^^)!!


生きていていい、という絶対的な承認がほしいですね。
すくなくとも 生きるあいだ、消えない承認が。
それさえあれば 
なんかもうちょっとラクかもなあとか
思います。
しょっちゅう思います。
なぜ、それがない、と これほどまでに感じるんでしょうか。
なぜ それがないという感覚が こんなにも苦しいんでしょうか?
不明なのですが。
だからそいつを獲得することが
わたしが生きていくうえで重きをおくこと の内容
なのでしょうかねえ。
わからないな。
そうでもないようなかんじもするし。
もっとほかのことに重きをおいているのかもしれません。
これから変更になる可能性も。

でも そうした焦燥 渇望から
自由になったときのきもち、ってのが
もしもあって、
そして生きてるうちに そいつを味わえるんならば、
一度でもいいから体験してみたいとおもいますね。
意外とたいしたことなかったりするんでしょうかか(^^)

幸せの青い鳥はさいしょからそこにいたのです的な。

うーん ほんとにわからないな。
そもそも どうやったらそんなたいそうなものが
生存承認というものが
えられるのかもわかりませんよ。
どうなれば 承認をえた、と自分が感じられるのかが
わかりません(^^)!!!
なんなんでしょうか、それ!!!
承認をえたいと思っているふりをして
そのじつ ほんとは認められでもしたら困るんですけど、
と 内心逃げているんだったりしてね。
つまり苦しんでいる自分に酔っているとか?
(もう話がややこしすぎますね。)


大前提としまして、
わたしは自分の価値的なものは 
まるで信用できません。
これっぽっちも。
そんなもの信用できるわけないです。
自分の価値なんてもの信用できないってことを
自覚してしまっているから もう解除は困難です。
でも
あきらめているわけではないし、
なげやりになってもいません。
とてもイタイ人であるとしても。

というのも、
場合によっては「役に立てる」、ということは理解するのです。
人とかかわるとき そのかかわった人とのあいだに
ちょうどまんなかのところに
なんか生まれるな、ってことは理解するのです。
つかのまだが、そのときだけのことだが、
たぶんそれこそ 価値ってものなのかなとおもいます。
だとすればわたしという単独の存在には
価値なんてものは やっぱりないのかもしれません。
でも 人とかかわったときあいだにうまれるものが
価値だ というのなら、
それなら、 わたしは仮に 
自分自身に絶対的価値がぜんっぜんないという結論を
あらためて つきつけられたとしても、
(今はそれを 怖がっているけれども)
そんなこと ぜんぜん平気でしょうな。

なにそれ!! 
まだまだ思考がたりない思考が。
ぜんぜんたりてないですよー。

場合によって自分が役に立てることは理解。
だから勉強します。
新しいことをちゃんと吸収します。
成長する努力をおこたらないようにします。
なまけません。たゆみません。
そして人と できるだけちゃんとかかわります。
つらそうにしている人の味方にちゃんとなる努力をします。
つらそうにみえなくても つらいのかもしれないと
考えることをわすれないようにします。
自分にできることはそんなもんでしょう。


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人を愛するとき、
愛しているということを
伝えられればなあ。
できんのです、それが意外にも。

以前はそれをするにあたって
相手がわたしを 
求めてくれるかくれないかなんてことを
そんなに気にしてませんでした。

わたしがその人を愛しているということを
まえは いっさい怖がることなく
またある意味では 相手の都合も考えず
ばんばん 伝えることができてしまっていたのです。

人のことを好きになると
自分がそんなたいした存在じゃないってことを、
つい忘れがちになりませんか。
なんなんですかねこの変な 全能感。
バカなんじゃないかと(^^)
いかに異常事態であるかがよくわかりますね。

気持ちを投げたとき 
返ってくるかこないかの可能性について
考えて 当然なんですけど 
ちっとも考えませんわな。

いままでは たまたま、
同質のものが 返ってくる可能性が
いつもありませんでしたので、
ある意味 安心してたのかもしれませんけど、
(安心てなんだ! へこめよ(^^)!!)

でもよく考えますと
もし返ってきてたら とても問題になったことも
あったと 想像されます。
仮に返してもらってもですよ、
じゃあその人が望むなにかを ちゃんと与えてあげられますか。
っていわれると 与えられるものとか一個もない! 
みたいな。

お金を一銭ももってないのに これ買いたいんですけどって
レジまでもっていってしまう、
みたいなかんじでしょうか。←ちがう。

蛮勇というか無謀というか 無策というか
考えなしというか 間抜けというかまあ
アホですねえ。ほんとうに。

でも、
アホですけど 罪はないってかんじ。
なんか そのほうが 今の自分のスタンスよりも
まだよかったのかな とかおもうのは
まちがいなんだろうか・・。
すくなくとも まあよくいえば
果敢にして率直ではあったとおもわれ、
その点は評価。
また、正直でもありました。
べつに 悪いことではなかったでしょう。
うそはいいませんでした。
相手がイヤがっているのにしつこくせまるみたいな
そういうこともしなかったわけだし(^^)
わたしは常に本心を
伝えてもさして問題がないときに
さして問題のない程度で、伝えていたとおもいます。

それがいったいどうしたことか ほんとに
いまはそのような行動に ほんとに出づらい。
なんだというのでしょう。

もんだいは それだけではないのですが
しかし どれも 些末といえば些末。
一番のもんだいは 
畢竟・・・・、

わたしもムダに大人になってしまったものです。
傷つくことが こわいとは。





中村雄二郎さんやすらかに。

中村雄二郎氏が亡くなったのを機に 
ここ数日
家にある彼の著書を 読めるだけ読み返してみた。 
正直しばしば涙がでた。
亡くなったこと 心からさびしくおもう。
尊敬してる。
お空にいってしまってさびしい。

高校・大学のころは彼の本が 
ほんとに友だちだった。
哲学の現在、ミシマの影、魔女ランダ考・・・ 

books.rakuten.co.jp

 

goo.gl

 

魔女ランダ考 - 岩波書店



ろくろくわかりもしないくせに 
どれもこれも のめり込むように読んでた。 
中村雄二郎著作集なんて
当時の地元の図書館で かりてたの
わたしだけだったんじゃなかろうか
何度も かりて返してまたかりて返してってやっても
なんにもいわれなかったし。
まあ悪いことしてたわけじゃないから
なにかいわれる理由もなかったのかもしれないが
ほとんど私物化してたわけで。

その図書館で、年末に、
古くなったかなにかで貸出用図書でなくなった本が
無料で譲渡されるイベントが
催されたことがあったんだけど
それのときも 図書館のだだっぴろい会議室一帯に
ずらっとならんだ 段ボール箱のなかを
ちまちまぜんぶ見てまわり
中村雄二郎氏の本をいくつか発見し
すべてもらって帰った。
そうやって わたしのものになってもらった本が
いっぱい部屋の書棚に入っている。

有益なことが書かれている本だとわかってても
なぜかどうしても最後まで読み切れないみたいな、
いかんともしがたい「合わなさ」を
感じさせられる本てのが あるものだが、
たぶん 中村雄二郎氏の著作は 逆で、
よくわかんないにせよ なんか自分には
「合ってた」のであり、わかんなくても読んだし、
そしてそんな程度の読書経験ですら ムダではなかったと感じる。
だって今でも読むわけだから。

このたび 読み返しながら
「この人、わたしがいつも思ってるようなこと書いてんな!」
とか 何度も思ったんだけど
ちがう。 
逆。
なに ばかなこと考えてんだ。
わたしが、中村雄二郎氏の影響をうけてるんだわ。

中村雄二郎吉本隆明梅原猛(は存命)の3人こそは
この自分にとって、
考えてもしょうがないようなことを
いじいじ たちどまって考え込んで
勝手に堕ちていくキモイ癖のある 自分にとって、
終生の友だちになるであろう本を 
うなるほど残してくれた人たちであるし、
ものを考えるとはこういうことよ、と
手をとって ひとつひとつ 
教えてくれようとした人たちだった。
はたしてわたしがその教えを
どれくらい理解したかわからない
わかってたらこんな いけてない大人にはなってないか。
できがわるくてもうしわけないな。

じまんの父親みたいな人たちだ。
さびしいなあ。
おいていかれた。

多くのかたに読んでいただいてありがたい/なけなしの技能の発動条件

ブログ読んでくださるかたが 
ほんっとに 増えたなあ。
1年前くらいは1週間で10人とか来てくれれば
すごーい!! だったんだけど(^^)!!
ありがたいですわ。
偶然にせよ ちょっと一瞥なさったにせよ
ガッカリなさったにせよ なんにせよ
おいでくださり ほんと心から感謝申し上げます。
いーですねえ。
自分の存在が客観的に認められた感じしますね。
この感覚は 自分が確実に もとめてやまなかったものです。

といっても ほんと大したこと書いてないので
わるいなあ~とおもっています。
今後も大したこと書かないんでしょうが。
自分がほかのとこで書いたものとかもぜんぶ
ここに集約してしまおうかなあ。
そうすればもうすこし、
内容が多彩になりますから、
これだったら読んでやるか・・・と 人によっては
思っていただけるものも 増えようかと 
予想できますので。

いやあ それにしてもなんですけど、
利用する媒体によって なんか 
書きたいことって変わりますよね。
あー つまり そう・・ あれだ
使うペンによって 書く文字がかなり変わりませんか、
紙に書くのか パソコンで書くのかによっても
気分が大きく変わるし・・
わたし 変わるんですよ。相当。
そんなかんじそんなかんじ。
ブログだと こういうこと書けるけど
Facebookだとなんか書きたくない・・・みたいな
その逆バージョン、別パターンもまたしかり みたいな
微妙な 自分だけの利用媒体別ラインが生じるんですよね。

まあ どうでもいいか。

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あと、わたし、
自分の傾向に関して最近 
気づきと、確証 に近いものを得たのですわ。
どうも、
生活と健康状態をできるだけ
ダメな方向へダメな方向へと
落としていかないと、
まともなものが 書けないみたいなんですよ。
(まともっていっても たかがしれてはいますよ。)

仕事の情報あつめや 勉強のために
けっこうSNSを利用するのですが、
そんなとき 自分が過去に書いた記事とか
保存した記事とかを ひっくりかえして読み直す
場合があるわけなのです

自分が過去に書いたものなんてね、
9割9分がた、もう すぐにも削除したい。
どたんばたん のたうちまわりたくなるような
はずかしいのばっかり
おまえ これでよく編集者を名乗れるねみたいな
あったまわるい幼稚なことをね、 さも良いことかのように
まーーーー かっこつけて 平気で書いてて
最悪なんですけど

たまに、たまになんですが、
おどろきますね たまに。
え なに おまえ こんなちゃんとしたこと書けてたの!
こんなの書けるんなら なんで今書かないのみたいな
もう 今だと絶対にむしろ書けない みたいな
あるんですよそういうの。
(たまにね。)
3年とすこし前に Facebook
ラディゲの「肉体の悪魔」と 恋愛について
ずいぶん真剣に論じてるのを発見したんですけど
(なにやってんすかね・・・。)
それとか ちゃんとしてて びっくりしました。
覚えていないんです 書いたことを。
でも、たしかに読みました、当時、
肉体の悪魔。
書いたことの内容を確認すると
たしかにこれは かりものではなく 
人さまのものではなく
自分の思考だなと 理解もできます
自分が書いたものなのです。

あまり 推敲をしないもんですから、
まあ それなりにちょっとは これで通じるかなーとか
考えもするんですけど 基本 おもったことを
おもったままの言葉で書いて
直さない場合も多いので
あとで読み返すと なにいってんだかわかんねえな 
みたいな 読みにくいものが 非常に多いんですけど、
その記事は 異様に・・
なにこれ 自分が書いたの、マジで? みたいな。
まぎれもなく 書いたんですよ。 
自分でいうのもなんですが
断章にすぎないものの
なかなか筋の通ったおもしろいことを 
ひきしまった けっして悪くない文で書いているんです。

こんなちゃんとしたもん書けたんなら
さぞかし当時、生活が充実してて、
体も健康で、頭もそれなりにまわる、
よいコンディションだったのだろうと 
おもうじゃありませんか。
よっぽど調子いいときだったんだなと。
ラディゲなんてもの 読むひまがあったんですし。

ところが、
真逆なんです。
3年とすこし前っていいますと、
いまの仕事につく直前、
1年にもおよんだ失業・就職活動の 
終盤の終盤でした
わたし、そのころほんとに やばくて。
客観的にみて過労状態でしたし、病気。
即入院の診断をうけながら なんと 
いや休んでいられないんでと
バカをいいはって 病院をとびだし 
面接にバイトにと 動き回っていたのです。
たちどまることが怖かったのですね、死よりも。
とんでもない話です。
ダメなときでした。

当時の自分に言ってやりたいことは山ほどありますが
(そして さらに約1年後 このときに輪をかけた
最悪バージョン・改を体験することになるとは
当時の自分はまだしらない・・・)
しかし 書いたのです。
自分にしてはすこぶるマシな文章を。

だから やはり、あれだと 考えるのです。
まえにも似たようなことに
思い至った覚えがあるのですが、
やはりそうだと 確証をもつに至りました。
わたしは 環境・状況・心身の健康の状態が 
悪ければ悪いほど、
否、
状態を限界ギリギリまで悪いほうに
みずから もっていきでもしないかぎり、
まともなものが書けない。
ヤバい それ!! 
けどそうとしかおもえないんですよ。
いってみれば
堕ちるところまで堕ちたときにはじめて
いわゆるゾーンに入れる的な。

それ ヤなんですけど。
ゾーンとか 別にいいよ・・・。入らなくて。
でも そうだというのなら しょうがないのかなとも。
悪いものしか書けないよりは
いいほうがいいに決まっていますから。
だとすると わたしはもう 
ホームレスにでもなるべきなのかもしれない ということに。

この「こうでないとちゃんとしたもの書けない」というのの
発動条件を 変えることはできないものか・・・

自分で自分の傾向に気づいて
その よりにもよって?! な結論に
今かなり クサクサしています。

まあ でも あれですね。
ごたくは いーんだよ。
とりあえず書いとけ、って話です。
生きろ。