BRILLIANT CORNERS-2

本や映画の感想。まれにやる気があるときは別のことも書いています。

映画の感想-「ワンダーウーマン Wonder Woman(2017)」-170827。

ワンダーウーマン
原題:Wonder Woman 
パティ・ジェンキンス監督
2017年、米

movie.walkerplus.com

 

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ワイルドスピード」のジゼルが主演するので、観てきた。

物語の主人公は、ダイアナという女の子。
不思議な力で 現実の世界と隔絶された
女だけ、単一民族の島国の 王女として生をうけた。
島の女たちはみな屈強な戦士であり、
自分たちの力で国を守って長年、平和にやってきた。

彼女たちがなにから国を守っているのかというと・・・
この島のなりたちには 古の最高神ゼウスとその子アレスの
世界を巻き込む骨肉の争いがからんでて、
かつて父に大敗した 忌まわしきアレスが
力を増していつかよみがえると見られているため、
それに備えて守りを固めてる、ということらしい。

ただ ちいさなダイアナは そんなこととは関係なく
できるだけ 戦いとかとは遠ざけられて育てられてきた。
しかし、じつのところダイアナには
ある重大な出生の秘密があったりする。
どんなに母が彼女を戦いと無縁に育てたくても 
血はあらそえない。
やがてダイアナは 比類なき戦士としての才能にめざめていく。

そして、平和だったダイアナの生活が 一変するできごとがおこる。
むこうがわの世界から戦闘機が1機 島に不時着してきたのだ。
救出されたのは 米国兵のスティーブ。
彼によると、現実世界は第一次世界大戦のさなか。
むこうがわの世界で むごい戦争がおこっていることを
知ったダイアナは
果敢にも、自分が世界を救ってあげなければと決意。
島をでれば二度と帰ってはこられないことを知りながら、
ティーブとともにむこうの世界の戦地へと旅立つ。
・・・・
というストーリー。


ひとことでいうと
かなりひどい(^^)!!!
最後まで観るのに相当な忍耐を要した(^^)
なぜだろう・・・
つかれた(^^)

でもいままでにわたしが観て すきだった映画
(たとえばトレインスポッティングフォレスト・ガンプ一期一会、
エージェント・ライアン、21グラム、トーク・トゥ・ハー・・・)
にでてた役者さんが ぜいたくにも うなるほど出演していて、
しかもどの人も、けっこういきいきと演じていたように見えた。
(イヤ、いいじゃないですか。エージェント・ライアンが
すきだって、べつに(^^))

監督が「モンスター」の あの優秀な人だから・・・
雰囲気のよい 働きやすい現場だったのかもしれない。
かんがえてみればたいしたものだ、
「モンスター」とはぜんぜんちがう映画なのに。
ちゃんと作品として成立はしていて 
いわんとしていることもよくわかるつくりにはなっていた。
きわめて善良な映画ではあったとおもう。
(悪気がなければなにをしてもいいかというと 
そういうわけでもないだろうが・・・(^^))
映像とかすみずみまで きれいだったし。

なにが具体的にまずかったのか だから 
不思議だが よくわからない。
だがわたしの心がかなり一生懸命 訴えている、
駄作であると(^^)

主演のジゼルの健康的な美しさが炸裂してて
彼女をながめているだけで2時間 いちおう 
もつことはもった。
ルイーズ・ブルゴワンみたいな、好きにならずには
いられないといったかんじの 美しさだった。

ジゼルが(ジゼルじゃないけど(^^))うまれてはじめて
アイスクリームを食べるシーンと、 
泥沼の最前線と化した寒村のバトルシーンはよかった。
ジゼルが(ジゼルじゃないけど(^^))
装甲車をひっくりかえしてた。

あの2シーンだけ もう1回観たい(^^)

Twist&Jams 世界に変化をもたらしてくれた音楽

上野水上野外音楽堂で行われた
野外音楽イベントを、
第2部の冒頭までで切り上げたあとは
またべつのライブイベントに行くために
電車で神奈川県まで移動した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

近距離らしかったが大事をとって駅からタクシーに乗り
ライブイベントの 会場に行った。
ペットホテルやドッグランなどのペット対象サービスの
複合施設のようなところだった。
お客さんたちのおおくが 愛犬を連れてきていて
みんなかわいらしかった。
小型犬がおおかった。 
頭や体をなでても どの子も怒らなかった。


aozorun.com

 

8月19日ライブイベントのお知らせ |

 

ここで催されたライブイベントに
Twist&Jams が出演した。
とちゅうから 笑えるほどの豪雨にみまわれたものの
とてもよい演奏がきけた。

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※あ、失敗した写真 添付しちゃった(^^)
なにもこれでなくても。 
まあ このままでいくか。


え、いきなりなんの話だよ、
というかんじなのだが
じつをいうと
あんまりこういうことをするのは ガラじゃないながら、
以前から 何度も このグループのことを
ブログに書こうと トライしてた。
なのに、
どうしても うまく文章で表現できなかった。

自分の文章能力の 現時点における限界と 
言葉というものの「正しくなさ」よ。

ほんとうに文章にしたいとおもっても
できない、なぜなら文章だから。
ということもあるようだ。
へどがでるが しょうがないんだとおもう。

いったん かれらの音楽の文章化は 
あきらめることにする。

ここは、動画と音声で かれらの音楽に
ふれてみていただきたい。

動画制作は2作品とも
KUROMUSIさん(掲載許可いただきずみ)。

www.youtube.com

 

www.youtube.com


・・・この動画もまたこれ 涙がでる美しさだな。


Twist&Jamsは 
ギター2台による
ジプシースウィング・ユニットだ。

自信がないから説明はもうしないが、
かれらをめぐっての
わたし個人の経験だけ 話させてもらう。

わたしはかれらをとおして、
それまで聴いたことがなかった音楽を
かなりたくさん聴くようになった。

そもそも
わたしは 長らく 
弦の音への苦手意識が ものすごく 強かった。
クラシック音楽には ずっとかかわってきたくせに、
管弦楽はまだしも 小編成やソロになると
ものすごく限定的な
一部の演奏家の一部の盤でないと
弦楽器の音を 受容できなかった。

わたしが卒業した高校には 
公立ながら音楽の専門クラスがあり
弦楽器専攻の生徒がおおぜいいた。
高校生だったわたしは この弦への苦手感が
とくにひどい状態にあり
生徒たちが教室で 楽器を取り出して練習しているところを
たまに耳にするのさえ 正直なところ
総毛だつほどイヤだった。
あんまり不快を覚えるもんだから、弦楽器専攻の生徒
(つまり同学年の別のクラスの子、ということだが)に
そうとう しんらつなことを平気で言い放つことも
しばしば。
何さまだ・・。


この 演奏者サイドにしてみれば 不当といってもいい
偏見的な苦手意識、こだわりは 
人が聞けばおそらく驚くであろうほど 長くつづいた。
この手の神経症的なやつは
たいてい根拠というものが希薄だ。
それに、それがどんなジャンルのものでも、

「これは大丈夫だけどこれはだめだけどこの場合のこういうのならいいけど
でもやっぱりこれだけはだめ」

みたいな、細かい「自分ルール」があるのが常で、
人さまに説明しても うっとうしがられるのが
せいぜいだろう。
わたし自身も 自称潔癖症の人や偏食家の人の
自分ルールなんて 正直聞いちゃいられない。
だから ここでもあまり 詳しく書くつもりはないが、

ともかく 音楽にはかかわっているくせに
弦楽器の音がやたらに苦手 というのは
ゆゆしきことだとの 自覚はあった。
おおっぴらにしにくい分、
自分のなかで むだに問題が凝固し肥大化していった
かんじは否めない。

クラシックはまだそれでも 
自分のフィールドみたいなきもちがあったから
自力でこっそりすこしずつ 許容範囲を広げていき
20代くらいにもなると
「バッハの無伴奏チェロ組曲がすき」とか
いっちょまえなことを言い始めたが・・・、

それ以外のジャンルの弦楽器は
なにか未知すぎる感があり 
怖くてほとんど 近づけなかった。


それが、縁あってTwist&Jamsに出会い
かれらの音楽をとおして 弦の世界をながめたところ
あの病気レベルのこだわりはいったいなんだったのかと
おもうくらい 急激に広く 深く
弦の音色を愛せるようになった。

さきほど、
こだわりにはたいてい根拠ってものが希薄、
と 言ったが、
わたしが弦の音を
受け入れられなかった原因はひとつだけ。
楽音になりきれずに残る いかにも水分不足の軋音が
耳に はりつくように感じること。
だが これこそが
なまいきにも イヤでイヤでたまらなかった。


しかし よい弦楽器の演奏家
そのような 軋みの音をほとんど出さない。
気にさせない。
むしろ積極的に自分のものにしさえして、
美しく、かつ自由に、昇華していくものだということを
もう 明確に学んだ。

それからというもの
弦の演奏を聴こうとおもうとき
おっかなびっくり 指でつまみあげるかのように
えりごのみする必要を 感じなくなった。


すこしまえまではほんとに 
絶対に無理な気がしていた
ジャンゴ・ラインハルトにはじまって
グラッペリ、ビレリ・ラグレーン
ストケロ・ローゼンバーグとかまで
楽しめるようになっており、
職場で ききながら仕事をしている。


それに、音楽とは関係がないにしても、
収穫はほかにもあった。
かれらを知り かれらを追いかけるようになったことで
わたしは おおくの 新しい友だちや
しらなかった優秀な演奏家たちとの出会いにも 
めぐまれたのだ。


わたしの文章能力では
かれらTwist&Jamsの音楽については
とうてい解説できない。
でも かれらの 自由でゆたかな音楽性が 
いろいろな意味で
わたしの世界に おおきな変化をもたらしてくれた
ということだけは 
自信をもって言える。

だからいちど 感謝をささげたかった。
大人になってしまったいま
自分の世界がこれほどまでに
おおきく、鮮烈に
変わることがあるとは
予想もしてなかったから
それを与えてくれた人たちに
感謝しているということをつたえる必要はあるとおもった。
できれば自分の言葉で。



Twist&Jamsは
都内と神奈川あたりを中心に
活動をしているので
ぜひ いちど ライブを聴いてみていただきたい。

Twist&Jams(Facebook

https://www.facebook.com/TwistJams-236575353178532/


※ページに入るのにセキュリティチェックを要求されるかも。

YouTubeでも
Twist&Jams」でキーワード検索すれば
もっと多彩な演奏動画を閲覧することができる。


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ずっとのどにつっかえていたものが
これですこし とれたかんじがするかな。

ほんとは恥ずかしいから できれば
こういうのは 今後書きたくないけど

かれらの音楽そのものの文章化を断念したことが
これからは またのどにつっかかりつづけるんだろう。
力をつけ、また、かれらの音楽をもっとよく聴いて
いつか 文章化することを目指したい。
その努力って べつにだれにも求められてないけど(^^)




別冊UTA-KAI 20170819。

きのう、
上野恩賜公園野外ステージ(上野水上野外音楽堂)で開催された
音楽イベントを 聴きに行った。

別冊UTA-KAI official web site


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ずっと 疑っていたんだけど、
みなかみ野外音楽堂 ではなくて
すいじょう野外音楽堂 かも。
漢字でみたとき みなかみと思い込んでしまった。
じっさいに行ってみたら
不忍池のうえに建てられたというていのステージだった。
かんじんの水が(不忍池は確実に水をたたえていたけど
音楽堂のしたに引き込まれた水は)ほぼ枯渇していたから 
自信はないけど。
だとすれば みなかみ野外音楽堂ではなくて
すいじょう野外音楽堂なんだろう。


夜から別の場所でほかの予定があったため
第1部をすべてと、第2部のさいしょの出演者の歌だけ聴いた。
 
正直な感想をいわせてもらえば、

ごく一部をのぞいてほぼすべて、
わたしにとっては
おせじにもよいとはいえないステージだった・・・。
 
まず、
ほとんどの出演者が打ち込みでパフォーマンスを
おこなっていたことに かなり落胆させられた。
あんなにおおきな会場で演奏できるのに、
ライブイベントであるのに、
ドラムでもなんでも 持ってこようとおもえば
できないことはないのに、
なんでフルメンバー、フルバンドでこないのか
ちょっと理解に苦しむ。

生音じゃないとライブは絶対ダメ、と
まさか法律できまってるわけもないし、
べつにいいのだろう。
ミュージカルとかバレエの公演なんかでも
オーケストラピットに楽団がおらず、
打ち込みの音楽でパフォーマンスする場合は
いくらだってあるし。
ただ欲をいえば
打ち込みなら 打ち込みで
音響的にもその音楽の質的にも
文句なしのものが聴きたい。
「なんでフルメンバー、フルバンドでこないんだ」と
わたしが感じた時点で 
わたしのなかではもうダメということに、そりゃなるだろ。

とくによくわからなかったのが、
その打ち込み音楽と、
ステージにじっさいにたっている演者とが 
あまりにも なにもかも
かけはなれた出演者が いたことだった。
音楽は 97年くらいを思わせるような
ユーロビート/クラブ系なのだが
演者がアコースティックギター1台&ボーカルの2人組
というのがでてた。

もちろん 流れている音楽とまったく無関係の音楽を
2人が演奏していたわけではない。
ギターは流れている音楽のギターパートを演奏してたとおもうし、
ボーカルは音楽にあわせてその音楽の歌を歌ってた。
けど、音楽と演者の見た目があまりにもちがいすぎていて
違和感しかなかった。
あそこまできたらもう ギターいらなくないか。
ふたりで歌って踊っちゃえばいいのに。

あの2人組はいったい・・・・
一晩たったいまでも 謎だ。

あとで彼らの公式サイトを見てみたとき、
アコースティックポップユニット、
と紹介されていたのを読み
いやいやそれもどうなの、と おもわされた。

わたしはあのアコースティックギター
ギターの形をした完全オリジナルのシンセサイザー
あのギター型シンセからすべての音を出してるのかな、
もしかしてそうならスゴいな! とか
おもいたいような気がしたが
ありえない。
演奏中の指の動きが、そういうかんじじゃなかったし。

でも この2人組、
ふしぎなことに
パフォーマンスそれじたいは 
みてて たのしかった。
ボーカルの人は歌がうまかったし高音が美しかった。
2人が 歌っててとてもたのしそうなのが
見ているこっちにとっても 気分がよかったし
観客もずいぶん協力的で
(固定ファンもおおぜいきていたんだろう)
多くの人がたのしんでるようにみえた。


あとはEXILEのような歌をうたう
5人組の男声ボーカルグループや
男性のシンガーソングライターが出演していたのが
第1部だった。
全体的に
音の聞こえ具合が強すぎて
あまり歌声が楽しめなかった。
歌詞が聞こえないこともあった。
もしかしたら、
歌っているほうもやりにくかったのかも。

EXILEのような」とか露骨に形容されると
本人たちはさぞかし いやだろう。
 EXILEサイドからも 場合が場合なら
刺客が送り込まれるだろう。
でもそれ以外に連想されるものがなかったので、
こっちとしてはいかんともしがたい。
ゴスペラーズのような とか言うべきなのかなとも
おもわなくもないが
あの人たちほどの個性、技量は 
きのう聴いた5人にははっきりいって なかった。
みんな似たり寄ったりの歌声、歌いかたなのが
素人の耳にも 聴いてて変化に乏しく退屈だった。
ダメだとかおもったわけではないものの
とりたてて よくもなかった。

第2部のさいしょに出演した人は
バンドで演奏していた。
ピアノ(キーボード)がうまかった。
MCがおもしろかったような気がするが
ちょっとよくおぼえていない。
ファンがすごく多くて愛されているミュージシャンだった。
第2部のさいしょなのにアンコールがかかったほどだった。


演者の推定年齢と、
歌の内容とが 合ってない出演者が
少なくなかったのも
気になった。
(総じて 年齢のわりには歌の内容が幼かった。)


1部のトリは 自分もよく知る中里学だった。
わたしはこの人の演奏が聴けるからというので
このイベントに行った。

中里学 official website

 

ameblo.jp



彼にとって このイベントに出演することは
長年の悲願であったらしい。

彼が出演をそうまで 熱望したからには、
このイベントにはよほど 優秀なバンドや
シンガーが せいぞろいするのかなーと想像していた。
しかし ふたをあけてみれば、
まあ第1部しかわたしは聴いてないわけだけど
第1部の白眉こそは 中里学だった。

鍛えぬかれた声は美しく、 
音程は小憎らしいほど安定し、
(本人が弾くギターのピッチは
なんか微妙にずれてたけど(^^)、)
高い技量を示すサポートメンバーとの連携はきわめて密。
さして力みもしないのに
観客席のいちばんうしろの方まで
音楽がまっすぐ突き抜けていくかんじは
ほかの出演者の演奏には 
なかったものだろう。

音楽性、音楽的傾向という意味で、
中里学よりこっちのほうが自分はすき と
感じた出演者は ほかにいなくもなかったが、
それはいいからちょっといまは こっちにこいよ!と
ひきずりこもうとしてくる パワーが
彼の演奏には たしかに あった。

わたしが中里学のファンで ほかの出演者のことをひとりも
知らなかったように、
ほかの出演者のファンでその人を聴くためにきていて
中里学を知らない観客はおおぜいいたはずだが
その人たちの体が じゃっかん前のめりになっていき 
だまりこくって聴き入る
あの数分間の 雰囲気は・・
肌で感じたときなかなか異様だった。
そんな雰囲気があの短い時間で構築されてしまうとは。
中里学が演奏を終えたときの
幻がきえて元の世界に戻ってきたような
あのヘンな体感はなんだったんだろうな。


こんなことは できればいいたくはないが、
いまひとつなにかが足りない映画や
わるくないけど いまいちよくない音楽にふれたとき、
「よくない」という事実と 向き合いたくない、と
感じるものだ、観客は。
それだからこそ、いい面をわざわざ「探そうとして」しまう。
ほとんどないとしても、何か良いものを
かろうじてでも感じようとする。
絞り出すように。
良きものになろうとしているもの、
いうなれば可能性?みたいなものを。
でも あたりまえだが そんな無意味な努力は
本来ぜんっぜんしたくない。

やはり絶対的によいものにふれたいと思って 当然だ。
あまりよくないものばかりが集まったところにただひとつ、
絶対的によいと言えるものがまざっていた場合、
観客の反応は まったくもうしわけないくらい
正直かつ残酷になる。



誕生日によせる。

まあ
これから生きていくうえで
いちばん自分に必要なのは
感じすぎない心。
心。もう いらないくらいだ。
これだけが重い。
生きるのに じゃまなだけにおもえる。
あんまりにも重い。
感じすぎない心さえ手に入れば。

そう思い切れたらどんなに楽だろうな。

でもやっぱり そのようにはおもえない。
性懲りもなく心は痛む。
痛まないことなんて 生きているかぎり ありえない。
いかんともしがたく苦しい。
棄ててしまいたくても棄てられない。
ほんとにつらいものだ。

わたしがこのように思うのは
けっきょくのところ もう傷つきたくないからだが
でも わたしも 気をつけているつもりでも、
どこかでだれかの心を傷つけていることだろう。
きょうも、きのうも、数日前、数年前にも。
自分の傷には敏感でも
人さまのそれには気づけない。
ならば 人さまがわたしを傷つけたとき
その人がそれと気づかなくても 当然だ。

傷つけてしまったときに
あなたの言動によってわたしの心は傷ついた、と
はっきり わたしに伝えてくれたらなあ。
そうしたらおわびでも釈明でも
必要を感じれば すぐにさせてもらうし、
やりとりの やり直しが可能になるのだが。

たのむから わたしに何も告げないまま
その心を 閉じてしまわないでほしい。
なにをいってもどうせ通じない、とか
真意を聞いてもしかたがない、とか
その心のなかだけで なにもかもあきらめてしまうのを
あと一回だけでいいから 待ってほしい。
あきらめるまえに 
なんとかその気力をちょっとふりしぼって 
わたしに聞いてみてくれないだろうか。
なぜだったのかと。
どうしてそうおもったのかと。
どんなつもりでしたのかと。
意外となにも考えてなかったかもしれない。
ましてあなたのことを 傷つけるつもりなんかでは
なかったかもしれない。

そんなふうに食い下がるのは 
うっとうしいだけなんだろうか。

けれども
わたしにとって大切な人であればあるほど
やっぱりそう願わずに いられない。
うしないたくないとおもってしまうんだ。

慎重にやっているつもりだ。
なのにそれでもまちがえてしまうことが 
まったく うんざりくるほど多すぎる。
だから話すことがイヤになる。
話さなければ弊害も生まれないとか
つまらないことを考えてしまう。

わたしはそのとき 
たしかに無神経だったかもしれない。
でも、そんなつもりじゃなかった可能性が高い。
そのことを
もう一度 話す機会がえられればなあ。

でも
わたし自身が だれかの言動によって傷ついた時
傷つきました、と相手に伝える気力も意思も
たしかに ないわなあ。
すこし時間がたてば 違ってくることもあるけれど。
人には人の そのときにはそのときの
タイミングってものがあるから
そりゃたしかにしょうがない。
相手には相手の 
受け止めて意思決定をするだけの
時間というものが必要なのだ。
つまりわたしにも。


ある音楽に関する素朴な疑問。

音楽的に成立させないことを目的として作られた
音楽、というものが あるのかなと。
それってそもそも音楽なの? といわれると
ウーンって 一瞬 迷うんだけど
でも、音楽なんだわ どう考えても

スキかキライかでいえばキライ?であり
ついていけるかいけないかでいうと ついていけそうにない。
受け入れられるかどうかでいうなら
受け入れられない。

そうおもうのは、
聴いてると疲れるから。
音楽的に、破壊を旨としているとしか思えない構成をしている。
聴いていて それがおもしろくないと言ったらウソになるが
おもしろいけど しかしすごく疲れる。
頭のなかで 聴きやすいように 勝手に編曲してしまいたくなるから。
頭のなかで 聴きやすいように 勝手にミックスしてしまいたくなるから。
でもそういうことってするもんじゃない、という気持ちがあり
そこでせめぎあって苦しくて、
こんな思いをするために音楽を聴くつもりではないのだが、
という気持ちが湧き上がるから。

でも
良いか悪いかでいうと 
これはたぶん、良い。
良いだけに 耳にはいってくると心をそらすことがどうしてもできない。
すごくまいった。
そんな変なライン上の音楽にでくわすことになるとはおもわなかった。
聴けば聴くほど理解できなくなってくる。
あまり深くかかわらない方がいいんだろうか。

最近読んだ本の感想をちょっとだけずつ(20170801)。

この2週間くらいは 仕事で使う本の読み込みが中心で
趣味ではそんなにたくさん読まなかったが
何冊かには目をとおした。

小林紀晴「ASIAN JAPANESE」新潮文庫

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goo.gl


・・・ずいぶん前に買って、それきりに。
自分があんまり旅行などができないもので、
せめて人の旅行記 紀行文を読んで 
旅をしたような気になりたい、と
おもっていたときがあって、
そんな 旅行記マイブームのときに 買った一冊と記憶。
本作は著者が20代のころ、カメラをかかえて
ふと アジア方面に旅にでたころの フォトエッセイ。
行くさきざきで出会った日本人の旅行者たちに
インタビューをし、写真を撮らせてもらったもの。
文にはそれほど 心をひかれなかった。
自分の心のステージが本書と合ってなかったのかも。
けど、これは勝手な想像だが、
著者自身も いまこの本を読み返したら、
「おれ、なにいってんだろう。われながら意味がわからん。」
と、思うんじゃないだろうか(^^) 
人ってそんなもん。
けれども、
写真がどれも印象的で、気づけばじーっと何分も
見つめるということをくりかえしてしまった。
また写真をながめるために 読み返すんじゃないかとおもう。





文藝春秋
「泥水のみのみ浮き沈み 勝新太郎 対談集」
文春文庫

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books.bunshun.jp


・・・昔の「文藝春秋」
勝新太郎が各界の著名人と対談するという連載があったそうで
その対談がほぼすべて 本書におさめられている。
森繁久彌三國連太郎瀬戸内寂聴ビートたけし
石原慎太郎津本陽、奥さんの中村玉緒など。
勝新太郎という人は、めちゃくちゃだけれども
筋がとおっている。
人としてとか仁義がどうとかの、その「筋」ではなく、
勝新太郎という筋がとおっている」。
いまや芸能界の重鎮のビートたけし
勝新太郎にまともに相手してもらえてないかんじとか
すごく 読んでておもしろかった。
三國連太郎のところもよかった。
恋人だった太地喜和子の話とか。





よしもとばななさきちゃんたちの夜」(新潮文庫

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www.shinchosha.co.jp

・・・同じ「さき」という名前の5人の女性たち
それぞれに訪れるちいさな奇跡、喜びを
描く短編集。
観念的すぎるようなかんじはしたが
5編のうち いくつかは好きだった。
よしもとばななさんは あれですな。
手を変え品を変え ずっと おなじことを言い続けてますな。
「デッドエンドの思い出」あたりが
ここ数年だといちばん 個人的にはすきだな。




石井光太「蛍の森」新潮文庫

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www.shinchosha.co.jp


・・・著者の初めての小説だとおもう。
著者はノンフィクションライターだから。
サスペンス・ミステリーだった。
主人公(狂言回し)を担当するのは
関東にくらす30代くらいの男性で、医師だ。
とおい四国の山村で、おじいちゃんがふたり失踪。
主人公の実父が、この事件の重要参考人となってしまった。
じつは父は以前にも この行方不明のおじいちゃんに
暴力をふるったかどで逮捕され、刑務所にはいったことがある。
それなもんだから 重要参考人と目されたわけだ。
父が刑務所なんかに はいるようなことをしたせいで
主人公は これまでずっとつらい日々をおくってきた。
妻との関係は悪化し、職場でも肩身のせまい

思いをさせられるなど 生活がおおいに乱されたのだ。
それでも肉親だからと 釈放後の生活の面倒をみたり
主人公はそれなりに 父に歩み寄ろうとつとめてきた。
やっとなんとか 生活が落ち着いてきたところだったのに
ここにきて またか! という気持ち。
男性は父が聴取を受けている四国に旅立ち、
事件の真相を父本人に問いただそうとする。
しかし、
そこで彼がたどり着いたのは 
この小さな村がひたかくしに隠す ある陰惨な過去の事件だった。
・・・
ハンセン病差別の歴史と その暗い実情を
わしづかみにして見せてくる。
もし娯楽としての小説 という見かたをするなら、
てんで読めたもんじゃなかったし まずい部分もあった。
でもグイグイ最後まで読まされたのは
やはり 娯楽じゃないから。
書きたいことのためにどうしても
小説の体裁をとらなければならなかった、
本当は 渾身のルポルタージュ
だからこそ、おしまいまで読まずにはいられない。
ラストは ちょっとドラマチックにしすぎだったし、
そんなに何もかもにきちんと 結末を与えてくれなくても
いいよ、とも感じた。
しかし、不当な 苦しみの人生を強いられてきた人に
やさしい救いがもたらされる よいラストであり、
海老沢泰久の「青い空 幕末キリシタン類族伝」(文春文庫)や
島崎藤村の「破戒」の ラストをちょっと おもわせる
すがすがしさがあって、好きだった。
海老沢泰久の「青い空」よかったんだよなー
いったいなんだったんだ あれは。
わたしは海老沢泰久という作家さんには
はずかしいけど 当時まったくのノーマークだったから
突然変異的にあらわれたかんじをうける 超絶佳作だった。
ほんとにすばらしかった。タイトルはダサいけど。
また読みかえしたくなってきたな〜。




あとは、
モーリヤック、プラトン、ワイルド、
コルタサルニーチェサマセット・モーム
ジャン・ジャック・ルソー坂口安吾酒見賢一
恒川光太郎澁澤龍彦小林秀雄とかで
みじかいのを文庫で 1冊ずつくらい読んでた。
プラトンとかモーリヤックとか 読んだところで
いったいなにになるのかと いわれると
たぶんなににもならない、としか答えられない。

・・・わたし、コルタサルなんて作家を
いったいどこで知ったんだっけな。

あと
15年くらいまえの世田谷一家強盗殺害事件の
ルポを10冊くらい
図書館でかりて読んでた。
議論百出。みんなそれぞれに 
まったくちがうことを言っていて
どれも もっともらしいのだから おどろき。
独自の結論にたどり着いているどころか
犯人をほぼ名指ししている作品もいくつかあったけど
それらによると あの事件は
すでに犯人はわかっているというか
情報をていねいにたぐりよせ 正しく結びつけて考えれば
かならず犯人像をみちびきだすことができる
(じっさいにこれらのルポの著者はそうすることで
彼らなりの結論を出し「犯人」を指名してみせている。
まったくなにひとつわからない お手上げの事件
というわけではないらしい)
のだが、
警察のくだらぬ縄張り意識や旧態依然としたシステムが
情報の各署共有、活用への道を阻んでいる
だから
逮捕にむすびつかない、的なことを指摘していた。
そんなことで!と おもうけど
そんなもんなのかも。
だが亡くなった人たちはうかばれないし
のこされた人たちも本当に気の毒だ。





二階堂ふみとロミー・シュナイダー/映画の感想-「墨攻 A BATTLE OF WITS(2006)」-170717。

ゆうべ、串焼き屋さんにいった
いっしょにいた友だちと
テレビにでるような有名人で 
すてきだとおもう人、カッコイイと
おもう役者さんなどを つぎつぎに挙げて、
単純にそのルックスを批評してたのだが
ひとり、どうしても、
顔はわかるが名前がおもいだせない
若手の女優さんがいた。
帰宅してだいぶたったころ、
おもいだすことができた。
桐谷美玲
有村架純高畑充希と3セットで、
脳内のおなじ引き出しのなかに
はいってる、あの子だ。

ところで、
わたしは若い女優さんでは 
二階堂ふみちゃんにこそ
別格の評価をしてる。
彼女をみていると、
ロミー・シュナイダーをおもいだす。

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ロミーは・・・
イングリッド・バーグマン
グレース・ケリー
カトリーヌ・ドヌーヴみたいな
女優さんではなかった。
道ですれちがったら
バラの香りでもしそうな、
正統派の美女、ではなかったのだ。
もっとなまなましく、
特別な存在感があった。
そういうかんじを、
当時の女優さんは
たいてい隠していたはず。
でも、ロミーは違ってて
女の体温というのか 
道ですれちがったら、
バラの香りなんかではなく、
彼氏の香水と、たばこと、肌のにおいが
混ざったにおいがするだろうな、って。
そういうことを思わされる。

そのロミーをおもわせる。
二階堂ふみちゃんは。
「プレイボーイ」の
バニーガール姿のグラビア
ロミーが思い出されて、
なんか
「あーーーーーーーーーーーーーーー」
っていうきもちになった。
ロミーはバニーガール姿にならなくても
いるだけでなまなましいのだが。

・・・

墨攻」を観た。

墨攻
原題:墨攻 A BATTLE OF WITS
ジェイコブ・チャン監督
2006年
中国・日本・香港・韓国

movie.walkerplus.com

 

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この映画、けっこうすきだ。
レッド・クリフなどにくらべると
バトルシーンに迫力はないし
もっとほかにどうにかできたのではと
感じる箇所は数多い。
しかし、複数の要素を
うまくまとめていて
かなり意欲的な映画だ。

かくしようもない安っぽさは、
感覚の違う 異国の映画を観る
たのしみのひとつとして
受け入れられる範囲内だ。

ところで、
墨家は博愛・非抵抗を説く集団だった。
自分からは決して「攻め込まない」。
墨攻」なんて言葉は生まれえない。
でも、邦題は「墨攻」で
本国でもこれが採用されている。
酒見賢一の原作どおり。
墨攻は原作者の造語だ。
映画でも採用されたところが
とても特徴的だと 
わたしには おもわれる。
中国語に墨攻って言葉はないはずだ。
中国語を母語とする人は この熟語から 
なにか まったくちがう印象を
もつんじゃないかとおもう。
それでも変えなかった。
日本の小説作品が原作であることを
尊重してくれているんだとおもう。

作品としての
厚み、気迫、品格
どれをとっても
くらべるべくもないが、しかし、
内容的に、まあ「七人の侍」に 
近いところをかすっている映画だ。
それに、
墨家思想がなぜ絶えたのか、
なぜ受け入れられなかったのか、
考える機会をくれる。
思想をひろめていくために
戦争に参加せざるをえなかった
その自己矛盾が
彼らの集団をだめにしたのだ。
不器用な人たちだ。
存在する時代をまちがえている。

どんな弱小国の王だって、
軍の指揮権を、
どこの馬の骨ともしれぬやつに
渡したいわけがない。

梁の王も民衆も、いい気なもんだが、
でも ああいうもんだろう。
革離目線でみるから
梁王が愚か者にみえるけど
梁王にしてみれば、
雇っておいてなんだが、
この墨者ってのは
なにを企んでいるんだと
うたがわしくて当然だ。
本人に利益がないのに 
なんの約束もしてないのに、
他人のために命を賭ける人間、
そんなのもしほんとうにいたら、
そりゃ信用できない。

日本でのキャッチコピーは
「10万の敵にたった1人で挑む」。
軍の指揮権と城内のマンパワー
ちゃんと王から借り受けたわけなので、
「たった1人」ではない、
という声もあったようだが、
でも、映画をみれば、
たった1人 というのも
おおげさではないとわかる。
革離は趙だけでなく 
雇い主の梁までも敵にまわして
戦うはめになった。
気の毒な男だなあ。
苦労ばかりで、みのりがない。
本人がそうしたかったんだから 
しょうがないのだが。

革離を慕う女騎士が 
東伯が死んで以降 軍務から離れて
平服でうろうろするようになった理由が謎。
彼女は梁王の重臣の娘というが、
その重臣て、東伯だろうか?
ならば、父の服喪で軍務から離れた、と
納得してもよいのだが、
喪に服してたんじゃないみたいなんだよな。
敵軍の地下道侵入事件のとき、
彼女は、
「ほかの持ち場にいたから、顛末はみていない」
と話していた。
どんな持ち場か知らないが、
仕事をしていたことになる。
なのに東伯が死んでから、 
勤務中の彼女のシーンがでてこなくなる。
女だてらに騎士、ということは
当然 娘を危険な目にあわせないように
親が相応のポストを口利きしたものだ。
たとえ名誉職でも上官は、
そうたびたび 軍務を抜け出せない。
梁は人が足りてないし。
あの人どこいった!ってなるはずだ。
 
そういうとこ ザツだ(^^)

彼女が革離の居室に
出入りしてるという情報を、
なぜもっと早くキャッチしなかったのか。
墨者が雇われ者の分際で
仮にも王の家臣に手をだした と
革離を殺すこともできたのに。
だれもそこには目をむけず、
革離の「謀反」をでっちあげた。
謀反もなにも、革離は梁人ですらない。
無理がある。
それで王子を死なせてる。 
国のえらい人にしては
仕事がずさんだ。

あの女騎士、
原作には でてこないキャラクターだ。
ファン・ビンビンはきれいだが、
存在に必然性がない。
やっぱり、
なぜ女騎士に手を出したぬれぎぬを
革離にひっかぶせなかったのか
いよいよ謎だ。もったいない笑